2011年01月27日

それでも日本人は戦争を選んだ わかりやすいFAW解説

それでも、日本人は「戦争」を選んだそれでも、日本人は「戦争」を選んだ
著者:加藤 陽子
朝日出版社(2009-07-29)
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日本近代史を研究する加藤陽子東大教授が、神奈川県の名門私立校栄光学園の歴史研究部の生徒相手に行った講義録。20万部以上売れてベストセラーになっている。

歴史の全体の流れはむしろ以前紹介した半藤一利さんの「昭和史」のほうが流れをとらえているが、日本が第2次世界大戦に突入するときに、どのような歴史のFAW(Forces at work:そこに働いている力)があったのかよくわかる。

昭和史 1926-1945昭和史 1926-1945
著者:半藤 一利
平凡社(2004-02-11)
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筆者は神奈川県の湘南高校サッカー部だったので、栄光学園に練習試合で行ったことがある。整ったスポーツ施設に驚いたものだ。

県立高校である湘南高校ではグラウンドをサッカー部、野球部、ラグビー部が合同で使っていたので、放課後の同じ時間帯に1/3ずつ使うという感じだったが、たしか栄光学園では野球場、サッカー場、総合グラウンドと分かれていた。

練習はたしか週3日という話だったと思う。湘南高校サッカー部は当時関東大会の県予選で決勝まで行き、奥寺康彦のいた相模工大付属高校に負け準優勝に終わったほどの強豪だったが、この時は栄光学園に練習試合で負けたので、顧問の鈴木中先生が「週3日しか練習していないところに負けるのか!」と怒っていたことを思い出す。

閑話休題。

小学区制の「神奈川方式」のため、湘南高校は筆者のいた当時のレベルとは比較にならないほど学力が落ちてしまったが、栄光学園は昔も今も神奈川県というより全国の私立校トップの座を守っている。

この本は栄光学園の歴史研究部の中学1年生から高校2年生までのメンバーを相手に、5日間にわたって加藤教授が行った歴史授業の筆記録だ。

戦争と憲法

加藤教授はまずジャン・ジャック・ルソーの戦争の定義を説明する。端的にいうと「戦争とは相手国の憲法を書き換える」ものだと。たしかに終戦後のマッカーサー憲法が良い例である。

二人の歴史学者

歴史研究部の生徒に対して、先人として二人の歴史学者を紹介する。

一人はE.H.カー ケンブリッジ大学教授だ。外交官、新聞の論説委員から63歳でケンブリッジ大学教授に就任した変わり種で、今だに読まれているロングセラーで、学生の必読書ともいえる清水幾太郎訳の「歴史とは何か」の著者だ。

歴史とは何か (岩波新書)歴史とは何か (岩波新書)
著者:E.H. カー
岩波書店(1962-03-20)
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筆者もこの本は学生時代に読んだ(ほとんど内容を覚えていないが)。

カーは「危機の20年」という本の中で、戦死者が1千万人を超えた第1次世界大戦の惨禍を二度と繰り返さないように組織された国際連盟が、わずか20年しか持たずに再び戦争が起きた理由を、国際連盟という原理そのものが間違っていたと主張する。

危機の二十年―1919-1939 (岩波文庫)危機の二十年―1919-1939 (岩波文庫)
著者:E.H.カー
岩波書店(1996-01-16)
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英国は国際連盟をバックに言葉でドイツを押さえ込もうとするのでなく、海軍力を増強して、ドイツを押さえ込むべきだったとカーは主張する。当時の世界恐慌でそれができなければ、国際連盟を通してでなく、ドイツと真剣に交渉するべきだったと。

カーはまた「歴史は科学だ」と主張した。歴史は教訓を与えるからだ。

加藤教授が取り上げるもう一人の歴史家は、「歴史の教訓」を書いたハーバード大学教授のアーネスト・メイだ。

歴史の教訓―アメリカ外交はどう作られたか (岩波現代文庫)歴史の教訓―アメリカ外交はどう作られたか (岩波現代文庫)
著者:アーネスト・R. メイ
岩波書店(2004-04-16)
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メイ教授は、ベストアンドブライテストと呼ばれ当時の世界最高の頭脳を結集したアメリカ政府が、ベトナム戦争にのめり込んでいった理由を「中国の喪失」であると説く。

「ベストアンドブライテスト」はディビッド・ハルバースタムの同名の本もある。マクナマラなどを中心に描くこのノンフィクションも面白い。

ベスト&ブライテスト〈上〉栄光と興奮に憑かれて (朝日文庫)ベスト&ブライテスト〈上〉栄光と興奮に憑かれて (朝日文庫)
著者:デイヴィッド ハルバースタム
朝日新聞社(1999-06)
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アメリカは蒋介石の国民党政府に巨額の資金と武器援助をして日本との戦争に勝利したが、終戦からわずか4年で国民党は中国本土から追い払われた。この辺の事情を詳しく書いたのが、バーバララ・タックマンの「失敗したアメリカの中国政策」だ。

失敗したアメリカの中国政策―ビルマ戦線のスティルウェル将軍失敗したアメリカの中国政策―ビルマ戦線のスティルウェル将軍
著者:バーバラ・W. タックマン
朝日新聞社(1996-02)
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子の本も面白い。

アメリカは中国の内戦では何もできなかった、この「中国の喪失」経験が、腐敗した南ベトナム政府に肩入れして、北ベトナムに勝つまで介入するという形で、泥沼の軍事介入、そして敗走という結果を招いたのだ。

またローズヴェルトは(加藤教授はルーズベルトとは呼ばない。最近の歴史の授業でも、この様に教えているのかもしれない)、ウィルソンの失敗を繰り返さないということで、「交戦相手とは交渉せず、無条件降伏以外認めない」という態度を貫いた。

これにより途中で何度もあった講和のチャンスを無にし、結果的にアメリカ国民の損害を増大させ、なによりも共産国も勝利国の一員となったことで、戦後の東西冷戦構造を生み、結果的に世界を不安定にした。

ウィルソンの休戦提案に応じてドイツは第1次世界大戦の停戦に合意したのに、パリ講和会議で英仏はウィルソンの条件を無視したので、ドイツは損をしたという意識が根底にあった。それゆえ第2次世界大戦に突入したのだとローズヴェルトは考えていたという。

「とにかく妥協をしてはいかん。妥協して失敗したのは1918年だった」とローズヴェルトは言っていたという。

これらの事例を「歴史の誤用」の例としてメイ教授は挙げている。


第1章以下の目次

以上がこの本の序章で、第1章以下は次の構成となっている。

1章 日清戦争

2章 日露戦争

3章 第1次世界大戦

4章 満州事変と日中戦争

5章 太平洋戦争

歴史家らしく、余り知られていないFAWを取り上げ、歴史が面白く学べるように講義しているところがすばらしい。アマゾンの売り上げランキングで1,000位前後とよく売れている理由だろう。

詳しく紹介しているとあらすじが長くなりすぎるので、参考になったFAW(Forces At Work)を箇条書きで紹介しておく。

★日本は安全保障上の理由から植民地を獲得し続けた特異な国だった。
これが加藤教授が日本が戦争を選んだ第一の理由に挙げているFAWだ。

★日露戦争の時に「非常特別税法」ができ、市街地の地租は20%まで引き上げられ、所得税はほぼ倍となった。戦時中のみのはずが、ロシアから賠償金が取れないので、戦後も継続され、納税額10円以上という選挙権基準に合う人が激増した。結果的に有権者が地主中心から、商工業者や実業家まで広がり、政治家も産業界出身者が増えた。

★第1次世界大戦で日本が地中海に艦隊を派遣した際には、戦後の講和会議での植民地分割について、イギリス・フランス・イタリア・ロシアとの間でお互いに認め合うという密約を交わしていた。中国は猛反発したが、フランスのクレマンソーとイギリスのロイド・ジョージが、苦しいときに助けてくれたとして日本を支持して山東半島の日本の権益が認められた。

日本艦隊の地中海派遣については、関榮次さんの「日英同盟」のあらすじを参照してほしい。

満州事変を計画した石原莞爾の最終戦争像は、日米の航空機決戦で、中国を本拠地にして戦えばソ連とは20年でも30年でも戦争を継続できるというものだった。

★1931年7月に当時の東京帝国大学生に「満蒙のための武力行使は正当か?」というアンケートをとったら、9割が賛成していた。その2ヶ月後に満州事変が起こった。この本のタイトル通り、日本人は戦争を選んだのだ。

★満州事変が起こり、民政党の若槻内閣の必死の沈静化努力にもかかわらず、朝鮮軍司令官だった林銑十郎が閣議の否決に憤り、当時日本軍の最精鋭といわれた朝鮮軍を独断越境させてしまう。関東軍1万人に対し、満州を支配する張学良軍は20万人ともいわれ、関東軍だけでは劣勢が目に見えていたからだ。

★満州事変が起こり、蒋介石は「公理に訴える」ということで、国際連盟による仲裁を求める選択をした。後に予想される日中交渉の際に、国際世論の支持を得ていた方が有利となるという判断と、国民の関心を国際連盟に向けさせるという意図だったと、スタンフォード大学フーバー研究所が公開している蒋介石日記に書いてあるという。

満州は張学良が支配していたので、張学良が日本軍と合意に達してしまえば、国民党政府は手出しが出来ないという恐れもあり、国際連盟に持ち込んだという背景もある。

これを受けてイギリス人リットン伯爵を団長とする調査団が1932年2月から調査にあたり、1932年10月に報告書を提出する。

★1932年連盟脱退の時の外相は内田康哉で、「焦土外交」という強い言葉で、日本の強硬路線を強調し、中国が宥和策を出してくるのを待つという作戦だったようだ。

蒋介石も日本と事を構える前に、共産党を撃とうとして、1932年7月には駐日公使を呼んで、日本に対しては提携主義を取り、宥和策をすすめていくことを指示した。

★内田の強硬策は成果を上げているように思え、1933年1月に内田は天皇に連盟脱退は避けられるという上奏をしている。しかし、これには天皇はじめ、牧野伸顕内大臣も不安を感じていたという。松岡洋右全権代表は強硬策をやめ、連盟に留まるよう電報で忠告している。

加藤教授は学生にも「松岡洋右に甘い」と言われるそうだが、松岡の連盟に留まるように説得する態度は立派だと評価している。

★内田外相の強硬策を葬ったのは、1933年2月の関東軍の熱河侵攻作戦だった。これは天皇の裁可を得た正式の作戦だったが、連盟規約第16条の連盟が解決に努めている時に、新たな戦争に訴えた国はすべての連盟国の敵と見なされるという条項に抵触することとなった。

海軍出身の斉藤首相は、事態の重大性に気づき、閣議決定を取り消し、天皇の裁可取り消しを天皇に頼む。天皇は取り消そうと考えるが、侍従武官や西園寺元老の反対にあって止められる。天皇も苦しむが、結局熱河侵攻作戦は実施され、その2日後日本は連盟から制裁を受ける前に、自ら脱退する。

★当時の国民の半分は農民だったが、小作農の権利を保障する政策は政友会や民政党などの既存政党からは出てこず、「農山漁村の疲弊の救済は最も重要な政策」と断言するのは陸軍のみだった。

学生や工場労働者などには徴兵免除が適用されたので、農村が兵士の最大の供給源だったからだ。

★蒋介石を支えていたのは浙江財閥で、宋美齢などの宋姉妹や宋子文などのファミリーが有名だ。

★中国の駐米大使胡適の「日本切腹、中国介錯論」とは、世界の2大強国、米国とソ連を味方に引き込むには、最初2-3年は日本に負け続け、沿岸部をすべて抑えられ困難な状況に追い込まれる。しかし、そのうち世界の同情が集まり、日本軍の内陸部移動にソ連がつけ込み、英米は権益保護のため軍隊を派遣し、海戦が起こるというものだ。まさに身を切らせて骨を切る戦略である。

★蒋介石に次ぐ国民党No.2の汪兆銘は胡適の「日本切腹、中国介錯」論に反対して、3-4年待てば中国はソビエト化してしまうと主張し、日本と妥協する。

★日米開戦準備を決定した1941年9月の御前会議で、永野軍令部総長は、このまま行くと石油不足で「大阪冬の陣」のように戦闘能力をそがれ、翌年には戦う事さえ出来なくなる恐れがあると説明する。天皇は「大阪冬の陣」という説明にグラリときたという。

★蒋介石は義理の弟の宋子文をアメリカに送り、軍事援助を引き出そうとするが、アメリカは日本との関係悪化を懸念して、資金は援助するが、1940年末まで武器は援助しない。

そんなアメリカの態度を変えさせて、パイロット付き戦闘機(フライングタイガース)を中国に派遣させたのは、蒋介石のこのままいくと中国は共産化するという脅しだった。アメリカはこれに応じ1941年7月にフライングタイガース100機を中国に供与した。

★戦争は実質的に1944年6月のマリアナ沖海戦で決着がついている。加藤さんは吉田裕さんの「アジア・太平洋戦争」を引用して、岩手県の戦死者数の推移を紹介している。最後の1年半に戦死者の9割が集中しており、負け戦続きで多くの人が戦死したり、病死、餓死した。

アジア・太平洋戦争―シリーズ日本近現代史〈6〉 (岩波新書)アジア・太平洋戦争―シリーズ日本近現代史〈6〉 (岩波新書)
著者:吉田 裕
岩波書店(2007-08-21)
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★満州移民は戦後ソ連の参戦でひどい目にあうが、普段から中国人との友好関係を築いていた開拓団は、敗戦となるとすぐに中国人に農場や建物を渡し、安全な地点までの護衛を頼んで、低い死亡率で日本に引き上げたという例もある。

★国や県は「分村移民」という村ぐるみで満州移民すれば、助成金を支給するという制度で開拓団を奨励していたという。開拓団の悲劇は国や県の政策の結果でもあったのだ。


教科書的な事実の時系列的説明という内容ではなく、節目節目のFAWを掘り下げるという講義だ。「試験に出ない」という理由で、高校時代に日本の近代史をきっちり学ばなかった筆者には、参考になる点が多かった。

池上解説の歴史版のような本だ。ぜひ手に取って欲しい本である。


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2011年01月16日

虜人日記 フィリピン戦線で生き残った技術者軍属の貴重な日記と敗因考察

虜人日記 (ちくま学芸文庫)虜人日記 (ちくま学芸文庫)
著者:小松 真一
筑摩書房(2004-11-11)
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太平洋戦争中フィリピンのブタノール工場建設のために徴用されたアルコール製造技術者軍属の日記。

今度紹介する山本七平の「日本はなぜ敗れるのか―敗因21ヵ条」に詳しく引用されていたので読んでみた。

日本はなぜ敗れるのか―敗因21ヵ条 (角川oneテーマ21)日本はなぜ敗れるのか―敗因21ヵ条 (角川oneテーマ21)
著者:山本 七平
角川グループパブリッシング(2004-03-10)
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ブタノールはガソリンの代わりの燃料として航空機や自動車に使えるので、日本軍はフィリピンの酒精(エチルアルコール)工場を改造して、ブタノールを生産することを計画していた。

次がフィリピンの地図だ。

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出典:Wikipedia

台東製糖酒精工場長だった小松真一さんは、フィリピンで砂糖からブタノール生産のために軍属として派遣され、終戦後はネグロス島で捕虜になった。

虜人日記2




















出典:本書 表紙裏

この日記は、フィリピンの捕虜収容所に収容されていたときに、戦時中のこととや捕虜生活のことを手作りのノートに挿絵入りで記録し、骨壺に入れて内地に持ち帰ったものだ。

紙は米軍のタイプ用紙を、収容所のベッドのカンバスをほぐした糸で綴じている。絵は鉛筆のスケッチに、マーキュロやアデブリンなどの医薬品をマッチの軸木に脱脂綿をまいた筆で彩色しているという。大変貴重な記録だ。

全部で9冊のノートと挿絵が写真入りで紹介されている。

虜人日記1











出典:本書表紙裏

巻末に文を寄せている未亡人と息子さんによると、この日記は戦後ずっと銀行の金庫に眠ったままだったが、小松さんが亡くなられた後、遺族が知人に配るために私家版として出版したものだという。

それを月刊「現代」の編集長が読んで、これは同じフィリピン戦線で戦い、戦後捕虜となった山本七平氏に強いインパクトを与えるに違いないとひらめき、山本氏に見せたという。

山本氏は「虜人日記」を題材に雑誌「野生時代」に「虜人日記との対話」というシリーズで連載し、それが山本氏の死後13年経って、上記の「日本はなぜ敗れるのか―敗因21ヵ条」として出版されたのだ。

「戦争と軍隊に密接してその渦中にありながら、冷静な批判的な目で、しかも少しもジャーナリスティックにならず、すべてを淡々と簡潔、的確に記している。これが、本書のもつ最高の価値であり、おそらく唯一無二の記録であると思われる所以(ゆえん)である。」と山本氏は評している。


「バアーシー海峡」問題は現在でも最大の問題

「捕虜人日記」を詳しく解説した山本七平の「日本はなぜ敗れるのか―敗因21ヵ条」のあらすじもいずれ紹介するので、「敗因21カ条」については詳しくは紹介しないが、上記の山本七平の紹介文にあるように、非常に冷静に、客観的に書いてることは、さすが科学者と思わせるものがある。

特に中国の台頭で、現在でも安全保障上の大きなリスクとなってきているシー・レーンの確保を日本ができなかったことを、最大の敗因として挙げている。

その部分は「15.バアーシー海峡の損害と、戦意喪失」という言葉で表されている。バシー海峡とは台湾とフィリピンの間の海峡のことだ。そして山本七平氏も、「私も日本の敗滅をバシー海峡におく」と賛同している。

もちろん21項目挙げられている敗因の一つ一つが合わさって日本の敗戦となったわけだが、旧日本軍の致命傷は海上輸送の安全が確保できなかったことだと思う。

インドネシアで終戦を迎えた筆者の亡くなった父は、昭和18年に召集されたが、台湾沖で、同僚の輸送船が撃沈され、多くの兵隊が亡くなったと言っていた。駆潜艇がじゃんじゃか爆雷を落としたが、結局敵潜水艦は逃げてしまったと。

インドネシアに着いても、その後の新兵を乗せた輸送船がことごとく撃沈され、終戦まで初年兵のままだったと語っていた。

運が悪ければ、父も海の藻屑になり、筆者も生まれていなかったわけだ。だから小松さんの書いていることは、筆者には他人事とは思えない切迫感がある。

敗戦直前には日本国内の海運も投下機雷で壊滅状態になるのだが、海上輸送の安全確保ができなかったことは、米潜水艦対策の不徹底によるものだ。

それの反省なのか、自衛隊は対潜水艦戦闘能力が飛び抜けて高い。

しかし、日本が誇る100機ほどの対潜哨戒機P3Cも、定価3万8千ドル(300万円)といわれるスティンガーミサイルと同等品を大量に配備して、漁船を改造した工作船やジャンクボートなどから発射すれば、ほとんど撃ち落とされてしまうだろう。

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出典: 以下別注ないかぎりWikipedia

P3Cは軍艦相手なら対艦ミサイルがあるが、漁船のような工作船では防ぎようがないだろう。

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そんな事態になったら、太平洋戦争の時とおなじ「バアーシー海峡の損害と、戦意喪失」が起こることは目に見えている。

「米軍基地のない沖縄(日本)」、「新しい世界観」や「米国離れ」を説く評論家は多い。しかし、この先人の遺言たる「バアーシー海峡」問題を、日本の軍事力でどう解決しようとするのだろう?

あきらかに東シナ海の覇権を狙う中国は、今や大気圏外から急降下して米軍空母を直撃する新型ミサイルを開発し、これに対する防御策はないという。

それはそうだろう。弾道ミサイルなら弾道を計算して、同じ弾道で逆からミサイルを打てば迎撃できる。しかし上から超高速で落ちてくるミサイルは弾道という考え方は当てはまらない。弾道に合わせるということをしないと、線でなく点で迎撃することになり、これは事実上超高速落下物体では不可能となる。

この本は決して太平洋戦争の時のフィリピン戦線での体験記だけではない。この本が指摘する「敗因21カ条」のうち、いくつかはそのまま現在の日本に当てはまる警鐘である。

閑話休題。小松さんの日記に戻る。

小松さんは、フィリピンに昭和19年2月に飛行機で着任、早速各地の酒精工場を精力的に視察する。

マニラはジャズが流れ、夜はネオンサインが明るく、男女ともにケバケバした服装で、当時は「ビルマ地獄、ジャワ極楽、マニラ享楽」と言われていたという。

砂糖からブタノールを製造するには、莫大な石炭と副原料としてのタンパク質が必要だ。タンパク源としてはコプラが利用できるが、フィリピンには石炭がなく、資材難の中をようやく完成させた工場も、石炭がないので運転の見通しが立たないという状況だった。

結局昭和19年7月にフィリピンのブタノール生産計画は中止となり、小松さんは、やることがなくなったが、民間から採用した人は最低1年間は南方にいなければならないとして、軍に足止めを食う。

仕方がないので、小松さんはフィリピンの酒精工場の生産アップに尽力することとなり、レイテ島やセブ島各地の酒精工場を訪問し、戦火のなかにもかかわらず生産量をアップさせた。

最後にネグロス島の酒精工場の増産任務を受け、ネグロス島に赴任する。

この日記には内地からネグロス島に届いたばかりの最新鋭の四式戦闘機が、米軍の空襲で地上で焼かれた挿絵が載せられている。

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小松さんが「コンソリ」と呼ぶB-24爆撃機が大編隊で毎日のようにネグロス島を爆撃しており、工場の生産を上げるのもままならない状態だったが、生産をなんとか拡大し、一部ではウィスキーをつくって、部隊の兵士に喜ばれる。

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そのうち米軍がミンドロ島、ルソン島に上陸し、昭和20年3月にネグロス島にも上陸したので、せっかく生産している酒精工場に爆薬をしかけて爆破し、軍隊と一緒に山に待避する。それから半年ネグロス島の山での待避行が続く。

米軍は事前に砲撃して戦車で攻め込むという戦法で、いくつかの陣地がすぐに陥落した。戦車用の地雷も地雷探知機で掘り出してしまうから効果なかったという。

ネグロスの日本軍2万4千のうち、戦闘部隊は2千人のみで、他は輸送や飛行場設営などの非戦闘部隊ばかりだったという。しかし戦闘部隊がどんどん戦死するので、非戦闘部隊からも補充されていった。

武器は貧弱で高射砲が3門あるだけで、あとは重・軽機関銃と迫撃砲、飛行機からはずした機関砲などで、2,000人につき旧式の三八歩兵銃が70丁という情けないものだったという。

一発撃てば、五〇発のお返しがあり、とても手が出せない状態だったという。

小松さんは食用野草の調査を始め、部隊に食用野草の講習会を開催して喜ばれ、後には現地物資利用講習としてカエル、トカゲ、バッタ、燕、ヤマイモ、バナナの芯などの食用にできるものの講義をおこなう。

自活のために芋の栽培も行ったので、そこを希望盆地と名付けた。米軍は日本軍に追われた時に、さらに奥地に自活体制を整え、様々な農産物の畑とりっぱな無線通信設備が残されていたという。

そのうち日本軍の部隊同志で追いはぎ行為が発生し、日本軍同士も警戒しなければならなくなった。ミンダナオ島、ルソン島では人肉食も起こったという。

日本軍兵士は、空襲や砲撃、そして餓死でどんどん倒れていき、死体があちこちに放置され、使える物は何でも取られ、裸に近い死体ばかりだったと。ネグロス島ではマラリア感染は少なかったのが幸いだったが、アメーバー赤痢で衰弱して死ぬ者も多かったという。

8月18日に兵団から「終戦になったらしい」という事が正式に伝えられたが、皆おどろかなかったという。米軍に軍使を送って交渉し、山を下りて9月1日に捕虜収容所に収容された。2万4千人のうち、八千人が戦死、八千人が餓えと病気で死亡し、八千人が生き残った。

米軍の軍用携帯食料Kレイションを食べ、久々に文化の味をあじわったという。米軍がみやげにするといって刀や拳銃をほしがるので、くれてやったと。

捕虜収容所では当初カリフォルニア米とコンビーフの缶詰を配給されたが、人員が増えるので、量が減らされ、栄養失調で死者もでた。持ち物を住民の食料と交換したりして生き延びたという。

収容所長が交代し、日本人を憎んでいた軍人が収容所長になったことも影響していたという。

そのうちネグロスからレイテ島の収容所に移送され、食事や居住待遇も良くなり、長らくつきまとわれたシラミも駆除できた。

11月からは兵隊達が帰国しはじめたが、将校の順番は不明だった。捕虜は米軍の兵舎掃除や建築作業をやらされたが、食事は良かった。

黒人は親切だったという。また米軍は将校と兵隊の区別はなく、将校でも自分の荷物は自分で持っていくが、日本の将校は当番兵に担がせる。

朝鮮人、台湾人は早く帰国したが、彼らの不満は彼らに対する差別待遇であり、感謝されたことは、日本の教育者だったという。

盗みは日本人の間では不道徳だが、米軍から盗んでくるのは美徳とされたという。米軍も捕虜は盗みをするものと寛大に見ていたという。小松さんには方々から酒の密造の相談が寄せられたという。

そのうち演芸会や講演会が開かれ、新聞も10日に一回の割合で出されたという。弾やケースを使って飛行機などの工芸品を作る人もいた。小松さんは掲示板で、何でも相談室のようなことを担当していた。

暴力団がのさばりだして手が付けられなかったが、そのうち全員集合させられ別の場所に送られた。

次に小松さんたちはルソン島の収容所に送られる。カランバン収容所で、ここで山下大将は戦犯として処刑された。最後の言葉は「自分は神に対し、恥ずるところなし」というものだったという。ちなみに収容所はキャンプではなく、ストッケードと呼んでいる。営巣(違反を犯した兵隊を閉じこめておくための場所)のことだ。

本間中将は最後まで米軍を呪って、「今にお前達もこういう目に会う」といい残して銃殺されたという。

小松さんは昭和21年12月に日本に帰国した。帰国が決まってから、もう明治精糖の社員ではないので、事業を始めるアイデアをこの日記に書いている。

なかなか面白いアイデアで、今日でも、これらが実現できたら大変な事業になると思う。

1.家畜飼料製造会社 空中窒素を硫安として固定し、これを酵母に消化させ、タンパク質(人造肉)として飼料化する。

2.海に無尽蔵といわれるプランクトンを集めて家畜の飼料とする。プランクトン採集法は現在研究中だと。

3.マングローブの研究。マングローブは海水から真水を吸収して生きている。この組織の研究をしたら、海水から燃料なしで真水が取れる。

4.シロアリの研究。シロアリの体内のバクテリアは木材繊維を分解して糖化している。工業でやると高圧と酸が必要だが、バクテリアはどちらも不要である。


この日記の中では師団長などの高級軍人では良く書かれている人は稀だが、ネグロス警備隊長の山口大佐は兵をかわいがり、フィリピン人のゲリラも捕まえて東洋人の生きる道を説き、どんな大物でも逃がしてやったという。

バカな「閣下」の命令には決して服さず、敬礼もしなかったと。戦犯取り調べでも自分自身が責任を負い、他に迷惑がかからないようにと言うので、裁判官も検事も人格に打たれ、何とか罪にならないように努力しているという話を紹介している。

小松さんは、国家主義を脱却して、国際主義的高度な文化・道徳を持った人間になっていかねばならない。これが大東亜戦争によって得た唯一の収穫だと思っていると記している。

最後に山本七兵の「『虜人日記』の持つ意味とは」という文が載っている。

小塩節教授のエッセー「ミュンヘンの裏町で」を読むと、ダッハウ収容所では囚人一人につき掛かる費用と、囚人から没収して国庫収益となる資産、金歯及び強制労働による生産、死体から取れる脂代と肥料代まで計算してあって、国にとってプラス(黒字)は2,000マルクと計算した書類があるという。

ドイツは正確に記録を残した。一方日本は記録をすべて棄却した。そんな中で、この「虜人日記」は、「現場にいた人間の現場で書いた記録」という意味で重要であり、他にない資料であると山本氏は評している。

戦争中、戦後の捕虜収容所での生活が挿絵入りで描かれていて、興味深い。

収容所の話というと、歴史家会田雄次さんの「アーロン収容所」が有名だが、「アーロン収容所」とはかなり異なる。やはり豊かな戦勝国米国の捕虜の取り扱いの方が、戦争で疲弊した英国の捕虜の取り扱いより、よほどましだったようだ。

ジャワから帰還した筆者の父は、戦後もオランダ軍の要請で武装解除せず、オランダ人を憎むインドネシア人からオランダ人を守ってやっていたのだと言っていた。

捕虜生活まで「ビルマ地獄、ジャワ極楽、マニラ享楽?」だったようだ。

重い作品だが、読み出すと一気に読める。表現が不謹慎かもしれないが、「面白い」作品だ。そして日本の安全保障についても考えさせられる先人の忠言である。


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2010年12月01日

朝鮮戦争を知らずして今を語るべからず ザ・コールデスト・ウィンター

平成22年12月1日追記:

新聞・テレビなどのマスコミで、朝鮮戦争のことが連日取り上げられている。

しかしどれも断片的だ。

北朝鮮が当初からいかに冒険主義国家だったのか。

金日成はソ連で赤軍将校となったコネもありスターリンの傀儡だったが、一旦破竹の奇襲が跳ね返されたら、毛沢東の陰に隠れて陰の人になりさがったのか。

朝鮮戦争は実は米中戦争だったこと。

ソ連と中国は当時一体で、唯一の核配備国米軍に対峙していたこと。(1949年にソ連は最初の核実験に成功している。中国が核実験に成功したのは1964年のことだ)

などなどが全然伝わってこない。

現状を理解するために。朝鮮戦争を描いたハルバースタムの遺作「コールデスト・ウィンター」を再掲する。



平成22年11月25日初掲:

+++今回のあらすじは長いです+++

北朝鮮が韓国のヨンピョン島を突如砲撃した。まさに朝鮮戦争の勃発の時のように、何の前触れもなく一方的に砲撃をしてきた。

朝鮮戦争がいまだに終戦しておらず、休戦状態にあることを思いしらされる。朝鮮戦争を取り上げたハルバースタムの遺作を紹介する。

ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争 上ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争 上
著者:ディヴィッド・ハルバースタム
販売元:文藝春秋
発売日:2009-10-14
おすすめ度:4.0
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アメリカのジャーナリスト ディヴィド・ハルバースタムの遺作。2007年にこの本を書き上げて、ゲラに手を入れた翌週、ハルバースタムは交通事故で亡くなった。

ハルバースタムの作品は今まで余り読んでいなかったが、会社の友人に勧められて「ザ・コールデスト・ウィンター」、ベトナム戦争を取り上げた「ベスト・アンド・ブライテスト」などを読んだ。

「ザ・コールデスト・ウィンター」は、2009年10月に日本語訳が出版されている。

朝鮮戦争を取り上げた作品に「忘れられた戦争"The Forgotten War"」という本があるが、第2次世界大戦とベトナム戦争に挟まれた朝鮮戦争は、まさに忘れられた戦争という言葉が的を射ているとハルバースタムも評している。

The Forgotten War: America in Korea, 1950-1953The Forgotten War: America in Korea, 1950-1953
著者:Clay Blair
Naval Inst Pr(2003-03-31)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る


筆者の世代は戦後史は試験に出ない(たぶん歴史の評価が定まっていないので、試験に出せない?)ということで、高校の世界史の授業では教科書自習だったので、戦後史については本で学ぶことが多い。

北朝鮮が韓国のヨンピョン島を砲撃したことから朝鮮半島の情勢が緊迫化しており、北朝鮮の指導者も金正日から金正恩(キムジョンウン)に交代することが決定した現状、アメリカ、北朝鮮、韓国、そしてソ連の代理の中国がまともに戦った朝鮮戦争のことを知っておくのも意義があると思う。

朝鮮戦争は1950年6月25日、北朝鮮の精鋭7個師団(約10万人)が3週間で朝鮮半島全土を制圧するもくろみで、韓国に侵入して始まった。

北朝鮮の指導者金日成は、1949年10月の国共内戦での中国共産党の勝利の後は、自分が朝鮮を統一するのだと言って、ソ連のスターリンの支援を受け、中国の国共内戦を人民解放軍と一緒に戦った北朝鮮軍がソ連の武器を使って十分に準備をしての行動だった。

北朝鮮軍は3週間で朝鮮半島を制圧する予定だった

当時の国務長官のディーン・アチソンのミスで、アメリカの当時の防共ラインは日本海に引かれており、韓国には小規模な軍事顧問団しか置いておらず、侵略に対する備えを欠いていた。だから歴戦の勇者の北朝鮮軍は首都ソウルを含む韓国を蹂躙し、8月には韓国軍と米軍顧問団は南の釜山周辺に押し込められ、日本海に追い落とされるのも時間の問題となっていた。

当時はソ連と中国は緊密で、スターリンと毛沢東は朝鮮支援について話しあい、アメリカは参戦しないだろうが、日本が出てきたら中国が参戦するとシナリオを想定した上での金日成の軍事的冒険だった。

このとき北朝鮮軍の先頭で活躍したのが150両のソ連軍のT34/85戦車だ。

800px-Char_T-34






出典:Wikipedia(以下別注ない限りWikipedia)

米軍の持っていた60MMバズーカ砲はT-34に対抗できなかったので、急遽90MMバズーカ砲が大量投入された。ちょうど両方のバズーカが写っている写真がWikipediaに載っていた。90MMに比べると60MMはまるでおもちゃのようだ。

Bazookas_Korea







朝鮮戦争は「歴史から見捨てられた戦争」、「20世紀最悪の胸くそ悪い小戦争」などと呼ばれるが、険しい地形と朝鮮の冬の凍てつく寒さは米軍将兵を悩ませたという。

当時のトルーマン大統領は、北朝鮮が侵略してきた4日後に記者会見で、「戦争ではない。もっとも事実上そういうことにはなるが」と歯切れの悪い表現をし、「国連のもとでの警察行動」と呼んでも良いと答えた。

第二次世界大戦で勝利した米軍は、戦後5年間で定員も装備も足りない軍隊に成り下がり、おまけに朝鮮の険しい地形は工業力の象徴である戦車に頼る軍隊には最悪だったという。

当時の韓国の大統領はハーバードで学位を、プリンストンで博士号を取得して、アメリカに35年間生活してロビーストとして活動していた李承晩だった。

現在でも朝鮮戦争は休戦が成立したままで、依然として戦争は正式には終結していない。停戦までの米軍の死者は3万3千人、10万人以上が負傷した。韓国側の損害は死者41万人、負傷者43万人、北朝鮮・中国の死者は推定で150万人と言われている。

マッカーサーの甘い見込み

マッカーサーは朝鮮戦争勃発当時は日本を民主的な社会につくりかえるのに熱心で、朝鮮には関心を持っていなかった。ちょうど日本を訪問していたアリソンとダレスに、自分の功績を自信満々に説明した。朝鮮戦争も威力偵察に過ぎないだろうと軽くあしらっていた「朝鮮でパニックを起こすいわれはない」。

しかし部下より先にアリソンから大規模な戦闘になっていることを知らされると、翌日はひどく落胆し、今度は「朝鮮全土が失われた」と言っていたという。

マッカーサーはすでに70歳で、パーキンソン病に罹って、集中力の持続時間が限られ、手が震えていたという。

不意を衝かれた米軍(後に国連軍となる)・韓国軍は、圧倒的な武力の北朝鮮軍にすぐに釜山周辺まで押し込まれたが、現地司令官ジョニー・ウォーカーの獅子奮迅の指揮で、なんとか2ヶ月持ちこたえた。

米軍は大砲、迫撃砲がなかったので、バズーカ砲とクワッド50という装甲車に載せた4連マシンガンが有効な武器だったという。

この間マッカーサーは7月に台湾の蒋介石を訪問した。蒋介石を朝鮮戦争に招き入れるかどうか検討していたからだが、トルーマンはマッカーサーの独走をカンカンになって怒ったという。マッカーサーは台湾を「不沈空母」と呼んでいた。


9月の仁川上陸作戦が大成功

マッカーサーがほぼ独断で決めた9月15日の仁川上陸作戦で背後を衝かれて北朝鮮軍は敗走した。毛沢東は仁川上陸を予想していて、軍事参謀を金日成の元に送り注意を喚起したが、金は聞き流したという。

9月15日は仁川がなんと9.6メートルという最大潮位になる日で、これなら上陸用舟艇を長い危険な砂浜でなく岸壁に直接乗り付けられる。この日を逃すと1ヶ月後まで待たなければならないというぎりぎりのタイミングだった。「マッカーサーの生涯に軍事的に天才だったといっていい日が1日あった」と言われるゆえんだ。

国連軍・韓国軍はソウルを回復、10月には38度線を北上して平壌を陥落させた。「いまやマッカーサーを止めることはできない」とメディアは書き、アチソン国務長官はマッカーサーを「仁川の魔法使い」と呼んだ。

10月16日のウェーキ島でのトルーマンとの会見では、中国は駐中国インド大使経由、参戦すると警告を発していたが、マッカーサーは中国軍は決して参戦しないと請け合っていた。もし参戦してもひどい目にあわせてやると。マッカーサーはトルーマンに対して敬礼しなかったが、トルーマンは問題にしない様子だったという。

ワシントン上層部は平壌附近から攻め上がらず、中国軍の参入を招かない腹だったが、マッカーサーはワシントンの制限を無視して、10月末にはついに中国国境の鴨緑江まで攻め上がった。マッカーサーが従うのは、自らの命令だけであると信じられていたのだ。


クリスマスまでには戦争は終わる

得意の絶頂にあるマッカーサーはクリスマスまでに戦争は終わると公言し、朝鮮向けの武器弾薬をハワイに送り返す準備をしていた。

マッカーサーは自分は東洋人の心理を読むエクスパートだと自認していたが、マッカーサーには日本軍の意図と能力を読み違え、第二次世界大戦緒戦でフィリピンから逃げ出した前科があった。

金日成は南朝鮮から敗退するとすぐにソ連軍の支援を求めた。スターリンは初めから戦闘部隊は出さないと決めていたが、中国なら出すかもしれないと答えた。毛沢東は悩んだ末に金日成の援助要請に応じた。

前年12月に中国を統一してモスクワを初めて訪れた毛沢東はモスクワで冷遇された。会食も拒否され、やっとのことでスターリンに会ったが、軍事援助はわずかで、領土問題について譲歩を迫られた。「虎の口から肉を取るようなものだった」という。

これは筆者の推測だが、ソ連への憎悪から毛沢東は北朝鮮を自分の配下に引き入れるチャンスだと思ったのだろう。毛沢東はまずは12個師団(20万人)の大軍を義勇軍として朝鮮半島に派遣した。補給を船に頼らなければならない国連軍に対して、中国なら地の利があるというのが判断理由の一つだった。

スターリンは当初ソ連空軍の支援を約束していたが、結局空軍支援は鴨緑江以北にとどめ、主戦場の鴨緑江以南は支援区域から外した。毛沢東が朝鮮への友愛からではなく、自国の利害から介入したこと、そして中国がいずれ台湾を攻撃する場合には、ソ連の空軍と海軍に依存する他ないことをスターリンは知っていた。

毛沢東は激怒したが、ソ連の上空支援がなくとも参戦を決定した。軍の統制も子ども並みの金日成を「冒険主義者」と中国は軽蔑しきっており、金日成は戦争の責任者ではなくなった。


10月末には中国義勇軍が参戦

そして鴨緑江対岸に集結していた中国軍の大軍は、国連軍と韓国軍の補給線が伸びきるまで待って10月末に一挙に鴨緑江を超えて攻め込んだ。

当初、マッカーサー司令部G-2情報局のウィロビーは、鴨緑江に中国軍が集結しているという情報を取り合わなかった。マッカーサー信奉者のウィロビーは、マッカーサーの言葉を信じて中国軍が参戦するとは予想していなかったのだ。

この本では中国軍との戦闘に参加したアメリカ兵の実話を多く載せており、広がりと臨場感がある読み物になっている。ソ連製武器と、以前蒋介石に送ったアメリカの武器で中国軍に攻撃され、味方がどんどん倒れていく最前線の戦いが生々しく200ページ余りにわたって詳細に描かれている。

この実話の部分がハルバースタムが、休戦から55年も経ってから朝鮮戦争のことを書いた理由だ。様々な人から貴重な体験談を聞いたので、「書かねば死ねない」のだと。

しかしマッカーサー司令部のウィロビーはアメリカ軍の苦戦を信じなかった。そればかりか11月6日に朝鮮戦争は平壌北で敵の奇襲攻撃を撃退し、事実上終結したと声明を発表した。

マッカーサーは生涯を通じてアジアと関わったにもかかわらず、アジア人を知らず、軍司令官として「汝の敵を知れ」という基本中の基本も学んでいなかった。日本との戦いは工業国同志の戦いで、日本の産業基盤が限界となったのに対して、中国は最も工業化が遅れた国で、自分の弱点を理解してそれに応じた戦術を編み出していた。

日本では絶対的な権力を握っていたマッカーサーのとりまきNo. 1のウィロビーも酷評されている。ウィロビーはスペインのフランコ総統のファンで、従軍中にフランコの伝記を書いており、マッカーサーからは「愛すべきファシスト」と呼ばれていたという。

最前線の第8騎兵連隊の報道官は「カスター将軍を見舞った悲劇と同じだ」と語っていたという。

「勝利のワインが酢になり、マッカーサーは『空からの援護もなく、戦車もなく、大砲もほとんどなく、近代的通信設備も兵站基地もない中国人洗濯屋』にまんまと出し抜かれた」のだ。


12月初めには「鉄のおっぱい」リッジウェイ将軍が着任

12月初めにはマッカーサーの軍隊は全面退却していた。12月末にはマット・リッジウェイが第8軍の司令官としてワシントンの統合参謀本部から着任した。リッジウェイは頑固で、ユーモアがなく、攻撃的だったが、冷徹な現実主義者だった。

リッジウェイはノルマンディー上陸作戦時の空挺部隊指揮官であり、一時ウェストポイントの教官だったことから、軍に教え子が多くいた。マッカーサー同様神話の重要性を知っており、彼のあだ名は「鉄のおっぱい」(old iron tits)というものだった。いつも胸に二つの手榴弾をぶら下げていたからだ。マット・リッジウェイはつねに戦う姿勢にあるということだ。

着任前の12月26日に東京のマッカーサーに挨拶に行ったリッジウェーは、マッカーサーから「第8軍は君に任せる。いちばんよいと思うやり方でやってくれ」と言われた。この言葉でいままで東京がすべて動かしていたが、これからはリッジウェイが指揮をとることがはっきりした。

マッカーサーは面談の1時間半をすべて持論に費やしたという。マッカーサーは共産中国と全面戦争をやりたがっていた。「中国は南部が開けっ放しの状態だ」。

朝鮮では一泊もしたことのないというマッカーサーに対して、徹底した現場主義者のリッジウェイは小型機で戦場を飛び回り、地図に敵軍の旗があるのは48時間以内に接触した場合のみに限った。偵察、敵を知るのが最重要なことを現場に徹底された。


マッカーサーの米国政府批判

マッカーサーは政府批判を始めた。マッカーサーが中国軍を緊急追跡し、満州内の基地を爆撃しようとしたにもかかわらず、ワシントンが許さなかった。「歴史に前例のない莫大な軍事的ハンディキャップ」を負わされたと主張したのだ。

トルーマンは激怒した。事実上終わったと思っていた戦争が拡大したばかりか、その司令官が政府にとって巨大な敵となって敗北の責任を政府におおいかぶせてきたのだ。トルーマンは「核兵器の使用も含めてすべての兵器の使用は司令官が責任を持つ」と失言してしまい批判をあびる。

毛沢東もマッカーサーのように成功に酔っていた。現場指揮官の彭徳懐は冬が来るのに補給も途絶えがちで、ズック靴の中国兵では朝鮮の厳しい冬は戦えないので、春まで攻勢を待つことを訴える。しかしソ連と金日成の圧力もあり、毛沢東は共産主義の勝利を世界に知らしめるために追撃を命令する。

リッジウェイはソウル放棄を決断したので、中国軍は1月にはソウルを再占領した。ソウルから退却して体勢を立て直した国連軍は、韓国のちょうど真ん中付近の原州附近の双子トンネルや砥平里(チピョンニ)などで空軍の支援も受けて中国軍を迎撃した。

国連軍が多大な犠牲を出し、後に「殺戮の谷」(Massacre Valley)と呼ばれることになるこの激戦の模様が、この本では克明に記されている。

当時の米軍は人種差別をしており、黒人は黒人だけの部隊編成をしていた。トルーマンやリッジウェーは人種差別を撤廃しようとしていたが、第10軍司令官でマッカーサー側近のネド・アーモンドは、黒人を蔑視しており、「灰やゴミ」と一緒だと言って、白人部隊に3人ずつ黒人兵を配置した部下の指揮官を罰した。

アーモンドは中国人を「洗濯屋」と呼んで蔑視しており、中国軍について研究することを一切しなかったので、部隊間の情報交換はなかった。それがためアーモンドが立案した「ラウンドアップ作戦」で、多大な犠牲を被ることになった。国連軍を包囲していた中国軍は道の先頭のトラックを攻撃し、立ち往生した国連軍トラック120台と多くの大砲を手に入れた。

2月には中国軍はさらに進撃し、原州に近づくが、それを察知した偵察機からの情報で、迎え撃つ国連軍の130MM砲数門、155MM砲30門、105MM砲100門という大量の大砲の餌食となり、空からはナパーム弾の直撃を受けた。

リッジウェーは長距離砲を中心とした戦略で、圧倒的多数の中国軍との「人口問題」を解決しようとしていたのだ。中国軍の重火器は空軍力でたたき、「肉挽き機」のように戦うのだと。

朝鮮の中部回廊地区だけで中国軍の死傷者は20万人にも達した。これが戦闘の転機となり、中国軍の進撃はストップした。

F86セイバー戦闘機が共産軍のミグ15との空中戦で優位に立ったのはこのときだ。



マッカーサー解任

リッジウェイの成功で、マッカーサーのプライドが傷ついた。リッジウェイの作戦を、ひいては攻める「アコーデオン戦争」と呼び、依然として中国との全面戦争を主張し、トルーマン政権攻撃をエスカレートさせた。

戦線を北緯38度線まで押し戻せれば、共産主義を食い止めたということで、国連軍の勝利だと主張するリッジウェイに対し、マッカーサーは自分なら同じ戦力で、中国軍を鴨緑江の向こう側に押し返せると明言し、東京駐在の各国の外交官に伝えていることが、外交通信傍受でわかった。

これは明らかな軍の文民統制に対する違反であるとトルーマンは判断し、4月11日にマッカーサーを解任した。マッカーサー自身への通告の前にラジオが放送するという不手際だった。

タイム誌は「これほど不人気な人物がこれほど人気のある人物を解任したのははじめてだ」と書いた。リチャード・ニクソンはマッカーサーの即時復職を要求した。日本では25万人がマッカーサーを見送るために街頭に列を成し、ニューヨークでは700万人がパレードに繰り出したという。

「老兵は死なず。ただ消え去るのみ」マッカーサーの上院での退任演説での有名な言葉だ。しかし上院聴聞会は3日間続き、マッカーサーは中国軍は参戦しないと確信していたことを認め、ヨーロッパのことは発言を回避するなど、日に日に小さくなっていった。油断から判断を間違えた司令官というイメージが定着していった。


戦線の膠着と和平交渉

朝鮮での戦争は1951年春中国が30万人の兵力を投入し、大攻勢を掛けたが、成果を上げられなかった。1951年7月和平交渉が開城、次に板門店で始まったが、交渉は遅々として進まなかった。

1952年の大統領選挙でアイゼンハワーが勝利し、翌1953年3月にスターリンが死ぬと、戦闘は続いていたが、アメリカと中国は解決策を探り1953年7月27日に休戦合意が成立した。

その後金日成は、朝鮮戦争をまるで一人で戦ったような話をでっち上げ、平壌の朝鮮戦争記念館を訪れた中国人は、その展示を見て激怒するという。金日成は核兵器を開発することと、息子を後継者にすることを目標とし、国内の工業生産も国民の飢え死にも気にしなかった。金日成は死に、金正日が後を継ぎ、そして金正恩がその路線を継ぐことになる。


登場人物の描写

金日成の経歴が紹介されている。金日成は朝鮮生まれだが、両親と共に満州に移住し、抗日運動に属した後、ソ連で赤軍将校となりスターリンのあやつり人形として1945年10月に平壌で朝鮮デビューした。スターリン死後もスターリン主義者であり続け、統治を確実なものにするための個人崇拝の必要を悟ったことなどが紹介されている。

マッカーサーの記述も面白い。

アイゼンハワーはマッカーサーの副官としてワシントンとマニラで一緒に勤務していたので、マッカーサーの手の内を知り尽くしていた。アイクは「わたしはワシントンで5年、フィリピンで4年、彼の下で演技を学びました」と答えていたという。

マッカーサーより「上級」なのは神しかおらず、生涯「自分より劣る人間がつくったルールは自分には適用されないという前提で」行動したという。「マッカーサーは語る。だが聞かない」。

タイム誌のオーナー、ヘンリー・ルースはチャイナロビーと結びついており、蒋介石をタイム誌の表紙にたびたび載せる一方、マッカーサーを賛美しており、マッカーサーも蒋介石に次ぐ7回タイムの表紙に登場したという。

マッカーサーは1918年に最年少で将軍になっており、それから30年間も将軍として君臨して、とりまきにお追従を言われ続けた。マッカーサーは毎日人に会う前に演技の練習をしていたという。

念入りにリハーサルを行っていながら、あたかも即興のようにみせ、天性の独白役者で、演技には寸分の狂いもなかったとハルバースタムは評している。この本ではマッカーサーの父親や、マッカーサーをマザコンにした母ピンキー・マッカーサーのことも説明していて面白い。

マッカーサーが母親に相談なく最初の結婚をしたときに、母は結婚式に出席せず、寝込んでしまい、結局、最初の結婚は長続きしなかったという。マッカーサーの二番目の妻のジーンは母親が選んだ相手で、自宅ではマッカーサーのことを1"Sir, Boss"と呼んでいたという。

マッカーサーはフランクリン・ルーズベルトを嫌っており、ルーズベルトが病気で死去したときには、「ルーズベルトは死んだか。うそが自分に役立つときは真実は決して話さない男だった」とコメントしたという。もっとも、ルーズベルトも「マッカーサーは使うべきで、信頼すべきでない」とコメントしていたという。

マッカーサーは1944年、1948年の大統領選挙に共和党の大統領候補として出馬しているが、いずれも惨敗している。

トルーマンとの関係も悪かった。トルーマンはマッカーサーのことを「あのプリマドンナの高級将校」と呼び、マッカーサーはトルーマンほど大統領としての適性を欠く者はいないと考えていた。大学も出ておらず「あのホワイトハウスのユダヤ人」と言っていたという。

1949年秋にアメリカの原爆独占は終わり、ソ連が原爆を開発した。

それまで親米だった蒋介石の中華民国が毛沢東の中国共産党に敗退し、1949年1月には蒋介石が台湾に移り、4月に南京が陥落し、国共内戦にけりがついた。

中国に於ける米国軍事顧問団の代表だったジョセフ・スティルウェル将軍は、1942年の段階で、蒋介石は全く役に立たず、能力はあっても抗日戦に軍を使う気がないとレポートしていたが、ルーズベルトは蒋介石に圧力を掛けすぎて日本との単独講和に走らせないようにとの配慮から放っておいた。

その結果「アメリカ人に訓練され、アメリカ製装備で武装したほぼすべての師団が、一発も発砲しないで共産軍に降伏して」中国は共産化し、米国では「誰が中国を失ったのか?」と政治問題化した。

この辺の事情はバーバラ・タックマンの「失敗したアメリカの中国政策」に詳しい。こちらも今度あらすじを紹介する。

失敗したアメリカの中国政策―ビルマ戦線のスティルウェル将軍失敗したアメリカの中国政策―ビルマ戦線のスティルウェル将軍
著者:バーバラ・W. タックマン
朝日新聞社(1996-02)
販売元:Amazon.co.jp
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恥ずかしながら、朝鮮戦争については断片的にしか知らなかったので、この本は大変参考になった。

北朝鮮は朝鮮戦争をしかけた金日成の時から「冒険主義者」である。今度のヨンピョン島砲撃も冒険主義者的な動きだと思う。アメリカ・韓国軍と正面切って戦争をやるだけの軍事力も根性もないと思うが、全く危険な隣人である。

緊迫する朝鮮情勢を考える上で、朝鮮戦争のことを知ることは有意義だと思う。一度手にとってみることをおすすめする。


参考になれば投票ボタンをクリック願いたい。




  
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2010年07月22日

西部戦線異状なし こちらのパウル君の運命は?

西部戦線異状なし (新潮文庫)西部戦線異状なし (新潮文庫)
著者:レマルク
販売元:新潮社
発売日:1955-09
おすすめ度:5.0
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以前紹介したバーバラ・タックマンの「8月の砲声」や「決定的瞬間」を読んだので、第一次世界大戦を描いたレマルクの「西部戦線異状なし」を読んでみた。

八月の砲声 上 (ちくま学芸文庫)八月の砲声 上 (ちくま学芸文庫)
著者:バーバラ・W・タックマン
販売元:筑摩書房
発売日:2004-07-08
おすすめ度:4.0
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「8月の砲声」は各国の王家は姻戚関係でつながっていながらも、サラエボ事件という突発事件からヨーロッパ全体が戦争に巻き込まれる過程を描いたもので、いわばマクロの歴史だ。

それに対して、レマルクの「西部戦線異状なし」は、18歳で仲間20人と一緒に志願したドイツ歩兵のパウル君が体験する塹壕戦での殺し合い、毒ガス、仲間が一人二人と減っていく様、つかの間の休暇での帰郷、ふたたび戦場に戻り負傷して病院に収容されたことなどを描いたミクロの歴史だ。

レマルク自身パウルという名前で、中学生で第1次世界大戦に志願した経験を持つので、この小説はレマルク自身の体験に基づくものだ。

タコのパウル君はワールドカップの占いを的中させて大人気になって、今は占いから引退したらしいが、こちらのパウル君は3年間も戦場で戦う。悲惨な殺し合いを通して新兵が古強者になっていく過程を描いている。

第1次世界大戦は、最初ドイツがフランス領に攻め込むが、4年近くも戦線が膠着し、「奇妙な戦争」といわれている。しかし、膠着しているように見えても、最前線では砲弾が飛び交い、そして仲間が一人二人と死んでいく戦場のありさまが、この本ではリアルに描かれている。

実は恥ずかしながら筆者はレマルクは、名前がフランスっぽいので、フランス人だとばかり思っていたが、実はドイツ人作家だ。

この作品は第一次世界大戦が終わってから11年後の1929年に発表され、それまで無名だったレマルクを一気に有名にした。

しかし戦争の悲惨さを余すところなく描く内容が反戦的だとして、後にドイツの権力を握るナチスに目を付けられ、ついにはレマルクはアメリカに亡命する。

日本語訳者の秦豊吉さんまでもが、日本の憲兵に呼び出されたが、秩父宮や高松宮のコネクションで事なきを得たという。

いつもどおり小説のあらすじは詳しく紹介しない。第一次世界大戦の話だが、第2次世界大戦のときの日本兵も、たぶん同じように食糧不足としらみや病気に悩まされて、多くが亡くなったのだろうと思わせる内容だ。

休暇を取って帰郷すると、お母さんに「お前にこれだけは言っときたいと思ってたんだよ。フランスへ行ったら、女にはようく気をおつけよ。フランスの女というものは、みんな性(たち)が良くないからね」と言われる。

筆者が24歳でアルゼンチンに研修生で行ったときに、筆者の母親に言われた言葉を思い出させる。

やはり息子を外国に送る母親の心配はどこでも同じなのだろう。

この小説の最後はあの有名な言葉で終わる。

「ここまで書いてきた志願兵パウル・ボイメル君も、ついに1918年10月に戦死した。その日は全戦線にわたって、きわめて穏やかで静かで、司令部報告は「西部戦線異状なし、報告すべき件なし」という文句に尽きているくらいであった。(後略)」

やはり名作はいい。

そして映画も名作だ。

西部戦線異状なし 完全オリジナル版 【ザ・ベスト・ライブラリー1500円:2009第1弾】 [DVD]西部戦線異状なし 完全オリジナル版 【ザ・ベスト・ライブラリー1500円:2009第1弾】 [DVD]
出演:リュー・エアーズ、ルイス・ウォルハイム。ジョン・レイ、ベン・アレクサンダー
販売元:ジェネオン・ユニバーサル
発売日:2009-08-05
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夏休みの読書あるいは映画鑑賞に是非おすすめしたい名作である。


参考になれば投票ボタンをクリックして頂きたい。




  
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2010年07月02日

決定的瞬間 アメリカの第1次世界大戦参戦を決定づけたドイツ外相の電報

決定的瞬間―暗号が世界を変えた (ちくま学芸文庫)決定的瞬間―暗号が世界を変えた (ちくま学芸文庫)
著者:バーバラ・W. タックマン
販売元:筑摩書房
発売日:2008-07-09
おすすめ度:4.0
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1963年にピューリッツアー賞を受賞したジャーナリスト、バーバラ・タックマンの第1次世界大戦開戦前後を描いた「8月の砲声」の姉妹作。会社の友人に勧められて読んでみた。

八月の砲声 上 (ちくま学芸文庫)八月の砲声 上 (ちくま学芸文庫)
著者:バーバラ・W・タックマン
販売元:筑摩書房
発売日:2004-07-08
おすすめ度:4.0
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「八月の砲声」では、セルビア人がオーストリア皇太子を暗殺したサラエボ事件をきっかけに、当時のイギリス、ドイツ、ロシアなどヨーロッパ各国の王室は姻戚関係にあったにもかかわらず、自国のエゴで第1次世界大戦に巻き込まれていった過程を詳しく描いている。

高校の世界史では第一次世界大戦については、ほとんど勉強しなかったので、いままでサラエボ事件がなぜドイツとロシア+フランス/イギリス連合軍の戦争に繋がるのか理解しないままでいたが、「八月の砲声」で理解できたので、別途あらすじを紹介する。

第一次世界大戦は始まってすぐにドイツ軍がバリ郊外まで侵攻しながら、マルスの戦い以降、四年間も続く塹壕戦となったという奇妙な戦争だ。

「決定的瞬間」では、膠着する第一次世界大戦の趨勢を決めたアメリカの参戦を決定づけたドイツ外相ツィンメルマンの電報が題材として取り上げられている。

第一次大戦当時からドイツの外交電報がイギリスによって解読されていたことは、長い間秘密にされ、第一次世界大戦開戦から90年以上経った2005年に、やっとイギリス公文書館が史料を公開された。このツィンメルマン電報もイギリスによって解読されていたことが明らかになった。

ドイツのエニグマ暗号をイギリスが解読したことが、第二次世界大戦の終わりを2−3年早めたと言われているが、イギリスは既に第一次世界大戦の時からドイツの暗号を解読していたのだ。

日本の暗号もイギリスやアメリカに解読されていたことは、今や周知の事実だが、イギリスのインテリジェンスに対する力の入れようが、この本を読んでもよく分かる。

それにしても第一次大戦中の1917年1月に、ドイツの外相がメキシコ駐在ドイツ大使に対して、メキシコ大統領に対米戦争の参加を呼びかけ、なおかつ日本にも対米戦争に参加するように口をきいてくれと依頼せよと電報を出したとは信じられない事実である。

ツィンメルマン電報の内容は次の通りだ。

「2月1日からドイツは無差別潜水艦攻撃を開始する。

アメリカが中立を保つようにドイツは努力するが、もしアメリカが参戦してきた場合には、ドイツはメキシコと同盟を結んでアメリカと戦いたい。

メキシコの対米参戦の代償は、テキサス、ニューメキシコ、アリゾナの領土回復である。

またメキシコ大統領から日本に対しても、アメリカに参戦するように仲介して欲しい。

無差別潜水艦攻撃を開始すれば、イギリスは数ヶ月で和平に応じるだろう。」


この電報はイギリスの海軍諜報部で解読されたが、すぐにはアメリカには渡されなかった。

ドイツが1917年2月から無差別潜水艦攻撃を開始すると宣言していたので、アメリカが憤って参戦すれば、そのままツィンメルマン電報は日の目を見ない運命だった。

しかしアメリカは参戦決定しなかったので、イギリスはツィンメルマン電報のコピーをスパイが入手して、それをアメリカ大使に渡した。

こうすればイギリスがドイツの電報を解読していたことは隠しておけるからだ。

アメリカ大統領ウィルソンは電報内容に憤慨し、通信社に情報を流し、1917年3月1日の世界の主要新聞にツィンメルマン電報が公表される。

当初アメリカのメディアはこの情報の信憑性を疑問視していたが、本人のツィンメルマンが3月3日に電報は本物であるとあっさり認める大失態を犯した。

ドイツがメキシコと日本をそそのかして、米国に戦争をしかけようと画策していたことにアメリカの世論は衝撃を受けた。

ウィルソン大統領は中立を撤回して、1917年4月の歴史的議会演説とともに、ドイツを「自由に対する天敵」と呼んで、議会の承認を得て第一次世界大戦に参戦したのだ。

実は日本は第一次世界大戦では、連合国のなかでは開戦後、最もすばやく動いた国だ。

開戦後三ヶ月の1914年11月までにドイツの青島租借地、ヤップ、トラック、マーシャル、カロリナなどのドイツ領の島々などを占領していた。

まさに帝国主義的領土拡大に積極的に動き、1915年1月には対華21ヶ条の要求を突きつけている。

このブログでも紹介した関榮次さんの「日英同盟」にも書かれている通り、日本は一九一七年に地中海に艦隊を派遣し、ドイツ・オーストリア帝国の潜水艦と闘って、駆逐艦大破という被害も被っている。

日英同盟―日本外交の栄光と凋落日英同盟―日本外交の栄光と凋落
著者:関 栄次
販売元:学習研究社
発売日:2003-03
おすすめ度:4.0
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連合国側でドイツ領土を占領していた日本に、対米参戦してくれとメキシコ大統領に仲介を呼びかけるというのは、ドイツ外相のセンスを疑う一面もある。

しかしアメリカ、特にカリフォルニア州は日本人移民をターゲットに学童差別や土地所有の禁止などで日系人を排斥しており、それの不満が日本側にあることに目を付けた行動でもある。

事実日本はメキシコと艦隊の親善派遣や軍事交流などで親密化していたという。

このツィンメルマン電報が公表されて以来、日本に対する警戒感がアメリカ人の心に深く刻み込まれたのかもしれない。

日本は1918年の第一次世界大戦のパリ講和会議で、世界ではじめて人種差別撤廃を訴え、16票中11票の賛成を獲得し、そのまま成立すると思われていた。

しかしアメリカ大統領ウィルソンが猛反対し、それまで多数決で決められていた議決を、重要事項は全会一致が必要とルールを変えて否決したのだ。

アメリカの人種差別が南部を中心に1960年代まで残っていたことを思えば、ウィルソンの反対は当然かもしれない。

テレビドラマ「コンバット」などでは、アメリカ軍の白人兵と黒人兵が一緒に戦っているシーンが出てくるが、あれは作り話で、実際には黒人兵は黒人兵だけで部隊編成されていた。



これも会社の友人の勧めで読んだディヴィット・ハルバースタムの「ザ・コールデスト・ウィンター 朝鮮戦争」でも、朝鮮戦争の時も同様に人種別編成だったことが紹介されていた。

ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争 上ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争 上
著者:ディヴィッド・ハルバースタム
販売元:文藝春秋
発売日:2009-10-14
おすすめ度:4.0
クチコミを見る


閑話休題。

1924年には排日移民法も成立し、アメリカは日本との対立を深めていく。

日本に対する不信感をアメリカ人に植え付けたツィンメルマン電報が、1941年の日米開戦の遠因となったとも言えなくもないかもしれない。

「八月の砲声」といい、「決定的瞬間」といい、あまり知られていない第一次世界大戦の時の事実がわかり、大変興味深い。

第二次世界大戦の戦史や歴史なら読んだ人が多いと思うが、第一次世界大戦の歴史も知っておくと、第一次世界大戦が次の大戦にどのように影響したのかが理解できて面白い。

特に歴史好きの人にはおすすめの二冊である。


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2009年12月12日

核の脅威と無防備国家日本 防衛省元制服組の核武装論

核の脅威と無防備国家日本―日本人は核とどう向きあうのか核の脅威と無防備国家日本―日本人は核とどう向きあうのか
著者:矢野 義昭
販売元:光人社
発売日:2009-11
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図書館の新刊書コーナーに置いてあったので読んでみた。今年12月に出たばかりの本だ。

著者の矢野義昭さんは、昭和25年生まれの元陸将補で、平成18年に陸上自衛隊の小平学校副校長をもって退官し、現在は拓殖大学大学院で安全保障を研究しているという。

矢野さんは世界の核保有国の動向、特に中国やロシアの核兵器強化の動きを取り上げ、米国の核の傘がいざとなったときに本当に頼れるのか疑問を投げかける。


矢野さんの描く核武装後のバラ色の日本の未来

そして日本を取り巻く核保有国の現状とミサイル防御(MD)システムの限界、北朝鮮の核武装、核保有による抑止力効果などを説明し、元制服組として国を守る使命から、憲法では認められていない「集団的自衛権」を容認し、国際核管理体制の構築が望ましいと語る。

しかし国際的な核管理には時間が掛かるだろうから、まずは日本は核保有をすべきだと。

「被爆国の日本が、かりに自衛のために核を保有したとしても、どの国もそれを道義的に責めることはできないはずである。また、日本の立場に、理解を示す国も出てくるかもしれない。」

また防衛予算上も核兵器の方が安くつくので、今後の日本の少子高齢化と財政事情を考慮した場合、中国・ロシア・核を持つ統一朝鮮と通常兵力のみで拮抗させるのは不可能なので、費用対効果上も核保有は効率的な防衛手段であると。

潜水艦搭載巡航ミサイルと地上配備ICBMの組み合わせで2兆円、核巡航ミサイルだけなら1兆円、運用経費は1兆円という見方があるという。

日本が核を保有し、地域的な核均衡が維持されれば、米軍縮小も可能で、日本の国際的な威信と外交交渉力が高まり、長年の懸案であった国連安保理の常任理事国入り、領土問題解決に前進が見られるだろう。

日本の国家としての危機対処力への内外の信頼が高まり、邦人拉致なども減少。

日本の経済力も軍事的な実力を背景とすることから、国際的な信頼度がたかまり、日本との自由貿易協定を希望する国も増え、円は基軸通貨の一角を占めるようになり、通商摩擦でもより強く国益を主張できる。

科学技術でも核兵器技術が国家的先端技術力の一分野となり、原子力の民生利用、宇宙開発、海洋開発などの国家プロジェクト推進の基盤がより強固となり、好影響を与える。自立的な核燃料サイクルも確立する。

まったくテレビの”太田総理”のマニフェストの様である。「こうして日本は平和になった…。」


生命よりも大切なもの

矢野さんは、「個々人の生命を危険にさらしても守るべき共通の価値がある」という。矢野さんの結論を引用すると。

「核保有は国家の主権護持の意思と能力の象徴である。

究極的には自国みずからの意志決定にもとづき運用すべきものであり、同盟国であっても核作戦指揮権限は本来、委譲すべきものではない。

その意味では、核共有にも限界があり、同盟も永遠ではなく安全保障を全面的に依存できるものではない。

最終的な力の拠り所となる核戦力については、種々制約があるなかでも、いざというときに最大限に自主独立性をもって行使できる体制をめざし、可能なすべての努力を傾注すべきである。」


現在の世界の核配備状況

整理の意味でSIPRI(ストックホルム国際平和研究所) Year Bookによる世界で配備されている核弾頭数を次に記す。

     2006年         2009年
米国  約1万発         2,702発
ロシア 約1万6千発       4,834発
中国    130発         186発
英国    185発         160発
フランス  348発         300発
インド   110発          60〜70発
パキスタン 110発          60発
北朝鮮    10発          不明
イスラエル  60〜85発       80発

2009年には各国の削減が進んで、米国とロシアは2006年の数字の1/4強にまで削減している。

このほかに戦術核弾頭が米国で500発、ロシアで5〜6,000発、ミサイルからはずされて備蓄している核弾頭が米国で予備弾頭も入れて6,000発、ロシアで1万発、核弾頭解体後に残されたプルトニウムの弾芯が、米国で1万4千個、ロシアでも同数以上保管されているという。

配備された核兵器は削減しても、米国・ロシアともに、いざとなったら核攻撃能力はすぐに復活できる体制にあるのだ。


参考になった情報

結論には全く賛成できないが、参考になった情報を箇条書きで紹介しておく。

★2005年に中国国防大学防務学院長朱成虎少将が、米軍が攻撃してきた場合、中国は核兵器を使用する。米国は西岸の100から200の都市が破壊されることを覚悟すべきだと恫喝している。

(筆者コメント:この種の発言をする中国軍人はいつの時代でも必ずいる。軍人の本音だろうが、検閲されているとはいえインターネットで情報を収集し、自由化に慣れた中国国民が米国との全面核戦争を臨むかは疑問だ)

★中国の軍事的台頭により、いずれ米国の核の傘も機能しない時がくる。

★米国では2002年からRRW(Reliable Replacable Warhead=信頼性のある交換可能な弾頭)計画を進めてきた。核弾頭配備は削減するが、核弾頭備蓄は続けるというものだ。

ロシアの2007年の国防予算は311億ドルで、アメリカの5,000億ドルに比べて圧倒的に少ないので、新型戦術核ミサイルなどの少数精鋭兵器に力を入れている。新型の路上移動、潜水艦搭載型のICBMSS−27 トーポリMは慣性誘導弾でなく、軌道を修正できる機動型弾頭だ。

★現在の迎撃ミサイルによるミサイル防衛システム(MD)は慣性運動体のみを対象としており、ロシアのトーポリMなどの非慣性誘導弾は簡単に回避できる。またおとりミサイルやおとり弾頭で簡単に対策ができる。

★レーザーによるミサイル防衛システムができれば、確実にミサイルを破壊できるが、多大な研究開発費が必要で、開発にはめどが立っていない。

★イギリスは核弾頭と原子力潜水艦を自国でつくり、ミサイルだけ米国から購入している。米国に一部依存しながらも自前の核戦力を持つ。

★フランスはドゴール時代の対米不信から核兵器を自前で開発し、1966年からはNATOの軍事機構を脱退していた。2009年サルコジ大統領がNATOへの完全復帰を宣言し、ドイツとの核兵器の共同保有を提案しているが、ドイツのメルケル首相は拒否したという。

★ドイツ、イタリア、カナダ、オランダ、ベルギー、ギリシャ、トルコの7カ国(のちにカナダとギリシャが脱退)は非核保有国ながら、米国と核兵器のニュークリア・シェアリングを行っている。これは戦闘爆撃機に搭載する20発の核爆弾のみであり、平時には米軍の管理下で、有事には米国大統領の命令に基づき、核爆弾のhandling overを行うというものだ。


筆者の意見

この本の結論には全く賛同できないが、資料としては参考になった。

田母神さんの本を読んで、ニュークリアシェアリングに興味を持っていたが、現実的ではないことがこの本でよくわかった。また日本として核武装は決して取るべき道ではないことを強く感じた。

またそもそも核爆弾はそんな簡単に作れるわけではないことは、以前「日本は原子爆弾をつくれるのか」で紹介した通りだ。

日本の強みは資源ではない。勤勉な国民と工業力、つまり無形資産だ。

いかなる国が日本を核攻撃して占領しても、日本の無形資産を破壊してしまった後では全く意味が無いだろう。やはり日本は被爆国として今までの方針を堅持して、世界の核廃絶を呼びかけるべきだろう。

オバマ大統領登場で核廃絶の流れは変わった。もちろん世界から核廃絶がそう簡単にできるとは誰も思っていない。しかし一歩を踏み出すことが重要なのだ。だからオバマ大統領が昨日12月10日ノーベル平和賞を受賞したのだ。

世界で唯一の被爆国である日本が、堂々と核廃絶を国是として世界に訴えることが、世界から信頼と尊敬を得る正攻法ではないかと強く感じた。それこそ国連安保理事会の常任理事国になるための、日本ならではの主張ではないか。

退役自衛官だから書けた、一部の(たぶん少数だと思うが)自衛官の本音なのかもしれない。

冒頭に紹介したバラ色の未来の様なスキだらけの議論で、あまりおすすめできない本だが、反面教師として自らの考えをまとめるには役に立つと思う。


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2009年12月08日

写真で読む「坂の上の雲」の時代 あらためて日露戦争を研究する

写真で読む「坂の上の雲」の時代写真で読む「坂の上の雲」の時代
著者:近現代史料編纂会
販売元:世界文化社
発売日:2009-11-11
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「坂の上の雲」で取り上げられている日清戦争、日露戦争の歴史を写真や資料で振り返る本。今年11月に発売されたばかりだ。

NHKでこれから3年をかけて「坂の上の雲」が放送されるので読んでみた。



坂の上の雲〈1〉 (文春文庫)坂の上の雲〈1〉 (文春文庫)
著者:司馬 遼太郎
販売元:文藝春秋
発売日:1999-01
おすすめ度:4.5
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「坂の上の雲」は、経営者が推薦する図書のランキングには必ず入っている本で、筆者は20年ほど前に読んだ。結婚の時に家内が持ってきた本の中にあったのだが、昔読んだ時はその壮大なドラマに夢中になって読んだものだ。

この本では、日本の李氏朝鮮への侵略野望、台湾出兵、日清戦争、三国干渉、そして日露戦争という一連の流れをビジュアルに紹介している。

日露戦争の有名な戦闘の鴨緑江渡河作戦、金州・南山の戦い、遼陽会戦、旅順港封鎖作戦、旅順攻略戦、奉天会戦、そして日本海海戦の両軍の配置図、戦闘の流れ、使われた兵器、戦死者・戦病死者数などを詳しく解説している。

その他、陸軍と海軍それぞれの「軍神」誕生の背景や、世界から賞賛された沈没したロシア軍軍艦からのロシア兵救出の人道的活動など様々な逸話を紹介している。


舞台は中国遼寧省

筆者は、米国駐在の時に中国から原料を輸入していたので、日露戦争の舞台になった大連や遼陽などのある遼寧省は何度も訪問した。

最初に訪問したのは1986年の冬だ。真冬に旧満州に行くので、相当寒いと予想して行ったら、雪がないので拍子抜けした。寒いことは寒いが、建物から一歩出たら、凍るような寒さという訳ではなかった。

遼陽附近は世界でも有数の天然マグネサイトの産地で、日露戦争の戦場となった大石橋や海城などは有名なマグネサイトの鉱山だ。

営口には中国と日本の合弁の工場もあり、そこも何度も訪問したが、この本を読むまでは、大石橋や海城、営口が日露戦争の時に戦場となっていたことは知らなかった。全く恥ずかしい限りだ。

今もあるのかどうかわからないが、旧満州鉄道の主要駅沿いには旧大和(ヤマト)ホテルがあり、遼陽の大和ホテルで一泊した。昔風の装飾の立派なホテルだが、部屋数がたしか数十部屋しかないので、今のスタンダードからするとブティックホテルのような感じだ。

二度目の米国駐在の時の1998年〜2000年に行った時は、大連から高速道路が出来ていたが、最初行った1986年には大連から旧満州鉄道沿いに高い並木の街道があり、片側一車線だった。

対向車が来ている中で、中国人の運転手がどんどん前の車を追い越すので、生きた心地はしなかった覚えがある。

この本によると旅順が観光客に公開されるようになったのは1996年だそうだが、筆者は旅順は行ったことがない。旅順が中国海軍の軍港だから、中国人も自由には旅順には行けないと聞いた記憶がある。

最初に行った1980年代後半は、商業港の大連港や大連空港でも写真撮影は禁止されていたものだ。

閑話休題。


旅順攻防戦と日本海海戦

この本の最初のグラビアでは日本海海戦の写真や絵、戦艦三笠の構造図や日露戦艦の紹介、日本海海戦の両軍の動き、兵器の紹介などがあり興味深い。

次が有名な日本海海戦の時の東郷平八郎大将他の連合艦隊幹部の絵だ。

中央の東郷平八郎大将の右が「坂の上の雲」の主人公の一人、秋山真之参謀、左が後に総理大臣となる加藤友三郎参謀長だ。

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出典:別記ない限りWikipedia

この本では、旅順の地形図が紹介されているのが興味深い。

旅順





出典:本文178−179ページ

旅順が周りを要塞に囲まれた要塞都市であることがよくわかり、旅順港を見下ろす有名な203高地が、いかに戦略的に重要なのかがわかる。

日本は乃木希典の第3軍が何度も正面攻撃を繰り返しては、機関銃を装備したロシア軍守備隊の前に、死者を積み重ね跳ね返され、日本内地から移送した28センチ砲の砲撃によりやっと203高地を占領した。

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203高地を占領してからは、旅順港が一望で見渡せることとなり、砲撃で旅順港に停泊中のロシア旅順艦隊を全滅させ、後顧の憂いを無くして、日本海海戦に臨んで大勝利を挙げたのだ。

この本では、旅順司令官ステッセルと乃木大将の水師営の会見や、ロシア軍捕虜の松山などでのお客様待遇などの逸話を紹介している。水師営の会見の両軍一緒の記念写真など、今では考えられない両軍の騎士道・武士道精神のあらわれだ。

759px-Nogi_and_Stessel







ロシア軍司令官ステッセルは帰国後、軍法会議で死刑が宣告されたという。


乃木大将の評価を180度変えた「坂の上の雲」

この本では、戦前から軍神とされ、自宅跡が乃木神社になっている乃木希典大将の評価が、昭和43年(1968年)に180度変わったことを指摘している。

その年に産経新聞で「坂の上の雲」の連載が始まったからだ。

乃木大将自身は二人の息子を日露戦争で失っており、明治天皇が崩御したときに、夫人とともに殉死した。

司馬遼太郎が乃木希典と、その副官伊地知参謀を書く上で参考にしたのが、戦犯として戦後処刑された谷寿夫陸軍中将が戦前に執筆した「機密日露戦史」だという。

機密日露戦史機密日露戦史
著者:谷 寿夫
販売元:原書房
発売日:2004-05-25
おすすめ度:5.0
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戦前は機密扱いされて出版されず、陸軍大学校でしか見ることができなかったが、戦後原書房から出版され、司馬遼太郎が見ることになった。

著者の谷中将の陸大時代の校長が、日露戦争当時の満州軍参謀の井口中将で、井口中将は伊地知参謀と士官学校の同期だった。旅順攻撃時から要塞攻撃方法で対立、つかみ合いの喧嘩にならんばかりだったという。

結果論ではあるが、正面攻撃論の伊地知説に対し、要塞迂回論の井口説が正しかったという考えが陸大にあり、それで谷中将は乃木大将の第3軍の要塞正面攻撃作戦を批判する「機密日露戦史」を書いたのだ。


ポーツマス講和会議でのルーズベルトの好日的態度

この本では日露戦争当時の米国大統領セオドア・ルーズベルトの好日的態度と、ルーズベルトの樺太占領勧告に従い、終戦直前に日本が樺太を占領して、ポーツマス条約で南樺太と南千島列島をロシアから割譲した経緯が紹介されている。

日本はルーズベルトのハーバード時代の学友の金子堅太郎男爵を特使に派遣したり、それなりの努力はしているが、ルーズベルトの好日的態度の背景には、日露両国がつねに拮抗する軍事力を保持して、極東に緊張状態を保つことがアメリカの国益に合致するというアメリカの戦略があった。

ルーズベルトが「日本のために働く」と言ったのは、そういったアメリカの深慮遠謀もあったのだ。

この本では、ポーツマス条約での日本が出した講和条件の、甲:絶対的必要条件、乙:比較的必要条件、丙:付加条件が紹介されている。

ロシア国内ではニコライ二世の帝政ロシアに反対する民衆の反政府運動が活発化していたが、ロシアは戦力でも日本を凌駕しており、軍隊をロシア領内に引き戻しただけなので、いつでもまた南下できる体制にあった。

一方の日本は旅順占領や奉天会戦、日本海海戦で勝利を収めたものの、弾薬も底をつき、到底戦争を継続できる状態ではなかった。

ニコライ二世は、「一銭の賠償金も、一握の領土も譲ってはならない」とウィッテ全権代表に命令していたことから、ポーツマス講和会議でも決裂が危ぶまれた。

800px-Treaty_of_Portsmouth





だから日本はルーズベルト勧告に従い、樺太を後略した。樺太のロシア軍は歩兵1個連隊、民兵約2,000人で、日本軍の敵ではなく、1ヶ月で日本が樺太全土を占領した。これによりポーツマス講和会議を有利に展開できることになったのだ。

ルーズベルトはニコライ二世に親書を送るほか、ニコライ二世と親しいドイツのウィルヘルム二世、フランス、イギリスなども動かして、ロシア政府とニコライ二世を説得し、ロシアが日本の絶対必要条件と、南樺太と南千島割譲を認めることで妥協が成立し、1905年9月ポーツマス条約が成立した。

日本が継戦能力がないという実態を知らない日本国民は、戦勝にもかかわらずロシアから賠償金が取れないことで暴動を起こした。


日本海軍が忘れた東郷平八郎の連合艦隊解散の辞

この本の最後では、東郷平八郎大将の連合艦隊解散の辞を紹介している。

「神明はただ平素の鍛錬に力め戦わずしてすでに勝てる者に勝利の栄冠を授くると同時に、一勝に満足して治平に安ずる者よりただちにこれをうばう。

古人曰く、勝って兜の緒を締めよと」

まさにその後の太平洋戦争に至る日本海軍の驕りを戒める言葉だ。

太平洋戦争では、日本海軍は緒戦戦勝の驕りと、日本海海戦や旅順砲撃の過去の教訓にこだわり、臨機応変の戦いができなかった。ミッドウェー海戦で負けたのも、それが理由である。

この東郷平八郎の言葉が後世に活かされていたら、日本海軍もアメリカを相手に、初めの一年を除き、全敗という次の表のようなていたらくにはならなかったのではないかと思う。

日米主要艦推移






出典:太平洋に消えた勝機 (光文社ペーパーバックス)本文230ページ

ドラマを見る上で、豊富な写真とイラスト、逸話は参考になる。パラパラめくっても楽しい。タイムリーな出版だと思う。


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2009年08月31日

ミッドウェーの奇跡 元GHQ戦史室長がまとめた中立的戦史

ミッドウェーの奇跡〈上〉ミッドウェーの奇跡〈上〉
著者:ゴードン・W. プランゲ
販売元:原書房
発売日:2005-02
おすすめ度:5.0
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図書館で見つけて読んでみた。ミッドウェー海戦といってもあまりピンと来ない人もいるかもしれないので、あらすじとともにYouTubeの映像もいくつか紹介しておく。

原書房という知らない出版社だし、装丁もパッとしないので、あまり期待しないで読んでみたが、実は著者のゴードン・プランゲ博士はGHQの戦史室長として昭和26年まで日本に滞在し、旧軍人を中心に200人もの人を自宅に招いて何度もインタビューし、それをもとに3つの作品を残した人だった。

プランゲ博士の収集したプランゲ文庫は、ワシントンDC郊外のメリーランド大学に保管されており、1945年から1949年の日本のほとんど全ての印刷物を集め、中にはGHQの検閲で発禁になったものも含まれる貴重なコレクションとなっている。


ブレンゲ博士の3部作

プランゲ博士の残した3つの作品で最も有名なものは、日米合作映画「トラ・トラ・トラ」の原作となった「トラ・トラ・トラ」だ。



トラトラトラ〈新装版〉トラトラトラ〈新装版〉
著者:ゴードン・W. プランゲ
販売元:並木書房
発売日:2001-06-01
おすすめ度:4.5
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もう一つは日本経由でドイツの情報がソ連に流れていたゾルゲ事件を取り上げた「ゾルゲ・東京を狙え」。

ゾルゲ・東京を狙え〈上〉ゾルゲ・東京を狙え〈上〉
著者:ゴードン・W. プランゲ
販売元:原書房
発売日:2005-04
クチコミを見る

そして今回の「ミッドウェーの奇跡」だ。


翻訳者の千早さんも戦史専門家

翻訳者の千早正隆さんは、終戦時の連合艦隊参謀で元海軍中佐、プランゲ博士が戦史室長を務めていた時にGHQ戦史室に勤め、資料収集に協力した。

千早さん自身も「日本海軍の戦略発想」という本で、敗戦原因について語っており、昨年末に新装版が発売されている。

日本海軍の戦略発想日本海軍の戦略発想
著者:千早 正隆
販売元:プレジデント社
発売日:2008-12
おすすめ度:5.0
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この本では、真珠湾攻撃に成功し、マレー沖海戦で英国艦隊に打撃を与え、セイロン沖海戦にも勝利して、米海軍に対し物量的にも優っていた日本海軍が、なぜアリューシャン列島攻撃ミッドウェー作戦という意味の無かった作戦を行い、敗れたのかを当時の日米関係者へのインタビューも含めて中立的に描いている。

YouTubeでも当時のフィルムをカラーにした記録映画が掲載されているので、紹介しておく。冒頭のシーンはドーリットル爆撃だ。



「ミッドウェー」という映画も作られている。




ミッドウェー海戦の本

ミッドウェー海戦はまさに太平洋戦争の転換点となったので、敗戦の理由は過去からいろいろ取り上げられ、様々な本が出版されている。


「運命の5分間」

真珠湾攻撃総隊長として戦果を挙げた淵田美津雄氏(戦後は宣教師となった)と大本営参謀の奥宮正武氏の「ミッドウェー」。

ミッドウェー (学研M文庫)ミッドウェー (学研M文庫)
著者:淵田 美津雄
販売元:学習研究社
発売日:2008-07-08
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ミッドウェー海戦では、日本軍空母が地上攻撃の爆弾から艦隊攻撃の魚雷に爆装転換していた「運命の5分間」に太陽を背にした米国急降下爆撃機が突如現れ、「赤城」、「加賀」、「蒼龍」に直撃弾を食らわせ、それが準備中の爆弾・魚雷に引火して大爆発を起こした。

それが直接の敗因で、あと5分あれば全機発艦して被害は免れていたというものだ。この「運命の5分間」についてはNHKがまとめたビデオで紹介されている。



これに対して「ミッドウェー海戦史に重大なウソを発見した」という澤地久枝さんは、「滄海よ眠れ」という全6巻のミッドウェー戦記を書いて「運命の5分間」に疑問を投げかけている。

滄海よ眠れ 1―ミッドウェー海戦の生と死
著者:澤地 久枝
販売元:毎日新聞社
発売日:1984-09
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澤地久枝さんの「記録ミッドウェー海戦」

澤地久枝さんは、集めた資料を一冊の本にして「記録ミッドウェー海戦」という本も出版している。

記録ミッドウェー海戦
著者:澤地 久枝
販売元:文藝春秋
発売日:1986-05
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実は筆者の亡くなった父からミッドウェー海戦で、いとこが空母の機関員として必死の操艦の末戦死したと、子どもの頃聞いたことがある。

この「記録ミッドウェー海戦」を調べてみると、たしかに「加賀」の機関員として「須山正一」という人が戦死している。筆者のおじさん(父の弟)から貰った昭和16年の戸籍謄本があるので確認してみたら、たしかにこの人は父のいとこで間違いない。

慰霊碑で親戚の名前を見つけた思いだ。19歳5ヶ月で戦死している。さぞかし家族は悲しんだだろうと思う。筆者もあたらめてショックを受けた。


ミッドウェー敗戦の根本原因

山本五十六大将は、ミッドウェー海戦後、部下に「敗戦は私の責任だ」と語ったそうだ。プランゲ博士もミッドウェー海戦の敗戦の真の責任者は山本五十六だと述べながらも、驕慢が海軍のみならず全国民に蔓延していたことを強調している。

「日本をこのように征服、驕慢、傲慢に駆り立てた歓喜に溺れた雰囲気の背景を見ることなくしては、ミッドウェーの史的ドラマの真相を理解することはできない。

「彼らが自信から生まれた幸福感にひたった過程を見ることなくしては、彼らが真珠湾で見せた綿密な作戦計画、徹底した訓練、細心な機密保持が、わずか6ヶ月足らずの間にどうして消え失せたのかを、知ることはできないであろう。」


ミッドウェー海戦の評価

この本でプランゲ博士はアメリカの海軍大学で教えている204SMEC方式という作戦評価方式で、日本軍のミッドウェー作戦を評価している。いかに成功の可能性が少なかったかがよくわかる。

1.目的
ミッドウェー島を攻撃し占領するのか、ニミッツの太平洋艦隊を撃滅するのか。プランゲ博士は日本の計画は最初から「双頭の怪物」だったという。そもそもアリューシャンとミッドウェーの両方をなぜ攻略しなければならないかったのか目的が不明だ。

2.攻勢
計画を成功率の高いものにするためには、"IF"に対する備えがなければならない。もしアメリカが察知していたら?もしアメリカが早く発見したら?もし第1航空艦隊が大損害を受けたら?日本は全く対策を立てていなかった。

もしリスクをきちんと考えていたら、敵がまだ発見出来なかった段階で空母4隻を一個所に集中させるような艦隊配置は取っていなかっただろう。

プランゲ博士が指摘する日本海軍のリスク認識欠如、慢心を示す一例が服装だ。空母の乗員の多くは半ズボン半袖で、防火効果がある長袖、長ズボンの戦闘服を着させていなかった。これがためやけどで命を失った乗員も多い。

3.交戦点における優勢
日本はこの時点では物量でアメリカを上回っていたのに、兵力を分散して集中効果を失った。アメリカ軍がほとんどいないアリューシャンを同時に攻めたり、戦艦を空母から300海里後方に配備したり、用兵を誤った。防御の弱い空母の代わりに戦艦を先頭に立てていたら、空母全部がやられることもなかっただろう。

4.奇襲
アメリカは日本海軍のJN25暗号を解読していた。日本側の通信の中で頻繁に出てくる"AF"がミッドウェーだということも知っていた。日本は潜水艦による策敵も飛行艇による哨戒も不十分だった。

ミッドウェー海戦前の暗合解読についてのNHKの番組がYouTubeに掲載されている。



5.機密保持
日本海軍は真珠湾の時のような機密保持の注意や綿密さは完全に消え失せた。ニミッツは事前に日本側の戦力をほぼ完全につかんでいた。

日本の空母にはレーダーが装備されていなかった。レーダーの試作機は戦艦伊勢と日向に装備されたが、この2戦艦はアリューシャンに向かっていた。レーダーが空母に装備されていたら、4空母が一度に沈められるということもなったろう。

6.単純性
山本長官は戦艦主義と航空主義の調整をつけられなかった。

戦艦は40センチ以上の主砲を持ち、陸上のいかなる要塞砲にも圧倒的に勝っているのに、ミッドウェー砲撃を主張する部下に、「君は海軍大学校の戦史の講義で、海軍艦艇は陸上兵力と戦うなということを習っただろう」と言ったという。

宇垣はさらに辛辣だったという「艦隊の砲力で陸上の要塞を攻撃することが、いかに愚かなことであるかは、十分に知っているはずではないか」

ミッドウェー島のどこに要塞があるというのだ。

彼我の戦力の徹底的な分析なしに、日露戦争の時の旅順攻撃の後遺症の「艦砲は要塞砲に敵し難い」という原則を忘れたのかと叱責する始末だった。

戦艦の艦砲射撃と航空攻勢を融合したのはニミッツだった。

7.行動性、機動性
山本長官は南雲部隊の空母4隻は失ったが、依然として4隻の空母、110機の航空戦力を持っていた。

アメリカ空母3隻のうち2隻が沈没あるいは大破だったので、日本は依然として強力な戦力を持っていた。それにもかかわらず、山本長官は空母を沈められ、艦載機の多くを失って、どうしたらよいかわからなくなくなって日本に逃げ帰った。

プランゲ博士は、山本長官はケンカ好きのテリアに追われて、しっぽを巻いて逃げ帰るセントバーナード犬のように大部隊を率いて本国に逃走したのだと評している。

8.戦力の最善活用
山本長官はあらゆる艦船を出撃させ、貴重な燃料を浪費した。さらにミッドウェー基地の空襲に使用した航空戦力は過大で、まだ見えないアメリカ機動部隊の反撃に備えるべきだった。

9.協同、統一指揮
山本長官は旗艦を連れて行ったばかりに、この重要な法則に違反することになった。無線封止を保つ必要から戦艦大和からは山本長官は指揮できなかったのだ。これに対してニミッツは真珠湾にいた。


血のつながった親戚が亡くなっているので、敵機がいつ現れないとも限らない戦場で、爆弾を積んだ飛行機をすべての空母の航空甲板上に並べていた日本海軍のリスク意識の欠如に憤りを感じるが、たしかにプランゲ博士が指摘しているように、当時は日本全体が戦勝に酔っており自らを失って慢心の極にあったことが根本原因だろう。

昭和天皇が「昭和天皇独白録」で、敗戦の第一の原因として挙げている通りだ。

「敗戦の原因は四つあると思う。
第一、兵法の研究が不十分であった事、即孫子の、敵を知り、己を知らねば(ママ)、百戦危うからずという根本原理を体得していなかったこと。
第二、余りに精神に重きを置き過ぎて科学の力を軽視したこと。
第三、陸海軍の不一致。
第四、常識或る主脳者(ママ)の存在しなかった事。往年の山縣(有朋)、大山(巌)、山本権兵衛、という様な大人物に欠け、政戦両略の不十分の点が多く、且軍の主脳者の多くは専門家であって部下統率の力量に欠け、いわゆる下克上の状態を招いたこと。」


ミッドウェー海戦は様々な教訓を残している。知識経営論の野中郁次郎教授も参加している日本軍の戦略の失敗を研究した「失敗の本質」は1984年発刊だが、いまだによく売れており、アマゾンでも540位のベストセラーだ。

失敗の本質―日本軍の組織論的研究 (中公文庫)失敗の本質―日本軍の組織論的研究 (中公文庫)
著者:戸部 良一
販売元:中央公論社
発売日:1991-08
おすすめ度:4.5
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あなたの親戚にも戦争で命を落とした人がいるはずだ。失敗から学ぶことが我々の使命だし、今なお学ぶべきことは多い。機会があれば、上記で紹介した本のどれかを読んで自分の参考にして欲しい。


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2009年08月13日

日本のいちばん長い日 事実は小説より奇なり 再掲

2009年8月13日再掲:


今年も8月15日の終戦記念日が近づいてきた。次回は「昭和天皇独白録」のあらすじを紹介するが、その前に今から64年前の昭和20年8月15日前後に何が起こったのかを振り返るために、半藤一利さんの「日本のいちばん長い日」のあらすじを再度掲載する。

おなじ半藤一利さんの「昭和史 1926年ー1945年)」とともに、昭和を今一度振り返って欲しい。


2009年6月5日初掲:

決定版 日本のいちばん長い日 (文春文庫)決定版 日本のいちばん長い日 (文春文庫)
著者:半藤 一利
販売元:文藝春秋
発売日:2006-07
おすすめ度:5.0
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司馬遼太郎亡きあとの歴史小説の第一人者半藤一利さんが、昭和40年(1965年)文藝春秋編集次長時代に、大宅壮一編として出版した名作。

大宅壮一氏死後、未亡人の了承を得て、森近衛師団長惨殺の実行者など、当時の事情で差し障りがあって隠蔽せざるを得なかった事実や、その後わかった史実を加えた「決定版」として、半藤さんの名前で30年後の1995年に再度出版したものだ。

「日本のいちばん長い日」は、阿南惟幾(あなみこれちか)陸相を演じる三船敏郎以下のオールスターキャストで映画化され大ヒットした。

日本のいちばん長い日 [DVD]日本のいちばん長い日 [DVD]
出演:三船敏郎
販売元:東宝
発売日:2005-07-22
おすすめ度:4.5
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1945年(昭和20年)8月14日正午から8月15日正午に至るまでの24時間の出来事を、登場人物の発言を構成して濃密なドラマに仕上げている。

半藤さんのあとがきによると、この本の特徴は直接証言者にあたり、実地の踏査を重んじたことだという。戦後20年の昭和40年にはそれが可能だったのだと。

それゆえあとがきの謝辞に59名もの取材協力者の名前をクレジットとして列挙している。

当時の状況をおさらいすると、1939年9月ポーランド電撃占領で第2次世界大戦を始めたドイツは1945年5月に降伏し、唯一日本だけが全世界を相手に戦争を続けていたが、日本の敗北は時間の問題と思われていた。

この年2月には近衛文麿が終戦を求める近衛上奏文を提出し、吉田茂が近衛上奏文に関わったとして逮捕されたのは4月だ。

連合国は1945年7月26日にドイツベルリン郊外のポツダムで会議を行い、日本に無条件降伏を求めるポツダム宣言を出した。

ポツダム会議に参加した英アトリー、米トルーマン、ソ連スターリン

Potsdam_big_three






出典: Wikipedia

ルーズベルトが4月に死去したので、米国大統領に昇格したトルーマンとチャーチルが宣言案をつくったが、そのチャーチルはポツダム会議中にイギリスの総選挙でまさかの敗北を喫して、副代表として参加していたアトリー新首相に交代するというハプニングまで起こった。

スターリンは会議のホストだったにもかかわらず、チャーチルとトルーマンにより宣言からはずされ、激怒したという。日本には宣戦布告していないからという理由だった。

このあたりは以前紹介した「暗闘」に詳しい。

暗闘―スターリン、トルーマンと日本降伏暗闘―スターリン、トルーマンと日本降伏
著者:長谷川 毅
販売元:中央公論新社
発売日:2006-02
おすすめ度:5.0
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日本はスターリンが署名していないことから、ソ連による和平調停に一縷の望みをかけ、近衛文麿が訪ソすることでソ連と交渉した。しかし既に対日参戦を決めていたソ連は確答せず、日本ははぐらかされて、8月9日のソ連の対日参戦に至る。

この本のプロローグではポツダム宣言を「ただ黙殺するだけである」との鈴木貫太郎首相の発言がラジオで報道され、日本は拒絶したと受け取られる結果となり、その後の原爆投下とソ連参戦の口実にされたことを記している。

日本がポツダム宣言を即時受諾に踏み切らなかったのは、天皇制を中心とする国体護持の保証がなかったからだ。

そうこうしているうちに8月6日広島に原爆が投下された。内閣と天皇に原爆により広島市全滅という情報がもたらされたのは、その日の午後遅くだったという。

8月7日トルーマンはラジオで演説し、20億ドルを投じて歴史的な賭けを行い賭けに勝ったと原爆を賞賛し、日本が降伏しない限り他の都市にも投下すると警告する。

8月8日天皇は「このような武器がつかわれるようになっては、もうこれ以上、戦争をつづけることはできない。不可能である。有利な条件をえようとして大切な時期を失してはならぬ。なるべくすみやかに戦争を終結するよう努力せよ。このことを木戸内大臣、鈴木首相にも伝えよ」と東郷外相に指示する。

8月9日早朝ソ連が参戦する。鈴木首相は朝10時半から最高戦争指導会議を開催するが、その最中に長崎へ第2の原爆が投下されたことが報告される。

会議はまとまらず、深夜11時50分から御前会議を開いた。

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出典: Wikipedia

会議では天皇の地位を変更しないことだけを条件としてポツダム宣言を受け入れることを主張する米内海相、東郷外相、平沼枢密院議長と、さらに占領期間、武装解除、戦犯処理まで日本人の手で行うという合計4条件を求める阿南陸相、梅津参謀総長、豊田軍令部総長の3:3にわかれ、鈴木首相は自らの決定を辞し、天皇に聖断を頼む。

天皇は「それならば私の意見をいおう。私は外務大臣の意見に同意である。」と答える。

「ひとりでも多くの国民に生き残ってもらい将来再び立ち上がってもらうほか道はない。明治天皇の三国干渉の際のお心持をしのび奉り、私は涙をのんで外相案に賛成する」

会議が終わったのは8月10日午前2時半を過ぎていたという。

すぐに中立国スイスとスウェーデンの日本公使に「天皇の大権に変更を加うるがごとき要求は、これを包含しておらざる了解のもとに」ポツダム宣言を受諾する旨の電報が発信された。

8月10日午後首相経験者などを集めた重臣会議が開催され、ほとんどの重臣は賛成したが、元首相の東條英機と小磯国昭は反対した。

米国政府はそのまま受けろと主張する親日派スチムソン陸軍長官に、フォレスタル海軍長官、リーヒ大統領付幕僚長は同調したが、バーンズ国務長官は強硬で、日本側電報の回答として、天皇と日本政府の権限は、連合軍最高司令官に"subject to"と回答してきた。

外務省は”制限の下におかる”と名訳を出したが、陸軍は”隷属する”と訳して、態度を硬化させた。

8月12日午後から13名の各宮を集めた皇族会議が開催された。皇族の順位に従って高松宮からはじまって、竹田宮、朝鮮王室の李王垠李鍵公の順に座ったという。

敗戦で最悪天皇制廃止や退位などもありうると覚悟した天皇の心遣いだろう。

天皇は国体護持は譲れないと主張する阿南陸相に対し、「阿南よ、もうよい。心配してくれるのは嬉しいが、もう心配しなくともよい。私には確証がある」と諭したという。

しかし閣議ではまたも紛糾し、8月13日の最高戦争指導会議もまたも紛糾した。結局8月14日午後、御前会議で聖断を仰ぐこととなる。

陸軍省では、帰任した阿南陸相を徹底抗戦を訴えるクーデター計画が待っていたが、陸相は確答しなかった。

8月14日午前10時50分から最高戦争指導会議と閣僚全員の合同の御前会議が開かれた。このような合同の御前会議は開戦決定の1941年12月1日の御前会議以来だという。

8月14日の御前会議の絵

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出典: Wikipedia

御前会議で鈴木首相が報告し、天皇の聖断を求めると、天皇は立ち上がり、ポツダム宣言受諾を宣言する。自分のできることはなんでもする。マイクの前にも立つ。どこでも出かけて親しく説きさとすと語る。

長いので引用しないが、この本では参加者の手記をもとに鈴木首相にも確認の上で作成された下村宏国務・情報局総裁作成の天皇の発言全文を掲載しており、大変興味深い。

自らの身を投げ出しても戦争を終結させるとの天皇の強い意志だった。閣僚たちは皆慟哭したという。

陸軍省では青年将校達が依然として徹底抗戦を訴えるが、阿南陸相は「最後のご聖断が下ったのだ。悪あがきをするな。軍人たるものは聖断にしたがうほかない」とはねつける。

天皇自らラジオで放送することとなり、生放送でなく録音放送にきまる。天皇の声がラジオで放送されるのははじめてだ。

迫水書記官長が中心となって、安岡正篤の協力も得て終戦の詔勅案が作られ、ガリ版刷りの原案が閣議の了承を得て、14日午後6時に天皇の朗読が録音されることになった。

準備は遅れに遅れ、詔勅に天皇が御名御璽を印したのは午後8時半、実際に天皇が2回録音盤に吹き込んだのは夜中の午後11時50分だった。


終戦の詔勅 残虐なる爆弾のあとに”頻に無辜を殺傷し”という書き込みがある

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出典: Wikipedia


録音盤は徳川侍従が整理戸棚の書類入れの軽金庫に納め、書類をその上にうずたかく積んで隠した。

一方陸軍はとうとう行動を起こす。陸軍省軍事課員井田中佐、椎崎中佐、畑中少佐らが、どうせ明日は死ぬ身だからと近衛師団を使っての宮城制圧を計画する。海軍でも米内海相の暗殺をひそかに計画しているものがあったという。

8月14日午後5時頃近衛文麿が、近衛師団に不穏の計画があるがと木戸内大臣に伝えに来る。はたして不安は的中し、井田中佐、椎崎中佐他が、森近衛師団長に決起を促そうと談判する。午前1時まで粘るが、受け入れられないので、畑中少佐がピストルで森師団長を撃ち、上原大尉と窪田少佐が斬りつけ、森師団長と白石中佐を殺戮する。

そして偽の師団長命令をつくり、近衛師団を動員して、血眼になって皇居中を探し録音盤を見つけようとするが、結局見つからなかった。

玉音放送を録音したNHKの会長とスタッフは近衛師団の兵士につかまり、監禁される。木戸内大臣などは皇居内の地下室に隠れて難を逃れる。近衛師団は放送局にも押し入り、意見放送を要求するが、空襲警報中は放送できないと断られる。

反乱軍の首謀者の一人の井田中佐は陸軍省に行き、阿南陸相と最期の杯を交わす。阿南陸相は3時頃に森師団長が殺害されたという報告を受けたが、「このお詫びも一緒にすることにしよう。」と言うと、さらに「米内を斬れ」とぽつりと言ったという。阿南陸相は陸軍省で最期の酒盛りをしたあと、午前5時半陸軍省の廊下で割腹自殺する

このときの遺書が次の通りだ。義理の息子の竹下中佐が立ち会い、最後に介錯する。

「一死を以て大罪を謝し奉る 昭和二十年八月十四日夜 陸軍大臣 阿南惟幾
神州不滅を確信しつつ」

阿南陸相は三男を中国戦線で亡くしていたので、「惟晟(これあきら)は本当によいときに死んでくれたと思う。惟晟といっしょに逝くんだから、私も心強い」と語っていたという。

死んであの世で三男とあえるのを楽しみにしていると言っていたという。

午前3時東部軍が異変に気づき、参謀を近衛師団に派遣し、森師団長が殺害された現場を確認する。午前5時田中軍司令官が宮城に乗り込み、近衛師団を帰任させる。

この動きとは全く関係のない乱入劇もあった。

横浜警備隊長佐々木大尉が率いる学生四十名がトラックに分譲して軽機関銃などで武装して鈴木首相の私邸を襲い、官邸を焼き、平沼騏一郎邸も焼き、宮城に押し入り、機関銃を発射する。

午前6時天皇にも近衛師団のクーデターが起こったことが知らされる。兵に直接さとすと陛下は言われるが、その前に田中軍司令官が制圧し、騒ぎは収まった。

その日午前10時55分アメリカ航空部隊は戦闘中止命令をうけて途中で引き返したが、ソ連は猛進撃を続けていた。

玉音放送の直前に軍人が乱入しようとしたが、取り押さえられ正午から予告の通り玉音放送が流された。

11時半、天皇が放送を聞くために枢密院議場に姿を現したと同じ時刻に、反乱軍の首謀者の畑中少佐と椎崎中佐は皇居前で自刃した。

海軍厚木航空隊など、徹底抗戦を唱える一部のものもあったが、全体として日本軍は粛々と武装解除にすすみ、8月30日にマッカーサーは無抵抗の厚木基地に降り立つ。

厚木飛行場に降り立つマッカーサー一行

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出典: Wikipedia

これから後は「白洲次郎 占領を背負った男」に詳しい。


この本を読んで、いかに当時の日本政府、日本軍関係者全員が天皇を守ることに命をかけ、必死だったのかよくわかる。

「幕末史」のあらすじでも書いたように、阿南陸相の遺書の”大罪を謝し奉る”という言葉は、日本陸軍の最期の言葉にふさわしいと思う。

幕末史幕末史
著者:半藤 一利
販売元:新潮社
発売日:2008-12
おすすめ度:5.0
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まさに「事実は小説より奇なり」という言葉を地でいく、筋書きのないドラマである。DVDを借りて映画も見てみようと思う。

文庫本になっているので、半藤一利さんの代表作として、一度手に取ってみることをおすすめする。


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2009年07月10日

真珠湾の真実 ルーズベルトの対独参戦シナリオに組み込まれた日本

真珠湾の真実 ― ルーズベルト欺瞞の日々真珠湾の真実 ― ルーズベルト欺瞞の日々
著者:ロバート・B・スティネット
販売元:文藝春秋
発売日:2001-06-26
おすすめ度:3.0
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ルーズベルト大統領は、事前に真珠湾攻撃を知っていたにもかかわらず、あえて日本に奇襲攻撃を仕掛けさせたというルーズベルト陰謀説の根拠を、1995年に発見された内部メモや暗合解読文などを丹念に調べ検証した本。

田母神さんの本に引用されていたので読んでみた。

この本は渡部昇一さんや、中西輝政さん、櫻井よし子さんなどの多くの本に引用されているが、真珠湾攻撃をアメリカが予期していたことを、「情報の自由法」により明らかにされた多くの暗号電報解読文で立証しているのみならず、なぜルーズベルトが日本の奇襲攻撃を現場の指揮官に知らせなかったのかという疑問まで解明している点で画期的な作品だ。

英語版は次の通りだ。英語版Wikipediaにも要約が載っている。

Day Of Deceit: The Truth About FDR and Pearl HarborDay Of Deceit: The Truth About FDR and Pearl Harbor
著者:Robert Stinnett
販売元:Free Press
発売日:2001-05-08
おすすめ度:3.0
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日本の一部で受け入れられたような「決定版」的な扱いを米国で受けているのかどうかわからないが、日本の翻訳本は90,000位なのに対して、米国では現在でも全体で45,000位程度なので米国でもそこそこ売れているようだ。


10年間の調査の成果

著者のロバート・スティネット氏は、第2次世界大戦中はブッシュ・シニア元大統領と一緒に海軍に従軍した元軍人(従軍カメラマン?)だ。戦後はオークランド・トリビューンの記者(カメラマン)として働き、退社後10年以上掛けて資料を調べ上げこの本を1999年に出版した。

田母神さんの本のあらすじで根拠不足と書いたが、歴史上の史実を立証しようとするのであれば、これくらい資料を揃えなければならないという見本の様な本だ。

脚注の多さは半端ではない。600近い原注に加えて訳注も数十あり、日独伊三国同盟を奇貨として「裏口からの参戦」を説いた1940年10月の米国海軍情報部極東課長のA.マッカラム少佐の「戦争挑発行動8項目覚書」の原文表紙と和訳、数々の日本側暗号電報の英訳が紹介されている。


日本の暗号はすべて打ち破られていた

この本ではPHPT(Pearl Harbor Part、1941年から1946年までの間にアメリカが行った公式調査)、PHLO(上下院合同真珠湾攻撃調査委員会、1945年から1946年までに実施された調査)、無線監視局USの文書、カーター大統領が1979年に公開した太平洋戦争中の日本海軍電報の解読文書約30万点を調査し、当時無線傍受局に勤務していた人へのインタビューなども実施して、膨大な資料を元に書かれている。

アメリカが日本の暗号解読に成功していたことは、東京裁判の証拠としても採用され今や公知の事実だ。その暗合解読作業を実際に行っていたのが、米軍が太平洋のあちこちに配置していた”見事な配置”と呼ばれる無線傍受網だ。

見事な配置

見事な配置






出典:本文134−135ページ

米国は1940年10月前後に日本の外交暗号のパープル(97式印字機)と、日本海軍の5桁数字暗号を特別の解読機を導入して打ち破っていた。

日本領事館を盗聴したり、商船に乗っていた海軍通信士官から暗号書を買い取ったり、あらゆる手段を使って米国は日本の暗号解読に成功したのだ。

パープル暗号が解読されているという情報がドイツから寄せられ、1941年5月に当時の松岡外相が、駐独大使の大島少将に詳細をドイツから聞き出すように頼んでいる暗号電報も、米国に解読されているのはジョークを越えて、お寒い限りだ。

実際ルーズベルトはヒトラーのロシア侵攻計画を、駐独大島大使の日本へのパープル電報の暗号解読で侵攻1週間前の1941年6月14日に知ったという。ドイツが気にする訳だ。

日本海軍の5桁数字暗号の解読情報は、今でも秘密扱いで公開されていないという。

ちなみに「日本軍のインテリジェンス」という防衛省防衛研究所戦史部教官小谷賢さんの書いた本のあらすじに、日本軍の諜報能力についてまとめてあるので、参照して欲しい。

日本軍のインテリジェンス なぜ情報が活かされないのか (講談社選書メチエ)日本軍のインテリジェンス なぜ情報が活かされないのか (講談社選書メチエ)
著者:小谷 賢
販売元:講談社
発売日:2007-04-11
おすすめ度:4.5
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この本の3つの論点

なにせ脚注と解説まで入れると500ページを越えるボリュームの本なので、整理すると次の3つが論点だ。

1.ルーズベルトは米国民が反対していた欧州での戦争に”裏口から”参戦するために、日本に戦争を仕掛けさせた。つまり日本はルーズベルトにはめられたのか?

この本の主題の一つは、1940年10月7日に上奏された海軍情報部極東課長のアーサー・マッカラム少佐の作成した覚書だ。著者のスティネット氏は、1995年に無線監視局USのアーサー・マッカラム少佐の個人名義ファイルの中から、この覚書を見つけたという。

マッカラムメモ

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出典: Wikipedia

マッカラム少佐は、宣教師の両親のもとに1898年に長崎で生まれ、少年時代を日本のいくつかの町で過ごした。日本語が喋れたので米国の海軍兵学校を卒業すると駐日アメリカ大使館付海軍武官として来日した。昭和天皇の皇太子時代に米国大使館のパーティでチャールストンを教えたこともあるという逸話のある知日派だ。

このメモが書かれた当時のことを補足しておくと、ドイツは1939年9月にポーランドを電撃占領し、第2次世界大戦が始まった。その後"Twilight war"と呼ばれる小康状態の後、ドイツは1940年5月にフランスに侵攻・占領し、英国はダンケルクから撤退して戦力を温存した。

その直後からバトルオブブリテンでドイツが英国侵略の前段階として航空戦を挑み、英国が新兵器レーダーと英国空軍の大車輪の活躍で、1940年10月頃にはドイツ空軍の英国侵攻をほぼ撃退したところだった。

ソ連とドイツは独ソ不可侵条約を結んでいたので、ヨーロッパでは英国のみがドイツと戦っているような状態で、チャーチルの名著「The Second World War」第2巻は、"Alone"というタイトルが付けられているほどだ。

第二次世界大戦〈2〉 (河出文庫)第二次世界大戦〈2〉 (河出文庫)
著者:ウィンストン・S. チャーチル
販売元:河出書房新社
発売日:2001-07
おすすめ度:4.5
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ドイツの戦勝を見た松岡洋右などの日本の親ドイツ派は、「バスに乗り遅れるな」のかけ声の下、それまで欧州戦争には中立の立場を取っていたにもかかわらず、日独伊三国同盟を結び、海軍などが反対したにもかかわらず急速に枢軸陣営に加わっていった。

一方ルーズベルトは英国を助けるために、「隣の家が火事になったら、無償で消防用ホースを貸すでしょう?」という国民に対する説明のもとに、英国への武器無償貸与を1939年開始しており、マッカラムメモの後の1941年3月には「レンドリース法」を制定し、英国に武器を無償で大量供与した。

ルーズベルトは既にユダヤ人の殺害を始めていたナチスドイツがヨーロッパを支配することは重大な脅威と感じ、今や英国だけとなった反ドイツ勢力を支援していたが、米国内の共和党を中心とする戦争反対勢力は強かった。

第2次世界大戦が始まる1年前の1938年11月に「水晶の夜」事件が起こり、ナチスがドイツ国内のユダヤ人商店・工場やシナゴーグを襲うという事件が起きており、この事件はスピルバーグの「シンドラーのリスト」にも描かれている。



当時の米国民の8割以上は、欧州の戦争に参戦することに反対しており、ルーズベルトも「息子さんを欧州の戦争には生かせない」と公約して1939年の大統領選挙に勝利したことから、たとえヨーロッパをドイツが占領し、英国が風前の灯火となっていた状況でも米国の参戦を、表だって国民に受け入れさせることはできなかった。

マッカラムメモでは、日本との戦争は不可避であり、米国にとって都合の良い時に、日本から戦争を仕掛けてくるように挑発すべきだと考え、蒋介石政権への援助や、ABCD包囲網での石油禁輸、全面的貿易禁止など8項目の行動計画を提案している。

ルーズベルトがマッカラムメモを読んだことは確実で、もっけの幸いにマッカラムメモにある8項目を順次実施し、日本を挑発し、日本に最初に攻撃させることで、厭戦気分がある米国民を日本とドイツに対する戦争に巻き込む”裏口から参戦する”計画を練って、実行に移したというのがスティネット氏の見解だ。

これで日米交渉では米国側は妥協を一切示さず、結果的に日本を開戦に追い込んだ理由がわかる。


余談となるが、以前紹介した多賀敏行さんの「エコノミック・アニマルは褒め言葉だった」で紹介されていた話を思い出した。

「エコノミック・アニマル」は褒め言葉だった―誤解と誤訳の近現代史 (新潮新書)「エコノミック・アニマル」は褒め言葉だった―誤解と誤訳の近現代史 (新潮新書)
著者:多賀 敏行
販売元:新潮社
発売日:2004-09
おすすめ度:4.5
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開戦当時の外務次官だった西春彦さんの「回想の日本外交」に、1941年後半の日米交渉で日本は大幅な譲歩案である甲案を出したのに、アメリカが全く乗ってこなかったのは、暗号解読電文の誤・曲訳が原因の一つだったことが、東京裁判の証拠調べの時にわかり、その晩は眠れなかったと書いている。

ちなみに東京裁判の時にはブレークニー弁護人がこの誤訳を題材にして大弁論を展開したが、結局判決では誤って英訳していある電文をそのまま判決理由に載せた。唯一パール判事は、少数意見でこのことを詳細に取り上げて鋭く論評したという。

回想の日本外交 (1965年) (岩波新書)回想の日本外交 (1965年) (岩波新書)
著者:西 春彦
販売元:岩波書店
発売日:1965
クチコミを見る


しかし実際にはルーズベルトは日本を挑発して裏口からの参戦を決めていたことが真相かもしれない。

元皇族竹田恒泰さんの「語られなかった皇族たちの真実」に、東久邇稔彦親王の自伝「やんちゃ孤独」で東久邇宮が元フランス首相クレマンソーから聞いた話が紹介されている。

語られなかった皇族たちの真実-若き末裔が初めて明かす「皇室が2000年続いた理由」語られなかった皇族たちの真実-若き末裔が初めて明かす「皇室が2000年続いた理由」
著者:竹田 恒泰
販売元:小学館
発売日:2005-12
おすすめ度:4.0
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「アメリカが太平洋へ発展するためには、日本はじゃまなんだ。(中略)アメリカはまず外交で、日本を苦しめてゆくだろう。日本は外交がへただから、アメリカにギュウギュウいわされるのにちがいない。その上、日本人は短気だから、きっとけんかを買うだろう。

つまり、日本の方から戦争をしかけるように外交を持ってゆく。そこで日本が短気を起こして戦争に訴えたら、日本は必ず負ける。アメリカの兵隊は強い。軍需品の生産は日本と比較にならないほど大きいのだから、戦争をしたら日本が負けるのは当たり前だ。それだからどんなことがあっても、日本はがまんをして戦争してはならない」


アメリカの戦略はその意味ではクレマンソーの予言通りだったと言えると思う。

閑話休題。


2.真珠湾攻撃は事前に察知されていたのではないか?

日本が対米開戦を決意し、択捉島の単冠湾(ヒトカップ湾)に機動部隊を集結させ、それからハワイに向かって移動していたことは、暗号が解読され米国側に事前に察知されていた。

この本の解説で中西輝政さんも驚いたと書いているが、ヒトカップベイという暗合解読文が原文で紹介されている。

暗号電報解読文の一例

hitokappu bay






出典:本文96−97ページ

さらに開戦を命じた1941年12月2日のニイタカヤマノボレの日本語電報原文と暗号解読された英文も掲載されている。

ニイタカヤマノボレ電文と暗合解読文

Niitakayama cable






出典:本文380−381ページ

"Top Secret-Ultra"に格付けされたこの電報は、打電されたのと同じ日の12月2日に解読されており、"Climb Niitakayama"とは"Attack on Dec. 8"のことだと断言しているのが印象的である。

この暗号解読情報は、1979年にカーター大統領の情報公開に基づいて公開された1941年7月から1945年秋までの30万通にものぼる日本の電報の解読情報の一つだ。

日本側は厳しい無線管制を敷いていて、アメリカ側は事前に察知できなかったとされているが、実際には艦隊への通信が行われており、それが傍受されて機動部隊の動きは米国に捉えられていた。

この本では日本艦隊が実際には頻繁に電報を打っていたことが数々の暗号解読電報から明らかにされており、少なくとも129通の電報が証拠としてあげられている。もっとも”おしゃべり”だったのが、南雲司令官からの電報60通で、司令官みずから無線管制を破っていたことがわかる。

またハワイの日本領事館で森村正こと、吉川猛夫海軍少尉は、日本のスパイとして真珠湾の艦船の停泊情報を調べ日本に送っていた。森村の行動を米海軍は監視はしたが、泳がせていた。これも真珠湾が攻撃される可能性が高いことを事前に知っていたという証拠の一つだ。


3.暗合解読により日本の攻撃は察知されていたのに、なぜ現地の司令官には何も知らされていなかったのか?

これがルーズベルト陰謀説の最大の謎だ。

上記のように”ニイカタヤマノボレ”の電報は、すでに12月2日に解読されており、これが現地の司令官に伝わらなかったのは、意図があってのことだと思わざるをえない。

スティネット氏は、マッカラムメモの筋書き通りに日本を挑発して先制攻撃を仕掛けさせるために、現地のハズバンド・キンメル海軍大将とウォルター・ショート陸軍中将には1941年11月27日に「合衆国は、日本が先に明らかな戦争行為に訴えることを望んでいる」という事前の大統領命令が出されていたことを指摘する。

両将軍は真珠湾攻撃を事前に察知できなかった責任を問われて、降格されているが、実は両将軍とも事前の大統領指令を忠実に履行し、日本側の出方を待っていたのだ。1995年と2000年には両将軍の遺族から名誉回復の訴えが出されている。

スティネット氏が直接インタビューした当時HYPO(真珠湾無線監視局)に勤めていたホーマー・キスナー元通信上等兵の証言によると、彼が毎日HYPOに届けていた書類の中には、無線方位測定による発信源データ(RDF)報告書が含まれており、10月まではキンメル将軍とホワイトハウス向けの両方に入っていたのに、1941年11月からキンメル将軍宛には入っていない。

このことを知らされたキスナー氏は、”誰が抜き取ったんだ?”と仰天した。

キスナー氏が完全な報告をHYPOに届けてから、しばらくたって誰かがRDF記録を抜き取った。1993年に国立公文書館真珠湾課長の専門官は、HYPOからキンメル大将宛の通信概要日報のうち、1941年11月と12月分65通以上に手が加えられているのを確認した。

1945年の議会公聴会前に提出された時には、既にページの下半分が切り取られていたという。

日本機動部隊の無線封止神話はここから始まったとスティネット氏は語る。

誰かが操作したことは間違いないようだ。

チャーチルもコベントリー市へのドイツ軍の空襲計画を事前に知りながら、予防措置を出動させれば、英国がドイツの暗号を解読していることがドイツに知れることを恐れ、コベントリー市民にはなんの警告も出さずに、多くの生命を犠牲にしたという。

ヒトラーというより大きな悪に立ち向かうためには、必要な犠牲だったとスティネット氏は語る。苦痛に満ちていたがルーズベルトの決定は、枢軸国に対して連合国を最終勝利に導くために戦略的に計算しつくされたものだったのだと。


蛇足ながら、スティネット氏は、日本軍の戦略性の無さも指摘している。

真珠湾に停泊していた旧式戦艦や艦船などを攻撃せずに、真珠湾に大量に備蓄されていた500万バレルの船舶用石油タンクとか修理ドック、高圧送電線網などの米海軍のロジスティックス設備を徹底的に攻撃していたら、米軍の反撃は数ヶ月は遅れたのではないかと。

チャーチルの「第2次世界大戦」でも書かれていたが、英国の船舶損失の90%は大西洋で、太平洋での損失はわずか5%程度だ。日本の潜水艦はドイツのUボートのような商船の攻撃はほとんど行っていないので、撃沈トン数も低い。

Wikipediaによると、Uボートは1,131隻が建造され、敗戦までに商船約3,000隻、空母2隻、戦艦2隻を撃沈したという。ほとんど戦闘艦船は撃沈していないのだ。Uボート自身の損失は743隻だという。

武士道精神なのかもしれないが、日本の潜水艦は武装艦船ばかりねらって非武装の商船はほとんど攻撃していないのだ。

相手の息の根を止めるにはなにをすべきか、相手が困るのはなにかという発想が欠けている。兵站思考のなさ。それが日本軍の最大の欠点であり、すでに真珠湾攻撃の時から、その弱点は露呈していたのだ。


後日談

1999年の執筆や2000年の追補時点でも米国海軍の暗号解読情報は未だ公開されていない。この異常とも思える秘密主義は、ルーズベルトが真珠湾攻撃を知っていたという疑惑を遠ざけるためだと著者のスティネット氏は語る。

いまだに開戦時の情報は公開されていないものがあり、すべては状況証拠ではあるが、この本を読むとルーズベルトが日本に先制攻撃を仕掛けさせることによって、米国民の8割が戦争に反対していたアメリカ世論を一挙に変える賭けに出たと思わざるを得ない。

メキシコとの戦いの時、「アラモを忘れるなーRemember Alamo"」のスローガンが米国民を一つにした故事にならい、"Remember Pearl Harbor"のスローガンのもとに、米国民が一致団結したのはまさにルーズベルトが望んだ通りの結果だったろう。

また米国の日独伊との戦争への参戦は、同盟国のイギリスのチャーチルも中国の蒋介石も望んだ結果なので、その意味でもルーズベルトはマッカラム計画に従って進めやすかったのだろうと思う。


本件に関する筆者の個人的見解

以下は筆者の個人的見解だが、ルーズベルトが日本をけしかけて、裏口からでも対独参戦したかった理由の一つは、ドイツの核開発疑惑ではないかと思う。

アインシュタインがルーズベルトにレターを送って、ドイツの原爆開発の可能性について警告したのは、1939年8月のことだ。

ルーズベルト宛のアインシュタインのレター

ae-fdr1











ae-fdr2










出典:Leo Szilard Online

その後1941年には英国からMAUDレポートと呼ばれる原子爆弾の製造は可能という報告もあり、ルーズベルトはウラン資源を持ち、核分裂研究で世界のトップだったナチスドイツが原爆を持てばアメリカのみならず人類の重大な脅威になると感じていたのは間違いない。

MAUDレポート

MAUDPageLarge












出典:Wikipedia

だからルーズベルトが米国民の8割を越える反対にもかかわらず、欧州の戦争に参戦したがっていた背景には、ドイツが原爆を世界に先駆けて開発して、世界を支配するのではないかという恐れがあったように筆者には思える。

この裏付けにも思えるが、ルーズベルトはアメリカの原爆開発計画を勧める科学者ヴァネヴァー・ブッシュの1941年11月のレターを、日本が真珠湾攻撃を仕掛けてくるまで手元にそのままキープしていた。

そして日本の真珠湾攻撃を受けて、アメリカが第2次世界大戦に参戦した直後の1942年1月に、自筆メモで原爆開発計画にOKを与えているのだ。

「このメモを金庫にしまっておけ」と原爆開発計画を承認するルーズベルトの手書きメモ

VBOKLarge












出典:The Manhattan Project

これが1942年にスタートしたマンハッタン計画のさきがけだ。

マンハッタン計画の中心人物Groves将軍と科学者オッペンハイマー博士

458px-Groves_Oppenheimer











出典: Wikipedia


掲載されている数百の暗号解読文だけでも著者のスティネット氏が導き出したルーズベルトは真珠湾攻撃を知っていたという仮説は正しいと思う。

まだ公開されていない暗合解読文などの資料が将来公開されれば、現在は状況証拠の寄せ集めに過ぎないスティネット仮説も実証される時が来るのではないかと思う。

もっともルーズベルト陰謀説が正しいからといって、それで歴史が変わる訳ではないし、スティネット氏が語るようにルーズベルトの評価が落ちる訳でもない。開戦を決断したのは、昭和天皇と東條英機他の当時の日本の指導者だという事実に変わりはないのだ。

田母神さんのように、日本はルーズベルトにはめられて戦争に引き込まれた被害者だと胸をはって主張するのは無理があると思う。マッカーサーの言うように日本は自己防衛の為に戦争をしたにせよ、戦争を始めたのは日本なのだ。

資料からの引用が多く読みにくいが、日本人として一度は目を通しておくべき資料だと思う。一読に値する本だ。


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2009年05月06日

B-29 日本爆撃30回の実録 東京空襲を行ったパイロットの証言

B‐29日本爆撃30回の実録―第2次世界大戦で東京大空襲に携わった米軍パイロットの実戦日記B‐29日本爆撃30回の実録―第2次世界大戦で東京大空襲に携わった米軍パイロットの実戦日記
著者:チェスター マーシャル
販売元:ネコパブリッシング
発売日:2001-05
おすすめ度:5.0
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中央区図書館で見つけて読んでみた。

東京裁判についての渡部昇一さんの「パル判決書の真実」を読み、いまさらながら、東京裁判は勝者が敗者を裁く復讐裁判で、勝者の「人道に反する罪」といえる原爆や東京空襲が不問に付されていることが気になったので読んでみた。

この本はB−29で日本爆撃を30回出撃し、無事生還した米軍のパイロットが当時の日記を元に爆撃の記録をつづったものだ。

以下写真の出典はすべてWikipedia。

Boeing_B-29_Superfortress_USAF






B−29は第二次世界大戦末期に投入されたボーイング製の4発の爆撃機で、レシプロエンジン(ジェットエンジンの対義語)では最高の爆撃機と言われている。

B−29は1万メートルを超える高々度で飛行していたので、日本軍の戦闘機も1万メートルまで上昇して攻撃することは容易ではなかった。

また日本軍の高射砲も一部を除いては1万メートルの敵機を打ち落とす能力はなく、ほんの一部のB−29を撃ち落としてたのみだった。

日本軍の高射砲弾は時限信管で、VT信管ではなかったことも、戦果が挙がらなかった原因の一つだ。

この本の著者がB−29で日本を爆撃したのは1944年11月から1945年6月までで、合計30回の爆撃ノルマをこなして、全クルーが無事米国に帰還している。

B−29はサイパンから日本を爆撃したが、1944年末当時はまだ硫黄島が米軍の手に落ちていなかったので、硫黄島からしばしば日本軍の戦闘機や爆撃機がサイパンの米軍基地を攻撃してB−29の損失も多かった。米軍は1945年2月に硫黄島総攻撃を開始し、3月に栗林中将を指揮官とする日本軍守備隊は玉砕した。

それ以降はサイパンに対する日本軍の組織的な攻撃はなくなり、硫黄島を基地とするP−51戦闘機が毎回数百機出撃し、B−29爆撃機を援護するようになり、日本本土上空でも日本軍戦闘機をB−29に寄せ付けなかった。

P−51

784px-P-51H






この本を読むと最初のうちは中島飛行機武蔵製作所や群馬県太田市の中島飛行機、名古屋の三菱などの飛行機工場を爆撃している。

ところが、3月9日になって急に東京への焼夷弾攻撃のブリーフィングが行われ、ほとんどの者が民間人攻撃の命令を受けて、信じがたい思いで座ったまま唖然としていたという。

合計334機のB−29で東京を火の海にしろという命令だ。

戦闘機の反撃はあっても圧倒的多数の護衛戦闘機に守られて軽微と予想されるので、弾丸は尾部銃塔のみに搭載し、焼夷弾を積めるだけ積んで出撃するのだと。

1個3キロ程度のM69焼夷弾を金属の帯で束ねて500ポンドの焼夷弾をつくる。

時限装置をつけ、地上に近づくと時限装置が作動して集束が解かれ、焼夷弾が広域にわたって散布されるしくみで、一機に24発の500ポンド焼夷弾を積み、横0.5マイル x 縦1.5マイルの範囲に散らばって落ちるという。

東京を焼き尽くし、民間人を攻撃するという出撃命令を受けてからはみんなふさぎ込んでしまったという。パイロットはこれが人道に反する攻撃だと知っていたのだ、

3月10日の東京大空襲では、高度2,000メートルで爆撃したので、がらくたや人肉の焼ける異臭がしたという。

日本軍の戦闘機は、屠龍、飛燕、鍾馗、月光などが迎撃し、このころから体当たり攻撃をするようになったこともあり、B−29のパイロットを恐れさせるが、実際には圧倒的多数の強力なP−51に守られたB−29まで到達する日本軍戦闘機はまれだったという。

屠龍

Kawasaki_Ki-45-1



飛燕

Kawasaki_Ki-61-14



鍾馗

Ki-44





月光

月光



この本の著者の属するB−29の25番クルーは30回、合計452時間の出撃を終えて米国に帰還する。

日本機撃墜10機、不確実7機、撃破2機というのが25番クルーの戦績である。

上記で紹介したように、東京空襲を行った米国人パイロット達も、民間人をターゲットとすることで落ち込んでいたのだ。

マッカーサーをフィリピンから追い落とした本間雅晴中将は、「バターン死の行進」の責任者として、戦後マニラ軍事裁判で死刑となり銃殺された。本間中将は銃殺される際に、自分はバターン死の行進の責任を取って殺されるが、広島や長崎に原爆を落とした張本人は罰せられないのかと発言したといわれる。

同じことが民間人をターゲットにした無差別爆撃の東京空襲にも言えると思う。(その意味ではドイツ軍のゲルニカ爆撃や連合軍のドレスデン爆撃、日本軍の重慶爆撃も同じことが言えると思う)

勝者が敗者を裁くのは戦争裁判の特質からやむをえないかもしれないが、民間人への攻撃を目的としたハーグ条約違反の行為は、たとえ軍事裁判にかけられなくても、「人道に対する罪」となると思う。

オバマ大統領は、チェコのプラハで核兵器廃絶をぶち挙げ、米国は唯一の原爆使用国として"moral responsibility"があると演説したが、東京やドレスデンなどへの民間人を対象とした無差別攻撃を命令した者についても、責任が明らかにされるべきだと思う。

そんなことを考えさせられる本だった。



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2009年04月11日

消えた潜水艦イ52 1997年のNHKスペシャル 恐るべきアメリカ軍の諜報力

2009年4月11日追記:

畑村さんの「失敗学のすすめ」を読み直してみたら、イ52を沈めた護衛空母ボーグが戦時中アメリカが大量生産したリバティ船を航空母艦に改造した船だということがわかった。

USS_Bogue_ACV-9





出展:Wikipedia

リバティ船とはそれまでのリベット接合に代えて鉄板を溶接して接合した急造の1万トン級の船で、全米18個所の造船所で戦争中に同じ形の船がなんと2,700隻も作られた。そのほかビクトリー船やT2タンカーなども合計1,000隻以上大量生産された。

WSA_Photo_4235






出展:Wikipedia

これらが大戦中の軍事物資の輸送に活躍し、アメリカを勝利に導いたのだ。リバティ船などの急造船のうち、なんと122隻がボーグの様な護衛空母に改造され、アメリカが戦時中につくった空母は151隻にも達した。

日本の全空母数の31隻に対して圧倒的な差である。

護衛空母のうち多くはイギリスにレンド・リース法により無償貸与され、イギリスの輸送船団護衛に威力を発揮した。

その後このリバティ船はなんと1,200隻の船体に何らかのダメージが生じ、230隻は沈没または使用不能となった。

冬の北大西洋で船体にダメージを受けるリバティ船が続出したので、理由を調査した結果、溶接鉄板の低温脆性のせいで沈没したことがわかった。これが畑村さんの「失敗学のすすめ」に書いてあったことだ。

それにしてもアメリカの圧倒的な生産能力に今更ながら感心する思いだ。

「消えた潜水艦イ52」で紹介されている武器の質の差とともに、これだけ圧倒的な物量の差があれば、とうてい日本には勝ち目はなかったことがわかる。


2009年4月8日初掲:

消えた潜水艦イ52 (NHKスペシャル・セレクション)消えた潜水艦イ52 (NHKスペシャル・セレクション)
著者:新延 明
販売元:日本放送出版協会
発売日:1997-08
おすすめ度:5.0
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1997年3月2日に放送されたNHKスペシャル、消えた潜水艦イ52を本にまとめたもの。YouTubeにも収録されている。





日本が最高機密にしていた潜水艦のドイツ派遣が、アメリカの暗号解読によってアメリカに筒抜けになっていたという驚くべき事実が語られている。

アメリカ側は派遣時期から同乗している民間企業の技術者の名前や専門まですべて調べ上げていた。

そして潜水艦の動静を刻々と追って、ついに対潜水艦攻撃部隊の最新鋭兵器によってイ52は大西洋の底に葬られたのだ

まるで孫悟空がお釈迦様の手のひらで踊らされて、最後はひねりつぶされたような感じだ。米海軍の教育用テープにまとめられた沈没したときの音までインターネットで公開されている。遺族は複雑な心境だろう。

イ52は第2次世界大戦中の日独の軍事交易のために派遣された対独派遣潜水艦の5隻めで、最後の派遣鑑だ。

大戦中の日独の潜水艦による軍事交易については、吉村昭さんの「深海の使者」を紹介したが、吉村さんの小説は生存者や関係者など約200人への取材に基づくもので、1973年(昭和48年)の発刊だ。

日本からの潜水艦には2トンもの金を積んでドイツに向かったものもあった。そのうちの一隻がイ52だ。

「深海の使者」ではイ52は昭和19年7月にフランスに入港する直前に消息を絶ったと書かれているが、実はイ52はドイツ潜水艦とのランデブーを終わった直後、昭和19年6月下旬にアメリカの電撃機の最新式の音響探知(ホーミング)魚雷により撃沈されていた。

なぜイ52から到着間近という連絡があったと誤解したのか理由は不明だという。

吉村昭さんが取材していた当時は、アメリカ軍の秘密文書は公開されていなかったので、日本側の関係者はアメリカ側がイ52の動静をシンガポール出航から追っていたことは一切知らなかった。

しかしアメリカ軍は日本軍や外務省の暗号通信を解読していたので、ドイツ派遣潜水艦の派遣決定や、潜水艦の同行などをつぶさにつかんでいたのだ。

だから第3弾のイ34がシンガポールを出た直後英国潜水艦トーラスに待ち伏せされ撃沈された。

また第4弾のイ29はドイツからからレーダー、魚雷艇エンジン、Me262ジェット戦闘機、Me163ロケット戦闘機の設計図とドイツで学んだ日本人技術者を乗せてシンガポールまで帰着したが、日本に帰る途中のフィリピン沖で米国潜水艦3隻の待ち伏せ攻撃で撃沈されてしまう。

広い太平洋でタイミング良く3隻の潜水艦が一隻の潜水艦に出会って、一斉に攻撃するということなどありえない。待ち伏せされたのだ。

最後のイ52は昭和19年4月23日に金2トン、生ゴム、錫、タングステン、キニーネなどを積んでシンガポールを出航した直後、5月7日にはアメリカ側に出航を感知されている。

たぶんシンガポール近辺で日本軍艦の出入りを監視していたスパイの報告によるものと思われる。

イ52については、日本側にはほとんど資料は残っていない。しかし1990年頃に公開されたアメリカ軍のウルトラトップシークレットによると、アメリカ側はイ52の渡航目的、乗り込んだ日本側の技術者の専門と出身会社、積み荷、そして動静から沈没地点まですべてつかんでいたことがわかる。

NHKはアメリカ国立公文書館に残されたアメリカ軍の秘密文書を大量に入手し、その分析をすすめて、この番組を制作した。

もっともNHKがイ52に注目したのはアメリカのトレジャーハンター、ポール・ティドウェル氏の宝探しがきっけだ



ティドウェル氏は、公開されたアメリカ軍のウルトラトップシークレット情報約2000ページを読み込み、その資料をもとに、イ52が積んでいた金2トンを海底からサルベージしようとロシアの海洋調査船をやとって宝探しを続け、とうとう5,000メートルの深海に横たわるイ52の残骸を発見した

アメリカ軍はドイツ派遣命令が出た翌日の昭和19年1月25日の東京の海軍省からベルリン駐在の駐独海軍武官に宛てた電文を解読して、イ52がドイツに派遣される予定であることをすでにつかんでいた。

アメリカ軍は当時全世界に電波の傍受網をはりめぐらせて、複数の施設で傍受して発信元を特定し、傍受した暗号文はすべてハワイやワシントンの暗号解読施設に直ちに送られて解読された。

当初は暗号の解読に時間がかかっていたが、昭和19年にはほぼリアルタイムで暗号解読ができるようになり、通信が行われてから4−5日で英訳した報告書が作成されていたという。

日本の暗号は複数あったがほとんどが暗号書と乱数表を使ったもので、まず文章を暗号表をもとに数字に置き換え、それを今度は乱数表にかける。そして受け取った側に、どの乱数を使ったか、どの個所から乱数を使ったかを示す符号を巧妙に電文に隠すというやりかたを取っていた。

だから一旦解読できたら後は簡単に解読できたのだ。

潜水艦の訪独作戦に関する連絡は短波の無線通信によって交わされ、その情報は深夜に浮上するイ52にも伝えられた。

アメリカ側は無線を傍受してイ52を追跡し、6月23日にドイツ潜水艦U530と会合し、ドイツ側からレーダー逆探知機を受け取り装備することまで知っていた。

その直後イ52号を追跡していたアメリカ海軍の第22.2対潜部隊で、護衛空母ボーグを中心に、ジャンセンハバーフィールドなど5隻の駆逐艦で構成されたUボート攻撃のベテランチームがイ52を攻撃した。

このボーグを中心とするチームは、ドイツから寄贈され、日本に向かっていた2隻のUボートのうちの一隻のU−1224(ロー501と改名)を沈めたチームでもある。

アメリカ側は最新式レーダーと潜水艦の音を探知する音響探知機ソノブイを装備したアベンジャー雷撃機を発進させ、ランデブー直後のイ52をとらえ、スクリュー音を探知して自動追尾する最新式のマーク24魚雷で撃沈した。

ランデブー翌日24日の午前2時のことだ。



イ52号を撃沈したソノブイと音響追尾魚雷マーク24は実戦に投入されたばかりだったという。

NHKの放送ではイ52を撃沈したパイロットのゴードン中尉にインタビューし、イ52が魚雷攻撃で爆発して沈没する時の様子をソノブイがとらえた録音を番組で流している。

この録音テープはアメリカ海軍の対潜水艦飛行部隊の教材テープとして使われていたもので、潜水艦のスクリュー音、爆破音、飛行機のパイロットの会話、ブリキ缶を踏みつぶすような水圧で艦体がつぶれる音まで入っていて、最後に2度の爆発音で終わっている。

こんなテープが残っていることを知ったら遺族はどう思うだろう。圧倒的な技術力と生産力の差が招いた悲惨なイ52の最期だ。

このイ52の対独派遣については、非常に詳しいサイトがあるので興味のある人は参照してほしい。

以前読んだ柳田邦男氏の「零戦燃ゆ」にも、アメリカ軍のVT信管(信管に小型のレーダーを組み込み、電波が敵機に当たって反射すると爆発する仕組み)により飛躍的に対空射撃の命中精度を上げ、勝利に貢献したことが書いてあったが、それ以外にもレーダー、ソノブイ、ホーミング魚雷、ヘッジホッグといい、日本軍とアメリカ・イギリス軍の軍事技術の差は大きい。

零戦燃ゆ〈2〉 (文春文庫)零戦燃ゆ〈2〉 (文春文庫)
著者:柳田 邦男
販売元:文藝春秋
発売日:1993-06
クチコミを見る



魚雷艇用高速回転エンジン

この本ではイ8が持ち帰ったベンツ製の魚雷艇用高速回転エンジンの話が取り上げられている。超高精度で加工された部品を見た三菱重工の技術者が、日本でのコピー生産は無理と断念した。

日本は外国の製品を輸入してコピー品をつくる「宝船」方式で兵器を生産してきたが、魚雷艇用のエンジンは大型鍛造クランクシャフトが日本で製造できないことと、1万分の1ミリの精度の加工精度は出さないことの2つで日本での製造は不可能だった。

大型船用のエンジンは製造できるが、100トン程度の小型船で70キロ以上の高速を出せるエンジンは軽量化と高速化回転が要求され、とても日本の技術では生産できなかったという。

日本とドイツの産業技術には大きな差があった。そしてそのドイツとアメリカ・イギリスのレーダーや音響兵器技術にも大きな差があった。

日本はレーダーや音響兵器の分野では世界のかやの外だった。

潜水艦で苦労してドイツに持ち込んだ日本自慢の酸素魚雷に、ドイツが見向きもしなかったことがよくわかる。

ドイツはアメリカと同様に音響魚雷を既に開発しており、イ52の積み荷の中には音響魚雷も入っていた。

もとから勝てる戦争ではなかったといえばそれまでだが、湾岸戦争でもイラクと米軍の圧倒的差が出たように、単に戦車とか軍艦とか潜水艦などのハードだけ作っても、搭載する武器の質や暗号解読などから得た情報を活用して戦略に活かすシステムの有無が大きな差になる。

現在の日本は世界トップレベルの加工技術を持っており、クランクシャフトなどはむしろGMなどビッグスリーはじめ全世界に輸出しているほどだが、戦前の日本の生産技術は欧米先進国とは大きな差があった。

昔筆者の友人から聞いた話だが、友人のおじいさんが三菱商事につとめており、戦前にチェコから機関銃を輸入して、バラバラに分解し、再度組み立てたら、すべてが元通り組み立てられたので驚いたという。

当時の日本の技術では加工精度が低かったので、部品をぴったり会わせるために、削って寸法を合わせていたのだ。

だからバラバラに分解して部品を混ぜてしまうと、それぞれちょっとずつ寸法が違ったので、元通りぴったり合わせることは不可能だったという。

NHKの番組では、イ52と運命をともにした三菱重工の蒲生さんというエンジニアにスポットを当てて、圧倒的な差があるにもかかわらず、なんとか欧米との差を縮めようと努力した当時の事情を紹介している。





この話はドラマとしてはおもしろいが、それにしてもアメリカ軍の徹底的な暗号活用と日米の軍事技術の差に驚かされる。

YouTubeに収録されているので、是非番組も見てほしい。"i-52"(アイ52)で検索すると数件表示されるはずだ。

たまたま図書館で見つけた本だが、大変おもしろかった。

是非図書館やアマゾンマーケットプレースで見つけて、一読されることをおすすめする。


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2007年07月19日

ノモンハンの夏 スターリンの術中にはまった日本

ノモンハンの夏
ノモンハンの夏


第2次世界大戦直前の日本について、「日本軍のインテリジェンス」や、関榮次さんの「Mrs. Ferguson's Tea-Set」で紹介されていたので、当時の重大事件であるノモンハン事件について書いた定番とも言える1冊を読んでみた。

日本陸軍のインテリジェンス(情報活動)は、巨額の予算を使って優秀な人員も集め、IBM製の統計機も持っていた。その仮想敵国は米英でなく、ソ連だった。

ソ連の脅威は陸軍首脳を常に悩ませた。

その理由の一つが、ノモンハンでの関東軍のソ連軍に対する壊滅的な負け戦だ。

1939年5月(第一次)と7ー8月(第二次)ノモンハンでの負け戦の原因としてよく挙げられるのは次の点だ:

1.日露戦争時の戦術から進歩していない精神論中心の日本陸軍と、世界でトップクラスの戦車を持ち、戦術も20世紀型に進歩させているソ連軍の差 例えば第一次事件ではソ連戦車は火炎瓶攻撃に弱かったが、第二次では弱点をすぐに修正した

2.師団数で関東軍の11師団に対し、ソ連軍は30師団、戦車も200両に対し2,200両、航空機560機に対し2,500機という圧倒的な物量の差(実際に動員された戦車、航空機はそれぞれ500−600という説もある)

3.兵站の差。最寄り駅から750キロ離れているソ連軍に対し、日本軍は200キロだったが、ソ連には豊富な輸送力があり、距離の差は意味をなさなかった。むしろ日本軍には輸送手段のトラックが不足しており、歩兵は歩いて戦場までたどり着く始末で、武器・弾薬・食料・飲料が決定的に不足していた。

4.数だけでない兵器の質の差。たとえばソ連軍の短機関銃に対し、日本の三八式歩兵銃が中心兵器だった。日本の戦車は対戦車戦用の武器を持っていなかった等。

5.辻政信らの関東軍参謀が、東京の陸軍参謀本部の「侵されても侵さない。紛争には不拡大を堅守せよ」という不拡大方針を無視して、戦いを進めたこと


1939年は世界の運命の分かれ道

この本を読むと、よく挙げられる上記の点の他に、1939年当時の国際関係を反映し、スターリンがドイツと日本の両面作戦を避ける為に、一度日本を全力で叩いておく目的でノモンハン事件に臨んだことがよくわかる。

1939年当時の日本は、陸軍は同じ仮想敵国ソ連を持つドイツ(+イタリア)との軍事同盟を主張していたが、海軍は参戦義務のある軍事同盟を(ほとんど海軍力のない)ドイツと結ぶことは、全く勝算のない米英戦に巻き込まれるとして反対していた。

煮え切らない日本をなんとか引き込もうとして、ドイツのヒトラーはソ連と手を結ぶことを考える。

一方ソ連のスターリンは英仏と三国安全保障会議を申し出、ドイツと両天秤に掛ける。

そんな中で5月に関東軍とソ連・蒙古連合軍との間で、戦闘が勃発する。ソ連外相モロトフは、駐ソ大使東郷茂徳を呼び、これ以上の侵略行為は許さないと警告する。

同じく5月にドイツとイタリアは軍事同盟を結ぶ。スターリンは独伊の接近と、関東軍の好戦的活動に危機感を抱き、関東軍を完膚無きまでに叩いておくことを決意する。これがノモンハン事件の背景だ。


ソ連の術中にはまった関東軍

6月にスターリンは、腹心の部下ジューコフを満州国境に派遣し、戦車、飛行機を中心に大兵力増強を行い、着々と準備を整える。

日本にいるソ連のスパイゾルゲを使って、日本は対ソ連と本格戦争をする準備をしていないことがわかったことも、関東軍を痛撃する決意を固めた要因だ。

そんなこととはつゆ知らず、関東軍の辻と服部参謀は、ソ連軍を先制攻撃する「牛刀作戦」を計画、東京の参謀本部も不拡大方針を出していながら、一個師団程度であればと黙認してしまう。

まずは6月末に日本軍による空襲が行われた。

天皇はこの空襲を統帥権違反ととらえ、今後このようなことが再び起こらないようにと、厳重注意したが、陸軍はなにか隠しているのではないかと感じていた。

天皇の不安は的中し、7月1日から関東軍はソ連軍への攻撃を開始する。第2次ノモンハン事件の2ヶ月にわたる戦闘が開始された。

関東軍の主力戦車は八九式中戦車で、短砲身戦車砲はBT戦車を中心とするソ連の戦車には全く役に立たない。元々戦車対戦車の戦いは日本軍は想定していないのだ。


欧州の新情勢と時を同じくしたソ連軍の総攻撃

ノモンハンで戦闘が続いている間に、欧州では大きな動きがあった。

8月に入ってヒトラーはスターリンに不可侵条約を結ぶ用意があると伝え、8月23日に独ソ不可侵条約が締結される。

大島駐独大使に対して8月21日深夜に独ソ不可侵条約締結が伝えられ、日本にも伝達される。平沼内閣は、「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じましたので」という名文句で辞職する。

欧州の政治情勢が急展開する一方、ソ連軍は8月20日から総攻撃を開始する。

圧倒的に優勢なソ連軍により関東軍は壊滅的打撃を受け、8月29日には現地で撤退命令が出され、翌8月30日には戦闘終結の天皇命令が出される。

一方ソ連と結んだヒトラーは9月1日に電撃作戦でポーランドを占領すると、ソ連と一緒にポーランドを分割した。第2次世界大戦のはじまりだ。


第二十三師団の損耗率は実に76%

日本軍の損失は第六軍出動人員約59千人に対して、戦死・戦傷・戦病・行方不明合計約20千人。

第二十三師団については損耗率は76%だった。ガダルカナルでも損耗率は34%なので、日本軍の歴史の中で最悪の結果となっている。

ソ連蒙古軍も損耗は24千人。圧倒的な戦力を持ちながらソ連軍もこれだけの犠牲を出さなければならなかった。

司令官のジューコフはスターリンに報告する。

「日本軍の下士官兵は頑強で勇敢であり、青年将校は狂信的な頑強さで戦うが、高級将校は無能である」

現地で指揮した部隊長などは、自らの意思であるいは強要されて自決した人が多かったが、辻、服部のコンビはいったんは左遷されるものの、すぐに参謀本部作戦課に復帰する。

過去から学ばない人物の典型が日本を米英との戦争に追いやり、そして戦後も長らえ、辻にいたっては国会議員にまでなった。

半藤さんは戦後国会議員になった辻政信に会ったことがあるという。

「絶対悪」が支配した事実を書き残しておかねばならないという考え、この本を書いたと半藤さんは語る。「人はなにも過去から学ばない」と。


米英と組むという選択

1939年には日本には米英と組む選択肢もあった。天皇もそれを望んでいた。実際米英と組むか、独伊と組むかを政府、陸海軍で議論していた。

それが日独伊三国同盟に向かうのは、関榮次さんがMrs. Ferguson's Tea-Setで紹介したドイツによる日本への英軍秘密情報の提供も一つの要因だろう。

また独ソ不可侵条約ができれば、日独伊ソ四国同盟ができるかもしれないという希望的観測もあった。

ドイツのポーランドに続くフランス占領、ソ連侵攻など、第二次世界大戦初戦での勝利の勢いも要因の一つだろう。

他にも要因はあるが、それにしても1939−1940年の日本の日独伊三国同盟・そして開戦に至る政策決定は、あり得ない選択である。

これからもこの時期の日本を取り上げる作家は出てくると思う。後世の人間にはいくら調べても理解ができない話題ではある。


ノモンハン事件を詳しく知らなかった筆者には、この本を読んで新しい発見がいくつもあった。

「入学試験に出ない」という理由で、昭和以降の現代日本史を高校であまり教わっていない筆者の年代前後の人に、特におすすめの一冊である。


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Posted by yaori at 12:58Comments(0)