2011年01月27日

それでも日本人は戦争を選んだ わかりやすいFAW解説

それでも、日本人は「戦争」を選んだそれでも、日本人は「戦争」を選んだ
著者:加藤 陽子
朝日出版社(2009-07-29)
販売元:Amazon.co.jp
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日本近代史を研究する加藤陽子東大教授が、神奈川県の名門私立校栄光学園の歴史研究部の生徒相手に行った講義録。20万部以上売れてベストセラーになっている。

歴史の全体の流れはむしろ以前紹介した半藤一利さんの「昭和史」のほうが流れをとらえているが、日本が第2次世界大戦に突入するときに、どのような歴史のFAW(Forces at work:そこに働いている力)があったのかよくわかる。

昭和史 1926-1945昭和史 1926-1945
著者:半藤 一利
平凡社(2004-02-11)
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筆者は神奈川県の湘南高校サッカー部だったので、栄光学園に練習試合で行ったことがある。整ったスポーツ施設に驚いたものだ。

県立高校である湘南高校ではグラウンドをサッカー部、野球部、ラグビー部が合同で使っていたので、放課後の同じ時間帯に1/3ずつ使うという感じだったが、たしか栄光学園では野球場、サッカー場、総合グラウンドと分かれていた。

練習はたしか週3日という話だったと思う。湘南高校サッカー部は当時関東大会の県予選で決勝まで行き、奥寺康彦のいた相模工大付属高校に負け準優勝に終わったほどの強豪だったが、この時は栄光学園に練習試合で負けたので、顧問の鈴木中先生が「週3日しか練習していないところに負けるのか!」と怒っていたことを思い出す。

閑話休題。

小学区制の「神奈川方式」のため、湘南高校は筆者のいた当時のレベルとは比較にならないほど学力が落ちてしまったが、栄光学園は昔も今も神奈川県というより全国の私立校トップの座を守っている。

この本は栄光学園の歴史研究部の中学1年生から高校2年生までのメンバーを相手に、5日間にわたって加藤教授が行った歴史授業の筆記録だ。

戦争と憲法

加藤教授はまずジャン・ジャック・ルソーの戦争の定義を説明する。端的にいうと「戦争とは相手国の憲法を書き換える」ものだと。たしかに終戦後のマッカーサー憲法が良い例である。

二人の歴史学者

歴史研究部の生徒に対して、先人として二人の歴史学者を紹介する。

一人はE.H.カー ケンブリッジ大学教授だ。外交官、新聞の論説委員から63歳でケンブリッジ大学教授に就任した変わり種で、今だに読まれているロングセラーで、学生の必読書ともいえる清水幾太郎訳の「歴史とは何か」の著者だ。

歴史とは何か (岩波新書)歴史とは何か (岩波新書)
著者:E.H. カー
岩波書店(1962-03-20)
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筆者もこの本は学生時代に読んだ(ほとんど内容を覚えていないが)。

カーは「危機の20年」という本の中で、戦死者が1千万人を超えた第1次世界大戦の惨禍を二度と繰り返さないように組織された国際連盟が、わずか20年しか持たずに再び戦争が起きた理由を、国際連盟という原理そのものが間違っていたと主張する。

危機の二十年―1919-1939 (岩波文庫)危機の二十年―1919-1939 (岩波文庫)
著者:E.H.カー
岩波書店(1996-01-16)
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英国は国際連盟をバックに言葉でドイツを押さえ込もうとするのでなく、海軍力を増強して、ドイツを押さえ込むべきだったとカーは主張する。当時の世界恐慌でそれができなければ、国際連盟を通してでなく、ドイツと真剣に交渉するべきだったと。

カーはまた「歴史は科学だ」と主張した。歴史は教訓を与えるからだ。

加藤教授が取り上げるもう一人の歴史家は、「歴史の教訓」を書いたハーバード大学教授のアーネスト・メイだ。

歴史の教訓―アメリカ外交はどう作られたか (岩波現代文庫)歴史の教訓―アメリカ外交はどう作られたか (岩波現代文庫)
著者:アーネスト・R. メイ
岩波書店(2004-04-16)
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メイ教授は、ベストアンドブライテストと呼ばれ当時の世界最高の頭脳を結集したアメリカ政府が、ベトナム戦争にのめり込んでいった理由を「中国の喪失」であると説く。

「ベストアンドブライテスト」はディビッド・ハルバースタムの同名の本もある。マクナマラなどを中心に描くこのノンフィクションも面白い。

ベスト&ブライテスト〈上〉栄光と興奮に憑かれて (朝日文庫)ベスト&ブライテスト〈上〉栄光と興奮に憑かれて (朝日文庫)
著者:デイヴィッド ハルバースタム
朝日新聞社(1999-06)
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アメリカは蒋介石の国民党政府に巨額の資金と武器援助をして日本との戦争に勝利したが、終戦からわずか4年で国民党は中国本土から追い払われた。この辺の事情を詳しく書いたのが、バーバララ・タックマンの「失敗したアメリカの中国政策」だ。

失敗したアメリカの中国政策―ビルマ戦線のスティルウェル将軍失敗したアメリカの中国政策―ビルマ戦線のスティルウェル将軍
著者:バーバラ・W. タックマン
朝日新聞社(1996-02)
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子の本も面白い。

アメリカは中国の内戦では何もできなかった、この「中国の喪失」経験が、腐敗した南ベトナム政府に肩入れして、北ベトナムに勝つまで介入するという形で、泥沼の軍事介入、そして敗走という結果を招いたのだ。

またローズヴェルトは(加藤教授はルーズベルトとは呼ばない。最近の歴史の授業でも、この様に教えているのかもしれない)、ウィルソンの失敗を繰り返さないということで、「交戦相手とは交渉せず、無条件降伏以外認めない」という態度を貫いた。

これにより途中で何度もあった講和のチャンスを無にし、結果的にアメリカ国民の損害を増大させ、なによりも共産国も勝利国の一員となったことで、戦後の東西冷戦構造を生み、結果的に世界を不安定にした。

ウィルソンの休戦提案に応じてドイツは第1次世界大戦の停戦に合意したのに、パリ講和会議で英仏はウィルソンの条件を無視したので、ドイツは損をしたという意識が根底にあった。それゆえ第2次世界大戦に突入したのだとローズヴェルトは考えていたという。

「とにかく妥協をしてはいかん。妥協して失敗したのは1918年だった」とローズヴェルトは言っていたという。

これらの事例を「歴史の誤用」の例としてメイ教授は挙げている。


第1章以下の目次

以上がこの本の序章で、第1章以下は次の構成となっている。

1章 日清戦争

2章 日露戦争

3章 第1次世界大戦

4章 満州事変と日中戦争

5章 太平洋戦争

歴史家らしく、余り知られていないFAWを取り上げ、歴史が面白く学べるように講義しているところがすばらしい。アマゾンの売り上げランキングで1,000位前後とよく売れている理由だろう。

詳しく紹介しているとあらすじが長くなりすぎるので、参考になったFAW(Forces At Work)を箇条書きで紹介しておく。

★日本は安全保障上の理由から植民地を獲得し続けた特異な国だった。
これが加藤教授が日本が戦争を選んだ第一の理由に挙げているFAWだ。

★日露戦争の時に「非常特別税法」ができ、市街地の地租は20%まで引き上げられ、所得税はほぼ倍となった。戦時中のみのはずが、ロシアから賠償金が取れないので、戦後も継続され、納税額10円以上という選挙権基準に合う人が激増した。結果的に有権者が地主中心から、商工業者や実業家まで広がり、政治家も産業界出身者が増えた。

★第1次世界大戦で日本が地中海に艦隊を派遣した際には、戦後の講和会議での植民地分割について、イギリス・フランス・イタリア・ロシアとの間でお互いに認め合うという密約を交わしていた。中国は猛反発したが、フランスのクレマンソーとイギリスのロイド・ジョージが、苦しいときに助けてくれたとして日本を支持して山東半島の日本の権益が認められた。

日本艦隊の地中海派遣については、関榮次さんの「日英同盟」のあらすじを参照してほしい。

満州事変を計画した石原莞爾の最終戦争像は、日米の航空機決戦で、中国を本拠地にして戦えばソ連とは20年でも30年でも戦争を継続できるというものだった。

★1931年7月に当時の東京帝国大学生に「満蒙のための武力行使は正当か?」というアンケートをとったら、9割が賛成していた。その2ヶ月後に満州事変が起こった。この本のタイトル通り、日本人は戦争を選んだのだ。

★満州事変が起こり、民政党の若槻内閣の必死の沈静化努力にもかかわらず、朝鮮軍司令官だった林銑十郎が閣議の否決に憤り、当時日本軍の最精鋭といわれた朝鮮軍を独断越境させてしまう。関東軍1万人に対し、満州を支配する張学良軍は20万人ともいわれ、関東軍だけでは劣勢が目に見えていたからだ。

★満州事変が起こり、蒋介石は「公理に訴える」ということで、国際連盟による仲裁を求める選択をした。後に予想される日中交渉の際に、国際世論の支持を得ていた方が有利となるという判断と、国民の関心を国際連盟に向けさせるという意図だったと、スタンフォード大学フーバー研究所が公開している蒋介石日記に書いてあるという。

満州は張学良が支配していたので、張学良が日本軍と合意に達してしまえば、国民党政府は手出しが出来ないという恐れもあり、国際連盟に持ち込んだという背景もある。

これを受けてイギリス人リットン伯爵を団長とする調査団が1932年2月から調査にあたり、1932年10月に報告書を提出する。

★1932年連盟脱退の時の外相は内田康哉で、「焦土外交」という強い言葉で、日本の強硬路線を強調し、中国が宥和策を出してくるのを待つという作戦だったようだ。

蒋介石も日本と事を構える前に、共産党を撃とうとして、1932年7月には駐日公使を呼んで、日本に対しては提携主義を取り、宥和策をすすめていくことを指示した。

★内田の強硬策は成果を上げているように思え、1933年1月に内田は天皇に連盟脱退は避けられるという上奏をしている。しかし、これには天皇はじめ、牧野伸顕内大臣も不安を感じていたという。松岡洋右全権代表は強硬策をやめ、連盟に留まるよう電報で忠告している。

加藤教授は学生にも「松岡洋右に甘い」と言われるそうだが、松岡の連盟に留まるように説得する態度は立派だと評価している。

★内田外相の強硬策を葬ったのは、1933年2月の関東軍の熱河侵攻作戦だった。これは天皇の裁可を得た正式の作戦だったが、連盟規約第16条の連盟が解決に努めている時に、新たな戦争に訴えた国はすべての連盟国の敵と見なされるという条項に抵触することとなった。

海軍出身の斉藤首相は、事態の重大性に気づき、閣議決定を取り消し、天皇の裁可取り消しを天皇に頼む。天皇は取り消そうと考えるが、侍従武官や西園寺元老の反対にあって止められる。天皇も苦しむが、結局熱河侵攻作戦は実施され、その2日後日本は連盟から制裁を受ける前に、自ら脱退する。

★当時の国民の半分は農民だったが、小作農の権利を保障する政策は政友会や民政党などの既存政党からは出てこず、「農山漁村の疲弊の救済は最も重要な政策」と断言するのは陸軍のみだった。

学生や工場労働者などには徴兵免除が適用されたので、農村が兵士の最大の供給源だったからだ。

★蒋介石を支えていたのは浙江財閥で、宋美齢などの宋姉妹や宋子文などのファミリーが有名だ。

★中国の駐米大使胡適の「日本切腹、中国介錯論」とは、世界の2大強国、米国とソ連を味方に引き込むには、最初2-3年は日本に負け続け、沿岸部をすべて抑えられ困難な状況に追い込まれる。しかし、そのうち世界の同情が集まり、日本軍の内陸部移動にソ連がつけ込み、英米は権益保護のため軍隊を派遣し、海戦が起こるというものだ。まさに身を切らせて骨を切る戦略である。

★蒋介石に次ぐ国民党No.2の汪兆銘は胡適の「日本切腹、中国介錯」論に反対して、3-4年待てば中国はソビエト化してしまうと主張し、日本と妥協する。

★日米開戦準備を決定した1941年9月の御前会議で、永野軍令部総長は、このまま行くと石油不足で「大阪冬の陣」のように戦闘能力をそがれ、翌年には戦う事さえ出来なくなる恐れがあると説明する。天皇は「大阪冬の陣」という説明にグラリときたという。

★蒋介石は義理の弟の宋子文をアメリカに送り、軍事援助を引き出そうとするが、アメリカは日本との関係悪化を懸念して、資金は援助するが、1940年末まで武器は援助しない。

そんなアメリカの態度を変えさせて、パイロット付き戦闘機(フライングタイガース)を中国に派遣させたのは、蒋介石のこのままいくと中国は共産化するという脅しだった。アメリカはこれに応じ1941年7月にフライングタイガース100機を中国に供与した。

★戦争は実質的に1944年6月のマリアナ沖海戦で決着がついている。加藤さんは吉田裕さんの「アジア・太平洋戦争」を引用して、岩手県の戦死者数の推移を紹介している。最後の1年半に戦死者の9割が集中しており、負け戦続きで多くの人が戦死したり、病死、餓死した。

アジア・太平洋戦争―シリーズ日本近現代史〈6〉 (岩波新書)アジア・太平洋戦争―シリーズ日本近現代史〈6〉 (岩波新書)
著者:吉田 裕
岩波書店(2007-08-21)
販売元:Amazon.co.jp
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★満州移民は戦後ソ連の参戦でひどい目にあうが、普段から中国人との友好関係を築いていた開拓団は、敗戦となるとすぐに中国人に農場や建物を渡し、安全な地点までの護衛を頼んで、低い死亡率で日本に引き上げたという例もある。

★国や県は「分村移民」という村ぐるみで満州移民すれば、助成金を支給するという制度で開拓団を奨励していたという。開拓団の悲劇は国や県の政策の結果でもあったのだ。


教科書的な事実の時系列的説明という内容ではなく、節目節目のFAWを掘り下げるという講義だ。「試験に出ない」という理由で、高校時代に日本の近代史をきっちり学ばなかった筆者には、参考になる点が多かった。

池上解説の歴史版のような本だ。ぜひ手に取って欲しい本である。


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2011年01月18日

夢顔さんによろしく シベリア抑留中に獄死した近衛文隆の生涯

夢顔さんによろしく 上―最後の貴公子・近衛文隆の生涯   文春文庫 に 9-3夢顔さんによろしく 上―最後の貴公子・近衛文隆の生涯 文春文庫 に 9-3
著者:西木 正明
文藝春秋(2002-10)
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夢顔さんによろしく 下―最後の貴公子・近衛文隆の生涯   文春文庫 に 9-4夢顔さんによろしく 下―最後の貴公子・近衛文隆の生涯 文春文庫 に 9-4
著者:西木 正明
文藝春秋(2002-10)
販売元:Amazon.co.jp
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近衛文麿の長男として生まれ、プリンストン大学で学び、帰国後父文麿の秘書官として特命任務を行う。文麿の動きを快く思わない陸軍に召集され、満州で砲兵中尉で終戦を迎えた後、ソ連に抑留され、1956年に脳出血で死亡した近衛文隆の生涯を扱った小説。

こちらが単行本の表紙だ。

夢顔さんによろしく夢顔さんによろしく
著者:西木 正明
文藝春秋(1999-07)
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なにやらわからないシルエットと近衛文隆から妻の正子さん宛の郵便宛先が印刷されている。謎かけのようだ。

近衛文隆については、以前「プリンス近衛殺人事件」のあらすじを紹介した。こちらはロシア人作者がKBGなどの膨大な資料を調査して、まとめたノンフィクション小説だ。

プリンス近衛殺人事件プリンス近衛殺人事件
著者:V.A. アルハンゲリスキー
新潮社(2000-12)
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筆者のポリシーとして小説のあらすじは詳しくは紹介しない。

この本に書かれている近衛文隆の皇族としてはありえないような波乱万丈の生涯を簡単に紹介しておく。もちろん小説なのでフィクションの部分も多いと思うが、面白い読み物に仕上がっている。

近衛家は天孫降臨のとき、第一の側近として従っていた天児屋命(あまのこやねのみこと)が始祖とされ、家としての先祖は藤原鎌足で、近衛文隆は鎌足から数えて47代目、近衛を名乗るようになって30代目だ。

近衛家は近衛、九条、二条、一条、鷹司の5摂家の筆頭で、父の近衛文麿は天皇の面前で座って足を組んで話せるという間柄だったという。

近衛文麿は一高の後、東大に進学するが、マルクス主義に惹かれて京大の河上肇に師事する。文隆の母旧姓毛利千代子と熱烈な恋愛の末結婚し、大正四年に文隆が生まれた。

文隆の母千代子は運動神経抜群で、日本における女性ゴルファーの草分けだった。兄弟は二人の妹、一人の弟で、皇族の例にならい、子供たちは乳母に育てられ、両親とは別棟に生活していたという。

文隆は生まれた時から大柄な赤ん坊で、長じて父の文麿と同じく当時の日本人としては珍しく身長180センチという大柄だった。表紙に写真が載っているが、米国でウェイトトレーニングをやっていただけに、がっちりした体格だ。

学習院時代から始めたゴルフは天才的で、16歳で日本アマチュア選手権3位となり、その後渡米して高校、プリンストン大学でもゴルフ部の中心選手を務めた。

細川護煕元首相の父細川護貞(文隆の妹温子と結婚したので、義兄弟の仲)、牛場友彦西園寺公一などが特に親しい友人で、このブログで紹介した白洲次郎は文隆の兄貴分だった。

白洲次郎 占領を背負った男 上 (講談社文庫)白洲次郎 占領を背負った男 上 (講談社文庫)
著者:北 康利
講談社(2008-12-12)
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この作品では、近衛文隆の誕生から、学習院中学での生活、渡米してプリンストンに近い全寮制の高校でゴルフの腕前を磨いたことなどが紹介されている。

高校のゴルフ合宿でフロリダに行ったときに、当時の有名プロ ジーン・サラゼンのアドバイスで、飛距離を伸ばすためにベンチプレスなどの筋力トレーニングも積んだ。相撲取り並みの筋力で、ベンチプレス250ポンド(112キロ)を軽々と挙げていたという。

プリンストンに進学するとゴルフと合唱のグリークラブの両方で活躍し、週末は車でニューヨークに繰り出して、有名クラブ、レストランで豪遊していたという。

ニューヨークに寄った白洲次郎にニューヨークのピーター・ルガーというマスコミ関係者の集まるクラブにつれていってもらい、米国で一番権力を持っているといわれるマスコミ業界の人脈を開拓する。この時かつてジョン・レノンも住んでいたダコタハウスに住む不動産王の若い未亡人と恋仲になったが、日本大使館の横やりで別れることになる。

ゴルフは全米トップクラスだったが、学業ではプリンストンを卒業できず、中退して日本に戻り、当時首相を務めていた父文麿の秘書官として満州の関東軍視察などの特命任務を行う。

この時に知り合ったのが、後にゾルゲ事件で処刑される朝日新聞記者尾崎秀実(ほつみ)と、ドイツの新聞記者リヒャルト・ゾルゲだ。

ゾルゲは終戦後ソ連の英雄として旧東ドイツの切手にもなっている。

Stamp_Richard_Sorge





その後祖父の近衛篤麿が開校した上海の東亜同文書院の職員となり、中国の情報を収集しているときに、国民党の女スパイと恋仲になる。

すでに盧溝橋事件が発生し、日中戦争が起きていた。近衛文麿首相の「蒋介石を相手にせず」という公式発言とは裏腹に、近衛文麿は蒋介石との秘密交渉のために文隆を重慶に派遣しようとするが、陸軍の察知するところとなり、文隆は憲兵隊につかまり、重慶行を阻止されてしまう。

そして懲罰的に二等兵として召集され、満州の砲兵隊に編入する。1940年のことだ。1941年には日本でゾルゲ事件が起こり、ゾルゲと尾崎秀実が逮捕され、1944年末に死刑執行される。

しかし当時はゾルゲ事件は秘密とされ、終戦後4年たってやっと公表された。シベリアで抑留中の文隆はゾルゲが処刑されたことなど知る由もなかった。

二等兵でスタートした文隆は下士官・士官試験を受け、1944年には中尉として部隊を任される。

1944年10月に大正天皇の妃、貞明皇后の姪の京都西本願寺法主大谷光明の娘正子と結婚する。しかし新婚生活もつかの間で、1945年8月にソ連軍が満州に攻め入り、武装解除した関東軍はソ連軍の捕虜となる。

文隆はソ連軍に捕虜として連行され、正子は日本になんとか帰国して離れ離れになる。わずか1年弱の新婚生活だった。

文隆は日本の皇族で元首相の長男、日本に帰れば亡父の遺志を継いで政治家になることを希望しているということで、ソ連の思想改造のターゲットにされるが、文隆は断固拒否する。

文隆ほかシベリア抑留者の消息は長年不明だったが、1952年になってやっと文通が許され、文隆の最初のハガキが届く。1956年に亡くなるまで50通あまりのハガキが届くが、最後のほうのハガキには必ず「夢顔さんによろしく」という謎の言葉が添えられていた。

「夢顔」とは誰か?それがこの本の最後のミステリーだ。

日ソ交渉が始まり、いよいよ帰国が間近となってきたのに、文隆はふさぎ込むことが多くなった。結局、文隆は脳出血と腎臓病で帰国直前の1956年に獄死する。

その後1956年に米国議会の上院国内治安小委員会で、元東京駐在のソ連外交官が文隆などに施されたといわれるロボトミーについて証言する。薬物を注射して、うつ病にさせ、脳出血で文隆を殺害したとの証言はAP電が伝え、日本の新聞でも報道された。

文隆のシベリア抑留は劇団四季により「異国の丘」というミュージカルとなり、DVDが発売されている。

劇団四季 ミュージカル 異国の丘 [DVD]劇団四季 ミュージカル 異国の丘 [DVD]
出演:劇団四季
NHKエンタープライズ(2009-01-23)
販売元:Amazon.co.jp
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当時の時代背景もわかり、非常に面白い小説である。文庫本で上下2冊、筆者の読んだ単行本で530ページの大作だが、一気に読める。

ロシア小説の「プリンス近衛殺人事件」とともに、ぜひおすすめしたい作品だ。


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2011年01月09日

絵で見る十字軍物語 塩野七生入門書

絵で見る十字軍物語絵で見る十字軍物語
著者:塩野 七生
新潮社(2010-07)
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十字軍の歴史を描いた19世紀後半のフランスの画家ギュスターブ・ドレのイラストに、塩野七生(しおの・ななみ)さんが解説を入れた絵本。

塩野さんの本は、「ローマ人の物語」シリーズなど、経営者に人気があるが、筆者はいままで読んだことがなかったので、手始めにこの絵本から読んでみた。

ローマ人の物語〈1〉― ローマは一日にして成らずローマ人の物語〈1〉― ローマは一日にして成らず
著者:塩野 七生
新潮社(1992-07)
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塩野さんの本は、プルタークの「英雄列伝」の焼き直しだとか、タネ本があるとか言う人もいるが、イタリア在住とはいえ日本人がローマ人の物語を書くなら、プルタークの本を元にするのは当然だと思う。

プルタルコス英雄伝〈上〉 (ちくま学芸文庫)プルタルコス英雄伝〈上〉 (ちくま学芸文庫)
著者:プルタルコス
筑摩書房(1996-08)
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筆者はプルタークの「英雄列伝」を学生時代に読んだが、岩波文庫だとなにせ全部で12巻もあり、結局1巻か2巻と何巻だったか忘れたが、カエサルの出てくる巻を読んで、他は挫折した。

プルターク英雄伝(全12冊セット) (岩波文庫)
岩波書店(2004-03)
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決して読みやすい本ではないプルターク英雄列伝を、現代風に解説してくれるなら、塩野さんの本を読んだ方が良いのではないかと思う。

前置きが長くなったが、この「絵で見る十字軍物語」は、もともとフランスの歴史家フランソワ・ミショーの「十字軍の歴史」という本の挿絵としてギュスターブ・ドレが書いたイラストを100枚ほど、塩野七生さんの解説をつけて紹介したものだ。

十字軍というと、高校の世界史で習ったきりなので、11世紀から13世紀まで何回も派遣されたキリスト教徒の遠征としか覚えていなかったが、この本を読んで十字軍が第1回から第8回まで200年にわたり、断続的に派遣されていたことを再認識した。

最初の十字軍はいわば民衆十字軍で、フランスの隠者ピエールに扇動された民衆が聖地エルサレムの奪還を目ざして草の根運動的に東欧・ギリシャ・トルコを通って、パレスチナまで攻め上がった。

それにフランスのロレーヌ公ゴドフロアなどのヨーロッパの諸侯の軍隊が追いついて大勢力となって、1099年にイスラム教徒からエルサレムを解放した

このとき発見された大十字架は、キリストが磔(はりつけ)にされた十字架だとして、十字軍の参加者は感激の涙にむせんだという。

次がこの本にも載っているギュスターブ・ドレの聖十字架の絵だ。

Gustave_dore_crusades_the_discovery_of_the_true_cross










出典: 以下別注ない限りWikimedia Commons

なんとなく気味が悪いギュスターブ・ドレの絵の感じが分かると思う。

この本で一番筆者が気に入った挿絵は、本の表紙にもなっている十字軍とともに歩むキリストのものだ。十字架に磔になったキリストが十字軍と一緒に歩くという考えられない構図だ。

Gustave_dore_crusades_miracles











Wikipedia Commonsにはギュスターブ・ドレの作品が多く収録されているので、ここをクリックして見て欲しい

十字軍は13世紀末の第8次(Wikipediaでは第9次と呼んでいるが、第8次と第9次は一緒にできるようだ)十字軍で終わり、結局一時的にパレスチナで樹立したキリスト教国家は、その後イスラム教徒に滅ぼされてしまう。

一方イベリア半島では、逆にイスラム教徒がキリスト教徒から追いつめられ、コロンブスがアメリカ大陸を発見した1492年にグラナダのイスラム王はイベリア半島から脱出した。

グラナダのアルハンブラ宮殿にはイスラム芸術が残されている。Wikipedia Commonsにアルハンブラ宮殿の写真が多く掲載されているので、ここをクリックして是非見て欲しい

Alhambra_in_the_evening



筆者もまた訪れたい。次はアルハンブラ宮殿の中にあるパラドール(国営文化遺産ホテル)に泊まりたいものだ。

閑話休題。

絵が若干気味が悪い感じがするが、200ページほどの絵本の解説で、簡単に読める。

手に持ってパラパラめくってみて欲しい本である。


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2011年01月07日

日本を決定した百年 吉田茂の寄稿と回想

日本を決定した百年―附・思出す侭 (中公文庫)日本を決定した百年―附・思出す侭 (中公文庫)
著者:吉田 茂
中央公論新社(1999-12)
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エンサイクロペディア・ブリタニカの百科事典の付録として出している補追年鑑の1967年版の巻頭論文を加筆修正した吉田茂の寄稿と回想。読書家の会社の友人に勧められて読んでみた。

昨年末出版された米国の知日派代表格のリチャード・アーミテージ元国務副長官とジョセフ・ナイハーバード大学教授の「日米同盟VS中国・北朝鮮」という本でも、アーミテージ氏は日本の戦後の「吉田ドクトリン」を高く評価している。

米国の軍事力の傘の下に入ることで、防衛に金を使わず、経済復興を最優先して日本を世界第2位の経済大国に押し上げたからだ。

日米同盟vs.中国・北朝鮮 (文春新書)日米同盟vs.中国・北朝鮮 (文春新書)
著者:リチャード・L・アーミテージ
文藝春秋(2010-12-15)
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この「日本を決定した百年」は次の構成となっている。

第一章 明治の創業

第二章 近代化のジレンマ(大正から太平洋戦争に至るまで)

第三章 戦後の二,三年(困難と努力)

第四章 奇跡の経済発展(池田首相の所得倍増計画まで)

第五章 奇跡のあとで(Good Loserーよき敗者)

この本の「解説」で粕谷一希元「中央公論」編集長は、この本は吉田茂が外務省を通して当時の京大教授で国際政治学者の高坂正堯(こうさかまさたか)に代筆を依頼したものだという裏話を紹介している。

粕谷氏はこの本を読んで、100%高坂正堯の文章であることを確信したと記している。

中間に「外国人が見た近代日本」ということで、江戸時代に日本に来たロシアのゴロヴニン、アーネスト・サトウからハドソン研究所の未来学者ハーマン・カーンまで合計7名の日本についての短い文を紹介している。

後半は「思出す侭(まま)」ということで、「時事新報」に連載された吉田茂の回想がまとめられている。

今度紹介する北康利さんの「吉田茂 ポピュリズムに背を向けて」にもある次のストーリーがこの本でも紹介されている。

吉田茂 ポピュリズムに背を向けて吉田茂 ポピュリズムに背を向けて
著者:北 康利
講談社(2009-04-21)
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★「ディプロマティック・センスのない国は必ず凋落する」
これは吉田茂が駐英大使を辞め、外務省の在外公館査察使として世界を回った時に、米国でウィルソン大統領の親友だったハウス大佐に言われた言葉だという。

ハウス大佐は第1次世界大戦の直前にウィルソン大統領の命を受け、ドイツのカイゼルと面談し、戦争回避を訴えたという経歴がある。

吉田茂は、戦争直前の日本をこの言葉で形容している。しかし、この言葉は残念ながら現代の日本に一番当てはまる言葉ではないかと思う。

★「ハル・ノート」は最後通牒ではない
1941年11月26日付けのハル・ノートの原文がネットで公開されている。吉田茂はこれを読んだとき、"Tentative"(試案)と書いてあるし、決定的なものではないと書いてあるので、最後通牒ではないと了解したが、時既に遅しだったという。

当時の中日米国大使のグルーが「ハル・ノートは最後通牒ではないことを、当時の東郷外相に会って説明したいと吉田に仲介を頼んだが、既に12月1日の御前会議で、日米開戦の方針が決定されていたこともあり、東郷外相はグルー大使に会わなかった。

ネットで是非ハル・ノートの原文を読んで欲しい。


★真珠湾は奇襲だったかー先方は事前に知っていた?!
日本の電報は解読されていたので、米国側が知らないはずがない。

★日本復興に尽力した米国
吉田茂は、英国が占領軍の中心だったら、米国のように日本経済の再興のための援助に尽力することはなかっただろうと語る。

今度紹介する「虜人日記」でも、フィリピンは米軍が管理していたので、捕虜の食事にはさほど困らなかったことが描かれている。

しかし学生の時に読んだルネサンス史の大家、会田雄次元京大教授の「アーロン収容所」を再度読んだところ、英米の間で、捕虜の待遇は大きな差があったことがわかった。

英国軍が管理していたビルマでは捕虜の食料はほんの少量しか供給されなかった。

やむなく捕虜は栄養失調や、アメーバー赤痢の細菌に汚染されているカニを食べたりしてどんどん死んでいった。英国兵は捕虜がカニを取っていても、見て見ぬふりとしていたという。

アーロン収容所―西欧ヒューマニズムの限界 (中公新書 (3))アーロン収容所―西欧ヒューマニズムの限界 (中公新書 (3))
著者:会田 雄次
中央公論新社(1962-11)
販売元:Amazon.co.jp
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米国の食料援助は、日本国民にパン食と(スキム)ミルクの味を覚えさせ、その後の米国産品の輸出におおいに役立っている。

★対米一辺倒と罵る(ののしる)は無智
ここがこの本の肝心の場所なので、その部分を紹介しておく。

吉田茂本文214頁






出典: 本書214ページ

つまり米国一辺倒と非難する人たちは、近世に於ける国際関係につき全く無智なことを自ら表明しているのだと。

12月11日に放映されたNHKの「日米安保」特集では日本総研の寺島実郎さんが、「外国に基地を使いさせ続ける国は他にない」というような発言をしていた。

ヨーロッパの国はNATOに加盟しているので、当然のことながら自国の基地に米軍など外国の軍隊を駐留させている。寺島さんの論拠がわからないし、このような発言はまさに吉田茂の攻撃するところだ。

吉田茂は「わが国の国防を米軍がその一部を負担するということは、米国の好意である以上に、両国のためであり、世界平和維持のためである」と書いている。

この部分を冒頭に紹介したアーミテージ元国務副長官は「吉田ドクトリン」として高く評価している。


★「中立主義」「は空論
吉田茂は「中立主義」は空論と切って捨てている。

社民党はいまだに非武装中立を唱えていると思うが、核武装強化を進める北朝鮮や、空母やステルス戦闘機開発など軍事力増強が著しい中国が、東シナ海を自分のテリトリーにしようとする動きにはどうするのだろう。




現在の日本の外交を考える上でも、参考になる本である。


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2010年12月06日

アメリカの小学生が学ぶ歴史教科書 アメリカ史入門に最適

アメリカの小学生が学ぶ歴史教科書アメリカの小学生が学ぶ歴史教科書
著者:村田 薫
ジャパンブック(2005-01)
販売元:Amazon.co.jp
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会社で簡単なアメリカ史の本について聞かれたので、この本を推薦した。

この本はバージニア大学のハーシュ教授が小学生用に編纂した文学、歴史、地理、美術、音楽、数学・自然科学の6冊の教科書の中から、アメリカ史の部分を抜き出して一冊にしたものだ。

アメリカには教科書検定はなく、評判の良い教科書を現場の教師が使うというやり方で、ハーシュ教授の教科書は最も人気のあるものの一つだという。

この本は平易な英語の原文と日本語訳を対訳しているので、アメリカの小学生が学ぶ英語はどんなものかわかって面白い。

筆者は左側の英語で読んだが、わかりやすい表現で読みやすい。

難しいところは、右側の日本語訳を参照すれば良いので、英語の勉強もかねて、左側の英語版に挑戦して欲しい。


アメリカの旧跡

筆者は合計9年間アメリカピッツバーグに駐在したので、ワシントン、ボルチモア、ゲティスバーグには車でよく行った。

ピッツバーグからは車で4-5時間の距離だ。

家族で時々ニューヨークまで足を伸ばしたが、車でニューヨークまで行くと7-8時間かかる。

リンカーンの演説で有名な南北戦争の激戦地ゲティスバーグは、地域一帯がナショナル・セメタリー(国家管理墓地)となっており、そこら中に各州の記念碑や当時の大砲などが展示されている。

この本では、ピケッツ・チャージ(Pickett's Charge=ピケットの突撃)で有名なゲティスバーグでの戦闘についても紹介している。

各所に置かれた「星条旗の由来」とか、「自由の女神」、「チャップリン」、「ウッドストック世代」などのコラムも面白い。

小学生向けの教科書でもあり、フランクリン、ワシントン、ジェファーソン、ハミルトン、マディソンなどの建国の英雄は、それぞれ簡単に紹介されている。


過去の反省も盛り込まれている

アメリカは移民が集まって出来た自由と平等の国だが、南部の黒人は1960年代までは二級市民扱いされていた。日系人は第2次世界大戦中、収容所に隔離されていた事実も記述されている。

アメリカは海外では人権のために戦っていたが、本国では多くの罪のない人々の人権を剥奪したとはっきり語っている。

このブログで紹介したアメリカが第1次世界大戦に参入するきっかけとなった、ツィンメルマン電報事件も紹介されている。

決定的瞬間―暗号が世界を変えた (ちくま学芸文庫)決定的瞬間―暗号が世界を変えた (ちくま学芸文庫)
著者:バーバラ・W. タックマン
筑摩書房(2008-07-09)
販売元:Amazon.co.jp
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重要なイベントは写真入りで紹介

この本では重要なところでは写真を入れているので、どこが小学生に覚えさせたいかという編集方針がわかる。

たとえば第2次世界大戦の紹介で、写真が出てくるのは、つぎのところだ。

・ノルマンディー上陸
・真珠湾攻撃(詳しく説明されている)
・ホロコースト
・ガダルカナル島の浜辺(日本軍兵士の遺体が重なっている)
・日本人収容所
・Dデイ(ドイツ軍の機関銃陣地)
・Dデイ(アメリカ軍の上陸)
・ヤルタ会談
・フランクリン・ルーズベルト(エレノア・ルーズベルトの写真もコラムで紹介)
・硫黄島戦勝記念碑
・広島の原爆投下(被災後の原爆ドーム)
・長崎の原爆投下

ちなみに20世紀になって多くの人が戦争で死ぬようになった最大の原因は、機関銃という大量殺人兵器が登場したからであると述べている。

最近は日本の若者は日本とアメリカが戦争したことを知らない人もいるようだが、アメリカは小学生から真珠湾攻撃やホロコースト、原爆について学ぶのだ。

原爆の記述では、ドイツが負け、世界で日本だけが連合国と戦っていたが、それでも日本本国には2百万人の軍隊を温存し、日本国民も死ぬまで戦うよう訓練されていたので、アメリカの人的被害を防ぐために原子爆弾の投下をトルーマンは命じたと書いている。

そして日本政府は日本全体の破滅を避けるために、降伏したのだと。

第2次世界大戦後については、冷戦、マッカーシズム、朝鮮戦争、アメリカの黄金時代の50-60年代、ベトナム戦争、キング牧師の黒人解放運動、キューバ危機、ケネディ暗殺、宇宙開発、ウォーターゲート事件などが簡潔に紹介されている。

最後は1976年7月の独立200年祭でこの本は終わっている。


アメリカの短い歴史

それにしてもアメリカの歴史は短い。

この本は氷河時代に、当時は陸つなぎだったアジアからアメリカ・インディアンが動物の獲物を渡ってきた後、1万2千年前に氷が溶け、アジアとアメリカが分離したという歴史から書き始めている。

しかし、そのすぐ数ページ後は、もうコロンブスになる。

ピルグリムファーザースなどの初期の開拓者の話が数ページ続き、その後はもう1773年のボストン・ティーパーティだ。

ちょうどアメリカ中間選挙で、共和党の保守派を支持するティーパーティが勢力を拡大しているが、それの元祖である。


アメリカ人が自分の国の歴史についてどのように教わっているのかを知ることは、アメリカとビジネスをしている人には基礎知識として不可欠だと思う。

中学や高校で学んだ歴史のおさらいができ、英語の教材にもなる。2005年発行の本なので、本屋には置いていないかもしれないが、図書館には確実に置いていると思う。

一度もよりの図書館の蔵書検索で「アメリカの小学生が学ぶ歴史教科書」でチェックして欲しい。


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2010年11月21日

日本開国 日米中関係の原点はアヘン戦争と日本開国

2010年11月21日追記:

京都大学教授で国際政治学、インテリジェンス史が専門の中西輝政さんの「アメリカの不運、日本の不幸」という最近の本を読んでいたら、渡辺惣樹さんの本が引用されていた。

アメリカの不運、日本の不幸―民意と政権交代が国を滅ぼすアメリカの不運、日本の不幸―民意と政権交代が国を滅ぼす
著者:中西 輝政
幻冬舎(2010-07)
販売元:Amazon.co.jp
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ペリーは「アメリカの国策を一人で背負っていると自認する特殊なパーソナリティの持ち主」で、政権と議会を説得して予算を獲得、「日本遠征計画」を実行した。

各州がバラバラで分裂しそうな「アメリカを一つにする唯一の方法」と考えて、わざわざバージニアから喜望峰、インド洋を通って日本に来航したのだと。

「日本の港で捕鯨船の便宜を得るため」は予算を認めさせる方便にしかすぎず、北米大陸外に発展していくことによって、他国との対抗上アメリカが一つにまとまらざるを得なくなることをペリーは狙っていたのだと。

渡辺さんの主張を紹介するとともに、1848年のカリフォルニアの金鉱発見で、各州が独立国家だとカリフォルニア州の金鉱を取りに行けなくなるからという理由でアメリカの各州は一つにまとまったのだと中西さんは説明する。

中西さんの「アメリカの不運、日本の不幸」は、学者の書いた本としてはありえないほど論拠・引用の出典明記がないが、その中で渡辺さんの本はしっかり論拠として挙げられている。

ちなみに以下にも紹介してるとおり、渡辺さんは市井の研究者だが、渡辺さんの本は本文230ページ、注・論拠資料・参考文献紹介30ページという論文にしても良いくらいの構成だ。

それに対して、中西さんの「アメリカの不運、日本の不幸」は重要な点を赤でハイライトしている2色刷りの学習参考書のような体裁で、論拠・引用紹介・参考文献はほぼゼロである。どっちが学者なのかわからない。


2010年5月8日初掲:

日本開国 (アメリカがペリー艦隊を派遣した本当の理由)日本開国 (アメリカがペリー艦隊を派遣した本当の理由)
著者:渡辺惣樹
販売元:草思社
発売日:2009-11-25
おすすめ度:5.0
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カナダ在住の友人が本を出したので読んでみた。

筆者の渡辺惣樹(そうき)さんは、JTに入ったあとに留学し、会社をやめてカナダで貿易会社を創業、現在もカナダ在住だ。

渡辺さんは大学時代は写真部員だった。

ひょんなことから筆者は写真部の連中を、俳優の内田朝陽君のご両親がやっている原宿にあったスナックに招待したことがある。それが知り合ったきっかけだ。


偶然が偶然を呼ぶ出会い

ちょっとありえない話なので、この辺の経緯を説明しておく。

筆者は大学3年のときに内田朝陽君のご両親と、夏の暑い盛りに西伊豆の戸田のビーチで偶然知り合った。これもまたありえないきっかけなのだが、これはまた別の機会に紹介する。

その後当時神宮前に住んでおられた内田さんご夫妻を、神宮球場で行われた秋の東京六大学野球の開幕戦に招待したら、東大が明治に2連勝して、なんと勝ち点を挙げたのだ。

筆者が大学3年生だったと思うので、昭和49年(1974年)のことだと思う。

当時の明治の野球部監督の島岡御大は、さぞかし激怒したことだろう。星野さんの「星野流」という本でも紹介されていたように、島岡さんは何かあると「グラウンドの神様」におわびしていたそうなので、たぶん部員全員と島岡監督で「グラウンドの神様」に土下座しておわびをしたのではないかと思う。

もっとも、それ以来、東大は明治には勝てず、92連敗して、次に勝ったのは1999年だった。

閑話休題。

その試合を応援していた内田さんと当時飼っていた犬の写真が、筆者の大学の卒業アルバムに神宮の試合のスナップ写真の一つとして載った。

内田さんの犬はその後知人の家に預けることになったため、なつかしいので是非写真を焼き増ししたいということになり、筆者が卒業アルバムをつくっている写真部に話をつないだ。

写真部の連中はこころよくOKしてくれ、ネガを借りたお礼に内田さんのお店に招待したという訳だ。

その後筆者はアルゼンチンに2年間研修で行って、日本にはいなかった。

帰国したら内田さんのお店が今の六本木ヒルズのある六本木6丁目に移っていて、写真部の連中が入り浸り、常連の作曲家の猪俣公章先生の子分(虫)となっていたのには面食らった。

現在は六本木1丁目にある内田さんのお店で、時々彼らと出会うことがある。筆者は内田さんとは35年以上のつきあいで、写真部の連中も内田さんとは33年以上のつきあいである。

そのグループの一人が渡辺さんだ。渡辺さんはカナダ産品等の貿易商社を経営しているので、六本木の内田さんのお店にはカナダ産の建築資材が使われている。入口にある巨木の柱は日本の建築家にも高く評価されている銘木ということだ。

渡辺さんは今はカナダ在住で、時々は日本に出張で来ているらしい。久しくお会いしていないので、この本を読んで旧交を温める思いだ。


日本開国前後のエピソード集

この本はペリーが結んだ1854年の日米和親条約、ハリスが結んだ1858年の日米修好通商条約による開国前後の日本、アメリカ、中国などの動きを、ペリー提督タウンゼント・ハリスペリーの娘婿オーガスト・ベルモント、ロスチャイルド家のアメリカの代理人アーロン・パーマー、ラッセル商会関係者など歴史上有名な人物のエピソードをちりばめる形で描いている。

モザイク画のような手法なので、渡辺さんはスーラの画法と表現しているが、まさに言い得て妙である。

Georges_Seurat_-_Un_dimanche_aprè





出典: Wikipedia

ちなみに、上記のスーラの絵は米国シカゴ美術館に所蔵されている。シカゴにはよく行っていたので、米国駐在中に見ておくべきだったと反省している。


この本は日本開国を多角的な視点で描いた物語で、注記も多く、いわば私設ウィキペディアの様な本だ。

ただウィキペディアと違って、リンクでなく巻末注記なので、いちいちページをめくって注を読まなければならない。ウェブ版にして資料がすぐにリンクで参照できるようにしたら、渡辺さんの博覧強記なところが一目瞭然にわかって、もっと良かったと思う。


渡辺さんはハリスゆかりの静岡県下田市出身

渡辺さんは静岡県下田市出身。子どもの頃から黒船祭や、初代米国領事館のあった下田玉泉寺などに慣れ親しみ、トレーダー出身で本職の外交官ではなかったタウンゼント・ハリスが、なぜ日本に初代領事として派遣されたかの謎を中心に、この物語を描いている。

ハリスについては、このブログで紹介した「大君の通貨」で、当時の日本の金銀為替レートを利用して利殖を謀ったことが描かれている。

大君の通貨―幕末「円ドル」戦争 (文春文庫)大君の通貨―幕末「円ドル」戦争 (文春文庫)
著者:佐藤 雅美
販売元:文藝春秋
発売日:2003-03
おすすめ度:4.5
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この本の主役アーロン・パーマー

この本でタウンゼント・ハリスが登場するのはほんの10ページ余りで、ハリスは脇役だ。

米国がペリーによる黒船外交で圧倒的な戦力を示して日本を無理やり開国させながら、後の交渉はノンキャリのセミプロ外交官に任せたのは、”プレイボーイが一旦籠絡した相手には途端に興味を失う”という様子を見ているようだと渡辺さんは独特の表現をしている。

セミプロ外交官のハリスがなぜ派遣されたのか?それがずっと違和感となって渡辺さんの心に残っていた。そのことが、この本の研究に結びついたのだという。

この本の主役の一人は、アーロン・パーマーという「アメリカ合衆国最高裁判所カウンセラー」の肩書きを持つ弁護士で、ロスチャイルド家の米国代理人だ。

彼が、ロビイストとして1849年に起草した「改訂日本開国提案書」が、その後の米国のペリー艦隊派遣等の外交政策の基礎となった。

この歴史的に第一級の資料である提案書は、実はアマゾンでペーパーバックとして売られている。

Documents and Facts Illustrating the Origin of the Mission to Japan: Authorized by Government of theDocuments and Facts Illustrating the Origin of the Mission to Japan: Authorized by Government of the
著者:Aaron Haight Palmer
販売元:BiblioLife
発売日:2009-07
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アメリカ政府はパーマー提案に従って、ペリーを日本に2度派遣し、日本を開国させた。

その表向きの理由は、当時世界的ナンバーワンだった米国の捕鯨船の寄港を認めさせるというものだったが、真の理由は米国と中国(当時は清)を結ぶ太平洋ハイウェイ(シーレーン)構想があったためだと渡辺さんは語る。

日本は開国することによって、アメリカの太平洋ハイウェイ構想の一角をになうので、繁栄につながる。それゆえ「日本は東洋の一等国(東洋におけるイギリス)に変貌できるのだ」とパーマーは書いている。


アメリカの版図拡大(マニフェスト・デスティニー

アメリカの版図は、はじめから大西洋・太平洋の両方に面していたわけではない。この本で紹介されているアメリカの領土図が、大変興味深い。

USA territory




出典:本書12−13ページ

日本に開国させた当時のアメリカは、テキサス、オレゴンテリトリー、カリフォルニアなどを獲得して、1849年のゴールドラッシュで急速に西海岸地区の開発がはじまり、西海岸の延長線上にあるアジアにも注目しだしたところだった。

パナマ運河の開通は1914年だが、1855年に開通したパナマ地峡鉄道を利用することによりアメリカ東海岸の世界へのアクセスは飛躍的に向上した。たとえば次のような具合だ。

★ケープ岬経由
 イギリス −   サンフランシスコ 13,624マイル
 ニューヨーク − サンフランシスコ 14,194マイル

★パナマ経由
 イギリス −   サンフランシスコ  7,502マイル
 ニューヨーク − サンフランシスコ  4,992マイル

捕鯨業者の保護もさることながら、アメリカから中国・アジアに行く航路の安全と、整備はアメリカの西海岸の経済発展には不可欠だった。

マニフェスト・デスティニーの旗印のもと、西部開拓を推進したアメリかは、西部開拓が終わった後の発展は、西海岸からハワイ、さらにアジアへの展開だったのだ(それゆえハワイ王国はアメリカに1898年に併合された)。


歴史を織り成すもう一本の糸はアヘン貿易

渡辺さんは、日本海国とその後の日米中関係の背景となっているのは、アヘン貿易だと語る。

アヘン戦争は、中国からの茶の輸入増大により、対中大幅貿易赤字となった英国が、茶の代金を調達するために、インドで生産した劣悪なアヘンを中国に売りつけて、莫大な利益を得たことに抗議して、武力に訴えた清を英国がなんなく破った戦いだ。

そしてアヘン戦争には、英国系のジャーディン・マセソンなどのトレーダーのほか、アメリカのトレーダーであるラッセル商会が深くかかわっていた。

「ラッセル商会は19世紀最大の犯罪組織であり、世界的なドラッグディーラーだったのだ」とアメリカの歴史家ジョージ・ファイファーは指摘しているという。

Breaking Open Japan: Commodore Perry, Lord Abe, and American Imperialism in 1853Breaking Open Japan: Commodore Perry, Lord Abe, and American Imperialism in 1853
著者:George Feifer
販売元:Smithsonian
発売日:2006-10-01
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ラッセル商会のパートナーのウォーレン・デラノは、フランクリン・デラノ・ルーズベルト(FDR)大統領の祖父だ。

ラッセル商会のパートナーのウィリアム・ハンティントン・ラッセルは、タフト大統領の父のアルフォンソ・タフトと一緒にエール大学出身者の秘密親睦組織スカルアンドボーンズを創設した。

ブッシュ前大統領父子もスカルアンドボーンズの会員だ。

ラッセル商会のパートナーたちはアメリカの外交に大きな影響力を持つアメリカ外交問題評議会(CFR)の設立にもかかわり、アメリカの教育と外交に大きく影響を与えたという。

渡辺さんは、アメリカのリーダーには「中国にはアヘン戦争の借り」があり、「日本には開国の貸し」があるという深層心理があるという。

最近ではアメリカの外交戦略に大きな影響を与えているカーライルグループに着目する見方があるが、19世紀のラッセル商会の影響力に着目するというのはユニークな着想である。


その他参考になった点を下記する。

★第11代将軍の家斉の娘溶姫を加賀前田家に嫁がせた時に、前田家の迎え入れのために作ったのが、東大の赤門だ。東大経済学部出身の渡辺さんだけに赤門の由来を織り込んでいる。

シーボルト事件のシーボルトの記念館シボルト・ハウスが、オランダのライデンにあり、渡辺さんは訪問したことがあるという。

★鯨は当時「泳ぐ石油」と言われ、19世紀ではアメリカが世界ナンバーワンの捕鯨大国だった。1846年には捕鯨船は722,水揚げは1千百万ドル、現在の価値で51億ドルだったという。」

★トリニーダード島のピッチから灯油を抽出する技術がアブラハム・ゲスナーにより1850年に発明されてから、鯨油の価格は下がり最高リッター47セントだったのが、1865年は16セント、1895年には2セントにまで下がった。捕鯨船の数も1876年には39隻に激減したという。

筆者の住んでいたピッツバーグの北に、車で1時間強行くと、アメリカで最初に石油が発見されたドレーク油田地帯がある。

元々アンドリュー・カーネギーがつくったサイクロップスという特殊鋼メーカーが、この油田地帯の真ん中のTitusvilleにあり、この会社は19世紀からロックフェラーの石油パイプラインにパイプを供給していたのだ。

筆者は何度もサイクロップスを訪問したことがある。この本で鯨油から石油へのエネルギー転換の話を知り、興味深かった。

★オランダは1794年末にフランスの侵攻を受け、それから1815年までフランスの衛星国となっていた。しかし出島のオランダ館長は徳川幕府には秘密にしていたという。


情報が盛りだくさんなので、もうすこし出し惜しみした方が本としての完成度は上がったような気がするが、それにしても渡辺さんの開国関連の歴史の造詣と、博覧強記ぶりはすばらしい。

米国在住の日本史研究者が日本のみならず、米国や他の国の資料を基にして、貴重な歴史書を書くケースは、たとえばこのブログでも紹介した「暗闘」などの例がある。

世界史の中での日本史を書くためには、渡辺さんのような地道な研究が重要なのだということがよくわかる好書である。


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2010年08月30日

戦争と平和の谷間で 明石康さんのボスニア内戦秘話

戦争と平和の谷間で―国境を超えた群像 (双書 時代のカルテ)戦争と平和の谷間で―国境を超えた群像 (双書 時代のカルテ)
著者:明石 康
販売元:岩波書店
発売日:2007-11
おすすめ度:5.0
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日本人初めての国連職員となり、事務次長、カンボジア、ボスニアの国連PKOを指揮した明石康さんの本。

明石さんの対談「『独裁者』との交渉術」を読んで、明石さんのことをもっと知るため読んで見た。次に紹介する「生きることにも心(こころ)せき」は、明石さんの自伝で、この「戦争と平和の谷間で」がボスニアPKOに限定した秘話だ。

生きることにも心せき―国際社会に生きてきたひとりの軌跡生きることにも心せき―国際社会に生きてきたひとりの軌跡
著者:明石 康
販売元:中央公論新社
発売日:2001-06
おすすめ度:4.0
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この本では国連事務総長特別代表としてボスニア紛争解決に努力した明石さんが、つきあった軍人や旧ユーゴスラビアの指導者、国連PKOとNATOとのつきあい方などについて書いている。

100ページあまりの簡単に読める本だ。

いくつか印象に残った点を紹介しておく。

1994年2月にボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボの青空市場に1発の迫撃砲弾が撃ち込まれ、死者68人、負傷者約200人という惨事が起こる。

エジプト出身のブトロス・ガリ国連事務総長の特別代理として、セルビア人、クロアチア人、ムスリムの3派の対立で起きた紛争を解決すべく、4万人強という前代未聞の国連PKO軍とNATOの協力を得て交渉にあたる。


NATO軍と国連PKOの関係

NATO南部方面軍総司令官のボーダ提督は、一介の水兵から提督にまで昇進した唯一の人で、身長164センチ、体重60キロくらいと小柄で敏捷そのものの人だったという。彼は帰任後1996年にワシントンの宿舎でピストル自殺を遂げた。

クリントン大統領他は弔辞で、勇ましい軍人としてボーダを描いたが、ボーダ提督は、恵まれない環境に育ち、水兵から出世したが、ベトナム戦争での戦闘経歴疑惑や、海軍予算の大幅カットに悩んでいたという。

海軍の規模は定員59万人から41万人へと削減させられたという。

国連保護軍のフランス人、イギリス人将軍たちのキャラクターや明石さんを忌避したベルギー人将軍との対立などが語られている。

明石さんはNATOによる空爆を要請する権限を持っていたが、空爆は本格空爆と、国連軍を攻撃している特定兵器に対する近接航空支援の2種類あり、本格空爆にはきわめて慎重で、在任中2回だけだったが、近接空爆は20回弱許可したという。

この国連とNATOとのジョイントオペレーションは、デュアルキー(2重のキー)として明石さんは表現している。ザグレブの明石さんの部屋には、2重のキーをもじったDuel Keyという木彫りの板を飾っていたという。


ボスニア紛争当事者の群像

ボスニアにいるセルビア人勢力の代表のカラジッチ「大統領」やムラディチ将軍は情緒的民族主義者だったと明石さんは評している。

カラジッチには、次のような外交官のジョークを言った。

「Ladyが「多分ね」と言うなら、それは「イエス」を意味し、Ladyが簡単に「イエス」というようなら、Ladyとは言えない。

外交官は逆で、「多分」と言うなら、それは「ノー」を意味し、外交官が簡単に「ノー」というようなら、外交官とはいえない。」

カラジッチはカラカラと笑って、ミスター明石は自分に「ノー」という機会を与えなかったと言った。カラジッチは事実を平気で歪めることがあったという。

ムラジッチはまさに情緒的民族主義者でNATOの空爆を徹底的に恐れ、嫌っていた。

ムラジッチは、国連保護軍に属するデンマーク軍が最新式のレオパルド戦車を持ち込で、セルビア人勢力に被害が出たときに怒りを爆発させた。

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出典:Wikipedia

明石さんは、ジュネーブでの停戦交渉の時に、カラジッチやムラディッチなどのセルビア人勢力、ムスリム勢力、クロアチア人勢力を別々に日本料理屋に招待して喜ばれたと外交の裏側を語っている。

ボスニア内戦後逮捕され、獄中でなくなったミロシェヴィッチ大統領は、機会主義的民族主義者だったと評している。ミロシェヴィッチ大統領は熾烈な権力闘争を勝ち抜いた独裁的政治家で、一人だけで重大な決断をしていたという。

明石さんが1997年末に退職し、日本に帰ったあと1999年5月にコソボ危機の最中に小渕首相の要請を受けてミロシェヴィッチと再会したが、NATOによる長期の激しい空爆にもかかわらず、強気の姿勢を崩さなかったという。

クロアチア初代大統領のトゥジマンとボスニア大統領イゼトベゴヴィッチは、政治的民族主義者と評している。

クロアチアはカナダやオーストラリアで成功した海外在住のクロアチア移民から潤沢な財政援助を受けていた。トゥジマン大統領は明石さんの前でも「あのムスリムたち」と呼んで軽蔑していたという。

ボスニア大統領イゼトベゴヴィッチは、MIT出身のガーニッチ副大統領と、ハンサムガイシライジッチ首相の二人を対立させ、うまく使い分けて、自分の目的を達成していたという。

二人は欧米のメディアをうまくアピールして、外交を補った。この話は「戦争広告代理店」で紹介されている。

ドキュメント 戦争広告代理店 (講談社文庫)ドキュメント 戦争広告代理店 (講談社文庫)
著者:高木 徹
販売元:講談社
発売日:2005-06-15
おすすめ度:4.5
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最後にアメリカとの対立も紹介している。アメリカはアメリカ空軍によるNATO空爆には参加したが、地上軍の派遣は拒否した。

ブラックホーク・ダウン スペシャル・エクステンデッド・カット(完全版) [DVD]ブラックホーク・ダウン スペシャル・エクステンデッド・カット(完全版) [DVD]
出演:ジョッシュ・ハートネット
販売元:ポニーキャニオン
発売日:2006-12-22
おすすめ度:4.0
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ソマリアのブラックホークダウンで知られる、PKOアメリカ兵虐殺事件の後遺症で、PKOにアメリカ軍地上戦力を派遣することには慎重になっており、いわば手の汚れない空軍による空爆を常に主張していたという。


ボスニア内戦当時の当事者の群像が明石さんの冷静な視点から描かれている。

日本からはボスニアというと遠い場所と存在だが、ヨーロッパの民族・宗教紛争がここに集約されているといってもよい事件だ。

元々は1389年のセルビア王国とオスマン帝国のコソボの戦いに端を発しているというのも、なかなか理解しがたい話だ。

Battle_on_Kosovo1389





出典:Wikipedia


明石さんの業績を知る上で参考になる本である。


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2010年07月02日

決定的瞬間 アメリカの第1次世界大戦参戦を決定づけたドイツ外相の電報

決定的瞬間―暗号が世界を変えた (ちくま学芸文庫)決定的瞬間―暗号が世界を変えた (ちくま学芸文庫)
著者:バーバラ・W. タックマン
販売元:筑摩書房
発売日:2008-07-09
おすすめ度:4.0
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1963年にピューリッツアー賞を受賞したジャーナリスト、バーバラ・タックマンの第1次世界大戦開戦前後を描いた「8月の砲声」の姉妹作。会社の友人に勧められて読んでみた。

八月の砲声 上 (ちくま学芸文庫)八月の砲声 上 (ちくま学芸文庫)
著者:バーバラ・W・タックマン
販売元:筑摩書房
発売日:2004-07-08
おすすめ度:4.0
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「八月の砲声」では、セルビア人がオーストリア皇太子を暗殺したサラエボ事件をきっかけに、当時のイギリス、ドイツ、ロシアなどヨーロッパ各国の王室は姻戚関係にあったにもかかわらず、自国のエゴで第1次世界大戦に巻き込まれていった過程を詳しく描いている。

高校の世界史では第一次世界大戦については、ほとんど勉強しなかったので、いままでサラエボ事件がなぜドイツとロシア+フランス/イギリス連合軍の戦争に繋がるのか理解しないままでいたが、「八月の砲声」で理解できたので、別途あらすじを紹介する。

第一次世界大戦は始まってすぐにドイツ軍がバリ郊外まで侵攻しながら、マルスの戦い以降、四年間も続く塹壕戦となったという奇妙な戦争だ。

「決定的瞬間」では、膠着する第一次世界大戦の趨勢を決めたアメリカの参戦を決定づけたドイツ外相ツィンメルマンの電報が題材として取り上げられている。

第一次大戦当時からドイツの外交電報がイギリスによって解読されていたことは、長い間秘密にされ、第一次世界大戦開戦から90年以上経った2005年に、やっとイギリス公文書館が史料を公開された。このツィンメルマン電報もイギリスによって解読されていたことが明らかになった。

ドイツのエニグマ暗号をイギリスが解読したことが、第二次世界大戦の終わりを2−3年早めたと言われているが、イギリスは既に第一次世界大戦の時からドイツの暗号を解読していたのだ。

日本の暗号もイギリスやアメリカに解読されていたことは、今や周知の事実だが、イギリスのインテリジェンスに対する力の入れようが、この本を読んでもよく分かる。

それにしても第一次大戦中の1917年1月に、ドイツの外相がメキシコ駐在ドイツ大使に対して、メキシコ大統領に対米戦争の参加を呼びかけ、なおかつ日本にも対米戦争に参加するように口をきいてくれと依頼せよと電報を出したとは信じられない事実である。

ツィンメルマン電報の内容は次の通りだ。

「2月1日からドイツは無差別潜水艦攻撃を開始する。

アメリカが中立を保つようにドイツは努力するが、もしアメリカが参戦してきた場合には、ドイツはメキシコと同盟を結んでアメリカと戦いたい。

メキシコの対米参戦の代償は、テキサス、ニューメキシコ、アリゾナの領土回復である。

またメキシコ大統領から日本に対しても、アメリカに参戦するように仲介して欲しい。

無差別潜水艦攻撃を開始すれば、イギリスは数ヶ月で和平に応じるだろう。」


この電報はイギリスの海軍諜報部で解読されたが、すぐにはアメリカには渡されなかった。

ドイツが1917年2月から無差別潜水艦攻撃を開始すると宣言していたので、アメリカが憤って参戦すれば、そのままツィンメルマン電報は日の目を見ない運命だった。

しかしアメリカは参戦決定しなかったので、イギリスはツィンメルマン電報のコピーをスパイが入手して、それをアメリカ大使に渡した。

こうすればイギリスがドイツの電報を解読していたことは隠しておけるからだ。

アメリカ大統領ウィルソンは電報内容に憤慨し、通信社に情報を流し、1917年3月1日の世界の主要新聞にツィンメルマン電報が公表される。

当初アメリカのメディアはこの情報の信憑性を疑問視していたが、本人のツィンメルマンが3月3日に電報は本物であるとあっさり認める大失態を犯した。

ドイツがメキシコと日本をそそのかして、米国に戦争をしかけようと画策していたことにアメリカの世論は衝撃を受けた。

ウィルソン大統領は中立を撤回して、1917年4月の歴史的議会演説とともに、ドイツを「自由に対する天敵」と呼んで、議会の承認を得て第一次世界大戦に参戦したのだ。

実は日本は第一次世界大戦では、連合国のなかでは開戦後、最もすばやく動いた国だ。

開戦後三ヶ月の1914年11月までにドイツの青島租借地、ヤップ、トラック、マーシャル、カロリナなどのドイツ領の島々などを占領していた。

まさに帝国主義的領土拡大に積極的に動き、1915年1月には対華21ヶ条の要求を突きつけている。

このブログでも紹介した関榮次さんの「日英同盟」にも書かれている通り、日本は一九一七年に地中海に艦隊を派遣し、ドイツ・オーストリア帝国の潜水艦と闘って、駆逐艦大破という被害も被っている。

日英同盟―日本外交の栄光と凋落日英同盟―日本外交の栄光と凋落
著者:関 栄次
販売元:学習研究社
発売日:2003-03
おすすめ度:4.0
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連合国側でドイツ領土を占領していた日本に、対米参戦してくれとメキシコ大統領に仲介を呼びかけるというのは、ドイツ外相のセンスを疑う一面もある。

しかしアメリカ、特にカリフォルニア州は日本人移民をターゲットに学童差別や土地所有の禁止などで日系人を排斥しており、それの不満が日本側にあることに目を付けた行動でもある。

事実日本はメキシコと艦隊の親善派遣や軍事交流などで親密化していたという。

このツィンメルマン電報が公表されて以来、日本に対する警戒感がアメリカ人の心に深く刻み込まれたのかもしれない。

日本は1918年の第一次世界大戦のパリ講和会議で、世界ではじめて人種差別撤廃を訴え、16票中11票の賛成を獲得し、そのまま成立すると思われていた。

しかしアメリカ大統領ウィルソンが猛反対し、それまで多数決で決められていた議決を、重要事項は全会一致が必要とルールを変えて否決したのだ。

アメリカの人種差別が南部を中心に1960年代まで残っていたことを思えば、ウィルソンの反対は当然かもしれない。

テレビドラマ「コンバット」などでは、アメリカ軍の白人兵と黒人兵が一緒に戦っているシーンが出てくるが、あれは作り話で、実際には黒人兵は黒人兵だけで部隊編成されていた。



これも会社の友人の勧めで読んだディヴィット・ハルバースタムの「ザ・コールデスト・ウィンター 朝鮮戦争」でも、朝鮮戦争の時も同様に人種別編成だったことが紹介されていた。

ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争 上ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争 上
著者:ディヴィッド・ハルバースタム
販売元:文藝春秋
発売日:2009-10-14
おすすめ度:4.0
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閑話休題。

1924年には排日移民法も成立し、アメリカは日本との対立を深めていく。

日本に対する不信感をアメリカ人に植え付けたツィンメルマン電報が、1941年の日米開戦の遠因となったとも言えなくもないかもしれない。

「八月の砲声」といい、「決定的瞬間」といい、あまり知られていない第一次世界大戦の時の事実がわかり、大変興味深い。

第二次世界大戦の戦史や歴史なら読んだ人が多いと思うが、第一次世界大戦の歴史も知っておくと、第一次世界大戦が次の大戦にどのように影響したのかが理解できて面白い。

特に歴史好きの人にはおすすめの二冊である。


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2010年02月02日

大君の通貨 米国領事ハリスの為替投機と幕府の隠し財源喪失

大君の通貨―幕末「円ドル」戦争 (文春文庫)大君の通貨―幕末「円ドル」戦争 (文春文庫)
著者:佐藤 雅美
販売元:文藝春秋
発売日:2003-03
おすすめ度:4.5
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幕末の開国当時、幕府が人為的にコントロールしていた国内の金・銀交換率に目を付けたタウンゼント・ハリスは私服を肥やす一方、それが外圧でくずれた時、幕府の弱体化につながったという歴史の皮肉を描く小説。

前回紹介した講談社アメリカが米国で英語出版した日本の小説の一つなので読んでみた。


イギリスのオールコック

この小説の中心人物は、幕末に日本に駐在して「大君の都」という日本事情を書いたイギリスの初代中日外交代表ラザフォード・オールコックとアメリカの初代駐日公使タウンゼント・ハリスだ。
大君の都 上―幕末日本滞在記
著者:オールコック
販売元:岩波書店
発売日:1962-04
おすすめ度:4.0
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オールコックは元々外科医で、中国の廈門で開業していたが、リューマチ性の熱病に罹って手が使えなくなり、外交官に転じ、1859年に日本に来る前に中国に10年間駐在していた。オールコックが中国に駐在していた10年は激動の時代だった。

当時イギリスは中国から1万トンを越える茶を輸入しており、輸入超過が続いていたが、貿易不均衡を是正するために中国にアヘンを売り始め、中国の反発を武力で押さえつけ、これが第1次アヘン戦争第2次アヘン戦争につながり、南京条約天津条約が結ばれ、香港の割譲などイギリスの中国に於ける権益は確立された。

オールコックは結婚していたが、中国に来てすぐに妻を亡くし、日本駐在当時は独身だった。ハリスは生涯独身を通した。


アメリカのハリス

ハリスは元々陶器を扱うニューヨークの商人上がりのにわか外交官だった。日本へは老後の蓄えを貯めるためにやってきたという。

ハリス来日前の1853年と1854年の二度のペリー黒船来訪でアメリカは日米和親条約を締結し、ペリーは「日本遠征記」を書き残している。
ペリー艦隊日本遠征記 上ペリー艦隊日本遠征記 上
販売元:万来舎
発売日:2009-04
おすすめ度:5.0
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ハリスは1856年に下田の駐日外交代表兼総領事として赴任した。ハリスは精力的に幕府と交渉し、諸外国に先駆けて日米修好通商条約を締結して一躍名を上げた。

開国前から日本は物価の世界一安い国としてアジアにいた欧米人には有名だったという。その当時から日本に進出していた最大の商社は、今も活動しているジャーディン・マセソンだ。


人為的な幕府の金銀交換率

外交交渉ではドルと日本の通貨の交換率でもめた。当時の日本の通貨では金貨の1両=4 x 一分銀、1分銀=4 x 安政二朱銀となっており、開国後は幕府は1ドル=1一分銀を要求したという。

これは当初の三倍の交換率で、日本はこれにより世界で一番物価の高い国となるので、どの船も日本寄港は見合わせることとなり、ペリーが考えていた捕鯨船の補給港確保という目的が達成できなくなる恐れがあった。

一方日本国内の金と銀の交換率は重量比だと1対5だった。世界の相場は金:銀は1:16だったので、日本の一分銀貨を含有量ベースで等価に近い料率で獲得して、それを日本で小判に換えれば、国際相場の1/3で金を入手できるのだ。当時の横浜では外国人による小判の買い漁りが起き、日本の金が大量に流出していたという。


ハリスの利殖

ハリスは敬虔なプロテスタントということになっていたが、この小判投資に目を付け、私服を肥やしていたことを、1859年に駐日総代表として着任したイギリスのオールコックに見透かされたという。

幕府に国内の金:銀交換率の変更を申し入れるべきだと一緒に主張しようと呼びかけるオールコックの前に、ハリスは言い訳を並べたが結局同意した。

にわかに起こったゴールドラッシュはアメリカの一般人も巻き込み、ついには戦艦ポーハタン号で香港から銀を運び込み、小判に換えるという小判漁りが起こり、アメリカ本国の新聞にも報道され、後に大きな問題となった。

このポーハタン号の不始末が原因でハリス自身も小判漁りで巨額の利益を得ていたことがアメリカ政府に知れることになる。しかし1861年から南北戦争が起こったために、ハリスの処分はなされず、ハリスは1862年に後任と交代した。

オールコックとハリスが幕府に小判の価値を4 x 一分から、12〜13 x 一分に引き上げるべきだと勧告したが、幕府はすぐには金価格を引き上げなかった。オールコックの動きは、小判で儲けていた外国人の反感を買うことになり、オールコック自身も1862年の一時帰国の際に、イギリス大蔵省から個人的な利殖をしていたということで糾弾されることになった。


幕府の不正蓄財が明るみに

これがこの小説の肝になるところだ。

実は幕府は改鋳で銀貨の純度を既に1/3に落としていたのだが、オールコックはそれを知らずに幕府に小判と一分銀の交換レートをハリスと共同して外圧で変更させたため、銀の純度に気が付いた商人が一挙に3倍以上に値段を上げ、物価が跳ね上がってしまったのだ。

これで武士階級の生活は困窮し、武士階級のエネルギーが一挙に倒幕に向かったという。

オールコックが1862年に出版した「大君の都」では、急遽最後の39章に「日本の貨幣制度と通貨の問題」を新たに書き加え、小判で自身が儲けていたという攻撃をかわし、自分は日本駐在で貧しくなって帰国したと自らの潔白を主張している。

幕府は天保一分銀などの代用貨幣を発行することにより、文政元年(1818年)から、安政四年(1857年)までの40年間に1,800万両余り、年平均で四五万両の益金を得ていた。これは物納の米を除く全歳入の4割弱を占めていた。

これが一挙になくなり、長州征伐もかけ声だけで何も出来ないくらい財政は逼迫してしまったという。

オールコックは「大君の都」を発行した後、再婚した妻を連れて1864年に日本に再赴任し、その後駐清公使として栄転し、1871年に外交官を引退した後も王立地理学協会会長になり、活躍した。


為替での利殖は現代でもある

この本では江戸時代末期の駐日外交官達が、私利私欲を肥やしていた話が中心となっているが、為替で大きなもうけを上げるということは現代でも起きている。

たとえば昔のイランリヤルの闇相場だ。イラン・イラク戦争の時代にイランに出張した時に、乗り継ぎのドバイで、ドルをイランリヤルに自由相場で交換して持ち込んだことがある。試しにやってみただけで、大した金額ではなかったが、それでも6倍程度の自由相場で交換できた。

1978年から1980年までアルゼンチンに駐在していた時は、超ハイバーインフレはやや収まっていた時代なので、闇レートも公定レートもあまり差はなかったが、この時代の南米でも闇レートと公定レートが大きく乖離するということがあった。

もっとも闇レートといっても、両替店の裏に行ってコソコソと替えるのではなく、おおっぴらに両替店がレートを公表して、それで交換するので、闇というよりは自由相場といった方が良いと思う。

1990年代のアルバニアでは、首都ティラナの中央広場に両替商が集まっており、旅行者に声をかけて直取引で外貨を現地通貨に替えていた。まさにオープンスペースのフリーマーケットである。

このように今でも途上国通貨は闇レートが存在する。

オーストラリアドルとか、ニュージーランドドルなど、外貨預金や外貨FXなどはポピュラーな投資になってきた。

今のお金で数億円稼いだというハリスの利殖も、外交官という特権を利用していたことは大きな問題だが、為替投機自体は大きな問題ではないと思う。相場の変動リスクを背負うだけである。


開国が思わぬ形で幕府の財政困窮を招き、幕府が倒れる引き金となったという面白いテーマの小説である。


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2009年12月08日

写真で読む「坂の上の雲」の時代 あらためて日露戦争を研究する

写真で読む「坂の上の雲」の時代写真で読む「坂の上の雲」の時代
著者:近現代史料編纂会
販売元:世界文化社
発売日:2009-11-11
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「坂の上の雲」で取り上げられている日清戦争、日露戦争の歴史を写真や資料で振り返る本。今年11月に発売されたばかりだ。

NHKでこれから3年をかけて「坂の上の雲」が放送されるので読んでみた。



坂の上の雲〈1〉 (文春文庫)坂の上の雲〈1〉 (文春文庫)
著者:司馬 遼太郎
販売元:文藝春秋
発売日:1999-01
おすすめ度:4.5
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「坂の上の雲」は、経営者が推薦する図書のランキングには必ず入っている本で、筆者は20年ほど前に読んだ。結婚の時に家内が持ってきた本の中にあったのだが、昔読んだ時はその壮大なドラマに夢中になって読んだものだ。

この本では、日本の李氏朝鮮への侵略野望、台湾出兵、日清戦争、三国干渉、そして日露戦争という一連の流れをビジュアルに紹介している。

日露戦争の有名な戦闘の鴨緑江渡河作戦、金州・南山の戦い、遼陽会戦、旅順港封鎖作戦、旅順攻略戦、奉天会戦、そして日本海海戦の両軍の配置図、戦闘の流れ、使われた兵器、戦死者・戦病死者数などを詳しく解説している。

その他、陸軍と海軍それぞれの「軍神」誕生の背景や、世界から賞賛された沈没したロシア軍軍艦からのロシア兵救出の人道的活動など様々な逸話を紹介している。


舞台は中国遼寧省

筆者は、米国駐在の時に中国から原料を輸入していたので、日露戦争の舞台になった大連や遼陽などのある遼寧省は何度も訪問した。

最初に訪問したのは1986年の冬だ。真冬に旧満州に行くので、相当寒いと予想して行ったら、雪がないので拍子抜けした。寒いことは寒いが、建物から一歩出たら、凍るような寒さという訳ではなかった。

遼陽附近は世界でも有数の天然マグネサイトの産地で、日露戦争の戦場となった大石橋や海城などは有名なマグネサイトの鉱山だ。

営口には中国と日本の合弁の工場もあり、そこも何度も訪問したが、この本を読むまでは、大石橋や海城、営口が日露戦争の時に戦場となっていたことは知らなかった。全く恥ずかしい限りだ。

今もあるのかどうかわからないが、旧満州鉄道の主要駅沿いには旧大和(ヤマト)ホテルがあり、遼陽の大和ホテルで一泊した。昔風の装飾の立派なホテルだが、部屋数がたしか数十部屋しかないので、今のスタンダードからするとブティックホテルのような感じだ。

二度目の米国駐在の時の1998年〜2000年に行った時は、大連から高速道路が出来ていたが、最初行った1986年には大連から旧満州鉄道沿いに高い並木の街道があり、片側一車線だった。

対向車が来ている中で、中国人の運転手がどんどん前の車を追い越すので、生きた心地はしなかった覚えがある。

この本によると旅順が観光客に公開されるようになったのは1996年だそうだが、筆者は旅順は行ったことがない。旅順が中国海軍の軍港だから、中国人も自由には旅順には行けないと聞いた記憶がある。

最初に行った1980年代後半は、商業港の大連港や大連空港でも写真撮影は禁止されていたものだ。

閑話休題。


旅順攻防戦と日本海海戦

この本の最初のグラビアでは日本海海戦の写真や絵、戦艦三笠の構造図や日露戦艦の紹介、日本海海戦の両軍の動き、兵器の紹介などがあり興味深い。

次が有名な日本海海戦の時の東郷平八郎大将他の連合艦隊幹部の絵だ。

中央の東郷平八郎大将の右が「坂の上の雲」の主人公の一人、秋山真之参謀、左が後に総理大臣となる加藤友三郎参謀長だ。

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出典:別記ない限りWikipedia

この本では、旅順の地形図が紹介されているのが興味深い。

旅順





出典:本文178−179ページ

旅順が周りを要塞に囲まれた要塞都市であることがよくわかり、旅順港を見下ろす有名な203高地が、いかに戦略的に重要なのかがわかる。

日本は乃木希典の第3軍が何度も正面攻撃を繰り返しては、機関銃を装備したロシア軍守備隊の前に、死者を積み重ね跳ね返され、日本内地から移送した28センチ砲の砲撃によりやっと203高地を占領した。

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203高地を占領してからは、旅順港が一望で見渡せることとなり、砲撃で旅順港に停泊中のロシア旅順艦隊を全滅させ、後顧の憂いを無くして、日本海海戦に臨んで大勝利を挙げたのだ。

この本では、旅順司令官ステッセルと乃木大将の水師営の会見や、ロシア軍捕虜の松山などでのお客様待遇などの逸話を紹介している。水師営の会見の両軍一緒の記念写真など、今では考えられない両軍の騎士道・武士道精神のあらわれだ。

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ロシア軍司令官ステッセルは帰国後、軍法会議で死刑が宣告されたという。


乃木大将の評価を180度変えた「坂の上の雲」

この本では、戦前から軍神とされ、自宅跡が乃木神社になっている乃木希典大将の評価が、昭和43年(1968年)に180度変わったことを指摘している。

その年に産経新聞で「坂の上の雲」の連載が始まったからだ。

乃木大将自身は二人の息子を日露戦争で失っており、明治天皇が崩御したときに、夫人とともに殉死した。

司馬遼太郎が乃木希典と、その副官伊地知参謀を書く上で参考にしたのが、戦犯として戦後処刑された谷寿夫陸軍中将が戦前に執筆した「機密日露戦史」だという。

機密日露戦史機密日露戦史
著者:谷 寿夫
販売元:原書房
発売日:2004-05-25
おすすめ度:5.0
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戦前は機密扱いされて出版されず、陸軍大学校でしか見ることができなかったが、戦後原書房から出版され、司馬遼太郎が見ることになった。

著者の谷中将の陸大時代の校長が、日露戦争当時の満州軍参謀の井口中将で、井口中将は伊地知参謀と士官学校の同期だった。旅順攻撃時から要塞攻撃方法で対立、つかみ合いの喧嘩にならんばかりだったという。

結果論ではあるが、正面攻撃論の伊地知説に対し、要塞迂回論の井口説が正しかったという考えが陸大にあり、それで谷中将は乃木大将の第3軍の要塞正面攻撃作戦を批判する「機密日露戦史」を書いたのだ。


ポーツマス講和会議でのルーズベルトの好日的態度

この本では日露戦争当時の米国大統領セオドア・ルーズベルトの好日的態度と、ルーズベルトの樺太占領勧告に従い、終戦直前に日本が樺太を占領して、ポーツマス条約で南樺太と南千島列島をロシアから割譲した経緯が紹介されている。

日本はルーズベルトのハーバード時代の学友の金子堅太郎男爵を特使に派遣したり、それなりの努力はしているが、ルーズベルトの好日的態度の背景には、日露両国がつねに拮抗する軍事力を保持して、極東に緊張状態を保つことがアメリカの国益に合致するというアメリカの戦略があった。

ルーズベルトが「日本のために働く」と言ったのは、そういったアメリカの深慮遠謀もあったのだ。

この本では、ポーツマス条約での日本が出した講和条件の、甲:絶対的必要条件、乙:比較的必要条件、丙:付加条件が紹介されている。

ロシア国内ではニコライ二世の帝政ロシアに反対する民衆の反政府運動が活発化していたが、ロシアは戦力でも日本を凌駕しており、軍隊をロシア領内に引き戻しただけなので、いつでもまた南下できる体制にあった。

一方の日本は旅順占領や奉天会戦、日本海海戦で勝利を収めたものの、弾薬も底をつき、到底戦争を継続できる状態ではなかった。

ニコライ二世は、「一銭の賠償金も、一握の領土も譲ってはならない」とウィッテ全権代表に命令していたことから、ポーツマス講和会議でも決裂が危ぶまれた。

800px-Treaty_of_Portsmouth





だから日本はルーズベルト勧告に従い、樺太を後略した。樺太のロシア軍は歩兵1個連隊、民兵約2,000人で、日本軍の敵ではなく、1ヶ月で日本が樺太全土を占領した。これによりポーツマス講和会議を有利に展開できることになったのだ。

ルーズベルトはニコライ二世に親書を送るほか、ニコライ二世と親しいドイツのウィルヘルム二世、フランス、イギリスなども動かして、ロシア政府とニコライ二世を説得し、ロシアが日本の絶対必要条件と、南樺太と南千島割譲を認めることで妥協が成立し、1905年9月ポーツマス条約が成立した。

日本が継戦能力がないという実態を知らない日本国民は、戦勝にもかかわらずロシアから賠償金が取れないことで暴動を起こした。


日本海軍が忘れた東郷平八郎の連合艦隊解散の辞

この本の最後では、東郷平八郎大将の連合艦隊解散の辞を紹介している。

「神明はただ平素の鍛錬に力め戦わずしてすでに勝てる者に勝利の栄冠を授くると同時に、一勝に満足して治平に安ずる者よりただちにこれをうばう。

古人曰く、勝って兜の緒を締めよと」

まさにその後の太平洋戦争に至る日本海軍の驕りを戒める言葉だ。

太平洋戦争では、日本海軍は緒戦戦勝の驕りと、日本海海戦や旅順砲撃の過去の教訓にこだわり、臨機応変の戦いができなかった。ミッドウェー海戦で負けたのも、それが理由である。

この東郷平八郎の言葉が後世に活かされていたら、日本海軍もアメリカを相手に、初めの一年を除き、全敗という次の表のようなていたらくにはならなかったのではないかと思う。

日米主要艦推移






出典:太平洋に消えた勝機 (光文社ペーパーバックス)本文230ページ

ドラマを見る上で、豊富な写真とイラスト、逸話は参考になる。パラパラめくっても楽しい。タイムリーな出版だと思う。


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2009年12月06日

堺屋太一 東大講義録 文明を解く 知価革命に至る歴史

東大講義録 ―文明を解く―東大講義録 ―文明を解く―
著者:堺屋 太一
販売元:講談社
発売日:2003-04-11
おすすめ度:5.0
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堺屋太一さんが2002年4月から7月まで12回にわたって東大先端科学技術研究センターで行った講義録。


堺屋さんの略歴

堺屋太一さんは昭和10年(1935年)生まれ。今年で74歳だ。大阪の住吉高校から二浪して東大の今の文IIIに入る。建築家を志して学生会館の設計で一等賞を取るが、目が悪いので作図には向かないとして断念して経済学部に進む。

堺屋さんが東大卒の元通産官僚とは知っていたが、秀才型のキャリアでは全くないことをはじめて知った。

退職者が最も多くの分野で活躍しているという理由で官僚をこころざし、昭和35年に通産省に入省。このときの公務員試験は生涯で一番の出来だったという。

昭和37年の通商白書で世界に先駆けて「水平分業」論を打ち出す。その後「日本で万国博覧会を開催しよう」と提唱すると、政策として決まっていないことを外で言って歩くのはけしからんとして、辞表を書けと言われる。

なら懲戒免職にしてくれとがんばっていると、そのうち万博の支持者が増え、役所でも賛成論が出て誘致活動ができるようになった。

昭和45年の大阪万博の次に、沖縄に赴任、昭和50年に沖縄海洋博覧会を開催する。その後太陽光発電とか石炭液化のサンシャイン計画を担当した後に、昭和50年にはベストセラーとなった「油断!」、51年には「団塊の世代」を出版。

油断! (日経ビジネス人文庫)油断! (日経ビジネス人文庫)
著者:堺屋 太一
販売元:日本経済新聞社
発売日:2005-12
おすすめ度:5.0
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団塊の世代 (文春文庫)団塊の世代 (文春文庫)
著者:堺屋 太一
販売元:文藝春秋
発売日:2005-04
おすすめ度:3.5
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「油断!」は筆者も学生時代に読んだが、石油供給が止まり、日本各地に死者が発生したことを示す赤いランプが続々点って、主人公が愕然とするシーンは今でも思い出す。たしか通産省の現職課長が書いた覆面小説というふれこみだった。

ベストセラー作家としてデビューできたこともあり、いずれ官僚主導の時代ではなくなると見越して昭和53年に通産省を退職。未来予測小説と歴史小説の2分野で、多くの作品を生み出し、「峠の群像」と「秀吉」はNHKの大河ドラマになる。

小渕内閣の時には経済企画庁長官にも起用された経済の専門家であり、ベストセラー作家でもある。堺屋さんは筆者の好きな作家なので、このブログでも最近の作品を2冊紹介している


堺屋さんの講義

そんな経歴を持つ堺屋太一さんが、この講義で、世界と日本の近代にいたる道、日本の近代工業社会の盛衰を分析し、「知価革命」が起こっている現在の社会の構造を解明する。

「知価革命」とは、「人間の幸せは物財の豊かさではなく、満足の大きさである」という考え方で、近代工業社会の否定であり、人類が産業革命以来200年ぶりに迎えた時代を変える革命のことである。

この本が出た当時は小泉政権だったが、小泉首相は「小泉内閣くらい改革を実行しているところはない」と言うが、実態は何も変わっていないと切り捨てている。

現在の経済学には3つの流派があるという。

第1は新古典派、近代工業社会の理論が今でも通用するという学派。
第2はニューエコノミー派。近代工業社会が、情報産業の発展により高度情報社会となり、景気変動が少なくなるという理論。
第3が堺屋さん自身も属するというニューパラダイム派で、近代工業社会は終わり、今始まろうとしているのは知価社会の初期であるという主張。


1990年以降の日本の衰退

堺屋さんはまず1990年以降の日本の衰退の現実を数字を挙げて説明する。なぜ日本経済が1990年を境に変わったのかが、この講義のテーマだ。

1990-2001JPNS economy





出典:本書31ページ

劇的に下がったのは、市街地の地価だ。1990年の100に対し、2001年は17でしかない。1990年以降の自民党政権下の財政不均衡もひどい。次が国の財政収支の推移だ。

財政不均衡






出典:本書33ページ

このように1990年を境として日本経済の流れは大きく変わった。これは人類の文明が大きく変化したのに、日本が立ち遅れているからだと堺屋さんは説く。


減税の効用

いろいろ面白い話が紹介されているが、一番印象に残ったのは、日本の最高税率と米国のレーガノミクスの話だ。

次がこの本で紹介されている日本の最高税率の推移だ。

日本の最高税率




出典:本書192ページ

NHK大河ドラマ「坂の上の雲」の作者、司馬遼太郎さんの話が面白い。

司馬さんが自分は原稿を1枚書くと3万円になり、自分のところの書生は4千円なので、俺は努力と幸運と才能の結果、あいつの8倍くらい稼げるようになったと思って喜んでいた。

しかし、よくよく考えると自分は88%を税金で持って行かれる、3万円あっても、3千6百円しか残らない。しかし書生は所得が低いから、無税で4千円全部残る。あいつの方が実質所得は上かと思った途端に創作意欲がなくなったという。

ちなみに最低課税所得額は夫婦二人で約400万円で世界でも高い水準である。

一方アメリカではレーガノミクスで、情報産業や観光産業が盛んになり、金融業が大発展した。都市は明るくきれいになり、雇用が2,000万人増えが、製造業は輸入品の洪水で大打撃を受け、雇用は製造業からサービス業に移った。

レーガン減税では、多くのタックスシェルターがあるかわりに最高70%まで逓増型だった従来の税率を、一挙に15%と28%の2本に簡素化し、タックスシェルターの多くを廃止した。

筆者は1986年から米国に駐在していたので、レーガン減税には驚いたものだ。タックスシェルターはたとえば以前は家を何軒持っていても、借入金の金利はすべて所得から控除できたが、レーガン減税以降は2軒までに限定された。

相当な金持ちしか3軒以上家を持っていないので、金持ちの最高税率を下げるかわりに家の借り入れ金の金利控除を制限するというのは実際的な措置だった。

レーガノミクスで雇用がふえたのは、製造業が縮小して、サービス業とりわけ知価産業が伸びたからだ。

堺屋さんが語るレーガノミクスのすごさは、まずは減税をして財政を黒字化するという20年単位で考えた点だという。実際クリントンの1996年からは黒字となって、湾岸戦争まで黒字を続けた。

実に壮大な絵を描いたものだ。

日米ともに実効税率は大幅に低下しているが、それが経済の活性化とつながったかどうか、経済の活性化につなげるにはどうしたらよいのかを考えさせられる講義である。


公務員で出世する法というのも面白い

国家公務員になって出世したいなら、事前に議題に関係のある数字を30ばかり覚え、関連の法律の条文も30くらい覚える。そして会議の場で「慎重に」と言うことだと。

会議の席では、「これこれの予算がかかりそうです。わが省の予算枠から見るとキツイので、慎重に考えた方が良い」、「何々法何条何項に抵触する心配があるので、よほど慎重に考え、これらの問題がクリアーできるなら賛成する」

というように、「慎重に、慎重に」と言えば、最後に責任を取らなくて良いのだ。失敗したら、「私は慎重にやれといったのに」と逃れ、成功したら、「わたしがあれだけいろんなことをやったから、やはり成功しましたね」と言えばいい。

決断しないということほど怠惰なことはないと。


知価革命の影響

戦後日本の国是は、1.日米同盟を基軸に西側自由主義陣営に属し、軍事小国、経済大国を目指す、2.規格大量生産型の近代工業社会を確立するというものだった。

堺屋さんがいう「昭和16年体制」が成立し、帝国主義、軍備の拡大と、国内的には中央集権、統制経済(情報統制、経済統制)、没個性教育が実施され、戦争で帝国主義と軍備は無くなったが、他は戦後も残った。

ところが1980年代に知価革命が起こり、規格大量生産型の近代工業社会は変質したのだ。


日本のアルゼンチン化

日本に知価革命を起こさないと、日本は20世紀のアルゼンチンのようになると警鐘を鳴らす。

20世紀初頭のアルゼンチンは世界有数の豊かな国で、イタリアから出稼ぎに来た母を捜してマルコ少年はイタリアのジェノバから旅をした。

マルコ少年はブエノスアイレスの町に着いて、その豊かさに驚く。いまならアルゼンチンからイタリアに出稼ぎにいくようになるだろうと。

そして日本から中国・アジアに出稼ぎに行く時代も遠くないかもしれない。

筆者がアルゼンチンに住んでいた時代の話は、堺屋さんの「団塊の世代”黄金の十年”が始まる」のあらすじで詳しく紹介したので、参照して欲しい。 


首都移転賛成論

日本の歴史を見ると、首都が変わらない限り改革が成功したためしはないという。世界の工業国の中でも、戦後首都圏の経済・文化に占める割合が上昇したのは日本だけだ。

アメリカ東部、ロンドン近郊、ローマ、パリもすべて人口は減少したが、東京だけが集中している。


日本の問題は低い起業率

日本の問題は、低い起業率だ。

起業率は4%くらいだが、5%の会社が無くなっているので、この10年間事業所の数がどんどん減っている。アメリはは起業率15.5%、155件起業して、130件つぶれるので、20件ずつ増える。

ドイツもイギリスも同様だと。日本では大企業に入るのが安全だという風潮で、20代で起業する人が少ない。50代での起業が多く、創業者の年齢が高くなっている。


その他のトピック

その他にも面白い話が多い。印象に残ったトピックだけ箇条書きで紹介しておく。

★ピラミッドは墓ではあるが、公共事業を主目的として墓をつくったので、王が長生きすると第2、第3のピラミッドをつくった。ちょうど今の道路公団と似た形態だ。これはイギリスのメンデルスゾーンという学者の説である。

★カルタゴのハンニバルの象は、チュニジアから連れ来た。当時はチュニジアにも森林があったが、木の根っこを食べてしまう羊の放牧と、森林の伐採で砂漠化が進み、ローマ時代に人口は減少したという。

★十字軍の後、貿易が盛んになり、肉の保存用の胡椒の取引が盛んになる。東洋の胡椒を中東を通さないで、直接取引するためにポルトガルのエンリケ航海王子が資金を出してバスコダガマがインド航路を開発した。

★15世紀はヨーロッパでは人口が減少し、イタリアでは1340年の930万人が1500年には550万人に減った。

★16世紀頃には西欧も中国も日本も大差なく、日本の鉄砲生産は世界一だった。日本は外国から技術を学ぶとすぐ世界一になるという能力がぬきんでているのだ。

★江戸時代の日本は、効率よりも安定が求められたので、自給自足の閉鎖社会が維持されたが、その間18世紀から19世紀のヨーロッパでは効率至上主義の産業革命が起こって、経済は大きく成長した。

★応仁の乱から関ヶ原までの100年で、人口は2倍、GDPは3倍になり、関ヶ原から元禄までの100年間でやはり人口は2倍、GDPは3倍になった。元禄時代の日本の人口は2,600万人から3,000万人くらいだったという。

★「マッチは三角形」事件も面白い。銀行の役員と宴会をしていた大蔵省の担当課長が、「マッチは三角形がいいね」とつぶやいたら、「マッチは三角形が大蔵省の意向だ」ということになり、半年で全国の銀行のマッチが三角形になったのだという。

★第2次世界大戦後恐慌が起こらなかった理由は、資源供給が豊かだったことが最大の原因だと語る。資源のない国が有利になったのだ。今は需給均衡からやや供給過剰状態に戻っているが、1割足りないと石油と食料の価格は2倍になるという。

★真球のボールベアリングはその道10年くらいの熟練者がつくらないとできないので、世界ではスウェーデンのSDKと日本の東大阪の中小企業だけだったのが、1980年代になってコンピューター制御になって中国でもつくれるようになった。

★堺屋さんが東大経済学部で学んだ時は、マルクス経済学でなければ経済学でない、他の学説は非科学的であるというのが主流だったという。マルクスの理論は、結局官僚主導だという。

資本論 1 (岩波文庫 白 125-1)資本論 1 (岩波文庫 白 125-1)
著者:マルクス
販売元:岩波書店
発売日:1969-01
おすすめ度:4.0
クチコミを見る

筆者もマル経の東大と言われたマル経の人たちはどこに行ったのかと不思議に思う。


学生向けの講義なので、ところどころで堺屋さんの原稿料や印税収入など本音トークも混じっていて、面白い講義だ。2002年の講義ではあるが、今も参考になる本である。



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2009年10月03日

日本海軍の戦略発想 ”マベリック”海軍参謀の敗戦分析と反省記

+++今回のあらすじは長いです+++

日本海軍の戦略発想日本海軍の戦略発想
著者:千早 正隆
販売元:プレジデント社
発売日:2008-12
おすすめ度:5.0
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最後の海軍大学卒業生で、終戦の時に連合艦隊砲術参謀中佐だった千早正隆さんが昭和22年に書いた日本海軍の反省記の改訂版。プレジデント社で1982年に発売され、1995年に文庫本になっている。

読んだのは中公文庫版だが、2008年12月に、プレジデント社から再発売されている。たぶん日本海軍の戦略の失敗の現代的意味を問い直そうということだろう。

千早さんは戦後GHQの戦史室調査員となり、このブログでも紹介した「ミッドウェーの奇跡」などを書いたGHQ戦史室長ゴードン・プランゲ博士の調査に協力した。

この本は英訳されて、多くの英語の戦史研究に引用されている。


千早さんはいわば”マベリック”

映画トップガンを見た人は覚えているだろうか?トム・クルーズが演じる主人公のコードネームが”マベリック”だ。マベリックとは、異端者、へそまがりという意味で、千早さん自身も自らの性格をそう評している。



たとえば千早さんはアメリカ人の戦争観を知るためにシンガポールで押収した「風とともに去りぬ」を見たいと、海軍大学時代に言いだしたが、さすがにこれは認められなかったという。



次にクレマンソーを研究したいと言い出して、クレマンソー研究家の酒井陸軍中将を招いて講演をしてもらったら、酒井中将は大東亜戦争出直し論を2時間論じたという。

クレマンソーといえば、「皇族たちの真実」で終戦直後の総理大臣に就任した東久邇宮稔彦王が、フランス留学時代に親交のあった元首相のクレマンソーに警告されたという話を思い出す。

「アメリカが太平洋へ発展するためには、日本はじゃまなんだ。(中略)アメリカはまず外交で、日本を苦しめてゆくだろう。日本は外交がへただから、アメリカにギュウギュウいわされるのにちがいない。その上、日本人は短気だから、きっとけんかを買うだろう。

つまり、日本の方から戦争をしかけるように外交を持ってゆく。そこで日本が短気を起こして戦争に訴えたら、日本は必ず負ける。アメリカの兵隊は強い。軍需品の生産は日本と比較にならないほど大きいのだから、戦争をしたら日本が負けるのは当たり前だ。それだからどんなことがあっても、日本はがまんをして戦争してはならない」

まさにクレマンソーの警告した通りの展開になったわけだ。


海軍大学卒業に際して放校になりかける

海軍大学卒業に際して、教授連に対して、ほとんど造反ともいえるマベリックぶりを見せた。

千早さんたち学生に意見を求められたので、千早さんは海軍大学の教育方針を独善的で各科バラバラであると評した。

科学的に戦争そのものを分析して、日米戦の対策はどうあるべきかという大命題の下に、あらゆる科目を統合して研究すべきで、艦隊の運動の研究などはその一部にすぎないと書いた。

「現在の戦況の苦境もつまるところ、研究に不真面目であったためである。深く戒む(いましむ)るところがなければならない」と要約したら、翌日学生全員が集められ、主任教官より名前を挙げて譴責されたという。

処分の話も出たが、同期生全員がかばってくれたのと、校長が代わったので処分なしで終わったという。


参謀としてもマベリック

参謀としても並み居る海軍大学出身参謀たちと対立して、ビアク島防衛の重要性を強調し、「ビアク気違い」と呼ばれたりしたという。

ちなみにビアク島には1万人の兵力が駐留し、米軍の攻撃までに十分陣地を構築する時間がなかったにもかかわらず、善戦して米軍を手こずらせたのでマッカーサーは激怒し、指揮官を子分のバターンボーイズの一人のアイケルバーガー中将に代えている。

マッカーサーが厚木飛行場に乗り込んできた時に、ぴったり寄り添っているのがアイケルバーガー中将だ。

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出典:以下特記ないかぎりWikipedia


千早さんの経歴

千早さんは昭和2年の海兵第58期生。昭和5年に海兵を卒業後、すぐに艦隊勤務となり、駆逐艦、巡洋艦などの現場を経験し、砲術学校での学習を経て巡洋艦・戦艦の対空砲の分隊長となった。

千早さんの書いた艦隊防空のレポートは、海軍省の昭和16年の最優秀作品に選ばれたという。

千早さんは戦艦大和の艤装作業に立ち会い、大和は1トン爆弾の直撃にも堪えるように全体を装甲200ミリの鉄板で覆っているのに、巡洋艦から転用した副砲塔の装甲は30ミリしかないことを指摘したという。

戦争が始まると戦艦比叡に乗艦し、昭和17年11月の第3次ソロモン海戦で比叡が夜間探照灯砲撃で集中攻撃を受けた際に千早さんも両手の親指を負傷するが、奇跡的に指はつながり、内地で病院生活を送った。

比叡は切手にもなったので、筆者も亡くなった叔父に貰って、この満州国建国記念の切手を今でも持っている。

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昭和18年7月から海軍大学校に学び翌19年3月に普通2年のところを8ヶ月で繰り上げ卒業し、艦隊参謀、連合艦隊作戦参謀として勤務し終戦を迎える。


千早さんがこの本を書いた理由

千早さんがこの本を書いた理由は、戦後多くの日本人、アメリカ人に次のような質問をされ続け、千早さん自身もその理由を解き明かしたかったからだと。

1.日本で米国のことを一番知っていたのは、日本海軍ではなかったか、その海軍がなぜ米国と戦争することになったのか。

2.アメリカンフットボールで同じ手を使って連敗するのは下の下といわれるが、日本海軍はなぜ同じ手を繰り返してその都度叩きのめされたのか。


米軍の攻撃で最も驚いた点

千早さんが連合艦隊参謀として勤務していて、米軍の攻撃で最も驚いたのは次の点であると。

1.B29による本土爆撃。超航空を飛ぶB29には対空砲も届かず、迎撃戦闘機も有効でなかった。

Boeing_B-29_Superfortress_USAF






2.B29による瀬戸内海への機雷敷設。これは「飢餓作戦」と呼ばれたものだ。使用された機雷は日本海軍が見たこともなかった磁気式、水圧式に度数式を組み合わせた新型のもので、特に低周波音響機雷には有効な掃海手段はなかったので、瀬戸内海はほとんど通行不可能となった。

まさに日本の首を真綿で絞めたのと同じ結果となった。

3.原子爆弾。連合艦隊作戦参謀だった千早さんでも原子爆弾の概念すら持っていなかった。慚愧(ざんき)に堪えないという。


この本の目次

目次を読めば大体この本の内容がわかると思うので、紹介しておく。

第1部 日本海軍の対米戦争に関する判断

 1. 日本海軍の仮想的は米国海軍

 2. 日米戦争に関する研究

 3. 戦術面のみに目が奪われた

 4. 不備だらけの日本海軍の戦務(戦務とは旧海軍用語で、索敵、偵察、海上輸送護衛、補給などの戦争するための諸準備のこと)

 5. 大局を忘れた日本海軍の戦備

 6. 陸海軍協同の不完全

 7. 戦争についての各種判断の誤り

第2部 戦争はかく実証した

 1. ハワイ海戦の戦訓

 2. 日本海軍の小手先芸

 3. 小手先芸の限界

 4. あと1ヶ月あったなら(ガダルカナルも敵に簡単に奪われることもなかったろう)

 5. 馬鹿の一つ覚え

 6. 偵察、索敵の軽視

 7. 追撃戦の宿命
    追撃戦で最後まで徹底的にやった戦例が乏しいのは、徹底性を欠く国民性にあると千早さんはいう。

 8. 慢心と増長の悲劇
    ミッドウェー海戦が典型例である。作戦の根本思想、敵空母出現の可能性の未検討、索敵の不備など、暗号が解読されている以外にも慢心と増長は多い。

 9. 美辞麗句が多くなった作戦命令

10. 用法を誤った潜水艦戦と時代遅れの対潜作戦
    日本の船腹量は約1千万トンだったが、戦争で喪失した船腹量は800万トン、このうち潜水艦の攻撃によるものが全体の57%、航空機が31%、触雷が7%、敵の砲撃はわずか2万トンにすぎない。

    B29と潜水艦の前に日本の戦力は崩壊したといえる。

11. 補給戦に敗れた
    ニューギニア戦線では14万人が補給もなく投入され、実に13万人が死亡したが、戦死はわずか3%で、残りは餓死、戦病死だった。

12. 誤った作戦で犠牲になった設営隊
    昭和19年、暗号が解読されていると千早さんは疑い、わざわざ「長官の名前の画数を足した日」というような指令をだしたが、島の防衛隊からの返信に「では○○日のことか?」と打ち返してきて頭を抱えてしまったという。結局敵に待ち伏せされたという。

13. 軽視した情報、防諜のとがめ

14. 甘かった人事管理

第3部 総まとめ

 1. 後手、後手となった作戦計画

 2. 完敗に終わった「あ」号作戦「捷」号作戦
 3. 水上部隊の悲惨な最期 戦艦大和が片道の燃料で向かったという話は実は誤りで、実際には簿外の在庫を呉の機関参謀がかきあつめ、往復に必要な燃料を積んで死出のはなむけとしたのだと。これでほとんどの艦船を沈められて、燃料もなく日本海軍は静かに死を待った。

 4. マクロ的な考え方と総合性の欠如

 5. 物量の差だけではなかった

 6. 教育に根本の問題があった

いくつか参考になった点を紹介しておく。


日本海軍の仮想的は明治以来米国海軍

明治40年、日露戦争の2年後に決定された「帝国国防方針」では日本の仮想敵は陸軍はソ連、海軍は米国とされた。

米国は日本海軍が兵力を増強するための目標敵であったが、実際に昭和12年南京攻略時に日本の爆撃機が間違って米国の砲艦バネー号を撃沈した時には、米国に陳謝するとともに多額の賠償金を支払った。あくまで仮想敵であって、本当に米国と戦線を開くことなど考えてもいなかったのだ。

ところが三国同盟に猛反対していた米内海軍大臣が昭和15年に及川海軍大臣に交代すると、海軍は簡単に三国同盟に賛同し、一挙に対米戦が現実味を帯びてくる。

昭和14年9月の第2次世界大戦勃発以降、対米関係は悪化の一途をたどった。ナチスの傀儡のヴィシー政権の承認を強引に得た昭和16年7月の南仏印進駐が引き金となって、米国が在米資産凍結、石油全面禁輸を発表し、海軍は対米戦の準備を開始した。

いわゆる月月火水木金金の猛訓練だが、この時も大口径砲の戦艦で敵を迎え撃つ艦隊決戦が戦略の中心で、潜水艦の船団攻撃や船団の対潜護衛の演習は皆無だったという。


太平洋戦争開戦時の連合艦隊の戦力

太平洋戦争が始まった時の連合艦隊の戦力は次の通りだ。これは戦艦と潜水艦こそ米国の6割を切っていたが、航空母艦と重巡洋艦では米国と肩を並べる兵力で、これにくわえて大和、武蔵の巨大戦艦2隻が加わった。

戦艦   10隻
航空母艦  9隻
重巡洋艦 18隻
軽巡洋艦 18隻
駆逐艦  90隻
潜水艦  55隻
潜水母艦  3隻
水上機母艦 2隻
合計   133万トン(基準排水量)

対米戦のために長年兵力を整備した結果だった。日本海軍は米軍に比肩しうる戦力を持っていたことがわかる。

ちなみに今度あらすじを紹介する佐藤晃さんの「太平洋に消えた勝機」という非常に面白い本の巻末に、「日米主要艦の戦力推移」という表が載っているので、紹介しておく。

太平洋に消えた勝機 (光文社ペーパーバックス)太平洋に消えた勝機 (光文社ペーパーバックス)
著者:佐藤 晃
販売元:光文社
発売日:2003-01
おすすめ度:4.5
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日米主要艦推移







出典:本書230ページ

この表を見ると、日本は戦争の後半でほとんどの艦船が撃沈されているのに対して、アメリカは真珠湾で戦艦2隻、1942年に空母が4隻沈没した他は、1942年以降戦艦の喪失ゼロ、1943年以降は主要艦船の喪失ゼロという状態が続いていたことがわかる。

日本側の一方的敗北だったことがよくわかる表である。昭和19年のマリアナ沖海戦は「マリアナの七面鳥撃ち」を言われ、日本艦船を米軍が面白いように葬ったが、かくも一方的な敗北だと本当に「バカの一つ覚え」と言わざるを得ない。

実はこの表は正規空母までで、米国が圧倒的な産業力を注力して大量に製造した1万トン級のリバティー船と8,000トン級の護衛空母や軽空母が含まれていない。

リバティ船は戦後構造的欠陥が判明したが、溶接を使わず、鉄板をリベット接合して、わずか42日で完成し、戦時中実に531隻が建造された。

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護衛空母100隻以上が建造され、ドイツ潜水艦の脅威を封じ込めるのに成果を上げた。

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日露戦争以来の大鑑巨砲主義の旧弊が支配した海軍

日本の大鑑巨砲主義という伝統は崩せず、開戦時の10名の艦隊長官のうち、4名が鉄砲屋(砲術出身)、4名が水雷屋、1名が航海屋、1名が航空屋だった。

唯一井上成実(しげよし)第4艦隊長官が昭和16年1月に「航空兵力の充実、海上護衛兵力の大増強、南方島嶼(とうしょ)の守備の強化」という正鵠を得た「新軍備計画論」を訴えたが、大鑑巨砲主義の主流派から無視される結果となった。


馬鹿の一つ覚えの艦隊決戦でのアウトレンジ戦法

日本の戦法は敵の射程距離外から砲撃して敵を撃滅するというアウトレンジ戦法で、これがため世界最大の46センチ主砲を持つ大和・武蔵を建造したものだ。

この巨大戦艦はパナマ運河を通行できないため、アメリカのように大西洋と太平洋両方に面している国は機動力が生かせないので、アメリカは同じサイズの戦艦をつくれないと見られていた。

そうすると大和・武蔵の46センチ砲はアメリカ戦艦の40センチ砲よりも射程距離が長く、それがためアウトレンジ戦法で勝利できるというシナリオだった。

しかしアウトレンジ戦法が度が過ぎて、射程距離を縮めて命中確率を上げようという積極性に欠け、レーダー測敵機もないので、遠距離から射撃しても非常に悪い命中率にとどまっていた。

たしか大和の大砲は小田原から撃って、東京に届くという話を聞いたことがある。射程距離は最大42キロだという。しかし、現実問題そんなに離れていては光学照準機では到底ねらえない。

戦争中の艦隊決戦の例では、昭和17年のジャワ沖海戦では、日本の重巡洋艦は敵の15センチ砲にまさる20センチ砲を持っていたので、アウトレンジ戦法で砲撃したが、数百発の20センチ砲弾のうち1発が敵に命中しただけだった。

次に戦艦2隻が36センチ砲を打ち込んだが、300発撃って一発も命中しなかった。

アッツ島ではまたもアウトレンジ戦法で、900発撃って5発しか命中しなかった。

昭和19年のレイテ沖海戦では、栗田艦隊の戦艦大和と長門が最初で最後の砲撃を敵艦隊に浴びせるが、大和は約100発、長門は45発撃ち、金剛、榛名がそれぞれ100発づつ撃ったにもかかわらず、敵駆逐艦を1隻沈め、1隻を大破させただけだった。

アメリカ側はレーダー測敵器があるので、照準は正確だったようだ。これが前記の表の圧倒的な日米の艦艇損失の差になるのだ。


不備だらけの日本海軍の戦務

戦務とは旧海軍用語で、索敵、偵察、海上輸送護衛、補給などの戦争するための諸準備のことである。

燃料は海軍は当初の2年分の燃料は備蓄して戦争に臨んだと言われているが、実際には開戦時の備蓄は600万トンだった。

必要な燃料量を年280万トンと見込んで戦争に突入したが、実際には年500万トン近くを消費し、南方などからの石油供給も海上輸送路を攻撃されて満足にできなかった。昭和17年後半以降は常に燃料に苦しめられることとなった。

燃料備蓄量以外にも、日本艦船は日本近海の艦隊決戦を想定して建造されているので、航続距離に問題があったという。

さらに問題なのは弾薬で、開戦時に艦艇に定数通りの量を配給したら、弾薬庫には25ミリ機銃弾がなくなり、その後も弾薬の不足は解消されなかった。

日本海軍の対空砲の弾薬定数は高角砲200発(約10分)、機銃1,500発(約10分)のみで、撃ち尽くしても補充は受けられなかった。

これも艦隊決戦で大砲には一門の大砲が発射する弾数に限度があるので(大口径砲では120発。それ以上だと大砲が焼き付いてしまう)、それと同じ考えを対空火器まで適用したことが問題だった。

この点では相当期日にわたる会戦を単位に弾薬を準備していた日本陸軍の方がましだったと千早さんは語る。


日本は潜水艦による近代戦を理解しなかった

日本の潜水艦戦略には通商破壊戦の考え方はなく、艦隊決戦のみを想定していた。それでも対潜水艦対策は皆無だった。

「享楽的で質実剛健に乏しい米人は、困苦欠乏をもっとも必要とする潜水艦の乗員には適しない。従って、米国潜水艦はあまり恐れる必要はないだろう」とたかをくくっていたという。

有名な米国海軍のフロスト中佐は逆に「潜水艦は米人の使用に好適の艦種である。なんとなれば、米人は敏活、果断、独創に富み、潜水艦の乗員に最適な性質を具備している。われわれ米国海軍軍人は、潜水艦戦において、世界いずれの海軍軍人も凌駕することができる」と語っているという。

まさに日本の見方と正反対だが、これが結果的に真実となった。前述の「日米主要艦の戦力推移表」でも、米国潜水艦に沈められた空母や戦艦が多いことがわかる。

排水量わずか2,000トン程度の潜水艦が、3−5万トンの戦艦や航空母艦を葬り去るのである。実に効率のよい戦いである。

ノックス米海軍長官は「日本は近代戦を理解しないか、あるいはまた近代戦に参加する資格がないか、いずれかである」と語っていたという。


海軍大学の画一的で時代遅れの教育

千早さんは昭和18年7月に海軍大学に入学し、9ヶ月で繰り上げ卒業している。卒業したときはギルバート、マーシャル諸島は敵手に落ち、ラバウルも秋風落莫の状態だったという。

明治につくられ、最終改訂が昭和9年の最高機密「海戦要務令」が絶対規範として生きていた。

これは艦隊決戦主義で、航空部隊も潜水艦部隊もそれを支援するという域を出ていなかった。もちろん通商破壊もなく、対潜水艦作戦もない。いかに日本海軍の用兵者の考えが硬直的だったかがわかる。

海軍大学の戦略、戦術の研究は机上演習に終始し、日米海軍の決戦を想定した自己満足のものだった。

決戦が起こるのか、決戦が起きたら戦争は終わるのか、負けたらどうなるのかといった問題はまじめに研究されなかった。

おまけに机上演習ではゼロ戦は1機でヘルキャット10機に相当するなどという、ありえない前提が演習統監により出されていたという。

千早さんは海軍大学で教育を受けた画一的なエリートが参謀なり司令官なりになって戦争を指導したことが、日本海軍の敗因であると推論している。

アメリカ軍は日本軍の敗因は、チームワークの欠如にあったと分析しているという。マクロ的かつ長期的な総合性と計画性を欠く日本人特有の結果に基づくのではないかと。

たしかにたまたま真珠湾で大勝利してしまったがゆえに、徹底性を欠く一般的な日本人の性格、オペレーションリサーチマインドというか、科学的な彼我の戦術の分析の欠如が、敗戦につながったことは否めないと思う。

いろいろな戦記もののタネ本ともなっている本で、昭和22年に最初の原稿が完成し、まだ戦争の記憶が生々しいなかで書かれたこの本は、冷静な分析と反省に満ちている。

プレジデント社から昨年末再度発売されたことでもあり、是非一度手にとって見て欲しい本である。


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2009年09月18日

香淳皇后 昭和天皇と生きた60余年

香淳皇后―昭和天皇と歩んだ二十世紀香淳皇后―昭和天皇と歩んだ二十世紀
著者:工藤 美代子
販売元:中央公論新社
発売日:2000-10
おすすめ度:3.0
クチコミを見る


「昭和天皇独白録」に続き、香淳皇后の伝記を読んでみた。

Wikipediaにも香淳皇后の若き日の写真が載っているが、宮内庁の皇室ホームページに掲載されている在りし日の昭和天皇・香淳皇后という写真が一番筆者の記憶にある昭和天皇・香淳皇后のイメージに近いので、つつしんで掲載する。

在りし日の昭和天皇・香淳皇后

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出典:宮内庁皇室ホームページ

学者然とした天皇と、いかにも穏和そうな香淳皇后のスマイルが印象的だ。


香淳皇后の生い立ち

香淳皇后は昭和天皇妃の追号であり、天皇に嫁ぐ前の旧姓は久邇宮良子(ながこ)女王だ。

天皇家の十一宮家の中では五〜六番目の久邇宮家の邦彦(くによし)王と薩摩の島津公爵の七女だった俔子(ちかこ)妃夫妻の長女だ。

久邇宮家は経済的には恵まれない生活だったが、良子女王が皇太子妃の候補になる前後から天皇家の支援を受け、渋谷の広大な邸宅に住むようになったという。

大正時代までは側室が認められていたので、皇族の中には側室の子どもも多く、明治天皇、大正天皇自身が側室の子だった。

良子女王の場合、久邇宮の両親どちらも正室の子どもではなかったが、特に母親の俔子妃は、華族から宮家に嫁いだこともあり、六人の我が子を終生自分より身分の高い皇族として扱い、呼び捨てにせず、上座に座らせたという。

この本を読むと昭和天皇を陰で支えるけなげな姿勢と、古くからの宮家・摂家の格に強く影響された価値観を併せ持った香淳皇后の考え方がよくわかる。


昭和天皇のお妃選び

明治天皇も大正天皇も皇太子妃は五摂家から選ばれたが、良子女王の場合には、昭和天皇の祖母の昭憲皇太后(明治天皇妃)が当時九歳の良子女王を皇太子妃の候補に見初めたのが始まりだという。

良子女王と並んで皇太子妃候補となったのは、一條家の朝子(ときこ)姫と、梨本宮家の方子(まさこ)女王だった。

方子女王は結局朝鮮王室の皇太子李垠(りぎん)殿下と結婚したが、当時の朝鮮王室は日本の宮家が嫉妬するほど豊かで、婚約指輪は五カラットのブルーホワイトダイヤモンドを芯に涙型のダイヤが花弁を形成していた豪華なものだったという。

良子女王はお后候補の中で最終的に選ばれるが、一旦内定したにもかかわらず、長州閥を代表する元老の一人の山縣有朋が母方の家系に色弱の遺伝子があることを問題にして、久邇宮家に婚約解消を強硬に主張したのだ。

これが「宮中某重大事件」と呼ばれる騒動だ。

事態は長州と薩摩(良子女王の母方の祖父は島津公爵)の争いという一面もあったが、結局大正十年に裕仁皇太子自身が良子女王を選び決着し、山縣は失意の内に翌年亡くなる。


皇室を刷新した昭和天皇

昭和天皇は大正十年3月から6ヶ月間ヨーロッパ諸国を訪問し、帰国してすぐに病弱の大正天皇の摂政となる。

この欧州旅行特に英国王室の生活に昭和天皇は大きく影響され、生活様式もベッドに椅子、洋服にあたらめ、宮中の女官などの着物も洋装にし、女官が側室となる風習を廃止し、住み込みをやめ、通いとした。昭和天皇の普段の朝食はトーストとオートミールだったという。

婚約発表後、大正十二年の関東大震災で結婚が延期となったが、翌大正十三年一月に婚儀、披露宴は五月と変則的に実施される。ちなみに昭和天皇のトレードマークのひげは結婚の年に伸ばし始めている。

新婚の昭和天皇と香淳皇后は一緒にゴルフに出かけるなど仲むつまじく、結婚の翌年の大正十四年には第一子の照宮成子(なるこ)内親王が誕生した。

成子内親王は、香淳皇后のいとこの久邇宮盛厚王に嫁ぎ、昭和二十年三月十日東京大空襲の日に第一子を出産している。

ちなみに三月十日の空襲では皇居は被害はなかったが、五月二十五日の空襲では山の手の火災が皇居の宮殿が焼け尽くされている。

香淳皇后は昭和天皇との間に二男五女をもうける。夭逝した次女久宮を含め四人の皇女誕生の後に、日本中が待ちに待った今上天皇が昭和八年十二月二十四日に誕生し、日本中が歓喜に包まれた。


古いしきたりに縛られた生活

昭和天皇と香淳皇后は子どもと一緒に生活することを望んだが、周りからそれではしつけができないとして、親王、内親王は二−三歳で親元から離れた生活を強いられた。

それ以前は生まれてすぐに乳母に預けられていたので、昭和天皇自身も生後2ヶ月で川村純義伯爵に預けられた。昭和天皇夫妻は子どもが2〜3歳になるまで一緒に暮らしたので、以前に比べれば長く暮らした方だが、やはり子どもの心の中の傷となったようだ。

昭和天皇は、宮城の敷地は30万坪もあり、原野のまま捨ておかれている土地もあるのに、「皇太子の住む一坪はない」と、育児すら自分達の意のままにならないことを嘆いたという。

たしかに天皇家は日本で最も自由のない人達なのかもしれない。

今上天皇は、皇太子浩宮殿下が誕生したときに、「いつまで子供と生活するかはわからないが、成年になるまでは、いっしょにいるつもりです。親と子が別れて生活するのは心の安らぎがない」と語っている。


香淳皇后のエピソード

この本では戦争中日光に疎開していた皇太子との手紙のやりとりや、戦後昭和21年から25年までヴァイニング夫人を皇太子の家庭教師に採用し、香淳皇后も英語を習ったエピソードなどが紹介されている。(香淳皇后はフランス語はできたが、英語教育は受けていなかった)

体操教師の竹越美代子の指導で美容体操を始めた皇后が「生まれてこのかた、急いだことがありません」と語ったエピソードを紹介している。いかにも皇族出身の皇后の性格がわかる話だ。

皇后が初めての外遊に出たのは昭和四十六年のヨーロッパ歴訪で、その二年後の皇后の古希の時の会見で、最も印象深かった出来事として欧州歴訪を挙げている。


皇太子の恋愛結婚には猛反対

この本では皇太子の正田美智子さんとの恋愛結婚には、美智子様が平民だという理由で猛反対した皇后の姿が描かれている。

高松宮妃、秩父宮妃などにも声をかけて反対したり、婚儀が決まっても、成婚記念の馬車が自分の時は四頭建てだったのに、六頭建てだといって憤慨している。

昭和天皇は、「皇太子がよければ、一般家庭の女性でもよい」と語り、美智子様に非常に期待していたことが描かれている。

さらっと書いてはあるが、その部分を引用すると、「常に寄り添って歩んできた天皇と皇后だが、世俗的な意味での姑や嫁の関係となると、やはり日本のどの家庭にもある永遠のテーマが横たわっていた」と言っている。

美智子様の人柄には欠点はありえない。やはりこれは香淳皇后の古い階級意識からくる差別だと思う。

筆者は子どもの時に記念切手を収集していたので、皇太子殿下ご成婚の事は切手で覚えている。

ご成婚記念














昭和三十四年の皇太子殿下ご成婚の時には、美智子妃の美しさに国民は熱狂的な喝采を贈り、はやくも翌三十五年第一子の浩宮徳仁殿下が誕生すると日本中が歓喜した。

美智子妃は皇居での陰湿ないじめにあったという話が、週刊誌などにまことしやかに語られることがあるが、香淳皇后ご自身が結婚に反対していたという元々の経緯から、たぶん平民出身の皇太子妃としてつらい思いをされたのだと思う。

小林よしのりの「天皇論」にも美智子妃が突然失語症になった話が紹介されている。すごいストレスがたまっていたのだと思う。

今の雅子妃もたぶん同じなのだろう。是非早く全快して欲しいものだ。


香淳皇后は、昭和64年1月7日の昭和天皇崩御の前後から老人性の意識障害に罹り、平成12年6月16日に崩御された。


この本を読むと天皇家がいかに不自由な生活を強いられているかがよくわかる。自分の子どもの教育方針も決められないというのは、国家元首であり立憲君主だった天皇にあっては信じられない話だ。

また香淳皇后は皇族として教育を受けた明治人らしく、階級意識はどうしても抜けなかったことがわかる。狭い世界で生きてこられた人なのだろう。

このあらすじでは省いたが、昭和の歴史の流れもフォローしており、香淳皇后の生涯を通して、大正・昭和史を描いている。

皇族などに直接取材した部分はほとんどないが、様々な資料を読みやすいストーリーにまとめている。一読をおすすめする。


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2009年09月02日

シュリーマン旅行記 清国・日本 江戸末期の日本旅行記

シュリーマン旅行記清国・日本 (講談社学術文庫 (1325))シュリーマン旅行記清国・日本 (講談社学術文庫 (1325))
著者:H.シュリーマン
販売元:講談社
発売日:1998-04
おすすめ度:5.0
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トロイ遺跡発掘で有名なシュリーマンの清国・日本旅行記。

シュリーマンの「古代への情熱」は筆者が学生時代最も感銘を受けた本の一つで、長男が大学に入った時にプレゼントした本の一冊はこれだ。

今回あらためてパラパラっとめくってみたが、たしかに「清国・日本」は自身の最初の著作として「古代への情熱」にも記してあった。

筆者が商社に入ってスペイン語を覚えたのも、もとはといえば13カ国語(18カ国語?記憶不確か)がしゃべれるというシュリーマンの影響もある。6週間で1カ国語をマスターできるという話には驚いたものだ。

古代への情熱―シュリーマン自伝 (新潮文庫)古代への情熱―シュリーマン自伝 (新潮文庫)
著者:シュリーマン
販売元:新潮社
発売日:1977-08
おすすめ度:4.0
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そのシュリーマンが幕末の日本に旅行できているとは全然知らなかった。この旅行記も1990年の初訳だ。

シュリーマンはドイツ生まれ。語学の才能を活かして貿易商となり、ロシアのサンクトペテルブルグで会社を設立し巨万の富を蓄えた。その富を利用してホメロスのオデッセイアに出てくるトロイが実在したことをたしかめるためにトロイ発掘に注力した。

ホメロス オデュッセイア〈上〉 (岩波文庫)ホメロス オデュッセイア〈上〉 (岩波文庫)
販売元:岩波書店
発売日:1994-09
おすすめ度:4.0
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清国・日本に立ち寄ったのが1865年、そしてヨーロッパに帰ってトロイ遺跡を発掘したのが1871年だ。

中国については70ページで、北京、天津、万里の長城、上海の当時の様子を描いている。

日本については100ページにわたり当時の江戸、八王子の様子、人々の暮らし、日本文化について書き記している。

中国の悪印象とは好対照に日本については高い民度に感銘を受けている。


清国旅行記

たとえば中国については、

「私はこれまで世界のあちこちで不潔な町をずいぶん見てきたが、とりわけ清国の町はよごれている。しかも天津は確実にその筆頭にあげられるだろう。町並みはぞっとするほど不潔で、通行人は絶えず不快感に悩まされている。」

ゴミ、乞食、野犬、罪人など。それに纏足(てんそく)、アヘン、海賊、賭け事好きの中国人への不快感などが語られている。


日本旅行記

これに対して日本の出だしは次の通りだ。

「私は心躍る思いでこの島に挨拶した。これまで方々の国でいろいろな旅行者に出会ったが、彼らはみな感動しきった面持ちで日本について語ってくれた。私はかねてから、この国を訪れたいという思いに身を焦がしていたのである。」

シュリーマンは様々なものに驚いている。

決して勘定をふっかけない船頭からはじまって、チップを決して受け取らない好意的で親切な役人、日本人はみな園芸愛好家で、住宅は清潔さのお手本だと褒めている。

「日本人が世界でいちばん清潔な国民であることは異論の余地がない。どんなに貧しい人でも、少なくとも日に一度は、町のいたるところにある公衆浴場に通っている。」

シュリーマンは男女混浴の公衆浴場に驚いている。(公式には男女混浴は禁止されていたが、ついたて板で仕切られていた程度だったようだ)

将軍家茂の上洛の行列を見物して、その行列の配置を書き残している。


町田にもシュリーマンは立ち寄っている

筆者は現在町田に住んでいるが、筆者にとって特に興味深かったのはシュリーマンが町田を経由して八王子を訪問していることだ。八王子は絹生産地で手工芸の町ということで、他のイギリス人6人と連れだって訪問したという。

途中町田の茶屋で一泊している。


江戸訪問

当時江戸は外国人襲撃事件などもあり物騒で、外国人は住んでいなかったそうだが、横浜のグラバー商会の手配で、江戸訪問が実現した。当時の江戸は人口推定250万人で、世界最大の都市だ。

当時の江戸の簡単な地図が載っているので、紹介しておく。筆者の会社がある場所は当時は海の中だった。

edo map












出典:本文114ページ


5人のサムライが前後に護衛についての旅だ。馬は足に蹄鉄の代わりにわらじを履いていたという。

江戸では麻布の善福寺にあったアメリカ公使館を訪問し、江戸に残っている唯一の外国使節のポートマン代理公使と面談している。訪問の3年前にはアメリカ公使館の通訳のヒュースケンが暗殺され、イギリス公使館も襲撃をうけ10名が殺害されている。警護が厳しく、毎日合い言葉を変えていたという。

シュリーマンは麻布光琳寺のヒュースケンの墓にも行っている。

木彫り、絹織物、版画などの美術品も購入した。日本橋を経て浅草寺の観音を見た時には、「唐人」と叫ぶ群衆に取り巻かれ、珍しがってさわられたという。

浅草寺では仏像といっしょに花魁(おいらん)の肖像画が飾られているのに驚いたと語っている。

食事は米の飯に大体刺身がつき、煮魚や総菜がおかずだ。


感銘を受けた日本文化

シュリーマンは日本文化に感銘を受け、一つの章を日本文化論にあてて、次のように語っている。

★日本は工芸品において蒸気機関を使わずに達することのできる最高の完成度に達している。

★教育はヨーロッパの文明国以上に行き渡っている。シナやアジアの国々では女が完全な無知の中に放置されているのに対して、日本では男も女もみな仮名と漢字で読み書きができる。


日本の将来について考えさせられる

シュリーマンが感銘を受けている様に、元々日本人は民度の高い同質的な国民なのである。文化、道徳、倫理、高い教育程度が昔からの日本の伝統なのだ。

たとえ数字の上では、中国がGDPで日本を上回ることになっても、それは単に人口が中国の11分の1という人口差がもたらす必然であり、日中の実質的な差は大きい。

たとえGDPは世界3位になっても、エコが重視される現在日本が世界で範となる分野は多い。

エコ減税や様々な補助金などの税制をうまくつかって、日本国民の意識を高めれば、日本が世界一のエコエネルギー大国になることも十分可能だと思う。まさに前東大総長の小宮山さんが「課題先進国日本」で言っていたのと同じだ。

「課題先進国」日本―キャッチアップからフロントランナーへ「課題先進国」日本―キャッチアップからフロントランナーへ
著者:小宮山 宏
販売元:中央公論新社
発売日:2007-09
おすすめ度:4.5
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150年近く前のシュリーマンの日本旅行記であるが、昔の日本の姿を知ることは、今後の日本のことを考える時に役立つ。

もちろんシュリーマンの「古代への情熱」も是非読んで欲しいが、この本も簡単に読めるので、一読をおすすめする。


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2009年08月28日

オバマ大統領がヒロシマに献花する日 戦中派ジャーナリストの献花外交のすすめ

オバマ大統領がヒロシマに献花する日 (小学館101新書)オバマ大統領がヒロシマに献花する日 (小学館101新書)
著者:松尾 文夫
販売元:小学館
発売日:2009-08-03
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元共同通信ワシントン支局長の松尾文夫さんの相互献花外交のすすめ。共同通信退社後、2002年にジャーナリストとして復帰、「銃を持つアメリカ」を日米両国で出版、この本は8月に発売されたばかりの最新作だ。

銃を持つ民主主義―「アメリカという国」のなりたち (小学館文庫)銃を持つ民主主義―「アメリカという国」のなりたち (小学館文庫)
著者:松尾 文夫
販売元:小学館
発売日:2008-03-06
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Democracy With a Gun: America and the Policy of ForceDemocracy With a Gun: America and the Policy of Force
著者:Fumio Matsuo
販売元:Stone Bridge Pr
発売日:2007-10
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松尾さんは1933年生まれ。小学生の時に新宿区の戸山小学校(当時は国民学校)でドーリットル隊のBー25が地上スレスレの超低空で東京を空襲したのを目撃する。

小学校の校庭から大きな鼻の操縦士をはっきり見たという。その大きな鼻の操縦士と再会し、2005年のドーリットル爆撃隊の年次総会に出席した話も紹介されている。

YouTubeにドーリットル爆撃の実写フィルムがミッドウェー海戦とともに掲載されているので紹介しておく。レーダーに捕捉されないため(当時日本ではレーダーは実用化されていなかったが)超低空で飛行していることがよくわかる。

これならパイロットの顔もわかるはずだ。



ちなみに松尾さんもドーリットル爆撃を、ミッドウェイでの敗北の遠因となった太平洋戦争の一大転機と位置づけている。

たしかに空母に爆撃機を積んで発進させ、レーダーに発見されないように超低空飛行を続け、日本を通って中国に着陸するまで合計13時間、3,500キロも飛ぶ。

そして日本初爆撃で日本の指導者と国民を震撼させる上に、生還した爆撃機は中国に渡そうという構想は、敵の裏をかいた一石何鳥もねらった優れたアイデアだと思う。(ちなみにパイロットたちは皇居は狙わないように注意されていたという)

日本戦府は9機撃墜と発表したが、実際は1機も打ち落とせなかった。

しかし16機すべて途中で燃料がなくなって不時着したり、着陸時に壊れたりして、結局中国に引き渡せた機体はなかったというが、それでもアメリカ国民の士気を鼓舞し、日本を震撼せしめる大きな効果はあった。

松尾さんは疎開先の福井で敗戦直前の1945年7月にB−29の夜間無差別焼夷弾爆撃を受け、たまたま近くに落ちた焼夷弾が不発弾だったので九死に一生を得る。

このような戦争体験を持つ松尾さんは、戦争を知る最後の年代として「何故アメリカという国と戦争したのか」、「アメリカとはどういう国なのか」にジャーナリストとしてこだわりたいと語る。


オバマ大統領に広島で献花を

自分の生きている間は無理かもしれないとしながらも、2009年4月のプラハ訪問の時に核廃絶を目標として発表したオバマ大統領に広島で献花してもらい、返礼として日本の首相が真珠湾のアリゾナ記念館で献花する献花外交を松尾さんは提唱する。

すでに2008年に米国ナンシー・ペロシ下院議長の広島献花と、河野衆議院議長のアリゾナ記念館での相互献花が実現している。

松尾さんは献花外交というアイデアを2005年8月のウォールストリートジャーナルの意見欄でも明らかにした。

オバマ大統領は2009年6月にドレスデンを訪問しており、広島訪問も決して実現性のない話ではないと思う。


ドレスデンの和解

1995年にドイツ大統領、エリザベス女王名代のケント公、イギリス、アメリカの軍人トップが集まった「ドレスデンでの和解」がまず取り上げられている。

この日のドイツヘルツォーク大統領の「命を命で相殺できない」という演説は松尾さんのサイトでも紹介されている。

和解の印として相互に献花を行い、不戦の誓いと結束を新たに相互に確認しているのだ。

様々な戦争記念日は特別のイベントとしてメディアにも注目され、自国民のみならず、近隣や関係諸国の国民にも与える影響が大きい。まさに象徴的な献花外交と言えるだろう。

松尾さんはドレスデンの他に、スペイン ゲルニカや英国コベントリーの他、南京、重慶なども訪れている。


独仏共通歴史教科書

日韓で共通歴史教科書をつくることが検討されているが、献花外交の成果の一つは独仏共通歴史教科書だ。

共通教科書構想自体は1920年代からあったが、2003年の両国青年会議での提案をシラク大統領とシュレーダー首相が受け入れ、2006年に第1部「1945年以降」が初めて出版された。

第1部は日本語にも翻訳されているので、今度読んでみる。

ドイツ・フランス共通歴史教科書【現代史】 (世界の教科書シリーズ)ドイツ・フランス共通歴史教科書【現代史】 (世界の教科書シリーズ)
著者:ペーター ガイス
販売元:明石書店
発売日:2008-12-15
おすすめ度:5.0
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2008年に第2部「ウィーン会議から1945年まで」が出版され、第3部の「ウィーン会議までの時代」が2010年までに出版される予定だ。

共通歴史教科書は、歴史評価がシンクロできて、相互の理解が深まる良い手法だと思う。日韓や、時間が掛かるかもしれないが、日中でも共通歴史教科書は検討すべきではないかと思う。


日本とドイツの戦後処理の際だった違い

この本では戦後処理に関するドイツと日本の大きな違いを明らかにしており、興味深い。

ナチスドイツが一党独裁で戦争を推し進め、ユダヤ人やポーランド人を虐殺したドイツと、国民のほとんど全体が戦争を望み、圧倒的コンセンサスで「鬼畜米英」を相手に戦争に突入した日本では事情が大きく異なり、単純な比較はできないが、参考になる事例ではある。

日本とドイツの差は次のような点だ。


戦争犯罪追求

ドイツではいまだに「ナチス犯罪究明各州合同法務センター」がナチス犯罪を追求しており、2007年末までに訴追件数11万3千件、有罪7千4百件、死刑12件、終身刑167件、懲役6千2百件が確定している。

これは連合国によるニュルンベルグ裁判とは全然異なり、ドイツ人自身がナチスの犯罪を許さないという確固たる国会意思によって支えられている。

日本では東京裁判で連合国によりA級戦犯などが裁かれた。東京裁判とA級戦犯についてはこのブログでも紹介しているので、参照して欲しい。

日本人自身が「満州事変、シナ事変、大東亜戦争を不可避ならしめた者」を反逆罪で裁く緊急勅令案が、戦争終結直後の東久邇宮内閣や幣原内閣では考えられていたが、GHQの指示で東京裁判が開催されることになり、日本人自身が裁く話はその後も持ち上がらなかった。

筆者はナチスドイツとは異なり、日本の場合には国民大多数のコンセンサスで戦争に突入したことから考えて、日本人自身が日本の戦争犯罪人を裁くというのは当てはまらないと考えている。

一方、松尾さんは「日本はこの幻の自主裁判案の挫折で、私が本書でドイツとの対比で言い続けている敗戦のケジメ、つまりその戦後の再スタート時につけるべき大きなケジメのチャンスを失ったということである」と書いている。

これは「進駐軍と呼ぶのはまやかしだ、占領軍とはっきり呼ぼう」との松本重治の記事を検閲で削除した事とつながるGHQの占領政策であり、日本人が自らケジメをつけることを望まない「日本占領」の素顔がのぞいていると松尾さんは語る。


戦争責任を認めた謝罪外交

ドイツでは政府指導者が、ゲルニカ爆撃謝罪や、ワルシャワでのポーランド人虐殺、ホロコースト謝罪など目に見える形で戦争責任の謝罪を行っている。

その一方でドレスデン爆撃を強く主張したアーサー・ハリスイギリス空軍司令官の銅像建立に際してはコール首相が抗議している。

人道に対する罪をドイツは国内外の区別無く糾弾し、ドイツ自身の場合は謝罪し、そして連合国の犯罪は糾弾しているのだ。

これに対し日本は1995年の村山談話を公式見解として、新たな指導者は戦争責任は公式には口にしていない。

また東京大空襲はじめ日本の都市に対する夜間無差別焼夷弾爆撃による焦土作戦を立案・実行したカーチス・ルメイ将軍に対して、日本は航空自衛隊を育成したという功績で「勲一等旭日大授章」を贈っているのだ。

昭和天皇はカーチス・ルメイへの勲一等授与ははっきり拒否している。

松尾さんがアメリカでドーリットル隊の元軍人にこの話をすると、みんな沈黙したという。アメリカではルメイが無差別殺人を命じた張本人と見られているのに、その人物に対して日本が勲章を贈ったことが信じられないという。

ちなみに東京を焼き尽くし民間人を攻撃するという出撃命令を受けた爆撃機パイロットは皆ふさぎ込んでしまったという話は「B−29 日本爆撃30回の実録」のあらすじで紹介した通りだ。


民間人の戦争被害補償

ドイツでは民間人に対しても空襲や地雷、艦砲射撃の被害を戦争の直接被害として国家補償がなされている。ドイツではすでに1870年の普仏戦争から一般市民の戦争損害を補償しており、この伝統が守られているのだ。

日本では2008年に国会図書館社会労働調査室の宍戸伴久氏が「戦後処理の残された課題ー日本と欧米における一般市民の戦争被害の補償」という論文を発表している。

旧軍人には恩給法、軍属にはいわゆる「遺族援護法」が沖縄戦犠牲者、原爆犠牲者、戦後引き揚げ者・シベリア抑留者に適用されてきたが、空襲で焼け出されたり、死亡した被害者は補償の対象となっていない。

2007年3月から東京大空襲訴訟が始まっており、近々東京地裁で判決が下される事になっているが、最高裁判所は1987年の名古屋空襲の被害者に対して、戦争は国民として受忍すべきで、補償するには国会の立法が必要として請求を退けており、これが現在の判例だ。

余談になるが、筆者の亡くなった父はたしか昭和18年に徴兵され、上海からベトナムを経て最後はインドネシアで終戦を迎えた。後に続く輸送船はことごとく米国の潜水艦に沈められ、父達のあとの新兵の補充はなかったので、ずっと二等兵のままだったという話をしていたことを思い出す。

父とは軍人恩給の話をしたことはないが、恩給をもらうには期間が足りないと、父と同居していた弟から聞いたことがある。軍人恩給がどういう基準でもらえるのか総務省のQ&Aがあるので、興味のある人は参照して欲しい。

戦地加算一覧表というのもある。普通は12年以上の軍務だが、戦地の1年は4年に換算される。

いずれにせよ本人が亡くなると相続はしないので、父が亡くなった以上今は関係ないが、どうやらもうすこしのところで父は期間が満たなかった様だ。


占領地での強制労働の補償

さらにドイツは2000年仲介役のアメリカの協力も得て、ナチス時代のドイツ支配地域での強制労働の被害者にも道義的補償と位置づけて「ナチス強制労働補償財団」をつくって補償に応じている。

2007年には166万人に対して44億ユーロ(5,700億円)が支払われたという。


日本の戦争被害の補償

日本の場合にはサンフランシスコ講和条約第14条B項で、「連合国及びその国民」の日本に対する賠償請求権放棄を明記しているが、これを見直すべきだとの意見もスタンフォード大学アジア・大洋州研究センター所長の申基旭(Gi-Wook Shin)教授などから出されているという。

申教授の考えでは、「アメリカは戦後ドイツに周辺国との和解を勧めた欧州での政策と対照的に、戦後日本に対しては、近隣アジア諸国に対する和解を勧めなかったのみならず、逆に冷戦の敵としての中国、北朝鮮との敵対関係を放置し、あおるような行動に出た。このアメリカの政策が現在の東北アジアで和解ができていないことの根源にある。」

「1951年のサンフランシスコ平和条約の締結国にも韓国や中国は入っていない。東京裁判でも欧米人捕虜虐待問題は裁かれたが、中国や朝鮮半島での日本の残虐行為は裁かれなかった。アメリカの強い意向で天皇が訴追から守られ、天皇制の維持が図られた。」

「こうした北東アジアの緊張を解き、和解を達成するために、アメリカはドイツの戦時補償問題解決で仲介役を果たしたのと同じように、サンフランシスコ平和条約の第14条B項にある賠償権の放棄を再解釈する努力に日本の協力も得て取り組むべきである」

というものだ。

申教授が編者となった"Colonial Modernity in Korea"(「韓国の植民地近代性」)という本で、韓国での日本の植民地政策の賛否両論をまとめているようなので、この九月に家族でソウルに旅行することでもあり、読んでみようと思う。

Colonial Modernity in Korea (Harvard East Asian Monographs)Colonial Modernity in Korea (Harvard East Asian Monographs)
販売元:Harvard University Asia Center
発売日:2001-09-01
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相互献花外交という点以外、ドイツを戦後処理の範とする松尾さんの理由付けが今ひとつ弱いような気がするが、いずれにせよ日本の近隣諸国との関係を考える上で参考になる本である。

オバマ大統領が出てくる部分はほんの一部なので、タイトルに惹かれて読むとがっかりするかもしれないが、ドイツの戦後処理を知るだけでも参考になると思う。

出たばかりの本なので、書店で手にとってパラパラめくってみることをおすすめする。


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2009年08月17日

昭和天皇独白録 寺崎英成 御用掛日記 貴重な歴史資料

+++今回のあらすじは長いです+++

昭和天皇独白録 (文春文庫)昭和天皇独白録 (文春文庫)
著者:寺崎 英成
販売元:文芸春秋
発売日:1995-07
おすすめ度:4.0
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昭和天皇独白録・寺崎英成御用掛日記
著者:寺崎 英成
販売元:文藝春秋
発売日:1991-03
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外交官出身で、戦後すぐ昭和21年2月に昭和天皇の御用掛となった寺崎英成氏の記した昭和21年3ー4月の昭和天皇の独白録と寺崎さんの昭和20年から昭和23年までの日記。

寺崎氏は1900年生まれ。昭和天皇より1歳年上だ。兄太郎氏と英成氏の外務省の寺崎兄弟は、柳田邦男さんのノンフィクション「マリコ」の中心人物で、「マリコ」を日米交渉の暗号として連絡を取り合い、日米開戦を回避するために最後まで努力したことが知られている。

マリコ (1980年)マリコ (1980年)
著者:柳田 邦男
販売元:新潮社
発売日:1980-07
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上記に文庫版と単行本を紹介したが、1991年に単行本として出版されたときは、「昭和天皇独白録」(130ページ)、「寺崎英成御用掛日記」(230ページ)、寺崎さんの娘のマリコ・テラサキ・ミラーさんの寄せた「遺産の重み」等(40ページ)の3部作がセットになっていた(カッコ内は、それぞれのページ数)。

「寺崎英成御用掛日記」は元々かなりカットされているが、それでもページ数が230ページと多い。人に公開する前提で書いたものではなく、あまりに私的な部分が多いからだろうが、1995年の文庫版では収録されていない。

その代わり文庫版では半藤一利伊藤隆児島襄秦郁彦の4氏による座談会「独白録を徹底研究する」を解説代わりに付けている。

「昭和天皇独白録」は1990年12月の文藝春秋に発表されて、その存在が明らかになったもので、昭和21年3月から4月にかけて松平慶民宮内大臣、松平康昌宗秩寮総裁、木下道雄侍従次長、稲田周一内記部長、寺崎英成御用掛の五人の側近が、 張作霖爆死事件から終戦に至るまでの経緯を 4日間計5回にわたって昭和天皇から直接聞き、まとめたものだ。

昭和21年始めにマッカーサーは天皇の戦争責任を追及しないという方針を固めていた(この辺の事情は後述の「御用掛日記」の解説にもふれられている)。

なぜ天皇へのヒアリングが同年4月からの東京裁判直前に行われ、ヒアリングが何のために役立てられたのか、寺崎氏の筆記録以外に本紙があったのか、天皇の証言ははたして英訳されたのかなど、文庫版の座談会でも議論されているが不明なままだ。

こんな第1級の資料が1990年になるまで埋もれていたこと自体が信じられないが、寺崎英成氏が昭和26年に死去した後、遺品は米国在住の寺崎夫人グエンドレン(グエン)さんと、娘のマリコさんに引き取られた。

マリコさんの家族は日本語が読めないのでそのままになっていたところ、マリコさんの長男コール氏が興味を持ち、知り合いの南カリフォルニア大学ゴードン・バーガー教授経由日本の現代史研究家に紹介したところ、「歴史的資料として稀有なものである」というお墨付きを得て、文藝春秋に発表したものだ。ちなみに日本の現代史研究家とは座談会にも出席している伊藤隆東大名誉教授のことだ。

「昭和天皇独白録」は、寺崎氏特注の便箋に大半が鉛筆書きで記入され、上下2巻にまとめられたものだ。

出だしに「記録の大体は稲田(周一内記部長)が作成し、不明瞭な点については木下(道雄侍従次長)が折ある毎に伺い添削を加えたものである」

「昭和21年6月1日、本扁を書き上ぐ 近衛公日記及迫水久常の手記は本扁を読む上に必要なりと思い之を添付す」となっている。

この寺崎メモが発見される前に、同じく天皇のヒアリングに立ち会った木下道雄氏の「側近日誌」に断片的に記されていたので、ヒアリングがあったという事実はわかっていたが、克明な資料が残されていたことが、寺崎メモで初めて明らかにされたのだ。

側近日誌
著者:木下 道雄
販売元:文藝春秋
発売日:1990-06
クチコミを見る


この「昭和天皇独白録」の重要部分は、このブログでも紹介している半藤一利さんの「昭和史」、小林よしのりの「天皇論」旧皇族の竹田恒泰さんの「皇族たちの真実」にも引用されているが、まさに昭和史のFAW(Forces at Work=原動力)を裏付ける証言となっている。

昭和天皇が崩御された1989年の翌年の1990年にこの本が出版されたことも、昭和という時代を振り返る上で良いタイミングであったと思う。

不勉強で恥ずかしい限りだが、実はこの本を読むまで「昭和天皇独白録」は、昭和天皇御自身が書かれたものだと思いこんでいて、御用掛の寺崎さんが記録したものとは知らなかった。


独白録の項目

この「独白録」には、ところどころに半藤一利さんの解説も付いているので大変理解しやすい。まずは各項のタイトルを紹介しておく(カッコ内は実際に起こった年で、原本とは異なる)。

<第1巻>
・大東亜戦争の遠因
・張作霖爆死の件(昭和3年)
・倫敦会議、帷幄上奏(いあくじょうそう)問題(昭和5年)
上海事件(昭和7年)
・天皇機関説と天皇現神説(昭和10年)
二二六事件(昭和11年)
・支那事変と三国同盟(昭和12年と15年)
・ノモンハン事件(昭和14年)
・阿部内閣の事(昭和14年)
・平沼と日独同盟(昭和14年)
・御前会議というもの
・米内内閣と陸軍(昭和15年)
・三国同盟(昭和15年)
・南仏印進駐(昭和16年)
・日米交渉(昭和16年)
・9月6日の御前会議(昭和16年)
・近衛の辞職と東条の組閣(昭和16年)
・開戦の決定(昭和16年)
・ルーズベルト大統領の親電

<第2巻>
・宣戦の詔書
・ローマ法皇庁に使節派遣(昭和17年)
・詔書煥発要望の拒否及伊勢神宮
・敗戦の原因
・東条内閣の外交
・東条内閣の内政
・東条という人物
・東条の辞職
・小磯内閣
・小磯の人物
・講和論の台頭
・御名代高松宮の神宮参拝
繆斌(ぼくひん)問題
・最高幕僚設置問題
・小磯の辞職
・鈴木内閣
・首相推薦の重臣会議
・外務大臣・陸軍大臣の任命
・沖縄決戦の敗因
・講和の決意
・6月8日の御前会議とX項
・ソビエトとの交渉
・ポツダム宣言をめぐっての論争
・8月9日深夜の最高戦争指導会議
・8月10日の重臣会議
・12日の皇族会議
・8月14日の御前会議前後
・結論

貴重な資料なので、どれもふれておきたいが、一々紹介していくときりがなく長くなりすぎるので、特筆すぺき発言の要点だけを記すと次の通りだ。(現代仮名遣いに修正済)


★大東亜戦争の遠因
この原因は、第一次世界大戦後の平和条約で、日本の主張した人種平等案は列国から認められず、差別意識は残り、青島還付やアメリカの排日移民法などが日本国民を憤慨させ、反米感情を決定的にした。このような反米国民感情を背景として、ひとたび軍が立ち上がると、これを抑えることは容易ではない。

これが独白録の冒頭文だ。昭和天皇の考える根本のFAW(Forces at Work)をあらわしていると思う。


★張作霖爆死事件の顛末
当時の田中義一首相がうやむやに葬りたいと言ってきたことに対して、「それでは前と話が違うではないか。辞表を出してはどうか」と天皇が言ったことが、田中義一内閣の総辞職と、2ヶ月後の田中義一首相の死去につながった。

実際には首謀者の河本大佐が軍法会議で日本の謀略をすべてバラすと言ったので、軍法会議が開催出来なかったという事情があったらしい。

「こんな言い方をしたのは、私の若気の至りであると今は考えているが、とにかくそういう言い方をした。」

「この事件あって以来、私は内閣の上奏する所のものは、たとえ自分が反対の意見を持っていても裁可を与えることに決心した。」

天皇は国家機関の一部であるとする美濃部達吉の「天皇機関説」は、一時は主流学説だったにもかかわらず、昭和10年に突如国体に反するとの声があがり、禁止された。しかし天皇自身はこのように内閣の上奏は拒否しないことで、絶対君主的な統治者ではないことをはっきり認識されていた。

ちなみにこの項でいわゆる「君側の奸」にもふれている。

原文を引用すると、

「田中にも同情者がある。久原房之助などが、重臣「ブロック」という言葉を作り出し、内閣のこけたは重臣達、宮中の陰謀だと触れ歩くに至った。」

「かくして作り出された重臣「ブロック」とか宮中の陰謀とかいう、いやな言葉や、これを真に受けて恨(うらみ)を含む一種の空気が、かもし出された事は、後々まで大きな災いを残した。かの二二六事件もこの影響を受けた点が少なくないのである。」


二二六事件
天皇は田中内閣の苦い経験があるので、必ず輔弼の内閣の進言通りにしたが、二二六事件と終戦の二回だけは積極的に自らの考えを実行させた。反乱軍には天皇自ら討伐命令を下した。

二二六事件以降軍事テロの恐怖が、常に昭和天皇や政府首脳の頭にトラウマとしてこびりつくことになる。


御前会議
枢密院議長を除く、内閣、軍令部のメンバーは事前に意見一致の上、御前会議に臨むので、反対論を言える立場の人は枢密院議長だけで、多勢に無勢、全く形式的なもので、天皇には会議の空気を支配する決定権はない。


★日独伊三国同盟
昭和15年9月7日、バトルオブブリテンでドイツの英国侵攻失敗が決定的になった日にドイツからスターマー特使が来日、9日後の9月16日、日独伊三国同盟締結が閣議決定された。

昭和天皇は同盟反対だったが、閣議決定には従わざるを得なかった。

この項の前にも昭和天皇は三国同盟締結を勧める秩父宮とケンカしたとか、私が味方にしていたのは、前には(第一次近衛内閣)米内、池田、後では(平沼内閣)有田、石渡、米内だったと語っている。

「この問題については私は、陸軍大臣とも衝突した。私は板垣(征四郎)に、同盟論は撤回せよと言ったところ、彼はそれでは辞表を出すという。彼がいなくなると益々陸軍の統制がとれなくなるので遂にそのままとなった」

さらに畑俊六陸軍大将を侍従武官に任命した時にも、日独同盟反対ということが確かめられたので任命したと語っている。

「宮中が極力親英米的であったという事は之でも判ると思う」と天皇は語っている。

日独伊三国同盟は、いずれソ連を入れて日独伊ソ四国同盟として、英米に対抗して日本の対米発言権を強めようという松岡洋右外相の空虚な発想のもとで締結されたが、松岡は吉田善吾海軍大臣をだまして日独同盟に賛成させたと天皇は語っている。

この部分を引用すると、

「吉田善吾が松岡の日独同盟論に賛成したのはだまされたと言っては語弊があるが、まあだまされたのである。日独同盟を結んでも米国は立たぬというのが松岡の肚である。松岡は米国には国民の半数に及ぶドイツ種がいるから之が時に応じて起つと信じていた、吉田は之を真に受けたのだ。」

「吉田は海軍を代表して同盟論に賛成したのだが、内閣が発足すると間もなく、米軍は軍備に着手し出した、之は内閣の予想に反した事で吉田は驚いた、そして心配の余り強度の神経衰弱にかかり、自殺を企てたが止められて果たさず後辞職した。」

「後任の及川(古志郎)が同盟論に賛成したのは、前任の吉田が賛成した以上、賛成せざるを得なかった訳で当時の海軍省の空気中に在ってはかくせざるを得なかったと思う。近衛の手記中に於て、近衛は及川を責めているが、之はむしろ近衛の責任のがれの感がある」

松岡洋右については、昭和16年2−4月のドイツ訪問後ドイツびいきになったことで、「それからは別人の様に非常なドイツびいきになった。恐らくは「ヒトラー」に買収でもされたのではないかと思われる」とまで語っている。

「一体松岡のやる事は不可解の事が多いが彼の性格を呑み込めば了解がつく。彼は他人の立てた計画には常に反対する、又条約などは破棄しても別段苦にしない、特別な性格を持っている」

さらに三国同盟については、天皇は近衛首相に、次のように言っている。

「ドイツやイタリアのごとき国家と、このような緊密な同盟を結ばねばならぬことで、この国の前途はやはり心配である。私の代はよろしいが、私の子孫の代が思いやられる。本当に大丈夫なのか」

そしてその結末については、

「日独同盟については結局私は賛成したが、決して満足して賛成した訳ではない。(中略)三国同盟は15年9月に成立したが、その後16年12月、日米開戦まできた三国単独不講和確約は結果から見れば終始日本に害をなしたと思う」

「日米戦争は油で始まり油で終わった様なものであるが、開戦前の日米交渉時代にもし日独同盟がなかったら米国は安心して日本に油をくれたかも知れぬが、同盟があるために日本に送った油がドイツに回送されはせぬかという懸念の為に交渉がまとまらなかったとも言えるのではないかと思う」


★近衛の辞職と東条の組閣
陸軍は主戦論、海軍は戦争はできないことはないが、2年後になると財政経済の国力の問題になるから、和戦の決定は総理大臣に一任するという立場だった。

近衛は信念と勇気を欠いたので、処理に悩み辞職した。

その後は陸軍を抑える力のあるものということで東条を首相とし、9月6日の御前会議の決定を白紙に戻して平和になるよう極力尽力せよということで条件を付けた。

天皇の東条の評価は高いことがこの「独白録」からもわかる。


★開戦の決定
天皇の言葉は次の通りだ。

「問題の重点は油だった。中略。石油の輸入禁止は日本を窮地に追い込んだものである。かくなった以上は、万一の僥倖に期しても、戦った方が良いという考が決定的になったのは自然の勢と言わねばならぬ。」

「もしあの時、私が主戦論を抑えたらば、陸海に多年錬磨の精鋭なる軍を持ち乍ら、ムザムザ米国に屈伏するというので、国内の与論は必ず沸騰し、クーデタがおこったであろう。」

「実に難しい時だった。そのうちにハルのいわゆる最後通牒が来たので、外交的にも最後の段階に至った訳である。」

尚、半藤一利さんも「昭和史」のなかでコメントしていたが、天皇の広田弘毅の評価は低い。「玄洋社出身の関係か、どうか知らぬが、戦争をした方がいいという意見を述べ、又皇族内閣を推薦したり、又統帥部の意見を聞いて、内閣を作った方が良いと言ったり、全く外交官出身の彼としては、思いもかけない意見を述べた」


★ローマ法皇庁に施設派遣
「開戦後法皇庁に初めて使節を派遣した。これは私の発意である。」

ローマ法皇庁が全世界に及ぼす精神的支配力を見込み、戦争を終わらせる上で好都合で、世界の情報収集にも便利という発想だったという。ただ日独同盟の関係から、ヒトラーと疎遠な関係にある法皇庁に十分な活動はできなかったという。


★敗戦の原因
天皇の言葉をそのまま引用する。

「敗戦の原因は四つあると思う。
第一、兵法の研究が不十分であった事、即孫子の、敵を知り、己を知らねば(ママ)、百戦危うからずという根本原理を体得していなかったこと。
第二、余りに精神に重きを置き過ぎて科学の力を軽視したこと。
第三、陸海軍の不一致。
第四、常識或る主脳者(ママ)の存在しなかった事。往年の山縣(有朋)、大山(巌)、山本権兵衛、という様な大人物に欠け、政戦両略の不十分の点が多く、且軍の主脳者の多くは専門家であって部下統率の力量に欠け、いわゆる下克上の状態を招いたこと。」

半藤さんの解説には、最近になって公表された昭和20年9月9日付けの皇太子(今上天皇)宛の天皇の手紙が引用されている。

「我が国人が、あまりに皇国を信じ過ぎて、英米をあなどったことである。
我が軍人は精神に重きをおきすぎて科学を忘れたことである。
明治天皇の時には、山縣、大山、山本等の如き名将があったが、今度の時はあたかも第一次世界大戦のドイツの如く、軍人がバッコして大局を考えず、進むを知って、退くことを知らなかったからです」


★戦況の分かれ目
「私はニューギニアのスタンレー山脈を突破されてから(昭和18年9月)勝利の見込みを失った。一度どこかで敵を叩いて速やかに講和の機会を得たいと思ったが、ドイツとの単独不講和の確約があるので国際信義上、ドイツより先には和を議したくない。それで早くドイツが敗れてくれればいいと思ったほどである。」


★沖縄決戦の敗因
「これは陸海作戦の不一致にあると思う。沖縄は本当は三個師団で守るべきところで、私も心配した。」

「特攻作戦というものは、実に情に於いて忍びないものがある。敢えてこれをせざるを得ざるところに無理があった。」

「海軍はレイテで艦隊のほとんど全部を失ったので、とっておきの大和をこの際出動させた、これも飛行機の連絡なしで出したものだから失敗した」


★本土決戦準備
「敵の落とした爆弾の鉄を利用してシャベルを作るのだという。これでは戦争は不可能ということを確認した」


★結論
「開戦の際東条内閣の決定を私が裁可したのは立憲政治下に於ける立憲君主としてやむを得ぬ事である。もし己が好む所は裁可し、好まざる所は裁可しないとすれば、これは専制君主と何ら異なる所はない。」

中略

「今から回顧すると、私の考えは正しかった。陸海軍の兵力の極度に弱った終戦の時に於いてすら無条件降伏に対し「クーデター」様のものが起こった位だから、もし開戦の閣議決定に対し私が「ベトー」を行ったとしたらば、一体どうなったであろうか。」

「日本が多年錬成を積んだ陸海軍の精鋭を持ちながらいよいよという時に決起を許さぬとしたらば、時のたつにつれて、段々石油は無くなって、艦隊は動けなくなる、人造石油を作ってこれに補給しようとすれば、日本の産業をほとんど、全部その犠牲とせねばならぬ。それでは国は亡びる、かくなってから、無理注文をつけられては、それでは国が亡びる、かくなってからは、無理注文をつけられて無条件降伏となる。」

「開戦当時に於ける日本の将来の見通しは、かくの如き有様であったのだから、私がもし開戦の決定に対して「ベトー」したとしよう。国内は必ず大内乱となり、私の信頼する周囲の者は殺され、私の生命も保証できない。」

「それは良いとしても結局狂暴な戦争が展開され、今次の戦争に数倍する悲惨事が行われ、果ては終戦も出来かねる始末となり、日本は亡びる事になったであろうと思う。」

これが「昭和天皇独白録」の結論である。


寺崎英成御用掛日記

昭和20年8月15日から昭和23年2月15日までの寺崎英成氏の日記だ。寺崎家の日常のこともふれられていて、何を食べたとか、誰と会ったとかの記録がほとんどで、たとえば「昭和天皇独白録」のヒアリングについては一切ふれていない。

たぶん公の機密事項については、他人が読む可能性のある日記には書かなかったのだろう。

230ページもの日記だが、マリコ・テラサキ・ミラーさんが書いているように、この時代が寺崎氏のキャリアで最も充実した時代だった。戦前から米国には多くの知人があり、奥さんが米国人だったこともあり、GHQ,大使館にはフリーパスだったそうだ。

寺崎氏は日米開戦時にワシントンの日本大使館に勤務していたが、日米開戦後帰国し、待命状態が続き、一時は外務省を離れていたが、昭和20年11月に終戦連絡中央事務局(終連)連絡官として復職する。

このときの同僚が終連参与の白洲次郎だ。

吉田茂の引きで終連参与となった白洲次郎は、どうやら寺崎氏など外交官出身者には吉田茂の虎の威を借る狐のように思えた様で、

「白洲、新聞記者が部外者に自動車を出していて怪しからぬと言う。怪しからぬハ白洲なり。余を部外者とハ何ぞや。」

「陛下ハ吉田白須(白洲)のラインに疑念を持たるるなりと言う」

というような表現も見られる。

寺崎氏の戦前からの知己、ジョージ・アチソン氏がマッカーサーの政治顧問団団長だったり、マッカーサーの直属の副官部の軍事秘書で、いわゆるバターンボーイズの一人のボナ・フェラーズ准将が夫人のグエンさんの親戚だったりで、GHQへの食い込みは単なる知米派を超えるものがある。

この日記を見ると頻繁にGHQのアチソン、フェラーズ、バンカー(マッカーサー副官)、フィットネー(ホイットニー民政局長。白洲次郎の宿敵のケーディス中佐の上司)他の様々なスタッフと頻繁に会ったり、食事したり、ゴルフや鴨狩に行ったりして公私ともに親密なつきあいをして、それが日本のためにもなっていることがわかる。

マッカーサーの写真を見ると腰にピストルを持っている副官が必ず同行しているが、それがフェラーズ准将であり、小泉八雲に傾倒し、天皇についても「天皇裕仁はルーズベルト以上の戦争犯罪人ではない。事実、記録をよく調べてみたまえ。そうそればどちらが戦犯か明らかになる」と明言していたという。

このフェラーズ准将は、次のような天皇に関する覚書を昭和20年10月2日付けで作成していた。マッカーサーはこの覚書を常にデスクに入れ、時々読み返していたことをウィロビー少将などが認めている。

「…われわれアメリカ軍は天皇に協力を求め、日本への無血侵入を成功裡に遂行した。七百万余の日本軍将兵が武器を捨て、急速に陸海軍が解体されたのは天皇の命令による。この天皇の行為によって、数十万の米軍将兵は死傷を免れた。戦争も予期された時日よりはるかに早く終結した。」

「このように、いったん天皇を利用した上で、その天皇を戦争犯罪を口実に裁くならば、日本国民はそれを信義にもとるものと見なすであろう。…もし天皇を裁判にかけるならば、日本の統治組織は崩壊し、民衆の決起は不可避である。他の一切の屈辱に耐えても、この屈辱に日本国民は耐ええないであろう…。」

まさにアメリカの天皇に対する占領政策を決めた覚書である。

統率の取れた武装解除を物語るビデオがYouTubeに掲載されているので、紹介しておく。昭和20年8月30日厚木飛行場に到着したマッカーサー一行が移動する時に、沿道には日本の兵隊が50メートルおきに立ち、全員マッカーサー一行に背を向けて、不届き者が近づかないように監視していた。

日本軍から攻撃されるかもしれないと戦々恐々だったマッカーサー一行は、秩序だった警備に感動し、これが天皇には手を付けてはならないという確信に繋がったのだろう。



半藤一利氏も「この日記のなかで、いちばん注目せねばならないのは、何といってもフェラーズの名であろう。」と解説している。

頻繁に会っているのがワシントン時代からの旧知の仲で、国際検察局捜査課長として赴任してきたロイ・モーガンだ。その面談の頻度から、東京裁判の被告人選定などに寺崎氏から情報収集をしていたのではないかと思わせる。

昭和21年に寺崎氏は皇太子(今上天皇)の家庭教師、ヴァイニング夫人の選定にもかかわっており、着任したヴァイニング夫人ともよくコンタクトしていたことがわかる。


遺産の重み

最後のマリコ・テラサキ・ミラーさんの「遺産の重み」は「宿命的な母グエンの死」、「ある外交官の挫折と栄光」、「かけ橋(ブリッジ)こそ父母の遺産」の3部作で構成されている。

寺崎氏の生涯や夫妻の出会い、戦時中の生活などを紹介している。冒頭で紹介した柳田邦男氏のノンフィクション作品「マリコ」で描かれている寺崎兄弟の日米戦回避努力が”表側”の生活だとしたら、戦時中の”裏側”の苦労などが綴られていて興味深い読み物となっている。

マリコさんは日米間のかけ橋となって欲しいという父母の遺産の重みを感じており、毎年のように来日して各地で講演している。

その象徴はドテラだ。

寺崎氏が、グエンさんを抱いてドテラにくるまって、「こうすれば二人は”一人の巨人”で怖いものなしさ」と言っていたという。ただでさえ難しい国際結婚で、しかもお互いの国が戦争していたのだから、普通以上の苦労をした二人であった。

日本とアメリカが”ドテラ”にくるまってひとつになったときに、本当の巨人になれるというメッセージを伝え続けていきたいとマリコさんは語っている。

8月の終戦記念日を迎え、昭和生まれの人にも平成生まれの人にもおすすめできる本だと思う。

文庫本の方が手っ取り早く読むには適しているが、時間があれば単行本も読んで頂きたい。単行本には写真も多く掲載されており、寺崎さんの日記も参考になる。

文庫本の座談会は、調べてみたら全員東大出身の小説家、学者で、児島襄さんは、半藤さんの東大ボート部の3年先輩だった。自由闊達な座談会でないのがやや残念なところだ。


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2009年07月19日

昭和史 1926−1945年 半藤一利さんの「あたまにスッと入る昭和史」

昭和史 1926-1945 (平凡社ライブラリー は 26-1)昭和史 1926-1945 (平凡社ライブラリー は 26-1)
著者:半藤 一利
販売元:平凡社
発売日:2009-06-11
おすすめ度:3.5
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みずから「歴史探偵」と語る現代最高の歴史小説家の一人半藤一利さんの歴史講釈。

半藤さんの「幕末史」のあらすじを以前紹介したが、本としてはこの「昭和史」の方が先に出版された。

編集者の「学校でほとんど習わなかった昭和史のシの字も知らない私たち世代のために、手ほどき的な授業をしていただけたら、たいそう日本の明日のためになるのですが」という説得から、4人のスタッフを相手に1回2時間弱、月1回程度、寺子屋的に行った昭和史の講義を編集したもの。

少人数の講義という意味では「幕末史」も同様だが、最近の作品の「幕末史」の方が歌あり、漫談ありでリラックスしてきた感じだ。


昭和史のFAW

さすが「昭和史の語り部」と呼ばれているだけあって、非常にわかりやすく昭和史を解説している。まさに「頭にスッと入る昭和史」だ。

なぜわかりやすいかというと、コンサルがFAWと呼ぶ(Forces at Work)出来事の根っこにあるトレンド、歴史を作った原動力が明確に示されているからだ。

この本で挙げられている昭和史のFAWの最も重要なものを、筆者なりに抜き出すと次の通りだ。

1.張作霖爆殺事件処理をめぐる昭和天皇の田中義一首相譴責 ー 「沈黙の天皇」誕生

「昭和天皇独白録」に収録されている天皇と田中義一首相とのやりとりは次の通りだ。

「それでは話が違ふではないか、辞表を出してはどうか」、「こんな云ひ方をしたのは、私の若気の至りである(中略)この事件あって以来、私は内閣の上奏する所のものは仮令自分が反対の意見を持ってゐても裁可を与へる事に決心した」

昭和天皇独白録 (文春文庫)昭和天皇独白録 (文春文庫)
著者:寺崎 英成
販売元:文芸春秋
発売日:1995-07
おすすめ度:4.0
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これ以降内閣の一致した意見ならば、天皇はたとえ不賛成であっても裁可を下すことになり、まさに天皇機関説通り、最高権力者としての天皇でなく、一国家機関になった。「沈黙の天皇」の誕生である。


2.統帥権という「魔法の杖」 内閣と統帥権の分離

1922年海軍大臣が認めたワシントン軍縮条約を軍令部が拒否し、「統帥権干犯」問題が発生した。

これ以降、軍の統帥権は天皇の不可侵の権利とされる。内閣と軍令部の二重構造が常態化したのだ。

司馬遼太郎さんが「魔法の杖」と呼ぶ統帥権分離を思いついたのは2.26事件で銃殺になった北一輝といわれている。


3.戦争をあおって売り上げを急増させた新聞などマスコミ

今は朝日新聞などは左派リベラルのようになっているが、戦前はマスコミ全部が戦争に大賛成していた。

昭和6年の満州事変以来、朝日新聞、東京日日新聞(毎日新聞)の各社は関東軍を支持、売り上げを伸ばす。

戦争中の大本営発表自体が戦果を誇張、というよりも戦果をねつ造していたもので、それに輪を掛けてマスコミ各社は戦争を賛美していたのだ。

これはいわゆる知識人も変わらない。ほとんどが戦争賛成だったのだ。

半藤さんは「真珠湾の日」で小説家や評論家などの発言を多く載せているが、この本でも当時の第一級の知性といわれた小林秀雄亀井勝一郎横光利一中島健蔵などの民族主義的発言を紹介している。

“真珠湾”の日 (文春文庫)“真珠湾”の日 (文春文庫)
著者:半藤 一利
販売元:文藝春秋
発売日:2003-12
おすすめ度:4.0
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そんな中で敗戦を予想して、東京都鶴川村に隠棲した白洲次郎の生き方は自分のプリンシプルを鮮明に打ち出していて、いかにも次郎らしい。

白洲次郎 占領を背負った男 上 (講談社文庫)白洲次郎 占領を背負った男 上 (講談社文庫)
著者:北 康利
販売元:講談社
発売日:2008-12-12
おすすめ度:4.0
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4.2.26事件が残した軍事テロの恐怖

松本清張は「2.26事件」で、次のように書いている。

「これ以降の日本は、軍部が絶えず”2.26”の再発をちらちらさせて、政・財・言論界を脅迫した。かくて軍需産業を中心とする重工業財閥を軍が抱きかかえ、国民をひきずり戦争体制へ大股に歩き出すのである。この変化は、太平洋戦争が現実に突如として勃発するまで、国民の眼にはわからない上層部において、静かに、確実に進行していった」

昭和史発掘 (5) [新装版] (文春文庫)昭和史発掘 (5) [新装版] (文春文庫)
著者:松本 清張
販売元:文藝春秋
発売日:2005-07-08
おすすめ度:4.5
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「昭和天皇独白録」でも天皇はこう語っている。

「私がもし開戦の決定に対して”ベトー(拒否)”したとしよう。国内は必ず大内乱となり、私の信頼する周囲の者は殺され、私の生命も保証できない、それはよいとしても結局狂暴な戦争は展開され…」

山本五十六は「内乱では国は滅びない。戦争では国が滅びる。内乱を避けるために、戦争に賭けるとは、主客転倒もはなはだしい」と語ったという。

これも2.26事件の大規模なテロの恐怖がもたらしたものだろうと、半藤さんは語る。


広田弘毅内閣の3大失策

これらの4つが戦争までの昭和史の大きなFAWだが、それ以外にも小さなFAWがあった。

特に戦争につながったという意味では、広田弘毅内閣の軍部大臣現役武官制復活、日独防共協定、「北守南進」政策(南進論)という3大失策を挙げている。

・軍部大臣現役武官制が復活したので、これ以降軍部が内閣の生殺与奪の権を握ることになった。

・日独防共協定は、日独伊防共協定、そして1940年9月の日独伊三国同盟につながり、枢軸国側につくことで英米との対決を決定的なものにし、結果的にアメリカが第2次世界大戦に参戦する理由となった。

「昭和天皇独白録」で天皇はこう語っている。

「三国同盟について私は秩父宮と喧嘩して終わった」

1940年9月16日に三国同盟を上奏する近衛首相に対して天皇は物資不足や図上演習の結果などを示し反対する。しかし近衛は松岡の日独伊ソ4国同盟の可能性も説き、天皇は結局自説をまげて了承する。

・南進論は日米関係を決定的に悪化させ、日米戦争を引き起こした。

1940年9月日本は北部仏印に進駐する。本来平和的に進駐する予定が、現地のフランス軍と戦火を交えてしまい、武力進駐と世界から非難される。

「統帥乱れて信を内外に失う」とは現地指揮官が東京に打電してきた言葉だ。

南進論に反応しアメリカは一連の対日制裁を発動する。

1940年1月に日米修好通商条約廃棄、1940年9月にくず鉄輸出禁止、1941年8月には石油を全面禁輸とする。ABCD包囲網の完成だ。

広田弘毅は城山三郎さんの「落日燃ゆ」でヒロイックに描かれているので人気があるが、非軍人として唯一東京裁判で死刑になった元首相であり、日米開戦の直接の原因を作ったのも広田内閣である。

落日燃ゆ (新潮文庫)落日燃ゆ (新潮文庫)
著者:城山 三郎
販売元:新潮社
発売日:1986-11
おすすめ度:4.5
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国際情勢のFAW

筆者なりに日本をめぐる国際情勢のFAWを整理すると次の3つとなる。

1.国防、経済発展の生命線「赤い夕陽の満州」

結局日本が明治以来40年掛けて獲得した海外領土、海外権益を戦争ですべて失うことになるが、戦争に至った背景には、日本の生命線は満州であり、満州の権益は絶対に失えないという思いがあった。

終戦までに満州移民は150万人いたと言われており、このうち一般民間人で戦争で亡くなったのは18万人だ。

大日本帝国領土






2.アメリカの巧みな外交による日英同盟の廃棄、日本封じ込め


アメリカは1922年のワシントン軍縮会議の時に、英国にプレッシャーをかけて日英同盟を廃棄させる。

それ以降は日本人を目の敵にした日系移民排斥法などを成立させる他、蒋介石の中国を支援し、日本が必要なくず鉄や石油などの資源を禁輸にして日本を封じ込め、兵糧攻めをはかる。

前回紹介した「真珠湾の真実」で詳細に検証されていたルーズベルトが対独戦に参戦するために、日本に先制攻撃を仕掛けさせたという「ルーズベルトの陰謀説」も根強い。


3.ナチスドイツが先に原子爆弾を開発してしまうという恐怖

「真珠湾の真実」のあらすじでで、筆者の個人的見解を書いたが、半藤さんも1938年にドイツのオットー・ハーンが核分裂実験に成功し、翌1939年8月にはアインシュタインがナチスドイツが先に原子爆弾を開発してしまう恐れがあることをルーズベルトに直言したことを紹介している。

アインシュタインからルーズベルト宛のレター

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ルーズベルトは「マッチ箱一つで戦艦を吹き飛ばせる」原子爆弾を開発するため20億ドルを投じてマンハッタン計画をスタートさせ、原子爆弾を完成させた。


なぜ海軍は日米開戦賛同に変節したのか

元々英米協調路線で、日米開戦に絶対反対、日独伊三国同盟反対だった海軍がなぜ変節したのかというのは、多くの人が抱く疑問だ。

米内光政山本五十六井上成実の海軍良識派トリオは親米派で、開戦忌避努力を続けた。

特に山本五十六は同郷(半藤さんは長岡藩の系譜)の先人でもあり、いろいろな機会で開戦回避努力をしたことを半藤さんは紹介している。

親米路線だった海軍が日独伊三国同盟に賛同したのは、親米良識派トリオをはずした内部抗争とカネの問題だった。

ワシントン軍縮条約の16インチまでという主砲サイズ制限を破って、ひそかに46センチ主砲を持つ超大型戦艦大和・武蔵の建造を進めていた海軍の及川海軍大臣、豊田次官は、軍事予算の分配で陸軍に恩を売るために(?)日独伊三国同盟に賛同した。半藤さんは「カネのために魂を売った」とまで言っている。

それでも山本五十六は航空兵力不足を訴え、三国同盟締結に異を唱えるが、1940年9月14日及川海軍大臣、豊田次官以下の海軍首脳は三国同盟に正式賛同する。

皮肉にも翌日の9月15日に英国はバトルオブブリテンで最大の戦果を挙げる。

敵機195機撃墜、見方損失26機と発表された。その後撃墜数は少なかったことがわかるが、それでも大打撃を与えたことは間違いない。



バトルオブブリテンの時の有名なチャーチルの言葉が、"Never in the field of human conflict was so much owed by so many to so few"(人類の戦争の歴史の中で、これだけ多くの人が、これだけ少ない人によって、かくも多くの恩義を受けたことはない)。だ。

9月15日の敗北でドイツは英国侵略をあきらめ、対ソ戦の準備を始める。もはやナチスの勢いは落ちてきていたのに、世界の情勢を日本は全く掴まずに9月に日独伊三国同盟を結んだのだ。


あだ花の「日米諒解案」と松岡の日独伊ソ四国同盟構想の愚

翌昭和16年、日独伊ソ四国同盟案を提唱していた松岡外相は4月にヨーロッパ訪問後、モスクワを訪問する。

このときチャーチルは松岡宛に鉄鋼生産高など事実を示して日本を参戦させないようにレターを書く。

このときのレターの内容は関榮次さんの「チャーチルの愛した日本」のあらすじで紹介しているので、参照して欲しいが、おどしでも何でもなく、冷静に事実を考えてみようというレターだ。

しかし松岡は侮辱ととり、「日本の外交政策は偉大な民族的目的と八紘一宇の実現を意図し、周到に考慮して決められたものだから、余計な心配するな」と回答する。

松岡はドイツがひそかにソ連攻撃を準備していたことを全く知らず、スターリンの「お互いアジア人同士だ」という言葉にコロッと来て、スターリンがドイツ戦の準備で日ソ中立条約を結びたがっているという事情を全く理解しないまま。日ソ中立条約を結ぶ。

その後ウォルシュ司祭とドラウト神父の2神父が仲介してルーズベルトと近衛が太平洋のどこかでサミットミーティングを持って、事態を打開するという日米諒解案が野村大使とハル国務長官との間で詰められ、日本側は陸海軍すべて賛同したが帰国した松岡外相の反対でついえる。

ヨーロッパから帰ってきた松岡がやたらドイツの肩を持つので、松岡はヒトラーに買収されたのではないかと天皇が疑うほどだった。

「松岡は二月の末に独逸に向い四月に帰って来たが、それからは別人の様に非常な独逸びいきになった。おそらくはヒトラーに買収でもされてきたのではないかと思われる」

その後6月に独ソが開戦すると、松岡の日独伊ソ四国同盟案は雲散霧消し、松岡は一転してソ連を叩くべきだと言い出したという。

その後9月の御前会議で、昭和天皇は明治天皇の御製「四方の海みなはらからとい思ふ世に など波風の立ちさわぐらむ」を2回詠み、戦争に反対した。

ちなみに「公文書で見る日米交渉」という日本の国立公文書館アジア歴史資料センターのサイトに日本の公文書の情報が公開されており、興味深い。

国立公文書館






真珠湾攻撃で始まる太平洋戦争

山本五十六は反対論が強いなかで、ハワイ作戦を立案する。

「結局、桶狭間とひよどり越えと川中島とを併せ行うのやむを得ざる羽目に、追い込まるる次第に御座候」。戦争を早く止めるための作戦だったという。

開戦期日を昭和16年12月上旬に決めたのは、海軍戦力がアメリカの7割になるのがそのときで、それ以降は差はどんどん拡大するからだという。

ルーズベルトは暗合解読で事前に日本の開戦を予期していたが、日本とドイツに先に宣戦布告させるために日本に真珠湾攻撃をしかけさせ、大義名分を得て参戦する。

早くも17年6月に敵の空母を叩くつもりが、逆に6隻の正規空母のうち4隻を失うミッドウェー海戦の大敗で勢いは決した。

ミッドウェー海戦の敗戦は、作戦のせいではない、敵の待ち伏せを予期して、半分の飛行機は即時待機とし、あらゆる機会を捉えて敵空母部隊を攻撃しろという連合艦隊命令を南雲指揮官が無視した驕慢の結果だったと元参謀は語っていたという。

はるかニューギニアのガダルカナル島で日米両軍の主力が激突する戦争が起きたのは、米国からオーストラリアの補給ルートを日本が絶とうとしての作戦だった。

ガダルカナル敗退、山本長官戦死、アッツ島玉砕、インパール作戦敗退、サイパン喪失、神風攻撃にもかかわらず沖縄戦敗戦、そして原爆投下、ソ連参戦と続き、日本の敗戦となる。

日本の終戦交渉をすべきだと主張するラルフ・バード海軍次官は原爆投下に反対し、1945年7月に次官を辞任する。


太平洋戦争の死者数

「日本のいちばん長い日」のあらすじで紹介した最後の陸軍大臣阿南陸相は「一死を以て大罪を謝し奉る」と書いて、8月15日に切腹した。

決定版 日本のいちばん長い日 (文春文庫)決定版 日本のいちばん長い日 (文春文庫)
著者:半藤 一利
販売元:文藝春秋
発売日:2006-07
おすすめ度:5.0
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最後に半藤さんは310万人と言われる太平洋戦争の死者の数を列挙しているが(以下は概数)、到底阿南陸相一人が切腹して済む問題ではない。

・ガダルカナルで戦死8千人、餓死・病死1万1千人

・アッツ島で2,500人

・ニューギニアで病死も含め戦死15万7千人

・タラワ島で戦死4千7百人、マキン島で700人,ゲゼリン島で3,400人

・グアム島で戦死1万8千人

・サイパン島で戦死3万人、市民の死亡1万人

・インパール作戦で戦死3万人、戦病死4万2千人

・インパール作戦の一つで中国本土で戦死2万9千人

・ベリリュー島で1万人

・フィリピンで戦死47万7千人

・硫黄島で戦死2万人

・沖縄で戦死11万人、市民の死亡10万人

・日本本土空襲で30万人

・日中戦争で41万2千人(日ソ1週間戦争の死者8万人も含む)

・特攻で4千6百人

全て合計すると310万人が太平洋戦争で亡くなった。


5つの教訓

昭和史の教訓として半藤さんは次の5つを挙げている。

第1に国民的熱狂をつくってはいけない。

第2に最大の危機に於いて日本人は抽象的な観念論を非常に好み、具体的な理性的な方法論をまったく検討しようとしないこと。希望的観測が、確信になってしまう。「ソ連は攻めてこない」というような。

第3に日本型のタコツボ社会における小集団の弊害がある。陸軍大学卒が集まった参謀本部作戦課が戦争の全権を握るのが良い例だ。

第4にポツダム宣言受諾は意志の表明にすぎず、降伏文書の調印をしなければ完璧なものにならないという国際常識の欠如。これがためソ連に満州侵攻をゆるし、戦死者8万人を出し、シベリアで抑留された人が57万人、このうち帰還者は47万人で、10万人以上がシベリアで亡くなっている。

そのうちの一人が「プリンス近衛殺人事件」のあらすじで紹介した近衛文麿の長男、近衛文隆だ。

プリンス近衛殺人事件プリンス近衛殺人事件
著者:V.A. アルハンゲリスキー
販売元:新潮社
発売日:2000-12
おすすめ度:4.0
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第5に対症療法的なすぐに結果を求める短兵急な発想。大局観のない複眼的な見方の欠如した日本人のありかた。


結論としてまとめると、政治的指導者も軍事的指導者も根拠なき自信過剰と「大丈夫、アメリカは合意する」などの底知れぬ無責任が、日本を敗戦の危機に追いやったといえる。日本人に多くの教訓を与えてくれた昭和史だと締めくくっている。

500ページもの大作だが、テンポが良いのですぐ読める。文庫本が最近出たことでもあり、是非一読をおすすめする。



参考になれば投票ボタンをクリックして頂きたい。


  
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2009年06月26日

皇族たちの真実 竹田宮末裔の語る皇族の話

語られなかった皇族たちの真実-若き末裔が初めて明かす「皇室が2000年続いた理由」語られなかった皇族たちの真実-若き末裔が初めて明かす「皇室が2000年続いた理由」
著者:竹田 恒泰
販売元:小学館
発売日:2005-12
おすすめ度:4.0
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終戦後11宮家の皇籍離脱で一般人となった竹田宮の末裔、竹田恒泰さんの本。竹田さんは昭和50年生まれで、環境学や孝明天皇を研究し、現在は慶應大学法学部の講師として「天皇と憲法」を担当している。中田現市長が勝利した平成14年の横浜市長選挙に出馬も考えたが、まわりからとめられたという。

竹田さんの祖父の竹田恒徳氏は「スポーツの宮様」として、昭和28年からJOC委員となり、後にJOC委員長として昭和39年の東京オリンピックと昭和47年の札幌冬季オリンピックの誘致に成功している。

竹田さんの父君の竹田恒和さんは恒徳氏の三男で、馬術でミュンヘン、モントリオールオリンピックの代表となり、現在はJOCの会長を務めている。

竹田宮は伏見宮の傍系で、明治になって伏見宮から北白川宮が分家し、さらに竹田宮が分かれた。明治39年に生まれた比較的新しい宮家である。

皇族の役割

この本では、皇族の役割として1.皇統の担保(血のスペア)と、2.天皇の藩屏(はんぺい)を挙げており、それぞれについて説明している。

第1章は万世一系の危機ということで、女帝を認めるかどうかの議論を旧皇族の立場から論じている。これが皇統の担保だ。

第2章以下は、天皇の藩屏として、つまり天皇の近親者として天皇を守る役割で、戦争に加わった皇族、皇族達の終戦工作や、終戦の際の東久邇宮内閣や11宮家の皇籍離脱を取り上げている。


男系継承の意義

皇族の第一の存在理由は、皇統が途絶えそうになったときに、皇族が皇位を継承することによって万世一系を維持することだ。

2006年に秋篠宮文仁親王に悠仁(ひさひと)親王が生まれる前までは、皇太子ご夫妻の唯一の皇子は愛子内親王だったので、女性天皇を認めるように皇室典範を改正しようという動きがあった。

小泉首相の私的諮問機関として「皇室典範に関する有識者会議」が吉川弘之元東大総長を会長とする10名の委員で設置され、2004年に男女を問わない長子優先の制度が適当であり、女性天皇も認めるべき、女王の配偶者も皇族とすべきという答申を発表している。

竹田さんは、日本の皇室は男系継承されてきた世界で最も古い王家である。歴史上何度かあった皇統断絶の危機も皇位は常に男系で継承されてきたように、今後も男系継承の伝統は守られるべきだと語る。

男系継承は皇室にとって絶対に変えてはならない伝統であると。ただし竹田さんの主張は、竹田家や旧皇族の統一見解でなく、個人的意見であると断っている。

英国など他の国の王室との違いについては、竹田さんの「旧皇族が語る天皇の日本史」に詳しいが、他国の王室は、ロイヤルファミリーを殺して、別の権力者のファミリーが王座を乗っ取ったという歴史がある。

これに対して、日本の皇室は単一ロイヤルファミリーが2,000年も続いているというのが大きな差だ。

旧皇族が語る天皇の日本史 (PHP新書)旧皇族が語る天皇の日本史 (PHP新書)
著者:竹田 恒泰
販売元:PHP研究所
発売日:2008-02-14
おすすめ度:3.5
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過去の皇統断絶の危機

今上天皇は第125代天皇にあたるが、過去109回は天皇の皇子、9回は天皇の皇孫、3回は皇曾孫が即位している。

このうち女性天皇は8方10代だが、すべて男系の天皇であり、女系の天皇はかつてない。

ここでは女系天皇と女性天皇を区別する必要がある。

女性天皇は既婚者の場合はすべて皇后または皇太子妃であり、夫が亡くなった後に践祚(せんそ)した。女帝が独身の場合は、生涯独身を貫くことが不文律としてあったという。

残り3例が皇統断絶の危機である。6世紀の第26代継体天皇と第25代武烈天皇は祖父同士がはとこ、10親等の隔たりがあるが、それでも男系継承が続けられた。

15世紀、室町時代の第102代後花園天皇は、皇統断絶の危機から伏見宮家よりの天皇が即位した。大宅壮一氏は、宮家とは血のリレーの伴走者であると評したそうだが、まさに”血のスペア”が現実となった事例だ。

最後の3例めは、江戸時代後期の18世紀末、第118代後桃園天皇が22歳で崩御した時だ。

御桃園天皇の子どもは2歳の欣子内親王で、近親に皇族男子がいなかったため、一時空位が生じたが、閑院宮家の8歳の祐宮を後桃園天皇の養子とした上で、第119代光格天皇として即位させた。

そして血縁を濃密にするために、欣子内親王は光格天皇の皇后となった。

光格天皇は在位38年と、昭和天皇の64年、明治天皇の46年に次ぐ歴代2位の在位期間で、院政の23年を入れると通算62年君臨し、明治維新につながる歴史の礎をつくった。


側室制度の意義

このように万世一系の皇統を維持するためには、世襲親王家と天皇の皇子を増やす側室制度が不可欠であったと竹田さんは語る。

昭和天皇の直系の先祖、大正天皇、明治天皇、孝明天皇、仁孝天皇は生母がすべて側室だが、だからといって皇位継承に何の問題もない。しかし昭和22年制定の現在の皇室典範は嫡子のみに皇位継承権があると明記され、庶子は皇族の身分が与えられなくなった。


天皇はなぜ尊いのか?

「旧皇族が語る天皇の日本史」では、竹田さんは学生から「天皇はなぜ尊いのか?」と聞かれて、その場では答えられなかったという話を紹介している。

竹田さんが男系継承にこだわるのは天皇家が2000年の伝統があるからに尽きると語る。天皇は初代天皇の血を受け継いできているから尊いのだと。

筆者も同感である。まさにそれ以外の説明はできないだろう。世界で唯一2000年続いてきたことに絶対の価値があるのだと思う。

このあたりは文化人類学者の竹内久美子さんの「万世一系のひみつ」のあらすじで紹介しているので、参照してほしい。

遺伝子が解く!万世一系のひみつ (文春文庫)遺伝子が解く!万世一系のひみつ (文春文庫)
著者:竹内 久美子
文藝春秋(2009-05-08)
販売元:Amazon.co.jp
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また女性天皇を認める場合には、神道では生理は”穢れ”ということになるので、過去の女帝の時代には、生理の期間中は神事は行えないという支障も出ていたことを考慮に入れなければならない。


天皇の分身としての皇族

この本では戦争と皇族、終戦と皇族、占領下の皇族の3つの切り口から皇族が天皇のいわば分身として機能した例を取り上げている。

昭和16年日米戦争が避けられない雰囲気となってきた時、9月6日の御前会議で昭和天皇は明治天皇の御製を2度朗誦された。

「よもの海みなはらからと思ふ世になど波風の立ちさわぐらむ」

はっきりと開戦回避を命じられたのだ。

それにもかかわらず10月に海軍元帥の伏見宮博恭親王が開戦を強く進言したことにいたく失望されていたという。


戦争反対の高松宮他の皇族

これに対し避戦を主張されたのが、海軍中佐で大本営参謀だった弟宮の高松宮宣仁親王だ。

高松宮殿下は開戦決定の御前会議の1日前の11月30日に昭和天皇と話し、開戦をやめるべきだと主張したが、昭和天皇は「そうか」とだけ言われたという。

天皇はこのときの心境を「昭和天皇独白録」に、次のように書いている。

「私は立憲国の君主としては、政府と統帥部との一致した意見は認めなければならぬ、もし認めなければ、東條は辞職し、大きな「クーデタ」が起こり、却って滅茶苦茶な戦争論が支配的になるであらうと思ひ、戦争を止める事に付いては、返事をしなかった」

昭和天皇独白録 (文春文庫)昭和天皇独白録 (文春文庫)
著者:寺崎 英成
販売元:文芸春秋
発売日:1995-07
おすすめ度:4.0
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当時御殿場で、肺結核静養中だった秩父宮殿下は英国留学経験もあり、英米との開戦は絶対反対だった。

開戦後も、リスクを冒して外務省北米課長の加瀬俊一を米国・英国大使館に派遣して駐日米国大使のグルーと駐日英国大使のクレーギーに遺憾の意を伝えたという。

グルーが米国に外交官交換船で帰国後、格下の極東課長、つぎには国務次官に就任し、日本のために天皇制は残した方が良いと主張して回り、米国の占領政策に影響を与えた。


皇族の停戦工作

その後も高松宮はミッドウェーでの惨敗後、昭和天皇に手紙を送ったり、近衛文麿と細川護貞(もりさだ)と一緒に早期講和を訴え、昭和19年6月には昭和天皇と激論になったという。

この辺の事情は「高松宮日記」に詳しい。

高松宮日記〈第1巻〉高松宮日記〈第1巻〉
著者:高松宮 宣仁
販売元:中央公論社
発売日:1996-03
おすすめ度:5.0
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高松宮と秩父宮は東條英機とも対立した。

終戦直後の総理大臣に就任した東久邇宮稔彦王は、大正末期に7年間フランスに留学し、自由な生活を楽しんだが、当時親交のあった元首相のクレマンソーに次のように言われたという。

「アメリカが太平洋へ発展するためには、日本はじゃまなんだ。(中略)アメリカはまず外交で、日本を苦しめてゆくだろう。日本は外交がへただから、アメリカにギュウギュウいわされるのにちがいない。その上、日本人は短気だから、きっとけんかを買うだろう。

つまり、日本の方から戦争をしかけるように外交を持ってゆく。そこで日本が短気を起こして戦争に訴えたら、日本は必ず負ける。アメリカの兵隊は強い。軍需品の生産は日本と比較にならないほど大きいのだから、戦争をしたら日本が負けるのは当たり前だ。それだからどんなことがあっても、日本はがまんをして戦争してはならない」

やんちゃ孤独 (1955年) (読売文庫)
著者:東久邇 稔彦
販売元:読売新聞社
発売日:1955
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まさにクレマンソーがこう言って15年も前に予測していた通りの展開となったのだ。

東久邇宮は昭和16年9月の天皇が明治天皇の御製を詠んだ御前会議のあとに、陸軍大学同窓の東條英機陸相と激論を交えた。

クレマンソーの話も聞かせ、「アメリカの手にのって戦争をしないように我慢しなければならない」と説得したが、東條は「勝利の公算は2分の1である。危険ではあるが、このままで滅亡するよりは良いと思う」と答え、最後に「見解の相違である」と話を切り上げた。

東久邇宮は日中戦争を終わらせるために、右翼の巨頭で蒋介石が日本に亡命したときにかくまった頭山満を、蒋介石との交渉に派遣しようと昭和16年9月と改選後の12月にも画策するが、二度とも東條英機に「見解の相違」とかたづけられてしまう。


天皇の名代として日本軍の武装解除を説く

終戦の時も、昭和天皇は昭和20年8月12日に高松宮、三笠宮、賀陽宮、(かやのみや)、東久邇宮、梨本宮、朝香宮、東久邇宮、竹田宮、閑院宮、、朝鮮王室の李王垠、李鍵公の各皇族、王公族をよび、ポツダム宣言受託の旨を説明し、日本再建への努力を依頼した。

このあたりは、以前紹介した半藤一利さんの「日本のいちばん長い日」にも描かれている。

そして8月16日朝香宮はシナ派遣軍に、竹田宮は関東軍に、閑職院宮は南方総軍に天皇の名代として終戦と武装解除を伝達した。

竹田宮は満州国皇帝溥儀を亡命させる密命を受けていたが、ソ連軍が奉天飛行場まで迫ってきており、溥儀はソ連軍に身柄を拘束されシベリアに抑留されてしまう。竹田宮もあやうく難を逃れるが、護衛の戦闘機はソ連軍めがけて自爆した。

陸海軍あわせて789万人の武装解除を完遂するために、それからも各宮は厚木飛行場などに行って、天皇の指令で各地を訪問した。

その後10月10日に昭和天皇は伊勢神宮などにお参りし、自分がお参りできない120の天皇御陵にお参りすることを宮家の代表に指示した。

ちなみに半藤一利さんの対談集の「日本史はこんなに面白い」によると、天皇は10代の頃、すべての天皇御陵を訪問している。これは天皇が歴史の授業を受けた東京帝国大学教授白鳥庫吉の影響だという。

日本史はこんなに面白い日本史はこんなに面白い
著者:半藤 一利
販売元:文藝春秋
発売日:2008-07
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恐るべき米軍の諜報力

竹田宮はフィリピン侵攻の時に、参謀として飛行機でバターン半島を視察するが、後にGHQのウィロビー少将に会ったときに、「はじめてではない。1942年のはじめに、あなたは赤い吹き流しのついた飛行機でコレヒドール上空を飛んだでしょう。そのときにあなたに会いましたよ」と言っていたという。

マッカーサーは天皇のお使いがここまで飛んできたということは、日本軍がはっきり自信を持ってきた証拠だとみて、フィリピンを捨てて、豪州に退く決心をしたのだという。


東久邇宮内閣

戦後すぐの内閣として東久邇宮が総理大臣となる。近衛文麿と緒方竹虎をアドバイザーとして組閣するが、マッカーサーと天皇が並んで撮った有名な写真を掲載した新聞を、内務省が発行停止としたので、内務省解体をGHQは決意する。これが東久邇内閣が54日で総辞職するきっかけだった。

Macarthur_hirohito






出典: Wikipedia


皇室ねらいの高率財産税

昭和21年9月にGHQの指令により財産税が導入され、昭和21年3月3日現在の1,500万円を超える財産に、最高90%の財産税を課せられることとなったので、天皇家と皇族は大きなダメージを受けた。

日本全体の財産税税収が43億円だったのに対して、天皇家は資産評価額37億円で、33億円を納税した。まさにGHQの皇室をねらい打っての財産税導入だ。

ちなみに三井、岩崎、住友などの財閥家は3〜5億円程度の資産だったので、天皇家の財産がいかに大きかったのかがわかる。皇族では高松宮の納税額1千万円がトップだったという。


11宮家の臣籍降下

昭和21年11月に昭和天皇の兄弟の秩父宮、高松宮、三笠宮をのぞいて11宮家、51人に臣籍降下が命じられる。この本の表紙の写真は昭和22年に行われたお別れ会の時の写真だ。

昭和22年5月3日の新憲法施行時に華族制度も廃止され、490華族が爵位と財産上の特権を失い、皇族に準ずる待遇を受けていた朝鮮の李王家も廃止となった。

赤坂にあった李王家の本邸は現在の赤坂プリンスホテルとなり、高輪にあった竹田宮本邸は高輪プリンスホテルとなり、竹田宮洋館は現在でも貴賓館として残っている。

昭和22年の廃止後も、菊栄親睦会という皇室と旧皇族の親睦会が続けられている。


11宮家のその後

この本では11宮家のその後を紹介しており、巻末資料として11宮家の起源から簡単に解説している。

竹田さんのおじいさんの竹田恒徳さんが、秩父宮とともに”スポーツの宮様”として、スポーツ振興に取り組み、後楽園アイスパレス建設とか、JOC委員、後に会長として東京・札幌オリンピック招致にあたっている。

竹田さんのお父さんもミュンヘン、モントリオール両オリンピックに出場した馬術選手で、現JOC会長だ。

11宮家のうち、すでに断絶したのが、東伏見宮家、山階宮家、閑院宮家で、継嗣がなく当主で断絶が見込まれるのが、梨本宮家、伏見宮家、北白川宮家である。

ちなみに今上天皇の第1皇女,黒田清子さんが勤めていたのが、山階宮家ゆかりの山階鳥類研究所だ。

今後も継続が見込まれるのは、賀陽宮家、久邇宮家、朝香宮家、東久邇宮家、竹田宮家の5家だ。

旧皇族は大企業に勤めたり、必ずしも成功ばかりではないが、事業を開始したりしている。


皇族の使命

最後に竹田さんは、すでに皇族制度は廃止されており、皇籍を離脱しているが、11宮家は”血のスペア”として”ノーブレス・オブリージュ”の責任を感じ、皇統の危機にあたっては、ともに悩む責任があると語る。

男系継承の可能性がある現在、女系天皇を議論するというのは、あまりに時期尚早であり、万世一系を冒涜する考えであると。

皇族制度が廃止されてすでに60年以上も経っており、普段あまり意識することがないが、竹田さんは旧宮家の一員として、きっちり言うべき事は言っている。

文末に100冊以上の主要参考文献を紹介しており、きちんとした調査の上に書かれた本であることがよくわかる。

時代を代表する出来事も簡潔に織り込み、この本全体を通して歴史の流れも理解できる優れた構成となっている。

読みやすく、わかりやすい。

是非一読をおすすめする。


参考になれば投票ボタンをクリックして頂きたい。







  
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2009年06月17日

日本は侵略国家ではない 田母神論文を収録

日本は「侵略国家」ではない!日本は「侵略国家」ではない!
著者:渡部 昇一
販売元:海竜社
発売日:2008-12
おすすめ度:3.5
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元航空自衛隊幕僚長田母神俊雄さんと、上智大学名誉教授渡部昇一さんの共著。

田母神さんは、昨年「日本は侵略国家であったのか」論文が、アパグループ代表、元谷外志雄さん主催の「真の近現代史観」論文コンテストで優勝したが、政府公式見解と異なる主張を公にした責任を問われて幕僚長を更迭された。

それからはマスコミにしばしば登場し、ひょうきんなキャラクターで人気となっている。

普通本を読む時には、著者の意見に同感できるか、新しい知識を得られないと良い本とは思わない。

その意味ではこの本はどちらも中途半端なので、おすすめはできないが、こんな意見の人もいて、たぶん主張には真実も含まれているのだろうとは思う。


信念の人 田母神さん

田母神さんは信念の人だと思う。

まだ現役だったころに中国に出張した時、日本は侵略国家だったという中国の軍人に対して、真っ向から日本は悪くないと反論したという。

それから日中防衛交流に影響が出る時期もあったが、しばらくしたら収まったという。


辞任の原因 村山談話からの乖離

平成7年の村山富市首相の、「戦後50年の終戦記念日にあたって」、いわゆる「村山談話」は次の通りだ。

「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。

私は、未来に過ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明致します。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。」

歴代首相は就任すると必ず、野党から「村山談話」を突きつけられ、踏襲するかどうか迫られる。まるで踏み絵だという。

麻生首相が「踏襲」(とうしゅう)を「ふしゅう」と読んでしまったため、マスコミの餌食になったが、麻生首相も例外ではなかった。


村山談話は言論弾圧の道具?

田母神さんは、前述の懸賞論文の件で航空幕僚長を解任された直後に、参議院の外交防衛委員会に参考人として招致された。

田母神さんの個人的な見解は封印され、文民統制違反としてやり玉に挙げられたという。

国会が終わったあと、田母神さんは「『村山談話』は原論弾圧の道具だ。自由な議論を追求することができないなら、日本は北朝鮮と同じだ」と記者に発言し、これまた火に油を注ぐ結果となる。


「日本は悪い国?」

「我が国は侵略国家であり、醜く悪い国」と表明する日本国とは、いったいどういう国なのかと田母神さんは語る。

田母神さんは、日本の戦後知識人が日本を「悪い国」にしたと語り、全面講和を主張した南原繁総長はスターリンの指示を受けて全面講和を貫いたとか、南原さんの後の矢内原忠雄総長は、戦前「神よ、日本を滅ぼしたまえ」という論文を書いており、一橋大学の都留重人名誉教授は、本物の共産党のスパイだったと言われているという。

こんな初めて聞く話がやたら出てくる。


日本のおわび外交は小和田恒さんから?

谷沢永一関西大学名誉教授は、日本がお詫び外交に変わったのは、昭和60年の皇太子妃雅子様の父君の小和田恒(ひさし)氏の、悪いのは日本だったという国会発言からだと語っていることを、渡部氏は紹介している。

国際司法裁判所所長の小和田恒氏は、東大の横田喜三郎教授(後に外務省顧問)の影響を受けているが、横田教授は、東京裁判を国際法上も有効で、アメリカの占領政策を擁護する発言をしていという。

前防衛大臣の石破茂氏は中国共産党系の新聞に、「靖国神社を参拝したこともないし、これからも絶対に参拝しない」、「大東亜戦争は日本の侵略戦争でした」、「南京大虐殺も事実です」などと答えており、売国的発言であると渡部氏は語る。

「日本は悪い国だった」と売国的発言をした当時現役防衛大臣の石破氏が追求されず、「日本はいい国だった」と正論を述べた田母神さんが更迭されるのは、どういうことだと。


航空自衛隊には最高の戦闘機が必要?

田母神さんの話で興味を惹くのは、「日本の航空自衛隊には、徹底的に世界最高の飛行機を与えなければなりません。そしてそれには、一番練度の高いパイロットがいなければなりません。空幕さえしっかりしていれば、敵は来ることができないのです。」という発言だ。

自衛隊は米国が機密が漏れるとして売りたがらないF−22が必要だと言いたいのだろう。以前も書いたが、いまさら人が飛行機に飛び乗って迎撃に行く時代なのだろうか?むしろミサイルや無人機・軍事衛星などの時代ではないのだろうか?

F-22






出典:Wikipedia

田母神さんは、戦前戦後を通じての航空のエース源田実さんの発言を引用して、零戦が勝てなくなって日本はダメになったので、終戦直前には最新鋭の「紫電改」を導入してアメリカ軍を苦しめたが、戦力集中でなく各地に戦力を散らばらせたので負けたのだと語っている。

ちなみに筆者は、ちばてつやさんのマンガ「紫電改のタカ」を子どもの頃読んでいたので、紫電改には親しみがあるが、実際は生産量も少なく、燃料も不足していたので到底戦局を変える力はなかったのが現実だ。

紫電改のタカ (4) (中公文庫―コミック版 (Cち1-4))紫電改のタカ (4) (中公文庫―コミック版 (Cち1-4))
著者:ちば てつや
販売元:中央公論新社
発売日:2006-07
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出典: Wikipedia


戦闘機さえ強ければ爆撃機は来られない。爆撃機が来られなければ、船も来られないのだと田母神さんは語っているが、およそあきれた話である。

第2次世界大戦は、石油確保とロジスティックス(兵站)が戦争に勝つための必須条件だという近代戦争の典型だと思う。

日本もドイツも戦闘機は残っていた。特にドイツは最新式のジェット戦闘機、ME262を2,000機以上も製造していたが、燃料が不足していたので、迎撃はおろかパイロットの訓練にも飛び立てず、連合軍の爆撃を許したのだ。

Messerschmitt_Me_262




出典: Wikipedia


紫電改も同じ事だ。全部で1,400機程度では数としても不足な上に、燃料がなくては、迎撃にも飛び立てない。


田母神論文

この本では問題になった田母神論文が原文で紹介されている。

渡部さんも書いているが、原稿用紙にすると18枚であり、これは論文ではなくエッセーである。

証拠も不十分で、言いっぱなしの感があり、論拠としてはきわめて薄弱と言わざるを得ない。

田母神論文の論点を抜き出すと。

★我が国は戦前中国大陸や朝鮮半島を侵略したと言われるが、実は日本軍のこれらの国に対する駐留は条約に基づいたものであることは意外に知られていない。

★日本は相手国の了承を得ないで一方的に軍を進めたことはない。(略)国際法上合法的に中国大陸に権益を得て、これを守るために条約に基づいて軍を配置したのである。

★この日本軍に対して蒋介石国民党は頻繁にテロ行為を繰り返す。邦人に対する大規模な暴行、惨殺事件も繰り返し発生する。(略)日本政府は辛抱強く和平を追求するが、その都度蒋介石に裏切られるのである。

★実は蒋介石はコミンテルンに動かされていた。(略)コミンテルンの目的は日本軍と国民党を戦わせ、両者を疲弊させ、最終的に毛沢東共産党に中国大陸を支配させることであった。

★我が国は蒋介石により日中戦争に引きずり込まれた被害者なのである。

★張作霖爆死事件もコミンテルンの仕業である。

★盧溝橋事件の仕掛け人は自分だと劉少奇自身が東京裁判中に語った。

★日本統治時代に満州の人口は1932年の3千万人が、1945年では5千万人、韓国は35年間で1千3百万人が、2千5百万人に倍増。日本統治時代は豊かで治安が良かった証拠である。

★朝鮮人出身の日本の将軍もいたし、朝鮮王室は日本の宮家となった。

★コミンテルンに動かされていたハリー・ホワイトがハル・ノートを書いた。

★日本はルーズベルトの仕掛けた罠にはまり真珠湾攻撃を決行した。

★日本があのとき大東亜戦争を戦わなければ、現在のような人種平等の世界が来るのがあと100年、200年遅れていたかもしれない。

★大東亜戦争を「あの愚劣な戦争」などという人がいる。戦争などしなくても今日の平和で豊かな社会が実現できたと思っているのだろう。

★今なお大東亜戦争で我が国の侵略がアジア諸国に耐え難い苦しみを与えたと思っている人が多い。しかし私たちは多くのアジア諸国が大東亜戦争を肯定的に評価していることを認識しておく必要がある。

★タイで、ビルマで、インドで、シンガポールで、インドネシアで、大東亜戦争を戦った日本の評価は高いのだ。そして日本軍に直接接していた人たちの多くは日本軍に高い評価を与え、日本軍を直接見ていない人たちが日本軍の残虐行為を吹聴している場合が多いことも知っておかなければならない。

★日本軍の軍紀が他国に比較して如何に厳正であったか多くの外国人の証言もある。我が国が侵略国家だったなどというのは正に濡れ衣である。

★日本は古い歴史と優れた伝統を持つ素晴らしい国なのだ。(略)嘘やねつ造は全く必要がない。個別事象に目を向ければ悪行と言われるものもあるだろう。それは現在の先進国の中でも暴行や殺人が起こるのと同じ事である。

★私たちは輝かしい日本の歴史を取り戻さなければならない。歴史を抹殺された国家は衰退の一途を辿るのみである。


「なんでもコミンテルン陰謀説」

それにしても田母神さんと渡部昇一さんの、いわば「なんでもコミンテルン陰謀説」には閉口する。

筆者が20年以上も前に当時はやっていた「なんでもユダヤ陰謀説」で大変な失敗をした経験があることは以前ブログで書いたが、今度は「なんでもコミンテルン陰謀説」である。

ユダヤが解ると世界が見えてくる―1990年「終年経済戦争」へのシナリオ (トクマブックス)
著者:宇野 正美
販売元:徳間書店
発売日:1986-05
おすすめ度:2.5
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米国政府財務省高官にハリー・ホワイトというコミンテルンのスパイがいたのかも知れないが、それにしてもコーデル・ハルは以前から対日強硬派の急先鋒で、強硬な対日要求を最終決定したのはルーズベルトである。

今度紹介する「真珠湾の真実」を読むと、たしかに日米開戦は厭戦気分が大勢を占めるアメリカ国民を戦争に向かわせるためにルーズベルトが仕掛けた疑いが強いと思う。

真珠湾の真実 ― ルーズベルト欺瞞の日々真珠湾の真実 ― ルーズベルト欺瞞の日々
著者:ロバート・B・スティネット
販売元:文藝春秋
発売日:2001-06-26
おすすめ度:3.0
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しかし日米関係を決定的に悪化させたのは、1940年9月の日独伊三国同盟だと思う。

米国が全体主義国のドイツ・イタリアを敵国とみなし、民主主義を守るためとして英国に武器を「駆逐艦・基地協定」を結んで供給し、1941年3月からはロシア、それに中国の蒋介石政権にも最新兵器をレンンドリース法で無償貸与していたのは周知の事実であり、独伊と同盟を結べば、英国を支援する米国とどういう関係になるのかは自明の理である。


1986年頃、「なんでもユダヤ陰謀説」の本は、ベストセラーになったが、今回の「なんでもコミンテルン陰謀説」の本もよく売れているようだ。

歴史を判断するには、前後の動きと力学を大局的に見なければならない。一面の真実が含まれているのかもしれないが、この本については筆者はあえて「なんでもコミンテルン陰謀説」とレッテルを貼らせてもらう。


これでは決して歴史学のメインストリームとはなり得ないだろう。それでも興味ある人にのみおすすめする。



参考になれば次クリック投票お願いします。



  
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2009年06月09日

南原繁の言葉 東大の8月15日

南原繁の言葉―8月15日・憲法・学問の自由南原繁の言葉―8月15日・憲法・学問の自由
著者:立花 隆
販売元:東京大学出版会
発売日:2007-02
おすすめ度:5.0
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「天皇と東大」という長編作品を書いた立花隆さんが中心になって、2006年8月15日に開催した「八月十五日と南原繁を語る会」の記録。

天皇と東大 大日本帝国の生と死 上天皇と東大 大日本帝国の生と死 上
著者:立花 隆
販売元:文藝春秋
発売日:2005-12-10
おすすめ度:4.5
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南原繁さんは、内村鑑三新渡戸稲造の薫陶を受けた政治学者で、戦後すぐに最後の東京帝国大学総長に就任、貴族院議員も兼任した。

総長在任は1945年12月から1951年の間なので、旧制東京帝国大学の最後の総長で、1947年からは新制東京大学の最初の総長でもある。

南原繁さんの出身校の香川県の三本松高校のホームページに、南原繁さんの年譜が紹介されている。


「八月十五日と南原繁を語る会」については、安藤義信さんという方のホームページで詳しくレポートされているので、紹介しておく。

南原繁を語る会





出典:安藤義信さんのホームページ

安藤さんという方は昭和33年の東大の卒業生だ。


このブログでは立花さんの「滅び行く国家」のあらすじを紹介しているので、立花さんが「天皇と東大」という上下1,500ページもの大作を出しているのは知っていた。

滅びゆく国家 日本はどこへ向かうのか滅びゆく国家 日本はどこへ向かうのか
著者:立花 隆
販売元:日経BP社
発売日:2006-04-13
おすすめ度:3.5
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立花さんが「天皇と東大」を書いた理由

立花さんが「天皇と東大」を書いた理由は、日本の近現代史を通じて”天皇という存在”と、”国民の側の天皇観”が社会を動かした「影の主人公」で、その天皇観をめぐる大きなドラマの中心舞台が東大だったからだと。

そのドラマの中で最も大きかったものは昭和10年(1935年)の「天皇機関説」問題だった。

「天皇機関説問題」とそれに続く「国体明徴運動」は、一種の無血クーデターで、当時の日本社会のありかたを根本的に変えてしまった。それをきっかけに、昭和十一年2.26事件が起こり、翌昭和十二年廬溝橋事件が起こり、日本は暴走過程に入っていった。

なぜ日本があれほどバカな戦争に突入してしまったのかの理由、国民感情のうねりのようなものの転回点とその背景、大転回のプロセスを知りたくて「天皇と東大」を書いたのだと。

「天皇と東大」を書いていくうちに、立花さんはその転回点が「天皇機関説問題」だったことがわかったのだと。

憲法学者美濃部達吉博士の「天皇機関説」は大正時代は主流の学説だった。ところが、貴族院を中心に急に「天皇機関説問題」が持ち上げり、反国体思想の元凶とされて、著書は発禁になり、美濃部博士は貴族院議員を辞任し、ついには右翼テロリストの銃弾を浴びることになった。

世の中が変わるときは、一挙に変わる。

立花さんは、もしかしたら似たような国民感情の大転回が現在の日本でも起きつつあるのではないかと危惧しており、それがこの「八月十五日と南原繁を語る会」を開催した心理的背景だと語る。


「八月十五日と南原繁を語る会」

前出の安藤義信さんのホームページで紹介されている当日のプログラムは次の通りだ。

南原繁プログラム





出典:安藤義信さんのホームページ

最初の二人、石坂公成さん(ライホイヤアレルギー免疫研究所名誉所長)、細谷憲政さん(東大名誉教授、人間栄養学)は、医学部出身。医学部は軍医養成ということで、学徒出陣の対象外だったので、南原繁さんが総長に就任してから毎月のように学生に対して「国を廃墟から復興させるものは学問と教育しかないのだ」と呼びかけていた言葉を現場で聞いている証言者だ。

細谷さんは、米国に2回滞在しているが、そのとき聞いた興味深い話を紹介している。

2度目に滞在したヴァージニア大学法科大学院は占領政策研究のメッカということで、教授数名から日本の占領政策は成功であったと評価されていると聞いたという。

なにせ脱脂粉乳やパン食など日本人の食生活を変えてしまったにもかかわらず、日本の一般国民からは感謝されたからだと。

また米国の占領政策は日本の歴史から学んだものだと言っていたという。

天皇家は渡来人であり、少数派の彼らが多数派の在来人に対してどのように対処していったのかを米国は研究したところ、統治の基本は栄養政策だとわかり、占領政策も栄養問題を柱にしたという。

天皇家に限らず、日本人はどこからかの渡来人の子孫のはずで、ことさら”渡来人”という征服者のように考える学説があるのかどうか知らないが、面白い見方である。


元法学部長石井紫郎さんは当時の東大事務局長の息子

次に元法学部長の石井紫郎さんが、南原繁総長時代に東大の事務局長だったお父さんの石井勗(つもむ)さんの著書「東大とともに50年」や、お父さんから聞いた東大の接収計画について語っている。

東大とともに五十年 (1978年)
著者:石井 勗
販売元:原書房
発売日:1978-04
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最初は昭和20年7月の東部軍管区の東大接収計画で、隅田川、荒川を堰(せ)き止めて、米軍が本土上陸してきたら一挙に堰を開放して東京の下町を水浸しにして米軍をおぼれさせる計画で、そうすると上野・東大あたりが海岸線となるので、ここの「帝都防衛司令部」を設置したいという申し出だったそうだ。

次はGHQで、総司令部として東大に白羽の矢を立てているという話で、下見後、「終戦連絡事務局」を経由して申し出があった。

東大7教授の終戦工作にも参加し、アメリカに人脈を持つ高木八尺(やさか)教授などを介して押し返したところ、「日本最高の学部である東大を尊重し、接収しない」と返事があり、結局GHQは皇居前の第一生命ビルを接収した。

余談になるが、筆者は石井紫郎教授の日本近代法制史の授業を受けたことがある。当時石井さんは新進気鋭の教授で長身のすらりとしたハンサムガイだった。


「曲学阿世」論争

吉田茂と南原繁の両方を知る辻井喬(堤清二さん)が吉田茂の「曲学阿世」批判について一文寄せている。

「吉田茂 ポピュリズムに背を向けて」で紹介した通り、1950年日本が全面講和をめざすか、それとも西側だけとの講和を目指すべきかの議論が活発になったときに、吉田茂総理は、南原繁総長の全面講和論を「曲学阿世」と非難したのだ。

朝鮮戦争が起こる1ヶ月ほど前で、このときマッカーサーは「共産党は侵略の手先」と呼んで、共産党の非合法化を示唆したばかりで、日本の占領政策が逆コースに動くタイミングだった。

南原繁総長は、吉田発言を批判し、次のように語った。

「私に曲学阿世の徒という極印を押したが、これは満州事変以来、軍部とその一派が、美濃部博士をはじめ多くの学者に対して常用したもので、学問の冒涜、学者に対する権力的弾圧である。私が国際情勢をしらないと吉田首相は言うが、それは官僚的独善である。

「現実と理想を融合させるために、英知と努力を傾けるのが政治家の任務であるのに、全面講和と永世中立を空理空論ときめつけるところに日本民主政治の危機がある。」

吉田茂から再批判はなく、この論争はこれで終わった。

辻井さんは吉田茂、南原繁両方を知っているが、吉田茂は魅力のある人間だったが、敵対する相手への無愛想は極めつけだったという。一方南原総長は謹厳そのもで、相手の意見が自分と違っていても態度は変わらなかったという。

これは筆者の考えだが、結果論ではあるが、結局南原さんの主張した全面講和の道を選ばず、ソ連との講和条約を今の今に至るまで締結しなかったことが、現在の日本の国際的地位及び経済状況を決定づけていると思う。

この吉田ー南原論争の2ヶ月後に朝鮮戦争が始まっているので、吉田茂の西側との講和を優先するというのは、正しい選択だろうが、吉田茂もまさかサンフランシスコ講和条約締結から50年たってもロシア(旧ソ連)との平和条約が結ばれないという事態は想像もしていなかったと思う。

今年5月のプーチン首相の露払い来日もあり、メドべージェフ大統領の7月来日の機会を利用して、平和条約を締結してシベリアそして地球温暖化を利用した北極圏の経済開発に日本の活路を見いだ方向性を示すべきではないかと思う。


南原繁の言葉

この本に収録されている言葉は、南原さんが法学部長として終戦直前の1945年4月に入学式で語った「学徒の使命」と、終戦直後の1945年9月に同じ題で学生に呼びかけた同じタイトルの「学徒の使命」。

東京帝国大学総長に就任する直前の1945年11月、復員学生を歓迎する式での「新日本の建設」、そして翌1946年2月建国記念日の「新日本文化の創造」が第1部で取り上げられている。

次に第2部としては1946年3月の「戦没学生を弔う」、同じテーマの1963年12月の「戦没学生の遺産を嗣ぐもの」、1957年4月の著書「文化と国家」の序文、1946年9月の「祖国を興すもの」。憲法に関しては1946年11月の「新憲法発布」と1962年1月の「第9条の問題」が収録されている。

実に印象的な言葉が多い。


終戦直前の入学式での言葉

たとえば1945年4月の終戦直前の入学式での法学部長としての言葉だ。

戦時下でいつ最後となるかもしれない授業だが、大学や教授陣に何か「異常なもの」を期待してはならない。

われわれは特殊な「精神教育」をするものではなく、淡々と平常と変わりなく学問に従事する。燃えるが如く情熱を湛(たた)えつつ、それを抑制して学的作業に沈潜するところに、学徒の任務があるのだと。

「勝利は単なる『必勝の信念』によってもたらされるものでなく、必ずやそうした文化および自然にわたり、近代科学の知性に裏付けられてはじめてこれを獲得することができるであろう。」

この冷静な発言に続いて、法学部生は単に六法全書に取り組むだけではなく、「教養」を身につけろと訴える。

教養の核心は知性をもってする人間本質の展開または人間個性の開発にある。

事物を知るということは、それを通して自己を知ることであり、ソクラテスが「汝自身を知れ」と言ったのは、この意味で真理をついていると南原さんは語る。

3月10日の東京大空襲の後、ほとんど焼け野原になった東京で、毎日の空襲で明日をも知れない状況のなかで、実に冷静で教育者としての信念がこもった発言である。


終戦直後の言葉

終戦直後の1945年9月1日の言葉は、状況変化をふまえ、かつ学問の基本を押さえた発言となっているのが印象的だ。

「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」を目指すのではなく、勝敗を超えて列国と協力、進んで世界平和の建設に積極的に寄与すべきであり、それが天皇の終戦詔勅の「万世の為に太平を開かんと欲す」の聖旨であると。

原子爆弾ができた以上、戦争の再発を防止し、人類を滅亡から救うのは、世界の理性と良心に基づく公正な世論と組織に求める他に道はない。

そして旧来の我が国の大陸政策なるものを捨て、中国の近代国家の統一の達成に協力しなければならない。

両国の真の協力なくして東亜の安定と世界の平和は達成できないのだとまで言っている。

それを達成するためにも、猜疑と敵意を棄てて、人間としての信頼と尊敬を勝ち得るために、教養をつける。自己自身を絶えず内面的に向上し、純化する人間として自らを形成することが、教養の意義であると。

さらに戦いに倒れた護国の英魂も、我らとともにあり、これからの新たな戦いを祝福し、響導するであろうと。

まさに終戦直後の学徒を鼓舞し、日本の再建に向かわせる原動力を抱かせる印象的で力強い言葉である。


アカデミック・フリーダム

1945年11月の帰還学生歓迎会や、1946年2月、敗戦後最初の紀元節(建国記念日)では、学問の自由、アカデミック・フリーダムについて語っている。

これが憲法第23条の”学問の自由はこれを保障する”という条文に現れている。ちなみに憲法第23条の英語訳は"Academic freedom is guaranteed"だ。

憲法の権威、宮沢俊義さんの解説書、「コンメンタール日本国憲法」によると、「本条は、学問の自由を保障する。かつて滝川事件(1933年)や天皇機関説事件(1935年)のような学問の自由を否認する事件の再発を防ぐ趣旨である」と解説させている。

東大の総長経験者の佐々木毅さんによると、東大の総長になると「歴代総長演説集」が与えられるという。これを読んで自分の挨拶を考えろという意味なのだと。

南原さんの言葉は、これからも東大総長の挨拶の中で繰り返し引用されることだろう。


南原繁と靖国問題

ちょうど2006年8月15日は小泉元総理が総理退任前に現役総理大臣として靖国神社に参拝した日なので、「南原繁と靖国問題」というテーマの講演も含まれているが、南原繁の発言や著作には靖国神社に直接言及したものはなかったという。

南原繁の言葉の後半では、1946年3月の戦没並びに殉職者慰霊祭のときの「戦没学徒を弔う」や、9月の戦後最初の卒業式の挨拶、1946年11月3日の新憲法発布の時の言葉などが収録されている。


立花さんの解説

この本のところどころに立花隆さんの解説が織り込まれている。

たとえば終戦後すぐは東大を卒業しても就職口がない時代だったので、「諸君、われわれを取り囲む環境がいかに苛酷であろうと(略)、諸君は真理に対する確信を失うことなく、どこまでも自らの精神と魂をもった人間となれ!かような人間と人間性理想こそが祖国を興すものとなり…。」と語っていることを、紹介している。

また憲法9条の問題については、政治学の世界では無抵抗主義は成り立たない。国際連合に加盟したら、いずれは国際警察的な組織の一員として参加し、寄与する義務を免れることはできないだろうと語っていることが引用されている。

この本を通して立花隆さんの南原繁さんへの熱い思いが伝わってくる。

たしかに今読み直すと、まさにそのときの時代を反映していながらも、軸がぶれない姿勢は尊敬すべきだと思う。

単に歴史的な言葉として読むのでなく、今でも通用する自警の言葉として筆者も味わった。

南原さんの3代後の大河内一男総長は東大の卒業式で「太った豚より痩せたソクラテスになれ」と訓示したが、まさに南原さんは日本のソクラテスのような人だったと思う。

内容的にはちょっと堅いところがあるが、是非一度図書館などでパラパラとめくってみて欲しい本である。


参考になれば投票ボタンをクリックして頂きたい。


  
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2009年06月03日

幕末史 半藤一利さんの”賊軍的幕末史”

幕末史幕末史
著者:半藤 一利
販売元:新潮社
発売日:2008-12
おすすめ度:5.0
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歴史小説で数々の名作を書いている半藤一利さんの”賊軍的幕末史”。

このブログでは半藤さんの「ノモンハンの夏」を紹介したが、「日本のいちばん長い日」も読んだので、これも近々紹介する。

ノモンハンの夏ノモンハンの夏
著者:半藤 一利
販売元:文藝春秋
発売日:1998-04
おすすめ度:4.5
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「日本の一番長い日」というと、大宅壮一さんの作品だと思っていたが、実は当時文藝春秋の編集部次長だった半藤さんが書いたものを、事情があって大宅壮一編として発表したものだという。

決定版 日本のいちばん長い日 (文春文庫)決定版 日本のいちばん長い日 (文春文庫)
著者:半藤 一利
販売元:文藝春秋
発売日:2006-07
おすすめ度:5.0
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賊軍史観の幕末史

半藤さんは東京の生まれだが、お父さんの出身地の新潟県、旧長岡藩に毎年夏、からだを鍛えるために送り込まれて、おばあさんから”賊軍”史観を教わったという。

学校で教えている日本近代史は”薩長史観”に基づくもので、長岡藩のような”賊軍”から見れば、薩長はそもそも泥棒で、長岡藩に無理矢理けんかをしかけて、7万4千石のうち5万石を奪い取ったのだと。

だから東京生まれの夏目漱石、芥川龍之介、永井荷風などが”維新”と呼ばず、徳川家の”瓦解”と呼ぶのに、快哉(かいさい)を叫んでいたという。

そもそも明治初期は一般的に”維新”とは呼ばれず、”御一新”で通していたという。

革命で徳川家を倒したものの、当時の民衆は薩長で収まるとは思っていなかったようで、次のような狂歌もあるという。

「上からは明治だなどといふけれど、治まるめい(明)と下からは読む」

司馬遼太郎さんも「幕末にぎりぎりの段階で薩長というのはほとんど暴力であった」と書いているそうだが、半藤さんもその見方に同感で、「西郷は毛沢東と同じ」、「坂本龍馬には独創的なものはない」という見方をしているという。


慶應大学の特別講座

この本は慶應大学丸の内キャンパスの特別講座として2008年3月から7月まで、12回にわたって開催された講義をまとめたもので、漫談調で語っている。

慶應大学で講義していながら、福沢諭吉の著書を紹介するのに”あまり好きではない福沢諭吉”と付け加えていることからも分かるとおり、言いたい放題の講義で面白い。

半藤さんは1930年(昭和5年生まれ)なので、78歳だったはずだが、記憶力も含めて全く衰えるところが見られないのはさすがだ。

この本は1853年のペリー来訪から始まって、安政の大獄、和宮降嫁と公武合体、攘夷論、蛤御門の変、龍馬がフィクサーとなった薩長連合、大政奉還、江戸城の無血開城、五ヶ条のご誓文、版籍奉還・廃藩置県、国民皆兵、征韓論と西南戦争、そして1878年の大久保利通暗殺と参謀本部の設立でまで描いている。

「吉田茂 ポピュリズムに背を向けて」で著者の北康利さんも言っていたが、筆者の高校時代の日本史の授業では、昭和史は受験に出ないということで、自習にまわされていた。

一方幕末、明治の近代史は高校の日本史の授業でしっかり勉強したので、大きな流れはわかっているため、登場人物の細かい動きがわかって面白い。


なぜ幕末史が明治十一年の参謀本部設立で終わっているのか?

なぜ幕末史が山県有朋と桂太郎(当時は中佐)による明治十一年の参謀本部の設立で終わっているかは、半藤さんの考えがあってのことだろうが、半藤さんが最後に次のように述べて強調しているところから推測できると思う。

「芯から政略家である山県と桂のコンビのまことに巧妙な計画によって、軍隊指揮権ははやくも一人歩きをはじめたのです。

ですから明治二十二年に憲法ができたとき、すでに統帥権は独立していましたから、軍隊にかんする憲法の条項はたったの二条しかありません。

よろしいですか、国の基本骨格ができる前に、日本は軍事優先国家の道を選択していたのですよ。」

これと呼応するのが、半藤さんの「日本のいちばん長い日」に書かれている阿南惟幾陸相の自刃の時の遺言である。日本陸軍最後の大臣となった阿南陸相は「一死を以て大罪を謝し奉る」と書き残している。

その「大罪」について半藤さんは、阿南陸相の義理の息子の竹下中佐に次のように語らせている。

「大罪について私は特に大臣に質問はいたしませんでしたが、おそらくは、満州事変以後、国家を領導し、大東亜戦争に入り、ついに今日の事態におとしいれた過去および現在の陸軍の行為にかんし、全陸軍を代表してお詫び申し上げたのだろうと思います。」

半藤さんはつづけて:

「敗戦の罪はすべて陸軍が背負うべきであろう。統帥権の独立を呼号し、政治を無視し、自分の意のままに事後承諾の形であらゆることを遂行してきた陸軍こそ、罰せられてしかるべきなのであろう」

と書いている。

つまりこの幕末史の終わりで紹介されている参謀本部の設立から始まった軍事優先国家の終末が、「日本のいちばん長い日」なのだ。


孝明天皇と幕府

近々紹介する「皇族たちの真実」の著者の竹田恒泰さんは、孝明天皇の研究家だそうだが、明治天皇の父で和宮の兄、孝明天皇はこの本では超攘夷論者として描かれている。

語られなかった皇族たちの真実-若き末裔が初めて明かす「皇室が2000年続いた理由」語られなかった皇族たちの真実-若き末裔が初めて明かす「皇室が2000年続いた理由」
著者:竹田 恒泰
販売元:小学館
発売日:2005-12
おすすめ度:4.0
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幕府が諸外国との間で結んだ修好通商条約などに従って兵庫の開港が必要となり、徳川慶喜が上洛し、孝明天皇の裁可を求める。孝明天皇は外国人嫌いだが、皇統と国民のためということで、条約を裁可する。太平洋戦争終結時の昭和天皇も、皇統と国民のためと言われていたのと同じなところが皇室の同一性を物語っている。

先日終了したNHKの大河ドラマで一躍有名になった篤姫は孝明天皇の妹の和宮が嫁した徳川家茂の養母で、大奥を支配し、勝海舟の勧める江戸城の無血開城を支援した。


勝海舟や坂本龍馬が活躍した時代

この時代は桜田門外の変や坂本龍馬の暗殺などで代表されるように、テロが頻繁に起こっており、多くの人がテロに倒れている。

鎖国とはいえ、オランダと通商は続けていたので、幕府も案外世界の情報を入手していて、ペリーが来訪したがっているという情報もオランダ経由入手していたという。

勝海舟は神戸操練場をつくり、坂本龍馬を塾頭に採用する。西郷は勝の噂を聞き、神戸まで出向いて面談している。

その後龍馬は西郷に会いに行き、「西郷という奴は、わからぬ奴だ。少しく叩けば、少しく響き、大きく叩けば大きく響く」と勝に報告したことは有名だ。

1866年、龍馬の仲介で、桂小五郎と西郷隆盛の間で薩長同盟が成立する。長州は、長崎のグラバー商会を通じて元込め銃やアームストロング砲など最新兵器を購入し、幕府軍より優秀な武器を揃える。

ちなみにグラバーはジャーディンマセソン商会の長崎代理店を長くつとめた。吉田茂の父の吉田健三は、同じくジャーディンマセソン商会の横浜支配人で、若くして亡くなったので、吉田茂に莫大な財産を残したことは、北康利さんの「吉田茂 ポピュリズムに背を向けて」のあらすじで紹介した通りだ、

吉田茂 ポピュリズムに背を向けて吉田茂 ポピュリズムに背を向けて
著者:北 康利
販売元:講談社
発売日:2009-04-21
おすすめ度:4.5
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勝海舟は、西軍が江戸に進撃してきたら、ナポレオンのモスクワ進軍の時のように、江戸に火をつけて西軍を焼き殺し、慶喜は英国に亡命するという計画を英国パークス公使と話していたという。


薩長支配という現実

賊軍出身者は陸軍、海軍でも差別され、終戦の時の首相の鈴木貫太郎も賊軍出身ということで、差別を受けて3度も海軍をやめようと思ったという。

例として明治30年の陸軍中将の出身を挙げている。長州12人、薩摩13人、土佐2人、福岡4人、東京1名で、陸軍大将は全員長州出身だという。

「歴代首相 知れば知るほど」のあらすじで紹介した通り、歴代首相も薩長出身者のオンパレードだ。

歴代首相 (知れば知るほど)歴代首相 (知れば知るほど)
著者:小林 弘忠
販売元:実業之日本社
発売日:2008-02-01
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参考になるエピソードが満載

明治政府が成立してすぐの1871年に、岩倉具視を団長として、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文を含めた総勢46人の欧米視察団を派遣し、これに留学生42名も同行する。こうのうち5名が女子留学生で、津田塾大学創設者の津田梅子さんも入っている。

海外の進んだ技術を取り入れるために、政府のトップみずから進んで外国を視察し、どん欲に吸収していったことがわかる。

西郷は征韓論に負けたこともあって、権力闘争に嫌気がさして、鹿児島に帰る。そして不平士族に祭り上げられ、西南戦争を起こし、敗北して自ら命を絶つ。

山県有朋は陸軍の参謀本部を創設し、陸軍卿を西郷従道にゆずり、みずから参謀本部長に就任している。これで統帥権の独立が達成された。

半藤さんは明治政府はビジョンもなにもなく始まったと評しているが、筆者には5ヶ条のご誓文といい、国民皆兵で富国強兵をスローガンに欧米諸国に肩を並べる国際的地位を目指したことといい、廃藩置県、学制公布、徴兵制、地租改正、廃刀令など、時宜にあった政策を打ち出していることは高く評価できると思う。

その意味では筆者は司馬遼太郎さんの様な明治礼賛とまではいかないが、幕末・明治時代の人物には興味を惹かれる。

半藤さんは、靖国神社は戊辰戦争の死者をまつることから始まったが、逆軍の東軍の死者は一人として祀られておらず不条理だと訴えている。靖国神社には戊辰戦争以来の戦死者が祀られているという話を聞いていたが、幕府軍の戦死者は祀られていないとは初めて知った。

全体を通して半藤さんが言うほど”賊軍史観”だとは思わない。

面白い事実が満載の楽しい読み物である。

是非一読をおすすめする。


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2009年06月01日

報道されない近現代史 田母神論文を選んだアパグループCEOの本

報道されない近現代史―戦後歴史は核を廻る鬩ぎ合い報道されない近現代史―戦後歴史は核を廻る鬩ぎ合い
著者:元谷 外志雄
販売元:産経新聞出版
発売日:2008-04
おすすめ度:4.5
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渡部昇一さんの本で紹介されていたアパグループCEOの元谷外志雄さんの本。

アパグループは昨年田母神元航空幕僚長が書いた「日本は侵略国家であったのか」を最優秀に選んだ「真の近現代史観」懸賞論文の主催社で、田母神さんが辞める直接の原因となったことは記憶に新しい。

本の帯に佐藤優氏が絶賛と書いてあり、佐藤さんの写真まで載っているが、推薦の言葉などは書かれていない。

アントニオ猪木と一緒にキューバのカストロ議長に会ったり、台湾の李登輝元総統、韓国の金泳三元大統領、モンゴル大統領、森喜朗元首相などと対談するなど、その交友範囲は一介の経営者の域を超えている。なにやら得体の知れない人だ。


報道されない真実

次のような真相が明かされたと語っている。

*北朝鮮の金正日は核武装主義者で、父の金日成が1994年のカーター元大統領との面談後、核開発断念に傾いていたので、父を排除して(正式には心筋梗塞で死亡したことになっている)トップの座に着いた。

昨今の北朝鮮の核実験や連続ミサイル発射実験など、核武装主義者の金正日であれば、さもありなんと思う。

*江沢民は中国の説得にも応ぜず核開発を続けた金正日を暗殺しようとして2004年龍川駅で列車を爆発させたが失敗し、表舞台から去った。

*北朝鮮は10発程度の核爆弾を保有しているとみられ、一旦手にした核は絶対に手放さない。

*アメリカの核開発は1939年アインシュタインがドイツが核兵器を開発するおそれがあるので、アメリカも急ぐべきだという書簡をルーズベルト大統領に送ったことがきっかけ。

核分裂を1938年に発見したオットー・ハーンや、物理学の最高権威だったハイゼンベルグがドイツにいたからだが、戦後ハイゼンベルグはヒトラーの手に原爆がわたったときの結果を憂慮して、原爆開発を遅らせたことがわかった。

アインシュタインは「このことがわかっていれば、アメリカに原爆を作らせようなどとはしなかった」と自らの行動を深く後悔していたという。

*ソ連の核兵器開発がアメリカに遅れることわずか四年で完成したのは、アメリカの核独占を憂慮した科学者が、アメリカが核兵器を使えないようにソ連にも核兵器を持たせるために技術をリークした。死刑となったローゼンバーグ夫妻が情報を流したという。

*ハルノートはソ連の謀略だった。ハルノートは元々ハルの穏健案と、ハリー・ホワイト財務省次官補が作成した強硬案の2つあり、ルーズベルトは強硬案を採用した。

戦後ハリー・ホワイトは、1948年にソ連(コミンテルン)のスパイだった疑惑が米国下院で暴露された直後、不可解な死を遂げる。最近公開されたソ連暗号解読史料「ベノナファイル」によって、ホワイトがソ連のスパイであることが明らかになった。

*「真珠湾の真実」で明かされたとおり、ルーズベルトは1941年11月末には日本艦隊が択捉島に集結していたことをつかんで、奇襲を予測していた。しかし欧州戦争には参戦しないと公約して選挙に勝ったために、アメリカを参戦に導くためにあえて日本の奇襲攻撃を利用した。

真珠湾の真実 ― ルーズベルト欺瞞の日々真珠湾の真実 ― ルーズベルト欺瞞の日々
著者:ロバート・B・スティネット
販売元:文藝春秋
発売日:2001-06-26
おすすめ度:3.0
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*韓国では有害図書の指定を受けている「親日派のための弁明」によると、韓国人の半日感情が強いのは、米国の意図によるものだ。

1910年の日韓併合以来、朝鮮の人口は30数年で一千万人から倍となり、未開の農業社会だった朝鮮が、日本からのインフラ投資により短期間のうちに近代的な資本主義社会へと変貌し、特に教育投資が重視された。

親日派のための弁明親日派のための弁明
著者:金 完燮
販売元:草思社
発売日:2002-07
おすすめ度:4.0
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*アメリカはユダヤ人が支配している。主なメディアや金融機関はユダヤ系だ。共和党がキリスト教政党なので、ユダヤ人は民主党寄りである。


ニュークリアシェアリング

この本で参考になったことはニュークリアシェアリングという考えだ。アメリカはNATO加盟国のドイツ、ベルギー、イタリア、オランダ、トルコに、戦時にはアメリカの核兵器を使えるというオプションを与えるというものだ。これによって核の拡散を防止しながら、バランスオブパワーを維持するというものだ。

元谷さんも言っているが、ニュークリアシェアリングについては日本のマスコミは一切報道していない。田母神論文ではこのニュークリアシェアリングを主張しているという。

日本に適するのかどうかわからないが、少なくとも自前の核兵器を開発して、2流の核保有国になるよりは、よほど妥当な考え方ではないかと思う。

特に北朝鮮が核兵器保有を切り札に難局を乗り切ろうとしている現状では、たとえば韓国と日本がアメリカとニュークリアシェアリングを導入するとかは実際検討すべきアイデアだと思う。

北朝鮮に対抗上、韓国も日本も独自に核兵器開発をするようなことになっては、それこそ核拡散が進んでしまう。「日本は原子爆弾をつくれるのか?」でも紹介したが、核兵器開発はそもそもやるべきでないと思う。

その意味ではニュークリアシェアリングは代替案として検討する価値があると思う。


福岡の飲酒運転の追突事故

それともう一点は、福岡の飲酒運転の追突事故で幼い兄弟三人が亡くなった事故があったが、あれは欄干の強度が問題だと語る。

金沢(アパグループの本社がある)でも車がスリップして橋から落ちるという事故があって分かったということだが、車道に面している橋の欄干は、総重量25トンの車両の衝突にも堪えられるように設計されている。

ところが車道との間に歩道が入ると、幅一メートルに体重60キロの大人四人が寄りかかっても壊れない程度の欄干強度と全然建築基準が違うという。

建築基準が、車が歩道を乗り上げて欄干に激突するいう想定では作られていないのだ。あくまで自転車や歩行者が欄干にぶつかる程度の強度しか求められていないという。


その他の提言として、日本再建のため大家族制復活に政治が動けとか、40年体制の清算をすべきだと主張し、不公平税制を直し、贈与税・相続税を廃止すべきだと言う。


ユダヤ陰謀説

この本で筆者の忘れたい過去の失敗を思い出させられた。

新婚時代の約20年前に、ピッツバーグに初めて駐在した時にアパートの前の部屋のアメリカ人若夫婦が引っ越しするので、彼らを招いて送別会を自宅でやったが、その当時日本で、はやっていたユダヤ陰謀説の本を話題にしてしまったのだ。

人の良い旦那は話を合わせて、自分もその本を読みたいと言ったが、奥さんは明らかに何を言うんだという雰囲気になり、彼らが自室に戻ったら、たぶん深刻な夫婦げんかが起こったと思う。

レイシストと言われてもやむをえない事態である。全く汗顔というか恥である。それからは絶対に人種とか宗教とかユダヤ人の話とかは一切しないと誓ったものだ。

当時ベストセラーになっていたユダヤ陰謀説の本は今は絶版となっているが、アマゾンで検索すると中古は売っているようだ。

ユダヤが解ると世界が見えてくる―1990年「終年経済戦争」へのシナリオ (トクマブックス)
著者:宇野 正美
販売元:徳間書店
発売日:1986-05
おすすめ度:2.5
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ともかく決して人種の話とか不用意にしてはならない。それを深く記憶に刻み込んだ経験だった。


世界でイスラエルに次いでユダヤ人人口の多いのは米国で、アルゼンチンは南米で最もユダヤ人人口が多く、世界では7番目である。

筆者はその米国に9年、アルゼンチンに2年間駐在した経験があり、ユダヤ人の友人や取引先も多い。その経験のある筆者は、ユダヤ人の陰謀なんてありえないと思う。

その意味では元谷さんとは考え方が違う。

未確認情報、憶測ばかりではないかという気がするが、”報道されない”というタイトル通り、たとえばニュークリアシェアリングなどは、興味ある考え方だし、英米によるソ連暗号解読研究の「ベノナファイル」というのがあることを初めて知った。

上記の通り、「ユダヤ陰謀説」では筆者は苦い失敗があり、この本も決しておすすめしないが、元谷さん(と一部の関係者)がある意味、筋が通った考え方をしているのは間違いないと思う。


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2009年05月02日

祝 天皇皇后両陛下ご成婚50周年

郵便局に行ったら天皇皇后両陛下ご成婚50周年記念切手を発売していたので、1シート買った。

筆者の子どもの頃は切手収集ブームだったので、昭和34年のご成婚の時の記念切手シートも持っている。

今上天皇と美智子様の似顔絵が切手になっている。ご結婚当時の美智子様の清楚な感じがよくわかる絵である。

ご成婚記念














楽天の切手ショップでもこの記念シートは販売されている。

皇太子(明仁)殿下御成婚小型シート(タトウ付き)
皇太子(明仁)殿下御成婚小型シート(タトウ付き)


そしてこちらがご結婚50周年の記念切手だ。

ご結婚50周年記念





今回の切手には似顔絵はないが、いかにも祝賀記念の切手らしいデザインだ。

郵便料金も昭和34年(1959年)はハガキ5円、封書10円だったのが、現在ではハガキ50円、封書80円となっている。ハガキは実に10倍、封書は8倍になっていることも時の流れを感じさせる。

筆者はご成婚の時は5歳だったので、ほとんど記憶がないが、あれから50年かと、感慨深い。

両陛下のますますのご健康を心からお祈り申し上げます。


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2009年04月29日

「パル判決書」の真実 渡部昇一氏のパル判決のまとめ

『パル判決書』の真実『パル判決書』の真実
著者:渡部 昇一
販売元:PHP研究所
発売日:2008-08-23
おすすめ度:4.0
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専門の英文法以外にも様々な分野の著書を書いている渡部昇一上智大学名誉教授の「パル判決書」の解説書。

渡部氏は昨年「日本は侵略国家であったのか」という田母神前航空幕僚長の論文を「真の近現代史観」懸賞論文で最優秀賞に選んだ審査委員長をつとめた。

日本は「侵略国家」ではない!日本は「侵略国家」ではない!
著者:渡部 昇一
販売元:海竜社
発売日:2008-12
おすすめ度:3.0
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渡部さんが「石破防衛大臣の国賊行為を叱る」という論文を発表して、石破氏と論戦になったことを石破氏がブログで紹介している

東京裁判の時に、判事中で唯一の国際法学者だったインド人のラダ・ビノッド・パル判事の出した被告全員無罪の判決の歴史観を見直している。

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出展:Wikipedia

東京裁判を命じたマッカーサー自身が、解任された後の米国上院公聴会で、次のように語った。

"Their purpose, therefore, in going to war was largely dictated by security"

つまり、「日本人が戦争に入った主な理由は自衛上やむにやまれぬものであった」と証言したのだ。

復讐の色が濃いニュルンベルグ裁判は東京裁判より半年前の1945年11月に始まり、1946年10月に結審した。そのニュルンベルグ裁判を日本にも持ち込もうというもので、東京裁判は1946年5月から審理が始まり1948年11月に判決が言い渡された。

渡部さんは、「日本は侵略国家であり、悪い国だ」という東京裁判の決めつけが戦後日本を悩ませてきたが、日本を悪い国だと断罪したものは東京裁判以外にはないと語る。

しかし東京裁判を命じたマッカーサーの「極東国際軍事裁判所条例」は、当のマッカーサー自身が解任されて帰国後、日本はやむにやまれず戦争を始めたと証言していることから、その寄り立つ基盤を失っている。

渡部さんは、「趣旨としては東條英機の宣誓供述書と同じようなことをマッカーサーは述べたのである」と語っている。

このブログで以前紹介した小林よしのりの「いわゆるA級戦犯」という本でも、東京裁判の欺瞞性を指摘しているが、渡部さんも東京裁判では少数意見だったパル判決書のみが法学的に意味あるものだと指摘する。

いわゆるA級戦犯―ゴー宣SPECIALいわゆるA級戦犯―ゴー宣SPECIAL
著者:小林 よしのり
販売元:幻冬舎
発売日:2006-06
おすすめ度:4.5
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日本はナチスと同様に歴代内閣が共同謀議してアジアを侵略し、人道に反する罪を犯したというのが東京裁判の検事の立件理由で、その証拠として昭和2年の「田中義一内閣の田中上奏文」が挙げられた。

ところが、この「田中上奏文」は中国語や英語で書かれた偽物で、当時広く配布されていた。東京裁判でも結局証拠には採用されなかった。渡部さんによると、今日ではコミンテルンのつくった偽文書だとわかっているとのことだ。(コミンテルンの仕業ということまで本当にわかっているのかは筆者には疑問に思える)

TanakaMemorial





出展: Wikipedia

パル判決の中で最も有名な部分は次のところだ。

「今次戦争についていえば、真珠湾攻撃の直前に米国国務省が日本政府に送ったものとおなじような通牒を受け取った場合、モナコ王国やルクセンブルグ大公国でさえも合衆国にたいして矛を取って起ちあがったであろう」

そして次に続くのが次の文だ。

「ルーズベルト大統領とハル国務長官は右の覚書にふくまれた提案を日本側が受諾しないものと思いこんでいたので、日本側の回答を待つことなく、右の文書が日本側代表に手交されたその翌日、米国の前哨地帯の諸指揮官にたいして戦争の警告を発することを認可したのであった」

当時はもちろん知る由もないが、アメリカは日本の外交暗号を解読して、その情報を「マジック」と呼んでいたことがわかっている。

近々紹介する多賀敏行さんの「”エコノミック・アニマル”は褒め言葉だった」のなかで、「暗号電報誤読の悲劇」として「マジック」に意図的とも思える誤訳・曲訳があったことが紹介されている。

いずれにせよ、ルーズベルトらは、日本が追いつめられて戦争に突入することを予想していたことは間違いない。

「エコノミック・アニマル」は褒め言葉だった―誤解と誤訳の近現代史 (新潮新書)「エコノミック・アニマル」は褒め言葉だった―誤解と誤訳の近現代史 (新潮新書)
著者:多賀 敏行
販売元:新潮社
発売日:2004-09
おすすめ度:4.5
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東京裁判の欺瞞性を非難しても、いまさら歴史が変わるわけではないが、筆者などの年代がかつて教わった歴史が、その後の暗号解読や歴史的文書の公開により、かなり見方が変わっているのも事実だ。

石破さんとの論争などを見ると、渡部さんがパル裁判を客観的に語るのに適当な人物かどうかは、やや疑問もあるが、難解とされるパル判決を読みやすく整理しているので、パル判決の入門書としては良いと思う。

マンガ入りでわかりやすく理解したいなら、小林よしのりの「パール真論」か「いわゆるA級戦犯」、もっと詳しく理解したいときの入門書には渡部さんのこの本が良いと思う。

ゴーマニズム宣言SPECIAL パール真論ゴーマニズム宣言SPECIAL パール真論
著者:小林 よしのり
販売元:小学館
発売日:2008-06-23
おすすめ度:4.5
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もちろん原文翻訳を読みたいという人には、上下2巻の翻訳がある。

共同研究 パル判決書 (上) (講談社学術文庫 (623))共同研究 パル判決書 (上) (講談社学術文庫 (623))
著者:東京裁判研究会
販売元:講談社
発売日:1984-01
おすすめ度:4.0
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東京裁判に関しては多くの本が出されている。

常識として一度手にとって見ることをおすすめする。


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2008年12月31日

暗闘 スターリンとトルーマンの日本降伏を巡っての競争

暗闘―スターリン、トルーマンと日本降伏暗闘―スターリン、トルーマンと日本降伏
著者:長谷川 毅
販売元:中央公論新社
発売日:2006-02
おすすめ度:5.0
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在米のロシア史研究家、長谷川毅カリフォルニア大学サンタバーバラ校教授の終戦史再考。

大前研一の「ロシア・ショック」で取り上げられていたので読んでみた。

ロシア・ショックロシア・ショック
著者:大前 研一
販売元:講談社
発売日:2008-11-11
おすすめ度:4.5
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この本を読んで筆者の日本史の知識の欠如を実感させられた。

終戦秘話といえば、大宅壮一(実際のライターは当時文芸春秋社社員だった半藤一利氏)の「日本のいちばん長い日」や、終戦当時の内大臣の「木戸幸一日記」、終戦当時の内閣書記官長の迫水(さこみず)久常の「機関銃下の首相官邸」などが有名だが、いずれも読んだことがない。

「日本のいちばん長い日」は映画にもなっているので、さまざまな本や映画などで漠然と知っていたが、この本を読んで知識をリフレッシュできた。

決定版 日本のいちばん長い日 (文春文庫)決定版 日本のいちばん長い日 (文春文庫)
著者:半藤 一利
販売元:文藝春秋
発売日:2006-07
おすすめ度:5.0
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木戸幸一日記 上巻 (1)木戸幸一日記 上巻 (1)
著者:木戸 幸一
販売元:東京大学出版会
発売日:1966-01
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新版 機関銃下の首相官邸―2・26事件から終戦まで
著者:迫水 久常
販売元:恒文社
発売日:1986-02
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今まで終戦史は、日本の資料かアメリカの資料をベースに何冊もの本が書かれてきたが、この本は米国在住の日本人ロシア史専門家が、友人のロシア人歴史学者の協力も得て完成させており、日本、米国、ロシアの歴史的資料をすべて網羅しているという意味で画期的な歴史書だ。

この本の原著は"Racing the enemy"という題で、2005年に出版されている。日本版は著者自身の和訳で、著者の私見や、新しい資料、新しい解釈も加えてほとんど書き下ろしになっているという。

Racing the Enemy: Stalin, Truman, And the Surrender of JapanRacing the Enemy: Stalin, Truman, And the Surrender of Japan
著者:Tsuyoshi Hasegawa
販売元:Belknap Pr
発売日:2006-09-15
クチコミを見る


約50ページの注を入れると全部で600ページもの大作だが、日本の無条件降伏に至る太平洋戦争末期の世界の政治情勢がわかって面白い。

この本では、3つの切り口から日本がポツダム宣言を受諾した事情を描いている。


1.トルーマンとスターリンの競争

一つは日本を敗戦に追い込むための、トルーマンスターリンの競争である。

1945年2月のヤルタ密約で、ソ連が対日戦に参戦することは決まっていたが、戦後の権益確保もあり、トルーマンとスターリンはどちらが早く日本を敗北に追い込む決定打を打つかで競争していた。

ヤルタ密約は、ドイツ降伏後2−3ヶ月の内に、ソ連が対日戦争に参戦する。その条件は、1.外蒙古の現状維持、2.日露戦争で失った南樺太、大連の優先権と旅順の租借権の回復、南満州鉄道のソ連の権益の回復、3.千島列島はソ連に引き渡されるというものだ。

元々ルーズベルトとスターリンの間の密約で、それにチャーチルが割って入ったが、他のイギリス政府の閣僚には秘密にされていたという。

ルーズベルトが1945年4月に死んで、副大統領のトルーマンが大統領となった。トルーマンといえば、"The buck stops here"(自分が最終責任を持つ)のモットーで有名だ。

Truman_pass-the-buck







出典:Wikipedia

トルーマンは真珠湾の報復と、沖縄戦で1万人あまりの米兵が戦死したことを重く見て、これ以上米兵の損失を拡大しないために、原爆を使用することに全く躊躇せず、むしろ原爆の完成を心待ちにしていた。

1発では日本を降伏させるには不十分と考え、7月16日に完成したばかりの2発の原爆を広島と長崎に落とした。

原爆の当初のターゲットは、京都、新潟、広島、小倉、長崎の5ヶ所だった。

原爆を開発したマンハッタン計画の責任者のグローヴス少将は最後まで京都をターゲットに入れていたが、グローヴスの上司であるスティムソン陸軍長官は京都を破滅させたら日本人を未来永劫敵に回すことになると力説して、ターゲットからはずさせた。

2.日ソ関係

2つめは、日ソ関係だ。

日ソ中立条約を頼りにソ連に終戦の仲介をさせようとする日本の必死のアプローチをスターリンは手玉にとって、密かに対日参戦の準備をすすめていた。

1941年4月にモスクワを訪問していた松岡外務大臣を「あなたはアジア人である。私もアジア人である」とキスまでして持ち上げたスターリンは本当の役者である。

ポツダム宣言

ポツダム会議は1945年の7月にベルリン郊外のポツダムに英米ソの3首脳が集まり、第2次世界大戦後の処理と対日戦争の終結について話し合われた。

会議は7月17日から8月2日まで開催されたが、途中で英国の総選挙が行われ、選挙に敗北したチャーチルに代わり、アトリーが参加した。

ポツダム会議はスターリンが主催したが、ポツダム宣言にはスターリンは署名しなかった。

トルーマンとチャーチルは、スターリンの裏をかいて、スターリンがホストであるポツダムの名前を宣言につけているにもかかわらずスターリンの署名なしにポツダム宣言として発表するという侮辱的な行動を取ったのである。

トルーマンは原爆についてポツダムでスターリンに初めて明かしたので、スターリンにはポツダム宣言にサインできなかったこととダブルのショックだった。

これによりスターリンはソ連の参戦の前にアメリカが戦争を終わらせようとしている意図がはっきりしたと悟り、対日参戦の時期を繰り上げて、8月8日に日ソ中立条約の破棄を日本に宣言する。

ソ連の斡旋を頼みの綱にしてた日本は簡単に裏切られた。もっともソ連は1945年4月に日ソ中立条約は更新しないと通告してきていた。

7月26日の段階で、ソ連軍は150万の兵隊、5,400機の飛行機、3,400台の戦車を国境に配備しており、ソ連の参戦は予想されたことだった。

ソ連は終戦直前に参戦することで日本を降伏に追い込み、戦争を終結させた功労者として戦後の大きな分け前にありつこうとしたのだ。

日本は1945年8月14日にポツダム宣言を受諾したが、スターリンは樺太、満州への侵攻をゆるめず、ポツダム宣言受諾後に千島、北海道侵攻を命令した。

スターリンの望みは、千島列島の領有とソ連も加わっての日本分割統治だったが、これはアメリカが阻止した。


3.日本政府内の和平派と継戦派の争い

第3のストーリーは日本政府内での和平派と継戦派の争いだ。

この本では、和平派と継戦派の争点は「国体の護持」だったという見解を出しているが、連合国側から国体護持の確約がなかったことが降伏を遅らせた。

アメリカ政府では元駐日大使のグルーなどの知日派が中心となって、立憲君主制を維持するという条件を認めて、早く戦争を終わらせようという動きがあったが、ルーズベルトに代わりトルーマンが大統領となってからは、グルーはトルーマンの信頼を勝ちとれなかった。

開戦直後から日本の暗号はアメリカ軍の海軍諜報局が開発したパープル暗号解読器によって解読されていた。この解読情報は「マジック」と呼ばれ、限定された関係者のみに配布されていた。

ところでパープル解読器のWikipediaの記事は、すごい詳細な内容で、暗号に関するプロが書いた記事だと思われる。是非見ていただきたい。

日本の外務省と在外公館との通信はすべて傍受されて、日本の動きは一挙手一投足までアメリカにつつ抜けだった。

広島に8月6日、長崎に8月9日に原爆が投下された。ソ連は8月8日に日ソ中立条約の破棄を通告し、8月9日には大軍が満州に攻め込んだ。関東軍はもはや抵抗する能力を失っていた。

こうして8月14日御前会議で、ポツダム宣言受諾の聖断が下りた。

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出典:Wikipedia

最後まで戦うべきだと主張する阿南惟幾(これちか)陸軍大臣を中心とする陸軍の抵抗を、原爆やソ連参戦という事態が起きたこともあり高木惣吉ら海軍中心の和平派が押し切った。

天皇の玉音放送が流れた8月15日に阿南陸相は自刃し、象徴的な幕切れとなった。

ちなみにWikipediaの玉音放送の記事の中で、玉音放送自体の音声も公開されているので、興味がある人は聞いてほしい。

8月15日には天皇の声を録音した玉音盤を奪おうと陸軍のクーデターが起こるが、玉音盤は確保され、放送は予定通り流された。

しかし千島列島では戦争は続いた。最も有名なのは、カムチャッカ半島に一番近い占守島の激戦で、8月21日になって休戦が成立した。

スターリンはマッカーサーと並ぶ連合国最高司令官にソ連人を送り込もうとしたが、これはアメリカに拒否され、結局北海道の領有はできなかった。


歴史にIFはないというが…

長谷川さんはいくつかのIFを仮説として検証している。

1.もしトルーマンが日本に立憲君主制を認める条項を承認したならば?

2.もしトルーマンが、立憲君主制を約束しないポツダム宣言に、スターリンの署名を求めたならば?

3.もしトルーマンがスターリンの署名を求め、ポツダム宣言に立憲君主制を約束していたならば?

4.もしバーンズ回答が日本の立憲君主制を認めるとする明確な項目を含んでいたら?

5.原爆が投下されず、またソ連が参戦しなかったならば、日本はオリンピック作戦が開始される予定になっていた11月1日までに降伏したであろうか?

6.日本は原爆の投下がなく、ソ連の参戦のみで、11月1日までに降伏したであろうか?

7.原爆の投下のみで、ソ連の参戦がなくても、日本は11月1日までに降伏したであろうか?


歴史にIFはないというが、それぞれの仮説が長谷川さんにより検証されていて面白い。


日、米、ソの3カ国の一級の資料を集めて書き上げた力作だ。500ページ余りと長いがダイナミックにストーリーが展開するので楽しめるおすすめの終戦史である。


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Posted by yaori at 01:09Comments(0)TrackBack(0)