2009年09月21日

白洲次郎 占領を背負った男 祝!NHKドラマ 完結!

2009年9月21日追記:

いよいよNHKのテレビドラマ「白洲次郎」が完結する。今日夜10時から3夜連続で、第一話から第三話まで連続して放映される。

NHK 白洲次郎2





吉田茂役の原田芳雄の病気で、当初から今年2月末の第一、二話から半年遅れて第三話が8月に放映されることになっていた。これが衆議院選挙の関係でさらに一ヶ月遅れて完結することになったものだ。

家族で韓国に旅行するがHDビデオで予約し、戻ったら見るつもりだ。

ドラマの完結を祝して原作の北康利さんの「白洲次郎 占領を背負った男」のあらすじを再掲する。

著者の北康利さんからもコメントを戴いている。ドラマを見る際の参考にして欲しい。


2009年2月28日追記:


今日(2月28日)夜9時からNHK総合でドラマ「白洲次郎」が放送された。

見ていてストーリーが北さんの本と違うなと思っていたら、最後に「実話に基づくフィクション」という字幕が表示されて納得した。

冒頭に白洲次郎が自宅で、戦後の極秘文書を焼却する場面がある。白洲正子は中谷美紀だが、70歳台の白洲次郎は本人にそっくりの老俳優が演じていたのでびっくりした。

なかなかおもしろく、次回におおいに期待を持たせる内容だった。次の放送は3月7日、そして最後の3回目は8月に予定されている。

次回が楽しみだ。


2009年2月27日追記:


いよいよ明日(2月28日夜9時からNHK総合でドラマ「白洲次郎」が放送される。NHKも相当力が入っているようで、放送は全3回。2月28日、3月7日、そして最後の3回目は8月に予定されている。

白洲次郎





大変期待しているドラマなので、テレビ放映にあわせて原作の北康利さんの「白洲次郎 占領を背負った男」のあらすじを再掲する。


2008年12月13日追記:

このブログで紹介して著者の北康利さんからもメッセージを頂いた「白洲次郎 占領を背負った男」が文庫になって講談社文庫から上下2巻で発売された。

白洲次郎 占領を背負った男 上 (講談社文庫)白洲次郎 占領を背負った男 上 (講談社文庫)
著者:北 康利
販売元:講談社
発売日:2008-12-12
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白洲次郎 占領を背負った男 下 (講談社文庫)白洲次郎 占領を背負った男 下 (講談社文庫)
著者:北 康利
販売元:講談社
発売日:2008-12-13
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文庫本になって買い求めやすくなったので是非一度は手にとってみて欲しい。

年間250冊読む筆者の今年一番のおすすめのノンフィクションである。


2008年5月20日追記:

筆者は読んでから本を買う主義だ。世の中には本当に手元に置いておきたい本は少ない。筆者の場合、読んでから買う本は年間5−10冊程度だ。

その筆者がこの本をアマゾンで注文して購入した。

買ってみて驚いたが、なんと筆者が買った版は第25刷だった。1刷何万部かわからないが、仮に1万部とすると既に25万部が売れている計算になる。

推薦文も図書館で借りて読んだ本は城山三郎氏の推薦文のみだったのが、第25刷では、城山三郎氏の他に、渡部昇一、朝日新聞、山崎洋子、福田和也、佐高信、舛添洋一、甘糟りり子、河内厚郎、読者2人の推薦文が本の帯に載せられている。

また北康利氏は、NHKの「その時歴史が動いた」の2006年4月の白洲次郎特集にも出演している。

大変よく売れている本で、いまだにベストセラーでもある。これは買っても良い本だと思う。


2008年5月17日追記:

本日あらすじをアップしたら思いがけず著者の北康利さんからコメントを戴いた。

いろいろなブログで取り上げていただきましたが、こんな気合の入ったものは初めてです。感激しました。Posted by 北康利 at 2008年05月17日 11:41

元気の出るコメントで、こちらこそ感激です。



+++今回のあらすじはすごく長いです+++


白洲次郎 占領を背負った男白洲次郎 占領を背負った男
著者:北 康利
販売元:講談社
発売日:2005-07-22
おすすめ度:4.5
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吉田茂の腹心の部下として、戦争直後の対GHQ対策を担当し、日本国憲法が生まれる現場に立ち会った異色の実業家白洲次郎の伝記。

筆者は東京の町田市に住んでおり、小田急線の鶴川駅が最寄り駅だ。その鶴川駅から歩いて5分程度の場所に白洲次郎・正子夫妻の武相荘(ぶあいそう)があって、現在は記念館になっている。

一般的には白洲正子がエッセイストとして有名だが、白洲次郎もここ数年で数冊の本が出て、一躍有名になった。この本も2005年の発行だ。

白洲次郎は「日本で初めてジーンズをはいた人物」と呼ばれているが、次の本の表紙写真にあるようにジーンズ・Tシャツ姿も決まっている。

風の男 白洲次郎 (新潮文庫)風の男 白洲次郎 (新潮文庫)
著者:青柳 恵介
販売元:新潮社
発売日:2000-07
おすすめ度:4.5
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鶴川の書店では白洲正子コーナーがある。その一部に白洲次郎に関する本も少しだけ置いてあったが、最近では白洲次郎の本もかなりの数になっている。

この本の表紙の写真は白洲次郎が一目惚れした樺山正子、後の白洲正子に送った若き日のポートレートだ。ハンサムガイである。

白洲次郎は身長180センチを超え、当時の日本人としては非常に背が高く、外人の中に入っても見劣りしない体格と、ケンブリッジ大学出身の英語力で、戦後直後のGHQと渡り合い「マッカーサーをしかりとばした日本人」と言われている。

この本の著者の北康利氏は、東大法学部出身で銀行系の証券会社に勤務する傍ら、兵庫県三田市の郷土史研究家として九鬼隆一川本幸民など三田市出身の名士の伝記を出版している。

また近々紹介する「国を支えて国を頼らず」も、九鬼隆一と浅からぬ縁がある福沢諭吉の伝記だ。

福沢諭吉 国を支えて国を頼らず福沢諭吉 国を支えて国を頼らず
著者:北 康利
販売元:講談社
発売日:2007-03-30
おすすめ度:5.0
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白洲次郎の祖先も三田出身だ。それにしても現役のビジネスマンながら、綿密な資料調査に基づき内容に全く手抜きのない400ページもの力作を何冊も出版している北さんのエネルギーには敬服する。

筆者も見習いたいものだ。


城山三郎氏の推薦文

あらすじが長くなってしまったので、この本の帯に載せられている城山三郎氏の推薦文を紹介しておく。この本の内容を簡潔に言い表している。

ある超名門ゴルフ・クラブのテラス。その大長老ともいえる人物に声をかけられ、私はその隣の椅子に。著名な政治家や財界人などが会釈するのに対して、その人物は軽くうなずくだけ。それに見合う不思議な存在感の持ち主。それが、白洲次郎氏であった。

この人の出自も結婚も、華やかそのもの。平然と官界、政界、財界、それに軍とも闘う。よく見て、監督し続ける。トヨタのトップには、「かけがえのない車を目指せ」とアドバイスし、政府に対しては、「何で勝手に勲何等とか決めることができるのか」と。

その人物がどんな風に育ち、人格を形成していったのかを、話題豊かに展開していく快著である


白洲次郎という人の経歴を一口で言うと、次のようになる。

白洲次郎は、神戸の豪商の家に生まれ、ケンブリッジ大学を卒業し、作家の白洲正子と結婚、戦前は吉田茂の「ヨハンセングループ」に協力し、戦時中は東京都下の鶴川村に隠棲、戦後は吉田茂の側近としてマッカーサーのGHQと日本国憲法制定交渉にあたる。数々の民間企業の経営に携わった他、初代貿易庁長官、通商産業省設立、東北電力会長就任、軽井沢ゴルフ倶楽部理事長就任という華やかな経歴を持った日本の戦後を創った功労者の一人である。

1985年に白洲次郎氏が亡くなったときは、総理大臣の中曽根康弘氏が弔問に駆けつけたという。

北さんが「占領を背負った男」と表したのも、実に的確と思う。

この本の最後に北さんは次のように記している。

白洲次郎の痛快なエピソードに触れると誰しも、高倉健主演の仁侠映画を見たあとの観客が、肩で風切りながら映画館をでてくるのにも似た精神の高揚感に包まれるはずである。しかしその一時的な興奮の後に、信念を持つ人間のみが身にまとえる真の意味での「格好良さ」に思いを致していただけるならば、作者冥利に尽きるというものである。

たしかに良い映画を見終わって映画館から出てくるような読後感のさわやかな作品である。この本に触発されて、筆者も白洲次郎に関する本を何冊か買ったので、いずれあらすじを紹介していく。

北さんは「司亮一」というペンネームで、兵庫県三田市出身の官僚九鬼隆一、蘭学者川本幸民の伝記を書いているが、ペンネームからも司馬遼太郎を意識していることがうかがえる。

この本も司馬遼太郎の作風を思わせる様に、あたかも見てきたように著述している。

筆者の住む町の有名人で、同じ旧大洋ホエールズファン、ストーリー性が高い人生を送った白洲次郎氏の伝記と言うこともあり、400ページ弱の大作だが、つい引き込まれてしまい、あらすじが大変長くなってしまい続きを読むにまでかかってしまった。

白洲次郎は強烈な人柄の人物なので、敵も味方も多く居たと思うが、この本ではもっぱら良い面だけが書かれている。その意味ではやや片手落ちの感もあるが、一度読んだら白洲次郎のファンになること請け合いだ。

このあらすじを読んだら、ほとんどこの本を読んだような気になるかもしれないが、是非手にとって読んで欲しい本だ。


それでは、この本の目次に従ってあらすじを紹介する。筆者は良い本は目次を見れば分かると思っているが、その典型の様な良くできた目次だ。日本国憲法制定以降は続きを読むに記した。


稀代の目利き

これは白洲正子、つまり白洲次郎の妻のことだ。昭和を代表する目利き青山二郎や昭和を代表する評論家小林秀雄河上徹太郎などと親しくつきあい、著述家、目利きとして白洲正子は成長していく。

白洲正子は、プリンシプルを重んじる白洲次郎のことを「直情一徹の士(さむらい)」と表している。

エピソードには事欠かない。

白洲次郎はマッカーサーをしかりつけた日本人として有名だ。「戦争に負けたけれども奴隷になったわけではない」が次郎の口癖だったという。日本人離れした体躯と英国風のエレガンス・英語力を身につけていた次郎はGHQ高官とも堂々とわたりあった。

次郎は、うるさ方として音に聞こえた存在で、まず相手を威嚇して、その度量を図るという悪い癖があった。初対面の相手はそれだけで震え上がったという。青山二郎からは「メトロのライオン」(MGM映画の冒頭の吼えるライオンのこと)というあだ名を付けられたほどだ。


育ちのいい生粋の野蛮人

白洲次郎は1902年生まれ。兵庫県三田藩で代々儒官をつとめた白洲家で生まれ、祖父白洲退蔵は家老職を勤めた。白洲次郎は母よしこ似だったという。

父の白洲文平(ふみひら)にはなじめなかったが、芦屋の北の4万坪の屋敷に住み、何不自由ない少年時代を過ごした。家には美術館があり、雪舟や狩野派、土佐派の日本画、コロー、モネ、マティスといった洋画のコレクションがあったという。

神戸一中時代には親から米国車を買って貰って、自動車運転を始めている。同級生の作家今日出海は、「育ちのいい生粋の野蛮人」と呼んでいる。


ケンブリッジ大学クレア・カレッジ

旧制高校に行くだけの学力がなかった次郎を、父文平は「それならいっそのこと留学せえ」と、ケンブリッジ大学クレア・カレッジに送る。

次郎は生涯を通じ「プリンシプルが大事だ」と口にしたが、これはケンブリッジの"Be gentleman"(紳士たれ)という教育が元になっている。ケンブリッジ時代に生涯の友、後のストラッフォード伯爵、通称ロビンと出会う。

次郎への仕送りは1回で現在の金で3,000万円ほどという高額で、留学時代はベントレーの3リッターとブガッティタイプ35という超高級車2台を持っていたという信じられない生活をしている。

ケンブリッジの仲間からは、「オイリーボーイズ」と呼ばれ、サーキットに入り浸ったり、大陸へのグランドツアー(卒業旅行)をロビンと二人で2週間行っている。

孫の著述家白洲信哉氏の「白洲次郎の青春」は、このグランドツアーの旅程を現代のベントレーで巡った旅行記で、こちらも読み物として面白い。

白洲次郎の青春白洲次郎の青春
著者:白洲 信哉
販売元:幻冬舎
発売日:2007-08
おすすめ度:4.5
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そんな次郎の元に昭和の金融恐慌で白洲商店が倒産したという知らせが届き、次郎は8年間の留学生活にピリオドを打ち帰国する。帰国してからは「ジャパン・アドバタイザー」という英字新聞で働いた。米国の女学校への留学帰りの樺山伯爵家の娘正子と出会い、一目惚れして結婚する。樺山家には黒田清輝の「湖畔」と「読書」が客間と食堂を飾っていたという。

湖畔






次郎はセール・フレーザー商会を経て、35歳で日本水産の取締役に就任する。


近衛文麿と吉田茂

次郎はカンパクと呼ぶ近衛文麿と親しくなり、近衛に頼まれて長男近衛文隆の面倒を見た。近衛文隆はソ連軍にシベリアに抑留され、とうとう1956年にシベリアで亡くなる。次郎は「ソ連の野郎、絶対にゆるさねえ!」と叫んだという。

正子の父樺山愛輔は、吉田茂の義理の父の明治の元老牧野伸顕と同じ薩摩出身で親しかったことから、次郎も吉田と知遇を得る。

昭和10年当時、樺山愛輔、牧野伸顕、吉田茂は「ヨハンセングループ」(吉田反戦グループ)と呼ばれ、軍部から目を付けられていた。

次郎は吉田や吉田の妻雪子にも可愛がられ、吉田の三女、和子の麻生太賀吉への縁組みをまとめ上げる。政治家麻生太郎氏の両親だ。

吉田は戦争回避に尽力するが、流れは食い止められず日本は戦争に突入する。次郎は日本の敗戦を予測し、間違いなく食糧不足になるとの見込みのもとに、東京都鶴川村で5,000坪の農家を買って移り住み農業を始める。これが鶴川にある武相荘だ。

牛場友彦、細川護貞などがこのころの次郎の友達だ。

吉田は近衛の依頼を受け、天皇に終戦の上申書を提出しようとしていたことから、軍部に逮捕され、昭和20年4月に収監されるが、阿南惟幾陸軍大臣(あなみこれちか)の口添えで不起訴となり釈放される。


終戦連絡事務局

1945年(昭和20年)、次郎が43歳の時に日本はポツダム宣言を受諾した。マッカーサーが進駐してきて、GHQを設立する。GHQは第一生命本社ビルを接収して事務所として使った。

第一生命本社ビル







当時65歳だったマッカーサーの様々なエピソードが紹介されていて、面白い。マッカーサーは演出効果、アナウンスメント効果を常に考えて行動する名優だったという。天皇との写真の演出などはその最たる物だ。

マッカーサーと天皇






正装の天皇と略服のマッカーサー。日本国民はこの写真を見て衝撃を受けたという。

出典:Wikipedia


次郎は近衛に対して吉田を外相として起用するよう進言する。吉田は外務省の部長以上を辞めさせ、次郎をGHQとの折衝を担当する終戦連絡事務局参与として抜擢する。

GHQの窓口は民政局(Government Section)であり、局長はホイットニー准将、局次長はユダヤ人でハンサムガイのケーディス中佐だった。

北さんは宮澤喜一元首相にも取材しているが、「白洲さんはとにかくよく進駐軍に楯ついていましたよ」と語っていたという。

英語の喧嘩はお手のもので、ホイットニーが「貴方は英語がお上手ですな」とお世辞を言ったら、「閣下の英語も、もっと練習したら上達しますよ」と切り返した話は有名だ。次郎のあだ名は"Mr. Why"とも"Sneaking eel"(岩の間に入り込むうなぎ)とも言われた。次郎の行動をよく示しているあだ名である。


憤死

マッカーサーは近衛と会い、「近衛公は世界を知り、コスモポリタンで、年齢も若いのだから、自由主義者を集めて帝国憲法を改正するべきでしょう」と促す。近衛はこれに基づき、京大時代の恩師の佐々木惣一をヘッドとする憲法調査会を内大臣府に編成した。しかし戦犯容疑のある近衛を重用するマッカーサーへの批判がアメリカ国内で強まると、マッカーサーは近衛を切り捨てる。

GHQは日本側案を一顧だにせず黙殺、ついには近衛を戦犯指名する。近衛は逮捕前日に親しい友人を夕食に招待したが、勘の鋭い次郎は招待を断る。予想通り近衛は青酸カリ服毒自殺を遂げる。

その直後、次郎が天皇のクリスマスプレゼントをマッカーサーの部屋に届ける時に、マッカーサーが「その辺にでも置いておいてくれ」というと、次郎は「いやしくもかつて日本の統治者であった人からの贈り物を、その辺に置けとは何事ですかっ!」と叱りとばし、マッカーサーはあわてて謝り、新たにテーブルを用意させたという事件が起こる。

次郎がマッカーサーをしかりつけた唯一の日本人と云われるゆえんだ。

「見ていてくれましたか?カンパク、あの野郎に一矢報いてやりましたよ」、近衛を憤死させた義憤があったからこそ、絶対権力者に対して大胆にも声を荒げて怒ったのだ。


"真珠の首飾り"ー憲法改正極秘プロジェクト

マッカーサーは絶対権力者として、欲しいままに日本を荒療治する。自分をフィリピンで破った本間雅晴中将に対しては43の罪で戦犯として銃殺刑を科した。

本間は、刑の執行の前に「私はバターンにおける一連の責任を取って殺される。私が知りたいのは、広島や長崎の無辜の市民の死はいったい誰の責任なのか、という事だ。それはマッカーサーなのか、トルーマンなのか」と語ったが、その声は無視される。

GHQの民政局を実質支配していたケーディスは昭和21年1月に公職追放を発表し、1年半ほどの間に20万人の有力者が追放され、指導者を失った現場は大混乱した。

近衛死後日本側で新憲法案を検討していたのは、国務大臣で法学者の松本烝治ただひとりだったが、昭和21年2月に憲法問題調査委員会試案が毎日新聞記者の西山柳造によりすっぱ抜かれ、毎日新聞の1面にスクープされたのだ。

ちなみに西山記者が情報入手ソースを明かさなかったため、この世紀のスクープの真相は50年近く不明だったが、死の直前の1997年に西山氏は真相をあかしている

日本側案は明治憲法を微調整したものだったので、毎日新聞スクープの2日後にマッカーサーはホイットニーに象徴天皇、戦争放棄、封建制廃止の3つの原則を柱とする憲法改正草案の作成を命じる。これがコードネーム"真珠の首飾り"の新憲法案作成プロジェクトだ。

GHQが憲法を制定することは、そもそも国際法に違反する行為だった。国際法の基本であるハーグ条約には次のような規定がある。

「国の権力が事実上占領者の手に移りたる上は、占領者は、絶対的の支障なき限り、占領地の現行法律を尊重して、なるべく公共の秩序及び生活を回復確保する為施し得べき一切の手段を尽くすべし」(ハーグ条約付属書規則第43条)

しかしソ連が日本の占領がアメリカ軍だけで行われていることに不審を抱き、GHQを監視する極東委員会が設置されることが決まったことが、マッカーサーに憲法改正案をつくらせる引き金となった。ソ連が口出しする前に先手必勝というわけだ。

ホイットニーはケーディスにリンカーンの誕生日(2月12日)までに憲法改正案を創るように指示する。ケーディスは民政局から25名のメンバーを選び、いわゆるマッカーサー草案を期限前の2月10日に完成させる。

25人のメンバーの構成は、陸軍将校11名、海軍士官4名、軍属4名、秘書を含む女性6名だった。弁護士資格を持つものこそ3名いたが、憲法の専門家はゼロだった。

マッカーサー草案は予定通り2月13日に吉田外相、松本烝治国務大臣、次郎、外務省嘱託長谷川元吉にホイットニー、ケーディスらから伝えられた。天皇象徴制、一院制が骨子だ。当時GHQ民政局には共産主義者が多かったといわれているが、それを反映した土地国有化条項も織り込まれていた。

日本側がマッカーサー草案を見ている間、ホイットニーらは席を外す。戻ってきた時に次郎に言った言葉が"We have been enjoying your atomic sunshine"だった。次郎は憤慨し、それを聞いた吉田が、GHQなんて"Go Home Quickly"だと怒る。


ジープウェイ・レター

次郎は、マッカーサー案は日本の固有の事情を顧みない"Airway letter"(空路)であり、日本側の案は曲がりくねった山道を行く"Jeepway letter"で、日本の伝統と国情に即したものだと反論したが、全く功を奏さなかった。

次郎がホイットニーと交渉するが、48時間以内に回答しないとGHQ側でマッカーサー案を発表し総選挙の争点にするとおどされる。

幣原首相がマッカーサーと会談し、天皇に関する規定や戦力不保持といった基本原則以外は修正を加えても良いとの一応の言質を取り付け、回答期限の2月22日に天皇に上奏し了承を得た。

2月26日の閣議にマッカーサー案の外務省訳が閣僚に配布され、3月4日を期限としてマッカーサー案を土台にして日本案を作る作業にかかることが決定される。

ソ連が動き、極東委員会が活動を開始したので、マッカーサーは早急に憲法改正案をつくる必要が出てくる。


「今に見ていろ」ト云フ気持抑ヘ切レス

3月4日に法制局の佐藤達夫部長、松本烝治、次郎と外務省の担当者他でGHQのホイットニー以下と30時間におよぶマラソン翻訳会議を開始する。ベアテ・シロタというロシア系ユダヤ人で日本に10年間滞在して日本語が堪能なメンバーが通訳として加わる。

彼女が加わったことで、女性の権利を保障する日本国憲法第24条などが織り込まれた。

ベースとなるのは3月2日案と呼ばれる松本案だった。マッカーサー案から大幅に修正されていることがわかり、ケーディスと松本の激論が始まったが松本は途中で官邸に戻るとして退席し、次郎と佐藤、外務省スタッフだけが残って交渉を続ける。

結局修正が認められたのは一院政と土地所有くらいで、松本修正案はほとんど徒労に終わった。

ソ連の呼びかけで極東委員会が3月7日にワシントンで開催されることが決まったので、ケーディスは3月5日までにファイナルドラフトをつくると宣言する。次郎は松本を呼ぶが、松本は病気を口実に拒否し、次郎と佐藤がケーディス、シロタ他と徹夜で外務省訳をもとに3月5日朝までにドラフトを作成する。

次郎はそれまで何度も官邸に途中報告し、できあがった英文の「憲法改正草稿要項」を官邸に持ち込み、3月5日午後4時半からの閣議にかける。松本は引き延ばしを主張するが、幣原首相は涙ぐみ「もう一日でも延びたら大変なことになる」として受諾を決意する。

その後皇居に幣原と松本が参内、「敗北しました」と天皇に閣議決定を報告する。天皇は皇室典範の天皇の留保権と、堂上華族を残せないかと2点につき要望を述べられるが、そのままになった。

翌3月6日に「日本政府による憲法改正案」として世間に公表される。完全な「出来レース」だ。極東委員会はこれが日本人によるものでないことを見抜いたが、マッカーサーは押し切る。

大日本国憲法の改正だったので、枢密院可決を経て、帝国議会で承認、貴族院でも可決され、昭和21年11月3日日本国憲法は公布され、翌22年5月3日に施行された。

GHQは憲法案成立直後に松本烝治を公職追放した。次郎は「監禁して強姦されたらアイノコが生まれたイ!」と言っていたそうだ。

次郎が汚れ役になってGHQの矢面に立ったおかげで、吉田茂は憲法案成立の数ヶ月後に首相になれたと指摘する歴史家もいる。

屈辱を堪え忍んだ次郎だが、近々紹介する自著の「プリンシプルのない日本」の中で「戦争放棄の条項などプリンシプルは実に立派なので、押しつけられようが、そうでなかろうが、いいものはいいと率直に受け入れるべきではないだろうか」と冷静な意見を言っているのは注目に値すると北さんは指摘する。

プリンシプルのない日本 (新潮文庫)プリンシプルのない日本 (新潮文庫)
著者:白洲 次郎
販売元:新潮社
発売日:2006-05
おすすめ度:4.5
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Posted by yaori at 11:58Comments(2)TrackBack(0)

2009年05月23日

吉田茂 ポピュリズムに背を向けて 今なぜ吉田茂なのか?

+++今回のあらすじはすごく長いです+++

吉田茂 ポピュリズムに背を向けて吉田茂 ポピュリズムに背を向けて
著者:北 康利
販売元:講談社
発売日:2009-04-21
おすすめ度:4.5
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筆者が注目している元ビジネスマン作家、北康利さんの最新作。前作「白洲次郎 占領を背負った男」で取り上げた白洲次郎のボス、吉田茂の伝記だ。このあらすじブログは筆者の備忘録も兼ねているので、良い本だと筆者の思い入れも強く、あらすじがつい長くなってしまう。

この本の表紙は、50歳頃と思われる吉田茂の写真だ。これはロンドンの写真館で撮ったものということなので、1930年前後のものだろう。見慣れた次のような吉田茂の写真とは異なり、別人の様に見える。

Shigeru_Yoshida_1947










出典:Wikipedia

YouTubeには次のような吉田茂のドキュメンタリーがいくつか収録されているので、こちらも参照して欲しい。



筆者は神奈川県藤沢市出身なので、小学校の遠足などで箱根方面に行く途中で大磯を通る時には、バスガイドが大磯の吉田邸の話をしていたことを思い出す。

また横浜市戸塚区の横浜新道と国道1号線をつなぐバイパスは、筆者の子供の頃は「ワンマン道路」と呼ばれていた。

このバイパスができる以前は国道一号線の戸塚駅付近に東海道線の踏切があって、朝晩は「開かずの踏切」になるので、たびたび足止めを食らった吉田首相の鶴の一声で、バイパス建設が決まったという逸話がある。

吉田茂は高知県人の「いごっそう」で、神奈川県出身ではないが、大磯に長く住んでいたので、まるで神奈川県の偉人のように感じていたものだ。

北さんも本の中で記しているが、今年3月吉田邸が不審火で焼失したのは残念でならない。



筆者の子どもの頃に吉田元首相の国葬があったことをおぼろげに覚えているが、北さんが述べている様に、高校の日本史では、受験に出ないという理由で、現代史は自習だったので、ほとんど当時の吉田茂のことは知らないので、興味深く読めた。

400ページ弱の本で、吉田茂の生い立ちから、サンフランシスコ講和条約締結までで終わっている。最初読んだ時は、吉田茂の晩年のことが書いてないので、尻切れトンボのような印象を受けたが、あらすじを書くために読み直すと、北さんの真意がわかってきた様な気がする。

たぶん北さんはこの本のタイトルにあるように、小泉元首相などに代表される「ポピュリズム」政治へのアンチテーゼとして、ステーツマン(ポリティシャン=政治屋でなく尊敬できる政治家)吉田茂の伝記を書きたかったのだろう。だから1951年のサンフランシスコ講和条約で終わっているのだと思う。


吉田茂のおいたち

吉田茂は明治11年(1878年)高知県で竹内綱の5男として生まれ、すぐに横浜のジャーディンマセソン商会の横浜支配人吉田健三の許に養子として出された。実父の竹内綱は自由民権運動家として知られた実業家・政治家だ。

吉田の長兄の竹内明太郎は小松製作所の創業者であり、早稲田大学理工学部創設に貢献したことから、竹内記念ラウンジがある。友人の田健治郎、青山禄朗とともに改心社自動車工場を設立し、3人の頭文字を取って脱兎にかけたDAT CAR後のダットサンが生まれる。

養父の吉田健三は福井県出身で、英国船に密航してイギリスで2年間生活した強者だ。帰国後実業家となり、当時極東最大のジャーディンマセソン商会の横浜支配人を勤めた。ビールを最初に取り寄せたのも吉田健三だといわれている。

健三は大磯に住んでいたが、当時大磯には伊藤博文、西園寺公望、木戸幸一、樺山愛輔(白洲正子の父)などが住んでいた。

健三は40歳で病死する。死因は不明だが、インフルエンザだったといわれている。豚インフルエンザの流行が毎日報道されるこのごろだが、昔も今でもインフルエンザは死に至る病となるのだ。

吉田茂は11歳で吉田家の戸主として現在の金にすると25億円ほどの遺産を相続し、遺産の大半を戦前に使い切ってしまったという。

大磯の豪邸をさらに広げたとはいうものの、それにしても大変な金銭感覚の無さだ。もっぱら遊びに使ったのだろう。吉田茂の実母は竹内綱の妾だったようで、後に妻の雪子に「芸者の子は芸者が好きね」とため息をつかれたという。


外務省入省

吉田茂は藤沢の耕余義塾という漢学塾に学び、日本中学校、東京高等商業(現一橋大学)、正則中学、東京物理学校(現東京理科大)、学習院大学を経て28歳で東大政治学科を卒業し、1906年外務省に入省する。

外務省では謹厳実直なエリート広田弘毅と同期で親友となる。

入省翌年、はやくも奉天に1年間勤務する。その後帰国して有力者牧野伸顕の娘雪子と結婚する。翌1908年ロンドン、次にイタリアに勤務する。

1912年から1916年までは朝鮮と中国の国境の鴨緑江に面する安東県領事として勤務する。

1915年大隈重信内閣は、袁世凱政権に対して「対支21ヶ条の要求」を突きつける。吉田は在満州の領事に呼びかけて、対支21ヶ条に反対したが誰も賛同しなかったという。保身を考えず、信念で行動する吉田らしいエピソードだ。


多くの役職を歴任して外務次官に

帰国後寺内正毅首相に秘書官にならないかと誘われ「私は首相なら務まると思いますが、首相秘書官は務まりません」と断っている。当時の外務次官の幣原喜重郎は英語の達人として知られるが、吉田とはウマが会わなかったという。

1918年中国の済南領事となり、第一次世界大戦のパリ講和条約に義父の牧野の秘書官として参加し、西園寺公望に同行していた近衛文麿と出会う。パリ講和会議では日本は人種差別撤廃を主張し、賛成多数を獲得するが、アメリカ大統領ウィルソンが全会一致を要求し、日本案は葬られてしまう。

吉田茂はこのとき国際社会における日本の立場を思い知らされたという。帰国後吉田は1920年に再度イギリスに赴任する。

1922年天津総領事を経て、1925年奉天総領事として勤務する。

このとき、吉田を訪ねてきた来客に出くわし、「本人がいないと言っているんだ。こんな確かなことがありますか」と答えたという話が残っている。戦後記者に「諸君とは食べ物が違う。私は人を食っている」と答えたという吉田茂らしいエピソードだ。


済南、天津、奉天のこと

余談になるが、筆者は中国の済南、天津、奉天(現瀋陽)すべて行ったことがある。

奉天(現瀋陽)に最初に行ったのは今のように近代化される前の1986年で、当時中国のマグネシア原料を米国に輸入していたので、鉱山を訪問したのだ。

今のように高速道路などない時代なので、片側一車線の並木道が旧満鉄沿いに大連から奉天まで続いており、当時の中国人運転手(今もそうかもしれない)の特徴とも言える無理な追い越しで何度も怖い目にあった。

奉天では満鉄の主要駅前にあった旧大和ホテルで一泊した。旧式ではあるが立派なホテルだった。

天津は2002年に行った。天津は北京から近いので、車で十分日帰りでき、天津事務所の人との打ち合わせだけだったので、あまり記憶にない。

山東省済南へは、1998年頃米国向け鉄鋼原料の買い付けで行った。飛行機で北京から済南まで飛んで、車で済南から青島まで高速道路で移動した。

このあたりは石炭を燃料としている中小工場が多く、済南から青島までずっと途中スモッグがたちこめ、中国の大気汚染のひどさに驚いたものだ。

日曜日は済南に一泊したので、済南の近くの鍾乳洞を訪問した。本当は同じ山東省の孔子廟のある曲阜(きょくふ)に行きたかったのだが、片道5時間かかると言われ、1980年代(?)に発見されたという鍾乳洞を見学した。

すごい大規模な鍾乳洞で、たしかに一見の価値はあった。

山東省は筆者にとって忘れ得ない省だ。一つは最初に中国に出張した1983年に浙江省の杭州の相手方の総経理(社長)が山東省の出身ということで、山東省名産の汾酒というアブサンみたいなアルコール50%超のセメダインのにおいのする酒で何度も乾杯させられたのだ。

中国焼酎 汾酒 フェンチュウ 53度 500ml
中国焼酎 汾酒 フェンチュウ 53度 500ml


(今調べてみたら汾酒は山西省の名産ということで、筆者が山東省と聞き間違えたのかもしれない)

悪酔いして本当にもう死ぬかとおもったが、案外翌日仕事ができたのには自分でも驚いた。たぶん蒸留酒なので翌日には残らないのだろう。

翌日の宴会の乾杯は度数の低いブランデーで、コーラも一緒に用意してこちらのペースで進めたので、問題なかった。ちゃんと対策を取っていれば、中国の宴会の「乾杯攻め」も怖くないことを知った。

もうひとつは1998年に済南に行ったときの宴会料理だ。

料理の一つが大皿にずらっと並んだセミの幼虫だったのだ。筆者が主賓のため、主賓が食べないと他の人も食べられないので、やむなく2−3個取って食べてみた。味はほとんど覚えていない。食べられなくはなかったが、うまいものではなかった。

そうしたら12人ほどのテーブルで、中国人でも食べないやつがいるのには頭に来た。こっちはせっかく無理して食べたのに、なぜ食べないのかと聞くと、今は(冬だった)セミのシーズンではないと言っていたので再度頭に来た。

閑話休題。


戦争に向かう日本

短期間のスウェーデン公使のあと、帰国して1928年に外務次官となる。張作霖爆殺事件が起こり、関東軍の暴走を止められなかった田中義一内閣は昭和天皇の叱責を受けて総辞職し、田中は3ヶ月後狭心症で死去する。

当時28歳の昭和天皇は、田中を叱責したことが田中内閣を総辞職させ、田中を死に追いやる結果にもなったかもしれないということを深く悔やみ、以後は発言を極力控えるようになり、そのことが軍部の横暴に拍車を掛ける結果となる。

今度紹介する元竹田宮家の旧皇族の竹田恒泰さんの「旧皇族が語る天皇の日本史」に「昭和天皇独白録」の関係部分が引用されているので紹介する。

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「それでは話が違ふではないか、辞表を出してはどうか」

「こんな云ひ方をしたのは、私の若気の至りである(中略)この事件あって以来、私は内閣の上奏する所のものは仮令自分が反対の意見を持ってゐても裁可を与へる事に決心した」

吉田は1930年まで外務次官をつとめた後、イタリア大使として転出する。

1931年に満州事変が起こり、政府は不拡大宣言を出すが、軍を抑えられず若槻内閣は辞職し、犬養毅内閣が成立する。その犬養毅も翌1932年5.15事件で暗殺され、暗い時代に入っていく。

駐米大使の話もあったが、吉田はこれを断り、1932年に日本に待命待遇で帰国する。駐米大使は外交官として最高の栄誉なので、あり得ない話だが、関東軍の暴走を追認する内田外相への反感によるものだという。

日本では1932年から駐日米国大使となっていたジョセフ・グルーと家族ぐるみの親密なつきあいをする。グルーはボストンの名家出身で、モーガン財閥とは姻戚だ。ハーバード大学在学中に日本を訪問し、日本びいきとなったという。


外交感覚のない国民は必ず凋落する

多くの逸話がある吉田茂だが、外交で国を救うという姿勢は一貫しており、その一つがこのエピソードだ。

1933年、吉田の外務省同期の広田弘毅が外相になり、待命中の吉田に気を遣って外交巡閲使として吉田を欧米に派遣する。1933年は日本が国際連盟を脱退した年だ。朝鮮・中国からスタートして一年強掛けて世界を一周する。このとき同行したのが麻生太郎首相のお母さんで吉田茂の三女、旧姓吉田和子さんだ。

吉田はワシントンで岳父牧野伸顕の紹介で、ウィルソン大統領の親友で外交官のハウス大佐に会い、「外交感覚のない国民は必ず凋落する」という警句を聞いた。これが吉田の生涯忘れえない言葉となった。

1936年には2.26事件が起こり、義父の牧野伸顕は湯河原で襲われ、孫の吉田和子と一緒に、すんでのところで難を逃れる。この時遭難してれば、麻生太郎首相も生まれなかったわけだ。

牧野についておもしろいエピソードを北さんは紹介している。

吉田茂の息子の吉田健一は評論家として有名だが、吉田の仲間の小林秀雄は酒癖が悪く、ある時酔って牧野に抱きつき、頭をなでながら「お前みたいに記憶のいい爺イはメモアールを書いておけ!きっと書くんだぞ!」と怒鳴っていたという。

仲間の河上徹太郎が失礼をわびると、牧野は「いやなに、2.26の時は機関銃の弾の下をくぐりましたから」と答えたという。

筆者の年代の人は、小林秀雄というと、文芸評論家の神様の様な存在で、現代国語の問題によく引用され、その難解な文章には悩まされたものだが、まさか酒乱だったとは思わなかった。


駐英大使として赴任

1936年3月、広田弘毅内閣が誕生する。広田は吉田を外相にするつもりだったが、軍部の反対でやむなく断念し、吉田を駐英大使に任命する。

この頃は在外武官が武官府という独自の事務所を持ち始め、独自の外交を展開していた。そんな武官の中で最も力を持っていたのがドイツ大使館付きでドイツ語が堪能な大島浩少将だ。

大島はヒットラーとも親しく、リッペントロップ外相日独防共協定案をつくりあげる。1937年11月に日華和平交渉を仲介するなど、それまでドイツは親中国の立場を取っていたので、この協定は大島の自信作で、案が煮詰まるまで大島は一切外務省には知らせていなかったという。

外務省はあわててドイツ以外のイギリスなどにも参加させようとするが、吉田は防共協定自体に反対する。結局この年11月に日独防共協定は締結され、広田内閣も10ヶ月で辞職する。

吉田が駐英大使時代につきあいが深まったのが白洲次郎である。次郎が日本水産の貿易担当役員をしていた関係で、ロンドンにもしばしば立ち寄り、吉田の妻雪子からは娘の和子の結婚相手を探すように頼まれる。

次郎が見つけてきた相手が麻生太賀吉・麻生鉱業社長だ。たまたま次郎は麻生と同じ船に乗り合わせ、サンフランシスコから横浜までの2週間一緒にいて意気投合したのだという。

白洲次郎夫妻が仲人となり、吉田の帰国後の1938年12月に二人は結婚する。麻生太賀吉は実父を早く亡くしたこともあり、吉田茂を実の父親のように慕っており、セメントや石炭事業が絶好調の麻生鉱業が、巨額の政治資金を吉田茂に提供したのだという。

1937年には廬溝橋事件で日中戦争に突入し、近衛文麿が総理大臣となるが、有名な「蒋介石を相手にせず」声明を発表してしまう。

吉田は駐英大使として孤軍奮闘し、親日家のロバート・クレーギーを駐日大使に赴任させることに成功するが、外務省の実権は大島の息のかかった白鳥敏夫派に移り、吉田は本国の支援を失い、1938年9月帰国辞令が出る。

吉田の後任が重光葵であり、チャーチルは重光と頻繁に会って、日本の欧州戦争への参戦を思いとどまらせようとしていたことは、関栄次さんの「チャーチルが愛した日本」に詳しい。

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著者:関 榮次
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最後まで開戦回避に努力

吉田の帰国辞令と時を同じくして結ばれたのがチェンパレン英国首相の戦争回避策であるミュンヘン協定だが、ヒットラーはミュンヘン協定を破って領土をさらに拡大し、戦争に突入していく。

日本に帰国した吉田は、役職にはつかず、白洲次郎と一緒にグルー駐日米国大使としばしばゴルフに出かけたり、クレーギー駐日英国大使とも密接な関係を保っていた。このため吉田の周囲は、憲兵隊から「ヨハンセングループ」(吉田反戦グループ)とコードネームを付けられ、常時監視されることになる。

1939年9月ドイツのポーランド侵攻により第2次世界大戦が始まる。閉塞感が漂う中、1940年7月近衛が再び首相に就任した直後に、米国は対日航空ガソリン禁輸を決定する。日本はやむなく石油資源を求めて9月に北部仏印進駐、そして日独伊三国同盟が大島と白鳥駐伊全権大使の連携で締結される。

1941年に吉田の妻の雪子が亡くなった。雪子の死後数年は吉田はやもめ暮らしをしていたが、娘の和子のすすめで、長年の妾だった小りんを家に迎え入れる。小りんは故雪子に気を遣って、入籍はしなかったという。

1941年4月戦争回避のためホノルルで近衛首相とルーズベルト大統領が会談するという計画が持ち上がるが、ハル国務長官松岡洋右外相の反対で実現しなかった。7月には南部仏印進駐への制裁として、米国は在米日本資産の凍結を発表、8月には対日石油輸出を全面禁止とした。

近衛はグルーと直接会い、ルーズベルトとの直接会談を要望するが、10月に近衛内閣は総辞職に追い込まれる。東條英機内閣が成立し、11月末の強硬なハルノートを受け取り、日本は開戦に踏み切る。

吉田は12月始めにグルーの要請で東郷茂徳外相との会談を実現すべく最後まで努力するが、12月1日の御前会議で開戦決定が下されていたので、東郷はグルーに会わなかった。


太平洋戦争に突入

戦争中も吉田は、和平を結ばせるべく努力し、近衛や木戸幸一内大臣などと相談するが、即時停戦の近衛上奏文作成に加わったことで1945年4月に逮捕され、阿南惟幾陸相の口利きで5月末に釈放されるまで収監される。吉田邸の女中や書生としてスパイが送り込まれていたのだ。

一方グルーは1942年外交使節交換船で帰国するが、米国帰国後も駐日大使より格下の国務省の極東次官補にあえて就任し、次に国務次官に就任、皇居への直接爆撃を阻止するなど、早期戦争終結に努力するが、ルーズベルトの後任のトルーマンは原爆の威力に魅せられ、グルーを遠ざけた。

吉田はグルーを「真の日本の友」と呼んで感謝している。

グルーの努力も実らず、結局原爆が投下され、ソ連が参戦し、日本は降伏した。終戦を決定した鈴木貫太郎内閣は1945年8月15日総辞職し、皇族の東久邇宮稔彦殿下が首相となり、吉田は外相として67歳で初めて入閣し、さっそく外務省の人事を一新し、大改革に取りかかる。。


マッカーサーと吉田茂

吉田は1945年9月GHQを訪れ、はじめてマッカーサーと面談する。初対面で「ライオンの檻に入れられたような気がする」とジョークを飛ばし、それ以降マッカーサーとは終生良い関係を保った。

この二人は自尊心といい、他人の言うことを聞かない独善性といい、性格的にはそっくりで、犬好きという共通点もあったと北さんは評している。

外相就任してすぐに、天皇の希望で、天皇とマッカーサーとの会談が実現し、有名な写真が公開される。モーニング姿の天皇に対し、開襟シャツのマッカーサー。どちらが支配者か一目で分かるマッカーサーの政治傑作の一つだ。

Macarthur_hirohito






出典:Wikipedia

マッカーサーの予想に反し、昭和天皇は命乞いをするどころか「戦争の全責任は私にある。私は死刑も覚悟しており、私の命はすべて司令部に委ねる。どうか国民が生活に困らぬよう連合国にお願いしたい」と述べた。

マッカーサーは感動し、誰にも使ったことのなかった”サー”を口にして送り出した。マッカーサーは、引退後も日本の戦後復興の最大の功労者は、昭和天皇だと語っており、天皇に対する尊敬は終生変わりはなかったという。

このときの昭和天皇の帽子の裏地には、ほころびを繕った跡があったという。天皇の人柄と、いかに清貧な生活をしていたのかが偲ばれるエピソードだ。

内務省が会見写真の新聞公開を差し止めたことから、GHQは怒り、内務大臣と内務・警察官僚4,000人の罷免を要求する。これで東久邇内閣は総辞職し、54日という歴代内閣最短記録をつくる。このことが尾を引き、戦前「役所の中の役所」と呼ばれてきた内務省は、1947年に解体されてしまう。

東久邇宮内閣の次は幣原喜重郎内閣が成立し、吉田は引き続き外相として留任して、「終戦連絡事務所」を設立し、白洲次郎を終連中央事務局参与に任命する。近衛はマッカーサーから一時はおだてられるが、米国内で近衛に対する非難がわき上がると、近衛を切り捨て、近衛は戦犯容疑で収監される前日に青酸カリ自殺する。


GHQ民政局と対決

GHQの占領政策の中心は民政局のホイットニー准将(当時48歳)とその部下のケーディス大佐(当時40歳)だった。彼らはニューディールの申し子で、いわば理想主義者の集団だった。

吉田茂と白洲次郎のコンビはGHQの民政局を相手に、日本の国益を守るために必死に戦う。吉田は作戦として、自分はマッカーサーを交渉相手にすることを決め、それ以下のホイットニーなどは相手にしなかった。マッカーサーの部下との交渉を引き受けたのが、ケンブリッジ仕込みの英語の達人、白洲次郎だった。

民政局は20万人を公職追放し、「ホイットニー旋風」を起こすが、GHQの中でもG2の「バターン・ボーイズ」の一人のウィロビー少将は民政局の政策を好まず、吉田と白洲はウィロビーと接近する。

ソ連が極東委員会を通じて、対日占領政策に口だしする構えをみせたので、マッカーサーは1946年2月に憲法改正草案の作成を命じ、GHQ関係者25名が7日間で草案を作り上げ、吉田と次郎に手渡す。改正案を日本側が訳して4月に憲法改正案として公表され、国会決議を経て成立した。

憲法改正案が国家に上程されたときに、多くの議員が無念のあまり嗚咽を漏らしたという。

自国の憲法を批准するのに国会議員が涙を流したというのはおそらく日本だけだろうと北さんは語る。日本人は彼らが抱いた悔しさを今ではすっかり忘れ果ててしまっていると。


第1次吉田内閣成立

1946年4月の総選挙で勝利した鳩山一郎は、組閣準備を始めるが、GHQの民政局から公職追放を突きつけられ、やむなく組閣をあきらめ、吉田に首相就任を要請する。吉田は一旦は断るが、鳩山や周りの説得で1946年5月に首相就任を決意する。

このとき鳩山に出した条件が次だ。

*自分は金を作らない
*人事には干渉させない
*嫌気がさしたらやめる

鳩山は「追放が解除になったらすみやかに総裁を譲る」という約束があったと主張して、後に吉田茂と大げんかになる。鳩山の公職追放が解除されたのは1951年のことだ。


戦争に負けて外交で勝った歴史はある

この有名な言葉は、吉田茂が昭和21年5月、初めて総理大臣となったときの言葉だ。

「戦争に負けて外交で勝った歴史はある」

吉田茂は後に日本医師会会長となる甥の武見太郎に、首相になる自信はあるかと聞かれた時に、このように答えたという。

19世紀ナポレオンの没落後、ヨーロッパ中を敵にまわしながら、領土を守りきったフランスのタレーラン外相のことを思って言ったのではないかと北さんは語る。

1946年当時、日本は海外領土を失い、農業の働き手を失って深刻な食糧不足に悩まされていた。

吉田はマッカーサーと掛け合い、食料問題を解決するために450万トンの食料援助を依頼するが、実際は70万トンで国内に十分な食料がゆきわたった。

マッカーサーがそのことをなじると、吉田茂は「もし日本が正しい数字を出せる国だったら戦争に負けてなどいませんよ」といなし、これにはマッカーサーも笑い出したという。

吉田はGHQの指示で、六・三制義務教育(それまでは6年間が義務教育だった)、農地改革を実現する一方、組合を「不逞の輩(やから)」と呼んで舌禍事件を起こした。

また選挙嫌いも徹底しており、地元で「自分は高知から選出されたかもしれないが、日本国の代表であって高知県の利益代表ではない」と公言していたという。


残りは続きを読むに記載。


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2009年03月19日

レジェンド 白洲次郎 ファンにはこたえられない本

レジェンド 伝説の男 白洲次郎レジェンド 伝説の男 白洲次郎
著者:北 康利
販売元:朝日新聞出版
発売日:2009-01-09
おすすめ度:4.0
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このブログで紹介した北康利さんの「白洲次郎 占領を背負った男」の続編だ。

「もっと白洲次郎を知りたい」という読者の声に応えたものだという。

NHKドラマ「白洲次郎」の元本となった「白洲次郎 占領を背負った男」で描かれていなかった数々の逸話が紹介されていて、白洲次郎像がより鮮明になってくる。

NHKドラマ「白洲次郎」のホームページには様々な白洲次郎関連の情報が載せられており、掲示板まである。既に600件以上書き込みが寄せられている。NHKドラマのホームページに掲示板があるのを初めて見たが、NHKにしては珍しいと思う。

ドラマの第3回の放映が今年8月になるのは、役者の一人の病気が原因と書かれている。吉田茂役の原田芳雄が昨年末に病気になったことを指している。原田芳雄さんの吉田茂は本当に雰囲気がぴったりで、ドラマに欠かすことのできない俳優なので、致し方ないところだろう。

白洲次郎





NHKのドラマ「白洲次郎」で登場したいくつかの場面も描かれている。たとえば大阪弁の賛美歌だ。

”イエスさんわて好いてはる わてのイエスさん”という感じだ。

この話は白洲夫妻の長女で結婚後も近くに住み、晩年は夫妻の世話をした牧山桂子さんの「次郎と正子」に記されているという。

次郎と正子―娘が語る素顔の白洲家次郎と正子―娘が語る素顔の白洲家
著者:牧山 桂子
販売元:新潮社
発売日:2007-04
おすすめ度:4.0
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次郎のケンブリッジ留学時代の話のなかで、英国の貴族階級の話が出てくる。

上級の貴族の下にジェントリがあり、ジェントリはバロネットとナイト(この2つはサーがつく)、エスクワイアとジェントルマン(この2つはミスター)に分かれているのだと。

次郎はジャーディン・マセソン商会のオーナーのことを「あんなのは本物の貴族じゃねえからな」と言っていたそうだが、それは貿易を通じて国家への貢献大の人に送られるサーの称号を指しているのだ。(ビートルズなども同じだ)

英国の貴族制については全然知識がなかったので、勉強になった。

この本で取り上げられている逸話のいくつかを紹介しておく。


●戦争中の次郎

開戦前後に、次郎が日本水産の取締役だったころの話だ。次郎はスキー部の部長をつとめていたが、社内報に「白洲さんは君が代のほかには何も歌えない」と書かれていたという。

社内報に書かれるほどの音痴だったという。

次郎は戦時中帝国水産の理事になるが、不満を社長の有馬頼寧(よりやす)にぶつけており、有馬の日記にこれが記されているのでおもしろい。有馬頼寧はその後日本中央競馬会の理事長になり、有馬記念で名を残す。

昭和19年9月26日「相変らず白洲君に話し込まれる。どうして比人は日本の敗ける事を前提としてのみ話をするのであらう」

19年12月に次郎は有馬の「いやならやめろ」という忠告に従って帝国水産を退社したという。


●GHQの親切の押し売り

次郎は1954年の文藝春秋にGHQの担当者を評して:

「無経験で若気の至りとでも言う様な、幼稚な理想論を丸呑みにして実行に移していった。

憲法にしろ色々の法規は、米国でさえ成立不可能な様なものをどしどし成立させ益々得意を増していった。

一寸夢遊病者の様なもので正気かどうかも見当もつかなかったし、善意か悪意かの判断なんてもっての外で、ただはじめて化学の実験をした子供が、試験管に色々の薬品を入れて面白がっていたと思えばまあ大した間違いはなかろう」。

と語っていることが紹介されている。

GHQ民政局のケーディスは十字軍の様な使命感で日本の民主化を主導しようとしていたという。


●バー・モウ事件

バー・モウは日本軍政下におけるビルマの首相で、終戦後日本に亡命し、新潟県の六日町で隠れていたが、GHQに出頭し、口から出任せで”日本には反連合国活動をしている巨大な地下組織が存在している”と告げる。

Greater_East_Asia_Conference




昭和18年11月の大東亜会議に出席した各国首脳の写真。一番左がバー・モウ、一番右がチャンドラ・ボース。

出展:Wikipedia


GHQ側も、”あれほど勇猛だった日本軍がまったく抵抗しないのはおかしい”と思っていたので、やはりレジスタンス組織があったのかと大騒ぎになったが、これを次郎が”現地に人を派遣して調べさせれば良い”ととりなし、騒ぎは収まる。

このことで次郎を軽く見ていた日本政府の官僚たちの評価が一変したという。

実は次郎は民政局の掲示板のメモで気がついていたのだが、GHQもそれに気づき、以後次郎は立ち入り禁止になったという。


●日本国憲法制定

NHKのドラマでも終戦後、マッカーサーが近衛文麿に新憲法作成を依頼する場面が出てきたが、米国のジャーナリズムに批判されるとマッカーサーは手のひらを返すように近衛を切り捨てる。

憲法についても元々幣原内閣の時に、日本側の案を松本蒸治に作らせていたが、これをマッカーサーが受け入れなかった。

マッカーサーはソ連も入った連合国各国代表による極東委員会が乗り出してくる前にかたをつけようとして、昭和21年2月に9日間でGHQ民政局の25名のスタッフに草案をつくらせ、ハーグ協定に違反しないようにGHQ案としてではなく、日本政府に3月6日に「憲法改正草案要綱」として発表させた。

外務省に「白洲手記」という文書があり、そこに”「今に見てゐろ」ト云フ気持抑ヘ切レズ。ヒソカニ涙ス”と書かれているという。


●安倍晋太郎は次郎番の記者だった

次郎と特に親しかった新聞記者は毎日新聞の安倍晋太郎と、読売新聞の三品鼎だったという。安倍晋太郎はもちろん安倍晋三元総理の父君だ。三品さんは”あの頃の白洲さん”という文を小説新潮の2008年2月号に書いている。

安倍晋太郎は山口弁で「やれんのう」(やっとれんなあ)とよく言っていたそうだが、次郎がそれを聞いてスキー小屋に「ヤレン荘」と命名したという。

次郎は読売グループの中興の祖の正力松太郎に日参され、日本のテレビ放送に正力の押すアメリカ方式を採用させようと動く。

NHKは日本独自技術の高柳方式でテレビ放送を開始すべく、吉田学校の優等生の佐藤栄作郵政・電気通信大臣の支援を得ていたが、最終的に吉田茂は次郎の推すアメリカ方式採用を決断する。

これは筆者の意見だが、もし日本が独自方式を採用していたら、携帯電話で起こったようなドコモ方式によるガラパゴス化が起こったかもしれない。そうなると日本の電機メーカーがその後テレビの輸出で儲けて大きくなれたかどうかわからないところだ。

ハイビジョン方式・デジタルハイビジョン方式も同じだ。NHKは世界規格化を目指したが、結局欧米は独自規格を採用した。

その意味ではアメリカ方式の採用はその後の日本の電機業界にはプラスだったのではないかと思う。

次郎の交友関係では帝国ホテルの社長だった犬丸一郎氏、デザイナーの三宅一生氏、大洋漁業(現マルハ)の中部謙吉氏(次郎は大洋漁業の相談役を務めたことがあり、これが縁で大洋ホエールズの応援にもよく行ったという)、西武の堤清二氏の話などが紹介されている。

銀座にあった寿司屋「きよ田」(平成12年閉店。現在の「きよ田」とは別)、「室町砂場」のそば、帝国ホテルのローストビーフ、軽井沢ゴルフ倶楽部の話などが紹介されている。

「白洲次郎 占領を背負った男」の帯に推薦文を書いた城山三郎さんは、軽井沢ゴルフ倶楽部では次郎に何度かひどいめに会わされて、いい感情を持っていなかったようだが、推薦文を書いてもらって申し訳ないと北さんは語る。

次郎の愛用品は洋服はHenry Poole、ネクタイはTurnbull & Asser、カバンはルイ・ヴィトンだったという。

この本の最後に載っている三宅一生デザインの服を着て、モデルの北村みどりさんと写真に収まっている次郎はデレデレしてしまりがないが、いかにも人間くさい写真で好感が持てる。

最期は「相撲も千秋楽、パパも千秋楽」と言って、看護婦にも「右利きです。でも夜は左(左利きは飲んべえの意味)」とかジョークを飛ばしていたという。

遺言状も「一.葬式無用 一.戒名不用」とだけ書き残している。かっこいいじいさんがいたものである。


白洲次郎ファンには、こたえられない本だろう。是非一度手に取ってみることをおすすめする。


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