2017年07月23日

マプチェの女 フランス人作家が書いた「汚い戦争」時代



以前の「本の雑誌」に取り上げられていていたので読んでみた。

筆者は1978年8月(アルゼンチンワールドカップが終わった直後)から1980年7月まで2年間アルゼンチンのブエノスアイレスに駐在していたので、この小説は非常に身近に感じられた。

当時は軍事政権の時代で、深夜でも女性が一人で歩けるほど治安は良かった。軍事政権下の警察に捕まると、もどってこれるかどうかわからないと思われていたからだ。

筆者が駐在していた前後の数年で、行方不明者が2万人とも3万人(この小説は3万人説をとる)とも言われている。

軍事政権と警察が、反体制的な活動をした人たちのみならず、たまたま反体制的な発言をした人たちまでも連れ去って、拷問にかけ、ひそかに葬っていたのだ。

これが「汚い戦争」と呼ばれる軍事政権の反体制派抹殺だった。

筆者は当時独身で、賄いつきの下宿にアルゼンチン人の同宿人数名と一緒に住んでいた。同宿人と一緒に外食したりして、少しでも政府に批判的な発言をすると「Ojo!」(オッホ=目、気をつけろという意味)と言われたものだ。

この小説の著者のカリル・フェレはフランス人だが、当時の「汚い戦争」で実際に使われた手口(反体制派を処分するために、飛行機からラプラタ川に突き落として殺していたと言われている)などをビビッドに描いている。

この小説に出てくる場所は、行ったことがある場所が多い。フィクションではあるが、ありえる話として、当時のアルゼンチンを知る者にとっては、心が痛む小説である。

ちなみにGoogle Mapで検索した当時筆者が住んでいたビルはこれだ

1階にあったクリーニング屋は別の店になったが、40年前とほとんど変わっていないことに驚く。

今はやたら、道に沿ってオートバイが駐車しているが、昔はこんなにオートバイはなかった。

小説の中で秘密のキーワードの「イトゥサインゴ69」というのが出てくる。このキーワードとは直接の関係はないが、日本人駐在員が会員になっていたゴルフクラブがブエノスアイレス郊外のイトゥサインゴ地区にあったことを思い出させる。「135」のように聞こえるので、筆者は当初は日本人のやっているクラブだと思っていた。

筆者は研修生だったので、ゴルフはやらなかったが、イトゥサインゴゴルフクラブの練習場には行ったことがある。

当時のアルゼンチンのゴルフ練習場は、ネットもなにもない単なる広いホールで、向こう側にヘルメットをかぶった球拾いの子どもが何人もいて、こちらの打った球を拾ってバケツに入れて戻してくれるというシステムだった。

ゴルフ場をラウンドするキャディも中学生くらいの子どもが多かった。

小説のストーリーは詳しくは紹介しない。マプチェ族というアルゼンチンの先住民の血を引く娘ジャナが、ゲイの友達パウラから、ゲイの仲間のルスのことで相談を受ける。

ルスからは、重大な話があると直前に言われていたのに、結局約束の場に姿を現さなかった。何かがあったのではないかと二人で調べ始める。

ほどなく、川に惨殺されて浮かんだルスの遺体が発見される。

ルスが殺された原因を探るため、ジャナ達は「汚い戦争」で行方不明者を探しているルベンという私立探偵にコンタクトする。ルベンはマリアという最近失踪した女性を探していた。

マリアはほどなく飛行機から落とされて全身の骨が砕かれた状態で見つかる。

マリアとルスの殺人に関連性を見出したルベンとジャナは協力して、事件の背後には「汚い戦争」で反体制派を殺害していた関係者が、自分たちの犯罪が明るみにでることを阻止しようと動いていることを知る。

そして、…。

文庫で650ページもの大作だが、バイオレンスあり、サスペンスありで、息もつかさぬ展開だ。

今も昔もアルゼンチンは遠い国だが、小説に出てくるストリートの名前や、町の名前は知っているものも多い。

この小説の中で出てくる地名、たとえばパウラの本業?としてやっているクリーニング店がある「ペルー」という通りをGoogle mapで「Peru 1000(適当な番地)、Buenos Aires」という条件で、検索してみると、2016年12月に撮影されたブエノスアイレスのペルー通りが表示される

まるでアルゼンチンを再訪したような気になる。便利な時代になったものである。

この作品を書くには、相当な現地取材をしているのだと思う。軍事政権時代のアルゼンチンでは、たぶんこの小説のような話が現実に起きていたのだと思う。

フランスでは第2次世界大戦終了後、ナチスに協力していたフランス人が「エピュラシオン」(粛清)として、裁判で死刑になったものは2,000人で、そのうち700名弱が実際に処刑された。裁判なしでリンチされたものは1万人と言われている。

この小説が描いている事件は、フィクションではあるが、現実に起こりうると思う。

筆者が駐在していた時代の軍事政権のトップの多くは、終身刑などに処せられている。アルゼンチンも「汚い戦争」時代の犯罪を、これからも精算していかなければならないだろう。

そんなことを考えさせられた作品である。


参考になれば次クリック投票お願いします。

  
Posted by yaori at 00:54Comments(0)

2017年05月29日

日英同盟 日本外交の栄光と凋落 日米安保条約を考える上での歴史の教訓

2017年5月29日追記:

安倍首相がイタリアでのタオルミナ・サミットの後でマルタを公式訪問した。新聞にも安倍首相のマルタ訪問の目的が、第1次世界大戦の時に地中海に派遣された日本海軍の戦没者の慰霊であることが報じられている。

第1次世界大戦で日本は日英同盟による英国の要請に従って、地中海に艦隊を派遣して、英国などの輸送船団の護衛にあたった。その際、駆逐艦「榊」が魚雷攻撃を受け、約60名が亡くなった。

そのことを記した関榮次さんの「日英同盟」のあらすじを再掲する。

2006年10月22日追記:

『日英同盟』の著者の関榮次さんからご招待を受け、昼食をご一緒させて頂いた。

著書にサインも頂いた。


関榮次さんサイン







関さんのストーリー構成力のすばらしさは、以前ご紹介したところだが、今度は日本が第2次世界大戦に参戦する要因の一つとなったと言われている事件を取り上げた本を英語で出版されるそうだ。

第2次世界大戦初期、ドイツの潜水艦が沈めた英国商船から回収された連合国の暗号文書が日本にも提供されたが、その情報を信じた日本は開戦に踏み切り、結果的にミスリードされたという事件だ。

タイトルは英国の出版社が決めたそうだが、Mrs. Ferguson's Tea Setというもので、いかにもしゃれている。沈没船にはMrs. Fergusonのtea setが積まれており、それの回収をMrs. Fergusonが求めたというエピソードを元にしている。

非常に面白そうで楽しみな本だ。

英語版が出版されたら一部頂くことになっているので、読んであらすじをご紹介する。

このあらすじブログが縁で、ご紹介した本の著者の方とのおつきあいが出来るようになり、筆者も大変刺激を受けた。

もう一つのブログも運営しているので、最近やや更新の頻度が落ちているが、引き続きお役に立つ様な情報を発信すべく努めるので、今後も興味ある記事があれば参考にして頂きたい。

日英同盟―日本外交の栄光と凋落


筆者は年間200冊以上の本を読んでいるが、たとえプロの作家でも本当に文才がある人は案外少ないと感じている。

今まで頭をガーンとやられる様なカリスマ性があると感じたのは安部譲二と角川春樹であることは以前書いたが、この本の著者の関榮次さんの文才というか、ストーリー構成力には感心した。

日英同盟に基づき日本が第1次世界大戦中に地中海に艦隊を派遣したという、知る人ぞ知る部類の歴史的史実をセンターピースにしていながら、徳川家康に仕えた三浦按針に始まる日本と英国の歴史からはじまり、現在の日米安保体制に対する提言まで、一連の流れでスッとあたまに入る様に構成されている。

また史実についても、この本の帯に「元外交官による10年にも及ぶ資料発掘の成果!」と書いてあるが、それぞれの事件の描写が関係者の回想録や外交文書などの綿密な調査に基づいていることがはっきりわかる深みがあり、興味深く読めた。


著者の関栄次さんは元外交官

以前紹介した日米永久同盟で日英同盟のことが言及されていたので、この本を読んでみたのがきっかけだが、『日米永久同盟』と提言も異なり、出来も全く異なる。

著者の関栄次さんは駐英公使、ハンガリー大使等を歴任した元外交官でノンフィクション作家だ。

日本のシンドラー6,000人のユダヤ難民を救った杉原千畝を取り上げたNHKのその時歴史が動いたでも、ゲスト出演した。

一般的に日英同盟は『日本外交の精髄』と呼ばれて、特に日露戦争の時の英国の協力(戦費調達、ロシアバルチック艦隊補給への嫌がらせや、アルゼンチンがイタリアに注文していた戦艦の日本への転売斡旋等)が、日本の勝因の一つになったとして、高く評価されている。

しかし、それは来るべき日露対決の事を考えて1902年に締結された日英同盟が、2年後の1904年に実際に日露戦争が起こったときに機能したもので、いわば当初の目的通りである。

日英同盟のおかげで日本はロシアに勝利して列強と肩を並べる『一等国』になったとの満足感に浸ったが、それは1923年に米国の圧力で終了するまでの日英同盟の21年の歴史のほんの一部でしかない。

関さんは日英同盟を礼賛する様な動きを諫め、余り知られていない地中海遠征という史実を通して、当時の日英両国の関係を描き、末期の日英同盟を救おうとする一連の動きを取り上げる。


第1次世界大戦まで

1914年に第1次世界大戦が勃発し、日本も参戦しドイツが領有していた青島を攻略、1915年には中国に対して21箇条の要求を出すに至って、日本は日英同盟を悪用しているとの批判が英国内に高まる。

しかし国運を賭してドイツと戦っている英国は、背に腹は替えられず、手を焼いていたドイツ・オーストリア連合軍のUボートの輸送船攻撃に対抗するため、日本に地中海への艦隊派遣を要請。

この時の英国首相はロイド・ジョージ、軍縮相はウィンストン・チャーチルだ。

日本海軍ではちょうど欧州視察から帰国したばかりの秋山真之(さねゆき)少将(司馬遼太郎の『坂の上の雲』の登場人物)が、地中海派遣という機会を生かせば、戦後の我が国の地歩が有利になるとともに、実戦経験は技術向上や兵器の改良にも役立つとして、優秀な若手士官を派遣することを熱心に進言していた。


地中海への艦隊派遣

英国の要請を受け1917年に旗艦を巡洋艦『明石』とする最新鋭の樺型駆逐艦8隻の第2特務艦隊が地中海遠征に派遣され、以後1919年の凱旋帰国まで2年間地中海で連合国の輸送船防衛の任務につくことになった。

日本の特務艦隊はマルタ島に本拠を構え、連合国のなかでも抜群の稼働率で出動し、各国からの信頼を得て、地中海の連合国輸送船護衛に大きな成果を上げた。

唯一の損害らしい損害は、駆逐艦榊がオーストリア・ハンガリー帝国の小型潜水艦の雷撃で、船首に大きな損害を受け、59名が殉職した事件である。

本書はこの事件を中心に、最後はマルタ島にある榊殉職者の慰霊碑を著者が訪れた時の記録で終わっている。

この事件に関しては非常に詳しいウェブサイトを見つけたので、ご興味のある方は参照頂きたい。

オーストリアもハンガリーも現在はいずれも内陸国なので、潜水艦と言われてもピンとこないが、旧ユーゴスラビア、現在のクロアチアは当時オーストリア・ハンガリー帝国の一部だったので、アドリア海を母港として地中海に出没していた。

日本から派遣された特務艦隊には後に巡洋艦出雲と駆逐艦4隻が増派され、終戦とともに戦利品のUボート数隻を伴って、凱旋帰国した。

戦後ロンドンで大戦勝パレードがあり、各国の軍隊が参加したが、日本は艦隊は既に帰国の途についており、わずかに4名の駐在武官がパレードに参加したにとどまった。

本書の裏表紙にあるこのときの貧相なパレードの写真は、日本の外交センスのなさを示す写真として紹介されている。


近代海戦では対潜水艦対策がカギ

筆者は駆逐艦が英語でDestroyerと呼ばれるのを長らく不思議に思っていたが、今回第1次世界大戦で既にドイツのUボートが活躍していた事を知り、なぜ駆逐艦をDestroyerと呼ぶのか、はじめてわかった。

駆逐艦よりずっと大きい巡洋艦はヨットの様なCruiser、戦艦はもっと簡単にBattle Shipと、どうということがない呼び名がついているが、駆逐艦だけがデストロイヤーというおどろおどろしい名前がついている。

第1次世界大戦の時から潜水艦が海上輸送の大きな脅威で、潜水艦に対抗して商船隊を護衛するには高速でかつ小回りの利く小型艦船が必要だったのだ。

そのため排水量1,000トン前後で最高速度30ノット前後の小型の駆逐艦が大量に建造され、対潜作戦に当たったのだ。

日本から派遣された樺級の駆逐艦も排水量665トンの小型船舶だ。

地中海遠征を通して、日本は神出鬼没の潜水艦に対抗するには多数の駆逐艦など小型船舶と、航空機による護送船団方式しかないことを経験したわけだが、この教訓は生かされず、相変わらず大艦巨砲主義に固執し、それが結局第2次世界大戦の敗北につながった。

現代では駆逐艦の代わりに、航空機と哨戒艇が対潜水艦戦略の中心であることは『そのとき自衛隊は戦えるか』で紹介したが、日本は第2次世界大戦の反省もあってか、哨戒機99機、哨戒ヘリ97機と突出した対潜水艦戦闘能力を持っている。


日英同盟の末路

第1次世界大戦後のパリ講和条約交渉では、エール大学卒の俊英を代表にたてる中国に対し、日本は21箇条の要求の理不尽さを突かれ守勢にまわる。

同盟を結んでいた英国も日本を援護すべく努力はするが、日本を支援することが英国内の世論の賛成を受けられず、限界があった。

日本は地中海派兵を行い、榊の乗組員の犠牲を払ったが、自らの行動に世界から支持を得られず、もはや日英同盟を継続することは不可能であった。

英国は日英同盟を終結する時に、ロイド・ジョージ首相、バルフォア枢密院議長などが、英国の名誉のためにも第1次世界大戦で貢献した日本に対する信義を守らなければならないと呼びかけ、アメリカを説得し、さらにフランスも入れて、1923年の4カ国条約締結に至る。

1923年のワシントン条約で軍備制限が合意され、大正デモクラシーのもと、束の間の平和が訪れるが、日本は軍制度改革や軍備縮小に失敗し、5.15事件、2.26事件等を経て軍部の介入がひどくなり、太平洋戦争に向かっていく経路をたどる。


日米安保体制への教訓

著者の関栄次さんは日英同盟の教訓をもとに日米安保体制について考察している。たぶんこれが最も関さんが伝えたかった点であろう。

日英同盟が双務的な盟約であったのに対して、日米安保条約は対日講和後も米軍基地を維持しようという米国の意図から生まれた片務・従属的な条約である。

たしかに日本の復興・発展に日米安保条約が果たした役割は大きく、それがため日米関係は『最も重要な二国関係』と言われる様になってはいるが、安保条約のために日本の国民の防衛意識が希薄になってしまったと関さんは指摘する。

筆者が昔読んだ小沢一郎の『日本改造計画』(絶版となっていたが復刻される)で、小沢氏は『普通の国』という表現を使っていたが、戦後60年が過ぎ、共産圏対自由主義圏という冷戦構造もなくなり、アジアでは中国、インドのBRICS諸国の台頭が著しい現状では、日米安保条約が現在のままで良いのかどうかを日本国民の間で真剣に議論する時ではないかと筆者も思う。

日本改造計画


関さんは現在の日米安保体制が国家の自主性を損ない、国民の外交感覚を鈍らせる結果となっていることが気がかりだと指摘している。

また沖縄に集中する米軍基地の縮小についても、真剣な対策をおろそかにしてきた歴代政権の責任は重大であると指摘する。

さらに現状のままでは、80年前に日英同盟がワシントンに葬られたように、いつの日か日米安保体制が北京に、あるいはモスクワなどに葬られないという保障はないと警告する。

同盟は、盟邦以外の諸国を疎外し、外交上の選択の幅を狭めることになるので、いわば劇薬のようなものであり、国益を守るため他に十分な手段がない場合の補足的措置であるべきであり、慢性的に常用してよいものでもないと。

共産主義に代わり、国際テロが国際社会への脅威となり、世界情勢が変わり、ピンポイントで攻撃できる巡航ミサイルなど軍事技術も進歩した。

米国自身も国内外の基地展開を縮小している現状で、日米安保がそのまま継続されるべきなのかどうか。

そもそも日本国憲法を改正し、自衛権を明文化すべきではないか。様々な観点での議論が必要だ。

関さんは日本国民が必ずしも納得しない米国の世界戦略に奉仕することを求められることもある現在の安保条約を、国民的論議も十分に尽くさないまま惰性的に継続することは、日米の真の友好を増進し、世界の平和と繁栄に資する道ではないと語る。

米軍基地をグアムに移転するから移転費用の1兆円を日本国民が負担しろというアメリカ政府の提案が明らかになり、日本政府がそれを受け入れようとしている現在、国民の税金を使う前に、普通の国となる議論が再度なされるべきではないかと筆者も感じる。

その意味で筆者は、小沢一郎の民主党代表就任は一つの転機になるかもしれないと期待している。

元外交官のからを破った関さんの提言は斬新で拝聴すべき意見だと思う。読後感さわやかなノンフィクション作品である。



参考になれば次クリック投票お願いします。


  
Posted by yaori at 08:03Comments(1)TrackBack(0)

2017年05月21日

武士の家計簿 こんな地味な話題が面白いなんて



江戸時代、1842年(天保13年)から明治12年(1879年)まで37年間、加賀藩に御算用
者として仕えた猪山家の家計簿を中心として武士の生活の実態を明らかにした本。

無名の武士の家計簿なので、非常に地味な素材だが、磯田さんの軽妙な語り口から、ビビッドな武士の生活風景が浮かびあがってくる。

この本を原作として堺雅人主演の映画「武士の家計簿」が2010年に封切られている。半沢直樹で大ブレークする前の堺雅人が、堅実なそろばん侍を好演していて面白い映画に仕上がっている。





磯田さんの「歴史の愉しみ方」に「武士の家計簿」の映画化の話が紹介されている。



ある日突然、映画会社から映画化させてほしいとの電話があったのだと。

松竹の太秦(うずまさ)の時代考証技術は高く、映画の小道具には江戸時代の本物がかなり使われていたという。高津(こうづ)商会という道具会社の巨大倉庫から出してくるそうで、「高津は美術館も持っている」との説明だったと。

製作費4億円をかけてチャンバラのない時代劇を撮った。興行的には大成功で、Wikipediaによると15億円の興行収入があったようだ。

撮影所に招待されて、磯田さんは、ちょんまげ姿の堺雅人さんと話したとのこと。堺さんは、映画会社が勧めても高級ホテルに入らず、ウィークリーマンションにこもり、役作りに関係したメモや文章をこつこつ書いているとのこと。堺雅人さんの人柄がわかるエピソードだ。

この映画は2010年の作品なので、2012年に亡くなった森田芳光監督の最後の作品の一つだ。

この本の目次を紹介しておく。

第1章 加賀百万石の算盤係

第2章 猪山家の経済状態

第3章 武士の子ども時代

第4章 葬儀、結婚、そして幕末の動乱へ

第5章 文明開化のなかの「士族」

第6章 猪山家の経済的選択

猪山家は代々加賀藩の御算用者、つまり会計係で、地道な仕事が評価され、そこそこの収入を得ていた。父と夫の二人が御算用者として勤め、ダブルインカムで現在の貨幣価値で1,742万円の年収があった。

しかし、武士の身分では祝儀交際費や儀礼行事用をケチるわけにはいかず、下女、草履取りの家来もいたので、家計は火の車で、方々から年収の倍の借金をしていた。

そこで、猪山家では、一大決心をして家財道具の主なものはすべて売り払い、債権者と交渉して、分割払いかつ金利減免の条件を取り付けて、リストラが成功したのだ。家計簿が残されたのも、この大リストラのおかげだ。

リストラで衣装を売り払ったので、猪山家の夫婦はまさに着たきりスズメの生活に耐えた。衣装代は祖母と母のみで、妻のお駒には衣装代はない。夫の直之は悲惨で、こずかいは月々約6,000円しかなかった。

武士に跡継ぎの男子が生まれると、毎年のようにいろいろな行事があり、親戚を呼んで宴を催す。

映画では絵に描いた鯛の場面が出てくるが、実際には猪山家では跡取り息子の宴は本物の鯛で祝い、娘の祝い事では絵に描いた鯛で済ませていたようだ。

武士の儀礼で最も出費があるのが葬儀だ。猪山家では、年間収入のほぼ1/4を葬儀費用に費やしている。

猪山直之の跡取り息子、猪山成之は、幕末に大村益次郎に見込まれ、維新後は海軍に勤め、海軍主計大監まで出世している。

この本では、猪山家の親族の維新後の身の振りようを”文明開化のなかの「士族」”として紹介している。やはり士族の一番の出世は、新政府の役人や軍人になることで、猪山家では成之の息子二人が海軍に勤め、海軍一家となっている。

しかし、猪山家はその後の日露戦争で三男をなくしたり、甥がシーメンス事件に巻き込まれるなど、晩年は不運が続いた。

猪山家の東京の住居は、現在の東京タワーの近くの聖アンデレ教会がある場所だったという。筆者もこの教会の前を時々通るので、感慨深い。

最後に磯田さんは、猪山家の人々から、「今いる組織の外に出ても、必要とされる技術や能力をもっているか」が、人の死活をわけることを教えてもらったように思うと書いている。筆者も同感である。芸は身を助ける。

士族から海軍は、たぶんベストの「転職」ではないかと思うが、それは算盤に長けていたからだ。ナポレオンも砲兵士官だったが、軍隊では大砲の弾着を計算するのに、数学は必須だ。まさに、「算盤侍」が海軍士官には適していたのだ。

あまりに地味なタイトルなので、長らく読もうという気にならなかったが、読んでみたら大変面白い。2010年の時点で20万部を超えていたので、いまではさらに売れているだろう。

映画も大変面白い。映画もおすすめである。


参考になったら、投票ボタンをクリックして応援願いたい。



  
Posted by yaori at 23:18Comments(0)TrackBack(0)

2016年09月21日

碧素・日本ぺニシリシン物語 戦時下の日本の抗生物質生産



以前紹介した畑村洋太郎さんの「技術大国幻想の終わり」に、畑村さんが学究の道に入るきっかけとなった本として紹介されていたので読んでみた。



この物語の中心人物、陸軍軍医少佐稲垣克彦は、東京大学医学部在学中に陸軍の依託学生となり、軍医任官後は、旧満州などの勤務を経て、昭和17年に陸軍軍医学校の教官となった。

稲垣軍医少佐は、太平洋戦争の始まる前の昭和16年4月に設立された総力戦研究所に在籍していたこともあり、その関係で、各省庁に知人がいた。総力戦研究所は、日本のトップ頭脳を集めた研究所で、第1期生35名が太平洋戦争が始まる前に、「総力戦机上演習」で日本必敗という結論を出し、時の東条英機首相が激怒して、一切極秘を厳命したという経緯がある。この話は、猪瀬直樹さんの本に詳しい。

昭和16年夏の敗戦 (中公文庫)
猪瀬 直樹
中央公論新社
2010-06-25


稲垣少佐は、米国から交換船で帰国した人が持ち帰った「フォーチュン」の記事で、当時治療薬として広く用いられていたサルファー剤(当時はドイツ語読みで「ズルフォン剤」と言われていた)が効かない病気にもペニシリンが奇跡的に効くと知った。

さらに情報を求めて、文部省の知己を訪問すると、ドイツから潜水艦で運ばれてきたばかりの医学雑誌を手渡された。この雑誌は英米のペニシリン研究に関するドイツの医学論文が掲載されていた。それにはカビから得られた抗菌性物質のペニシリンは、肺炎、膿胸、敗血症などを引き起こす肺炎双球菌、ブドウ球菌、連鎖球菌や、破傷風、ガス壊疽を起こすグラム陽性嫌気性細菌などの発育を阻止する力を持つと書かれていた。

ガス壊疽、破傷風、敗血症はいずれも軍陣医学にとって重要な感染症だ。

ドイツからの潜水艦による輸送については、このブログで紹介した「深海の使者」に詳しく紹介されている。この本では、様々な情報を総合して、ドイツの医学雑誌は、伊ー8号によって運ばれ、途中のシンガポールからは空輸されたのではないかという推測をしている。

深海の使者 (文春文庫)
吉村 昭
文藝春秋
2011-03-10


ペニシリンはよく知られているとおり、英国のアレクサンダー・フレミングが、生育していたブドウ球菌のシャーレに青カビが発生していることを発見し、それから細菌を殺す効果のあるペニシリウムというカビを見つけたことから発明された。ペニシリンは最初の抗生物質だ。

アレクサンダー・フレミング(切手になっている)

Faroe_stamp_079_europe_(fleming)



















出典:Wikipedia

当初、ペニシリンはカビから得られる量が少ないことから注目されていなかったが、オックスフォード大学のフローリーチェインがペニシリンに再注目し、米国のロックフェラー財団の支援を得て研究を続け、臨床試験で非常な効果があることがわかった。

第二次世界大戦がはじまると、傷病兵の治療用に大量のペニシリンが必要となったので、1943年の後半から米英で大量生産された。

実用化されたペニシリンQ176株は、米国の北部農業研究所があったイリノイ州ピオリアに住む主婦が、研究所がカビを探していることを新聞で読み、カビの生えたメロンを届け、このメロンから採取されたカビにX線を照射し、さらに紫外線を照射して生き残ったカビから生育されたものだ。

戦争が終わった1945年12月にフレミング、フローリー、チェインの3人はノーベル医学賞を受賞している。

稲垣少佐の文献研究とちょうどタイミングを同じくして、当時中立国だったアルゼンチンの朝日新聞ブエノスアイレス支局から、「敵米英最近の医学界 チャーチル命拾い ズルホン剤を補ふペニシリン」という特派員報告が昭和19年1月27日の朝日新聞に掲載された。

これに衝撃を受けた陸軍省は、その日のうちに「ペニシリン類化学療法剤の研究」を昭和19年8月までにという期限付きで、陸軍医学校に命じた。

第1回ペニシリン会議が昭和19年2月1日に開催され、七三一部隊で有名な石井四郎軍医少将も出席して、積極的に質問していたという。石井中将(その後昇格)は戦後、戦犯とならず(米国に細菌戦の情報を提供したためといわれている)、米国に招かれ朝鮮戦争時に米国がひそかに行った細菌戦を指揮したという噂がある。

陸軍医学校では勤労奉仕の一高生を30名ほど受け入れ、一高生は翻訳などに取り組んだ。日本各地の大学、研究所、製薬メーカーではペニシリン培養用に最適な培地とカビを探すために、様々な努力をしていた。そのうちこんにゃくの培地に蛹の煮汁を加えたものが良好な成果を示したが、当時はこんにゃくは秘密兵器風船爆弾の糊に使われるために入手困難だった。

東北帝大では、試作ペニシリンのマウス実験に成功し、発見菌株は「ペニシリウム・ノターツム・クロヤ・コンドウ」株と名づけられ、次第に力価を高めていった。東北帝大では臨床試験も実施し、9月には新聞にも報道され、特効薬・ペニシリンを求める人が東北帝大に殺到したという。

当時のペニシリンは純度が低かったが、不思議とよく効いた。純度が低いため、体内にとどまっている時間が長かったので、よく効いたのではないかといわれている。

昭和19年10月にはドイツからペニシリン菌株と資料が中立国とシベリア鉄道経由届いたが、ドイツの研究は遅れており、日本の菌より力が弱かった。昭和19年の初めに、ヒトラーは自分の主治医をペニシリンの発見者として第一級鉄十字勲章を与えていた。しかし、この発表はねつ造であることが戦後発覚した。ヒトラーのあせりがうかがわれる。

日本のペニシリンの初期投与者には、南京に新日傀儡政権を樹立した後、日本に亡命していた汪兆銘がいる。汪兆銘は、名古屋帝大の附属病院に入院していた。骨髄腫だったので、ペニシリンの薬効はなく、昭和19年11月に死亡している。

この本では、東大医学部、東大農学部、伝染病研究所、東京女高師、海軍が依託した小林研究所(ライオン歯磨)、慈恵医大、慶応大学など、日本各地の研究機関で物資が乏しい中、一斉に研究が進められていた様子を描いている。

昭和19年11月には朝日新聞はじめ各紙が、「短期間に見事完成 世界一ペニシリン わが軍陣医学に凱歌」という題で大々的に研究成果を報じている。

しかし、物資不足に悩む日本では量産化できる工場はほとんどなかく、万有製薬、宇治化学、三共、帝国臓器などのメーカーが関心を示していたが、最終的に森永乳業の三島工場(当時は森永食糧工業の三島食品工場)で、試験生産が始まることになった。

牛乳からバターなどを取った残りのホエイを培地にして、森永ではペニシリンの生産が続けられ、陸軍病院や大学病院に送られた。当時の生産量の記録は残っていない。

戦時中のことでもあり、ペニシリンという名前は敵性語だということで、「碧素」という日本名がつけられた。この本では、昭和19年11月末にはB29による東京空襲が始まり、日本各地が爆撃を受ける中でのペニシリン生産と、負傷者に適用されたペニシリンの高い薬能を紹介している。

軍医学校も昭和20年5月に焼け落ち、疎開資料は東京帝大と山形県に送られた。東京帝大の寄託資料は、東大紛争の時に、学生が衛生学教室に乱入し、資料を焼いてしまった。もう一つの山形県に送られた資料は、戦後エーザイの創業者の内藤記念くすり資料館(岐阜県)に移され、日本のペニシリン研究資料として展示されている。

Naito_Museum_of_Pharmaceutical_Science_and_Industry01






















出典:Wikipedia

この本の最後の方に、終戦直前の昭和20年7月に稲垣少佐が家族を疎開させていた沼津市近郊の志下(しげ)に行くために沼津駅から江梨行きの木炭バスを待っていた時のエピソードが載っている。稲垣少佐の軍服につけた軍医の胸章に気付いた客から、甥が敗血症で死にかかっており、どうしても碧素を手に入れたいという相談を受け、持っていたペニシリンを渡し、あとは森永の工場からもらうように伝えたという。

戦後30年経って、昭和50年に放送されたNHKのスポットライトという番組の「碧素誕生」という回に、稲垣さんが出演し、依頼を受けた大谷実雄さんと30年ぶりに再会し、ペニシリンで救われた川口隆次とも会っている。

ちなみに、この沼津駅発江梨行きのバスは今でも運行しており、筆者も西伊豆の戸田に行くときに利用している。山本コータローの「岬めぐり」のバスのような、海と山の間を走るバスだ。



戦後は「ペニシリンは儲かる」という話が広まり、昭和22年にペニシリン協会に加盟していた会社は80社を超え、製薬メーカーはもちろん、台糖、菓子メーカー、合繊メーカー(東洋レーヨン(東レ))まで種々雑多な業種が参入していた。

昭和21年1月にGHQは突然日本のペニシリンの販売を禁止した。そして5月に突然販売禁止が解除された。なんの理由も発表されなかったが、日本のペニシリンは世界の水準に達していないというのが理由だったという。

GHQは昭和21年8月にペニシリン研究の権威、テキサス大学のJ.W.フォスター教授を招いて、日本各地でペニシリン生産上の秘訣を公開講演し、日本各地の工場を積極的にまわって指導した。フォスターは「日本ペニシリンの恩人」と感謝されている。

日本のペニシリン生産は、昭和21年3万単位、1万1千本が、昭和22年10万単位、6万5千本、昭和23年には10万単位、25万6千本と加速度的に増加し、昭和23年からペニシリンが広く一般に使われるようになった。日本で広く使われたのが前述のピオリア市の主婦が届けてきたメロンから採集したQ176株だ。

昭和24年には国内需要を満たし、昭和25年には朝鮮戦争が起こったために、米軍が買い上げて、日本の薬品が外貨を獲得した最初となり、ペニシリン生産額はさらに増大した。

昭和10年の日本人の平均寿命は50歳で、明治20年ころからほとんど変わっていなかったが、ペニシリンが広く使われるようになった昭和23年から日本人の平均寿命は急に延びはじめ、昭和26年からはストレプトマイシンが使われるようになって日本人の結核による死亡者は激減し、昭和30年に65歳に達した。

今や様々な抗生物質が市場に出ている。

この本にも登場する稲垣さんの東大医学部の同窓で、東大伝染病研究所に勤務していた梅沢浜夫さんが書いている「抗生物質の話」も読んだので、今度あらすじを紹介する。

1962年の発刊だが、日本の抗生物質研究の第一人者が書いた本なので、抗生物質の基本がわかり参考になる。



筆者自身も5歳の時に骨髄炎にかかり、たしかアクロマイシンという抗生物質で完治した。左腕に手術跡があるが、今はなんともない。

そんな体験があるので、興味深く読めた。

古い本だが、大きな図書館なら置いているところがあると思うので(筆者も港区図書館から借りて読み、大変気に入ったのでアマゾンのマーケットプレースで買った)、最寄りの図書館をチェックしてみてほしい。


参考になったら、投票ボタンをクリック願いたい。


  
Posted by yaori at 07:38Comments(0)TrackBack(0)

2016年05月31日

パレオマニア 大英博物館の所蔵品の起源を訪ねる旅



大英博物館に所蔵する美術品の起源を訪ねる旅。

このブログで紹介した福原義春さんの「本読む幸せ」で紹介されていたので読んでみた。

大英博物館は一度行ったことがあるだけだが、その時はざっと見ただけなので、ロゼッタストーンとかエジプトのミイラ、ギリシャの神殿や彫刻、フェニキアの壺などが記憶にある。

大英博物館の所蔵品は、GoogleのCultural InstituteのBritish Museumで博物館に展示されている状態で見ることができるので、リンクが見つけられたものは入れておいた。まるで大英博物館の館内を見学しているような気分になる。

この本は大英博物館が所蔵する美術品が出土した地域をめぐる旅行記で、次のような構成となっている。

ギリシャ編 エルギン・マーブルと呼ばれる当時オスマン・トルコの支配下だったギリシャからトルコ政府の許可のもとで英国に運び出したパルテノンなどの彫刻や、パルテノンのわきにあるエレクティオンの柱となっているカリアティドの像など。

Elgin_Marbles_east_pediment
















出典:Wikipedia

エジプト編
棺を乗せた船の模型(クリックして表示される船の下にあるので、マウスで移動してほしい)。船大工の像などが紹介させている。

インド編
釈迦の生涯を描いた彫刻。仏像が紹介されている。

イラン編
古代ペルシャの鉢。牡牛に噛みつく獅子の図が紹介されている。

カナダ編
サンダーバードとトーテムポールが紹介されている。

イギリス/ケルト編
ケルトの青銅鏡リンドウ・マンが紹介されている。

カンボディア編
クメールの仏像。クメールの彫刻が紹介されている。

ヴェトナム編
ヴェトナム中部にあった海洋国家チャンパの獅子像。

イラク編
この本の表紙になっている「藪の中の牡山羊」ラピスラズリと金、貝殻でできている。すばらしい作品だ

Raminathicket2






































出典:Wikipedia

ラマッスーと呼ばれる人面有翼牡牛像

Winged_Human-headed_Bulls





















出典:Wikipedia

トルコ編
銀の鋳物でできた牡牛の像。帳簿と碑文。

韓国編
新羅時代の石仏。王族の耳飾り。

メキシコ編
火の蛇。王と王妃を描く石板。

British_Museum_Mesoamerica_004






























出典:Wikipedia

オーストラリア編
アボリジニの絵画。アボリジニが儀式に使うチュリンガのスケッチ。

イギリス/ロンドン編
大英博物館のできた由来(ハンス・スローンという商才ある医師が収集した7万1千点もの物品、5万札の書物、版画、337巻におよび植物標本などを国に2万ポンドで譲渡したことが大英博物館設立のきっかけとなった)。

グーグルのCultural Instituteは、様々な国の博物館などをバーチャル見学できるようになっている。たとえば日本で検索すると、国立西洋美術館はじめ、大原美術館、山種美術館など日本国内のおもだった美術館、博物館、海外の日本関係のコレクションなどが表示される。

美術館は通常は一部しか展示しておらず、展示していない所蔵品のほうが多いが、これなら展示していない所蔵品までアーカイブしている。便利な時代になったものである。


参考になったら、投票ボタンをクリック願いたい。




  
Posted by yaori at 08:02Comments(0)TrackBack(0)

2014年11月25日

靖国神社 集団的自衛権行使容認が靖国問題を解決する?

靖国神社 (幻冬舎新書)
島田 裕巳
幻冬舎
2014-07-30


「葬式は、要らない」など、ヒット作を出している宗教学者の島田裕巳(ひろみ)さんの本。

今まで小林よしのりの「靖国論」などを読んで、靖国神社のことを理解した様に思っていたが、全然基本的なことを理解していなかったことがよくわかった。



ちなみに小林よしのりは「保守も知らない靖国神社」という新書を出しているので、次に読んでみる。

保守も知らない靖国神社 (ベスト新書)
小林 よしのり
ベストセラーズ
2014-07-09


靖国神社は日本の内戦の官軍側の死者を弔うために建立され、賊軍は一切祀られていない。もともと賊軍を差別するために建立された神社だった。

その後、尊王攘夷で明治になる前に死亡した坂本竜馬など維新殉難者たちも靖国神社に合祀されたが、たとえば西郷隆盛などの反明治政府勢力は、合祀されていない。

一般的に合祀とは、すでに神社で祀られている祭神を別の神社でも祀ることをいうが、靖国神社の場合には、靖国神社のみで祭神となる場合でも合祀と呼ぶ。

靖国神社は東京招魂社として設立され、別格官幣社として神社の社格を整えたが、もともとは神官がいなかった。その後、陸軍省と海軍省の管理となって、神官を置くようになった。

明治時代のなかばまでは官軍の戦死者を祀る神社だったが、日清戦争、日露戦争を経て、対外戦争で亡くなった戦死者と戦病死者、亡くなった軍属を祀るようになって、ご祭神の数は一挙に増えた。

戊辰戦争以来の合祀者は1万5千人ほどだたが、日清戦争の戦死者・戦病死者だけで1万3千人にも上った。

日清戦争以前は、戦病死者は合祀されていなかったが、日清戦争の死者の86%は戦病死者だったので、合祀基準も改められ、戦死者と戦病死者ということになった。

日露戦争でも8万8千人が合祀され、全部で10万人を超える戦没者が靖国神社に合祀された。

現在では太平洋戦争の戦死者・戦没者を含めて全部で246万人以上が合祀されている。

陸軍と海軍の管理下にあった靖国神社は、戦後すぐに最大の存続の危機を迎えた。

しかし、昭和20年11月にGHQ支配下で開かれた臨時大招魂祭にGHQの民間情報局のダイク准将他が参観に訪れ、神社神道は欧米の宗教とは異なり、煽動的なものではないことがわかったため、国家管理から民間の一宗教法人になったものの、神社として存続できた。

GHQ支配下では合祀は一時期禁止されていたが、昭和24年から合祀が許され、独立回復後の大量合祀を含めて、靖国神社には満州事変の戦没者1万7千名、日中戦争の戦没者19万1千人、太平洋戦争の戦没者213万4千人が合祀されている。

靖国神社の戦後の合祀は実質的に国が主導したもので、実務を担当したのは厚生省引揚援護局の職員となった元軍人たちだった。遺族年金がもらえるかどうかも、合祀されるかどうかで決まった。

太平洋戦争では民間人も多数死亡した。民間人は原則として合祀されないが、沖縄県の民間人戦没者、阿波丸沈没の遭難者、対馬丸沈没の遭難者などは合祀されている。

戦犯の合祀は靖国神社の総代会でも議論が続けられ、昭和34年春の例大祭にBC級戦犯353名が、ひっそりと合祀された。

戦犯の合祀は関係者のみで進めたので、問題化していなかった。そこで厚生省の援護局(引揚援護局が昭和36年に改組)は昭和41年にA級戦犯7名の刑死者と5名の獄死者を祭神名簿を靖国神社に送っている。

靖国神社では総代会にかけて討議し、昭和44年の総代会でいったん合祀決定されたが、その後昭和45年に保留とされた。当時の宮司(ぐうじ)の元皇族の筑波藤麿が合祀を保留にしていたのだ。

筑波宮司が昭和53年に死亡し、代わって宮司になったのが第6代宮司松平永芳(ながよし)宮司だ。

松平は元海軍少佐で、戦後は陸上自衛隊に入り、一等陸佐で退官した。松平は東京裁判を否定しなければ、日本精神の復興はできないと考え、推薦者の元最高裁長官石田和外(かずと)にもそう語っていたという。

松平宮司は就任した昭和53年7月に就任すると、さっそく10月にA級戦犯14名の合祀を決め、御所に形の上での上奏を行った。

A級戦犯14名は次の通りだ。

絞首刑7名
1.東條英機
2.広田弘毅
3.土肥原賢二
4.板垣征四郎
5.木村兵太郎
6.松井石根
7.武藤章

判決前または刑期中に病死7名
1.平沼騏一郎
2.小磯国昭
3.松岡洋右
4.東郷茂徳
5.永野修身
6.梅津美治郎
7.白鳥敏夫

当時の侍従長の徳川義寛は、「そんなことをしたら陛下は行かれなくなる」と伝えたという。松平宮司は確信犯だったのだ。

平成18年に日経新聞がスクープした元宮内庁長官の「富田メモ」の昭和63年4月28日の記述でも、昭和天皇がA級戦犯合祀に不快感を持っていたことが知られている。

富田メモはその信憑性をめぐる議論がだされたが、その後平成19年に、卜部亮吾・元侍従の日記の昭和63年4月28日にも同旨の昭和天皇発言が記録されていることがわかり、徳川義寛侍従長も同様のことを語っているので、信憑性は高い。

冨田メモ
















出典:いわゆる冨田メモ疑惑サイト

靖国神社の存在は憲法の政教分離に反するという意見が以前からあり、これに対して政府は「靖国神社法案
」を昭和44年以来、何度も国会に提出したが、そのたびに廃案となった。そこで昭和53年に政府は「内閣総理大臣等の靖国神社参拝についての政府統一見解」を発表した。

これは私人としての参拝は問題にはならないというものだ。

この辺の政府答弁の推移は、官邸の「追悼・平和祈念のための記念碑等施設の在り方を考える懇談会」の第2回議事録の資料としてまとめられている。

中曽根元首相は、昭和60年8月9日に「閣僚の靖国神社参拝問題に関する懇談会」の有識者による報告書が出ているので、報告書が出た直後の8月15日に靖国神社を公式参拝し、前日に藤波官房長官が翌日総理が靖国神社を参拝することを発表している。

この時に中国から「東條英機ら戦犯が合祀されている靖国神社への首相の公式参拝は、中日両国人民を含むアジア人民の感情を傷つけよう」という非難が初めて出された。

中国のほかにも、韓国、香港、シンガポール、ベトナム、ソ連から批難が出され、そのこともあって、中曽根元首相は正式な参拝の礼儀をしなかった。中曽根元首相は、その後は首相在任中に靖国神社を参拝することはなかった。

次に首相の立場にある者が靖国神社に参拝するのは、11年後の平成8年の橋本龍太郎となった。

昭和天皇陛下も昭和50年に天皇親拝の後、亡くなるまで靖国神社に親拝することはなかった。

この本で初めて存在を知ったのが靖国神社の中にある鎮霊社だ。島田さんは、この本の最初と最後にこの鎮霊社参拝を紹介している。

20081004104902b





















出典:ぞえぞえねっと

安倍首相は平成25年の靖国参拝時にあわせて参拝し、「また、戦争で亡くなられ、靖国神社に合祀されていない国内、及び諸外国の人々を慰霊する鎮霊社にも、参拝いたしました。」と語っている。平成26年4月のオバマ大統領来日の際にも共同記者会見で言及している。

鎮霊社は筑波藤麿宮司の時代に筑波宮司の強い意向で建てられたものだ。

筑波宮司は「核兵器禁止宗教者平和使節団」の一員として昭和38年に欧米諸外国を訪問し、ローマ法王、ロシア正教大主教、カンタベリー大主教や国連のウ・タント事務総長らと面会した。この体験から日本の英霊を祀るだけでなく、世界の英霊を祀らなければ世界平和は実現しないと考えるようになったという。

安倍首相としては、「靖国問題」に解決の糸口を見つけようとして、鎮霊社参拝を思いついたのだろうが、マスコミも国民全体もさしたる関心を示さず、空振りに終わった。

この本の「おわりに」で、島田さんは「集団的自衛権行使容認の閣議決定が行われた日(平成26年7月1日)に」、として集団的自衛権の行使により死亡した自衛官が靖国神社に祀られるかどうかで、「靖国問題」の性格が根本から変わっていくことを示唆している。

日本が外国での戦闘に参加すること自体が、近隣諸国からは軍国主義の復活と受け取られる事態であり、もはや「靖国」は問題にされないのではないかと。

「『靖国問題』が騒がれていた時の方が、私たちははるかに平和で安全な社会に生きていると言えるのかもしれないのである。」と結んでいる。

欲を言えば、歴代首相経験者で首相在任中の靖国参拝歴に加えて、首相になる前と首相を退任してから後も靖国神社に参拝しているのか調べて欲しかったが、これについては、また他の本を探すことにする。

読みやすく、大変よくまとまった「靖国問題」の本である。


参考になったら、投票ボタンをクリック願いたい。

  
Posted by yaori at 21:56Comments(0)TrackBack(0)

2014年09月06日

村上海賊の娘 マンガか

村上海賊の娘 上巻
和田 竜
新潮社
2013-10-22


週刊新潮に約2年間にわったって連載された小説。人気のある本なので読んでみた。

著者の和田竜(りょう)さんは、「のぼうの城」で小説家デビューしている。




「のぼうの城」は映画化され、和田竜さんが脚本を書いている。戦国時代、秀吉に攻められる小田原北条氏の傘下の城の攻防戦を取り上げた物語だ。



この「村上海賊の娘」は上下1,000ページ弱の本で、上巻は陸戦、下巻は海戦の場面が続き、それぞれ数日かかるが、一気に読める。

驚かされるのは、そこここに資料を引用して、あたかもノンフィクションのようなテイストを与えていることだ。

この種の歴史小説としてはすごい量の参考文献が巻末に紹介されている。こんな具合だ:

img057




















img058





















出典:本書下巻巻末

小説のあらすじはいつも通り詳しく紹介しない。戦国時代、天下統一を目指す織田信長は、浄土真宗の総本山で大阪で絶大な権力を握る大坂本願寺(石山本願寺)を攻め、本願寺を包囲し、兵糧攻めを行った

大坂本願寺は諸国の大名に支援を求め、毛利氏がこれに応じ、10万石もの大量のコメを送った。このコメの輸送を担当したのが、毛利氏に味方した村上水軍だった。

織田信長は、毛利・村上水軍に対抗するため、真鍋氏を中心とする水軍で迎え撃った。これがこの本が描く第一次木津川口の戦いだ。

村上水軍の娘、村上景(きょう)は、この第一次木津川口の戦いで活躍する。

ちなみに、信長の秘密兵器としてよく知られている鉄甲船が登場するのは、この2年後の第二次木津川口の戦いで、この本には鉄甲船は登場しない。その後、大坂本願寺は火災で焼失し、そのあとに秀吉が築城したのが大阪城だ。

まるでマンガ、あるいはアクション映画、というストーリーだ。

敵でも味方でも、中心人物はどれだけ敵が多くて、矢や鉄砲を浴びても、何十人もの敵を切り倒して生き延びる。

敵(かたき)役は敵役で、死んだように見えても必ず復活する。

戦闘の場面は息も尽かさぬ展開ではあるが、食事や恋愛、操船や剣術の訓練など、普通の生活の場面の描写がほとんどないことが、マンガか?という平板な印象を与えている。

ともあれ、速い展開で、一気に読めるエンターテインメント作品である。


参考になれば投票ボタンをクリック願いたい。





  
Posted by yaori at 00:13Comments(0)TrackBack(0)

2014年07月06日

あなたの知らない兵庫県の歴史 各県版が出ていて参考になる



神奈川県から始まり、いまでは全国いろいろな県の歴史が紹介されている「あなたの知らない…」シリーズの兵庫県版。

古代から現代まで、それぞれの時代のトピックを紹介していて、その県の出身者や在住者でなくても、楽しく読める。

兵庫県は、NHKの大河ドラマ「軍師官兵衛」で、脚光を浴びている。姫路城とか神戸市など、様々な観光地があり、瀬戸内海と日本海の両方に面しており、淡路島も兵庫県に属している。

兵庫県は古墳の数が日本一多く、古代から中心地として栄えてきた。

この本では、トリビア(実は英語はtriviaなので、トリヴィアと書いた方が良いかもしれない)的な話題も含めて、70ばかりのテーマで兵庫県を紹介している。

オーソドックスな歴史上の出来事も参考になるが、面白かったトリヴィア的な話題をいくつか紹介しておく。

★灘が酒造業で発展したのはなぜ?

江戸時代のはじめには、鴻池屋の成功により、伊丹が国内有数の酒造地帯となった。しかし、18世紀後半になると「灘の生一本」で知られる灘の酒が伊丹を上回る大酒造地帯として発展した。

灘が発展した理由は、幕府の規制緩和だ。幕府は当初、京都、大坂、奈良といった古くからの銘醸地や、城下町や宿場町などの限られた都市部でしか酒造りを認めていなかった。

ところが、1754年に幕府が「勝手づくり」を認めたので、伊丹よりも海に面して交通の便が良く、良質な播州酒造米が採れ、六甲おろしの冷気が冬の醸造に適している灘が発展した。丹波・但馬からは「丹波杜氏」と呼ばれる、酒造りの専門家集団が灘の酒造りをリードした。

1840年には六甲山系の伏流水・宮水も発見され、酒の味に磨きがかかった。

ちなみに日本最古の酒蔵の一つである剣菱も、1505年の創業以来伊丹で酒を造っていたが、大正時代に灘に移ってきた。

★神戸の中華街「南京町」はどうやってできた?

1867年に幕府は兵庫を開港するが、周辺に居留地などをつくる余地がなかったため、神戸が開港地として選ばれた。

欧米の商会と日本人を仲介する「買弁」と呼ばれる中国人や、外国人の使用人として日本にやってくる中国人が増加したが、当時清国と日本は修好条約を締結しておらず、中国人は外国人居留地の居住が許可されなかった。

それで中国人は居留地の西側に隣接する雑居地に住居や店舗をかまえるようになり、これが現在の「南京町」となった。昭和20年の神戸大空襲により南京町は焼失するが、昭和50年代に復活した。

★世界初の缶入り緑茶を発売した「伊藤園」創業者兄弟は神戸出身だった?

「伊藤園」の創業者は神戸出身の本庄正則、八郎兄弟だ。

本庄兄弟は二人とも、早稲田大学を卒業後、日産のトップセールスマンとなるが、自動車販売に限界を感じて、昭和39年に独立して食料品販売会社の「日本ファミリーサービス」を設立、2年後の昭和41年にお茶の販売に事業を絞り、静岡市で「フロンティア製茶」を立ち上げ、昭和44年に商号を「(株)伊藤園」に変更した。

東京に本社を移転して、昭和56年に缶入りウーロン茶が大ヒット、そして昭和60年に缶入り煎茶を「お〜いお茶」のブランドで大ヒットさせ、お茶飲料メーカーとしての地位を確立させた。

筆者は神奈川県藤沢市出身なので、「あなたの知らない神奈川県の歴史」は読んだ。神奈川県の歴史は、小学校で鎌倉などの史跡を訪問して覚えたので、記憶があいまいな点もあり、こちらも非常に参考になった。



簡単に読めて、参考になるシリーズである。他の県のものも読んでみようと思う。


参考になったら、投票ボタンをクリック願いたい。

  
Posted by yaori at 22:01Comments(0)TrackBack(0)

2014年01月13日

コン・ティキ号探検記 ポリネシア人はどこから来た?

コン・ティキ号探検記 (河出文庫)
トール・ヘイエルダール
河出書房新社
2013-05-08


コン・ティキ号探検記が新訳となって、2013年5月に出版されたので読んでみた。

最初の日本語訳は1951年に出版されている。

トール・ヘイエルダール
月曜書房
1951


映画としてのコン・ティキ号探検記は、ドキュメンタリーとして最初は1950年に公開され、アカデミー賞を取っている

YouTubeに全編が公開されている。



2012年にもリメークされた。




コン・ティキ [Blu-ray]
ポール・スヴェーレ・ヴァルハイム・ハーゲン
松竹
2014-04-09



ノルウェー人の人類学者トール・ヘイエルダールは、ポリネシア、特にイースター島の巨石文明などは、南米の古代文明と共通点があり、南米から移住してきた民族がつくったものだという学説を第2次世界大戦直後に発表した。

しかし多くの学者はヘイエルダールの南米起源説をありえないと一蹴した。

そこで奮起したヘイエルダールが、自分の学説を立証するため、他のノルウェー人4名、スウェーデン人1名のクルーをつのって、南米ペルーのカジャオ港からバルサでつくった帆を備えた筏でポリネシアを目指した。

筏の構造は次のようなものだ。

scanner588

























出典:以下、特にことわりない限り本書

筏には古代南米の王様にちなんで、コン・ティキ号と名付けた。次はカジャオ港での組み立ての際の写真だ。

scanner587































このとき、南米西岸を流れるフンボルト海流から離脱できる沖合まで、筏をペルー海軍に曳航してもらったことが、ヘイエルダールの学説の弱点となっているようで、いまだにこの学説は主流とはなっていない。

ともあれ筏は順調に偏西風に乗って西へ6,000キロ旅をして、とうとうポリネシアのラロイアにたどり着いた。

scanner586





























ラロイアに着いた時に、暴風雨に見舞われ、筏は帆柱が折れて、無残な状態だったが、乗員全員無事で到着し、ヘイエルダールの南米起源説が可能であることを身を持って立証した。

scanner589














































途中、サメにつきまとわれたり、クジラやバンドウクジラと出会ったりした話が、映画の中でもサスペンスシーンとして出てくる。

食料は野菜などもペルーから十分積み込んであったし、魚には毎日不自由しなかった。

北欧人は、他のヨーロッパ人に比べて魚をよく食べる。またノルウェー人はヨットなどのセーリングには子供の時から慣れ親しんでいる人が多い。

次は筆者がノルウェーに出張した時に、フィヨルドを利用した天然のサーモン養殖場でサーモンを釣った時の写真だ。

ノルウェーサーモンフィッシング




























この時も、ノルウェー人の友人が、オスロ湾に面した自分の自宅からヨットを出して、ヨットでオスロ湾周遊した。ヨットの上でタラモサラダと、ゆでたアマエビをパンに載せて、マヨネーズで食べた。最高の食事だった。

また、週末は船を出して、針金に赤いビニールをつけただけの簡単な疑似餌でタラを思い切り釣った。次は筆者のアメリカ人の同僚のトムが、大きなタラを釣り上げたところだ。

タラ釣り




























帆をもった筏のコン・ティキ号の冒険は、まさにノルウェー人だからこそできた冒険だと思う。

コン・ティキ号をつくるために、エクアドルからバルサの大木を切り出すことが大変だったことや、航海中にトビウオやシイラやブリモドキなどをつかまえて食料にしたこと、サメと戦ったことなど、面白いエピソードが満載だ。

冒険物語として大変面白い。新訳はこなれていて、読みやすい。一読をおすすめする。


参考になったら、投票ボタンをクリック願いたい。

  
Posted by yaori at 14:34Comments(0)TrackBack(0)

2013年12月23日

からのゆりかご おどろくべき英国の強制児童移民の実態

からのゆりかご―大英帝国の迷い子たち
マーガレット ハンフリーズ
近代文藝社
2012-02-10


英国が英連邦各国の白人優越主義を守るため、私生児や孤児など恵まれない児童を1900年頃から1980年頃まで、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ、ジンバブエなどに送り出した児童移民計画を明るみに出した本。

"Oranges and Sunshine"という題で映画化もされている。



オレンジと太陽 [DVD]
エミリー・ワトソン
角川書店
2013-03-29



著者の英国ニッティンガム在住のソシアルワーカーのマーガレット・ハンフリーズさんは、仕事の延長で養子問題を調べるプロジェクトを1984年に立ち上げた。

そして2年後の1986年に、ハンフリーズさんは彼女の養子問題研究を知ったオーストラリアのアデレード在住の女性から手紙を受け取る。

彼女は早くして両親を亡くして孤児院に入り、4歳でオーストラリアに移民してとして送られてきたのだという。

ハンフリーズさんは、4歳の子供を移民に出すなど、ありえないと思ったが、調べてみるとこの女性以外にも子供の時にオーストラリアに一人で移住して、自分の出生証明書も持っていないという人が多くいることがわかる。

これらの児童移民の英国での親族、ルーツ探しに協力しながら、ハンフリーズさんは児童移民は1900年ころからキリスト教の福祉施設やクリスチャン・ブラザースなどの修道士などが、英国の身寄りのない、あるいは親が何らかの事情で子供を育てられない子供を英国連邦の各国に児童移民として送り込んでいることを知る。

判断力のない子供を移民に送り込むなんてありえないと、ハンフリーズさんは考えたが、調べていくとその数は80年余りで10万人にも上ることがわかった。

特に太平洋戦争が始まった前後は、日本軍がシンガポール、インドネシアと侵攻してきて、オーストラリアまで迫る勢いだったので、オーストラリア軍を増強するために、数年すれば兵士になれる10代前半の子供を積極的に受けいれていたことがわかった。

英国もこれらの英連邦諸国の要請にこたえ、児童移民を組織的に送っていたのだ。

ハンフリーズさんの活動は、BBCでドキュメンタリー化され、オーストラリアでも番組が作られた。

そして映画化された。



中には、親には養子に出したと偽って、子供を英連邦諸国に送り込んだケースもあるという。

豪州政府、英国政府は事実を認め、2009年〜2010年に首相が謝罪している。

この本では、ハンフリーズさんが何度もオーストラリアや英連邦諸国を訪問して、元児童移民の人たちの親族や親、故郷のことなどを、移民の記録や孤児院の記録など、多くの記録を探しながらたどっていく様子がノンフィクションとして紹介されている。

子供を勝手に移民させてしまうという、あり得ない話だが、実話である。

冒頭の表紙の写真だけ見ると、子供たちはちゃんとスーツを着て、良い待遇でオーストラリアに着いた様に見えるが、実はスーツは写真を撮るためだけに着せられたのだと元児童移民は語っている。

ハンフリーズさんの活動を好ましく思わない何者かに、ハンフリーズさんは狙われる危険を冒して、元児童移民に尽くしていたことが紹介されている。

感動の実話である。


参考になったら、投票ボタンをクリック願いたい。

  
Posted by yaori at 00:24Comments(0)TrackBack(0)

2013年10月22日

レアメタルの太平洋戦争 これが日米開戦のミッシング・ピースだ



ジャーナリストの藤井 非三四(ひさし)さんが書いた太平洋戦争を金属資源の観点から分析しなおした本。

筆者が読んでから買った数少ない本の一つだ。

よく知られているように、米国に1941年8月1日の対日石油輸出禁止を決断させた直接の原因は、1941年7月の日本軍の南部仏印進駐だ。この辺の事情をまとめた「戦争と石油」という記事がJOGMECの情報誌に載っているので紹介しておく。

この予想もしていなかった米国の強硬な態度に、日本政府関係者はみんな驚いた。当時の陸軍の軍務課長だった佐藤賢了は、「私達はこんな形で経済封鎖を受けることは予想していなかった。私は南部仏印に進駐しても日米戦争にはならないと判断しておった」と語る。

「日本軍部隊はすでに北部仏印に進駐しており、それがヴィシー政府との協定に基づいて、南部仏印に転出するだけで、戦争でもなければ侵略でもない。そこは米国の領土でも植民地でもない。日本はフィリピンの安全は保障する。南部仏印進駐によって、米国が対日戦争をしかける理由はない。」というのが当時の陸軍の一般的な考え方だったという。

「南進」が米国の虎の尾を踏んだのだ。日本で「南進」を警戒していたのは、皮肉なことに松岡洋右だけだったという。

いままで、米国の対日禁輸を招いた南部仏印進駐は、一般に言われているように「米国が南部仏印進駐をドミノ理論的にとらえ、東南アジア全域を支配するための第一歩と受け止めた」と考えていたが、この本を読んで、なぜ南部仏印進駐が、米国の過剰反応を引き起こしたのかわかった。

それは、南部仏印に進駐することで、米国のマレーシア、フィリピン、インドネシアなどから輸入しているレアメタル資源や天然ゴムの供給を脅かすからなのだ。

ミッシング・ピースが見つかった思いだ。

アメリカには石油、石炭に加え、鉄、銅、アルミなど戦争に必要な金属資源は豊富にある。裾野の広い自動車産業が発達していたこともあり、19世紀後半から金属の生産量は世界最大をずっと保っていた。

そのアメリカにないものが、ニッケル、クロム、錫だ。ニッケルは隣のカナダで大量に生産するので、大きな問題はないが、クロムはフィリピン、そして錫はマレーシアやインドネシアのバンカ島、ビリトン島に頼っていた。

錫はあらゆる電気製品に使われるハンダ原料で、自動車、船舶、飛行機すべてに使われている重要部品の軸受を作るのに必要なバビットメタルなどに不可欠の金属だった。またクロムも兵器生産に不可欠の金属だ。マレーシアの天然ゴムも戦略物資だ。

日本に東南アジアを抑えられてしまえば、天然ゴムに加え、クロムと錫が止まる。米国は、ひそかにボリビアで錫の鉱山、キューバでクロムの鉱山を開発していたが、それでもクロムと錫の主要な供給源を日本に抑えられることは、大きな痛手となる。だから南部仏印進駐に対して石油禁輸で厳しく対抗したのだ。

一般に太平洋戦争の直接の動機は、米国の対日石油禁輸だといわれている。米国の石油禁輸により、このままでは石油の備蓄を食いつぶしてジリ貧となると考え、それまで対米戦に反対していた海軍が対米戦容認に動いたからだ。

たしかに石油は重要だ。石油がなくては近代の軍艦は動かないし、飛行機も飛ばない。戦車もトラックも汽車も動かせない。しかし戦争するには、石油だけでは戦争できない。火薬を作るためには、硫安や硝石などの化学物資が必要だ。

ドイツが空気から人造硝石をつくって火薬原料とし、石炭から人造石油をつくって戦車や飛行機の燃料にしていたから、ヒトラーが戦争に踏み切れたことは、「大気を変える錬金術」のあらすじで紹介した通りだ。



しかし、石油や火薬だけでは戦争はできない。どんな武器を作るにもレアメタルが絶対必要だ。


銃弾に使われているレアメタル

たとえば次がこの本に載っている日本軍の38式歩兵銃の銃弾の構造だ。

scanner570








出典:本書19ページ

38年式実包と呼ばれ、口径6.5ミリ、全長76ミリ、重量21.2グラムで、一発が4銭7厘から7銭5厘、大体タバコひと箱の値段と同じだったという。弾丸は硬鉛と呼ばれる鉛とアンチモニーの合金、弾丸を包む金属ジャケットは銅:ニッケルが8:2の白銅だった。

「フル・メタルジャケット」という映画があったが、鉛主体の弾頭を金属で覆ったものがフル・メタルジャケットだ。



薬きょうは銅合金で、回収して再利用していた。同じく銅不足に悩むドイツ軍に学んで、昭和16年に鋼製薬きょうを導入したが機関銃の撃ち殻が薬室から抜けなくなる事故が続出した。これは致命的な欠陥である。

ガス化しやすい薬剤を薬きょうに塗って、抜けやすくするように工夫したが、それでも虎の子の機関銃で薬きょうが詰まる事故が続出し、こんなところでも資源小国の悲哀を味わうことになった。


砲弾に使われているレアメタル

次は砲弾だ。日本陸軍が多用していた75ミリ野砲の通常榴弾は次のような構造だ。

scanner571








出典:本書27ページ

全部の重量は10キロほどで、弾体は合金鋼、薬きょうだけで6キロほどの黄銅が使われている。日本は銅不足のために、薬きょうはリサイクルしていた。

鋼でつくった薬きょうを砲弾用に実用化していたが、黄銅なら3回の搾伸で済むところを、8回も搾伸して、そのたびごとに焼きなまし、洗浄、銅めっきを繰り返す必要があり、生産性は黄銅に比べて1/3近くに落ちた。

銅と亜鉛が豊富に供給される米国や英国は、薬きょうの鋼化には無関心で、ひたすら銃弾や砲弾の生産性を重視していたという。

そのほか小銃の砲身や発射機構は合金製だし、鉄兜もクロム・モリブデン鋼を使用している。戦車や軍艦の防弾板も大量の合金鋼でできている。このように見ていくと、戦争には大量の金属が必要なことがわかってくる。


飛行機生産に不可欠なアルミ

飛行機の兵器としての重要性は、第2次世界大戦で明らかとなった。飛行機はアルミ合金でできている。次がこの本で紹介されている大戦期間中の主要国のアルミニウム生産量だ。

scanner573








出典:本書123ページ

隣国のカナダを合わせると、米国は大戦中にドイツの3倍以上、日本の12倍のアルミを生産していた。これが米国30万機、ドイツ11万機、日本6万5千機という差になってくる。米国はソ連にアルミを大量に供給し、ソ連はそれを使って大戦後半に12万機もの飛行機を生産して、独ソ戦に投入している。

しかも米国はエンジン4発のB17やB29といった大型重爆撃機を3万3千機以上も生産している。この間に日本が実用化した4発の航空機は2式大艇のみで、その数167機だった。

ドイツがジェット戦闘機をまっさきに実用化しても、多勢に無勢、戦局を変える効果はなかったのだ。


日本の兵器戦略の致命的問題

資源面から日本と米国は圧倒的な差がある。主要兵器にも大きな差があるが、それ以上に日本の兵士を苦しめたのは、行き当たりばったりの兵器開発によって生じたインターオペラビリティ(共用性)の欠如だ。

その良い例が、銃弾だ。

戦争を熟知している国は、基本となる小火器弾薬は信頼できる実包(実弾)を大量生産して使い続けると藤井さんは語る。小銃、機関銃を実包にあわせて設計するのだ。

たとえば英国は1889年に採用された303ブリティッシュ実包を、1957年にNATO共通弾に切り替えるまで使っていた。ブリティッシュ実包は口径7.7ミリ、薬きょう長57ミリ、起縁(リムド)型の古めかしいものだが、小銃からヴィッカース機関銃までこれを使っていた。

米国は1903年制定の30.06スプリングフィールド実包だ。口径7.62ミリ(0.3インチ)、薬きょう長63ミリ、無起縁(リムレス)型で、M1903スプリングフィールド銃M1ガーランド銃BARブローニング自動銃重軽機関銃をすべてこの実包で統一して第2次世界大戦、朝鮮戦争を戦い抜いた。

ソ連も同様で、1891ねんからリムド型の7.62X54mmR弾を現在まで使っている。

次がこの本で紹介されている日本の小火器で使用される銃弾の一覧表だ。

scanner575








出典:本書203ページ

この表を理解するためには、この本で紹介されている薬きょうの形も知っておく必要がある。。

scanner574









出典:本書201ページ

主力小銃で、38式歩兵銃と新型の99式歩兵銃では口径が6.5ミリと7.7ミリと異なるので、同じ銃弾は使えない。

これは日中戦争で、6.5ミリ弾は対人では威力を発揮したものの、ちょっと厚い鉄板は打ち抜けないなどの問題が指摘され、日本陸軍全体が7.7ミリに切り替えようとしていたもので、やむないところかもしれない。

しかし、戦っている最中の軍隊で主力小銃の銃弾に兌換性がないというのは致命的だ。

ところで、38式歩兵銃は設計者の有坂成章中将の名前をとって、アリサカライフルと呼ばれ、今でも米国などのガンマニアには評判のライフルだ。反動がすくなく、命中精度が高いという。



日本軍の主力重機関銃だった92式重機関銃は99式歩兵銃と同じ口径7.7ミリだが、薬きょうの形がセミリムドと、リムレスと異なる。



無理に使えないことはないが、機関銃として致命的な装弾不良を覚悟しなければならない。

一方92式重機関銃の実包は、リムがあるので、99式小銃の薬室には収まらない。

92式重機関銃は55キロと重いので、後継の1式重機関銃は32キロにまで軽量化した。これに使用するのは99式小銃と同じ99式実包だった。これで主力重機関銃の間のインターオペラビリティは失われた。

銃弾がこれだけ種類があっては、ある種類の弾が残っているのに、自分の銃器では使えないという絶望的な事態を招いたことも戦場ではあったのではないかと思う。


あらすじが長くなりすぎるので、この辺にしておくが、大変参考になる本だった。冒頭に記したように、ミッシングピースを見つけた思いだ。

筆者が読んでから買った数少ない本の一つだ。

2013年7月に出たばかりの本なので、一度本屋で手に取ってみることをお勧めする。


参考になったら、投票ボタンをクリック願いたい。






  
Posted by yaori at 18:07Comments(0)TrackBack(0)

2013年10月04日

韓国併合への道 完全版 日本に帰化した呉善花さんの本



1910年の韓国併合に至る歴史的事実と、1945年までの日本統治下の韓国、そして日本統治時代の評価についての拓殖大学教授・呉善花(オ・ソンファ)さんの本。

生い立ちや日本に来た1983年前後の事情は、ベストセラーとなった処女作「スカートの風」に詳しい。今度このあらすじも紹介する。



ちなみに「スカートの風」=チマパラムという言葉の意味は、女の浮気や、ホストクラブ通いなど自由奔放な女性を指す言葉だという。

呉さんは、1956年韓国済州島に生まれる。韓国人だったら誰でも求める、お金と権力にあこがれて、大学から志願して軍人となり、軍人との結婚を目指す(当時、韓国の歴代大統領は軍人だった)。

軍人との初恋はあえなく破れ、27歳の時に日本に留学する。日本の大東文化大学を卒業後、東京外国語大学大学院でマスターを取った。日本の大学で教えながら活発に執筆活動しており、2005年に日本に帰化している。

日本統治時代を客観的に評価する姿勢が韓国で国賊扱いを受けており、2007年の母親の葬儀の時には、空港で入国拒否をくらい、日本領事館の抗議で、葬儀にだけ参列できた。

2013年7月に親戚の結婚式で韓国に行ったところ、仁川空港で入国を拒否され、日本に強制送還されるという事件が起きている。



入国拒否となったのは、全3部作となった「スカートの風」や、この本の影響も大きい。

この本の初版は2000年に発売され、その時は第10章までで終わっている。




次が初版に集録されている1〜10章までのタイトルだ。

第1章 李朝末期の衰亡と恐怖政治

第2章 朝鮮の門戸を押し開けた日本

第3章 清国の軍事制圧と国家腐敗の惨状

第4章 独立・開化を目指した青年官僚たちの活躍

第5章 一大政変の画策へ乗り出した金玉均

第6章 夢と果てた厳冬のクーデター

第7章 国内自主改革の放棄

第8章 新たなる事大主義

第9章 民族独立運動と日韓合邦運動の挫折

第10章 韓国併合を決定づけたもの


上記の通り第1〜10章は歴史書である。

その後、2012年に「完全版」として、11章と12章が追加された。これら2つの追加が本当に重要な日本統治時代の評価に関する部分なので、これらについては、節のタイトルまで紹介しておく。

第11章 日本の統治は悪だったのか

・西洋列強による植民地統治との違い

・韓国教科書に載る「土地収奪」の嘘

・英仏蘭が行った一方的な領土宣言

・巨額投資による産業経済の発展

・原料収奪をもっぱらとした西洋諸国

・武力的な威圧はあったか?

・武断統治から文化統治への転換

・植民地で行われた弾圧と虐殺

・学校数の激増と識字率の急伸

・教育を普及させなかった西洋列強

・差別と格差をなくそうとした同化政策

・戦時体制下の内鮮一体化政策

第12章 反日政策と従軍慰安婦

・反日民族主義という「歴史認識」

・国民に知らされない日本の経済援助

・親日派一掃のための「過去清算」

・韓国人自身の「過去清算」への弾圧

・「従軍慰安婦」問題の再燃

・政権危機と対日強硬姿勢の関係


この本はアマゾンの「なか見!検索」に対応している。目次は節タイトルまで記載しているので、ここをクリックして、全部の目次をチェックしてほしい。

この本を読んでいて、1〜10章までは歴史の叙述で、正直やや冗長なので、ダレ感があったが、最後の2章の思い切った発言は前の10章までとは全然異なっており、目が覚める思いだ。

2005年に日本国籍を取得して、2012年の「完全版」で、呉さんが思っていたことをやっと書けたということだと思う。それが上記のような韓国政府の入国拒否という事態を招いたのだろう。

第11章の「日本の統治は悪だったのか?」では、日本による朝鮮統治と西洋列強の植民地統治との違いとして次の4点を挙げている。

1.収奪によって内地を潤すという政策をとらなかったこと

2.武力的な威圧をもっての統治政策を全般的にとらなかったこと

3.文化・社会・教育の近代化を強力に推し進めたこと

4.本土人への同化(一体化)を目指したこと

たとえば、現在韓国で使われている地籍公簿(土地台帳、地籍図)は1910年から1918年までの間に朝鮮総督府が作ったものだ。近代国家体制の確立していなかった朝鮮に、本格的な土地調査を導入し、これにより土地の所有者を明確にした。

ところが、韓国の歴史教科書では、「全農地の約40%にあたる膨大な土地が朝鮮総督府に占有され、朝鮮総督府はこの土地を東洋拓殖株式会社など、日本人の土地会社に払い下げるか、我が国に移住してくる日本人たちに安い値段で売り渡した」(2002年の中学校国史の国定教科書を呉さんが引用)と書いている。

日本による土地調査事業について、ソウル大学の李榮薫教授の調査報告を紹介している。

「総督府は未申告地が発生しないように綿密な行政指導をした。(中略)その結果、墳墓、雑種地を中心に0.05%が未申告で残った。あの時、私たちが持っていた植民地朝鮮のイメージが架空の創作物なのを悟った」。

「日帝の殖民統治史料を詳らか(つまびらか)にのぞき見れば、朝鮮の永久併合が植民地統治の目的だったことがわかる。収奪・掠奪ではなく、日本本土と等しい制度と社会基盤を取り揃えた国に作って、永久編入しようとする野心的な支配計画を持っていた。近代的土地・財産制度などは、このための過程だった」。

しかし 李榮薫教授などは少数派だ。韓国の教科書フォーラムで聴衆に殴られる李教授の姿がYouTubeに掲載されている。



李榮薫教授は、「大韓民国の物語」で、韓国の歴史教科書を変えよと主張している。

大韓民国の物語
李 榮薫
文藝春秋
2009-02



この本で呉さんは、日本は西洋列強の収奪を目的とした植民地支配とは異なり、差別と格差をなくそうとした同化政策を取っていることを指摘している。李榮薫教授も、「地理的に接していて、人種的に似ていて、文化的によほど似たり寄ったりで、一つの大きな日本を作ろうとしていたのだ」と語っている。


創氏改名の真実

創氏改名についても、韓国でしばしば主張されているような「朝鮮人の姓名を強制的に日本名に改めさせること」ではない。

昭和15年に施行された創氏改名は次のような条件で行われた。

1.創氏は6か月間限定の届け出制。届け出なかったものは従来の朝鮮の姓が氏としてそのまま設定される。

2.創氏しても従来の姓がなくなるわけではなく、氏の設定後も姓および本貫はそのまま戸籍に残る。

3.日本式の氏名などへの改名は強制ではなく、期限なく、いつでもしてよい制度である。

朝鮮では本貫(ほんがん)と姓がある、たとえば慶州出身の李さんなら慶州李氏が本貫で、李が姓だ。本貫・姓では女性は結婚しても夫の姓にはならないので、本貫・姓に代わる家族名として「氏」を創設できる制度だ。結果として朝鮮在住者の80%が創氏して日本風の名前に変更している。

改名は名を変えることで、こちらは10%以下が改名した。

韓国国民に知らされない日本の経済援助

韓国の初代大統領となった李承晩は、日本の植民地支配に甘んじてきた屈辱の歴史を清算し、民族の誇りを取り戻すために、反日民族主義を打ち出した。

日本は終戦の時に、朝鮮のすべての日本及び日本人保有の私有財産・工場設備・インフラなどを米軍経由韓国に委譲し、北朝鮮にあった資産はすべてロシアが没収した。

ハーグ条約は占領軍が占領地の私有財産を没収することを禁じている。しかし、日本はこの主張を1957年に取り下げ、在朝鮮資産を正式に放棄した。

日本と韓国は戦争をしたわけではないので、本来日本に戦争賠償責任は生じない。

それにもかかわらず日本は1965年の日韓国交正常化を機に、日韓経済協力協定を締結して韓国に多額の援助をした。1950年代には国民一人当たりのGDPがわずか60ドルという世界最貧国の韓国にはまさに干天の慈雨となった。

日韓経済協力協定に基づく日本の援助額は、10年で有償2億ドル、無償3億ドル、民間経済協力3億ドル以上の合計8億ドル以上である。これは当時の日本の外貨準備のほぼ半分にあたる巨額の援助である。

このほか民間人に対する補償として1975年に軍人、軍属または労務者として召集され終戦までに亡くなった者を対象に、その直系遺族9,500人にそれぞれ30万ウォンが支払われている。同時に日本の金融機関への預金などの財産関係の補償として9万4千件に対して総額66億ウォンが支払われている。

韓国は日本からの資金を使って朝鮮戦争で荒廃した港湾、鉄道、鉄橋などのインフラや、農業近代化、中小企業育成、POSCO製鉄所などの重化学工業団地などを建設した。

1970〜1980年には約2,000億円が援助され、1980年からは追加の約3,300億円が地下鉄建設、ダム建設、下水処理などに活用されている。


韓国人自身の過去の清算

1997年1月の韓国の通貨危機以降、「韓国人自身の過去の清算」という言葉が登場し、日本の過去ばかりでなく、自らの過去を問い直そうという動きがでてきた。この表れが1998年10月に日本を訪問した金大中大統領の「もはや過去について論及することはない」という発言だった。

続く盧武鉉大統領も「過去は問わない、未来を見つめよう」と登場したが、金大中も盧武鉉も支持率低下とともに、対日強硬姿勢に転換している。


反日姿勢は大統領支持率アップに必須

盧武鉉はさらに親日反民族行為を糾弾するとして、106名を公表し、財産を没収した。これで親日派を一掃したのだ。

言論も弾圧された。2002年に韓国で出版された「親日派のための弁解」は青少年有害図書とされ、著者のキム・ワンソプは独立運動家の名誉棄損で在宅起訴された。




韓国の日本に対する賠償請求権は、1965年の「財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定」で消滅している。

しかし、韓国政府は盧武鉉政権の2005年以来、「従軍慰安婦、サハリン残留韓国人、韓国人被爆者は対象外だったので、解決していない」という態度を取っている。

どの政権でも政権支持率が下がる3,4年目には必ず対日強硬姿勢を打ち出しているのが現状だ。

朴槿恵(パククネ)大統領に至っては、就任当初から対日強硬姿勢を打ち出している。これは2011年8月に、韓国憲法裁判所が「韓国政府が賠償請求権の交渉努力をしないことは違憲」とする判断を示したことに始まっている。

つい最近もソウル高等裁判所で、新日鐵住金に対して戦時中の朝鮮人労働者に対して雇用条件と異なった重労働をさせたという理由で賠償を認める判決がでており、新日鐵住金は韓国大法院(最高裁判所)に上告した。

日本人から見ればきりがない韓国の賠償や謝罪要求は、実はすべて両国間で解決済みの問題であることを呉さんは冷静に指摘している。

呉さんは親日的な発言に目をつけられて、今は韓国入国を禁止されている元韓国人だが、その主張は拝聴すべきものと思う。

大変参考になる本だった。筆者が読んでから買った数少ない本の一つだ。


参考になったら、投票ボタンをクリック願いたい。

  
Posted by yaori at 12:43Comments(0)TrackBack(0)

2013年09月13日

【再々掲】 「トルコ 世界一の親日国」 次はイスタンブールを応援しよう!

2013年9月13日再々掲:

2020年のオリンピックが東京に決まった。筆者の最初の駐在地・アルゼンチンのブエノスアイレスで、東京開催が決定した時に、真っ先に祝福してくれたのは、最後まで東京と争ったトルコだった。

決選投票を会場で見守っていたエルドアン首相は安倍首相に近寄ってハグで祝福してくれた。

本当にトルコは親日国だと思う。



次は是非イスタンブールがオリンピック招致に成功して欲しいと思う。トルコに対する応援の気持ちも込めて「トルコ 世界一の親日国」のあらすじを再々掲する。


2013年5月3日再掲:


猪瀬直樹東京都知事の海外出張中のトルコやイスラム中傷発言で、オリンピック招致レースでの東京の立場がゆらぐ恐れがある。

本日トルコを訪問中の安倍首相は、トルコ政府と国民に、「どちらが勝ってもお互いに万歳しよう」と呼びかけ、修復を図っている。

時宜にかなったアクションだと思う。

トルコは世界一の親日国と言われている。

まさに安倍首相が提案するように、東京も招致レースではベストをつくすが、結果としてイスタンブールが勝ったら、日本も心からお祝いを言おう!

この意味を込めて「トルコ 世界一の親日国」のあらすじを再掲する。


2010年3月29日初掲:

トルコ世界一の親日国―危機一髪!イラン在留日本人を救出したトルコ航空トルコ世界一の親日国―危機一髪!イラン在留日本人を救出したトルコ航空
著者:森永 堯
販売元:明成社
発売日:2010-01
クチコミを見る

今年は「トルコに於ける日本年」とされており、日本とトルコ各地でイベントが開催されることになっている。

トルコに於ける日本年







大前研一さんの「衝撃!EUパワー」を前回紹介したが、その中でもトルコが将来EU加盟が認められると、EUの競争力の秘密兵器となることが説明されている。

またトルコが世界一の親日国であることも、大前さんの本で紹介されている。


トルコが世界一の親日国だともっと早く知っていれば…

筆者はこの本を読んで、「もっと早くトルコが世界一の親日国だった事を知っていれば…、。」と悔やむことがある。

実はピッツバーグ駐在時代に筆者の家の三軒隣に、フットボールのピッツバーグスティーラーズの昔の花形ディフェンスプレーヤーで、今はテレビのスポーツレポーターなどをやっているトーンチ・イルキン(Tunch Ilkin)の一家が住んでいたのだ。

Tunch Ilkin近影
tunchilkin[1]








Tunch Ilkinの現役時代
Ilkin_83690





出典:いずれもWikipedia

Tunchのフットボールコーチング映像



最初その家に移った時に、トーンチと奥さんのシャロンが挨拶に来てくれて、「自分はトルコ人だ。なんでも困ったことがあったら言ってくれ。是非遊びに来てくれ。」と言ってくれたのだ。

当時はトルコ人が世界一の親日家だとは知らなかったので、なぜ「自分はトルコ人だ」などと言うのか不思議に思っていた。

トーンチの家の庭には子どもの遊び場もあったので、筆者の子どもたちはトーンチの家によく遊びに行っていたし、おやつもごちそうになったりしていた。

しかし家に招いたりというつきあいはしていなかったのだが、今になってこの本を読んで、なぜトーンチが「自分はトルコ人だ」と言っていたのかわかった。

トルコは世界一の親日国なのだ。そしてトーンチのような2歳でアメリカに移住して、言われなければトルコ人とわからない人でも、日本に対する親愛の情があったのだ。

実に悔やまれる。

もっと彼と彼の家族と親しくしていれば良かったと今更ながら思う。

そんなことを思い起こさせるのが、この本だ。


筆者の森永堯さんは元伊藤忠商事でトルコ駐在16年

この本の著者の森永堯(たかし)さんは、元伊藤忠商事で、トルコ駐在歴16年というトルコ通だ。

トルコにはアンカラとイスタンブールに駐在し、二度目のアンカラ支店長発令の時は、伊藤忠の当時の社長から「トルコは君に任せる」と言われたそうだ。

人脈も広く、とりわけトルコの故オザル首相(後に大統領)と彼の無名時代から親しく、オザル首相のいわば「私設日本関係補佐官」となって、いろいろ日本とトルコのビジネスと友好関係を促進したという経歴の持ち主だ。

筆者も商社マンではあるが、昔アルゼンチンでの研修生時代には、「その国の大統領になるような人材と親しくなっておけ」と言われたものだ。森永さんはまさにそれを実現しており、商社マンの鑑ともいうべき人である。

さらにビジネスの実績もスゴイ。日本の製造業のトルコ進出第一号のいすゞ自動車のトルコ工場建設を決めたり、日伊トルコのコンソーシアムで第2ボスフォラス大橋を受注したり、自分のコネをフルに活用してビジネスにつなげている。

社長から「トルコは君に任せる」と言われるだけの実績がある。


1890年のエルトゥールル号遭難事故

トルコ人が日本人に対して特別の感情を持っているのは、古くは1890年のオスマントルコの軍艦エルトゥールル号が台風のために和歌山沖で遭難し、串本町大島の住民の必死の救援で69名が助かった(600名弱が死亡)ことに端をを発するという。

明治天皇は串本町の住民の命がけの救援活動を高く評価し、助かったトルコ水兵を日本の軍艦でトルコまで丁重に送り届けた。

その後日露戦争で日本がトルコの長年の宿敵ロシアに勝ったので、アジアの同胞が憎いロシアを倒したということで、トルコ人の日本人への尊敬の気持ちがいよいよ強くなったのだ。

近代トルコ建国の父、ケマル・アタチュルク大統領の執務室には明治天皇の写真が飾られていたという。

このような明治時代の話を、日本人は忘れてしまっているが、先方の国民は覚えているという例は他でもある。

たとえば筆者の駐在していたアルゼンチンは、日露戦争の直前に「日進」、「春日」という自らがイタリアの造船所にオーダーしていた戦艦を日英同盟による英国の働きかけもあって日本にゆずり、その2隻が日本海海戦で活躍したという歴史がある。

昔の筆者も含めて日本人はこのことを知らない人が多いと思うが、アルゼンチンでは日本との文化交流などの機会には、この話が紹介されることが多い。

おまけに日本にはシニアを中心にアルゼンチンタンゴの愛好家が多いということで、文化面でもアルゼンチン国民は親しみを感じており、日本人のタンゴ歌手の藤沢嵐子(らんこ)さんやバンドネオン奏者(最近では小松亮太さんという人が有名のようだ)は有名だ。

今回のトルコが世界一の親日国であるということも含めて、世界の国民には親日派もいるという事実を日本人はもっと知っておくべきだろう。


1985年のトルコ航空機によるイラン在住日本人救出

そしてそんなトルコ国民の日本人への敬意が、1985年のイラン・イラク戦争の時のトルコ航空機によるイラン在住日本人の救出につながった。



1985年、イラン・イラク戦争末期の頃、イラクのサダムフセインは、イラン上空を飛ぶ飛行機は民間機でも攻撃の対象となると発表した。各国の駐在員は自国の飛行機で先を争って帰国したが、日本航空は「安全の保証がない」ということで、組合の反対もあり飛行機を飛ばさなかった。

当時は内閣専用機もなく、日本の駐在員とその家族は途方にくれていたときに、日本人向けに特別機を派遣してくれたのがトルコ航空だ。

その裏には、テヘランでトルコ大使に救援を要請した野村大使と、伊藤忠本社の指令を得て、懇意のオザル首相に頼み込んだ伊藤忠イスタンブール支店長の森永さんがいたという。

プロジェクトXでもこの話は第135回 「撃墜予告 テヘラン発最終フライトに急げ」(イラン・イラク戦争での邦人脱出劇・トルコ航空)ということで、2004年1月27日に放送された。

実は筆者の先輩の柔道部の三本松進さんが、当時通産省からイラン大使館に赴任しており、プロジェクトXで三本松さんが出てきた時にはびっくりした記憶がある。

ウィキペディアでは「七帝戦」>「超弩級」の項目で、三本松さんも紹介されている。

モントリオールオリンピック金メダルの上村春樹・現・全柔連会長に一本勝ちした(!)ことが紹介されている。さらにびっくりした。

筆者も含めてトルコに助けて貰ったことを日本人の多くは忘れているだろうが、小泉元首相は2006年1月のトルコ公式訪問にあたり、日本人救出の話を聞いて「感動し」、当時のトルコ航空関係者などトルコ側11人に叙勲を決めた。

普通は外国人の叙勲者は年間20名程度しかいないのだが、その20名に加えてトルコ航空関係者の11を叙勲の対象にしたのだ。

良い話だと思う。


今からでも遅くない世界一の親日国トルコ再認識

筆者が体験したトーンチ・イルキンの話のように、日本のことを心底好いてくれる国民は世界には少ない。

アルゼンチンも親日国だとは思うが、トルコのように実際に人命救助という行動で表してくれた国は他にはないのではないか。

大前さんの本にもあるように、トルコはEU加盟交渉を既に20年も継続して行っている。またEUの前身のEECには1963年に準加盟国として協定を結んでいる。

欧州の一員になることは建国の父ケマル・アタチュルクの国家戦略一つであり、いずれはEUに加盟する可能性が高いと思う。経済もBRICsに次ぐVISTAの一国として発展している。

伊藤忠商事がコンソーシアムの一員として参加した第二ボスフォラス大橋の工事は、予定より半年も前に完成したという。日本人とトルコ人の組み合わせは最強なのだと著者の森永さんは語る。

政治的にも経済的にも重要な国である。

冒頭に記した通り、2010年は「トルコに於ける日本年」だ。トルコ国内では様々な日本紹介イベントが予定されていると聞く。筆者はまだトルコには行ったことがないので、是非近い将来トルコに行きたいと思っている。特にカッパドキアは是非見たい。

Cappadocia






出典:Wikipedia

是非この機会に多くの日本人がトルコを訪問し、トルコの人たちとの交流を深めたいものだ。

まさに2010年、「トルコに於ける日本年」にふさわしい本である。簡単に読めるので、是非一読をおすすめする。


参考になれば投票ボタンをクリック願いたい。

  
Posted by yaori at 12:39Comments(2)TrackBack(0)

2013年09月02日

ロゼッタストーン解読 フランスが発見しイギリスが持ち帰った碑文をフランス人が解読

ロゼッタストーン解読 (新潮文庫)
レスリー・アドキンズ
新潮社
2008-06-01


成毛眞さんの「面白い本」に紹介されていたので読んでみた。

面白い本 (岩波新書)
成毛 眞
岩波書店
2013-01-23


成毛さんの本では、1ページ半で簡単に紹介されているだけだが、300ページ以上の本である。

ナポレオン・ボナパルトは1769年コルシカ島の小貴族の息子として生まれた。フランスで軍人となり、フランス革命の時に、市民革命の波及を恐れてフランスを攻めたオーストリアなどのヨーロッパ諸国を撃退して一躍名を挙げた。

ナポレオンは当面の敵・イギリスに攻め込むには、海軍力が不足しており、まずはイギリスのインド交易路を断って、イギリスの財源を断つという作戦に出た。

そして1798年6月400隻の船に乗った約4万人のフランス軍がエジプトのアレキサンドリアに到着した。この時ナポレオンは150人以上のフランス学士院会員の学者を伴っていた。

ナポレオンはアレキサンダー大王の後継者を目指していたので、アレキサンダー大王の東方遠征でヨーロッパ文化がアジアに伝わったことを意識していた。ナポレオンのエジプト遠征は文化的使命も担っていると考えていていたようだ。

このエジプト遠征時にアレキサンドリアの東のロゼッタでフランス兵が発見したのがロゼッタストーンだ。1799年8月のことだ。

ロゼッタストーンは高さ1.2メートル、重さ700キロ以上の大きさで、ヒエログリフ、ギリシャ語、それとデモティックと呼ばれる民衆文字(コプト古語)で紀元前204年から180年まで在位したプトレマイオス5世エピファネスの偉業をたたえるために紀元前196年に作られた神官の布告だった。

ヒエログリフを学ぶ本の表紙にロゼッタストーンの写真が載っているので紹介しておく。



フランス軍はエジプトに攻め入ってきたトルコ軍を打ち負かし、それなりに奮戦していたが、いずれ補給が絶えてしまう恐れがあった。

フランス国内では、王党派が王政復興を画策していた。反クーデターがあるとのうわさを聞きつけたナポレオンは、エジプト遠征を自ら放棄して、フランスに戻ってしまう。タイミングよく1799年11月のクーデターの主導権を握り、その5年後の1804年には皇帝に戴冠した。

ナポレオンがエジプトを去ると、全権を委ねられたクレベール将軍は、すぐにイギリスと交渉を始め、1800年初頭に現地で合意が成立した。

学者たちはロゼッタストーンなどの収集品を船に積み込んで出航を待っていたが、イギリス本国はフランスの無条件降伏以外は認めず、結局帰国は1年半も遅れ、ロゼッタストーンはイギリスに没収された。

大英博物館に行ったことがある人なら、みんなロゼッタストーンを見たことがあると思う。これがフランスが発見したロゼッタストーンが発見国のルーブル美術館でなく、大英博物館にある理由だ。

ロゼッタストーンの碑文は、すぐに拓本がつくられ。ヨーロッパ中の学者に配布された。

ヒエログリフは次のような文字で、象形文字(いろいろな鳥とかヘビなど)、表意文字、そして表音文字の3つの機能がある。さらに「決定詞」と呼ばれる冒頭について敵や外国人を表すものもある。

ヒエログラフ







出典:本書194−5ページ

古代エジプトで使われていたが、ローマ支配下ではヒエログリフは使用されなくなった。キリスト教台頭とともに、異教徒の寺院や碑文と結びついたヒエログリフは禁止され、紀元394年にエジプトのアスワン近くの神殿に記されたヒエログリフが最後だと言われている。

ヨーロッパ中の学者がロゼッタ碑文によりヒエログリフの解読を試みた。

最初に一部解読に成功したのはイギリス王立研究所の教授で医者・学者のトーマス・ヤングだった。ヤングは外国名のヒエログリフ解読にはある程度成功したが、エジプト名の解釈で多くの間違いを犯した。ちなみにヤングは物理学者としても有名で、力学の「ヤング率」に名前を残している。

この本では、ヤングが解読した「プトレマイオス」や外国人名と、正しい読み方の比較表を載せており興味深い。

一方、フランスの南西部の小さな町フィジャックで1790年に本屋の末息子として生まれたジャン・フランソワ・シャンポリオンは、フランス革命で学校が閉鎖されていたため、兄や家庭教師の教えを受けて、ラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語、アラビア語、シリア語などをマスターし、のちにはキリスト教徒が使うエジプト語であるコプト語もマスターした。

「シュリーマン旅行記」や、ヘッセの「車輪の下」のあらすじでも記したが、昔の人は本当にスゴイ。これだけの語学をマスターしている人がゴロゴロいたのだ。

シュリーマン旅行記 清国・日本 (講談社学術文庫 (1325))
ハインリッヒ・シュリーマン
講談社
1998-04-10


車輪の下 (集英社文庫)
ヘルマン・ヘッセ
集英社
1992-01-17


シャンポリオンは、フランス学士院のアカデミー会員に選ばれた。

グルノーブルの大学や図書館で働く兄のジャック・ジョゼフの力も借りて、シャンポリオンは天性の語学の才能を生かし、1808年からロゼッタストーンの解読に取り組んだ。

当初は簡単な仕事と見られていたロゼッタストーン解読だが、ヒエログリフは複雑な仕組みでできていることがわかり、解読開始から14年近く経った1822年9月、シャンピリオンはロゼッタストーンの解読にとうとう成功する。

解読に成功したことをグルノーブルのフランス学士院に勤務する兄に伝え、そのまま倒れて5日間寝込んだといわれている。

1822年9月27日にパリの碑文アカデミーの会合で、シャンポリオンはヒエログリフの解読に成功したことを発表した。その時たまたまパリに来ていたイギリスのトーマス・ヤングは、碑文アカデミーの会合でシャンポリオンの隣に座って、彼の発表に立ち会った。

それまでヤングを含む何人もの学者がヒエログリフの解読に成功したと発表していたが、シャンポリオンはそれまでの説を否定し、ヒエログリフの表音文字は、外国名のみに限定されるのではなく、エジプト語にも広く使われ、基本的に3つの機能があると発表した。

たとえば次のアヒルを示す象形文字は、アヒルを意味すると同時に、表意文字として「の息子」という意味もあり、また表音文字として「サ」という音にもなる。

img569_081226hierogrif_onagagamo






出典:インターネット検索

この論文は、のちに「ダシエ氏への書簡」というタイトルで出版され、シャンポリオンのヒエログリフ解読者としての地位を確固たるものにした。

いままで知らなかったナポレオンのエジプト遠征やヒエログリフ解読のいきさつがわかり、参考になった。330ページと長く、本題とあまり関係ない部分もかなりあるので、それらはスキップして読んでも良いと思う。

スフィンクスの鼻はナポレオンの軍隊が壊したという俗説があるが、どうやらそれはウソのようだ。

ヒエログリフの本物がYouTubeに載っているので紹介しておく。



興味のある人は、次の本を読んでヒエログリフをマスターしても面白いと思う。

ヒエログリフを書こう!
フィリップ アーダ
翔泳社
2000-06



参考になれば、投票ボタンをクリック願いたい。

  
Posted by yaori at 12:15Comments(0)TrackBack(0)

2013年06月24日

日本が震えた皇室の肉声 文芸春秋90周年記念誌

日本が震えた皇室の肉声 (文春MOOK)日本が震えた皇室の肉声 (文春MOOK) [ムック]
出版:文藝春秋
(2013-03-01)

文芸春秋に掲載された皇室関係の記事の特集号。

この本は、おおざっぱに分けると、次のような構成になっている。

1.東日本大震災と皇室
冒頭に東日本大震災に際しての2011年3月26日に発表された天皇の御言葉が掲載されている。
地震、津波、原発事故の被災地の国民を励まされる天皇・皇后両陛下や、皇太子殿下・妃殿下他の皇族の献身的な活動を伝える川島侍従長の一文が、写真とともに紹介されている。

2.嫁ぐ娘を送る父の気持ち
皇后陛下の実父・正田英三郎(元日清製粉社長)と、小和田国際司法裁判所判事夫妻の文が紹介されている。皇后陛下が平民として天皇に嫁いだ最初の例だ。当時の写真を見ても、この本のいろいろなところに紹介されている皇后陛下のエピソードを読んでも、畏れおおいことながら、今上天皇陛下は、本当に良い決断をされたと思う。

表紙写真も本当にいい写真だし、皇后陛下のご結婚前の写真や、皇太子殿下がご幼少の時のご一家の写真なども多く紹介されていて、興味深い。

皇后陛下のエピソードとしては、東日本大震災の時は、地震直後にガラスの引き戸をすぐに少し開けて、外への出口を確保されるなど、ゆがみで戸が開かなくなることを危惧しての実家のお母様の教えをいつも守られていることが紹介されている。

また、津波の被害を受けた奥尻島を訪問した時に、皇后様が子どもの頃読んだ教科書の「稲むらの火」のことを語られたこともあり、その後小学校の教科書には「稲むらの火」が取り上げられているとのことだ。

津波!!命を救った稲むらの火津波!!命を救った稲むらの火 [大型本]
著者:小泉 八雲
出版:汐文社
(2005-04)

この本の半分くらいは皇后陛下に捧げられたものと言ってもよい内容である。

3.大きなコンテンツとしてはこのブログでも紹介した単行本になっている「昭和天皇独白録」が収録されている。

昭和天皇独白録 (文春文庫)昭和天皇独白録 (文春文庫) [文庫]
著者:寺崎 英成
出版:文藝春秋
(1995-07)

4.皇族同士(高松宮殿下・妃殿下、三笠宮寛仁殿下、秩父宮妃殿下)のざっくばらんな座談会や、三笠宮寛仁殿下の女系天皇反対論、三笠宮寛仁親王家の二人の女王姉妹のインタビュー、故・高円宮憲仁殿下の韓国公式訪問記などは、貴重な資料だ。

皇室の系図は次の通りだ。

500px-Taisyoutennou_kinjyoutennou














出典:Wikipedia

女系天皇反対論

この本を読んで、女系天皇に反対する理由がはっきりわかった。三笠宮寛仁殿下は天皇家の尊さは、2,600年も男系で継続してきたファミリーという事実にあると主張されている。

これは、このブログで紹介した旧・竹田宮家出身の竹田恒泰さんの「語られなかった皇族たちの真実」や、生物学者の竹内久美子さんの「万世一系のひみつ」と同様の議論だ。

語られなかった 皇族たちの真実 (小学館文庫)語られなかった 皇族たちの真実 (小学館文庫) [文庫]
著者:竹田 恒泰
出版:小学館
(2011-02-04)

遺伝子が解く!万世一系のひみつ (文春文庫)遺伝子が解く!万世一系のひみつ (文春文庫) [文庫]
著者:竹内 久美子
出版:文藝春秋
(2009-05-08)

三笠宮家の女王姉妹は、「お前たちは結婚したら民間に行く身だから」と小さい時から教育を受けてきたと語り、皇族に選択権はないことながら、皇族として残るなら子供のころから、そのように教育すべきだと語っている。

三笠宮寛仁殿下は昨年ガンで亡くなったが、この本での櫻井よしこさんのインタビューでは、「高校生の頃、はたと気がついたら我々には同業者が16人しかいなかった」と語っている。

三笠宮寛仁殿下、高円宮憲仁殿下など、既に多くの男系皇族がなくなっており、それぞれの家には男系の皇族はいないので、これから女王がどんどん結婚されていくと思うので、今は同業者は16人もいないだろう。

三笠宮寛仁殿下は、学習院の初等科の時のクラスメートに、「お前たちは俺たちの税金で食わせてやっているんだ」と言われたというが、皇族は皇族資産から支給される歳費(櫻井よしこさんは3,000万円程度と語っている)で暮らしているが、営利事業には関与できない。苗字もなく、医療保険もなく、選挙権も被選挙権もない。皇族の基本的人権は認められていないのだ。


女系天皇反対の例示

女系天皇については、三笠宮寛仁殿下は次の様な例を出している。

「畏れおおいたとえですが、愛子様がたとえば鈴木さんという男性と結婚されて、そこから玉の様なお子様が生まれれば、その方が次の天皇様になられるわけです」。

「そのお子様が女のお子様でいらした場合、さらにたとえば佐藤さんという方と結婚されてーーーというふうに繰り返していけば、百年もたたないうちに天皇家の家系というのは、一般の家と変わらなくなってしまいます」。

「その時、はたして国民の多くが、天皇というものを尊崇の念で見てくれるのでしょうか。『私の家系とどこが違うの』という人が出てこないとは限らないわけです」。

「天子様を戴くシステムを突き詰めて考えれば、先ほども言いましたように連綿と続く男系による血のつながりそもののなのですから」。

「この女系天皇容認という方向は、日本という国の終わりの始まりではないかと、私は深く心配するのです」。

「せっかくサミュエル・ハンチントン教授が、『文明の衝突』で、日本は世界でも独自の文明を持つひとつだと書いてくれたのに、それを台無しにしてしまうのは、いかにも残念なことです」。

文明の衝突文明の衝突 [単行本]
著者:サミュエル・ハンチントン
出版:集英社
(1998-06-26)


5.その他資料
たとえば天皇陛下の「サイエンス」誌に掲載された「日本の科学を育てた人々」という論文が掲載されている。

これでは「解体新書」、「蘭学事始」などの蘭学研究から、日本に医者として来日したツェンベリー(植物学者)や、シーボルトなどの影響を紹介している。

故・高円宮殿下は、日韓ワールドカップの際の今上天皇の発言「桓武天皇の生母が百済の寧王の子孫であると続日本紀に記されている ことに韓国とのゆかりを感じています」という発言は、日韓関係を戦後の50年というスパンでなく、1,000年を超える古いつきあいがあったことを忘れてはならないというメッセージだと語っている。

これについては、YouTubeに、冒頭に天皇の発言そのものを含んでいる、メッセージ・ビデオを紹介しておく。



文芸春秋には貴重な作品が多く掲載されているが、このように皇室関係だけを集めて特集本とすると、まとまった作品になる。

大変参考になる本である。


参考になったら、投票ボタンをクリック願いたい。

  
Posted by yaori at 12:07Comments(0)TrackBack(0)

2013年05月16日

戦後史の正体 元外務省・国際情報局長が書いた「米国の圧力」史

戦後史の正体 (「戦後再発見」双書)戦後史の正体 (「戦後再発見」双書)
著者:孫崎 享
創元社(2012-07-24)
販売元:Amazon.co.jp

昨年から話題となっている外務省の元・国際情報局長の孫崎享(まごさき・うける)氏が書いた「米国からの圧力」を軸とした戦後史。

昨年7月に発売されて以来ベストセラーとなっている。現在でもアマゾンの売り上げランキング250位くらいに入っている。

いわゆる「とんでも本」だと思っていて、いままで読んでいなかったが、外務省の元・局長だけに、興味深い指摘もある。


日本が負担した占領軍駐留経費

戦後日本の復興に、アメリカのガリロア・エロア資金(1946〜1951年までに18億ドル。うち5億ドルは返済)が大変役立った。米国による寛大な占領だったと言われている。しかし、実は同じ時期に日本は占領軍の駐留経費を約50億ドル負担しており、占領軍のゴルフ場代から、特別列車代まで負担していた。

孫崎さんは、一般に言われているほど「寛大な占領」ではなかったという。むしろ経済的な負担も日本に過酷なものがあった。

ちなみに、ガリオア・エロアは、人の名前か地名の様に思えるが、ガリオアはGovernment Appropriation for Relief in Occupied Areaの頭文字を取った"GARIOA"で、エロアは Economic Rehabilitation in Occupied Area Fundの頭文字を取った"EROA"だ。

本書によると、日本の負担した占領軍駐留経費は次の通りだ。

  年       金額     一般会計に占める割合
1946年    379億円   32%
1947年    641億円   31%
1948年  1,061億円   23%
1949年    997億円   14%
1950年    984億円   16%
1951年    931億円   12%

日本政府は戦争に敗れ、国土も産業も荒廃した大変な経済困難のなかで、6年間で5,000億円、国家予算の2〜3割を米軍経費に充てている。

この時、米国に駐留費の減額を求めて公職追放されたのが石橋湛山で、米国の言う通りにしたのが吉田茂だと孫崎さんはいう。

吉田茂の功績を高く評価している高坂正堯(こうさかまさたか)の「宰相吉田茂」などとは全く異なる評価である。

宰相吉田茂 (中公クラシックス (J31))宰相吉田茂 (中公クラシックス (J31))
著者:高坂 正尭
中央公論新社(2006-11)
販売元:Amazon.co.jp

吉田の考えは、「占領下だから文句をいってもしょうがない。なまじっか正論をはいて米国からにらまれたら大変だ」というものだったという。だから吉田は、対米追随派の代表であると。

このブログでは北康利さんの「吉田茂 ポピュリズムに背を向けて」のあらすじも紹介している。吉田茂の政治姿勢を表す言葉として、「戦争に負けて外交で勝った歴史はある」というものがある。これが吉田の政治信条を貫いていたのではないかと筆者は考えている。

吉田茂 ポピュリズムに背を向けて吉田茂 ポピュリズムに背を向けて
著者:北 康利
講談社(2009-04-21)
販売元:Amazon.co.jp

孫崎さんの自主派/対米追随派で分けるというのは、偏った見方という気がするが、これがこの本を貫く孫崎さんの姿勢である。


自主派か対米追従派か

孫崎さんは、政治家は次の様に自主派と対米追随派に大別できるという。

自主派:
・重光葵(外相)
・石橋湛山
・芦田均
・岸信介
・鳩山一郎
・佐藤栄作
・田中角栄
・福田赳夫
・宮沢喜一
・細川護煕
・鳩山由紀夫

対米追随派:
・吉田茂
・池田隼人
・三木武夫
・中曽根康弘
・小泉純一郎
・海部俊樹、小渕恵三、森喜朗、安倍晋三、麻生太郎、管直人、野田佳彦

一部抵抗派:
・鈴木善幸
・竹下登
・橋本龍太郎
・福田康夫


日本の「自主派」政治家を引きずりおろす米国のツールは、検察、マスコミ、学者

検察特捜部は、もともとGHQの指揮下にあった「隠匿退蔵物資事件捜査部」(戦後に日本人が隠匿した資産を探し出してGHQに差し出すのが任務)だった。だから、孫崎さんは、創設当初から検察特捜部は米国と密接な関係を維持してきたと指摘する。

占領直後は、GHQは「公職追放」というまさに偏見と独断がまかり通る武器を持っていた。孫崎さんによると、米国からバージされた首相・政治家は次の通りだ。

芦田均以前の政治家は別として、田中角栄、小沢一郎が米国に目をつけられたというのは、うなずける。

・石橋湛山(公職追放)
・鳩山一郎(公職追放)
・芦田均(昭電疑獄)
・田中角栄(ロッキード事件)
・小沢一郎(越山会疑惑)


マスコミ、学界、官僚も親米

米国は、日本の大手マスコミのなかで、「米国と特別な関係を持つ人々」を育成してきた。また、外務省、防衛省、財務省、大学にも「米国と特別な関係を持つ人々」がいる。

松田武著の「戦後日本におけるアメリカのソフト・パワー 半永久的依存の起源」では、日本の米国学界が「米国に批判的な、いかなる言葉も許されない」状況でスタートし、米国から多額の援助を受けたことを指摘しているという。 

戦後日本におけるアメリカのソフト・パワー―半永久的依存の起源戦後日本におけるアメリカのソフト・パワー―半永久的依存の起源
著者:松田 武
岩波書店(2008-10-28)
販売元:Amazon.co.jp


アメリカの望みは「望むだけの軍隊を、望む場所に、望む期間だけ駐留させること」

1950年にトルーマン大統領は、対日講和条約締結交渉を開始するように指示し、それを受けて1951年にジョン・フォスター・ダレス(後の国務長官)が来日する。

その時のダレスの交渉姿勢が、「われわれは日本に、われわれが望むだけの軍隊を、望む場所に、望む期間だけ駐留させる権利を確保できるだろうか。これが根本問題である」だった。

孫崎さんは、この姿勢が現在に至るまで変わっていないと指摘する。

たとえば鳩山首相の「普天間飛行場の移転先を最低でも県外」という発言は、米国の方針に反するために、鳩山首相は米国につぶされたと孫崎さんはいう。

たしかに鳩山首相の「最低でも県外」は、混乱を招いた。しかし、それ以外にも鳩山首相のお母さんからの毎月1,500万円の「こども手当」とか、国連総会で勝手に「2020年に温暖化ガス25%削減」とか言いだしたとかの要因もあって国内外の信頼を失って退任したので、別に米国の虎の尾を踏んだから退任したわけではないと思う。

ちなみに、普天間飛行場の返還・移転交渉については、守屋元防衛事務次官の「普天間交渉秘録」のあらすじを紹介しているので、参照願いたい。

「普天間」交渉秘録「普天間」交渉秘録
著者:守屋 武昌
新潮社(2010-07-09)
販売元:Amazon.co.jp


行政協定(地位協定)のための安保条約?

戦前の外務省アメリカ局長で、1946年に外務次官になった寺崎太郎は、「行政協定(注:現在は地位協定)のための安保条約、安保条約のための平和条約でしかなかったことは、今日までに明らかとなっている。つまり本能寺は最後の行政協定にこそあったのだ」と語っている。

朝鮮戦争が勃発したことから、米国は日本に対する考えを変え「ソ連との戦争の防波堤」としようとした。

日米地位協定では、第2条で基地の使用を認め、「いずれか一方の要請があるときは、(中略)返還すべきこと、または新たに施設および区域を提供することをを合意することができる」となっている。

ダレスの「望むだけの軍隊を、望む場所に、望む期間だけ駐留させること」が実現しているのだ。


「北方領土問題」は米国発案

孫崎さんは、北方領土問題は米国が、日本とソ連との間に紛争のタネをのこし、友好関係に入らないためにつくったものだと語る。

というのは米国ルーズベルト大統領はスターリンにソ連参戦の条件として国後、択捉の領有権をソ連に約束している。しかし冷戦の勃発後は、国後、択捉島のソ連による領有に米国は反対している。

孫崎さんが頻繁に引用する米国の歴史家・マイケル・シャラーさんの「『日米関係』とは何だったのか」でも、この件が紹介されている。

「うまくいけば、北方領土についての争いが何年間も日ソ関係を険悪なものにするかもしれないと彼らは考えた」。

「日米関係」とは何だったのか―占領期から冷戦終結後まで「日米関係」とは何だったのか―占領期から冷戦終結後まで
著者:マイケル シャラー
草思社(2004-06)
販売元:Amazon.co.jp

この本も図書館で借りたので読んでみる。

紛争のタネを残しておくというのは、インド・パキスタンの間のカシミール問題、アラブ諸国の間の飛び地問題、日韓の竹島問題、日中の尖閣列島などにも当てはまり、外交上よく行われる手口だという。


「イコール・パートナー」を提唱したライシャワー大使

孫崎さんは、ライシャワー大使についての逸話をいくつか紹介している。

一つは東京オリンピックの時の選手村が当初朝霞に決まっていたのを、外務省がライシャワー大使の口添えで代々木の米軍キャンプを移転させ、跡地を選手村にしたことだ。

この時は、オリンピックの主管官庁の文部省が反対し、「朝霞に決めたので主管官庁でもない外務省が口を出すな」と全く動かなかったので、事務次官会議を通さずに閣議に上げたという。

東京生まれのライシャワー大使は、戦前も対日戦争に反対し、戦後は沖縄返還のきっかけをつくった。まさに「二つの祖国」を橋渡しした人である。

日本への自叙伝日本への自叙伝
著者:エドウィン・O・ライシャワー
日本放送出版協会(1982-01)
販売元:Amazon.co.jp


自主派の佐藤栄作首相

佐藤首相時代に日本は「核保有国は、非保有国を攻撃しない義務を負うべきだ」という政策を立案し、1968年に国連の「非核保有国の安全保障に関する安保理決議」として結実している。

佐藤首相は、1965年に沖縄を訪問し、「沖縄の祖国復帰が実現しないかぎり、わが国にとっての戦後が終わっていない」という声明を読み上げた。

これは外務省と全く打合せしていなかったという。

佐藤首相は、退任後、1974年に「非核三原則」の提唱により、ノーベル平和賞を受賞した。筆者も賛否両論がおこったことを覚えている(どちらかというと、「否」の方が多かったと思うが)。

たしかに「核保有国は、非保有国を攻撃しない」という義務が、本当に国際的に確立できれば、ノーベル平和賞にも値するだろう。


ニクソンと佐藤首相の密約

1969年に訪米した佐藤首相は、ニクソン大統領との間で二つの密約を締結する。一つは沖縄に核兵器を持ち込むような事態が将来生じた場合、日本政府は理解を示すという「核持ち込み密約」。

もう一つはニクソンが大統領選挙対策上もっとも重視していた南部各州対策のための繊維製品の対米輸出枠の密約だ。

佐藤首相は帰国後密約は存在しないという立場をとり、合意を実行しなかった。ニクソンと交渉にあたったキッシンジャーは激怒し、報復を始めた。


ニクソンの報復

第1弾は日本には事前通告なく発表されたニクソン訪中。第2弾はニクソンショック(金ードル交換停止)だと孫崎さんはいう。

ニクソン訪中については納得できるが、ニクソンショックはたぶん密約無視とは関係ないだろう。


田中角栄失脚

ロッキード事件が米国発で起こり、田中角栄が失脚任したことは、一般的にはロシアからのガス輸入や北海油田開発などの日本独自のエネルギー政策が、米国の怒りを買ったといわれている。

しかし、孫崎さんは田中角栄が、米国より先に日中国交回復を実現したことが、米国の怒りをかったのだと説く。

米国は日本の頭ごなしに、ニクソン訪中を1972年2月に実現していながら、中国との実際の国交樹立は議会の反対で1979年までできなかった。

ところが、田中角栄は中国を訪問した1972年9月に日中国交回復を実現している。これが中国が田中真紀子や、小沢一郎などの旧田中派の政治家を「老朋友」と遇する理由だ。


日本のP3C大量配備は米国防衛のため

孫崎さんは、日本のP3C対潜哨戒機大量配備は、日本のためではなく、米国のためだと指摘している。

P_3_ACH





出典:Wikipedia

オホーツク海に潜むロシアの潜水艦はSLBM(潜水艦発射弾道ミサイル)を持っており、それのターゲットは米国で、日本ではない。

しかし米国はシーレーン防衛という名目でP3Cを大量に買わせて、米国の防衛の肩代わりをさせているのだと。

一面ではたしかに孫崎さんの指摘するような面はある。しかし、現代の防衛はイージス艦や、三沢など各地にある米軍の高性能レーダー、AWACS早期警戒機、海峡に設置された音波収録器など、様々な情報を管制してはじめて成り立つのであり、単に対潜哨戒機だけ持てば役に立つわけではない。

特に昨今は、中国潜水艦と思われる国籍不明潜水艦も日本近海に出没するようになってきている。

孫崎さんの説は、あまりに狭量というか、外務省の元高官が言う言葉ではないと思うが…。


2005年の日米同盟の変質

2005年小泉政権が締結した「日米同盟 未来のための変革と再編」は従来の安保条約を変質させている。

1.日米軍事協力の対象が極東から世界に拡大された。

2.戦略の目的が、「国際安全保障環境を改善する」こととされた。


TPPは日本にとってきわめて危険

TPPの狙いは日本社会を米国流に改革し、米国企業に日本市場を席巻させることで、日本にとってきわめて危険な要素を含んでいると孫崎さんは語る。

被害は限りなく想定されるという。

たとえば国民健康保険制度が崩壊するという危険性を挙げているが、意味がよくわからない。TPPを米国が日本にせまる理由も、日本が中国に接近することへの恐れと、米国経済の深刻な不振だという。

こういった議論については、今度紹介する「米韓FTAの真実」という本が、参考になると思う。

TPPの正しい議論にかかせない米韓FTAの真実TPPの正しい議論にかかせない米韓FTAの真実
著者:高安雄一
学文社(2012-11-22)
販売元:Amazon.co.jp

注意して読むと、外交官時代に自分が見たり聞いたりした情報はふくまれていない。公務員として守秘義務が課せられているからだろう。

自分が持っている情報は一切出さないが、公表されている情報をまとめて対米追随派/自主派という論理を組み立て、政治家や過去の事件を分類している。

佐藤優さんの本だったか、インテリジェンスのほとんどは新聞や雑誌などの公開情報の寄せ集めという話があった。公開情報を分析して、その奥に潜む真実や、その国の真意を探り当てるのがインテリジェンスだ。

外務省のインテリジェンス部門の国際情報局長をつとめた人だけに、同じ手法をとってこの本を書いているものと思う。

結論として、やはり「とんでも本」というか、「偏向本」ではないかと思うが、的確な指摘も含んでいる。どう評価したらよいのか、よくわからない本である。


参考になれば投票ボタンをクリック願いたい。






  
Posted by yaori at 23:27Comments(0)TrackBack(0)

2013年04月06日

東日本大震災 被災市町村のすがた  統計と地図は雄弁だ

統計と地図でみる東日本大震災被災市町村のすがた統計と地図でみる東日本大震災被災市町村のすがた
著者:衞藤 英達
日本統計協会(2012-03)
販売元:Amazon.co.jp

大学のクラブの先輩が、東日本大震災被災地に関する本を出版したので読んでみた。

著者の衛藤さんは、元・総務省統計局長で、現在は(財)日本統計協会の専務理事。杏林大学の客員教授、青山学院大学の非常勤講師などを務めている。


数字は雄弁

タイトルに「統計と地図で見る」という枕詞がついている。

太平洋沿岸の岩手県12市町村、宮城県15市町村、福島県15市町村の、統計と被災地図に若干のコメントを加えたコンテンツだが、まさに「数字は雄弁」だ。

市町村名がわかりやすいように、スキャンした表紙の写真を紹介しておく。

scanner487












単に統計と地図なのだが、これらを見ていると被災した人たち、亡くなった人たち、今も行方不明の人たちのことに、自然と思いを馳せる。

統計と地図で、感情移入してしまうというのも変な話なのだが、それだけ重大な真実が、ここにはある。

いくつか参考になった例を紹介しておく。


全体の犠牲者の状況

次が市町村別の犠牲者(死者と行方不明者)だ。

scanner488





出典:本書2ページ(以下出典はすべて本書)

東北の太平洋側でも、宮古市から東松島市に至るリアス式港湾と、遮蔽物のなかった平坦な仙台平野などが大きなダメージを受けていることがわかる。

次が年齢別・男女別の死者数だ。

scanner489





死者の大半が60歳以上の高齢者で、男女とも死者の年齢のピークは75歳前後だ。高齢のために逃げ遅れたのか、それとも身体に障害があり、逃げられなかったのか…。


人口ピラミッド

東北の太平洋岸の市町村は、元から高齢者人口が多かった。たとえば、陸前高田市の2010年の人口ピラミッドは次の通りだ。

scanner499




圧倒的に高齢者が多い。男性より女性の人口の方が多いことがわかる。だから、津波の犠牲者も高齢者が多く、女性の方が多い。

東京電力の火力発電所がある福島県の広野町の人口ピラミッドと比べると、好対照だ。広野町では40〜50代の働き盛りや、子どもも多い。

scanner501








産業別就業者レーダーチャートでわかる大きな差

岩手県太平洋沿岸の市町村の産業別就業者レーダーチャートは、ほとんどが次の陸前高田市の様な農林漁業突出のグラフだ。

scanner496




これに対して、東電の火力発電所のある広野町はエネルギー業が突出している。

scanner502






福島第一原発がある大熊町と双葉町も、広野町と同様にエネルギー業が突出したレーダーチャートとなっている。

scanner497





scanner498





一人当たり市町村所得

一人当たり市町村所得(住民の所得+企業の所得を人口で割ったもの)は、岩手県の陸前高田市は177万円/年。岩手県の漁業を主な産業とする市町村は、大体このレベルだ。

これに対して、東電の発電所がある福島県の町は、一人当たり市町村所得で、400万円を超えている。広野町は564万円と福島県でも突出している。

企業の所得が、そのまま町の税収となるわけではないが、やはり地元に発電所のような巨大な産業施設があると、市町村所得は潤う。


犠牲者データは語る

岩手県で犠牲者の人口比が大槌町に次いで高かった陸前高田市の犠牲者データは、次のようになっている。

scanner504











これに対して、同じ岩手県でも、過去の数度の津波の経験から15.5メートルの防波堤や水門を建設していた普代町では、行方不明1名のみと犠牲者は少なかった。

scanner492









普代町では、1896年の明治三陸沖地震では、1,000人以上が死亡、昭和三陸地震では600人が死亡した。

この過去の経験から、40年間村長をつとめた人物の強い指導力で、15.5メートルの防波堤と水門を長期間かけて建設していた。これが上記のような奇跡的に少ない犠牲者ですんだ要因だ。


浸水地図

次が東日本大震災で人口の8.56%を失い、犠牲者の人口比が最も高かった大槌町の浸水地図だ。大槌町では、町庁舎で町長以下の幹部も犠牲となり、行政機能がマヒした。

scanner490












次が「万里の長城」と呼ばれた高さ10.5メートル、全長2.4キロの、エックス字型の大防波堤があった宮古市田老地区の浸水地図だ。

scanner494












津波の高さは最大19.5メートルで、巨大な防波堤を超え、内部の住宅街は壊滅した。なかには、堤防があるからと、逃げなかった人もいたという。この地区では200人以上の住民が犠牲となっている。

東北の市町村の中で、最大の犠牲者を出した石巻市では、避難中の大川小学校の児童74人と教員10人が犠牲になった。避難誘導の失敗が追求されている。


原発事故の避難地域

福島県だけ、沿岸の津波被災地に加えて、福島第一原発の放射能被害により非難を余儀なくされた周辺市町村が含まれている。

たとえば飯舘村の産業別就業者レーダーチャートは次の通りだ。

scanner503






発電所がある広野町や大熊町のレーダーチャートとは大きな差があることがわかる。

ちなみに飯館村の一人当たり市町村所得は170万円で、福島県平均を100とする指数で62となっている。


写真集と統計

東日本大震災では、もちろん写真集も多く出版されている。

報道写真全記録2011.3.11-4.11 東日本大震災報道写真全記録2011.3.11-4.11 東日本大震災
著者:朝日新聞社
朝日新聞出版(2011-04-28)
販売元:Amazon.co.jp

河北新報特別縮刷版 3.11東日本大震災1ヵ月の記録河北新報特別縮刷版 3.11東日本大震災1ヵ月の記録
竹書房(2011-06-20)
販売元:Amazon.co.jp

写真集を見ているだけでは、解消できない「なぜ?」という疑問の答えが、統計にはある。

統計は写真と同じく雄弁であることがわかる貴重な資料である。


参考になれば投票ボタンをクリック願いたい。

  
Posted by yaori at 10:23Comments(0)TrackBack(0)

2013年04月03日

ユダヤ人を救った動物園 ワルシャワ動物園長夫妻の奮闘

ユダヤ人を救った動物園―ヤンとアントニーナの物語 (亜紀書房翻訳ノンフィクションシリーズ)ユダヤ人を救った動物園―ヤンとアントニーナの物語 (亜紀書房翻訳ノンフィクションシリーズ)
著者:ダイアン アッカーマン
亜紀書房(2009-07-04)
販売元:Amazon.co.jp

第2次世界大戦中にドイツの占領下のポーランドのワルシャワで、ドイツ軍に見つかれば強制収容所送りとなったユダヤ人を動物園の敷地内にかくまった動物園長夫妻の実話。たしか成毛眞さんがブログ(?)で紹介していたので、読んでみた。

1930年代のワルシャワの人口は130万人。3人に一人がユダヤ人で、東欧系ユダヤ人(アシュケナージ)が多数住んでいた町だった。

動物園もヨーロッパ最大級の規模で、1940年には国際動物園管理者協会の年次総会を主催する予定となっていた。

ところが1939年8月23日に独ソ不可侵条約を結んだナチス・ドイツは、1939年9月1日に突如ポーランド領内に攻め込み、9月17日にはソ連が攻め込んで、わずか1か月のうちにポーランドは独ソに占領された。

ナチス・ドイツは、ポーランド侵攻は自衛戦争だと正当化するため、ポーランド軍の軍服を着た親衛隊員が、ドイツのグライヴィッツを8月31日に偽装攻撃して、ラジオ局を占拠し、ポーランド語で決起を呼びかける放送を流した。そのあと、外国人記者たちを招いてポーランド軍の軍服を着た死体(関係のない囚人の死体)を見せたという。

ワルシャワ動物園も戦火に巻き込まれ、動物のオリは爆弾や砲弾で破壊され、多くの動物が死んだ。ホッキョクグマ、ライオン、トラなどの猛獣は、逃げ出して人間を襲う恐れがあるとして、ポーランド軍の兵士が撃ち殺した。

占領下でも、動物園は、時にはドイツ軍兵士用の豚の飼育、時にはやはり兵士用の毛皮用狸などの飼育をしながら、閉園を免れていた。

動物園長のヤン・ジャビンスキは、ロンドンを拠点とするポーランド亡命政府の国内軍のレジスタンス活動に加わり、表向きは動物園長、裏では国内軍の軍曹として活躍した。

ポーランド国内軍は一番多いときで38万人が参加していたという。

ナチスドイツ占領下のワルシャワ動物園がすぐに閉鎖にならなかったのは、ベルリン動物園長で、熱烈なナチ党員だったルーツ・ヘックが顔見知りのヤンを支援してくれたからだった。

もっとも、ヘックがヤンを支援したのは、単に同業者の顔見知りだったからではない。

ルーツ・ヘックは、絶滅したといわれるターパン(新石器時代のウマ)、オーロックス(ヨーロッパの家畜牛の原種)、ヨーロッパバイソンの純粋な系統を復元させるという計画に取り組んでいた。その計画に惜しみなく資金を提供したのが、ヒトラーに次ぐナチスNo.2のゲーリングだった。

この本の表紙の馬、バイソン、牛の絵はこれらの絶滅種の想像画だ。

ポーランドからベラルーシとの国境をまたぐ美しい森林保護区ビアロウィーザは、数少ないヨーロッパバイソンの亜種の生息地だった。ヘックの純粋種復元計画の実験場として最適で、大型獣ハンターのゲーリングとヘックに最良の狩猟場でもあった。

ヘックは、ヤンに自分の純粋種復元計画を手伝わせるつもりだったのだ。

ナチスの人間は、総じて熱烈な動物愛好家で、環境保護論者だったという。彼らは健康的な生活を送り、自然と動物を愛した。ところが、人間に関しては、ジプシー、ユダヤ人などは世界から抹殺すべき対象だった。

ある高名な生物学者は、ミミズに十分な麻酔をかけなかったことで罰せられた。一方、メンゲレが行ったユダヤ人等に対する人体実験では、麻酔・鎮痛薬を一切使わなかった。ナチスは人間愛は持っていなかったが、その動物愛は異常なものだった。

ヤンは家畜飼育などで営業を続ける傍ら、ドイツ人の昆虫学者を利用してワルシャワのユダヤ人ゲットーへの通行許可を得た。毎回ゲットーを訪れるたびに、ユダヤ人を救出して動物園にかくまい、彼らの脱出を支援した。

戦時中にヤンの動物園にかくまわれたユダヤ人は300人を超すという。

この本では、ヤンとアントニーナのジャビンスキ夫妻が、ユダヤ人「ゲスト」たちを動物の名前で呼んで、他人に聞かれてもわからないように配慮したり、ピアノでオッフェンバックの音楽を演奏して、ユダヤ人たちに警戒のサインとした話などが紹介されている。

ワルシャワのゲットーに押し込められていたユダヤ人は、1942年7月に強制収容所に大量移送され、多くが収容所で処刑された。

「シンドラーのリスト」の画面を思い出す。ユダヤ人ゲットーにドイツ兵が攻め入って、白黒映画の中で唯一赤い服を着たユダヤ人の女の子が逃げまどい、最後には荷車で死体が運び出されるシーンだ(次のYouTubeでは結末は収録されていない)。この映画で最も印象的なシーンだと思う。



映画全体のストーリーはYouTubeの予告編を参照して欲しい。



コルチャック先生もこの頃のポーランドの話だ。強制収容所送りとなる200人余りのユダヤ人の子供につきそって、ポーランド人のコルチャック先生も強制収容所に送られて死んだ、

コルチャック先生 (岩波ジュニア新書 (256))コルチャック先生 (岩波ジュニア新書 (256))
著者:近藤 康子
岩波書店(1995-06-20)
販売元:Amazon.co.jp

ドイツ軍が1943年1月にスターリングラードで大敗し、ドイツの敗色が濃くなったタイミングで、1943年8月にポーランド国内軍がワルシャワ蜂起をおこしたが、2か月でドイツ軍に鎮圧され、多くが死亡した。

ヤンは、この時の戦闘で首を撃ち抜かれたが、奇跡的に生き延びた。

戦後、ヤンはヨーロッパバイソン保存プログラムに取り組み、アントニーナは子供向けの本を何冊か書いて、元「ゲスト」たちと交流を続けた。

まさに「シンドラーのリスト」のオスカー・シンドラーが戦後イスラエルにあたたかく迎えられたのと同様に、ジャビンスキ夫妻も戦後イスラエルを訪問して、元「ゲスト」たちの歓迎を受けた。

一方、日本のシンドラー:杉原千畝は、戦後、外務省を追われた。

杉原千畝と日本の外務省―杉原千畝はなぜ外務省を追われたか杉原千畝と日本の外務省―杉原千畝はなぜ外務省を追われたか
著者:杉原 誠四郎
大正出版(1999-11)
販売元:Amazon.co.jp

杉原千畝物語―命のビザをありがとう (フォア文庫)杉原千畝物語―命のビザをありがとう (フォア文庫)
著者:杉原 幸子
金の星社(2003-06)
販売元:Amazon.co.jp

杉原千畝が諜報の天才だったという本も出ていて、よくわからないところだ。

諜報の天才 杉原千畝 (新潮選書)諜報の天才 杉原千畝 (新潮選書)
著者:白石 仁章
新潮社(2011-02)
販売元:Amazon.co.jp


ともあれ、あまりよく知らなかった戦時中のポーランドと、ポーランド系ユダヤ人の状況がわかる参考になる本だった。


参考になれば投票ボタンをクリック願いたい。





  
Posted by yaori at 12:59Comments(0)TrackBack(0)

2012年08月11日

ユダの福音書を追え ユダはイエスの忠実な使徒だった(DVD)

2012年8月11日追記:

「ユダの福音書」のDVDを図書館で借りて見た。

ユダの福音書 DVDブック ビジュアル保存版ユダの福音書 DVDブック ビジュアル保存版
著者:マービン マイヤー
日経ナショナルジオグラフィック社(2006-07-07)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る

本では「ユダの福音書」の写本がエジプトで発見されて古美術商の手にわたり、古美術商の間でのやりとりや、途中で盗難にあったことなどの部分が長いが、DVDでは古美術商の部分はさらりと紹介し、もっぱらこの文書が本物かどうかの鑑定の部分をフォーカスしている。

特に一旦盗難にあった写本を古美術商が取り戻し、普通の貸金庫に長年保管していたので、乾燥による劣化のためバラバラになった写本を、1ピースごとに復元していく工程を詳しく紹介している。

イエスは著作を残さなかったため、使徒や信徒が30余りの福音書を書いた。それらの福音書を2世紀の神学者エイレナイオスが、最も人気のある4つの福音書を選んで新約聖書の基本をつくった。

除外されたそのほかの福音書は外典とよばれ、滅失したものも多い。この本では発見された古代エジプト(コプト語)の写本が、「ユダの福音書」に間違いないことを多くの学者がかかわって鑑定していく様子を描いている。

さらにDVDでは、他の福音書ではユダは裏切り者と描かれているか、「ユダの福音書」では、イエスが最も信頼する使徒として描かれている点など、ドラマ仕立てで描いており、ビジュアルで大変わかりやすい。

DVDの音声は日本語吹き替えと英語を選べるが、日本語吹き替えでも登場人物の発言は原語のままなので、このDVDを見て、福音書を「ゴスペル」と呼ぶことや、マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネは、英語ではMark, Matthew, Luke, Johnとなることを知った。「いまごろそんなことを知ったのか?」と言われるかもしれないが、ともかく大変参考になった。

ちなみに、「マタイの福音書」は、英語で言うと"Gospel of Matthew"となる。もよりの図書館でDVDを貸し出しているなら、ぜひこのDVDもチェックしてみてほしい。

わかりやすくて参考になると思う。


2012年7月26日初掲:

ユダの福音書を追えユダの福音書を追え
著者:ハーバート・クロスニー
日経ナショナル ジオグラフィック社/日経BP出版センター(2006-04-29)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る

イエスを裏切ってイエスが死刑に処せられる原因をつくったユダ

ユダはイエスを銀貨30枚で裏切って、群衆に引き渡した。群衆の裁判の結果、イエスは死刑となり、十字架にかけられて処刑される。イエスが群衆に引き渡される際に、ユダはイエスに接吻して群衆に誰がイエスかを示した。それがこの本の表紙にある絵だ。

この話は新約聖書のマタイによる福音書の第26章と、マルコによる福音書14章、ルカによる福音書第23章、ヨハネによる福音書第18章に、ほぼ同じ話として出てくる。

新約聖書で最も古いマタイによる福音書は第27章で、ユダはイエスを銀貨で売り渡してしまったことを後悔して自殺したとしている。他の福音書ではユダの後日談はないが、ルカによる福音書では、ユダにサタンが入ってイエスを裏切ったことを記している。

このように新約聖書のいずれの福音書にも出てくるユダの裏切り。しかし、その真相は、イエスがすべてを予想して最も信頼できる信徒のユダに自分を裏切ったようにみせかけさせた、というのがユダの福音書の内容だ。

ユダの福音書は3−4世紀につくられたものとみられ、古代エジプト語のコブト語で書かれている。パピルスに書かれたボロボロの写本が1970年にエジプトで見つかった。

この本では、エジプトで見つかった写本に、多くの古美術商が関与し、最終的にナショナル・ジオグラフィック協会が本物と断定するまでを描いている。

ユダがイエスを裏切ったのか、それとも裏切りに見せかけたのはイエスの指示なのかが、なぜ重要なのかは、日本人にはピンとこないところだ。実はユダヤ人がイエスを殺したという俗説がキリスト教徒には広く信じられている。

ユダはユダヤ人の象徴と見られており、ユダの裏切りによって、ユダヤ人がイエスを殺したという俗説につながるのだ。

筆者に言わせれば、イエスだってヘブライ語しか話せなかったユダヤ人そのものじゃないかと思えるが、そこは俗説の俗説たるゆえんで、ユダヤ人はイエスを殺したということで、全世界のキリスト教徒から嫌われる一因となっている。

ところが、このユダの福音書では、ユダはイエスから最も信頼を受けていたので、イエスに言われたことを、そのまま実行したとしている。こうなるとユダヤ人をイエス殺害の張本人ととらえるキリスト教の俗説は、なりたたなくなる。それゆえキリスト教世界では、この福音書は偽書であるという議論も根強い。

筆者はキリスト教徒ではないので、このユダの福音書のインパクトがわからないが、ユダ=ユダヤ人の象徴という俗説がある以上、世界のマスコミを支配しているユダヤ人は、キリスト教徒からのいわれなき誤解を解くために、今後ともユダの福音書を利用するのだと思う。

なにせ広く浸透している俗説なので、時間はかかるだろうが、聖書自体がユダヤ教の聖典である旧約聖書とキリスト教の聖典の新約聖書を合体させたものなので、ユダヤ人=キリスト殺しという俗説はいずれ解消するのではないか。

小型聖書 - 新共同訳小型聖書 - 新共同訳
著者:日本聖書協会
日本聖書協会(1996-01)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る

そんなことを考えさせる本である。


参考になれば投票ボタンをクリックして頂きたい。


  
Posted by yaori at 16:45Comments(0)TrackBack(0)

2012年07月14日

あなたの知らない神奈川県の歴史 神奈川県出身ながら本当に知らなかった

あなたの知らない神奈川県の歴史 (洋泉社歴史新書)あなたの知らない神奈川県の歴史 (洋泉社歴史新書)
洋泉社(2012-04-06)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る

本屋で目に付いたので読んでみた。

筆者は神奈川県藤沢市出身で、今は神奈川県に隣接する東京都町田市に住んでいる。高校野球だと、地元の日大三高とともに、やはり出身地の神奈川県の高校も応援している。

プロ野球も、昨年まではずっと郷土の球団である大洋ホエールズ以来の横浜ファンだったが、DeNAが買収してくれたのをきっかけに、横浜ファンをやめることができた。今はプロ野球でひいきのチームはなく、心安らかな日々である。DeNA様様である。

この本は神奈川県民のみを対象に書かれたものではないが、神奈川県に住む人や神奈川県出身の人は、常識として是非一読をお勧めしたい。

というのは、高校などの日本史は、日本全体の歴史を扱っているので、神奈川県は鎌倉幕府が開かれた時代と、ペリーが来日して横浜を開港し、外国人居留地が出来た江戸時代末期から明治時代初頭を除いては、スポットライトを浴びることが少ないからだ。

筆者は藤沢出身なので、鎌倉にはよく出かけたし、外国人のお客を何度も鎌倉観光に連れて行ったこともある。鎌倉についてはある程度知識と土地勘もあるが、あらためて神奈川県の歴史を読み直してみると、結構間違って覚えていたことがあることに気が付く。

たとえば稲村ヶ崎だ。新田義貞が黄金の太刀を稲村ヶ崎から海に投げ入れると、潮が引いて陸地づたいに鎌倉に攻め入ることが出来たという言い伝えは知っていたが、年代を間違えて覚えていた。新田義貞は鎌倉幕府の重臣だと思っていた。

その他にも鎌倉時代の北条氏と、戦国時代の北条早雲を始祖とする北条氏とは血縁関係はないことなど、あいまいだった知識が確認できて役にたつ。

この本に載っている神奈川県歴史MAPも役に立つ。

scanner362






出典:本書

これを見ると、現在の神奈川県の中心地の横浜や川崎は、歴史上はほとんど登場しないことがわかると思う。歴史的には寒川神社がある寒川町など神奈川県中央部が神奈川県の中心地で、大和市には上野遺跡という縄文時代の遺跡もある。

神奈川県の国府は、日本で唯一場所が特定されていないそうだが、少なくとも3回場所が変わったことから、最初の国府があった高座郡国分村から地震などで場所が移転し、現在では平塚市四之宮、伊勢原市比々多、秦野市字御門と3説あるとのことである。

神奈川県には国府津(こうず)という町がある。JRの駅もあって、昔の御殿場線の始発駅である。京都から神奈川県の国府まで行く港は現存しているので、まさか国府のあった場所がまだ確定していないとは知らなかった。

ちなみに神奈川県の古い名称である相模の国の「相模」の由来は分かっていないそうである。

神奈川県は元々天領や大名の飛び地、旗本の領地などが多く、江戸時代は、小田原藩、荻野山中藩(厚木市)、武蔵金沢藩(横浜市金沢区)のみが藩として存在していた。廃藩置県で藩が県となり、明治4年に三浦郡、鎌倉郡、高座郡の相模三郡と、橘樹(たちばな)郡、久良岐(くらき)郡、都築郡、多摩郡の武蔵四群が統合して新生神奈川県となった。

小田原県と荻野県は伊豆の韮山県と一緒になって足柄県だった。以前このブログで紹介した「地図と愉しむ東京歴史散歩」に載っていた通り、コレラ発生がきっかけで多摩郡を東京に移管したり、足柄県を静岡県と分割したりして現在の神奈川県の地域となったのは明治26年だったという。

カラー版 地図と愉しむ東京歴史散歩カラー版 地図と愉しむ東京歴史散歩
著者:竹内 正浩
中央公論新社(2011-09-22)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る

神奈川県の歴史のピークはもちろん鎌倉時代だ。この本ではQ&A方式で、次に様な質問に答えている。

Q9  伊豆に流されていたのに、なぜ源頼朝は鎌倉に幕府を開いたのか?(鎌倉は関東の武士に命令するには最適の場所だった)

Q11 「幕府」って具体的には鎌倉市内のどこにあったの?(市内3か所で移転した)

Q13 源義経が腰越から出した有名な手紙(腰越状)は実在するか?(フィクションの可能性が強い)

Q15 鎌倉幕府にしかない「執権」ってどんな役職?(鎌倉幕府は執権と連署(副執権)、十数名からなる評定衆の合議制が政権運営体)

Q21 元の国書(蒙古牒状)ってそんなに無礼な内容だったの?(クビライが送った書状は脅しともとれる慇懃無礼な内容で、元の使者の杜世忠らは藤沢市龍ノ口(常立寺)で斬首された。これがため2度の元寇につながり、鎌倉幕府は元寇は防いだものの、褒賞を与えることができずに御家人の不満が高まり、滅亡した)

Q25 新田義貞による海側の稲村ケ崎からの鎌倉突入はホントにできたのか?(前述の通り、新田義貞は引き潮時に鎌倉に攻め入った)

Q31 太田道灌が「当方滅亡」と叫んで暗殺された「風呂」はどこにあった?(江戸城を築城した太田道灌は教養に富む築城の天才だったが、主人にねたまれ、伊勢原市日向にあった糟屋館で暗殺された)

Q34 戦国大名・毛利氏の出身地は鎌倉だった!?

Q39 鎌倉時代の北条氏と戦国時代の北条氏とは血縁はあるのか?(血縁はないが、北条氏の権威を利用した)

Q43 秀吉が作った石垣山一夜城はハリボテの城だったのか?(ハリボテは見せ掛けで、実際には述べ4万人の人夫が80日間動員された)

Q50 川崎大師はなぜ「厄除け」になったのか?(もともと平安時代のスタートから厄除けで有名だったが、江戸時代に11代将軍家斉の厄除けで将軍家が参詣するようになった)

Q52 江戸時代なのに相模国には「県」があった(唯一の例外は、津久井県だ)

Q53 富士山の大噴火がもたらした影響とは?(宝永4年=1707年)の富士山の噴火で神奈川県内は20〜30センチの火山灰が積り、農業は全滅だったという)

Q56 ペリー艦隊来航で「黒船」見物ブームがあったってホント?(幕府は黒船見物禁止令を出したが、黒船見たさの庶民には効果はなかった)

Q58 外国人居留地はどのように成立・発展した?(関所があったので居留地は「関内」と呼ばれていた。もともとあった村は関所の外に強制的に移転させられ、それが「元村」(元町)呼ばれた)

Q59 「鎌倉ハム」、「高座豚」は横浜開港と関係がある?(鎌倉ハムは1874年にイギリス人ウィリアム・カーチスが作りはじめ、地元の名士・斎藤家にノウハウが伝えられた。)

Q60 ペリーが持ってきた鉄道模型はその後どうなった?(幕末に火災で焼失した)

Q64 かつての湘南には海がなかった(旧津久井郡の城山町に「湘南村」がかつてあった)

Q66 JR鶴見線の駅名は人名だらけ(浅野財閥の「浅野」、「大川」や安田善次郎の「安善」、「武蔵白石」駅などだ)

Q67 関東大震災の被害は東京より横浜の方が大きかった?(震源地は相模湾北部で、横浜は人口の93%が被災、東京は75%が被災した)


ちなみに、神奈川県らしい姓というと「三浦」と「石渡」だという。


神奈川県民でなくとも、マメ知識にはもってこいの本である。


参考になれば投票ボタンをクリックして頂きたい。


  
Posted by yaori at 02:00Comments(0)TrackBack(0)

2012年07月09日

再掲: 銃・病原菌・鉄 なぜ新大陸民族は旧大陸民族に敗れたのか?

2012年7月7日追記

[ナショナル ジオグラフィックDVD BOX] 銃・病原菌・鉄(DVD3巻セット)[ナショナル ジオグラフィックDVD BOX] 銃・病原菌・鉄(DVD3巻セット)
著者:ナショナル ジオグラフィック
日経ナショナル ジオグラフィック社(2007-06-28)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る

「銃・病原菌・鉄」全3巻のDVDを港区図書館で借りて見た。港区図書館は6,700枚のDVDの蔵書があり、予約して借りられるのだ。

1巻が最も人気があるので、3−2−1という順番だが、ほぼ1年かけて全3巻を見終えた。

1巻に解説書がついていて、地図と年代表がある。本を理解する上で、以下のあらすじと若干重複する図があるが、こちらの方がわかりやすいので、紹介しておく。

ちなみにダイアモンド教授は日本に何度も来たことがあり、お母さんは日本語を勉強しているという。皇太子殿下にもお会いしたことがあるという。

次が本書の主題である農業と家畜の飼育の発祥地の地図だ。各大陸の文明発展の違いは「地理的要因」によるという、ダイアモンド教授の根拠となっている地図である。

scanner372





次が農耕や家畜の飼育の始まった時期だ。ダイアモンド博士の主張する「肥沃な三角地帯」で麦などの農耕と羊、山羊、豚、牛などの家畜の飼育が始まり、農耕しなくてよい人たちが金属器や陶器の技術開発に携わったり、軍人になったという説を裏付けるものだ。

scanner371











そしてその発展は、同じ緯度を横にヨーロッパやインド、中国に発展した。エジプトでは、ピラミッド建設をおこなっても労働者を食べさせることができるほど農耕が発達した。

ヨーロッパ人は肥沃な三日月地帯から来た小麦、牛、羊などを新大陸に持ち込み、新大陸を支配した。

次がこの本のテーマとなっている「銃・病原菌・鉄」によりわずか数百人のスペイン人が、数万人のインカやアステカの兵士達を破り、アステカ王国、インカ王国を滅亡させた当時の地図と年代表だ。

scanner373











scanner374











インカを滅ぼしたピサロも、アステカを滅ぼしたコルテスも緒戦は大勝利だったものの、時には敗戦を喫していることがわかる。

アマゾンの文化人類学書売り上げで、依然として10位内に入っている。本もいいが、ナショナルジェオグラフィック制作のDVDもいい。買うのは高いが、機会があれば、DVDも視聴することをおすすめする。


2011年11月23日初掲

銃・病原菌・鉄 上下巻セット銃・病原菌・鉄 上下巻セット
著者:ジャレド ダイアモンド
草思社(2010-12-10)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る

中南米のアステカやインカ帝国はなぜ少数のスペイン人によって滅ぼされたのか、文明の発展や文化の伝播はどのような特長があるのかを解説した上下約700ページの大作。

この作品は1998年にピューリッツアー賞を受賞し、日本では2000年に翻訳が発売された。根強い人気があり、朝日新聞の「2000年〜2010年に出版された本」の第1位に選ばれている。

著者のジャレド・ダイアモンド博士は生物学の学者で、この本の他には「人間はどこまでチンパンジーか」などといった竹内久美子さんが得意の路線でも本を出している。

人間はどこまでチンパンジーか?―人類進化の栄光と翳り人間はどこまでチンパンジーか?―人類進化の栄光と翳り
著者:ジャレド ダイアモンド
新曜社(1993-10-01)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る

浮気人類進化論―きびしい社会といいかげんな社会 (文春文庫)浮気人類進化論―きびしい社会といいかげんな社会 (文春文庫)
著者:竹内 久美子
文藝春秋(1998-11)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る

今回の研究を思い立ったきっかけは、研究のために長期滞在していたニューギニアで、マオリ人のヤリ(人名)から「欧米人は様々な物資を作り出して、ニューギニアに持ってきたが、ニューギニア人はそうした物資を作り出さなかった。その差はどこから生まれたのか」という質問だという。

たしかに新大陸民族が旧大陸民族や文化を滅ぼしたという例はない。それはなぜなのか。

一般的にはこの本のタイトルのように「銃・鉄」が旧大陸と新大陸の差を生み、旧大陸の「病原菌」が免疫のない新大陸民族を根絶やしにしたと言われているが、そもそもなぜそのような差がついて、新大陸の病原菌は旧大陸に蔓延しなかったのか。ヨーロッパ人が新大陸を征服したのは、人種や民族が優秀だったからではなく、「地理的要因」の差がこの差をもたらしたとダイアモンド博士は語る。


人類の誕生と拡散

人類は700万年前にアフリカで類人猿から枝別れして誕生し、400万年前に直立しはじめ、170万年前から直立歩行を始めている。そしてアフリカからユーラシア大陸各地、アメリカ大陸、オーストラリア、ニュージーランドに次の図のように拡散した。

人類の拡散





出典:本書上巻51ページ


農耕と家畜飼育が文明のカギ

各大陸に生きる住民は1万3千年前の最終氷河期が終わった頃までに発達の度合いは大差なく、すべて狩猟民族だった。8,500年前にメソポタミアで農耕が始まり、つづいて中国やインダスでも農耕と家畜の飼育が始まった。

ところがアメリカ大陸では農耕の始まりはこれから5〜6,000年遅れ、オーストラリアやニュージーランドのアボリジニは結局農耕を知らなかった。

飼育栽培化比較









出典:本書上巻143ページ

植物栽培と家畜飼育により自分で食物を生産できなければ、余剰食糧はできず、人口も増えない。コロンブス以前のアメリカ大陸の先住民人口は2,000万人と言われているのに対して、狩猟生活のオーストラリアのアボリジニは最大でも数十万人だったという。

農耕や家畜による大規模生産が階層化された社会の前提条件だ。食糧生産の余裕が出た社会は高度化して、文字を生み出し、職業軍人が生まれる。

小麦、大麦、米などの穀類の他、エンドウマメやレンズ豆の栽培も始まった。穀類とタンパク質の多いマメ類を組み合わせることで、必要な栄養素の揃ったバランスある食生活が可能となり、体格向上につながった。

ちょっと脱線するが、「主食をやめたら健康になる」という本が出ていることを、大学の先輩に教えて貰った。

主食をやめると健康になる ー 糖質制限食で体質が変わる!主食をやめると健康になる ー 糖質制限食で体質が変わる!
著者:江部 康二
ダイヤモンド社(2011-11-11)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る

著者の京都・高雄病院長・江部康二さんはブログで次のように書いている

「糖質制限食は「変わった食事」というイメージを持たれがちですが、実は人類本来の自然な食事です。人類が誕生したのが約700万年前で、農耕が始まるまでは狩猟・採集を生業とし、すべての人類が糖質制限食を実践していました。農耕開始後1万年間だけが、主食が穀物(糖質)へと変化しました。

すなわち穀物を主食としたのは、人類の歴史のなかでわずか700分の1の期間にすぎないのです。糖質制限食と高糖質食、どちらが人類にとって自然な食事なのかは言うまでもありません。糖質制限食はいわば人類の健康食なので、糖尿病や肥満・メタボに限らず、さまざまな生活習慣病が改善するのも当たり前といえば当たり前なのです。」


出典:ドクター江部の糖尿病徒然日記

本のあとがきに、「もう一つ忘れてはならないことがあります。それは農耕以前の人類においては飢餓は日常的な出来事であり、体脂肪はそれに対する唯一のセーフティーネットであったということです。」と書いてあるので、江部さんも十分分かった上で書いているのだろうが、原始人は健康なのではない、常に餓死と隣り合わせの栄養失調だったのだ。寿命も現代人に比べてはるかに短い。たとえメタボであっても現代人の寿命のほうが原始人に比べてはるかに長いのだ。

狩猟しか知らない原始人は毎日食うや食わずで、それゆえ人口が増えるどころではなかった。だから農耕を知らないオーストラリアのアボリジニは、最大でせいぜい数十万人しか生存できなかったのだ。

江部さんの本はメタボや糖尿病の患者を主に対象としているので、上記の部分も糖尿病の患者に主食なしのダイエットを続けさせるための意図的な説明なのだろうが、文字通り解釈して原始人の方が健康だったというような書評があるので、注意が必要だ。

閑話休題。


病原菌

旧大陸を起源とする天然痘、麻疹、インフルエンザ、チフス、ジフテリア、マラリアなどの病原菌がヨーロッパ人によって新大陸にもたらされ、推定で2,000万人いた先住民の95%が病死してしまった。

スペイン人のエルナン・デソトが遠征した16世紀前半にはミシシッピ河下流に多くのインディアンの大集落があったが、1600年頃までにほとんど先住民の大集落はなくなったという。

旧大陸からの病原菌が蔓延して、抗体のないアメリカ先住民を根絶やしにしてしまったのだ。

逆に新大陸から旧大陸にもたらされて蔓延した病原菌はない。梅毒が唯一の例外である可能性もあるが、梅毒の起源については依然として議論されている。

なぜ旧大陸の人間がこれらの病原菌に抵抗力があったかについては、家畜と一緒に生活し、家畜の伝染病に人間も罹ることにより免疫がつくられ、それゆえ抵抗力があったと推論している。

人類の進出は東西は早く、南北は時間がかかるというのも重要な論点だ。上記の「人類の拡散」の図にあるように、アメリカ大陸に人類が進出したのは1万2千年前、そしてオーストラリアに進出したのは4万年前だ。ユーラシア大陸全域には50万年前に進出していたことに比べて遅いことがわかる。

文明の伝播も南北は時間がかかる。たとえばユーラシア大陸ではフェニキア文字や中国の甲骨文字が周辺地域に広まっていったが、北アメリカのアステカでは文字を使っていたが、同時期に南アメリカにあるインカ帝国インカ帝国では文字はなかったというような例が挙げられている。

ちなみに筆者は30年ほど前に訪問したペルーのリマの天野博物館で、インカの特徴ある土器や縄文字を見た。インカには縄文字はあったものの、これは生産統計などを記録するためのものであり、複雑な内容を伝えることはできなかったという。

Quipu













出典:Wikipedia

その他、食料生産は文字の誕生の必要条件とか、マダガスカル島の先住民の言語はボルネオの先住民に近いなど参考になる情報が多い。

鋳鉄、磁針、火薬、製紙技術、印刷術で世界をリードしていた中国の文化の先端性が失われたのは、宮廷内の権力闘争の結果、明の皇帝の鶴の一声で外洋航海が禁止されたからだ。

中国では15世紀初頭には鄭和の南海遠征で船長120メートルもの大型船で外洋航海していて、アフリカまで到達していたが、その後は中国が他の地域に進出することはなかった。

トウモロコシが作付け面積当たりの収穫量は最も多い作物だが、トウモロコシはアメリカ大陸が起源で、野生種祖先はテオシントと呼ばれる雑草だと言われていることをこの本で知った。

テオシント






出典:筑波実験植物園ホームページ


700ページもの大作で、最初はややとっつきにくいが、読み始めると興味深く読める。大変参考になるダイアモンド博士の研究成果である。


参考になれば投票ボタンをクリックしてください。





  
Posted by yaori at 12:44Comments(0)TrackBack(0)

2012年06月13日

忘れられた日本人 明治から昭和初期の農村の生活

2012年6月12日追記

焼き肉料理店などでレバ刺しを出すことが7月から禁止されることになった。昨年の4月のユッケによる焼肉店チェーンでの死亡事故の影響と、厚生労働省(農林水産省にあらず)が検査したところ、200余りのサンプルで3件ほどO157が検出されたことが原因のようだ。

筆者は一度レバ刺しを食べたことはあるが、好きにはなれなかった。しかし焼肉店のメニューとしてはポピュラーなので、生の肝臓は滋養に良いと信じて食べる人も多いのだと思う。

この話を聞いて、不謹慎かもしれないが、「忘れられた日本人」で無法者が、重病を治す特効薬として子どもの生き肝を食べたという話が載っているのを思い出した。その地方では行方不明になった子どもが何十人もいたという。

ひどい話だが、それほど肝臓は薬としても効果があると民間信仰では思われていたということだと思う。

アマゾンの売れ行きランキングで、2位以下は変動があって、今は「遠野物語」が2位となっているが、依然としてこの本は文化人類学のベストセラー第1位を堅持している。まさに知る人ぞ知るベストセラーである。


2012年6月6日初掲:

忘れられた日本人 (岩波文庫)忘れられた日本人 (岩波文庫)
著者:宮本 常一
岩波書店(1984-05-16)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る

柳田国男とともに日本を代表する民俗学者・宮本常一さんの代表作。アマゾンで文化人類学のベストセラーを見るとこのブログでも紹介した「銃・病原菌・鉄」を抑えて、1位にランクされている。

文庫 銃・病原菌・鉄 (上) 1万3000年にわたる人類史の謎 (草思社文庫)文庫 銃・病原菌・鉄 (上) 1万3000年にわたる人類史の謎 (草思社文庫)
著者:ジャレド・ダイアモンド
草思社(2012-02-02)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る

たしか成毛眞さんの「実践!多読術」に紹介されていたのだと思うが、はっきり覚えていない。

実践! 多読術  本は「組み合わせ」で読みこなせ (角川oneテーマ21)実践! 多読術 本は「組み合わせ」で読みこなせ (角川oneテーマ21)
著者:成毛 眞
角川書店(角川グループパブリッシング)(2010-07-10)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る

著者の宮本常一さんは、戦前から日本各地をくまなく歩き、各地の古老に話を聞いて、膨大な作品を残している。

日本の民俗学の最高権威の柳田国男さんは貴族院書記官長までつとめたあと、初代の日本民俗学会長になった民俗学のエリートで創始者、宮本さんはもともと小学校教員出身で、フィールドワークを大切にした民間民俗学者というようなおおざっぱな区別ができる。

柳田さんは多くの中学校などの教科書に取り上げられている「遠野物語」をはじめとして民間伝承や民話の研究が中心だが、宮本さんは、この「忘れられた日本人」のような名もない人からの話から昔の日本人の姿を構成している。

遠野物語 (集英社文庫)遠野物語 (集英社文庫)
著者:柳田 国男
集英社(1991-12-13)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る

詳しく紹介すると読んだときに興ざめなので、簡単にだけ紹介しておく。この本では宮本さんが訪ねた日本各地のまさに「寒村」というべき僻地の村の古老の話から、明治時代から昭和にかけての日本の農村の生活風景が描かれている。

なかには橋の下の小屋で暮らす乞食老人から聞いた話などもあり、宮本さんのフットワークの軽さには脱帽する。

この本のなかには、エロチックな話もでてくる。農村の「夜這い」の話や、「太子の一夜ぼぼ」(南河内郡の明治初期まで続いた行事で、聖徳太子の祠のお祭りの日には、誰とでも一夜を共にしてよいという日)などが語られている。

その日に生まれた子供は父なし子でも大事に育てたものだという。昔の日本人(農民?)の性意識は開放的だったのだ。

老人から聞いた話なので、「夜這い」の自慢話や、いわゆる「お医者さんごっこ」的な遊びも紹介されている。

たぶん農村の楽しみといったら、こんなイベントとなるのだろう。そんな古老の話をありのまま紹介しているところが、正統派民俗学である柳田学派からは疎んぜられるということになったようだ。

文章は平易で、古老の話を再構成しているので、地域性あふれて読んでいて面白い。豆狸(まめだ)や天狗などの妖怪譚(ようかいたん)も興味深い。

300ページほどの本だが、すぐに読めるので、宮本常一民俗学の入門書としておすすめの本である。


参考になれば投票ボタンをクリックして頂きたい。



  
Posted by yaori at 00:02Comments(0)TrackBack(0)

2012年05月24日

地図と愉しむ東京歴史散歩 ブラタモリやクイズ番組のネタ

カラー版 地図と愉しむ東京歴史散歩カラー版 地図と愉しむ東京歴史散歩
著者:竹内 正浩
中央公論新社(2011-09-22)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る

先日、小田急の社員と小田急線のマニアがクイズで対決するという「ほこXたて」の番組があり、井の頭線は元々小田急線だったこと、戦前に私鉄連合での東京環状線構想があったことを知った。

またNHKの「ブラタモリ」で、荒川は実は大正時代から昭和初めに掛けて造られた巨大な放水路だったことを紹介していた。このようなネタを多く収録していてるのがこの本だ。

この本はなか見!検索に対応していないので、なんちゃってなか見!検索で、目次を紹介しておく。

1.石垣に刻まれた幻の水準点 
  町に残る標石
  近代的測量の誕生
  愛宕山で水準点を探す
  皇居東御苑に残る水準点

2.明治の五公園は今
  東京の公園/遊興地
  上野の山
  公園の誕生
  国家の祝祭空間
  大正・昭和初期の上野公園
  芝公園の盛衰
  深川公園と飛鳥山公園
  上野公園の今

3.市営霊園の誕生と発展
  寺院墓地から公営墓地へ
  多磨霊園の開設
  名誉霊域の三人(東郷平八郎、山本五十六、古賀峯一元帥)
  多磨霊園に文化人の墓を訪ねる

4.都内に残る水道道路の謎
  江戸の水道
  コレラと三多摩
  玉川上水と淀橋浄水場
  水道道路を散歩する
  村山貯水池と導水路
  山口貯水池と廃線
  水道施設と戦争
  各地の水道道路

5.生まれた川と消えた村
  利根川の東遷
  人工河川の誕生
  消えた学校
  両岸に残る傷跡を探して
  旧中川の閘門(こうもん)

6.幻の山手急行電鉄計画
  放射状線と環状線
  第二の山手線
  井の頭線の建設
  山手急行線の遺構
  幻の新線

7.軍都の面影を訪ねて
  二.二六事件と第一師団 ー 麻布・六本木
  近衛師団の遺構 ー 北の丸
  偕行社と水交社
  在郷軍人会と九段会館
  小石川砲兵工廠
  赤羽の陸軍施設群
  各地の練兵場
  駒沢練兵場を行く

8.未完の帝都復興道路
  大正通りと昭和通り
  挫折した復興都市計画
  マッカーサー道路と播磨坂
  モータリゼーションの洗礼
  首都高とオリンピック
  首都高の未成線・休止線を訪ねて

9.廃線分譲地と過去の輪郭
  地図に残った仕事
  主張する街路
  円周道路の謎
  廃線分譲地
  水域の記憶

カラー刷りで昔の写真や地図が多く掲載されており、読んでいて楽しい。印象に残った点をいくつか紹介しておく。

★愛宕山は江戸有数の高い場所だったが、標高はわずか26メートル。東日本大震災級の津波が来れば、東京23区は大半が水に浸かるということだ。

★多磨霊園の名誉霊域の三人は、東郷平八郎、山本五十六、古賀峯一元帥だ。古賀元帥は「海軍乙事件」で飛行艇がフィリピンに墜落して殉職した。海軍乙事件では不時着した飛行艇から日本のマリアナ沖作戦概要や暗号解読書がゲリラ経由米軍の手に渡り、日本軍の作戦が筒抜けになった事件である。

吉村昭が「海軍乙事件」という小説を書いている。
 
海軍乙事件 (文春文庫)海軍乙事件 (文春文庫)
著者:吉村 昭
文藝春秋(2007-06)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る

★当初三多摩地区(現在の東京都の西半分)は神奈川県に属していた。明治19年にコレラが流行し、青梅市で多摩川に汚物を流したという報告が流れ、宮内庁が過敏に反応して東京府と警視庁に厳重な取り締まりを指示したが、三多摩は神奈川県だったので、東京府と警視庁の権限は及ばなかった。このことが原因で、明治26年に三多摩が東京府へ編入されることになった。

★荒川放水路の大工事

次が荒川放水路建設工事がまだ始まっていない明治42年の東武線堀切駅の周辺地図だ。

scanner350












次が大正10年の同じ場所の地図。すでに鉄道の付け替えは完了し、川の開削も上流から順次行われている。

scanner351














ちなみに荒川放水路が建設された時に、住民の間では都心側の堤防の方が高いという噂が流れた。実際には堤防の高さは同じだったが、堤防の幅が都心側が15メートル、左岸は11メートルで、都心を守るという設計があったことは当たっていたといいう。

現在は国道16号の地下50メートルに建設された首都圏外郭放水路が首都圏の放水路を形成している。

東京山手急行電鉄計画は昭和3年に敷設免許が交付され、小田急が中心となって進めた壮大な新線建設計画だ。ルートは大井町を始発として、下北沢、中野、板橋、田端、北千住、平井を通って、洲崎(東陽町)に至り、洲崎から東京駅までは地下鉄が運行することになっていた。

次が全体図だ。

scanner337







出典:上記図はいずれも本書から

しかし用地買収が進まず、結局計画倒れとなった。

★井の頭線も昭和20年代に吉祥寺から田無を経て、東久留米まで延伸する計画があり、だから井の頭線の吉祥寺駅は高架なのだ。ところが西武線も同じような計画があり、結局ケンカ両成敗でどちらの延伸計画も頓挫したという。

上記の目次で紹介した通り、参考になるネタが満載だ。

タモリは「タモリのTOKYO坂道美学入門」という本を出している。

新訂版 タモリのTOKYO坂道美学入門新訂版 タモリのTOKYO坂道美学入門
講談社(2011-10-25)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る


昨年改訂されたばかりだが、こちらは坂道だけなので、名所・旧跡を訪ねるという意味では、「地図と愉しむ東京歴史散歩」の方をおすすめする。


参考になれば投票ボタンをクリックして頂きたい。



  
Posted by yaori at 12:35Comments(0)TrackBack(0)

2012年03月26日

皇軍兵士とインドネシア独立戦争 残留日本人の生涯

皇軍兵士とインドネシア独立戦争: ある残留日本人の生涯皇軍兵士とインドネシア独立戦争: ある残留日本人の生涯
著者:林 英一
吉川弘文館(2011-12-15)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る

図書館の新刊書コーナーに置いてあったので読んでみた。

以前このブログでも紹介した通り、筆者の亡父は昭和18年に徴兵され、当時としては珍しく運転免許を持っていたので、輸送部隊のトラック兵としてインドネシアに赴任し終戦を迎えた。

「ビルマ地獄、ジャワ天国」という言葉があるそうだが、亡父はほとんど戦闘を経験しなかったと言っていた。たしかオーストラリア軍?の戦闘機と日本軍の戦闘機の空中戦を目撃し、飛行機が河に落ちるのを見たと言っていた。

当時インドネシアはオランダの植民地だったが、オランダ本国はドイツに占領され、オランダ王室と政府はイギリスに逃れていた。

そんな状況なので、インドネシアにおけるオランダ軍も弱体化しており、太平洋戦争緒戦の落下傘部隊によるパレンバン占領以外は、日本軍とほとんど戦闘はしていない。



当時のオランダ軍と、イギリス、アメリカ、オーストラリアの援軍は現地人兵士も入れて10万人の兵力で、インドネシアに侵攻した今村均中将の第16軍の5万5千人に比べて、数的優位にはあったが、航空兵力に勝る日本軍がわずか10日間でジャワ島を占領した。

連合軍がインドネシアを戦略目標としなかった結果、インドネシアの日本軍は、日本からの輸送船がことごとく沈められて、増援物資は得られなかったものの、戦闘がなかったおかげで兵力を保ったまま終戦を迎えた。

亡父は戦争が終わってからも武装解除せず、むしろインドネシア人を怖がっているオランダ軍の警備をしていたと言っていた。

この本で取り上げられた残留日本兵の藤山秀雄さんも同じように戦争が終わって、オランダ軍の補助憲兵として1945年9月19日のジャカルタのムルデカ広場で行われたスカルノ大統領の独立集会を警備していたという。

藤山さんはYouTubeで公開されているニュース特集で登場するので、それをまずは紹介しておく。



この独立集会で、スカルノの独立宣言をインドネシアの民衆が熱狂的に支持し、独立を武力弾圧しようとするオランダとの間で4年間にわたって独立戦争が繰り広げられ、藤山さん他の約800名(数千人という説もある)の元日本兵が独立戦争に加わり、その半数が戦死したという。

藤山さんの場合は、インドネシアに来る前にビルマで英軍と戦ったことから、戦犯として訴追されるのではないかという危惧があった。日本は全滅したという流言から、日本に帰ってもしょうがないという気にもなり、部隊にあったチェコ製の軽機関銃と弾薬を持って、もう一人の同僚と脱走を決意した。

26



出典:以下、別記ない限りWikipedia

「日本兵は強い。日本兵がいれば戦闘に勝てる」という神話があったので、脱走日本兵は歓迎されたが、インドネシア独立軍はろくな武器もないので、アメリカ軍のシャーマン戦車などの兵器の補給を受けているオランダ軍とはまともな戦いにならなかった。

800px-Utah_Beach_2006-Sherman






藤山さんと一緒にインドネシア軍に参加した14名の元日本兵のうち、12名が戦死した。弾薬がないので、オランダ兵から盗んで戦う毎日だったという。藤山さんはビルマ戦線で負傷して、もともと足が不自由だったが、インドネシア独立戦争でも負傷し、びっこをひいて歩くようになった。

この本ではインドネシア独立戦争でのオランダ軍との戦闘の様子が藤山さんの回顧談として紹介されている。

4年間の独立戦争の後は、インドネシア人と結婚し、爆薬を使っての漁や、解体船事業など、様々な職業や事業を生きるために経験し、日本商社の現地雇員として働いたこともあった。

晩年はジャカルタの北のタンジュン・プリオクで自動車修理工場を経営し、孫に囲まれ、元日本兵の実業家として日本でも紹介されるようになった。

藤山さんたち元日本兵の多くは独立戦争の英雄として、亡くなった後はカリバタ英雄墓地に埋葬されている。

インドネシアを訪れた日本の首相は、2002年の小泉純一郎首相以来カリバタ英雄墓地に参拝し、日本とインドネシア友好の礎となった残留元日本兵の功績をたたえている。

藤山さんは残留日本兵としてインドネシア軍に参加して、何度も死にそうな思いをし、また独立戦争が終わっても、特に特技や技量がないので、奥さんと一緒に食うや食わずの生活を強いられていた時期もあったことが紹介されている。

前述のように残留日本兵の半分以上は戦死している。

亡父と藤山さんは、年は2歳しか違わない。

亡父がインドネシアに残るという決断をしていたら、どうなったのだろうと、ふと思う(もちろんそうなると筆者は生まれていないわけだが)。

YouTubeに短編映画のような元日本兵のインドネシア独立戦争への貢献を描いた作品が載っているので、最後にこれを紹介しておく。



この短編映画はいわば表の部分しか紹介していない。独立戦争後、いわば無国籍人としてその日を生きるのも大変だった元日本兵の裏の生活を、藤山さんという一人の残留日本兵を通して描いたのが、この本である。

興味深い本である。


参考になれば投票ボタンをクリックしてください。



  
Posted by yaori at 12:44Comments(0)TrackBack(0)

2012年01月29日

蒋介石が愛した日本 親日家・蒋介石を敵にした日本軍部の愚

蒋介石が愛した日本 (PHP新書)蒋介石が愛した日本 (PHP新書)
著者:関 榮次
PHP研究所(2011-03-16)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る

以前紹介した「チャーチルが愛した日本」に続く、元外交官作家関榮次さんのシリーズ第2弾。日本に留学、陸軍勤務を経験し、辛亥革命に参加するために中国に帰国後もたびたび日本の支持者を訪れ、日本に親愛の情を感じていた親日家の蒋介石像を見事に描いている。

実は大先輩の関さんには大変失礼をしてしまった。この本は出版当初の2011年3月にいただいていたが、あらすじを紹介するのが大変遅れてしまった。

一度読んだものの、蒋介石は大変毀誉褒貶が激しい政治家なので、蒋介石についてもっと本を読まなければ、きちんとしたあらすじは紹介できないと考えて、次のような本も読んだ。

蒋介石と日本 友と敵のはざまで (東アジア叢書)蒋介石と日本 友と敵のはざまで (東アジア叢書)
著者:黄 自進
武田ランダムハウスジャパン(2011-01-20)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る

蒋介石 (文春新書 (040))蒋介石 (文春新書 (040))
著者:保阪 正康
文藝春秋(1999-04)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る

(蒋介石に言及した部分はないが)台湾研究として:

街道をゆく (40) (朝日文芸文庫)街道をゆく (40) (朝日文芸文庫)
著者:司馬 遼太郎
朝日新聞社(1997-05)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る

蒋介石秘録〈1〉51nSS9BVXhL__SL500_AA300_悲劇の中国大陸 (1975年)
著者:サンケイ新聞社
サンケイ新聞社出版局(1975)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る

「蒋介石秘録」は日中国交回復以降、唯一台北に支局を置くサンケイ新聞社が総力を挙げてまとめた蒋介石の伝記で、全15巻の作品である。


「以徳報怨(いとくほうえん)」演説

蒋介石で最も有名なのは、終戦が決まった1945年8月14日に放送した日本に対しての「以徳報怨(いとくほうえん)」演説だろう。

満州や朝鮮から工場の設備など根こそぎ持ち帰った火事場泥棒のようなソ連のスターリンに対して、蒋介石の態度は実に立派で、関さんが書いているように多くの日本人は道義的にも敗れたことを痛感させられた。

最後のシナ派遣軍総司令官の岡村寧次大将は「この演説を当時ソ連のスターリンが『日露戦争の仇を討った』と声明したのに較べてみれば、まるで較べものにならない高邁寛容な思想といわねばなるまい。この思想、この大方針が、接収において降伏手続きにおいて、戦犯問題において、すべて中国側官民の日本人に対する態度の基礎になったのだと思う」と述べている。

蒋介石がこのような方針を打ち出したことから、日本人の中国からの帰国がスムーズにはかどり、結果として命を救われた日本人が多数いることは間違いない。満州で終戦を迎えた日本軍人が50万人以上もシベリア抑留されたことを考えると、大変な違いである。

蒋介石が日本の恩人の一人であることは間違いない。


蒋介石の経歴

蒋介石は浙江省の寧波の近くの渓口鎮で1887年に生まれた。蒋介石の生家は代々農家で、商才もあって塩の売買も行っていたが、蒋介石が8歳の時に祖父と父を相次いで亡くし、母親の手で育てられた。15歳の時に母がいうままに結婚したが、後日「早婚という悪い慣習に自分は苦しめられた」と書いているように、最初の結婚はうまくいかなかった。1910年に長男蒋経国が誕生し、1921年に母が亡くなると最初の妻と離婚している。

蒋介石は軍人を志し、満人の習慣である弁髪を切り落とし、日本留学をめざして、1906年に半年間日本を訪れたが、中国陸軍の推薦が得られず一旦帰国した。1908年に河北省の保定軍官学校の留学生として日本に留学し、3年間の予備的訓練の後、1910年12月に新潟県の高田野戦砲第19連隊に配属された。

1911年に中国本土で辛亥革命が始まると、孫文の仲間で同郷の先輩・陳基美の求めにより、高田連隊を抜けて帰国した。蒋介石は後日「新潟は第2の故郷のようである」、「日本の伝統精神を慕い、日本の民族性を愛している」と語っている。

1911年に帰国してからは上海を活動のベースとし、日本の頭山満などの支持者を頻繁に訪れ、孫文と行動をともにしていた。訪日の回数は10回を超えている。1916年にメンターの陳基美が暗殺されてからは、孫文のもとで蒋介石の責任は重くなった。

1923年に孫文はソ連と協定を結び、蒋介石は孫文代表団の団長としてソ連を訪問し、帰国後ソ連の軍事顧問を招いて広州に軍官学校を開設し、みずから校長として就任する。後に毛沢東と並ぶ中国共産党の二大指導者の周恩来は1917年から2年間の日本留学の後、フランスにも留学し、帰国後、第1次国共合作のため、軍官学校の副主任として蒋介石を助けている。蒋介石と周恩来は立場を超えて、双方が尊敬しあっていた仲だという。


国民党主席に就任

孫文は1925年に亡くなり、1926年に蒋介石が国民党主席となった。蒋介石は当時、二番目の妻・陳潔如と結婚していたが、浙江省の宋財閥を後ろ盾にする宋三姉妹の政治力・経済力、それと三姉妹の末妹・宋美齢の天性の能力、米国仕込みの教育と教養、美貌に魅せられ、陳潔如に別れを言い渡す。

陳潔如は翌1927年にアメリカに向け旅立ち、その後は蒋介石とは連絡は取りつつも、距離を置き、最後は周恩来の手配で香港に移住して亡くなっている。

1924年からの第1次国共合作で共産党と国民党は各地の軍閥に対して共同戦線を張り、北伐を続けてきた。

1927年3月に北伐軍が南京の各国の領事館を襲い、居留民を殺傷するという「南京事件」が起きたが、日本は幣原喜重郎が仲介して英米の武力行使をひっこめさせて、蒋介石に謝罪・弁償による解決をすすめて事件を解決した。幣原喜重郎は蒋介石による中国統一に期待していたのだ。

蒋介石が1927年4月から共産党を抑圧し、国共合作は瓦解した。しかし国民党内部の勢力争いで、蒋介石は国民革命軍主席を辞して、故郷に帰って下野してしまう。


日本の支持者を訪問

1927年10月に日本に行き、当時有馬温泉に滞在していた宋姉妹の母に宋美齢との結婚の許しを乞い、キリスト教に改宗することを条件に結婚を認められる。

この時には中国からの留学生が蒋介石を東京駅で青天白日旗を振って出迎え、蒋介石は帝国ホテルで「日本国民に告げる書」を発表し、日中両国は兄弟の国として「唇歯輔車」の関係にあり、目先の利益に惑わされて軍閥を利用して革命による中国の発展を妨げることなく、中国の革命運動を支援してくれるよう訴えた。

孫文が父と呼んだ頭山満と旧交を温め、88歳の渋沢栄一にもあって私淑している。関さんは懇談の内容を「竜門雑誌」から引用しており大変興味深い。渋沢栄一は若き指導者の蒋介石に日中の共存共栄を託そうと考え、支援を約束した。

しかしその後、田中義一首相と面談すると、田中首相はあきらかに中国革命軍が北伐後、中国統一を成し遂げることを好まず、蒋介石に対して誠意を見せなかった。蒋介石は中日合作の可能性はないと日記に記している。

日本には多くの支援者がいたにもかかわらず、この1927年の訪日が蒋介石の最後の訪日となった。

蒋介石は1か月半の訪日を終え、1927年11月に帰国してすぐに宋美齢と結婚した。新婚旅行は浙江省の行楽地莫干山(ばくかんざん)だったという。結婚後蒋介石はキリスト教に入信し、以後経験なクリスチャンとして信仰心を深めている。

結婚直後、蒋介石は国民革命軍総司令に再任され、70万人の大軍を擁して北伐にあたった。1928年6月の張作霖爆死事件で軍閥は総崩れとなって北伐は完了した。


日本軍部の暴走

張作霖爆死事件が息子の張学良に与えた影響は大きく、これがのちの西安事件につながる。張学良は自分の誕生日に張作霖が殺されたので、自分は誕生日を祝う気になれないとNHKのインタビュ−で語っている。

この間の1928年5月に日本が居留民保護のために出兵した済南事件が起こり、中国は屈辱的な賠償を払わさせられた。この事件は蒋介石の痛恨事となり、これ以降日本は蒋介石のあきらかな敵となった。

蒋介石は1928年10月に中国を統一した国民党政府主席に就任した。欧米政府は祝電を寄せたにもかかわらず、田中義一内閣の日本は南京総領事が口頭で祝辞を述べたにすぎなかったという。蒋介石はその時の日記に「日本の狭隘(きょうあい)なる嫉忌の心はこの通りだ。私はますます自強自奮しなければ」と書いている。

日本は関東軍が暴走を続け、1931年9月に奉天郊外の柳条湖で満鉄の鉄道を爆破して満州事変を起こし、日本政府の事態不拡大宣言を無視して関東軍は戦火を拡大した。翌1932年3月には清朝最後の皇帝の溥儀を擁立して傀儡政権の満州国を建国し、張学良は東北部からはじき出された。


西安事件

蒋介石は日本軍に対抗するには、まず国内の統一を保って軍備を整えるのが先決という「安内攘外」策を取り、張学良は共産軍の討伐にあたっていたが、蒋介石には共産軍と提携して日本の侵略に対抗すべきだと進言していた。しかし蒋介石が取り上げなかったので、張学良が蒋介石を監禁して、国共合作を承認させるという西安事件が1936年12月に起こった。

西安事件の首謀者である張学良みずからが語るNHKのインタビューは1991年のもので、張学良は西安事件そのものについては、「迷惑が掛る人がいる」として口を閉ざしているが、その他のことについてははっきり語っており、大変興味深い本だ。

張学良の昭和史最後の証言 (角川文庫)張学良の昭和史最後の証言 (角川文庫)
角川書店(1995-05)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る

関さんは西安事件で蒋介石が脱出しようとした驪山(りざん)の岩穴や監禁されていた部屋を訪れた写真をこの本で紹介していて興味深い。西安事件はスターリンにも伝えられ、蒋介石を殺すつもりでいた毛沢東に対して「連蒋抗日」策をとるように指示し、毛沢東は怒りのあまり真っ赤になったという。

宋美齢や彼女の兄の宋子文、顧問のオーストラリア人・ドナルドなどが蒋介石解放交渉にあたり、クリスマスの日に蒋介石は解放された。張学良はそれから軍法会議で有罪となったが、蒋介石の特赦で自宅監禁となり、1990年まで自宅軟禁されていた。上記のNHKのインタビューは自宅軟禁が解けた直後のものだ。


日中戦争拡大

1936年2月26日に日本で2.26事件が起こり、日本の内政は混乱し、1937年7月の盧溝橋事件を経て日本は中国の成長を理解できないままに日中戦争、太平洋戦争へと突き進んでいく。

1937年3月に林銑十郎内閣の佐藤尚武外務大臣は幣原外交の流れを汲んで、戦争を回避し、中国と平等の立場で国交を調整することを含む平和外交4原則を打ち出したが、林内閣は4か月の短命に終わった。その後の近衛内閣の広田弘毅外務大臣が、満州国黙認を打ち出したので、蒋介石との対立は決定的となった。

1937年7月7日に盧溝橋事件が勃発し、その10日後第2次国共合作が成立し、中国が抗日で統一された。近衛内閣は大規模な武力行使で国民政府を屈服させる方針を決定し、戦火は北京、天津、上海と拡大し、日中間の全面戦争に発展した。12月には南京入城後、大規模な虐殺暴行事件が発生し、全世界の非難を浴びた。

翌1938年1月に近衛首相は「爾後国民政府を対手(あいて)とせず」との声明を出し、中国との外交関係を断絶させた。蒋介石にとってこれは国際的にも前例のない「狂気の沙汰」に思え、近衛も後々後悔したという。

最近日中戦争と太平洋戦争を、”アジア・太平洋戦争”と呼びなおそうという動きが出ている。

一般的には太平洋戦争と呼ばれてきたので、なにかフィリピンとかビルマなどでの死者が多いような印象を受けるが、実は日中戦争で中国・満州で亡くなった兵士の数が最も多い。

以前靖国神社の遊就館を訪問した時に、軍神として祀られている戦死者は、中国戦線で亡くなった人が多いことに驚いた。日中戦争を拡大した当時の指導者・軍部の「狂気の沙汰」の犠牲になって、70万人もの人が戦死しているのだ。


蒋介石の日本国民への呼びかけ

盧溝橋事件から1年後の1938年7月7日に、蒋介石は「日本国民に告ぐるの書」を発表し、「中日両国はもともと兄弟の邦(くに)であって」で始まる文は、日本軍の毒ガス攻撃や人道にもとる残虐行為を非難しながらも、日本の軍部は中国と日本国民の公敵であり、日本国民に対して軍部の侵略政策を変更させ、「平和と秩序を恢復(かいふく)し、中日相互親睦を実現し、東亜永遠の平和を樹立するよう切望する」と呼びかけている。

ちなみに三笠宮殿下は「若杉参謀」という変名で、太平洋戦争中の1943年1月に中国に赴任し、1年後離任するときに「蒋介石が従来日本軍閥云々と宣伝しているのは、無理からぬことだと感じた」と後に語っている。


蒋介石の対日戦略

蒋介石の対日戦略は、1.広大な国土を利用して持久戦、消耗戦に持ち込むこと、2.国際世論を味方につけること、3.外国の支援を獲得し、夷(外国)を以て夷を制することだった。

妻の宋美齢の米国コネクション、蒋介石の抜群の情報収集力がこの戦略の実現を可能にした。前回のあらすじで紹介したゾルゲが入手したドイツが独ソ不可侵条約を破棄してソ連を攻撃するという情報も蒋介石は入手して、ルーズベルトに教えていたという。

蒋介石の対日戦略は日独伊三国同盟で、日本が米英と敵対することが明白となって確立し、1941年12月8日の真珠湾攻撃で完成した。

日中戦争中は米国が義勇軍ということでフライング・タイガースなどの軍事援助を行い、蒋介石に大量の武器を供与した。

1280px-American_P-40_fighter_planes







出典:Wikipedia

中国滞在経験が10年で中国語に堪能なスティルウェル将軍が派遣され、ルーズベルトはスティルウェルに全中国軍の指揮権を与えるように蒋介石に指示したが、蒋介石は反発し、スティルウェルは召喚された。

談笑する蒋介石・宋美齢夫妻とスティルウェル将軍

Chiang_Kai_Shek_and_wife_with_Lieutenant_General_Stilwell







出典:Wikipedia

この辺はバーバラ・タックマンの「失敗したアメリカの中国政策」が取り上げている。

失敗したアメリカの中国政策―ビルマ戦線のスティルウェル将軍失敗したアメリカの中国政策―ビルマ戦線のスティルウェル将軍
著者:バーバラ・W. タックマン
朝日新聞社(1996-02)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る


戦後処理での蒋介石の役割

第2次世界大戦の大勢は決し、蒋介石は1943年11月のカイロ会議に参加する。

カイロ会議ではチャーチルは蒋介石と宋美齢に好感を持ち、「スターリンは人のへそを見て話すが、蒋介石はまっすぐに自分の目を見て話す」と印象を記している。

もともと米英中ソ4か国会議を予定していたが、スターリンの反対でまずカイロで米英中3カ国会議が行われ、その後テヘランで米英ソ3カ国会議が開かれるという変則開催となった。スターリンはその後のヤルタ会談でルーズベルトから対日参戦の代償をしっかり取り付けて、戦後の中国の役割は無視された結果となった。

宋美齢は1943年に訪米し、上下両院で演説し、抗日戦での中国への支援を訴え、米国民の同情を得た。


「以徳報怨」演説と戦後処理

蒋介石は終戦が決まった1945年8月14日にラジオで「抗戦勝利にあたり全国軍民および全世界の人々に告げる演説」として有名な「以徳報怨」を放送した。

中国政府は日本軍将兵を俘虜と呼ばず、「徒手官兵」と呼んで、日本軍105万人、居留民80万人の早期送還を実現した。しかし北支方面では共産軍が武器引き渡しを要求し、共産軍の攻撃により戦後7,000名もの兵士が戦死した。国民党と共産党の争いがもう始まっていたのだ。

蒋介石はA級戦犯リストを48名から12名に削り、近衛文麿も軍部の操り人形として戦犯リストから外した。日本占領軍に中国が派兵しないのでソ連も派兵の機会を失う結果となった。

中国は対日賠償請求も放棄し、日本の経済復興を助けた。フィリピンのキリノ大統領にも働きかけ、対日賠償請求を80億ドルから5億5千万ドルに減額させた。


台湾に退去

アメリカの仲介で、終戦直後から蒋介石と毛沢東は国共共同政府樹立のため会談を重ねたが合意に至らず、トルーマンが中国への余剰武器輸出を禁止する一方、ソ連は満州の日本軍の武器を共産軍に引き渡したため、次第に国民党軍は劣勢となった。

1948年末には中共軍は満州、華北を制圧し、蒋介石は1949年1月に国民政府総統を辞任し、4月に台湾に移った。

台湾では1947年2月28日に規律ある日本の統治に慣れていた本省人(台湾人)の騒擾を国民党軍が武力弾圧し、3万人近い犠牲者を出す惨事となった。これが2.28事件である。

台湾行政長官の陳儀は蒋介石と同郷で日本の陸軍大学まで卒業した知日家だったが、共産側への寝返りを計画して捕えられ、2.28事件の責任も問われて1950年に公開銃殺された。


台湾の孤立化

1950年1月に英国の労働党アトリー政権が自由圏の大国としては最初に中共政府を承認した。その直後の1950年6月に北朝鮮の侵攻で朝鮮戦争が始まった。蒋介石も軍隊の派遣を申し出たが、トルーマンは蒋介石の派兵提案を拒否し、大陸侵攻をあきらめることも約束させられた。

朝鮮戦争については、ディヴィッド・ハルバースタムの「ザ・コールデスト・ウォー」のあらすじを紹介しているので、参照願いたい。スターリンという虎の威を借りたキツネとしての金日成の姿が良く分かる。

ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争 上ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争 上
著者:ディヴィッド・ハルバースタム
文藝春秋(2009-10-14)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る

トルーマン政権の後のアイゼンハワー政権は台湾積極支援に転換し、1958年の金門・馬祖島の砲撃戦を軍事援助した。


旧日本軍人の軍事顧問団

蒋介石は1949年に終戦時のシナ派遣軍総司令官だった岡村寧次元大将に協力を求め、富田直亮元陸軍少将を団長とする17名の旧日本軍人の軍事顧問団がひそかに台湾にわたって国府軍の訓練を指導した。

蒋介石の後を継いだ蒋経国は、後任総統に李登輝を起用した。国民党政権下で台湾は経済発展を遂げ、世界でも有数の外貨準備高を誇る国となった。

日本との関係は1972年の田中角栄首相の日中国交回復から正式な外交関係はなくなったが、台湾は世界で最も親日国であり、東日本大震災の時も最も多額の民間義捐金を集め日本の復興を支援している。

蒋介石は1960年代から健康が悪化し、数度の心筋梗塞を経て、1975年87歳で亡くなった。

関さんは最近の周辺国との領土問題における居丈高な中国政府の姿勢を見るとき、西安事件以降、中国との関係調整に失敗し、中国共産党の大陸制覇に結果的に力を貸した日本の軍閥と為政者の愚を思うことしきりだと書いている。

「蒋介石の挫折に加担しなかったら、日中関係ははるかに友好的で円滑なものとなり、あるいは欧州共同体に匹敵するようなものがアジアに実現していたかもしれない」と結んでいる。

歴史にIFはないが、蒋介石という親日的指導者が中国を統一していれば、戦後の世界情勢は全く違ったものになっただろう。

筆者は1983年に湖南省の毛沢東の生家を訪問したことがある。今度は淅江省や台湾の蒋介石ゆかりの場所を訪問してみようと思う。

他の本も読みこんで、このあらすじを書いたが、関さんの表現は中立的であり、偏った点は見られない。一冊で蒋介石と20世紀前半の日中関係をコンパクトにまとめた良書である。


参考になれば投票ボタンをクリック願いたい。






  
Posted by yaori at 00:53Comments(0)TrackBack(0)

2012年01月23日

国際スパイ・ゾルゲの真実 NHKが制作したドキュメンタリー

先日紹介した映画「スパイ・ゾルゲ」を見たので、それの原作となったNHKがつくったゾルゲに関するドキュメンタリーを読んだ。



スパイ・ゾルゲ [DVD]スパイ・ゾルゲ [DVD]
出演:イアン・グレン
東宝(2003-11-21)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る

国際スパイ ゾルゲの真実 (角川文庫)
角川書店(1995-05)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る

アマゾンだと表紙の写真が紹介されていないので、表紙写真を紹介しておく。

ゾルゲ表紙












この本はもともと1991年に放送されたドキュメンタリー番組の取材を基にしている。

NHKBS2で再放送された時の映像がYouTubeで10編にわたって紹介されている。最初はこんな出だしだ。



YouTubeで視聴したが、全10編、約1時間半もドキュメンタリーを見るのはよほど興味がある人に限られると思うので、最後の10/10の法政大学教授の下斗米伸夫教授の解説を紹介しておく。



20年も前の作品だが、広範囲にわたる取材と資料の深掘りは、さすがNHKと思わせるできばえだ。


ソ連の機密情報公開がきっかけ

このドキュメンタリーが生まれたのは、1991年にソ連が崩壊して旧ソ連時代の機密資料約3,000万点が、1992年3月から公開されたからだ。国家的な重要決定に関する文書は除かれているが、それでも公開された文書の中にはゾルゲが日本から無線で送った電報の原本も含まれており、電報が誰に配布されたのかも記載されている。スターリンもゾルゲの電報を読んでいたことがわかる。

1991−2年の取材なので、ゾルゲを尋問した特高の警部、ドイツ大使館員、ソビエトの赤軍諜報部員、ゾルゲの日本人妻、スターリンの通訳などが存命で、関係者に直接事情を聴けたことが、このドキュメンタリーの質と情報量を圧倒的なものにしている。


ゾルゲの経歴

ゾルゲは1895年生まれ。ドイツ人の父とロシア人の母の間で、石油掘削技師だった父が勤務していた現アザルバイジャンの油田で有名なバクーで生まれた。その後一家はドイツに移住して、ゾルゲもドイツで教育を受ける。

ゾルゲは第1次世界大戦でドイツ陸軍に志願して従軍、3度負傷する。その時の傷で足はずっと不自由だったという。戦争の悲惨さを体験し、世界平和を実現するためにドイツ共産党に入党し、のちにソビエト共産党員となる。

第一次世界大戦の悲惨さは映画「西部戦線異状なし」を見てほしい。



コミンテルン(国際共産党)に勤務し、上司の赤軍第4部ベルジン大将から命を受けて諜報部員となり1930年に上海に行き、作家アグネス・スメドレーの紹介で大阪朝日新聞の上海特派員の尾崎秀実と知り合う。

スメドレーは中国共産党のシンパとして中国共産党の宣伝本を多く書いている。エドガー・スノウの「中国の赤い星」と並んで、彼女の作品はたぶんに宣伝本という要素はあるが、初期の中国共産党の活動がわかる貴重な資料だ。

中国の赤い星 (1964年) (筑摩叢書)中国の赤い星 (1964年) (筑摩叢書)
著者:エドガー・スノウ
筑摩書房(1964)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る

偉大なる道 下―朱徳の生涯とその時代 (岩波文庫 青 429-2)偉大なる道 下―朱徳の生涯とその時代 (岩波文庫 青 429-2)
著者:アグネス・スメドレー
岩波書店(1988-05)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る


ゾルゲの諜報活動

ゾルゲの情報源だった尾崎秀実は共産主義革命に心酔しており、共産主義革命でアジアを解放するという理想を持っていた。上海勤務後日本に帰国して満鉄調査部や内閣嘱託で近衛文麿のブレーンが集まる「朝飯会」のメンバーになって、日本政府の内部情報をゾルゲに提供した。

他にもアメリカ帰りで、軍人の肖像画を描いて情報を収集していた画家の宮城与徳などがゾルゲの情報ソースだった。

ゾルゲは1933年から日本に住み、ドイツのフランクフルターの寄稿者として働き、駐日ドイツ大使のオイゲン・オットの親しい友人としてドイツ大使館に部屋を持っていたほどだった。

ゾルゲがどうやって情報を収集したかなどの事情はドキュメンタリーに詳しく紹介されており、ゾルゲの「獄中記」にも書かれている。

ゾルゲ事件獄中記 (1975年)
著者:川合 貞吉
新人物往来社(1975)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る


バツグンのゾルゲの分析力

この本ではゾルゲの日本発の情勢分析レポートのいくつかを紹介している。

たとえばノモンンハン事件(1939年5〜8月)が起こる前に、日本は中国と戦争をしているので、南方に展開してイギリスと戦争することはあっても、ソ連までも加えた両面戦争はできないと分析し、しかし関東軍が独立性を高めているので、大規模な軍事衝突の可能性はいつでもあると正確な分析をソ連に提供している。

ゾルゲが日本の国力の限界を正確に把握していることには驚く。


ドイツのソ連攻撃も事前察知

独ソ不可侵条約をヒットラーが結んだ9日後の1939年9月1日に、ポーランドに攻め込み第2次世界大戦がはじまった。

スターリンはじめソ連首脳はヒットラーが両面作戦の愚を犯さないとタカをくくっていたが、ゾルゲはドイツの「バルバロッサ作戦」をつかんで、1940年末からモスクワに注意を喚起していた。しかし、その情報を信じないソ連首脳部にゾルゲのトップスクープは無視された。

このあたりの理由はこの本では紹介されていないが、ゾルゲ事件を詳しく取り上げた元GHQ戦史室長のゴードン・プランゲ博士の三部作の一つ「ゾルゲ・東京を狙え」によると、無線係が手を抜いてゾルゲの原稿を勝手に割愛していたので、モスクワにドイツ軍の集結状況などの情報が正確に伝わっていなかったことを紹介している。

ゾルゲ・東京を狙え〈上〉ゾルゲ・東京を狙え〈上〉
著者:ゴードン・W. プランゲ
原書房(2005-04)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る

この本ではドイツのフライブルクの連邦軍事資料館に保存されている1940年12月18日付け「バルバロッサ作戦」の命令書現物を紹介している。さすがNHKと思わせる広範な取材と、フットワークの軽さである。

ドイツがソ連に攻め込む1941年6月22日の前にも、5月ころからゾルゲはドイツが対ソビエト攻撃に130個師団を準備しているという情報をタイに赴任途中の友人のドイツ駐在武官から入手して、さかんにモスクワに無線で連絡するが、ゾルゲの報告を信じないモスクワではゾルゲの忠告は無視された。

ゾルゲはドイツ人の血を引いていたので、スターリンはゾルゲを二重スパイではないかという疑惑を持っていたことも理由の一つとして挙げられている。


スターリンは日本の対ソ参戦を懸念

その後ゾルゲの情報が正確であったことを知ったモスクワは、今度は独ソ戦開戦により今度は日本がソ連を攻撃しないかどうかが最大の関心事となった。

関東軍は1941年7月に85万人を動員する大規模な演習(関特演)を行ったが、当時ソ連は独ソ戦に兵力の大半を注入し、極東の軍備は手薄だった。

この点に関するゾルゲの「問題外」という報告がモスクワを安心させ、ソ連は20個師団を西に移動して独ソ戦に投入することができ、独ソ戦に勝利することができた。


ゾルゲ逮捕

ゾルゲ一味逮捕のきっかけは、日本共産党の伊藤律が逮捕され、アメリカ共産党員だった北林ともの名前を自白、そのルートからやはりアメリカ共産党員だった宮城与徳が逮捕された。

宮城与徳は取調室の窓から飛び降り自殺を図ったが失敗し、それから宮城はスパイ活動の一切を自白し、ゾルゲ・尾崎の一味が芋づる式に逮捕されたのだ。


ゾルゲの予言

ゾルゲは死刑判決を受けるとは思っておらず、取調官に「いま戦争に勝った、勝ったといっているけど、英米は強い。いずれ日本は困難な状況になる。そうなると日本は講和しなければならないが、講和条約を橋渡しするのはソ連以外にない。だからその時は俺は日本のために働く」と言っていたという。

これはまさに「夢顔さんによろしく」で紹介した近衛文隆が、ゾルゲが処刑されたことを知らずに、てっきりソ連に生還したと思ってゾルゲにシベリア抑留からの解放を期待していたストーリーとつながる。

夢顔さんによろしく (上) 最後の貴公子・近衛文隆の生涯 (夢顔さんによろしく) (集英社文庫)夢顔さんによろしく (上) 最後の貴公子・近衛文隆の生涯 (夢顔さんによろしく) (集英社文庫)
著者:西木 正明
集英社(2009-12-16)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る


日本政府はソ連にゾルゲを送還することを提案したが、スターリンは無視した。ゾルゲと尾崎は1943年に死刑判決を受け、1944年に死刑が執行されている。

スターリン死後10年たち、フルシチョフ時代にゾルゲは国家英雄として復活した。フルシチョフがフランスでつくられたゾルゲを主人公とした娯楽映画を見て、これこそ祖国の英雄であるとゾルゲに対する再調査を命じたからだという。

NHKの上記のYouTubeの10/10のビデオでは、モスクワの赤軍博物館にゾルゲの功績がたたえられていることが紹介されている。

モスクワにはゾルゲ通りもあるそうで、そこにはコートを着て壁を突き抜けて出てきたようなゾルゲ像が飾られている。

ゾルゲ像





出典:本書256ページ


さすがNHKと思わせる、よくまとまった一見の価値があるドキュメンタリーである。参考になった上に、大変面白かった。

YouTubeの映像をパソコンで見るのは疲れるので、筆者はパソコンをテレビにHDMIケーブルでつなぎ、テレビで見た。まずはYouTubeの映像を見て、興味がわけば、図書館で借りるか、アマゾンで中古品を買って読んでみることをおすすめする。


1990−1995年ころNHKでは第2次世界大戦について多くのドキュメンタリー番組を制作しており、本にもなっている。このシリーズの「張学良の昭和史最後の証言」も大変参考になったので、いずれ紹介する。

張学良の昭和史最後の証言 (角川文庫)張学良の昭和史最後の証言 (角川文庫)
角川書店(1995-05)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る


参考になれば投票ボタンをクリック願いたい。





  
Posted by yaori at 13:04Comments(0)TrackBack(0)

2011年12月05日

映画・スパイ・ゾルゲ 3時間の歴史大作を見た



スパイ・ゾルゲ [DVD]スパイ・ゾルゲ [DVD]
出演:イアン・グレン
東宝(2003-11-21)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る

図書館で借りて映画「スパイ・ゾルゲ」を見た。

日本にドイツの新聞社の特派員として駐在しているふりをして、実はソ連のスパイとして日独の情報をスターリンに送っていたリヒャルト・ゾルゲの名前はこのブログでは、近衛文隆の人生について描いた「夢顔さんによろしく」、「プリンス近衛殺人事件」で紹介した。

夢顔さんによろしく 上―最後の貴公子・近衛文隆の生涯   文春文庫 に 9-3夢顔さんによろしく 上―最後の貴公子・近衛文隆の生涯 文春文庫 に 9-3
著者:西木 正明
文藝春秋(2002-10)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る


プリンス近衛殺人事件プリンス近衛殺人事件
著者:V.A. アルハンゲリスキー
新潮社(2000-12)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る


近衛文隆はシベリア抑留中に出した妻の正子さん宛のレターの最後に、「夢顔さんによろしく」と何回か書き送っていた。

この「夢顔」さんとは誰のことか、当時は本人の正子さんにもわからなかったようだ。「夢顔さんによろしく」のあらすじでは、謎を明かさなかったが、実はこの「夢顔」さんがゾルゲのことである。

文隆は1941年にゾルゲが内通者の朝日新聞社員・尾崎秀実(ほつみ)とともにソ連のスパイとして逮捕されたことを知っていた。これがゾルゲ事件である。

ゾルゲと尾崎が1944年に処刑されたことは公にされていなかったので、文隆はゾルゲが戦後ソ連のヒーローとして復活したと思っていた。

それで妻の正子宛に、シベリアに抑留されている文隆開放の為にゾルゲの助けを借りることを暗号文で示唆したのだ。

もちろんゾルゲは日本で1944年に処刑されているので、文隆の願いは届かなかったが、旧東ドイツではゾルゲの切手が発行されているほどで、共産主義のヒーローとして戦後復権している。

Stamp_Richard_Sorge





出典:Wikipedia

またWikipediaによると、ロシアの駐日大使が着任するとゾルゲの墓参りに行くそうなので、現在でもゾルゲはロシアのヒーローと見なされているようだ。

映画のあらすじは例によって詳しくは紹介しない。

全編3時間という長編大作で、映画館で上映された時は、途中で休憩が入ったそうだが、この映画を見ると当時の時代背景や風俗がよくわかって大変参考になる。

映画のストーリーとしてはラブストーリーも織り交ぜた歴史物と言っておこう。昭和の歴史に興味のある人は、一見の価値がある映画である。


参考になれば投票ボタンをクリックしてください。






  
Posted by yaori at 13:00Comments(1)TrackBack(0)

2011年11月17日

知識ゼロからの大江戸入門 時代劇を読む際の副読書

知識ゼロからの大江戸入門知識ゼロからの大江戸入門
幻冬舎(2009-04)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る

このブログの「一日二冊本を読む方法」で紹介した池波正太郎の「剣客商売」や「鬼平」シリーズを読む時の副読本。

池波正太郎の時代劇作品は「夜四つ」とか「朝四つ」とか当時の時間表現なので、その時刻が果たして何時なのか知っていないと、筋がわからない。

場所は大体分かるが、そもそも「江戸」と呼ばれるのは、次の古地図(オランダ語?)でもわかるとおり、今の東京23区より相当狭い場所に限定されていた。こんな狭い地域に100万人が住んでいて、当時は世界最大の都市だった。

Karte_Tokia_MKL1888








出典:Wikipedia


そこで手軽な副読書としてこの本を読んでみた。

この「知識ゼロからの〜」シリーズは幻冬舎が出しており、イラストや漫画で説明してあってわかりやすい。

江戸時代関連では浮世絵幕末編もある。

知識ゼロからの浮世絵入門知識ゼロからの浮世絵入門
著者:稲垣 進一
幻冬舎(2011-08-04)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る


知識ゼロからの幕末維新入門知識ゼロからの幕末維新入門
著者:木村 幸比古
幻冬舎(2008-12)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る

時刻の対比表は次の通りだ:

0時   暁9つ   ネの刻
2時   暁8つ   丑の刻
4時   暁7つ   寅の刻
6時   明け6つ  卯の刻
8時   朝5つ   辰の刻
10時  朝4つ   巳の刻
12時  昼9つ   午の刻
14時  昼8つ   未の刻
16時  昼7つ   申の刻
18時  暮れ6つ  酉の刻
20時  夜5つ   戌の刻
22時  夜4つ   亥の刻

しかも日照時間により夜と昼の長さが違うと、1刻の長さも変化するので、昼の1刻は夏至の時は2時間30分くらいで、冬至の頃は1時間40分くらいだったという。

そして1刻のなかも4等分しており、「草木も眠る丑三つ時」とは丑の刻つまり1時から3時までで、それを4等分した3/4なので、2時30分頃になる。

その他江戸時代の風俗や、住居、食事、男女出会いのスポットは浅草寺仁王門前とか雑多な知識が得られる。

鬼平犯科帳」の鬼平こと長谷川平蔵は実在した人物で、1787年に43歳で「火付盗賊改」に就任して活躍している。
  
ちなみにこの本のネタ本は次の本であることが冒頭に書いてある。600ページ弱で、15,000円もする事典なので、図書館で借りて読んでみる。

絵でよむ江戸のくらし風俗大事典絵でよむ江戸のくらし風俗大事典
柏書房(2004-09)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る


簡単に読めるので、池波正太郎の作品などの時代劇を読むとき、基礎知識を得るのに役立つ本である。


参考になれば投票ボタンをクリックして頂きたい。





  
Posted by yaori at 00:28Comments(0)TrackBack(0)

2011年05月25日

日韓がタブーにする半島の歴史 新羅(しらぎ)の基礎は倭人がつくった?

日韓がタブーにする半島の歴史 (新潮新書)日韓がタブーにする半島の歴史 (新潮新書)
著者:室谷 克実
新潮社(2010-04)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る

エキセントリックなタイトルなので読んでみた。元時事通信ソウル特派員の室谷克美さんの本だ。

室谷さんは、「韓国人の経済学」や「朝鮮半島」などの著作がある。

最初に韓国の金泳三大統領が1994年に来日した時の、天皇のお言葉を紹介している。

「貴国は我が国に最も近い隣国であり、人々の交流は、史書に明らかにされる以前のはるかな昔から行われておりました。そして、貴国の人々から様々な文物が我が国に伝えられ、私共の祖先は貴国の人々から多くのことを学びました」

室谷さんは、天皇のお言葉に代表される、半島経由で中国文化を学んだという「常識」にあえて異議を唱えるという。

「半島に初めて統一国家を築いた新羅の国づくりを指導したのは、倭人であり、新羅も百済も倭国のことを文化大国として尊敬していた」という。

その出典は韓国最古の正規歴史の「三国史記」(1145年完成。全50巻)に次のような記述があるからだという。

「列島から流れてきた脱解(タレ)という名の賢人が長い間、新羅の国を実質的に取り仕切り、彼が四代目の王位につくと、倭人を大輔(テーポ、総理大臣)に任命。その後脱解の子孫からは7人が新羅の王位につき、一方で倭国と戦いながら、新羅の基礎をつくった」

7世紀の中国の「隋書」にも新羅、百済が倭国を大国とみていたという記述があるという。

この本はアマゾンのなか見!検索に対応しているので、ここをクリックして目次を見てほしい。章題だけ紹介しておく。

序章  陛下の「お言葉」ではありますが

第1章 新羅の基礎は倭種が造った

第2章 倭国と新羅は地続きだった

第3章 国民に知らせたくない歴史がある

第4章 卑怯者を祀る(まつる)OINK(Only in Korea)

第5章 「類似神話」論が秘める大虚構

第6章 「倭王の出自は半島」と思っている方々へ

終章  皇国史観排除で歪められたもの

もともとは2倍くらいの分量があったものを、新潮社のアドバイスでコンパクトにしたものがこの本だという。

室谷さんは時事通信のソウル特派員から帰国した直後に初めての本、「『韓国人』の経済学」という本を書き、当時急成長を続けていた韓国経済の弱点を指摘したという。

1.韓国人は儒教に染まりきっているので「額に汗して働くこと」を蔑視しているから、まともな工業製品はできない。

2.その国の経済は統計数値をごまかしているので表面はピカピカだが、実は「外華内貧」だ。

新版 「韓国人」の経済学―これが「外華内貧」経済の内幕だ
著者:室谷 克実
販売元:ダイヤモンド社
(1989-01)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る


「倭王(あるいは天皇)は半島から来た」と漠然と思っている人は特にインテリに多い。その根拠は江上波夫の「騎馬民族国家論」だろうと室谷さんは語る。

騎馬民族国家―日本古代史へのアプローチ (中公新書)騎馬民族国家―日本古代史へのアプローチ (中公新書)
著者:江上 波夫
販売元:中央公論社
(1991-11)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る

2009年12月に韓国を訪問した当時の小沢一郎民主党幹事長は国民大学での講演で、江上説を敷衍して「天皇家の出自は朝鮮半島南部、いまの韓国」として、観衆を沸かせた。この時の映像がYouTubeにアップされている。



中国の正史も韓国の正史も倭王の出自について何も書いていない。それは書いていないのではなく、当然のことながら純粋倭人だからだと室谷さんは語る。

そもそも倭人は九州北部を中心とする列島だけではなく、半島南部にもいた。だから半島南部で発掘された遺骨と、九州北部の弥生人の骨格などがきわめて似ているという。


筆者の意見
これはあらすじブログなので、筆者の意見はあまり出さないようにしているが、この本については違和感を覚えるので、次に筆者の意見を書く。

上記で紹介した小沢一郎の発言をキャプチャー付きでYouTubeにアップした人も室谷さんも、日本人の大半(そして天皇家も)が半島が出自だというのは受け入れがたい説なのかもしれない。

そういう人にはこのブログでも紹介したIBMのジェノグラフィック・プロジェクトを紹介しておく。



YouTubeの映像は英語版のみだが、IBMのサイトの映像は小さい画面だが日本語キャプチャー付なので日本語字幕付きはIBMのサイトの映像を見てほしい。

要は筆者の言いたいのは、ジェノグラフィックプロジェクトで6万年まえにさかのぼれば「世界人類みな兄弟」が、標語ではなく事実だということがわかってきているのに、たかだか2千年前の日本人、そして天皇家の祖先が朝鮮半島から来たとか、いや元々日本列島だとか議論することが意味があるのかという点だ。

みんな元々6万年以上前にアフリカから各地に移り住み、その地に定着して環境に適応した。日本人も韓国人も、黒人も白人も出自はアフリカで同じである。

特に東日本大震災以来、世界各国が日本をいろいろな形で支援してくれているのに、祖先が半島から来た・来ないという2千年以上前のことに、いつまでこだわるつもりなのだろう。

その意味で、この本には強い違和感を持った。
  
筆者は駐在した国や都市(米国とアルゼンチン)には、良い点も悪い点もあるが、強い愛着を感じている。しかし中には駐在した国を徹底的に嫌いになる人もいる。この本の著者の室谷さんも嫌韓派のようだ。

しかしある国のことや歴史を紹介するなら、プラスの事実もマイナスの事実も両方紹介したうえで、極力客観的に評価を下すべきではないのかと思う。

室谷さんの本は、見方がワンサイドな点が残念である。

せっかくいろいろ資料を読み込んでいるので、室谷さんの説に反するたとえば江上教授の騎馬民族起源説などの資料も比較して紹介すればより良かったのではないかと思う。


参考になれば投票ボタンをクリックして頂きたい。



  
Posted by yaori at 12:56Comments(1)TrackBack(0)

2011年05月20日

日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか 元皇族家 竹田恒泰さんの近著

日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか (PHP新書)日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか (PHP新書)
著者:竹田 恒泰
PHP研究所(2010-12)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る

旧皇族家出身で、作家として活動する竹田恒泰さんの近著。

竹田さんは慶應大学法学部の講師として「天皇と憲法」を担当しているという。

誤解しやすい点だが、旧皇族は昭和22年に廃止されているので、昭和50年生まれの竹田さんが皇族であったことは一度もない。

しかし血筋が良いのは勿論間違いなく、おじいさんの旧竹田宮王はスポーツの宮様として有名だ。竹田さんのお父さんの竹田恒和さんも旧皇族ではないが、ミュンヘン・モントリオールオリンピックの日本代表で、現在JOC会長を務めている。

竹田宮の旧邸は現在の高輪プリンスホテルだ。

このブログでは竹田さんの「語られなかった皇族たちの真実」と「旧皇族が語る天皇の日本史」を紹介しているので参照願いたい。

語られなかった皇族たちの真実 若き末裔が初めて明かす「皇室が2000年続いた理由」 (小学館文庫)語られなかった皇族たちの真実 若き末裔が初めて明かす「皇室が2000年続いた理由」 (小学館文庫)
著者:竹田 恒泰
小学館(2011-02-04)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る

以前の本が参考になったので、30万部売れているというこの本も読んでみた。

簡単な目次なので次に引用しておくが、なか見!検索に対応しているのでここをクリックして目次などを見て欲しい。

序章 世界でいちばん人気がある国「日本」

第1章 頂きます ー 「ミシュランガイド」が東京を絶賛する理由

第2章 匠(たくみ) ー 世界が愛する日本のモノづくり

第3章 勿体ない(もったいない) ー  日本語には原始日本から継承されてきた”和の心”が宿る

第4章 和み(なごみ) ー 実はすごい日本の一流外交

第5章 八百万(やおよろず) ー 大自然と調和する日本人

第6章 天皇(すめらぎ) ー なぜ京都御所にはお堀がないのか

終章  ジャパン・ルネッサンス ー 日本文明復興

巻末対談 日本は生活そのものが「芸術だ」 北野武 x 竹田恒泰 天皇から派生する枝葉のなかに我が国の文化はすべてある!


この本のタイトルは自分で付けたのではなく、放送作家のたむらようこさんに付けてもらったものだと謝辞にかいてある。

「どうやら今、世界は猛烈な日本ブームに沸いている」と書いているわりには、根拠が薄弱な感がある。

一つの根拠は2006年から2008年までのBBCの世界33カ国の調査で、日本が「世界に良い影響を与えている国」ナンバーワンにランクされたことだ。

しかし、この本に掲載されているランキング表は2010年のもので、これではドイツが1位、カナダが2位、EUが3位で、日本は4位となっていてガックリくる。あまり細かいことには拘泥しない人なのだろう。

scanner040






出典:本書10−11ページ

それ以外の根拠としては、台湾はラブ・ジャパンの大御所とか、観光で日本を訪れた人はおおかた良い印象を持って帰ること、アニメなどの「クール・ジャパン」、ミシュランが質・量ともに東京のレストランを絶賛していること、トルコやウズベキスタンなど絶対の親日国があることなどを挙げている。

ちなみにトルコが世界一の親日国であることは、このブログで以前紹介した通りだ。

トルコ世界一の親日国―危機一髪!イラン在留日本人を救出したトルコ航空トルコ世界一の親日国―危機一髪!イラン在留日本人を救出したトルコ航空
著者:森永 堯
明成社(2010-01)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る


この本で参考になったのは「和製漢語」が中国でも使われており、「中華人民共和国」の「中華」を除く「人民」も「共和国」も和製漢語だという指摘だ。次のような和製漢語表を紹介している。

scanner039






出典:本書111ページ

大正・昭和の初期には多くの中国の知識人が日本に留学した。たとえば孫文、周恩来、蒋介石は全員日本に留学していた。だから欧米の言葉を日本語に訳した「和製漢語」が中国に逆輸入されたというのはうなずける話だ。

ちなみに今度紹介するサーチナの鈴木さんの「中国の言い分」という本で、「原則」は日本では例外もありうるというニュアンスだが、中国では絶対に変えられないのが「原則」なので、同じ漢字でもニュアンスが異なると指摘している。「原則」が和製漢語だったとは知らなかった。

中国の言い分 〜なぜそこまで強気になるのか?〜 (廣済堂新書)中国の言い分 〜なぜそこまで強気になるのか?〜 (廣済堂新書)
著者:鈴木 秀明
廣済堂出版(2011-01-18)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る

第4章の「実はすごい日本の一流外交」のところでは、日本のパスポートは高い値段で闇取引されることを日本外交が一流である証拠の一つとしている。

ビザなしで入国できる国が多く、日本人なら諸外国のビザも簡単に取ることができるからだという。しかし現在のICパスポートになると偽造は難しいから、こんなほめ方はできなくなるだろう。

ところどころに天皇論が出てくるのが、竹田さんの本の特色である。

★今上天皇の御製の「人々の幸願ひつつ国の内めぐりきたりて十五年経つ」を挙げて、天皇陛下にとって最大の幸せは、国人の幸せであることがうかがい知れると竹田さんは語っている。

★「他の国にない日本の特長の最たるものは、天皇と国民の絆ではなかろうか。(中略)日本人全体を一族と考えたら、皇室は日本人の宗家ともいえる存在で、天皇はその課長にあたると考えやすいだろう。天皇と国民の関係を何かにたとえるなら、親と子の関係に似ている。」

★「親が子ども一人一人に最大の愛を注ぐように、天皇は国民一人ひとりにサイダ院お愛を注いできた。親の愛と、天皇の愛は、いずれも見返りを求めない真実の愛であり、親と子、天皇と国民の間に損得勘定は存在しない。」

東北大震災以降、天皇皇后両陛下が多くの避難所を訪問されておられるが、真実の愛という説明は納得できる。

天皇の愛はいわば"Love supreme"(至上の愛)と言えるかも知れない。

この本にたけしと竹田さんの対談が載っている。たけしは宮中茶会で天皇・皇后両陛下から「映画、たいへんですね」と声をかけてもらい、親しくお話ししたときの印象として、「不謹慎を承知でいえば、戦争で天皇陛下の名前を呼んで死んでいくのもわかる」とコメントしている。



さすが日本を代表する映画監督のたけしだけあって「腑に落ちる」言い方である。たしかに「天皇陛下万歳」と叫んで敵陣に突撃するのは、日本人にしかできなかっただろう。

結論として竹田さんは「ジャパン・ルネッサンス」つまり、西欧化以前、明治維新前夜の日本文化を再発見し、当時の気概を取り戻すことを提案している。


もともと雑誌"VOICE"の連載記事だったので、本文中に論拠などを十分に示していないゆえに説得力が欠けているきらいがある。巻末に主要参考文献を6ページにわたって紹介しているので、本文のどこに関係しているのか注釈があれば、もっと説得力が出て、より良かったと思う。


参考になれば投票ボタンをクリックして頂きたい。



  
Posted by yaori at 00:51Comments(0)TrackBack(0)