2016年11月13日

【再掲】トランプ 次期アメリカ大統領に! やはり米国民はチェンジを選んだ

トランプが大統領に当選した。獲得票数ではヒラリーが上回っていたが、米国の選挙制度は州の選挙人総取り制度なので、トランプが過半数を上回る選挙人数を獲得して当選した。

筆者の本件に関する見方は選挙前と変わっていない。

やはり米国民は”チェンジ”を選んだ。民主党でなく、共和党を選んだ。その共和党の代表がトランプだったということだ。

トランプがこの本で公約したことが、すべてそのまま実現するとは思わないが、再度トランプの言っていたことを紹介するために、このあらすじを再掲する




米国大統領選挙が11月8日(火)にせまっている。民主党のヒラリー・クリントン、共和党のドナルド・トランプ、いずれが大統領になっても、史上最低の大統領となるのではないかという気がする。

バラク・オバマも、大統領になる前に筆者は期待を込めて、オバマの「マイ・ドリーム」「合衆国再生」の2冊のあらすじを紹介している。

この本の帯に、トランプは「次期アメリカ大統領に最も近い男」として、紹介されている。たしかに、相手のヒラリー・クリントンは女性なので、トランプが”もっとも近い男”であることは間違いない。

だから、トランプには期待していないが、トランプの自伝のあらすじを紹介する。

同じく本の帯に、”救世主か”、”詐欺師!か”、”日本の敵か”、”味方か”という文句も載っている。

日経新聞では「もしトラ」という、もしトランプが大統領になったらというシリーズを立ち上げて、半信半疑で予行演習している。みんなトランプが大統領になったら…という一抹の不安を持っているからだ。

この本は、図書館の新刊書コーナーに置いてあったので、読んでみた。米国大統領の座を争っている候補者の本が新刊書コーナーに置いてあっても、誰も手を出さないということは、トランプが大統領になんてならないと、みんな思っているからだろう。

しかし、この本を読んで、”ひょっとして”ということもあるかもしれないと思えてきた。というのは、トランプが言っていることは、オバマが8年前に言っていたことと同じだからだ。

”チェンジ”である。

トランプは”チェンジ”という言葉は使わないが、オバマがこの8年間で、失政を積み重ねて、米国を現在のような状態にまで追い込んだ。自分は「オバマケア」など、オバマのやった多くのことをすぐに廃止する。私は、米国が再び偉大な国になるまで、祖国のために戦い続けるのだと主張している。

この本の原題は、"Crippled America"(訳すと”障害者アメリカ”となる)だ。原著は、わざと怒っているトランプの写真を表紙にしている。



オバマ政権に対する民衆の失望を自分の力にしようというトランプの作戦だ。

外交政策

この本でトランプは、メキシコとの国境に壁を作って、不法移民をシャットアウトするという政策を繰り返している。国境の地形から、壁が必要なのはせいぜい1,600キロで、すでにアリゾナのユマにモデルとなる長さ192キロの壁ができているという。

ユマ・セクターと呼ばれる壁ができてからは、不法入国を試みて逮捕された人の数は72%減少したという。

「建設資金はメキシコに絶対に払わせる。」

「国境に関する様々な費用を値上げしたり、ビザ手数料を値上げしたり、関税を変えたり、メキシコへの海外支援を打ち切ってもよい。」

「私は移民を愛している。移民受け入れには積極的だが、不法移民はお断りだ。」

「米国は法治国家かそうでないかをはっきりさせる。口先だけで行動を起こさない政治家にはうんざりだ」。

トランプは、生得市民権にも反対だ。「なぜ米国で生まれたからといって、不法移民の子供にまで自動的に市民権を付与しなければならないのか。」

「もともと合衆国憲法修正第14条は、南北戦争後に解放された奴隷に市民権を付与することが目的だったのだ」。

防衛政策

トランプは、米軍を強化する。

「中東その他における米軍の軍事政策があまりに弱腰なために、誰も我々を信じようとしない。」

「はっきり言っておこう、米国は今後、米国史上最強の存在となる。兵士たちは最高の武器と防御装備を供与される。兵士たちは米国の英雄だ。だが現政権はそのことをすっかり忘れている。」

「サウジアラビアにも、ドイツにも、日本も韓国にもイギリスでも米軍はただ働きで安全を守っている。」

「米国に守られている国々は、正当な金額を我々に支払うべきだ。私に舵取りをさせれば、彼らに必ず払わせる!」

トランプは、ニューヨークの学校でトラブルメーカーだったので、ニューヨーク・ミリタリー・アカデミーに送られ、そこを卒業している。最終的にはペンシルベニア大学MBAコースのウォートン・スクールを卒業している。

「オバマ大統領のイランとの交渉は、私が知る限り最悪のものだ。あれ以上まずいやり方は不可能だろう。
どんな犠牲を払おうと、どんな手段を用いようと、イランに核兵器を作らせてはならない。」

「私は以前から、ユダヤ人を愛し、尊敬し、イスラエルと特別な関係を結ぶことに賛成してきた。米国の次期大統領は、伝統的に強固なイスラエルとのパートナーシップを再建しなければならない。」

「中国は敵以外の何者でもない。彼らは低賃金労働者を利用して我々の産業を破壊し、数万人の仕事を奪い、我々のビジネスをスパイし、テクノロジーを盗み、自国の通貨を操作し、切り下げることによって中国市場での米国製品の価格をつり上げ、時には販売不能に追い込んだ。」

内政について

トランプは再生可能エネルギー開発に反対だ。

「そもそも再生可能エネルギーの開発は、地球の気象変化は二酸化炭素の排出が原因だとする誤った動機から始まっていた。ソーラーパネルは確かに効果はあるが、経済的には無価値だ。」

トランプはオバマケアは即刻廃止すべきだと主張する。

「疑問の余地はない。オバマケアは大災害だ。」

「民主党が『オバマケア』を無理やり成立させたやり方を思い出すと私は今でも怒りに震える。」

「私ほどビジネスというものを理解している人間はいない。より良い保険により安く加入したいのなら、消費者のために保険会社を競合させることだ。私の理屈通りに事を運べば、我が国の医療制度も、そして経済もすぐに上向くだろう。」

経済政策

経済政策については、トランプは「経済こそが大事なのだ。愚か者め」という題の章を設けているが、内容は抽象的で、具体策はない。

「私は金持ちだ。半端でない金持ちだ」、と言い出したかと思うと。

(本の最後にトランプのバランスシートが掲載されている。それによると総資産が92億ドル、負債5億ドル、純資産87億ドルとなっている。トランプは過去5年間で、1億ドル以上寄付したという)

「社会保障に手を付けるべきではない。議論の余地は全くない。」

と高齢者にリップサービスをして。

「米国に仕事がない。仕事が消え去ってしまったのだ。だから、中国、日本、メキシコといった国々から雇用を取り戻さなければならない。」

この章の最後はこんな終わり方だ。

「そして今、私は米国のために戦う。私は米国に再び勝利して欲しいと願っている。そしてそれは可能なのだ。
我々がすべきことは、勝利のために専心し、かつて『メイド・イン・アメリカ』が持っていた名誉を取り戻すことだ。」

(筆者コメント:具体策はなにもない。米国企業が外国に生産を移しているのは、経済合理性のためであり、外国製品を買っているのは、ほかならぬ米国民だ。これでは何をすればいいのかわからない、と言っているのと同じことだろう)。

「ナイスガイは一番になれる」

「ナイスガイは一番になれる」という章もある。

断っておくが私は「ナイスガイ」だ。本当だ。」

この章で出てくる例は、メイシーズのCEOと長年良い関係を結んできたが、トランプのメキシコに関する発言で、メイシーズはトランプとの関係を断つとプレスリリースした、とか、NBCはトランプの関係するミスユニバースなどのショーのオンエアを拒否したので、トランプが訴えた、とかいった話だ。

おまけに、

「言っておくが私の髪はすべて自毛である。」

武器を持つ権利

トランプは武装する権利を擁護する。

合衆国憲法修正第2条は、市民が武器を保有し、携帯する権利を保障している。トランプ自身も武器を持っており、銃の「コンシールド・キャリー」(外から見えないようにしていれば銃を持ち歩ける)の許可証も持っていると。

(筆者コメント:これで一定のNRA票は確保できるだろう)。

メディアやロビイストを相手にしない

トランプは、メディアとは常に敵対している。また、選挙運動はすべて自分の金で運営しているので、ロビイストの入り込む余地はないと。

「メディアというものは恥ずかしげもなく嘘をつき、ニュースを捻じ曲げてしまうのだ。あらゆる世論調査が、人々がもはやメディアを信用していないことを示している。」

税制

トランプは、「私ほど税法を理解している政治家は他にいない。米国の税制はすべての米国人にとってフェアで、もっとシンプルな制度に変えなければならない」という。

トランプの税制改革案は、0%、19%、20%、25%の4つの税率にする。さらに。相続税をなくす、というものだ。金を稼いだのは故人で、税金はすでに支払われているからだ。

大金持ちの控除の多くは廃止するというが、相続税をなくすことは、大金持ち優遇とみられても仕方がないだろう。

しかし、減税につながる税制改革案は一定の支持が得られるだろう。

過去のセクハラ

ヒラリー陣営から過去のセクハラを攻撃されている。これについては、トランプ自身は次のように言っている。

「私は、自分の今までの女性への接し方を、これ以上ないほど誇りに思っている。」

この件に関してもっとも的確な意見を行けるのは、娘のイヴァンカだろう。私の子供たちは私のために働いているだけでなく、私が批判された時には真っ先に弁護してくれる。このことも私にとって大きな誇りだ。


この本で、あきらかに、トランプは保守派、中産階級、労働者階級、高齢者の票にターゲットを絞って、これらの人へのリップサービスに努めている。オバマ=民主党より、ましではないかと思わせたいのだろう。

今回の大統領選挙の結果は、まともにいけばヒラリーの勝ちだろうが、議会でも少数派となっている民主党から米国民の支持が離れている傾向があるので、民主党から再び大統領がでるかどうか予断は禁物である。

大統領選挙が終わるまでの賞味期限の本かもしれないが、トランプの主張はよく理解できた。

とりあえずは、あまり積極的に読む必要はない本なので、上記あらすじを参考にしてほしい。


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2016年10月05日

あの日 小保方晴子さんの逆襲始まる しかし…

あの日
小保方 晴子
講談社
2016-01-29


STAP細胞騒動で、名前を知らない人はいなくなった小保方晴子さんの逆襲本。

Amazonのカスタマー・レビューでは賛否両論で、800以上ものカスタマー・レビューが投稿されている。

さらにそれぞれのカスタマー・レビューにも、時には数百のコメントが寄せられている(相当なコメントがアマゾンによって削除されているので、攻撃コメントだと思われる)。

中には科学誌への論文投稿に詳しい専門家や自殺した笹井副センター長の後輩と称する人も投稿している。

カスタマー・レビューだけを読んでも、この本の内容が大体わかるような分量だ。

小保方さんは、最近、婦人公論に登場している。この本を2016年1月に出版して、逆襲を始めたようだ。



また、STAP HOPE PAGEという英文サイトを立ち上げている。

このサイトは2016年3月に開設されて、4月に数件の追加がなされた後は、そのままとなっている。このタイミングで海外でのSTAP細胞研究のニュースがあって、サイトを開設したのではないかと思う。

STAP HOPE PAGE






















出典: STAP HOPE PAGE

STAP HOPE PAGEにはSTAP研究の概要STAP細胞製作のプロトコルSTAP細胞検証実験の結果などが紹介されている。

この本を読んでの筆者の小保方さんに対する評価は、到底一流の研究者とは言えないレベルにあるということだ。

ケアレスミスが多すぎる。さらに、ミスをそのまま放置しているので、これは人をミスリードすることと結果的に同じだ。

筆者も仕事柄、多くの人の報告書をチェックする立場にある。

筆者自身も自分が書いた文章の読み返しはあまり好きではなかった。しかし、他人の報告書をチェックする立場になったら、どれだけ"Proofreading"(日本語の「校正」とは、ちょっとニュアンスが違うので、"Proofreading"という言葉を用いる。徹底的な読み返しのこと)が重要なのか、よくわかった。

スペルミス、タイプミスなどのケアレスミスが多いと、報告書の信用度を大きく棄損する。

報告書作成者が”Proofreading"をしていなければ、報告書の品質は保てず、そんな人が実施した調査や実験はミスがあるのではないかという印象を与える。

また、筆者の経験からいうと、読み返しの習慣は簡単なものなので、他の人に一度注意されたら、ほとんどの人が実行するようになり、次回からはミスは相当減る。

それでもミスが減少しないということは、本人がやる気がないということだと思う。

もともとSTAP細胞の真偽についての論争は、STAP細胞実験がなかなか再現できないというところから出たものではなく、小保方さんの過去の論文の発表資料の使い回しがあったり、早稲田大学での英文の博士論文の序論の部分の大半が、米国国立衛生研究所のサイトのES細胞に関する説明コピーだったということに端を発した。

これはネットのブロガーなどが見つけた不備で、STAP細胞の発表から1週間も経っていなかったので「クラウド査読」として話題になった。

製本して国会図書館に収められた博士論文が草稿段階のものだった。だから、相当な部分がコピペだった?

小保方さんだけの責任ではないかもしれないが、あり得ない言い訳だ。

この件に関しては、アマゾンのカスタマー・レビューで同じ意見を書いている人もあり、これまた賛否両論のコメントが寄せられている。


ともあれ、この本のあらすじを紹介する。

小保方さんは、高校受験に失敗し、大学はAO入試で入れる早稲田大学を選択した。早稲田では体育会のラクロス部で活躍し、理工学部の応用化学科に進学した。応用化学科に進学したのは、組織工学による再生医療に強い興味を持っていたからだ。

組織工学は、細胞と足場になる材料を用いて、生体外で移植可能な組織を作りだすものだ。

この分野が注目を集めるきっかけとなったのは、のちに小保方さんが留学するハーバード大学のチャールズ・バカンティ教授が人工的に作られたヒトの耳をマウスに移植した「バカンティ・マウス」を発表したからだった。

Vacanti_mouse















出典:Wikipedia英語版

組織工学を研究するために、早稲田大学が提携していた東京女子医大先端生命医科学研究所で、大和雅之教授の指導を受けて細胞シートを用いた再生医療技術を研究し、それが縁でハーバード大学に留学する。

ハーバード大学ノバカンティ研では、東京女子医大に比べると設備が揃っていなかったという。バカンティ教授は、麻酔学教室の教授であり、組織工学の第一人者ではあるが、ハーバード学内外で、あまり支援を受けていなかったようだ。

この本の最初の部分は、小保方さんが行った実験に関する技術的な説明で、脚注もないので、あまり一般読者を意識したものになっていない。

覚えておくべきなのは、もともと単一細胞の受精卵から細胞分裂を繰り返して体の各組織が形成されていくなかで、エピジェネティクスと呼ばれる、いわば鍵がかけられ、分化した細胞には多能性は失われるということだ。

そのエピジェネティクスを解除する方法が、iPS細胞では、4つの遺伝子で、STAP細胞は弱酸性の環境である。

STAP細胞の発表の際に、発表の司会を務めていた亡くなった笹井副センター長が、得意顔で「これでiPS細胞が時代遅れとなったとは、決して考えてほしくない」(正確な表現は思い出せないので、筆者の記憶)というようなコメントをしていたことを思い出す。

その時にマスコミに示され、あとで回収されたSTAP細胞とiPS細胞の間違った比較図は、いまだにネットで検索すると手に入る。

STAPiPS比較






























出典:インターネット検索

小保方さんは、バカンティ研所属の研究員として、理研の若山研で、バラバラのリンパ球にストレスを与え、Oct4陽性細胞に変化していくことを確かめる実験を行っていた。これが次のビデオにある実験の第一段階で、STAP細胞研究の発表の際に、公表されたスライドの緑に光る細胞だ。

その次の段階として、Oct4陽性細胞という多能性を示す細胞を使ってキメラマウスをつくる実験は、若山教授が担当していた。これはSTAP幹細胞への変化を立証するものだ。

最初は失敗の連続だったが、Oct4陽性細胞をマイクロナイフで切って小さくした細胞塊を初期胚に注入してキメラマウスができたという連絡があった。

しかし、これはゴッドハンドの若山教授しか成功していないもので、若山教授自身も「特殊な手技を使って作製しているから、僕がいなければなかなか再現がとれないよ。世界はなかなか追いついてこれないはず」と話していたという。

この作製方法は、結局小保方さんには明かされなかった。「小保方さんが自分でできるようになっちゃったら、もう僕のことを必要としてくれなくなって、どこかに行っちゃうかもしれないから、ヤダ」と言われたという。

キメラマウス作製のデータを作る際には、つじつまの合うデータを仮置きして、ストーリーにあわせたデータを作っていくという若山研での方法に従って行われた。

特許申請の手続きも開始され、若山教授は幹細胞株化は若山研の研究成果であり、特許配分も若山教授51%、小保方さん39%、バカンティ教授と部下の小島教授に5%ずつという特許配分を理研の特許部門に提案していた。

このころ、先輩研究員から、「若山先生の様子がおかしい」と言われたという(このあたりが伏線となる)。

小保方さんは、理研のユニットリーダーに応募して合格し、英語の論文をまとめるための指導教官として笹井芳樹副センター長が加わってきた。

STAP=Stimulus-Triggered Acquisition of Pluripotencyという名前を考えたのも笹井教授だ。

STAP論文は5ページくらいのアーティクルと3ページくらいのレターとして、ネイチャーに投稿していた。何度かのやりとりを経て、2013年12月にネイチャーからアクセプトの連絡があり、2014年1月28日に記者会見を開催した。



このときに使われた上記のiPS細胞との比較図に京大の山中教授が抗議して、理研はあとで配布資料を回収し、笹井教授は山中教授に謝罪している。

論文発表から1週間で、前述の通り、論文の写真の使いまわしの疑義があるという話が分子生物学会から理研に持ち込まれた。あとはご存知の通りの顛末だ。



この本で小保方さんは誰かがES細胞を混入させた可能性があるという状況証拠をいくつも上げて、その立場にいたのは研究室の責任者の若山教授ではないかと思わせるような発言を繰り返している。

さらに、若山教授は、論文撤回の際にも、他の著者たちに知らせずに単独で撤回理由書の修正を依頼していたという。

論文撤回の部分はともかく、誰かがES細胞を混入させたなどという証拠もない話を信じるほど世の中は甘くない。

若山教授もいい迷惑だと思う。

小保方さんは、NHKにも、また毎日新聞の須田桃子記者にも逆襲している。

「特に毎日新聞の須田桃子記者からの取材攻勢は殺意すら感じさせられるものがあった。」

須田さんは、先日読んだ「捏造の科学者」という本を書いている。須田さんは小保方さんの早稲田大学理工学部の先輩だ。

捏造の科学者 STAP細胞事件
須田 桃子
文藝春秋
2015-01-07



一方、今年に入って、ドイツのハイデルベルグ大学の研究チームが、小保方さんの作成手順を一部変更する形で細胞に刺激を与える実験を行い、多能性を意味するAP染色要請細胞の割合が増加することを確認したとする論文を発表している。

STAP細胞が再現できる可能性も出てきた。

筆者も、STAP細胞が再現できることはありうると思う。しかし、問題は、それが酸に浸されて死にゆく細胞の最後の光なのか、それともその後STAP幹細胞となる細胞分裂の始まりなのかという点だ。

ドイツでもキメラマウスはできていない。

結局、STAP細胞は単なる捏造騒動に終わるのではないかと思う。

最後に、アマゾンのカスタマー・レビューで、小保方さんの文章力をほめるレビューが結構ある。しかし、筆者はこの本は小保方さんの話をゴーストライターがまとめたものだと思う。

あのメモ程度の文章力しかない人が書ける文章ではない。

obokatamemo

























出典:”小保方メモ”ネット検索

この関係では「ビジネス書の9割はゴーストライター」という本のあらすじを紹介しているので、業界事情を参考にしてほしい。




これからも小保方さんは逆襲に転じるのだろうと思う。これは共同研究者同士のいわゆる「内ゲバ」に近い。STAP細胞というアイデアが実用化できない以上、無益な戦いに思えるのだが…。


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2016年01月11日

ぼくの命は言葉とともにある 全盲ろうの東大教授 福島さんの本



9歳で失明、18歳で聴力も失って全盲ろう者となった東大教授の福島智さんの本。

この本はアマゾンの「なか見!検索」には対応していないので、なんちゃってなか見!検索で、目次からピックアップして紹介しておく。大体の内容がわかると思う。

☆プロローグ 「盲ろう」の世界を生きること

・「世界」から消えて行った光と音
・コミュニケーションの喪失―絶望と希望の狭間で揺れ動く
・コミュニケーションの復活と再生

第1章 静かなる戦場で
・生きる意味を探す闘いが続く
・極限状況の中でこそ人間の本当の価値が発揮される
・意味があるからこそ生きられる―フランクルの公式「絶望=苦悩―意味」との出会い

第2章 人間は自分たちが思っているほど強い存在ではない
・どん底の状態にあって、それでも生きる意味があるかと自らに問う
・どんな人間にも、生きる意味がある
・石のように眠り、パンのように起きる、そんな素朴な生の中に生きる意味が与えられている
・豊かな先進国にしか「自分らしさ」を求める人間は存在しない
・盲ろうを受け止めた精神力、しかしそれも無敵ではなかった

第3章 今この一瞬も戦闘状態、私の人生を支える命ある言葉
・コミュニケーションこそが人間の魂を支える
・その言葉にどういう意味が込められているのか
・たとえ渋谷の雑踏の中にいても、人は孤立する
・コミュニケーションによる他者の認識が自己の存在の実感につながる
・指先の宇宙で紡ぎ出された言葉とともにある命

第4章 生きる力と勇気の多くを、読書が与えてくれた(この章は全節を紹介する)
・「クマのプーさん」が想像の世界に誘ってくれた
・「杜子春」を読み、真の幸福について考える
・自分の中の沼に沈む
・「いのちの初夜」にいのちの本質を見る
・吉野弘の誌「生命は」によって、いのちの美しい関係性を感じる
・小松左京のSF的発想に生きる力をもらう
・自由な発想とユーモア、SFと落語に共通するエッセンス
・落語が教えてくれた「笑いが生きる力になる」ということ
・アポロ13号とロビンソン・クルーソーに極限状況をいかに生きるかを学んだ
・この四年間は北方謙三の小説に支えられて生きてきた

第5章 再生を支えてくれた家族と友と、永遠なるものと
・自分が人生の「主語」になる
・「しさくは きみの ために ある」
・病や障害は因縁のためなのか
・宗教は「料理」のようなもの(宗教は人間にとって必要な「魂の食べ物」のようなもの)
・限界状況と超越者の暗号

第6章 盲ろう者の視点で考える幸福の姿
・後ろに柱、前に酒…
・幸せの四つの因子
・幸福の四つの階層
・幸福の鍵を握る「ある」ということ
・幸福の土台は希望と交わり
・競争でなく協力を伴うチャレンジが人生を輝かせる

フランクルについては、このブログの「夜と霧」のあらすじを参照願いたい。

福島さんは全盲ろう者として初めて大学に進学(東京都立大学)、教育学を専攻し、大学院に進んで、金沢大学助教授などを経て、現在は東大の先端科学技術研究センターで、バリアフリー論や障害学の研究に取り組んでいる。

ちなみに全盲ろう者で、大学に進学したのはヘレン・ケラーが世界で初めてということである。福島さんは、2011年に米国の国立ヘレン・ケラー・センターに1年間長期出張している

筆者はヘレン・ケラーの話をどこで読んだか覚えていないが、たぶん教科書に載っていたのではないかと思う。映画「奇跡の人」の有名なサリヴァン先生が、ヘレンの手で水を触らせ、”water”と教える場面などを覚えている。

奇跡の人 [DVD]
アン・バンクロフト
20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
2011-06-22



福島さんの本は、これまで福島さんの奥さんとの会話など、日常生活を中心に紹介している「生きるって人とつながることだ!」を読んだことがある。



全盲、あるいは全ろうだけでも大変な障害だろうが、全盲ろうということは、全く音の聞こえない暗闇で生活しているわけで、想像できない困難な環境だ。

この本では「生きる力と勇気の多くを、読書が与えてくれた」という章で、全盲ろう者の福島さんが様々な本を紹介しているの。上記の目次で第4章の全節のタイトルを紹介したのは、そのためだ。

福島さんは、2011年にニューヨークに長期出張して体調を崩しているときに北方作品を知って、最近四年間は北方謙三に支えられて生きてきたとまで言っている。本の最後に、北方謙三と対談したことを紹介している。

北方謙三は、分厚い手をしていて、福島さんは握手した時に、「さすがにしっかりとした、いい手をなさっていますね」と思わず言った。

対談の最後に、北方謙三は、「(福島)先生の言葉は、鼓動ですよ」と語った。福島さんは、その端的で美しい表現に感動したという。

北方謙三の本は、いままで一冊も読んだことがなかったので、この本に紹介されている「秋霜」を読んだ。これは「ブラディー・ドール」シリーズの一冊ということだ。

秋霜 (角川文庫)
北方 謙三
角川書店
1990-10


そのほかにも北方さんの警部もの、剣豪もの、歴史小説、中国歴史小説などの作品が紹介されている。




小説以外にも、聖書のイエスの起こした奇跡、パスカルの「パンセ」、デカルト、ヤスパース、トルストイの「戦争と平和」、バートランド・ラッセル、吉本隆明、エーリッヒ・フロム、果ては「アルジャーノンに花束を」まで、非常に広いジャンルの作品の一節を紹介している。




ちなみに「アルジャーノンに花束を」はTBSで昨年ドラマ化されている。

アルジャーノンに花束を





















出典:TBS番組サイト

盲ろう者の福島さんがこれだけの本を読んでいることに対して、健常者の筆者は忸怩たる思いを感じながらも北方作品を読み始めているところだ。

盲ろう者の福島さんが活発に活動できるのは、お母さんが発案した「指点字」のおかげでもある。次の本の表紙になっている通り、指で言葉を伝えるもので、世界で初めて福島さんとお母さんが使い始めた。

さとしわかるか
福島令子
朝日新聞出版
2015-12-07


大学の仲間もすぐに指点字のやり方を覚え、福島さんにコミュニケーションをはかってくれるようになったという。

この本の最後に2007年度の東大の入学式での祝辞が収録されている。東大のウェブサイトでも全文が公開されており、動画も公開されている

盲ろう者の福島さんが、これだけ本を読んで、様々な情報発信をしているのだから、健常者の筆者も、多くの本を読んで、あらすじをこまめにアップしなければならない。

自戒の念を新たにした。感動を与えるストーリーが満載の本である。


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2015年12月01日

アー・ユー・ハッピー? バリバリのビジネスマン・矢沢永吉



先日紹介した「成りあがり」に続く矢沢永吉(永ちゃん)の独白録。

「成りあがり」に続くといっても、「成りあがり」は永ちゃんが28歳の時の本で、「アー・ユー・ハッピー?」は永ちゃんが51歳の時の本だから、その間23年間もブランクがある。

「成りあがり」は図書館で借りた本を読み終わらないうちに購入したと書いたが、この本も同じだ。

全くぶっとんだ。

前作は、永ちゃんの生い立ちから、キャロルが売れる前の下積み時代を経て、わずか3年弱のキャロルの大躍進と、早すぎる解散、そしてE.YAZAWAとしてソロシンガーとなって独立した永ちゃんが、年間150ステージをこなすまでの道のりを描いている。

それから23年経ち、「アー・ユー・ハッピー」では、ビジネスマンとしての永ちゃんを描いている。

成功した永ちゃんの姿ばかりではない。

1980年代に、永ちゃんはマネージャーによる横領事件に巻き込まれた。早い話が、ピンハネだ。永ちゃんには150万円のギャラを50万円と言って、100万円をネコババするという手口だった。

永ちゃんは警察沙汰にはしなかったという。

次に永ちゃんが巻き込まれたのが、オーストラリアのゴールドコーストで、永ちゃんの世界戦略のための音楽施設を建設するというプロジェクトで、永ちゃんの部下が永ちゃんをだまして30億円を横領したオーストラリア事件だ。

これはオーストラリアで詐欺事件として刑事裁判になり、被告の2人はオーストラリアで1年程度服役した。この本の末尾に実名と顛末が書かれている。

永ちゃんの離婚についても書いてある。

糟糠の妻すみ子さんと離婚して、再婚したのはマリアさんというクオーターの女性だ。

マリアさんと知り合ったのは「成りあがり」を出すちょっと前の1977年だ。

スーパースターとして成功はしていたが、すみ子さんからは家には仕事は持ち込むなといわれ、すみ子さんや家族との気持ちの隔たりを感じていたころだった。

すみ子さんは、「私は朝8時に家を出て、夕方6時にちゃんと帰ってくる男と一緒になりたかった。」という。

夜中の酒が増えていった。さびしかったのだと。

1980年ころからマリアさんと一緒にロスで生活しはじめ、結局すみ子さんと離婚したのは1989年だ。

前作同様、この本には糸井重里が協力している。

実はこの本の原稿は10年前にできあがっていたが、なにか違うという感じがあり、その時は糸井さんと永ちゃんが話して、お蔵入りすることにしたのだという。

それから10年経って出版した。

この本ではビジネスマンとしてもバリバリの永ちゃんの姿を紹介している。

日本の外タレ招聘ビジネスは一部の興行会社が独占している。出入国管理局の許可が既得権化していたのだ。

永ちゃんは政界に顔の利く実力者に頼んで、出入国管理局長と3者面談し、外人タレントの招聘権を取った。永ちゃんのバンドのメンバーは永ちゃん自身が選んで呼んでいるという。

日本国内のコンサートツアーも、キョードーなどの音楽事務所に地方の興行を仕切ってもらって、ブラックボックス化していたのを、一部自分で手掛けた。弁当の仕出しから、ケータリングまですべてやった。キャラクターグッズも当初は他人に任せていたが、今は自分の会社で手掛ける。

すべて「なめんなよ」というメッセージだ。

猿の調教師は、まず猿の頭をかじって、「オレがボスだぞ」っていうことを教えるという。そうすると猿は調教師のいうことを聞くようになるのだと。人間も、一発かじられなきゃ気がつかないときがあると永ちゃんは語る。

この本で、永ちゃん流の「倍返し」が出てくる。

テレビドラマの半沢直樹で有名になった「倍返し」で、半沢直樹の場合はリベンジという意味だが、永ちゃんの場合は違う。



オーストラリアの30億円詐欺事件で、巨額の負債を負った永ちゃんに対する銀行の目は厳しかったという。だから、永ちゃんはすぐに「倍返し」をするようマネージャーに指示した。

月々の返済額を倍にするのだ。

そうすると当然、予定より早く返済が完了する。あわてたのは銀行だ。永ちゃんのような優良融資先を失ってはならないと、態度が変わったという。

永ちゃんが権利関係を意識するようになったのは、永ちゃんが崇拝するビートルズの影響だという。読んでいたビートルズの本に、著作権や、フィルム権、肖像権とかが出ていたのだと。

前作「成りあがり」では、年間150回ものコンサートをこなしていた永ちゃんだが、この本では年間5〜6カ月程度しか音楽をやっていないと語る。

音楽を離れると、音楽が恋しくて、より一層のパワーがでるのだと。

その他にロスでの暮らしぶりや、アメリカで持っている大型クルーザーの維持費が日本とは比べ物にならないくらい安いことなどを語っている。

最後にウェンブリーで行われた世界のスーパースターを集めた” SONGS AND VISIONS"コンサートで、ロッド・スチュアートとかボン・ジョビと一緒に歌ったことを語っている。



筆者は永ちゃんの曲もほとんど聞いたことが無いし、ファンでもなんでもないが、永ちゃんの本には感心する。

是非一読をおすすめする。


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2015年11月15日

成りあがり 永ちゃんこと矢沢永吉の激白集 



見城さんの本で、当時の角川春樹社長に言われて、小学館から出ていた矢沢永吉(永ちゃん)の単行本「成りあがり」の文庫化を実現したと書いてあったので読んでみた。

筆者は大体1日1冊のペースで本を読んでいるが、めったに本は買わない。本当に手元に置いておきたい本は限られるからだ。

その筆者が図書館から借りた本を読み終わる前に買ったのがこれだ。

まったくぶっ飛んだ。

「取材構成 糸井重里」と書いてあるので、糸井重里がインタビューをプロデュースしたのだろう。まさに永ちゃんの本音、そのものズバリが書かれている。

永ちゃんの生い立ち(広島生まれだが、実母は3歳の時に出奔、父は2年生の時に病没)、親類をたらいまわしされて、やっかいものとして、なんとか高校を卒業したこと、おばあさんを唯一の肉親として育ったこと、貧乏で小学校6年生くらいから新聞配達や牛乳配達をやって食べていたこと、中学2年くらいからラジオで音楽を聞きだし、映画館のフィルム運びをやりながら発声練習していたこと、高校生のころから独学で音楽を学んで作曲していたことなどが語られている。

そして永ちゃんが「10回くらい、リフレインで読んだよ」という本が、友達のお姉さんが勤めていたキャバレーチェーンの社長がくれたカーネギーの「人を動かす」だ。永ちゃんが高校生の時だ。「えらく気に入ってね、キザに友達の誕生日に贈ったりしたよ」と。

人を動かす 新装版
デール カーネギー
創元社
1999-10-31


「『ああなるほど。なるほど。一理あるな。一理いえるな』と感じたわね。」

「たまに女房に花を買って帰るというのも、カーネギーの影響かもしれないね。多少」。

「ともかく、10回以上も読んだものな」。

なんと永ちゃんもカーネギーに影響受けているんだ。

永ちゃんは、「BIGになる」という強い意志を持って、高校卒業と同時に上京し、横浜で活動し始めた。

いろいろなアルバイトをやりながら、メンバーを集めてバンドを結成、3番目のバンドのヤマトで横浜のディスコやキャバレーで演奏していた。

そしてヤマトを解散し、内海利勝ジョニー・大倉と一緒に始めたのがキャロルだ。キャロルがレコードデビューするときには、ミッキー・カーチスがプロデューサーとしてかかわったが、契約があまりにもキャロルに不利な契約なので、後で永ちゃんはミッキーを切った。

キャロルは1972年7月に横浜市立大学の講堂で練習を始め、その年の冬にレコードデビュー、そしてスターダムにのし上がった後、永ちゃんと他のメンバーの考えが離れ、1975年4月の日比谷野外音楽堂のラストライブで解散した。



その間のことは、この本よりもジョニー・大倉の「キャロル 夜明け前」に詳しいので、これも追って紹介する。永ちゃんとしては、ギャラは4等分。何の文句があるんだというところだろうが、他のメンバーの思いは違う。

キャロル 夜明け前
ジョニー大倉
主婦と生活社
2003-10


キャロル解散後、永ちゃんはソロ活動を始め、この本の単行本が出た当時は、年間150回ステージに立ち、その間にレコーディングしている。

なぜ?150を50にしないのか。その方が楽だし。どんでもない。簡単な理由よ。

ロックはまだまだメジャーじゃない。やっと矢沢永吉という人間が少しずつ頭を持ち上げてきた。日本じゃその程度だ。これは、やっている本人にしかわからない。

フォークは、定着しかけている。でもオレたちばまだまだ、もがいてももがいてもそこまでできていないと思う。

150ヵ所でも少ないと思っている。

本当に引き込まれる本だ。

こんな話も載っている。

キャロル結成前、永ちゃんが金がないときに、親しらずが悪化して1か月くらい口も開けられないことがあった。日大病院に行ったら、1万円取られて、ろくに治療もやってもらえなかった。

それで有り金全部持って、奥さんの肩につかまって、御茶ノ水の医科歯科大に行って、教授に事情を話したら、基本料金だけで治療してもらえた。インターンの研究材料になったけど、ともかく注射代、レントゲン料金とかすべて無料にしてもらった。

永ちゃんはいう。やっぱり、オレ、あの時つくづく思ったね、国立と私立の差だね。

あの時、オレ、倅は私立に入れるのやめようと思ったね…。

この本は昭和53年に小学館から単行本として出版され、昭和55年に角川文庫で文庫化されている。

平成16年には改版され、筆者が買った本は平成27年9月15日発行の改版27刷だ。これだけ売れると角川書店も小学館も、ウハウハだろう。見城さんの置き土産だ。

改版されて無くなったのが、冒頭の永ちゃんの言葉だ。

初版には「すみ子、栄一郎、寛十郎、そして、もうすぐ生まれる子供に、贈る。」となっているが、改版にはない。

永ちゃんの私生活はよく知らないが、再婚しているから、前の奥さんとその子供たちへのメッセージは消したのだろう。

糟糠の妻を棄てた、という見方もできるが、永ちゃんが世界的にビッグになるためには、ハーフだという英語のできる奥さんが必要だったようにも思われる。

100万部以上のベストセラーだけあって、楽しく読める。筆者自身もそうだが、矢沢永吉「食わず嫌い」の人にもおすすめできる本である。


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2015年06月14日

黒子の流儀 DeNAを支えた春田前会長の自伝

黒子の流儀 DeNA 不格好経営の舞台裏
春田 真
KADOKAWA/中経出版
2015-04-12


南場智子さんが創業したDeNAの経営を「黒子」として支えた春田真(まこと)さんの自伝。

この本はアマゾンの「なか見!検索」に対応していないので、目次を紹介しておく。春田さんの経歴が1/3、DeNAのビジネスが1/3、横浜DeNAベイスターズのことが1/3という感じだ。

第1章 球界参入
第2章 銀行員時代
第3章 ベンチャー
第4章 DeNA事件簿
第5章 野球への想い

DeNA創業者の南場智子さんの「不格好経営」のあらすじはこのブログで紹介しているので、参照してほしい。春田さんは、もちろん「不格好経営」の中にも登場する南場さんを支えた腹心の部下だ。

不格好経営―チームDeNAの挑戦
南場 智子
日本経済新聞出版社
2013-06-11



「不格好経営」のあらすじにも書いた通り、筆者はDeNAには大変感謝している。横浜大洋ホエールズ以来、長年続けてきた横浜ファンから卒業できたからだ。

横浜ファンだったころは、シーズン初めは期待できたが、5〜6月で調子を落とし、毎年最下位あたりを低迷するという繰り返しだった。

1998年に優勝した当時のマシンガン打線大魔神・佐々木主浩を擁した投手陣は、ほんの一時のピークに終わり、あとは毎年同じことの繰り返しで、毎年欲求不満を抱えていた。

今はプロ野球のひいきチームはない。「明鏡止水」という心境だ。

そんなわけで、ベイスターズファンだったら、この本はもっと興味深く読めたかもしれないが、春田さんの横浜ベイスターズ買収の裏話を聞いても、フーンという感じだ。

以前から友人から横浜スタジアムには既得権がからんでいるという話を聞いていたが、この本ではそのあたりは簡単に触れている。どうやらDeNAがベイスターズを保有することとなって、条件見直し交渉をしたようだ。

そういえば、DeNAの前にベイスターズ買収交渉をしていた住生活グループ(LIXIL)は、本拠地を新潟か静岡に移転するという考えを明かしたので、これが破談の原因になったという話があった。LIXILも既得権対策として本拠地移転案を出してきたのだと思う。

春田さんも書いているが、DeNAがプロ野球に参入を表明し時に、最も反対したのは、楽天の三木谷さんだ。

春田さんは、次の理由を挙げている。

1.経営者として球団を持つことのメリットの大きさを自身の体験からよく理解しており、競合の可能性のある企業が大きなメリットを得られる球界参入を阻止しようとした。

2.単純に競合する事業もあるDeNAが嫌い?

南場さんと三木谷さんについては、不仲が取りざたされている

この記事では南場さんが春田さんに代わってベイスターズのオーナーに就任する6月以降、オーナーとして三木谷さんとやたらと衝突すると予測しているが、そんなことはまずないと思う。

春田さんは、ベイスターズをDeNAが保有する宣伝効果は試算では1,000億円になるという。NHKでもDeNAの名前を毎日何回もニュース等で紹介してくれるのだ。なるほどと思う。

この本では、春田さんのおいたちも紹介している。

春田さんのお父さんは住友銀行に勤めていたが、春田さんが小学校5年生の時に、病気で亡くなり、以降はお父さんの実家の春田家で、母子家庭としてお母さんに育てられたという。

お母さんの話では、お父さんが亡くなった後も、住友銀行にはなにかと世話になったという。だから春田さんが京都大学を卒業して、住友銀行に就職した時は、お母さんは大喜びだったという。

逆に、1999年の住友銀行とさくら銀行の合併を機に、30歳で春田さんが住友銀行を辞めてDeNAに転職した時は、お母さんは泣いたという。

そんな春田さんご自身の経歴も、この本を読むうえで別の見方を与えてくれる。

この本の「黒子」というタイトルほど、春田さんは脇役ではないと思う。

飾らない語り口が好印象を与える本である。


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2015年06月02日

【再掲】政治と秋刀魚 日本政治研究者 ジェラルド・カーティスさんの本

2015年6月2日追記:


会社でジェラルド・カーティスさんの講演を聞いた。日本語堪能で、見かけは外人だが、話す言葉は日本人と変わらない。

現在の安倍内閣の安保法制の改定、集団的自衛権の解釈変更は、1960年代の日米安保条約改正と同じくらい大きな意味を持つとカーティスさんは強調していた。

日本は経済大国でありながら、軍事大国でない世界でも珍しい例だったが、これからは米国はもちろん、東アジア諸国、オーストラリア、インドなどと連携して、台頭する中国に対抗する構図となるだろうと。

米国のオバマ政権については、カーティスさんは、オバマ氏は所詮政治家ではないこと(弁護士あがりの雄弁家という位置づけ)、戦略がないことが最大の問題点であると語っていた。

カーティスさんが学生時代に日本に来て学んだ「根回し」などは、オバマ氏には無縁で、あの手この手で戦略的に事を運んで、相手を説得する力が弱いと言っていた。

日中関係では、安倍首相の戦後70年の談話が鍵になると語っていた。

安倍首相が靖国神社に参拝したことで、中韓のみならず、米国も嫌悪感を示したのは、なにもわざわざ中韓を刺激して、東アジアに緊張を招かなくてもよいだろうという意思表示だったと。

特に、中国の戦勝記念日の9月3日に中国に行って、先の大戦は日本の侵略戦争であったと認めるような発言をすれば、現在の日中間の問題は解決するだろうと語っていた。

安倍首相がそんなことを認める発言をするとは到底思えないが、冷静に考えれば、いくら米国主導のABCDブロックのせいで、石油を求めて自衛のための戦争を強いられたといっても、金を払わずに、資源を武力で確保しようとしたことは「侵略」という定義にあたるのではないかと思う。

そんなことを考えさせられた。

なかなか参考になる講演だった。カーティスさんの代表作の「政治と秋刀魚」のあらすじを再掲する。


2013年1月30日初掲:

政治と秋刀魚 日本と暮らして四五年政治と秋刀魚 日本と暮らして四五年
著者:ジェラルド・カーティス
日経BP社(2008-04-10)
販売元:Amazon.co.jp

東京オリンピックの年(1964年)に初来日して以来、45年以上、日本の政治を研究してきた米国コロンビア大学のジェラルド・カーティス教授の本。

カーティスさんはニューヨーク生まれ。ニューメキシコ大学を卒業後、ニューヨークのコロンビア大学の大学院生だった時に、第2次世界大戦前の最後の駐日米国大使だったジョセフ・グルーについての論文を書くことになったのが日本研究のスタートだった。

グル―については、グル―の伝記のあらすじを参照してほしい。

グルー―真の日本の友 (ミネルヴァ日本評伝選)グルー―真の日本の友 (ミネルヴァ日本評伝選)
著者:廣部 泉
ミネルヴァ書房(2011-05-06)
販売元:Amazon.co.jp


米国の日本研究家は3世代

カーティスさんによると、米国の日本研究者は次の3世代に分類できるという。

第1世代:戦前の日本研究者で、ハーバード大学で歴史を教え、ケネディ大統領の時の駐日大使になったエドウィン・ライシャワー教授、コロンビア大学に長く在籍したヒュー・ボートン教授などがいる。

この2人とジョセフ・グルーは、戦争の真っ最中に、戦後日本の統治のために天皇制を絶対に残すべきだと強く主張していた。吉田茂のいう「真の日本の友」である。

第2世代:戦時中、陸軍や海軍の日本語学校で日本語を学び、日本軍の無線傍受や戦後統治に携わった後、日本研究家となった世代。日本と戦った経験があったため、日本に対する思い入れが強く、日米戦争が二度と起こらないようにすることを使命と感じている世代だ。

代表的な人物としては、日本研究家のドナルド・キーンエドワード・サイデンステッカー、GHQ職員として来日し、日本に世論調査を紹介した文化人類学者のハーバート・パッシン教授などだ。

第3世代:なんらかの理由で日本に興味を持ち、コロンビア大学などで日本研究をはじめたグループ。カーティスさんはこの第3世代に入る。

第3世代のあとは、JET(Japanese Exchange and Teaching)世代だ。JETプログラムで日本に来て学校で英語教員として仕事をしながら、日本について学ぶ。毎年数千人が来日しており、2007年には5,500人が参加。そのうち半分がアメリカ人だった。


カーティスさんの日本との付き合い

カーティスさんは1940年ニューヨークのブルックリン生まれ。15歳の時に両親が離婚するが、7年後また一緒になる。クイーンズに引っ越し、高校生の時にピアノ奏者としてバンドの一員となって活動し、ニューヨーク州立音楽大学に進学する。

バンドの一員だったというのは、アラン・グリーンスパン元FRB議長と同じような経歴だ。

音楽の仕事に限界を感じていたカーティスさんはニューヨークを離れ、ニューメキシコ州でクラブの仕事をしながら、ニューメキシコ大学に入り直して社会学の勉強をする。アメリカでは大学を変えても取得した単位は生かせるので、カーティスさんのように大学を変えることもある。

そのうちウッドロー・ウィルソン奨学金を得て、コロンビア大学政治学部大学院に入学した。コロンビア大学の指導教官のアドバイスで、ジョセフ・グルーの研究をしたことから日本との付き合いが始まったことは冒頭に記した通りだ。


カーティスさんの初来日

カーティスさんの初来日は、1964年7月。東京オリンピックの直前だ。

23歳だったカーティスさんは、日本に到着して宿泊先の日本国際文化会館に行くタクシーの中で、うろ覚えの日本語でタクシー運転手と話していたら、「日本語がお上手ですね」と言われて、励まされたという。

東京では西荻の四畳半の下宿に住みながら、国際基督教大学(ICU)の日本研究センターで日本語を勉強した。食事は外食で、近くの大衆食堂の主人が「今日はこれを食べなさい」と、サバやサンマなどを出してくれたので、カーティスさんの食生活は革命的に変わったという。

カーティスさんがトンカツを初めて食べたときには感動したという。今でもおいしいトンカツの店があると聞くと、いくら遠くても行かずにいられなくなるという。

しかし、あの当時のトンカツの味を保っている店は今では少なくなってきたとカーティスさんは嘆く。筆者も同意見だ。神保町の交差点近くの「トンちゃん」のおやじさんが揚げたトンカツが懐かしい。海外駐在に行くと聞くと、餞別にトンカツをおごってくれたものだ。

カーティスさんは下駄をはいて銭湯に通って商店街の人と親しくなった。ラーメン屋やスナックに行って、日本語を練習していた。カラオケでは、伊東ゆかりの「小指の想い出」や、園まりの「夢は夜ひらく」を歌っていたという。




日本政治の研究

1年間の日本語教育受講後、カーティスさんはコロンビア大学に戻り、博士論文のテーマに日本の政治を選んだ。

カーティスさんは1966年に再来日し、米国大使館の報道官と一緒に中曽根さんを訪ねた。カーティスさんが日本の政治を研究したいと相談すると、中曽根さんは大分2区から立候補予定の佐藤文生氏の選挙活動を研究するように助言したという。

佐藤さんは、大分の県議会議員を長年務め、国会議員となるべく出馬したが、最初は落選し、2度目の挑戦で捲土重来を狙うところだった。

佐藤さんは中曽根派ではなかったが、中曽根さんが目をつけていた人物の一人だった。大分県は、都会ではないがそれほど田舎でもないということで選んだという。

佐藤さんは、「隠しても仕方がない。なんでも見ていってくれ」と言ってくれたという。カーティスさんは佐藤さんの家に住み込み、世話人などとの打ち合わせにも参加させてもらったという。

カーティスさんが書いた論文が「代議士の誕生」という本になった。

代議士の誕生(日経BPクラシックス) (NIKKEI BP CLASSICS)代議士の誕生(日経BPクラシックス) (NIKKEI BP CLASSICS)
著者:ジェラルド・カーティス
日経BP社(2009-09-25)
販売元:Amazon.co.jp

このときに覚えたのが「お流れ頂戴します」という言葉だ。宴会で世話人一人ひとりから酒を杯に注いでもらい、それを一人につき2-3杯飲んで、世話人の間を回っていく風習だ。

初めはカーティスさんは、全部飲んでいたので、すぐに目が回ったが、佐藤さんは平気でいた。実は、飲んだフリをして、「杯洗(はいせん)」に酒を捨てるのだと。


当時は中選挙区制

当時の選挙制度は日本独特の中選挙区制で、一つの選挙区から3−5人が当選する。自民党から2−3人が立候補するので、自民党の中でも党内抗争が激しく、いきおい派閥ができる。

派閥としては当時は田中派が最大の派閥だった。

カーティスさんが竹下さんから聞いたところによると、金丸さんは自民党から配分された政治資金を代議士に配るときに、封筒を開けさせて札束を数えさせた。

ところが田中角栄さんは、封筒を渡してその場では開けさせなかった。後で開けてみると、党の分配額より多い金額が入っていたという。自民党の資金に自分で積み増していたのだ。これが田中角栄流の人心掌握術である。


日米政治比較

カーティスさんは、1967年から1994年まで毎年下田で開催された日米の国際政治学者の会議:下田会議への参加を通して、評論家の江藤淳さんや、政治学者の佐藤誠三郎さん、京都大学の高坂正堯さんなどと親交があったという。いずれも早死にしたことは残念だと語る。

下田会議は1994年以降開催されていなかったが、2011年に新・下田会議として再開された

この本では様々な分野についての日米比較が紹介されている。

たとえば日本の大学教授の給料と昇進はほとんど年功序列だ。

良い本を書いた先生でも、たいした論文を発表しない先生でも同じ。学生に良い授業をしようとする先生でも、毎年同じ講義を行う先生でも、教えている年数が同じならほとんど給料は変わらない。まさに社会主義であると。

米国の場合には、いい先生は他の大学から引き抜きのオファーが来るので、引き留めるためには大学は給料を上げなければならない。だから同じ年数働いている教授でも、業績によって報酬は大きく異なる。

国会議員のスタッフの数も全然違う。日本は3人までしか公設秘書が認められないが、米国では国の費用で雇われているスタッフが、下院議員で18名、上院議員では約50名だという。


中曽根さんの外交4原則

中曽根さんは、「外交4原則」という考えを説明してくれたという。

1.力以上のことはしない。
2.ギャンブルをしない。
3.世界の潮流を客観的に分析する。
4.外交と内政を混同しない。

米国と戦争したのは、上記すべてに違反している。

自国の国力を過信したことが最大の過ちで、東条英機首相は「清水の舞台から飛び降りる気持ちだ」とギャンブルをした。

ドイツが敗退しつつあるという世界の潮流を正しく把握しなかった。関東軍の中国での行動を国内政治に利用して外交と内政を混同させたと中曽根さんは語っていたという。

ちなみに、カーティスさんは小泉首相が当時のブッシュ大統領の求めに応じ、「反テロ特別措置法」を成立させ、インド洋で船舶の給油活動をはじめたのは、評価しているという。


カーティスさんの奥さんは日本人だが、奥さんと知り合ったのはニューヨークで社会学のパッシン教授が主催するパーティに参加した時だったという。

カーティスさんは奥さんの助けもあって、日本語でこの本を書いたという。

大物政治家との人脈を持ち、日本の政治事情に日本人よりも精通している。いわば日本の政治を映す鏡のような人だ。

読みやすい本なので、是非一読をお勧めする。


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2015年05月07日

キングオブオイル マーク・リッチ伝

キングオブオイル
ダニエル・アマン
ウェイツ
2010-11-05


原油のスポット市場を作り上げ、イランやナイジェリアなどの原油を、イスラエルやアパルトヘイト時代の南アフリカに販売して巨額の富を得たが、米国でイランとの禁輸の網をくぐったとして訴追され、クリントン大統領の特赦により免罪されたトレーダー マーク・リッチの物語。

マーク・リッチという名前は、一般の人にはあまりなじみがないかもしれないが、筆者は鉄鋼原料の商売を20年ほど担当していたので、まさに同時代のビッグショットとして知っていた。

Marc Rich













出典:ネット検索で取得

米国政府からイランとの禁輸を破り、巨額の脱税をしたという罪で訴追されるまでは、マーク・リッチの会社のマーク・リッチ+Co. AGが世界最大のコモディティトレーダーとして君臨していた。

訴追後、マーク・リッチ+Co. AGはグレンコアと名前を変え、マーク・リッチが持ち株を売却すると、エクストラータがスピンアウトして石炭などのコモディティトレードで大きく成長した。

2013年には、グレンコアがそのエクストラータを合併して、グレンコア・エクストラータとして世界最大のコモディティ・トレーダーとして君臨している。

筆者はマーク・リッチとは取引したことはないが、マーク・リッチがトレーダーとして頭角を現したフィリップ・ブラザースとは取引したことがある。入社して初めての仕事が、フィリップ・ブラザースからの鉄鋼原料の輸入商売だった。

いままでマーク・リッチはメタル・トレーダーだと思っていた(「メタル・トレーダー」というマーク・リッチの伝記も出版されている)。



しかし、この本を読んで、実は巨額の富を築いたのは、もっぱら原油のスポットトレード、それもアラブ諸国から石油の禁輸措置を食らって、「油断」状態だったイスラエルに、シャーの時代はもとより、ホメイニが復帰してからもイラン原油を売っていたためだということがわかった。

この本によると、マーク・リッチは1973年から20年間、イスラエルの石油必要量の1/5を供給し続けた。

マーク・リッチは同様に、アパルトヘイトで国連から禁輸措置を受けていた白人政権時代の南アフリカにも、イラン産原油やナイジェリア産原油などを売って、こちらでも巨額の利益を上げている。サダム・フセイン時代のイラクともマーク・リッチは取引があった。

もともと原油は長期契約で取引され、原油のスポット市場は存在していなかった。そのスポット市場を作り上げたのが、マーク・リッチだ。

マーク・リッチはベルギーに生まれ、幼少の時に、一家はナチスを逃れて、カサブランカ経由で米国に逃れる。外国語が達者だったお父さんは、南米からのジュート(麻)の輸入会社を立ち上げて成功し、マークはニューヨークの私立ローズ高校から、ニューヨーク大学に進み、19歳からフィリップ・ブラザースの見習いとして働き始める。

マーク・リッチは最初に水銀の取引で大儲けして、頭角を現した。

次にマーク・リッチは「石油は武器になる」と予想して、イランと原油100万トンの固定価格(5ドル)での長期取引を決めた。この買持取引は、フィリップ・ブラザースのトップの了解を得ておらず、当時の公定価格3ドルよりも高かったため、マークはその原油を米国のアシュランドオイルに転売するはめとなった。

これがマーク・リッチがフィリップ・ブラザースから独立することを決心するきっかけとなった。

その直後に、第4次中東戦争が起こり、イスラエルが軍事的には勝利したが、アラブ諸国はイスラエルと親イスラエル国に対する石油の禁輸で対抗し、第1次オイルショックが起こり、原油価格は12ドルまで急騰した。

マーク・リッチが予想していた通り、「石油は武器になる」ということが明らかになったのだ。

ちなみにこの本では、トップシークレットとして、第4次中東戦争前にイランとイスラエルは共同でパイプラインを運営して、イラン原油をパイプラインでイスラエルまで輸送していたことが明かされている。

マーク・リッチは1979年1月にシャーが追放され、イラン革命が起きてからもイラン革命政府との取引を続けた。

1979年11月にイランによるアメリカ大使館人質事件が起こって、米国はイランと断交してからも、マーク・リッチはイランとの取引を続け、イランから原油を買って、イスラエル等に販売していた。

イランは原油の向け先がイスラエルであることを知っていたが、何も言わなかったという。

この取引はマーク・リッチのスイスのツーク(Zug)にある本社が行った取引で、スイス法ではイランとの取引は合法だった。(Zukは法人税が約10%と安く、フィリップ・ブラザースなど多くの企業が本社を置いていた)

しかしこの取引に目をつけて、政治問題化しようとたくらんだ人物がいた。後にニューヨーク市長となり、一時共和党の大統領候補ともなったルドルフ・ジュリアーニ連邦検事だ。

マーク・リッチは1982年に米国籍を離脱して、スペインに帰化していたが、米国政府はこれを認めず、1983年にイランとの禁輸破りと脱税で起訴した。

マーク・リッチは「逃亡者」となったのだ。

逃亡者 製作20周年記念リマスター版 [Blu-ray]
ハリソン・フォード
ワーナー・ホーム・ビデオ
2013-10-02


筆者には、デビッド・ジャンセン主演のテレビドラマシリーズの方が親しみがある。

逃亡者 SEASON 1 (全30話収録) [DVD] 2TF-4500
デビッド・ジャンセン
株式会社イーエス・エンターテインメント/キープ株式会社
2010-04-30


マーク・リッチの元妻のデニーズ・リッチは民主党の支援者として知られ、100万ドル以上を民主党に寄付していた。イスラエルのバラク首相からの頼みもあり、ビル・クリントン大統領は2001年の任期満了の数時間前にマーク・リッチに対する大統領特赦にサインした。

この行為は金で特赦を買った行為として非難され、政治問題となったが、覆されることはなかった。

しかしマーク・リッチは特赦後も、米国を訪問したり、スイス国内でスイス法を平気で無視する米国官憲に捕まると、また訴追されかねないとして警戒し、死ぬまで米国には足を踏み入れなかった。

そして2013年、稀代のトレーダー、マーク・リッチは79歳でスイスで死去した。

筆者はマーク・リッチと会ったことはないが、この本は興味深く読んだ。

マーク・リッチのスイスの豪邸には、モネ、ルノワール、ピカソなどの絵画が飾ってあったという。

巨額の富を築いたトレーダーの先輩ではあるが、尊敬する気にはなれない。

1980年前後は「コンプライアンス」という言葉はなかった。「コンプライアンス」が単に法令順守以上のものを意味するようになったのは、割合最近のことだ。

マーク・リッチの行為は、マーク・リッチ本人が言うように、形式からすればスイス法では違法ではないということになるのだろうが、実質的には米国の対イラン禁輸の網をかいくぐった、まさに「コンプライアンス」違反である。

今でいう「コンプライアンス」意識がなかったのが、マーク・リッチの致命傷になったともいえる。

同時代史としても楽しめる。

マーク・リッチの名前を憶えている人には、是非一読をおすすめする。


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2015年02月15日

僕はミドリムシで世界を救うことに決めました 発端はグラミン銀行から



会社の人間力向上セミナーで(株)ユーグレナの出雲充社長の講演を聞いた。

出雲さんの「僕はミドリムシで世界を救うことに決めました」は数年前に読んだ。手元にある本は2012年12月の初版本なので、たぶん2013年くらいに読んだのだと思う。

出雲さんが次男と同じ駒場東邦高校の出身ということもあり、以前から興味を持っていた。

出雲さんの講演内容はだいたいどこの講演でも同じようなストーリーのようだ。たとえば大阪市で行った講演内容がネットで公開されている。会社で行った講演も全体のストーリーとしては同じような流れだ。

この部分はネットで公開されているので、詳しくは紹介しない。時間のある人は、YouTubeに出雲さんのインタビューが様々な資料と一緒に公開されているので、参照してほしい。



1980年に生まれ、多摩ニュータウンで育ったごく普通の家庭に育った出雲さんが、東京大学に入学して初めての夏休みに、バングラデシュのグラミン銀行にインターンとして働き、「貧困は博物館に」をスローガンとしているグラミン銀行創始者のムハマド・ユヌスさんの主張に感動した。

そして動物と植物両方の特性を備え、59種類のビタミン、ミネラル、アミノ酸、不飽和脂肪酸などの栄養素を含むミドリムシで世界を救おうと決め、東大の文靴ら農学部の農業構造経営学科に進学する。

そこで数学の天才鈴木健吾と出会う。鈴木さんはユーグレナの取締役研究開発部長を務めている。鈴木さんと一緒にミドリムシの大量培養技術開発に専念するが、なかなかうまくいかない。

その時に会ったクロレラ販売会社の専務だった福本さんを販売担当として招き入れ、福本さんのツテで石垣島の八重山興産でクロレラ培養用のプールを借り、独自の培養液を使ったミドリムシの大量生産に成功する。

大量生産に成功しても、実績がないので、なかなか買ってくれる会社が現れなかったが、501社めでミドリムシ事業を支援してくれる会社が現れた、それが伊藤忠商事だ…。

このような内容だ。

ただし、最後のメッセージの部分はその場にあった内容に変えている。つまりユーグレナ創業ストーリーやミドリムシの大量培養に成功した話は、どこでも同じ講演をしているが、それから引き出すメッセージはその会場とオーディエンスにあわせたものにしている。

たとえば筆者の会社の場合には、出雲さんが500社訪問して1社もミドリムシを採用してくれなかったという500社の一社なので、若手社員向けのセミナーということもあり、やたらと同業の伊藤忠商事のことを持ち上げていた。

501社めに伊藤忠に行ったら、それまでの500社が「実績がないから採用を見送る」という反応だったのに対して、伊藤忠は「実績がないから、大きなビジネスチャンスがある」と判断してくれ、ユーグレナに出資し、大手企業への紹介を引き受けてくれたのだと。

ユーグレナのミドリムシが売れるようになったのは、伊藤忠のおかげであり、出雲さんはコンビニならどんなに遠くともファミマに行くと語り、ベンチャーは助けてくれた会社には絶対に恩返しすると強調していた。筆者の会社の若手社員には、発奮材料として大変刺激になったと思う。

それと講演ではふれていなかったが、本で恩人として紹介しているのが、元マイクロソフト日本法人社長の成毛眞(まこと)さんだ。

ユーグレナは当初、ホリエモンが「ミドリムシは宇宙食に役立つ」と考えて、ライブドアの支援を受けていたが、ホリエモンが粉飾決算で逮捕されると、ライブドア関連企業ということで、どこからも総スカンをくらった。

その時ミドリムシの将来性に注目して、出資して助けてくれたのが成毛さんだ。

成毛さんと最初に会った時の話がこの本に紹介されている。

ミドリムシは発電所からでてくる高濃度の炭酸ガスを使って光合成できるという話をすると、

成毛さんは「そんなに高い濃度の二酸化炭素を処理するために培養液にエアレーション(水中に気体を溶かし込むこと)したら、PHが急激に下がって、強い炭酸水になるだろう。そんな環境でミドリムシは生存できるのか?」と聞いてきたという。

これに対し、「はい、ミドリムシは5億年前から光合成をしており、その当時の地球環境は…」と説明すると、

「ふーん、そもそもなんでミドリムシはそんなに光合成の能力が高いんだ?クロロフィル(葉緑素)には3種類あるけど、ミドリムシはどのパターンを使ってるの?」と聞いてきたという。

さすが読書クラブHONZを主催している成毛さんだ。その知識には出雲さんならずとも驚かされる。

この本では、筆者の会社の先輩で、成毛さんの会社のインスパイアで役員をしている芦田さんが、ANAなどを説得して航空燃料ビジネスの道を開いたことも紹介されている。

航空燃料生産のために、JX日鉱日石エネルギーと日立プラントテクノロジーが出資した。

ミドリムシから燃料をつくるというのは、まさに当時の通産省が国家プロジェクトとして推進していた「ニューサンシャイン計画」の藻類活用プロジェクトそのものだ。

しかし巨額の国費を投入した「ニューサンシャイン計画」の藻類から燃料をつくるというプロジェクトは、結局ミドリムシの大量培養ができなくて頓挫した。

ミドリムシは食物連鎖の最下層にいるので、少しでも他の微生物が侵入してくると、あっという間に食べつくされてしまう。国家プロジェクトでもできなかったミドリムシの大量培養に成功したのは、ミドリムシだけが生き延びられる劣悪な環境の培養液をつくるという逆転の発想だったという。

講演の後の質問で、出雲さんはミドリムシの応用技術、たとえば食品の製造法とかは、パテントで保護するが、ミドリムシの培養液はノウハウで公開はしないと説明していた。

コカコーラやケンタッキー・フライド・チキンがレシピを公開しないのと同じだという。パテントとして公開してしまうと、パテントを侵害して同じようなものをつくる業者が現れても、パテントを侵害しているという証明が民間企業では難しいからだと。

講演の最後で出雲さんはメンター(支援者)とアンカー(精神的な支え)の重要性を強調していた。

出雲さんの場合、アンカーは18歳の時にグラミン銀行で出会ったムハマド・ユヌスさんだという。

今は、バングラデシュの2,500人の小学生の給食にミドリムシ製品を提供しているが、いずれは100万人分のミドリムシ製品をバングラデシュの小学生に提供したいと言っていた。

筆者は30年近く毎日マルチビタミン・ミネラルサプリメントを飲んでいるし、食事でもできるだけ食物繊維の多いものを摂るようにしているので、59種類のビタミン・ミネラル・不飽和脂肪酸…と聞いても、あまり必要性を感じないが、一度試しにサプリメントかユーグレナバーを買ってみようと思う。

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本も面白いし、講演も大変参考になった。学名とか物質名の部分では急に早口になり、ほとんど聞き取れない調子で話しているのが印象に残った。

ベンチャー企業の社長の本は、ワタミの渡邉美樹さんが典型だが、三木谷さんといい、大体自分のことしか書かないジコチュー本が多いが、この本は仲間のことも紹介している。その意味でも好感を持った。

出雲さんが講演で言っていたように、普通のサラリーマン家庭出身の子供でも、ベンチャーで成功できる。たとえ成功確率が1%しかなくても、四百何回(はっきりした数字は忘れた)繰り返せば、成功率は99%になるという。

やる気が起こる本とセミナーだった。


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2014年12月15日

ウィスキーと私 「マッサン」の主人公・竹鶴政孝さんの自伝

ウイスキーと私
竹鶴 政孝
NHK出版
2014-08-27


現在NHKの朝ドラで放映中の「マッサン」の主人公、日本のウィスキーの創始者・竹鶴政孝さんの自伝。

日経新聞の「私の履歴書』の連載をNHK出版が単行本にしたものだ。

「マッサン」は筆者も「どんど晴れ」以来、久しぶりに見ている朝ドラだ。毎日録画して、土日に1週間分まとめて見ている。



朝ドラを見だしたきっかけは、昨年北海道旅行の際に余市蒸留所を訪問したからだ。

すでにその時にNHKの朝ドラになるという話は決まっていたが、まだブームとなる前で、ゆったり蒸留所やその中にある竹鶴邸を見学できた。

その時はフーンと思って、あまり気にしなかったが、ポットスティルで蒸留した無色無臭のアルコールを樽に入れて5年ほど熟成すると、量は2/3くらいに減ってしまうかわりに、ウィスキーのあの色と味が出るのは思えば不思議なものだ。

減ってしまう分は「天使の分け前」と言われている。

この「ウィスキーと私」は竹鶴さんの自伝で、事実と違う点は、リタさんと出会ったときは、リタさんの父親は亡くなった後だったという点だけだと、この本の註と竹鶴さんの孫の竹鶴孝太郎さんの随想で語られている。

父親の亡くなった家庭に独身男性が出入りすることになっては、リタさんの実家に不名誉だと思って、わざと事実を変えて記しているのではないかというのが、孫の孝太郎さんの見解だ。

「マッサン」は、テレビドラマとして部分部分、脚色はされているが、ストーリーは竹鶴さんの原作に近い内容となっている。

この本では、竹鶴さんがスコットランド留学を決め、アメリカのサンフランシスコ経由で、アメリカのカリフォルニア・ワイナリーというワインの醸造所を見学してから、スコットランドに渡ったことも紹介されている。

当時は第一次世界大戦の最中で、竹鶴さんの乗った船が、ドイツの潜水艦攻撃を避けるために随伴船とジグザグ航行していたら、随伴の貨物船にぶつかって貨物船が沈没してしまい、生存者は1名だけだった話が紹介されている。

ちょうど乗り合わせたベルギーの皇太子が音頭を取って、竹鶴さんが犠牲者の義捐金集めに一役買ったのだという。

当時の日英同盟の関係もあり、スコットランドでは王立工科大学(原書ではグラスゴー大学と記されているが、これは記憶間違いのようだ)やロングモーン・グレン・リベット蒸留所の工場長に大変親切にしてもらっい、ウィスキーの製造法を学んだ。

しかし日本に帰ってからは、留学に送り出してもらった摂津酒造ではウィスキー製造は、株主会議で否決され、結局サントリーの前身の寿屋の鳥井信治郎さんに拾ってもらい、京都の山崎に蒸留所を建設する。

鳥井さんは今のボンドなど接着剤をつくっているコニシの前身の小西儀助商店の出身で、「やってみなはれ」の人だ。

鳥井さんがマッサンをウィスキー工場長として、年俸4,000円で雇うのも、朝ドラの通りだ。大正12年、1923年のことだ。契約は10年間だったという。

その後、サントリーは日本で白札、赤札などのウィスキーを売り出し、当初は日本人の味に合わなかったが、だんだんに売れるようになった。マッサンは横浜でサントリーのビールもつくっていた。

マッサンはその後独立して、出資者を集め、住友銀行などから融資を得て、大日本果汁株式会社を設立。昭和9年に余市工場を建設した。ウィスキーの原酒を寝かす5年以上の間は、リンゴジュースをまず販売して食いつないだ。これがニッカの社名の由来だ。

工場設立の2年目の昭和11年にウィスキーの蒸留を始め、一級ウィスキー工場として大蔵省の認定を受けた。戦争中は海軍の指定工場となって、原料は優先的に配分されていた。

戦後は、ウィスキーは酒税法で、特級から3級(その後廃止)まで等級分けされ、3級は原酒の配合率が0〜5%とされていた。つまり、ウィスキーの原酒がゼロでも3級ウィスキーは作れたのだ。

筆者の学生時代は、2級ウィスキーはサントリーのレッド、1級はホワイト、特級は角瓶以上だったが、たぶん当時も2級ウィスキーには原酒はほとんど入っておらず、醸造用アルコールが主体だったのだと思う。

どうりで飲みすぎると悪酔いしたわけだ。

ニッカは余市工場と、仙台郊外に宮城峡に工場を建設し、昭和44年から生産を始めた。

余市はハイランド・モルト工場だ。

西宮工場にカフェ式連続蒸留機を入れて、穀物原料からアルコールを蒸留してグレイン・スピリッツをつくり、ハイランド・モルトと混ぜた。

さらに宮城峡では、ローランド・モルトをつくり、これでうまいウィスキーの原酒のフルセレクションがそろった。

最後に竹鶴さんは、ウィスキーのうまい飲み方をエッセーで書いている。

毎日飲むにはストレートだと、胃に悪いので、ウィスキー:水=1:2が適当だという。竹鶴さんは、オンザロックは冷えすぎるとしてあまり勧めていない。いずれにせよ、人それぞれ、一番うまいと思う方法で楽しむべきだし、飲む人の量によっても変わってくると。

巻末のコラムや随想も入れて190ページ余りの本で、簡単に読める。

竹鶴さんの他の本も読みたくなる。ウィスキーのことも学べ、読んでいて楽しい明治生まれの気骨ある日本男児の自伝である。


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2014年05月18日

熔ける 大王製紙元社長の井川意高さんの転落記



カジノの借金の穴埋めのため、自分が社長をしている大王製紙子会社から約107億円ものカジノ資金を借りまくったことで特別背任罪が確定し、現在、セコムや三井物産がやっているPFIによる東日本初の民営刑務所・喜連川社会復帰促進センターで服役中の元大王製紙社長・井川意高(もとたか)さんの本。

井川さんは、借りた金はすべて金利をつけて返済したから執行猶予が妥当だとして上告していたが、2013年6月に最高裁が上告を棄却して、4年の懲役刑が確定した。

この本の”つかみ”に、シンガポールのマリーナ・ベイ・サンズホテルのカジノで、20億円のチップを目の前に置き、ジャンケットというカジノに雇われた私設コンシェルジュさえもが、勝ち逃げを示唆しているのにもかかわらず、さらに勝負して結局すべてを失った話が出てくる。

負けが込んでいたから、20億円の勝ちでは引き下がれなかったという。およそ金額が尋常ではない。


井川意高さんの経歴

井川意高さんは大王製紙の創業家の3代目。1987年に東大法学部を卒業して、大王製紙に入社した。第4代社長として2007年から2011年まで大王製紙の社長を務めた。

社長になる前は、名古屋にあった子会社の立て直しでも実績を上げた。

社長に就任してからは、タイやベトナムでの合弁事業や、エリエールのナプキンやP&Gから買収した大人用のオムツのアテント事業など、消費者向け商品の開発でも成果を上げた。


井川家の人びと

井川さんの祖父の井川伊勢吉さんは、もともと製紙原料商だった。つぶれかけた製紙工場を引き受けて立て直して、小さな製紙会社をまとめ上げて、全国区の大王製紙を創業した。一度、1962年に倒産したが、会社更生法で見事に復活させている。

1943年から大王製紙の社長を長く務め、1987年に井川さんのお父さんの井川睛困気鵑飽き継いだ。

井川睛困気鵑蓮大王製紙の社長を1995年まで勤め、中興の祖と言われている。仕事にも息子たちの教育にも厳しかったことが、この本で語られている。往復ビンタ、ゴルフクラブのヘッドで殴られそうになったこともあるという。

大王製紙は、もともと四国の愛媛県、現在は四国中央市となっている伊予三島市で製紙工場を始め、その後、全国に工場展開し、タイやベトナムにも合弁会社を持っている。

大王製紙は井川家の会社だったが、「大王製紙事件」と呼ばれる井川意高さんの特別背任事件で、井川家は持ち株を北越紀州製紙に売った。現在は北越紀州製紙の持ち分法適用会社となっている。

しかし、大王製紙グループの商事会社などの関連会社は、井川家が株式を押さえている会社もある。大王製紙本体からは井川家は手を引いたが、依然として大王製紙の事業には様々な面で関与している。


この本で井川さんが言いたいこと

井川さんは、中学から今の筑駒に入学、東大法学部にストレートで合格し、東大在学中はBMW635を乗り回していたという。典型的な金持ちのおぼっちゃんだ。清泉女子大出身の最初の奥さんとは、在学中に知り合ったという。

BMW635CSi (ベージュ・メタリック)
BMW635CSi (ベージュ・メタリック)

はっきり言って、あまりに恵まれすぎていて、実刑で服役することになっても別に憐憫の情はわいてこない。

子会社から巨額のカジノ資金を借り入れたが、すべて返済した。会社に迷惑はかけていない。だから情状酌量で、執行猶予が妥当ではないかという主張は、あまりに身勝手だ。主張を露骨に書いているわけではないが、行間から発するメッセージは、その主張そのものだ。

井川さんも、「わずかな望みを懸けた執行猶予判決を得ることはできなかった」と書いている。

筆者が大学で刑法を勉強した時は、故・団藤重光先生の構成要件を違法有責類型とする学説が主流だった。たぶん、今でもそれは変わらないだろう。

会社からの告発もあるので、特別背任罪構成要件は満たしている。後から、金を返せば罪が軽くなるような単純な話ではないことは、東大法学部出身の井川さんも大学で学んだだろう。

ホリエモンは、井川さんと面識があり、井川さんが東京拘置所に収監されたときに、厚い座布団をまっさきに差し入れてくれたという。

このブログではホリエモンの「刑務所なう。」を紹介している。さすが拘置所暮らし経験者というところか。



井川さんは、ギャンブル狂はWHOに認められた「病的賭博」や、アメリカ精神医学会に認められた「ギャンブル依存症」という「病気」であって、「癖」ではないという。

アメリカ精神医学会の「ギャンブル依存症」の10要件を列挙し、「私が重度のギャンブル依存症患者であることは間違いない」と語っている。

その主張は正しいと思うが、今となっては、むなしい。

あとがきの井川さんの言葉が、含蓄がある。

「一番信用できないのは、自分 − 106億8千万円の代償として私が得たものは、かくも悲しい事実のみだった」。

最後に、「本書の印税は、全額社会福祉事業に寄付いたします。井川意高」というメッセージがある。

ホリエモンがエールを送っている通り、井川さんはまだ若い。模範囚として4年の刑期を半分くらいに短縮し、2015年くらいには社会復帰を果たすだろう。1964年生まれだから、51歳だ。

是非、第二の人生で、カジノ狂い病を克服して、活躍してほしいものである。


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2014年03月22日

不格好経営 特に不格好とは思わないけど…

不格好経営―チームDeNAの挑戦
南場 智子
日本経済新聞出版社
2013-06-11


元マッキンゼーのパートナー(役員)で、DeNAの創業者の南場智子さんの最初の著書。

南場さんの生い立ちと経歴、DeNA創業に至った経緯から、最近のDeNAのモバイル事業展開まで、創業者の目から見た事業の立ち上げ担当者の舞台裏の努力が描かれている。


不格好というよりは、筋書きのないストーリーがIT業界なのでは?

本の帯に「経営とは、こんなにも不格好なものなのか。だけどそのぶん、おもしろい。最高に。」という南場さん自身の言葉が書いてある。

南場さん自身は「不格好経営」と言うが、特に不格好と思える点はない。

「コンサルタントが頭の中で考えるストーリーのようなスマートな展開は、実際の経営ではできないよ。」という意味で、「不格好」と言っているのではないかと思う。

筆者も2007年まで5年弱、IT企業経営をしていたので、後で思い返せば、「もっとうまくできたのに…」、「なんでわからなかったんだろう…」と感じることが多々ある。その意味では「不格好」そのものである。

しかしIT企業の成功ストーリーに筋書きはない。楽天だって、泥臭く地道に営業に励むことと、体育系のノリ、金融業界出身の三木谷さんの金融業シフトで、ここまで大きくなった。

アマゾンもここまで大きくなるとは、誰も予想しなかっただろう。さらに、アップルがマイクロソフトを時価総額で凌駕するとは、だれも予想していなかったはずだ。

DeNAも、インターネットオークションでは、ヤフオクに大きく差をつけられた第2位だったが、いち早く携帯電話向けサービスを開始し、モバオク、そしてゲームに進出しモバゲーで急成長した。

筋書きのないストーリーがIT業界そのものの歴史だ。


社員の顔が見える本

IT企業のトップが書いた本は、このブログでもいくつか紹介している。楽天の三木谷さんや、サイバーエージェントの藤田さん最近、刑期を終えたホリエモン倒産したインデックス会長の落合さんなどだ。

IT業界ではないがワタミの渡邉美樹さんの本も紹介している。

これらの本のほぼすべてに共通していえるのが、本人以外に登場する社員が少ないことだ。特に三木谷さんの最近の本と、ワタミの渡邉さんの本に至っては、本人以外にはほとんど誰も社員が登場しない。

南場さんの本は、これらの本と対照的だ。この本には多くの社員が登場する。実際に社員の写真も載っていて、まさに社員の顔が見える本だ。

筆者もピッツバーグから帰任した2000年末に、新規ビジネスの相談に幡ヶ谷のフロスビルにあるDeNAオフィスを訪問して、守安さん、春田さんから意見をお聞きした経験もあり、大変興味深く読めた。春田さんは「取締役 総合企画グループ担当ディレクター」、守安さんは「システム開発グループ」という肩書のない名刺だった時代だ。

南場さんは、最初はもっと多くの社員の名前を紹介していたが、社外の人には読みづらいものになってしまったので、減らしたのだと語る。

しかし、本書に登場していない社員のひとりでも欠けてしまったら今のDeNAはないという。

気配りの人、社員を第一に考える経営者、それが南場さんなのだと思う。

この本では「読者が『DeNA』号に乗ってジェットコースターのような展開をともに体験できるよう、事実をそのまま伝えることを重視した」という。

たしかに、面白い。南場さんの生い立ちや、旦那さんのがんの治療のために、DeNAの社長を退任した事情なども紹介されていて、南場さんの人となりや考え方がわかる。

この本はアマゾンの「なか見!検索」に対応しているので、ここをクリックして目次をみてほしい。

第9章の「人と組織」の、「コンサルタントと事業リーダーの違い」も納得できるし、「MBAは役立つか」では、「学びがゼロかというと、そうではないが、そのために2年間も使うのか、を問いたいところ」と語っている。

自分がMBAに行っていないだけに(その代わり2年間の語学研修でスペイン語はペラペラだが)、MBA信仰のある筆者にとっては、警鐘となった。


DeNAクオリティ

楽天の成長のコンセプトは次の5点だ。

1.常に改善、常に前進
2.Professionalismの徹底
3.仮説→実行→検証→仕組化
4.顧客満足の最大化
5.スピード!!スピード!!スピード!!

これに対して、DeNAクオリティは次の5点だ。

1.デライト (Delight) 顧客のことを第一に考え、感謝の気持ちを持って顧客の期待を超える努力をする
2.球の表面積 (Surface of Sphere) 常に最後の砦として高いプロフェッショナル意識を持ち、DeNAを代表する気概と責任感を持って仕事をする
3.全力コミット(Be the best I can be) 2ランクアップの目線で、組織と個人の成長のために全力を尽くす
4.透明性 (Transparency & Honesty) チームワークとコミュニケーションを大切にし、仲間への責任を果たす
5.発言責任 (Speak Up) 階層にこだわらず、のびのびしっかりと自分の考えを示す

楽天と似ている部分もあるが、DeNAらしさがでていると思う。

筆者は個人的にはDeNAに大変感謝している。というのは、DeNAが横浜ベイスターズを買ってくれたので、郷土の球団としてずっと応援してきたベイスターズファンから卒業するきっかけができたからだ。

今は野球のひいきチームはない。ベイスターズファン時代は、長年不満がうっ積していたが、きれいさっぱりファンを卒業して、いまの気持ちは棋士の羽生さんではないが、「玲瓏」(れいろう)(もとは「八面玲瓏」)、あるいは「明鏡止水」である。


南場さんは文才もあり、ストリーも面白い。三木谷さんのように「夢を見るのは若者の特権だという。美しい言葉ではあるけれど、僕は間違っていると思う。」というような鋭いツッコミもない。

楽しく読める本である。



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2014年03月06日

なでしこ力 女子サッカー日本代表監督佐々木則夫さんの本






会社で佐々木則夫さんの講演を聞いたので、読んでみた。

ちょうどソチ冬季オリンピック開幕前だったので、「今の時期は、なでしこは"ソチのけ"で…」とかいったおやじギャグを飛ばすノリの人だった。

レジリエンス・ジャパン(国土強靭化計画)のポスターでは精悍なイメージがあるが、めちゃくちゃ面白い人だ。

佐々木監督








































出典:国土強靭化HP

講演を聞いただけだったら、「人を楽しますことを常に心がけている気配りの人」という印象で終わっただろうが、本を読んで驚いた。

帝京高校のサッカー部が全国優勝した時のキャプテンなので、都会出身の順調な人生を送ってきた人かとおもったら、大変な苦労人だった。


「観葉植物」

この本で「観葉植物」という一節がある。ここで佐々木さんの生い立ちを書いている。

佐々木さんは山形県尾花沢市出身。関東地方に出稼ぎに出ていた両親と別れて、山形の祖母の家に預けられていた。一人っ子だったので、おばあさんと二人で暮らし、佐々木さんが小学校2年の時におばあさんを看取った。

だんだん衰弱していくおばあさんに気づいて、常におばあさんのことを気遣っていたから、相手を気遣う性格が養われたのだろうと。

おばあさんが亡くなると、両親と一緒にお父さんの土木工事会社の従業員との共同生活を始めた。

土木工事会社なので、作業現場に近いところに住み、現場が変わると、また次の現場の近いところに住むということで、毎年のように転校していたという。転校ばかりしていたので、悪い仲間に誘われ万引きの見張りをやらされそうになったこともあった。

6年生のころは、サッカー仲間が出来た学校から転校するのが嫌になり、2時間かけて通って、友達の家に居候させてもらった時期もあったという。

埼玉県の芝中学時代は足が速く、運動神経抜群だったので、1年生でレギュラーになったが、スキーに行って足を怪我してしまい、その後怪我の連続で、結局公式戦は出場ゼロだった。

中学のサッカー部の先生の口利きで、帝京高校に入り、持ち前の走力を生かして1年生からレギュラーになり、帝京高校サッカー部のキャプテンで高校日本一となり、高校全日本代表チームのキャプテンを歴任した。

明治大学を経て、ノンプロのNTT東日本(現在の大宮アルティージャ)に就職してからも貧乏くらしだった。

今の奥さんと付き合っていて、実家に招いた時に、畳の隙間から雑草が生え出ていたのを、「観葉植物」だと冗談で言った。これで嫌気がさすようであれば、付き合うのをやめようと思っていたという。幸い奥さんは気にせず、結婚して今はお嬢さん一人と犬がいる。

これが「観葉植物」の由来だ。


男子選手と女子選手の違い

佐々木さんはNTT東日本で現役サッカー選手を引退後は、サッカー部の監督もやったが、24年間ずっと平社員だった。NTT東日本時代は、滞納者からの未払い料金回収や、利用者の苦情に対応する電話料金担当や、広報担当などをやっていた。

料金担当は、ユーザーから様々な要望が寄せられるので、臨機応変な対応が求められ、やりがいのある仕事だったという。その経験がコーチ業にも活かされている。

その後、日本女子サッカー代表チームのコーチに就任した時、すぐに足を怪我して、選手の練習に付き添えない状態だった。

この時、冗談まじりで「コーチになったけど、怪我したので、すぐにクビかも」と一人の女子選手に言ったら、チーム全員が佐々木さんを気遣っていたという。

女子選手はみんな相手を気遣う気持ちが強いので、たとえコーチであっても、誰かの不安が伝播して、共有してしまい、チーム全体の士気に影響することを初めて知ったという。

佐々木さんは講演の中で、「必ずやろうと思うこと」の一つに、「トイレ使用後、トイレットペーパーを三角に折ること」を挙げていた。

筆者はトイレットペーパーを三角に折るのは、掃除の人が掃除が終わった印だと思っていた。まさか、男性で三角に折る人がいるとは!初めて知った。佐々木さんの人柄を表しているエピソードだと思う。

この辺が気配りの人・佐々木さんが女子サッカー指導者としてまさにハマるところだろう。


指導者の11の心得

佐々木さんの指導者の11(イレブン)の心得は次の通りだ。

1.責任
2.情熱
3.誠実さ
4.忍耐
5.論理的分析思考
6.適応能力
7.勇気
8.知識
9.謙虚さ
10.パーソナリティ

講演では、ここまでをスライドで示し、そして次のスライドで、11.コミュニケーションと追加した。

まさにコミュニケーションの達人、佐々木さんが最も言いたいところだろう。

しかも、これらの11項目は、足し算ではなく、掛け算で、一つでもゼロがあるとすべてがゼロで、その人に指導者の資格はないと語る。

サッカーはチームとしての「集団的知性」(”多くの個人が協力したり切磋琢磨しあうことにより、その集団自体に知能や精神が存在するかのように見える知性”)が大事で、めざすはソーシャル・フットボールだと講演でも語っていた。

しっかりとした考え方のもとで、チームを育成する様々な気配りの一端が紹介されている。

なでしこらしい選手のイメージは、ひたむき、芯が強い、明るい、礼儀正しい、の4つだ。他国のチームの選手が、試合前に上着を投げ捨ててスタッフに拾わせているのに対し、なでしこジャパンの選手は自分できちんと折りたたんで、並べて置いて、他チームの監督にも感心されたことがあったという.

ちょうどアルガルベカップが開幕したところで、なでしこジャパンは世界最強の米国と引き分けた。 ぜひ優勝めざして頑張ってほしい。



なでしこジャパンを率いるのに最適の人。それが佐々木監督だと思う。これからも、なでしこジャパンを応援したくなる本である。


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2013年11月29日

父の肖像 堤清二(辻井喬)が書いた西武グループ創始者 堤康次郎の伝記小説

2013年11月29日再掲

セゾングループの創始者の堤清二さんが86歳で亡くなった。堤さんは「辻井喬」のペンネームで作家としても活躍されている。堤さんのご冥福を祈って、辻井喬さんの代表作の「父の肖像」のあらすじを再掲する。


2005年11月28日初掲:

父の肖像


西武百貨店(セゾン)グループの総帥だった堤清二氏は辻井喬(つじいたかし)のペンネームで作家としても有名である。

筆者の読んだ本のなかでは詩人で住友財閥の重役だった川田順のことを書いた『虹の岬』も印象に残る作品だったが、この本は自ら『最大の宿命』と呼ぶ、父であり西武グループの創始者である堤康次郎氏の伝記小説である。


虹の岬


実は図書館で3ヶ月前に借りて一旦読み出したのだが、あまりのボリューム(640ページ)に完読できず、再度またリクエストして読んだのだ。

この本は雑誌『新潮』に2000年から2004年にかけて連載されたものを2004年9月に本にまとめて出版されたものでもあり、西武鉄道・コクドの事件とは直接関係はないが、この作品で辻井喬氏が野間文学賞を受賞したこともあり、出版後1年以上経つのにいまだにリクエスト者が数十名居るという、図書館でも非常に人気が高い本である。

筆者のポリシーは小説を紹介するときは、面白みが薄れてしまうので、詳しいあらすじは書かないというものだが、この小説は堤康次郎の生き様を描くかたわら、作者堤清二自身の出生の秘密と未知の実母に対する複雑な思い(フィクションなのか実話なのか不明)がちりばめられた伝記と小説の混合なので、640ページという大作でもあり、印象に残った点を紹介したい。


西武鉄道有価証券法違反事件

堤ファミリーが保有する株式を、第三者名義にして株主名を何十年も偽って報告したため、有価証券取引法違反等で、昨年西武鉄道の総帥堤義明氏が逮捕されたことは、記憶に新しい。

この本の中でも堤康次郎が堤義明らに次のように言ったとされている:

「世間では東急を近代的とか大企業らしいなどと言っているが、どの企業も五島家のものではない。そこへいくとわしの事業は全部堤家のものだ。」

「西武鉄道は上場しているが、それは形だけのこと。絶対の支配権はわし一人が握っている。成り立ちが違う。経営の実態を知らない近代かぶれの学者や記者ごとき軽薄才子に惑わされてはいかんぞ。」

「お前らは堤家中興の祖、曾祖父清太郎の遺志だけを継げ、世間の評判は一切無視しろ。そんなもの、悪ければわるいほどよろしい。」


なんと最初は特定郵便局長から事業開始

小泉首相が郵政民営化は是か非かを問うた今年9月の総選挙が記憶に新しいが、なんと堤康次郎は東京に出てきて早稲田大学高等予科に通う傍ら、郵便局を買収して郵便局長として最初の事業を始めている。

明治時代から特定郵便局は儲かる商売だと思われていたようだ。

堤康次郎は明治22年滋賀県東畑郡六箇荘生まれで、幼少の頃父が腸チフスで亡くなったため、弟は養子に出され、実母は実家に帰ることとなり、妹と一緒に祖父に育てられた。しかしその祖父も康次郎が19歳の時になくなる。

田舎では肥料の仲買をやったり、郡役所に勤めたりして最初の結婚をし、21歳で長女が誕生しているがすぐに離婚した。

祖父から相続した田畑を売り、学資をつくって上京し、早稲田大学予科に入学し、政治経済学部へ進学する。立身出世を目指す康次郎は雄弁会で弁舌を鍛えながら、柔道でも腕を上げる。

学生ながら株式投資でできた資金を使って特定郵便局を買収する一方、鉄工所も買収し、複数事業に同時に取り組むという今で言うとポートフォリオ戦略を実行する。

郵便局長時代に23歳で、局員に産ませたのが長男であるが、この相手とは結局結婚はしなかった。


政治への野望

早稲田時代には、ちょうどオックスフォードでの留学を終えて教授として帰国したばかりの永井柳太郎に師事、当時第2次大隈内閣を率いていた早稲田大学創始者の大隈重信とも近づきとなる。このとき永井の指導で『日露財政比較論』という本も出版している。

ほとんどが士族出身で、なおかつ藩閥内閣の薩長閥が力を持っていた当時の政治の世界では、近江の百姓出身というコンプレックスを常に抱いていた康次郎だったが、大正5年に永井の妻の友人の編集者で、2歳年上で小名浜の医者の娘の桜と2度目の結婚をした後は、文人とのつきあいも増え、コンプレックスは薄れた様だ。

桜との間には結局子供はできず、長男と、夭折した弟の息子として戸籍上は届けられた作者堤清二を引き取り、堤清二は桜に育てられる。

永井柳太郎が大正9年に当選し、康次郎もその後を継いで大正13年に衆議院議員となり、以来戦前戦後を通じてずっと議員の資格を持つ。

大正13年の最初の選挙では『家老の子か、土民の子か』という戦略で、普通選挙を求める民衆の意識の高まりをうまく利用し、かつ勧業銀行、興業銀行、山下汽船、東京電燈、実業之日本社などの社長、早稲田や東大教授の支援を得て当選し、永井のいる憲政会に入党する。

ちなみに普通選挙法は大正14年に成立するので、康次郎の民衆意識に訴えるという戦略は、まさに時代を先取りしていた。

昭和7年には永井が外地(台湾・韓国・満州など)を担当する拓務省の大臣となった関係で、政務次官となる。このとき満州を視察し、匪賊に悩まされている辺境の開拓民の実体を知り、満州経営は非常に困難であることを実感したが、流れを変えることはできず、昭和11年に2.26事件が起こったあとは日本は全面戦争に向けひた走ることになる。


地域開発事業への進出

大正2年に大学卒業後、大正6年に後藤新平のすすめで軽井沢の沓掛地区に80万坪の土地を購入し、地域開発事業に進出。郵便局とか鉄工所は手放したが、東京護謨(ゴム)という会社を買収するなど、事業には才能があり、不動産業や鉄道業でもその才覚を発揮する。

司法大臣等を歴任した政治家大木遠吉を訪ねて熱海を訪問した時に、十国峠を越えて箱根を視察し、首都から1日圏の観光地としてのポテンシャルを見抜き、観光地開発を決意、三島から修善寺を走っている駿函鉄道も買収して伊豆・箱根開発に力を入れる。

また東京市長の後藤新平と相談して、国分寺と立川の間に国立をつくり、ドイツのハイデルベルク等にならって、核となる東京商科大学(一橋大学)を敷地が4千坪から2万坪になるという計画で誘致し、駅から延びる『60メートル道路』を持つ学園都市として開発する。

昭和初期には第1次世界大戦後の不況で、不動産業は窮地に陥り、開発費の支払いが滞り、コクドは破産状態となっていたが、なんとか持ちこたえ、戦争拡大とともに景気は回復し、窮地を脱する。

コクドはその後減資・増資して埼京鉄道(西武鉄道)を買収し、さらに路線での不動産開発をすすめ、西武グループは新興企業グループとして確固たる地位を占める。

このころ学園都市開発で知り合った大学教授の娘の治栄とねんごろになり、三男が誕生する。堤義明氏である。治栄とは婚外で2男、1女をもうけた。

戦後、衆議院議長として宮内に正式な妻ではない治栄と一緒に拝謁したことから、スキャンダルを恐れ、長年別居していた正妻桜と離婚して治栄と正式に結婚する。

昭和15年には麻布に一万坪の六荘館とよぶ迎賓館を建設し、一族はそこに住む様になる。東条内閣の時には大東亜迎賓館と呼ばれ、政府の公式な迎賓館としても使われたが、結局空襲で焼けてしまう。


難民は叩き出せ

空襲で大東亜迎賓館が焼け、近所の避難民が逃げてきたとき、堤康次郎は「叩き出せ。絶対に入れるな。棍棒を持って追い出してこい。一度入れたら居座られるぞ。」と大音声を発したと。

「いいか清二、覚えておけ。今、難民たちに甘い顔をしてみろ、どこまでもつけあがるぞ。そのうちに小屋掛けをして居座り、結果は乗っ取られる。財産を守るというのはそういう事だ。」と叫んだという。


戦後の発展

戦後康次郎は5年間公職追放となっていたが、軽井沢、箱根、西武線沿線、ホテル、デパート、スキー場、国立地区、三浦半島、大磯、伊豆など西武グループの事業はさらに拡大した。従業員には康次郎は『大将』と呼ばれ、人望も厚かったようだ。前立腺肥大で尿管閉塞を起こし、これが持病となるが、見事快復する。

康次郎の会社の3原則は:

第1に人のためになることをせよ
第2に人のやらないことをせよ
第3に儲かることをせよ

だという。

箱根では五島慶太率いる東急グループ、小田急グループと熾烈な箱根戦争を繰り広げ、西武が建設した自動車専用道路(箱根ターンパイク?)に東急パスが路線申請をしたことから訴訟合戦も繰り広げられることとなるが、その後自動車専用道路を静岡県に売却し、伊豆観光開発の利権につなげる。


作者出生の秘密

この本を通じての最大のテーマが作者出生(しゅっしょう)の秘密である。

作者は「私は自分が何者なのかを知りたくて、そこから父の伝記を書こうと考えたのだ。」と語っているが、作者出生の秘密を握る謎の人物が出てくる。

渋谷の飲食店経営者で後に近江に戻り尼となる平松摂緒とその姪平松佐智子である。

このふたりは小説の中心の人物なので、詳しく説明しないが、この作品に不思議なテイストを与えている。


不思議な読後感

その他作者が康次郎に反発して、東大経済学部時代に共産党に入党したことや、結核療養、一緒に訪米してマッカーサー、アイゼンハワーに面談したことなどのエピソードもあるが、これは詳しくは本を読んでいただきたい。

結局読み終えるまで20時間以上かかったが、読み終えてみると艶福家(えんぷくか)というより好色の事業家堤康次郎に対する嫌悪感は残らず、一介の百姓から西武グループを創り衆議院議長にまでなった尊敬できる人物の様に思えてきた。

たぶんこれが作者堤清二氏の康次郎氏に対する現在の感情なのであろうと思う。

不思議な読後感であった。


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2013年11月25日

小沢一郎 淋しき家族の肖像 どこまでが真実か不明の暴露本

小沢一郎 淋しき家族の肖像
松田 賢弥
文藝春秋
2013-06-12


「角栄になれなかった男」など小沢一郎に関して何冊も暴露本を出しているフリージャーナリスト・松田賢弥さんの本。



松田さんは週刊文春でも小沢一郎の暴露記事を書いている。

特に、この本の冒頭に引用されている小沢一郎の妻・和子さんの支持者に宛てた手紙(離縁状)は週刊文春でも暴露され、政治家小沢一郎には相当なインパクトを与えるものだ。

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出典:本書10〜11ページ

この手紙は6ページ余りにわたって掲載されている。また、週刊文春WEBには手書きの手紙のコピーが掲載されている。

上記で紹介した最初の部分に結論が出ている。

「このような未曾有の大災害にあって本来、政治家が真っ先に立ち上がらなければならない筈ですが、実は小沢は放射能が怖くて秘書と一緒に逃げだしました。岩手で長年お世話になった方々が一番苦しいときに見捨てて逃げ出した小沢を見て、岩手や日本の為になる人間ではないとわかり離婚しました。」

強烈な手紙である。

それと次の段落で、小沢の隠し子のことが触れられている。3年付き合った女性との間の子で、その人が別の人と結婚するから引き取れと言われ、和子さんと知り合う前から付き合っていた●●●●という女性に、一生毎月金銭を払う約束で養子にさせているのだと。

そして、和子さんが小沢に罵倒された言葉も引用されている。

「あいつ(●●●●)とは別れられないが、お前となら別れられるからいつでも離婚してやる」

伏字になっている部分は、実名が入っているという。

本当の手紙なのか、あるいは捏造(ねつぞう)なのか、にわかには信じられない。

小沢一郎が松田さんや週刊文春を名誉棄損で提訴したという話は聞いていない。

隠し子の話が唐突に出てくることなどから、筆者にはガセはないかという気がするが、本当に離婚しているなら、いずれわかるので、現状では判断は差し控えたい。

「放射能が怖い」という部分はまさにガセの可能性が高いと思うが、隠し子の話は本当なのかもしれない。

うがった見方だが、一部真実が含まれているので、小沢一郎も名誉棄損で訴えられないという事情があるのかもしれない。

先日の最高裁判決で、民法で非嫡出子の遺産分与が嫡出子の1/2となっていることが違憲という判決がでて、衆議院ではこれを規定している民法900条の該当部分を削除する改正案を可決し、議案を参議院に送った

法案に反対する国会議員からは、日本の家族制度が崩壊するという意見が出されたという。

なぜ非嫡出子の遺産分与を嫡出子と同じにすると、家族制度が崩壊するのか、ロジックがにわかには理解できなかったが、この本を読んでなぜ国会議員が騒ぐのかわかったような気がする。

小沢一郎に本当に婚外子がいるのかどうかはわからないが、一部の政治家や資産家が一番影響を受ける可能性が高い。民法を改正しても、一般市民にはほとんど影響がないだろう。

この本には小沢一郎が田中角栄の5歳で肺炎のため亡くなった長男と同い年だったとことから、「他人とは思えない」ということで、田中のバックアップを得たことや、建設省人脈やゼネコンを徹底的に使った小沢流選挙術などが紹介されている。

どれだけ真実が含まれているかどうか、判断できないところだ。

いくつかの真実を含んだキワモノと思って読んでみると良いと思う。


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2013年09月11日

【再掲】希望の祭典・オリンピック オリンピック成功の鍵はIOC委員の心をつかむこと

2013年9月11日再掲:

東京オリンピック2020が正式に決定した。お祝いにボランティアとしてオリンピック活動に長年携わってこられた原田知津子さんの「希望の祭典・オリンピック」を再掲する。

滝川クリステルさんの「お・も・て・な・し」のように、IOC委員個人の心をつかんだことが、東京オリンピック招致に成功した要因だと思う。




2012年9月10日初掲:

希望の祭典・オリンピック 大会の「華」が見た40年希望の祭典・オリンピック 大会の「華」が見た40年
著者:原田 知津子
幻冬舎ルネッサンス(2012-07-18)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る

IOC委員の世話役のコンパニオンやオリンピック選手団役員を40年間勤めた原田知津子さんの本。実は原田さんは、筆者の友人のお母さんだ。

原田さんはオリンピック選手団役員として1960年のスコーバレー・オリンピックからオリンピックに参加し、1964年の東京オリンピックでは、国際オリンピック委員会=IOC委員の世話をするコンパニオンのリーダーとして約40名のコンパニオンを統率した。1998年の長野オリンピックまで実に40年間もコンパニオンや選手団の世話役としてオリンピック開催に貢献された経歴を持つ。

オリンピック以外でも、グッドハウスキーピング教室を自宅で開催されており、数百人の生徒を教え、「快速家事」など5冊の本を書かれているスーパーレディだ。

ゆとりの3Sライフ (快速家事)ゆとりの3Sライフ (快速家事)
著者:原田 知津子
文化出版局(1991-10)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る

ちなみに原田さんのハウスキーピングクラスの教え子で、フルート奏者の山形由美さんが、ブログで原田さんのことを紹介しているので、参照して欲しい。


コンパニオン(アシスタント)の役割

国際オリンピック活動では、日本を訪れるIOC委員を心から歓迎し、多忙な日程のなかでも日本を理解し、日本に親近感を持ってもらうことが、将来のオリンピックの日本誘致やIOCにおける日本の発言力の強化につながる。

IOC委員や委員夫人にアテンドして日本滞在中の予定をスケジュール通りこなす一方、日本と日本文化の理解を深め、親しみを持ってもらうようにするのがコンパニオンの重要な役割だ。英語やフランス語などのバイリンガルであることは必要条件の一つで、あとは教養や人柄なども必要条件だ。

コンパニオン(現在はアシスタントと呼ぶ)はボランティアで、勤務条件は次のようなものだ。

1.報酬:無償
2.旅費:IOCメンバーと行動をともにした旅費は事務局が負担。それ以外は自費
3.宿泊:事務局が手配
4.食事:業務が食事時間にかかる場合は支給
5.被服:事務局が支給または貸与
6.期間:オリンピック開催期間、大体3週間程度
7.勤務地:空港出迎え→オリンピック会場移動→大会開催→閉会後空港見送り

東京オリンピックでは約40人、長野オリンピックの時は170人のコンパニオンが、IOC委員や委員夫人のアテンドにボランティアとして駆り出された。これらのコンパニオンは公募せず、すべて原田さん、元NHKアナウンサーの磯村尚徳夫人で、フランス語が堪能な磯村文子さんの二人の人脈で選んだという。

巨人軍の長嶋終身名誉監督の亡くなった奥さんの長嶋亜希子さんも、東京オリンピックの時からのコンパニオンの先輩として、長野オリンピックにもボランティアの助っ人として参加したという。

ちなみに長嶋亜希子さんは、「私のアメリカ家庭料理」という本を出している。亜希子さんは、ミネソタ州の聖テレサ大学というところを卒業している。米国中西部の料理が多いのかもしれないが、どんな米国料理を紹介しているのか興味があるので、一度こちらも読んでみる。

私のアメリカ 家庭料理私のアメリカ 家庭料理
著者:長島 亜希子
文化出版局(1991-04)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る

原田さんの経歴

原田さんは1922年生まれ、お父さんの仕事の関係で11歳までカナダのトロントで過ごし、日本に帰国後、東洋英和女学院、聖心女子大学英文科を卒業してNHKに就職した。今年で90歳になるはずだが、文筆に年齢はまったく感じられない。原田さんがオリンピックのコンパニオンとして貢献された40年余りの経験とエピソードを淡々と、読みやすい文章で語っている。

原田さんの亡くなったご主人は原田敬策さんという元男爵で、西園寺公望の懐刀と言われた原田熊雄男爵の長男だ。原田熊雄は、吉田茂、近衛文麿、樺山愛輔などと一緒に「ヨハンセン・グループ」として、戦争の早期終結を模索した一人だ。

原田さんと夫になる原田敬策さんが知り合ったのは、1945年12月の友人のダンスパーティだったという。1947年3月に行われた結婚式の披露宴は日比谷の日本工業倶楽部で、ウェディングケーキとビュッフェ形式の食事、新郎の原田敬策さんのハワイアンバンドが演奏して、来客がダンスを踊り、それ以来、日本工業倶楽部はダンスパーティで有名になったという。終戦直後の食料危機を完全に超越している生活があったのだ。

原田敬策さんは、白洲次郎が設立した貿易庁に務めた後、三菱商事の前身の協和交易に入社し、それ以降三菱商事で勤務された。原田さん自身は結婚を機にNHKを退職し、その後は外務省の要請で英文同時速記者の資格を取って、パートタイムで国際会議の英文速記をやっていた。


竹田宮の依頼でオリンピック活動に参加

原田さんとオリンピックとのつきあいは、家族ぐるみで親しくしていたスポーツの宮・竹田宮恒徳(つねよし)王からの紹介で、JOC会長でIOC委員でもあった東龍太郎さん(後に東京都知事になる)に会い、1958年に東京で開催されたIOC総会にIOC委員や夫人にアテンドするコンパニオンを集めてくれないかという依頼を受ける。

原田さんはバイリンガルの良家の子女・夫人を20名ほど集めて協力した。この時のメンバーは山本権兵衛の孫の山本貴美子さん、重光葵元外相の娘・華子さん、道面味の素社長夫人、若杉元ニューヨーク総領事夫人、NHKのキャスターの磯村尚徳夫人の文子さんらだったという。

日本でのもてなしに感激したIOC委員たちが、翌年のミュンヘンIOC総会で、1964年の夏季オリンピック開催地を大差で東京に決定するという結果となった。

これがきっかけで、原田さんは日本オリンピック協会=JOCの依頼で、各地で行われるIOC総会やオリンピックなどの公式イベントにIOC委員のアテンド役やオリンピック選手団の正式な役員(シャペロン=世話係)として参加するようになった。


オリンピックに役員として参加

原田さんが最初にオリンピックに参加したのは、1960年のスコーバレー冬季オリンピックで、日本選手団の団長は、当時の日本スキー連盟会長で、種なしスイカの発明者の木原均さんだったという。スコーバレーオリンピックでは、ウォルト・ディズニーと近づきになれたのがうれしかったという。

その後インスブルック冬季オリンピックでもシャペロンとして参加、そして1964年の東京オリンピックではコンパニオンのリーダーとして大会の成功に貢献した。


ミスター・アマチュアリズム

原田さんがアテンドしたミスター・アマチュアリズム、当時のIOCブランデージ会長のエピソードも面白い。

ブランデージ会長は、開会式に天皇陛下に開会宣言をお願いするために、テープレコーダーを部屋に持ち込んで「謹んで(つつしんで)、天皇陛下に、開会宣言をお願い申し上げます」という日本語を必死になって覚えていた。

一切ショー的なものを嫌ったブランデージ会長は、開会式では浴衣姿の盆踊りや小学生のマス体操をショー的すぎるとして中止させたという。マス体操に参加する予定で、数か月前から練習していた原田さんの次男(筆者の友人)もこれにはがっかりしたという。

開会式、閉会式のショーが話題を集め、NBAのプロバスケットボール選手も参加する今のオリンピックとは全く別物の純粋アマチュアリズムの考え方だ。

東京オリンピックでは開会式でオリンピック賛歌を演奏し、これがそれ以降のオリンピックのならわしとなった。自衛隊のブルーインパルスが五輪の雲を描いたことも、それ以降のオリンピックでマネされるようになったという。




清川IOC委員の秘書役

東龍太郎氏の次のIOC委員の清川正二氏は、戦前のロスアンジェルスオリンピックの背泳の金メダリストで、IOC副会長と、競技大会へのIOC代表という要職をこなした。ブランデージ会長の後を継いだアイルランドのキラニン卿、その後のスペイン出身のサマランチ会長の信任が厚かったという。

清川さんはオリンピック開催中は、前日の競技報告書を2−3ページにまとめて、サマランチ会長はじめIOC委員に翌日届けるという仕事を毎日やっており、原田さんは秘書としてタイプとレター配布したという。


ロス五輪を黒字化したユベロスの手腕

1984年のロサンゼルスオリンピックでは、大会組織委員会のユベロス会長が極端なコスト削減策と、収益改善策を導入し、オリンピックとして初めて黒字になった大会となった。

建設費をかけずに既存の施設を改修して使い、選手村は夏の間空いているUCLAの大学寮を使った。巨額のテレビ放映料と、ボランティアの大量投入が黒字化のカギだった。ボランティアには制服が支給されたが、日当は昼食代の5ドルだけだったのには驚いたと原田さんは書いている。

そのほか、原田さんが参加したグルノーブル冬季オリンピック札幌冬季オリンピック、日本がボイコットしたモスクワオリンピックカルガリー冬季オリンピックソウルオリンピックなどのエピソードも興味深い。

原田さんが参加した最後のオリンピックは1998年の長野冬季オリンピックで、開会式で天皇陛下から「原田さん、東京オリンピックからずうっと、ですね」と声をかけられたときは恐縮したという。

原田さんの長年のオリンピックへの貢献に対して、IOCは原田さんと弟の平井俊一さんに2000年にオリンピックオーダー(五輪功労賞)を送った。


知っている人が出てきて親しみを感じる

実は筆者は山本権兵衛のひ孫の山本衛さんと、アルゼンチン駐在時代に知り合い、年賀状をやり取りしている。山本貴美子さんは山本衛さんの叔母さんだと思う。

東龍太郎さんは東大ボート部の出身だ。東一家は毎夏、西伊豆の東大戸田寮に来られていたので、寮委員の間では有名だった。

サッカー出身で元IOC委員の岡野俊一郎さんは、筆者が湘南高校のサッカー部に在籍していた時に、サッカーの指導で藤沢まで来られ、教えてもらったことがある。

サッカーのアクロバチックなプレーに、オーバーヘッドキックがあるが、岡野さんが体育館で手本を見せてくれたのには驚いた。湘南高校のサッカー部では誰もできなかったが、当時40歳くらいだった岡野さんはやすやすとこなしていた。



筆者の友人は原田さんの次男で、大阪オリンピック誘致事務局に出向していたことがある。オリンピック誘致のような活動では、筆者の友人は、お母さんの原田さんや叔父の平井さんの人脈が活用できたと思うので、まさに適材適所だったのではないかと思う。

この本を読むとIOC委員にアテンドしてお世話するとともに、日本の良さを知ってもらうコンパニオン活動の重要性がよくわかる。

個々のIOC委員との人と人のつながりが、日本のサポーターを増やし、それが結果として日本が東京、札幌、長野とオリンピックを3回開催することにつながったのだと思う。

前回、東京がオリンピック開催地に立候補したときに、石原都知事が将来のスタジアムを目の前に投影するバーチャルディスプレイゴーグルを視察団に見せて、日本の先進性と技術力を見せつけたと自慢していたが、筆者は何か違うのではないかと感じていた。

もちろん開催地決定はきれいごとばかりではない。政治的な思惑や、ソルトレークシティオリンピックで明らかになったように、過去には買収や過剰接待攻勢もあった。それでも原田さんの活動のように、ボランティアのコンパニオンが手分けしてIOC委員を心からもてなし、日本のサポーターとなってもらうというのが、本来あるべき姿だし、時間はかかるが、それが一番確実な道ではないかと思う。

いまどきそんな悠長なことはやれないのかもしれないが、もし東京が、あるいは日本のどこかの都市が本気でオリンピック誘致に乗り出すのであれば、少なくともIOCの有力委員には、原田さんたちのような人と人のアプローチが重要なのではないかと思う。

そんなことを考えさせられる本である。


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2013年09月02日

ロゼッタストーン解読 フランスが発見しイギリスが持ち帰った碑文をフランス人が解読

ロゼッタストーン解読 (新潮文庫)
レスリー・アドキンズ
新潮社
2008-06-01


成毛眞さんの「面白い本」に紹介されていたので読んでみた。

面白い本 (岩波新書)
成毛 眞
岩波書店
2013-01-23


成毛さんの本では、1ページ半で簡単に紹介されているだけだが、300ページ以上の本である。

ナポレオン・ボナパルトは1769年コルシカ島の小貴族の息子として生まれた。フランスで軍人となり、フランス革命の時に、市民革命の波及を恐れてフランスを攻めたオーストリアなどのヨーロッパ諸国を撃退して一躍名を挙げた。

ナポレオンは当面の敵・イギリスに攻め込むには、海軍力が不足しており、まずはイギリスのインド交易路を断って、イギリスの財源を断つという作戦に出た。

そして1798年6月400隻の船に乗った約4万人のフランス軍がエジプトのアレキサンドリアに到着した。この時ナポレオンは150人以上のフランス学士院会員の学者を伴っていた。

ナポレオンはアレキサンダー大王の後継者を目指していたので、アレキサンダー大王の東方遠征でヨーロッパ文化がアジアに伝わったことを意識していた。ナポレオンのエジプト遠征は文化的使命も担っていると考えていていたようだ。

このエジプト遠征時にアレキサンドリアの東のロゼッタでフランス兵が発見したのがロゼッタストーンだ。1799年8月のことだ。

ロゼッタストーンは高さ1.2メートル、重さ700キロ以上の大きさで、ヒエログリフ、ギリシャ語、それとデモティックと呼ばれる民衆文字(コプト古語)で紀元前204年から180年まで在位したプトレマイオス5世エピファネスの偉業をたたえるために紀元前196年に作られた神官の布告だった。

ヒエログリフを学ぶ本の表紙にロゼッタストーンの写真が載っているので紹介しておく。



フランス軍はエジプトに攻め入ってきたトルコ軍を打ち負かし、それなりに奮戦していたが、いずれ補給が絶えてしまう恐れがあった。

フランス国内では、王党派が王政復興を画策していた。反クーデターがあるとのうわさを聞きつけたナポレオンは、エジプト遠征を自ら放棄して、フランスに戻ってしまう。タイミングよく1799年11月のクーデターの主導権を握り、その5年後の1804年には皇帝に戴冠した。

ナポレオンがエジプトを去ると、全権を委ねられたクレベール将軍は、すぐにイギリスと交渉を始め、1800年初頭に現地で合意が成立した。

学者たちはロゼッタストーンなどの収集品を船に積み込んで出航を待っていたが、イギリス本国はフランスの無条件降伏以外は認めず、結局帰国は1年半も遅れ、ロゼッタストーンはイギリスに没収された。

大英博物館に行ったことがある人なら、みんなロゼッタストーンを見たことがあると思う。これがフランスが発見したロゼッタストーンが発見国のルーブル美術館でなく、大英博物館にある理由だ。

ロゼッタストーンの碑文は、すぐに拓本がつくられ。ヨーロッパ中の学者に配布された。

ヒエログリフは次のような文字で、象形文字(いろいろな鳥とかヘビなど)、表意文字、そして表音文字の3つの機能がある。さらに「決定詞」と呼ばれる冒頭について敵や外国人を表すものもある。

ヒエログラフ







出典:本書194−5ページ

古代エジプトで使われていたが、ローマ支配下ではヒエログリフは使用されなくなった。キリスト教台頭とともに、異教徒の寺院や碑文と結びついたヒエログリフは禁止され、紀元394年にエジプトのアスワン近くの神殿に記されたヒエログリフが最後だと言われている。

ヨーロッパ中の学者がロゼッタ碑文によりヒエログリフの解読を試みた。

最初に一部解読に成功したのはイギリス王立研究所の教授で医者・学者のトーマス・ヤングだった。ヤングは外国名のヒエログリフ解読にはある程度成功したが、エジプト名の解釈で多くの間違いを犯した。ちなみにヤングは物理学者としても有名で、力学の「ヤング率」に名前を残している。

この本では、ヤングが解読した「プトレマイオス」や外国人名と、正しい読み方の比較表を載せており興味深い。

一方、フランスの南西部の小さな町フィジャックで1790年に本屋の末息子として生まれたジャン・フランソワ・シャンポリオンは、フランス革命で学校が閉鎖されていたため、兄や家庭教師の教えを受けて、ラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語、アラビア語、シリア語などをマスターし、のちにはキリスト教徒が使うエジプト語であるコプト語もマスターした。

「シュリーマン旅行記」や、ヘッセの「車輪の下」のあらすじでも記したが、昔の人は本当にスゴイ。これだけの語学をマスターしている人がゴロゴロいたのだ。

シュリーマン旅行記 清国・日本 (講談社学術文庫 (1325))
ハインリッヒ・シュリーマン
講談社
1998-04-10


車輪の下 (集英社文庫)
ヘルマン・ヘッセ
集英社
1992-01-17


シャンポリオンは、フランス学士院のアカデミー会員に選ばれた。

グルノーブルの大学や図書館で働く兄のジャック・ジョゼフの力も借りて、シャンポリオンは天性の語学の才能を生かし、1808年からロゼッタストーンの解読に取り組んだ。

当初は簡単な仕事と見られていたロゼッタストーン解読だが、ヒエログリフは複雑な仕組みでできていることがわかり、解読開始から14年近く経った1822年9月、シャンピリオンはロゼッタストーンの解読にとうとう成功する。

解読に成功したことをグルノーブルのフランス学士院に勤務する兄に伝え、そのまま倒れて5日間寝込んだといわれている。

1822年9月27日にパリの碑文アカデミーの会合で、シャンポリオンはヒエログリフの解読に成功したことを発表した。その時たまたまパリに来ていたイギリスのトーマス・ヤングは、碑文アカデミーの会合でシャンポリオンの隣に座って、彼の発表に立ち会った。

それまでヤングを含む何人もの学者がヒエログリフの解読に成功したと発表していたが、シャンポリオンはそれまでの説を否定し、ヒエログリフの表音文字は、外国名のみに限定されるのではなく、エジプト語にも広く使われ、基本的に3つの機能があると発表した。

たとえば次のアヒルを示す象形文字は、アヒルを意味すると同時に、表意文字として「の息子」という意味もあり、また表音文字として「サ」という音にもなる。

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出典:インターネット検索

この論文は、のちに「ダシエ氏への書簡」というタイトルで出版され、シャンポリオンのヒエログリフ解読者としての地位を確固たるものにした。

いままで知らなかったナポレオンのエジプト遠征やヒエログリフ解読のいきさつがわかり、参考になった。330ページと長く、本題とあまり関係ない部分もかなりあるので、それらはスキップして読んでも良いと思う。

スフィンクスの鼻はナポレオンの軍隊が壊したという俗説があるが、どうやらそれはウソのようだ。

ヒエログリフの本物がYouTubeに載っているので紹介しておく。



興味のある人は、次の本を読んでヒエログリフをマスターしても面白いと思う。

ヒエログリフを書こう!
フィリップ アーダ
翔泳社
2000-06



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2013年05月22日

いいひと賞 なぜか引き込まれない人物紹介コラム秀作集

いいひと賞いいひと賞
著者:朝日新聞いいひと賞選考委員会
講談社(2010-03-26)
販売元:Amazon.co.jp

朝日新聞朝刊2面に、ほぼ毎日掲載されている名物コラムの「ひと」から、その月の最優秀作を集めた本。

以前紹介した「作文の技術」で、著者の外岡秀俊さんが、「ひと」から、よくできた作文例として連続20回以上TOEIC満点を達成し、ひきこもりから英語教師となった海外旅行経験ゼロの「イングリッシュ・モンスター」さんなどのコラムを紹介していたので、興味を惹かれて読んでみた。

イングリッシュ・モンスターの新TOEICテスト最強勉強法イングリッシュ・モンスターの新TOEICテスト最強勉強法
著者:菊池健彦
泰文堂(2011-07-15)
販売元:Amazon.co.jp

「いいひと賞」は、「ひと」コラムで、その月の最優秀作を書いた記者に送られる賞だ。

選考委員会のメンバーは、座長がシニアライターで政治記者経験が長い早野透・コラムニスト。紙面委員が司会をして、政治、経済、社会・地域報道、国際報道、生活、科学医療、スポーツ、文化、BE編集、編集センター、校閲センターの11グループのデスクたち(おおむね40代なかば)の13人。

事前に推薦作品をだし、委員会ではそれぞれが推薦理由を話す。


「いいひと賞」選考基準

選考基準は次のようなものだという。

1.書き出しは魅力的か(定型すぎないか?奇をてらいすぎていないか?)

2.取り上げた人物の本質が読者に伝わるエピソードがふんだんに盛り込まれているか

3.文章にテンポがあるか

4.業界用語のような、やたら難しい言葉をしたり顔で使っていないか

5.いちいち前に戻って確認しなければならないような引っかかりはないか

6.締めに余韻が残っているか

7.取り上げた人物は旬のひとか

8.いやに誉め過ぎていないか


心を打つ「いいひと」は一人も登場しない

この本の構成は次のようになっている。

いいひと賞 2009年1〜12月

いいひと賞 2007年1月〜2008年12月

いいひと賞 2005年1月〜2006年12月

いい文賞  2009年1月〜12月

原稿用紙2枚くらいの短いコラムで、スペースが限られていることもあるが、この本を見て、どれも画一的な「つくり」となっているという印象を受けた。

「いい人」を事務的に紹介しているような印象だ。

筆者は読んで感動するような「いいひと」を期待していたのだが、はっきり言って、心を打つ「いいひと」は一人も登場しない。

もしこのような作品に「いいひと賞」が与えられているのなら、単に記者の職業訓練のための賞ではないかという気がする。


いい文章のために深代惇郎さんを研究

最近、「いい文章」の研究のために、朝日新聞で名文家と言われた深代惇郎(ふかしろじゅんろう)さんの「旅立つ」や、追悼作品の「記者ふたり世界の街角から」を読んでみた。

旅立つ (1981年)
著者:深代 惇郎
ダイヤモンド社(1981-11)
販売元:Amazon.co.jp

記者ふたり 世界の街角から (朝日文庫)記者ふたり 世界の街角から (朝日文庫)
著者:深代 惇郎
朝日新聞社(1985-04)
販売元:Amazon.co.jp

そのなかで「作文の技術」でも頻繁に登場する朝日新聞の名文記者・疋田桂一郎さんの発言が紹介されている。

疋田さんが、記者仲間の集まりで、「長い間、上手い文を書こう、いい文章を書こうと思ってやってきたが、このごろ、そういう自分がいやだね。」と言っていたという。

深代さんは「あのときの話、このごろよく解るよ。」と言っていたという。

これを読んで、筆者はわかったような気がする。

文章は読者に著者の思いや感動を伝えることが、目的ではないのか?

朝日新聞の記者は「いいひと」を「いい文」で、きれいに描こうとするあまり、基本のところ、つまり相手に感動を与えることを忘れているのではないかと思う。

こんなことなら、しろうとが書いた文でも、思いのたけを込めて書けば、新聞記者が書いた事務的なコラムより、よっぽど感動を与えるのではないかと思う。


心を打つ「いい文賞」作品

もちろん原稿用紙2枚という制限があることも、きれいにまとめた文章ばかりになる原因だろう。その証拠に、この本の「いい文賞」の部分の作品は、感動を与えたり、なるほどと納得する作品がある。

たとえば、次のような作品だ。

★兄の形見「ぼく使う」阪神大震災から13年たったランドセル「ぼろくてもいいねん」

★ホームレス歌人さん、連絡求ム 昨年末、朝日歌壇に 経歴一切不明 ほぼ毎週入選 

★(文化特捜隊)ピアノ入門でバイエル離れ

★つらい思い 詠んで忘れる 「朝日歌壇」に投稿して半世紀、福岡の大塚さん

★(週刊首都圏)結婚式に「親友」も派遣 代役ビジネスが人気


ノンフィクションライターの野村進さんがスゴイ

「いい文章」の研究では、次に紹介するフリーランスのノンフィクションライター・野村進さんの「調べる技術・書く技術」には感動した。

調べる技術・書く技術 (講談社現代新書 1940)調べる技術・書く技術 (講談社現代新書 1940)
著者:野村 進
講談社(2008-04-18)
販売元:Amazon.co.jp

例文として紹介されている「歌舞伎俳優・市川笑也(えみや) 大部屋の『玉三郎二世』」や、5人の中学生の集団自殺を取り上げた「五人の少女はなぜ飛び降りたか」を読んでみたら、「いいひと賞」で取り上げられている話など、ぶっとんでしまう。

「心」がこもった文とはどういうものか、考えさせられるとことが多かった本である。


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2013年04月16日

信念をつらぬく 経済産業省出身の古賀茂明さんの自伝

信念をつらぬく (幻冬舎新書)信念をつらぬく (幻冬舎新書)
著者:古賀 茂明
幻冬舎(2013-01-30)
販売元:Amazon.co.jp

以前紹介した「日本中枢の崩壊」の著者、経済産業省出身の古賀茂明さんの自伝。

日本中枢の崩壊日本中枢の崩壊
著者:古賀 茂明
講談社(2011-05-20)
販売元:Amazon.co.jp

現在は「無職」

古賀さんが「日本中枢の崩壊」を出版した時は、まだ経済産業省の官僚だったが、過激な公務員制度改革を推進しようとした関係で反感を買い、ポスト待ちポジションの大臣官房付として2年弱も留め置かれ、ついに2011年9月に経産省を辞職した。

その後は、大阪府市東郷本部特別顧問となった。このポストは月に数回呼ばれて日当は2〜3万円。交通費は新幹線の普通車分で、グリーン車に乗って仕事をするとか、会議に間に合わせるために前日に大阪入りしたりすると、ほとんどお金は残らないという。

他にはテレビのレギュラーコメンテーター、「エコノミスト」、「週刊現代」、「週刊プレイボーイ」連載、そして有料メルマガの発行をしている。職業は「無職」であると。

「日本中枢の崩壊」でも簡単に触れていた、古賀さんの官僚としての仕事ぶりを紹介していて興味深い。


古賀さんの経歴

古賀さんは1955年生まれ。父親は石炭会社に勤めるサラリーマン、母は専業主婦という家庭に生まれた。九州生まれではあるが、3歳の時に東京に引っ越してからは、東京と神奈川に住んだ。

麻布中学に入り、麻布の開放的な雰囲気を楽しむ。1974年に東大文気貌り、法学部に進学してテニスサークルを立ち上げる。法学部の司法試験や公務員試験を目指して勉強にいそしむ雰囲気に慣れず、2年留年する。


官庁訪問での印象

2留だと民間企業に行けないと脅され、公務員試験を受けた。勉強していなかった行政法は一夜漬けでなんとかこなす。10月の合格発表まで待っていると、「官庁訪問は合格発表前にしなければならない」と知らされ、ほとんど内定が終わった9月初めからあわてて官庁訪問を始める。

大蔵省は感じが悪かった。しかし、成績の良さが気に入られ、次回面接を言い渡され、内々定をもらえた。

東大法学部の成績で、「優」は勝ち、「良上(りょうじょう)」は引き分け、「良」と「可」は負けとしてカウントするのだと。古賀さんは成績には全く関心を持っていなかったが、「良上」が3つで、残りはすべて「優」だった。

筆者は公務員試験を受験するつもりはなかったので、「成績ドレッシング」に関心を持っていなかったが、当時の学生票(通信簿)を引っ張り出してきてみると、5勝、8引き分け、12敗だった。これではいいところの公務員は無理だろう。

公務員志望の学生は、教室の最前列に陣取り、熱心に授業をうけて、「優」を増やすべくよく勉強する。もしテストが「良」程度になりそうだと、そのテストを受けるのをやめてしまう。まさに「優」コレクターの「成績ドレッシング」である。

古賀さんが通産省を訪問してみると、「大蔵省とかけもちの学生が抜ける可能性があるから、追加で取っておこう」という段階だったようだが、そんなことはおくびにも出さず、言葉も態度も驚くほど丁寧だった。

仕事も趣味もバリバリこなす若手の課長補佐を紹介され、古賀さんは通産省に行きたいという気持ちが強くなった。しかし入省してみたら、こういったエネルギッシュな人は、ほとんどいなかった。なんのことはない、官庁訪問用の特殊な人材を配置した、巧妙な採用戦略だったことがわかったという。

建設会社に転職していた父親の関係で、建設省も一度だけ行った。最初は「もう大方内定は出しているので、面倒だな」という感じがありありだったが、成績が良いと知ると、前に待っている学生をすっとばして古賀さんを面接し、最初から「うちに来ませんか」と態度が豹変したという。

公務員試験の結果に自信がなかった古賀さんは、会社回りもして、日本興業銀行、日本長期信用銀行、東京海上から公務員志望者枠で内定をもらったという。いまはありえない景気の良かった時代の話だ。


入省後の仕事は人間ソーター

1980年に入省すると、工業技術院総務課に配属された。「1年生が先輩より早く帰るなんてとんでもない」という雰囲気や、「人間コピー・ソーター」、地獄の国会答弁資料作りの様子などが紹介されている。

こういった非生産的な官僚の仕事は、話には聞いていたが、「体験者語る」という形で聞くと、あらためて驚かされる。

先端技術開発をめぐって、通産省と科学技術庁の間で、なわばり争いが起こった。これは通産省から一人理事を出すということで決着した。「天下り先を確保できれば万事OK」という霞が関の考え方に初めて触れたという。

法律を作る場合でも、必ずと言っていいほど推進団体をつくる。たとえば原子力の安全性を担保する法律を作ると、原子力安全基盤機構をつくる。理事長、理事といったポストをつくり、天下り先を確保するのだ。天下りポストをたくさんつくると、官僚は上司から評価されるからだ。

古賀さんは2年目の後半に係長に昇進し、3年目には経済企画庁財政金融課に係長として出向した。国の経済見通しは、実は経済企画庁、大蔵省、通産省の交渉で、「経済成長率の見通しは何パーセントで行きましょう」という風に決めていたという。

もともと役人の大半は法学部出身者なので、経済に関する知識レベルは低い。2年間の経企庁出向で通産省に戻ってくると、「経済のプロ」とみなされるようになったという。

次に古賀さんは大臣秘書官となり、村田敬次郎渡辺美智雄田村元大臣に仕える。

1987年から南アの総領事館に駐在する。釈放されたばかりのネルソン・マンデラを日本領事館のパーティに呼んだら来てくれ、大変な混雑だったという。


課長補佐時代

1990年に帰国して産業政策局産業構造課の課長補佐となり、日米構造協議の取りまとめをする。アメリカの要求が正しいと思えば、それを受け入れるべく省内を説得して回っていたので、「改革派」のレッテルを貼られる。この時に実現したのが、行政手続法、審議会の公開化だ。

労働時間の短縮、少子化問題も手掛けたが、いまだに大きな進展がないのは残念だと。

古賀さんはそもそも官僚にはなりたくなかったし、出世してトップになっても天下り先のあっせんばかり考えているのは性に合わなかった。

その「出世したくない」古賀さんがエリートコースの基礎産業局総務課の筆頭課長補佐になった。

筆頭課長補佐は法令審査委員(その後廃止)も兼任している。法令審査委員会は予算と人事の強い権限があり、課長補佐以下の人事には局長でも課長でも口出しできなかった。

その中でも大臣官房の秘書課、総務課、会計課の筆頭課長補佐は別格で、次官候補とみなされる。

古賀さんは次に大臣官房の会計課の筆頭課長補佐となった。そして「官房長から予算削減の指示が出ている」とウソをついて数百億円の無駄を削減できた。「古賀流事業仕分け」だ。

予算折衝では、各省庁の総務課長、局長、事務次官、大臣の4段階に族議員も絡んでいた。古賀さんは、大蔵省の主査と話して、総務課長と局長折衝を廃止した。


課長に就任

古賀さんは産業政策局に戻り、産業組織政策室長に就任した。誰もが不可能だと思っていた独禁法を改正し、持ち株会社の解禁を実現する。

当時の橋本龍太郎大臣が支持してくれた。公取委の人数を増やし、事務局長を次官クラスに、部長を局長クラス、その下に部長クラスのポストをつくるという公取委の地位を上げる提案をしたところ、公取委は持ち株会社解禁賛成に回った。

1996年に古賀さんはOECDのプリンシパルアドミニストレーターとしてパリに赴任して3年いた。

この時にOECDから発送電分離、電力市場自由化を日本に勧告した。プレスに情報提供して、日本国内でニュースとして流れるように仕組んだという。

1999年にフランスから帰国すると商務情報政策局の取引信用課長、産業技術環境局の技術振興課長を経て、2002年に内閣府の産業再生機構設立準備室の参事官となった。5年間の期間限定で産業再生機構を立ち上げる。

銀行は当初、産業再生機構を行員の出向先として考えていたが、銀行からの出向は断った。

企業再生のプロを雇って、自前の人材で運営し、4年間でカネボウやダイエーなど40社の再生を手がけ、利益を上げて300億円の税金を払い、解散後は400億円を国庫に納めることができた。


経産省でKYとみなされる

2004年に経産省に戻り、経済産業政策局経済産業政策課長となる。各局の筆頭課長が集まる「政策調整官会議」で、経産省で当時発覚した「裏金問題はもっとしっかり調査すべきだ」などと発言して、KYとみなされる。

産業構造審議会に「基本政策部会」を作ろうとして当時の局長と対立し、「勝手にやれ」と言われて、部会を立ち上げると、半年で中小企業庁の経営支援部長に左遷された。


大腸ガンに罹り九死に一生を得る

1年後に中小企業基盤整備機構に理事として出向、その時に下血して大腸ガンが見つかり、大手術の上復帰を果たす。

1年後に産業技術総合研究所へ理事として出向中に、福田内閣で公務員制度改革基本法の制定を推し進める渡辺喜美さんに呼ばれ、内閣府の「国家公務員制度改革推進本部」の幹部として2008年7月に就任する。

1か月後渡辺喜美大臣が退任させられた。しかし、堺屋太一氏や屋山太郎氏などをまねいた顧問会議の支援を得て、2009年3月に「国家公務員法改正案」が麻生内閣から国会に提出されたが、不成立に終わる。

2009年9月に民主党政権が誕生し、当初は仙谷大臣より補佐官就任を要請されたが、霞が関の反対で実現しなかった。公務員制度改革推進本部幹部は全員更迭、古賀さんは経産省に大臣官房付として戻った。

民主党内閣は、公務員の「退職管理基本方針」を打ち出し、仕事はないが給料は高い「専門スタッフ職」をつくったり、「現役出向」で民間企業へ天下りの抜け道をつくる方針をだしてきた。これは民主党の「脱官僚、天下り根絶」の方針とは全く逆のものだった。

長妻大臣はこの動きに抵抗した。厚生労働省だけはこれを認めないとしたことで、官僚のクーデターに会い、更迭の憂き目を見た。官僚にとってはそれほど重要な骨抜き工作だったのだ。

古賀さんはなんとかこの動きを阻止すべく、実名で民主党の政策を批判する論文を書き、2010年6月29日、「週刊エコノミスト」に「現役経産官僚が斬る『公務員改革』消費税大増税の前にリストラを」という題で論文が掲載された。

「退職管理基本方針」は記事が載った翌日に閣議決定されたが、「専門スタッフ職」創設にはストップがかかった。


このようにもっぱら古賀さんの経歴を語っている。

はっきりいって、打たれるべくして打たれたクイである。本を出す目的がよくわからない本というのが、率直なところだ。

ともあれ、経産省での仕事のやりかたなどは参考になる本だった。


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2013年03月28日

朴槿恵の挑戦 韓国と「結魂」した新大統領に期待する

朴槿恵〈パク・クネ〉の挑戦 - ムクゲの花が咲くとき朴槿恵〈パク・クネ〉の挑戦 - ムクゲの花が咲くとき
著者:李 相哲
中央公論新社(2012-11-08)
販売元:Amazon.co.jp

先日韓国初の女性大統領として就任した朴槿恵(パク・クネ)の生い立ちや政治信条などを紹介した本。


槿(ムクゲ)は韓国の国花

朴槿恵の槿(ムクゲ)は無窮花(ムグンファ)と呼ばれ、国歌(愛国歌)にも歌われている。韓国人にとってはムクゲは特別の花だ。

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出典: Wikipedia



朴槿恵の父・故・朴正煕(パク・チョンヒ)大統領が3日かかって考えた名前だという。

朴槿恵は60歳。若く見えるが、その経歴はすさまじいものがある。

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出典: Wikipedia

22歳の時(1974年)に、朴正煕大統領夫人の母・陸英修が在日朝鮮人の文世光に銃撃されて死亡

その5年後の1979年に、朴正煕大統領も腹心の部下のKCIA部長の金戴圭に暗殺される。この時、朴正煕大統領はまだ61歳だった。


良くも悪くも朴正煕の娘

朴正煕大統領の手法は「開発的独裁」と呼ばれ、軍事クーデターを起こした1961年には一人当たり80ドルだった国民所得を、暗殺された1979年には1,620ドルにまで急成長させた「漢江の奇跡」の立役者として評価されている。

その一方で、クーデターを起こして政権を強奪した手法や、民主化を抑圧し、ベトナム戦争に韓国軍を派兵するなど、独裁者として権力をほしいままにした。米国のカーター政権の圧力をはねのけて、秘密裏に核開発を進めていたこともわかっている。

個人的には清廉潔白な人だったといわれ、韓国にM−16小銃を供給することになったマクドネル・ダグラス社からの賄賂の百万ドルの小切手を受け取らず、代わりに小銃を出してくれと言って突っ返したという逸話がある。

M−16小銃

300px-M16a1







出典:Wikipedia

この本の半分以上は故・朴正煕大統領の人物伝となっている。朴槿恵〈パク・クネ〉が紹介されるときは、朴正煕の長女と紹介されることが多いので、やむを得ないところかもしれない。


朴正煕の経歴

朴正煕の経歴を簡単に紹介しておく。朴正熙は1917年に貧しい農村に5男2女の末っ子として生まれ、師範学校を卒業して聞慶国民学校で教師をした後、1940年に満州に渡って、満州国軍軍官学校に入学した。

2年で主席で卒業して、日本の陸軍士官学校に編入。1944年に卒業した後は、満州国軍に配属され、終戦時には満州国軍中尉だった。一時日本名に改名したことがあり、高木正雄と名乗った。蒋介石のように日本陸軍に在籍したことはないが、酔うと日本の軍歌などを歌っていたという。

終戦後、韓国軍の中心的存在としてランクを高めていき、1961年5月16日の軍事クーデターの時は、第2軍副指揮官だった。(写真の右側のサングラス・ジャンバー姿が朴正煕)

朴正煕クーデター





出典:Wikipedia

クーデター後、朴正煕は国家再建最高会議議長に就任し、1963年に韓国大統領に就任した。1964年には中断していた日韓交渉を再開させた。

反対勢力を押し切るために1964年6月に戒厳令を発布、1965年6月に日韓基本条約を締結し、日本から無償3億ドル、有償2億ドル、融資3億ドルの援助を取り付ける。韓国の輸出額が年間1億ドルしかない時代だった。これが「漢口の奇跡」の原資となった。

竹島をめぐる日本と韓国の間の領有権問題について「両国友好のためにあんな島など沈めてしまえ」と発言したと言われているが、真偽のほどは確認できていないようだ。

1972年に10月に国会を解散、政党・政治活動を禁止して、大学を閉鎖して全土に非常戒厳令を発布する政治改革を断行する国家非常事態宣言を発表した。10月維新と呼ばれる事態である。

1973年8月に、日本を訪問していた金大中がホテルから拉致されるという金大中事件が起こる。

10月維新時代に辛酸をなめた活動家や一般市民に、朴槿恵は謝罪している。2004年に金大中を訪ね謝罪した時は、金大中は「本当にうれしかった。世の中にこんなこともあるんだなと思った。朴正煕が生き返って私に握手をもとめているような気がした」と自伝で書いている。

金大中自伝(II)歴史を信じて――平和統一への道金大中自伝(II)歴史を信じて――平和統一への道
著者:金 大中
岩波書店(2011-02-26)
販売元:Amazon.co.jp

1972年の10月維新の後、1974年に母親の陸英修が在日韓国人の文世光に銃撃されて死亡、1979年には父親の朴正煕が暗殺されたことは前述のとおりだ。


朴槿恵の政治活動

父親が暗殺された後、朴槿恵は政治からは遠ざかっていた。しかし、1997年に韓国経済が破綻し、IMFの管理下に置かれると、朴槿恵は国の危機を救うために政治家となることを決断し、1998年に国会議員となった。

ハンナラ党の主要メンバーとして積極的に活動し、一時ハンナラ党を離れたことはあるが、ほどなく復党した。2004年にはハンナラ党総裁となって、選挙を勝ち抜き、「ハンナラ党のジャンヌ・ダルク」と呼ばれた。

2006年の遊説中に男にカッターナイフで切りつけられ、右耳から顎に60針縫う傷を負わされた。傷口があと1センチ深かったら、頸動脈に達し、命を落としかねなかったという。

この時の心境を朴槿恵は次のように書いている。「手術台に横になった時、両親を思い出した。手術が行われている間、私の頭には、ずっと、銃創で苦痛に耐えている父と母の顔が浮かんでいた。…」


大統領候補に

2007年に大統領候補を李明博と争ったが1.5ポイント差で敗れ、李明博が大統領として就任する。李明博の「すべては夜明け前から始まる」などの著書を、このブログでも紹介しているので、参照してほしい。

すべては夜明け前から始まる―大韓民国CEO実用主義の大統領李明博の心の軌跡すべては夜明け前から始まる―大韓民国CEO実用主義の大統領李明博の心の軌跡
著者:李 和馥
理論社 (発売) 現文メディア (発行)(2008-02-15)
販売元:Amazon.co.jp

その後、李明博大統領と朴槿恵は、2009年に世宗市問題で対立することになる。世宗市はソウルの集中化を緩和するために、ソウルに代わる首都として韓国中部に新たに建設する都市で、首都移転計画を見直す李明博に、当初計画通りに建設すべしとして朴槿恵が迫ったのだ。


尊敬する政治家は父とサッチャー

「尊敬する政治家」を聞かれて、朴槿恵は、「父とサッチャー」と答えた。サッチャー自身も「人間として必要なことはすべて父から学んだ」と父アルフレッドを尊敬していたという。

朴槿恵は、両親が亡くなった後、大事なことを決めるときに、「父だったら、母だったらどうしただろう」と考える習慣ができたという。


朴槿恵への質問状インタビュー

この本の最後に、朴槿恵への質問状に対する彼女の回答が紹介されている。時間の関係で、インタビューができなかったために、質問状形式での受け答えとなったものだ。

現在の韓国の問題点と解決の方向性が示されているので、興味深い。参考になるものを紹介しておく。

★私は結婚はしておりませんが、「結魂」はしました。何度も公の場で言ったことがありますが、私はずっと前に、大韓民国と結婚(結魂)したのです。ですから、私は大韓民国にすべてをささげてきましたし、これからもそうするつもりです。私は一人でも、独身でもありません。亡くなった父も、きっとこの結婚は喜んでくれているでしょう。

★今、我が国の抱えているさまざまな問題のうち、至急解決しなければならない切実な課題の一つは、さまざまな勢力、社会各層、地域の間に生じている「対立」、「不信」、「不公正」を解決することです。それらの問題を解決して「大統合」を実現するのが何より大事です。

★そのために「国民幸福推進委員会」を作り、誰も疎外されたり、立ち遅れたりすることのないように、どの地域に住んでいようが、どの分野の仕事に従事していようが、みんなが自分の未来を夢見ることのできるような社会を目指します。

★今まで、我が国では、国家の経済成長が必ずしも一人ひとりの幸せに繋がっていませんでした。(中略)私は「国民みなが自分の能力を発揮できる国」にしようと思います。

★それを実現するために、我が国の強みでもある情報通信技術、科学技術を産業全般に応用して創業者を増やし、若い人たちに働きの場を提供するための政策を推進します。今後、製造業中心の伝統的な産業を高付加価値産業へと変貌させ、文化産業、ソフトウェア産業のような未来型産業を積極的に育成し、働き口を増やします。

★中小企業と大企業が共に成長し、正規雇用と非正規雇用との間に差別のない制度を整備する努力が必要です。そのために「経済民主化」を主張しています。(中略)「韓国型福祉制度」を作りたいのです。

★私は、不正腐敗の問題を非常に深刻に受け止めています。政治が存在するもっとも大きな理由、政治の使命は、国民の生活をよりよくすることにあります。つまり「民生」を第一に考えなければならないのです。ところが、我が国の政治は、国民の生活とは関係のない不正腐敗をはたらいて、逆に国民から批判される場合が多い。

★これについては本当に痛恨の思いを持っています。恥ずかしいことです。私はこれから、この国の誰であろうが、不正腐敗に関与した場合は、絶対容認しないでしょう。真の改革は私から、私の周辺から始めなければならないと思います。権力に関連のある不正腐敗問題については、「特別監察官制度」を作り、事前予防に努めます。

★北韓は、核兵器が典型的ですが、武力で相手を脅迫し、屈服させようとする計略が通用しないことを認識し、そうした考えを捨てなければなりません。そこで初めて、相互尊重、相互信頼の雰囲気が作られるでしょう。そのような雰囲気を作り出すため、私は韓半島信頼プロセスを推進しようと思っています。

★私と我が国民は2400万人の北韓同胞を決して忘れることはありませんし、実際、忘れてもいません。我々は同胞愛と人道的な立場に立っていつでも助ける準備ができています。

特に最後の質問の回答が大変参考になった。

この人は「自責」(他人の責任をあげつらう「他責」に対して、自分の責任をまず考える態度の人)の人だと思う。

やっかいな金正恩という隣人の取り扱いは大変だと思うが、日韓関係改善を含め、朴槿恵大統領の今後の活躍を大いに期待したい。


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2013年01月20日

個を動かす ローソン新浪社長のローソン改革10年

個を動かす  新浪剛史、ローソン作り直しの10年個を動かす 新浪剛史、ローソン作り直しの10年
著者:池田信太朗
日経BP社(2012-12-13)
販売元:Amazon.co.jp

ローソン新浪社長のローソン改革10年を描いた本。筆者のアルゼンチン駐在時代の友人の元三菱商事の人に紹介されて読んでみた。その友人は食品部門で新浪さんの先輩だった。

この本の著者の池田信太朗さんは、日経ビジネスデジタルの編集長で、現在は日経の香港支局の特派員だ。

新浪さんはマスコミに登場する機会も多い。安倍内閣が、経済再生のブレーンとして設置した産業競争力会議のメンバーにも選ばれている


日本型コンビニの生みの親はセブンの鈴木さん

コンビニ業界については、セブン・イレブンCEOの鈴木敏文さんの「商売の原点」、「商売の創造>」、「本当のようなウソを見抜く」のあらすじを、このブログで紹介している。

鈴木敏文 商売の原点 (講談社+α文庫)鈴木敏文 商売の原点 (講談社+α文庫)
著者:緒方 知行
講談社(2006-04-21)
販売元:Amazon.co.jp

鈴木敏文 商売の創造 (講談社+α文庫)鈴木敏文 商売の創造 (講談社+α文庫)
講談社(2006-05-19)
販売元:Amazon.co.jp

鈴木敏文の「本当のようなウソを見抜く」―セブン‐イレブン式脱常識の仕事術 (日経ビジネス人文庫)鈴木敏文の「本当のようなウソを見抜く」―セブン‐イレブン式脱常識の仕事術 (日経ビジネス人文庫)
著者:勝見 明
日本経済新聞出版社(2008-07)
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セブンとローソン

コンビニエンス業界ナンバーワンは依然としてセブンイレブンだ。セブンの売上高は3兆円弱、これに対してローソンは1.8兆円。セブンの一店舗の平均日販は62万円。これに対してローソンの平均日販はで、セブンを10万円ほど下回る。他のチェーン店も同様に、セブンとは10万円以上の差がある。

この本を読むまでは、セブンが効率的で、かつ顧客もセブンを好んでいると思っていた。しかし、よく考えると、セブンは47都道府県のうち、いまだに出店ゼロの県があり、都市圏に集中している。

一方、ローソンは47都道府県すべてに出店しており、田舎の店も多い。人口の多い都市に集中的に出店していれば、おのずと平均日販も上がる。だから、セブンの方が日販額が多いから、それをもって消費者がセブンの方を好んでいるということにはならない。

筆者は以前はセブンの方が格上と感じていたが、最近はローソンに行くようになった。

オサイフケータイのiD決済をいち早く取り入れたこと。品ぞろえ、欠品率(筆者の自宅の近くのセブンは土日の1時過ぎに行くと、サンドイッチやおにぎりに欠品が目立つ)、駐車場の利用しやすさなどからローソンの方が便利と感じている。

新浪さんが2002年にローソン社長に就任した当時は、セブンをベンチマークして研究していたが、やがてセブン追随はやめた。ローソンはセブンにはなれない。それが現実だと気がついだのだと。


新浪さんの経歴

新浪さんは横浜出身。マリノスや横浜FCのホームグラウンドの三ツ沢球技場のあるあたりで、高校は翠嵐高校。高校時代はバスケットボール部のキャプテンとして部活を熱心にやった。チームは関東大会3位まで行き、新浪さんは優秀選手として国体選手に選ばれたが、膝を壊して選手生命を断たれてしまう。

東大法学部受験に失敗して慶応大学の経済学部に入る。体育会の器械体操部のマネージャーとして裏方をやり、在学中にスタンフォード大学に交換留学生として留学する。三菱商事には1981年に入社した。

三菱商事では砂糖部に配属された。企業派遣留学生を目指すが、留学申請を出しても上司のOKが取れなかったり、2年続けて重役面接に落ちたりして、なかなか留学できなかった。

新浪さんは会社のOKが出る前に、自分で試験勉強して、勝手に入学試験を受け、会社のOKが出た直後にハーバードの合格通知が来たという。

言いだしたら聞かない新浪さんの性格がわかるエピソードだ。この本では新浪さんの子供のころの話も紹介されている。

ハーバードビジネススクールでは、楽天の三木谷さんや、マイクロソフトの樋口さんなどと同じころに学んだ。東大よりいい大学を卒業することで、東大に対するコンプレックスがなくなったようだと新浪さんの友人は語っている。


ハーバードMBAで経営に目覚める

MBAを取ることで、新浪さんは経営という仕事を明確に理解した。

MBAで学んだことを活かし、新浪さんは帰国後、給食会社を買収し、売上高100億円の規模にまで育てる。

その頃ダイエーの創業者中内功さんが主催する若手勉強会に出ていたところ、ローソン株の購入を持ちかけられる。

ダイエーと縁が深い丸紅との競合の上、上司の小島・現三菱商事会長の支援を得て、ローソン株を購入する。

ローソン株は2000年1月に三菱商事が購入後(単価7,400円/株)、ITバブルがはじけて株価が暴落し、三菱商事は巨額の含み損を抱えるようになる。

三菱商事でも一度に償却すると決算ができないほどの巨額の含み損だったので、評価損は出さない決算処理を続けていたことも思い出す。


まずはおにぎりで成功

2002年に新浪さんはローソン社長に就任して、まず「一番うまいおにぎりを作ろう」とローソン社内に呼びかけた。

玄人の商品部(仕入れ担当)を外して、素人ばかりの研究グループをつくり、価格は高いがうまいおにぎりを作り出した。これを「おにぎり屋」のブランドで売り出したところ、大ヒットした。

新潟のコシヒカリは冷めてもおいしいので、ブランド米のコシヒカリを使った。

サケは従来はフレークを使っていたのを、切り身とした。フレークを使っていた理由は、骨が入らないようにということだったので、人件費の安いタイで加工することで費用削減して1個160円前後で売り出した。

それまではおにぎり1個100円前後だったので、おにぎりとしては高額だったが、大ヒットした。

おにぎりの成功で、それまでは「いずれ三菱商事に帰る人」と見られていた新浪さんの求心力が高まり、ローソン改革が順調に進むことになった。

ちなみに3.11のあと、東北地方の店舗では「手作りおにぎり」を自分の店舗でつくって販売している。


セブンは中央集権。ローソンは支店・支社経営

セブンイレブンでは毎週開かれる(現在は隔週となっている)全国のOFC(Operation Field Counselor)を集めた会議が有名だ。上記の「商売の原点」と「商売の創造」は1,300回を超えるOFC会議の記録をまとめたものだ。

OFC会議の中心はCEOの鈴木さんだ。

全国のOFCからの情報を整理して本部方針を出し、OFCが全国に散らばって、会議で打ち出した方針を各店舗に伝え、新規商品の販売を進めるという中央集権的な運営だ。

これに対し、ローソンは7支社、76支店に権限を委譲しての経営だ。

さらにサブ・フランチャイザーを認めて、MO(マネジメント・オーナー)と呼ばれる複数店オーナーにサブライセンシングを認めている。

新浪さんは、「一緒に、オーナーの地位を高めようよ」と、オーナー福祉会理事長に言っていたという。

まさにセブンとは正反対の考え方だ。


フランチャイズロイヤルティー料率変更

コンビニチェーンのロイヤルティー料率は次の通りだった。

        店舗オーナーが土地・建物調達  チェーン本部が土地・建物調達
セブンイレブン   43%固定          56〜76%スライド制

ローソン      34%固定          50%、45%固定

ローソンの方が日販が低いので、上記のようなセブンより低い利率で出店者を集めなければならなかった。

チェーン本部が土地・不動産を調達する場合の料率を、セブンと同じスライド制に変更できたのは、2012年3月になってからだった。


ミステリーショッパー(MS)導入

ダイエーがローソンを経営していた時代に、ダイエーの余剰人員にローソン店長をやらせる自社店舗を700店も出していた。しかしこれらはほとんど赤字店だったので、新浪さんが社長に就任してすぐに整理した。

その代り、余った人材をMS(ミステリー・ショッパー)として、店のサービス品質向上の仕組みをつくった。

MSが客のふりをして店で購入して、様々な観点から店のサービスを評価する。MSの年間運営費は30億円にも上るというが、これでローソンのサービスは格段に向上した。


個客をとらえる

この本のタイトルが「個を動かす」となっているように、ローソンの戦略は「個」の創造力を磨き、「個客」の消費を捕捉し、「個店」の集合体を作り上げることだという。

その主要なツールが共通ポイントプログラムのPontaだ。

2010年3月にスタートしたPontaの会員売上比率は現状では50%弱にとどまるが、従来POSで男女年齢をレジ係が判断して登録していた時代は終わった。

Pontaを使えば、個人を特定でき、その人の購買履歴がわかるようになってきた。この本では、「ひるぜん焼そば」という新製品の購入者データを分析した例が紹介されている。

ローソンにおける「ビッグデータ」時代の幕開けだ。Pontaに会員登録するときは、住所や結婚・未婚データも登録する必要がある。一方、セブンのNanacoは住所も結婚未婚も不要だ。Ponta会員売上比率が上がれば、こういった属性データが生かせる場面が来るだろう。

LINEの企業アカウントを使って、Lチキのクーポンを配信したところ、クーポンの引換率は7%にも上ったという。ほかの媒体の場合、3%なので、圧倒的な動員力だ。

ローソンのLINEアカウントを登録しているユーザー数は412万人、ツイッターのフォロワーが21万人。

セブン、ファミマと比べてローソンのSNS展開の方が明らかに一日の長がある。

こういったデジタルマーケティングと組み合わせると、Pontaの販促機能がうまく活かせるだろう。

ちなみに、このブログでは、世界最高といわれる英国TESCOの、ポイントカードを使った顧客管理を紹介している

Tesco顧客ロイヤルティ戦略Tesco顧客ロイヤルティ戦略
著者:C. ハンビィ
海文堂出版(2007-09)
販売元:Amazon.co.jp

コンビニで買うものは少ないので、マーケットシェア30%超の英国ナンバーワンスーパー・Tescoのように、高度な顧客分析はできないだろう。しかし、ローソンの場合、ケータイ対応することで、コンビニならではの効率的な販促が可能になると思う。

たぶん鍵は来店ポイントだろう。Pontaには来店ポイントはないと思うが、ローソンカードにはもともと来店ポイントがあった。ヤマダ電機のように、来店ポイントを払う代わりに販促メールを受け取ってもらうようにすれば、かなり有効な販促ができると思う。


改革を続けるローソン

ローソンではBPR(ビジネス・プロセス・リエンジニアリング)を行い、本社業務の多くを、アクセンチュアが運営する大連のコールセンターに移植した。

大連の従業員は東京のコールセンターで、3週間ローソンの担当者からジョブトランスファーを受ける。

東京のコールセンター長は、自宅に中国人社員を招いてバーベキューパーティをやってケアしている。中国人に「あの人のメンツをつぶさないように、頑張ろう」と思わせたいのだという。

BPRは単にコールセンターだけではない。いままで三菱商事のグループ会社が独占していたパッケージ材や、物流についても、入札方式にして競争原理を働かすという。


ポスト新浪

ローソンの主要事業は次の3事業だ。

1.国内コンビニ事業
2.海外コンビニ事業
3.Eコマース、エンターテインメント等の事業(ローソンはHMVジャパンを買収している)

元ファーストリテーリング社長の玉塚元一さんがCVSグループCEO、元USENの加茂正治さんがエンタテインメント・ECグループCE、ほかにローソンの各地の支社長が次代のリーダー格だ。新浪さんが海外事業グループCEOを兼任している。

新浪さんは、自分の後任として3人を競争させている。

「僕はずっと、社長の顔色を見るんじゃなくて、『ミッション(使命)』で人が動く会社にならないと駄目だと思っていました。支社制、支店制を入れたのもそのためです。(中略)ミッション・オリエンテッドに会社を変えていくということです」と語っている。


ローソンの今後の発展

EC(eコマース)については、コンビニのマーチャンダイジングが、ネットというインフラに乗れば面白いと語る。

楽天などのモール事業者は販売者責任を負っていないので、マーチャンダイジングはできない(アマゾンは自分で仕入れているものもあるので、分野によってはできている)。

コンビニはその人にとって「新たな生活」ライフパターンをつくっているのもので、それを便利に届けることができる。ローソンに来てくれる顧客に、ECによりもっと豊富な賞品を紹介できれば、アマゾンに勝てるという。


新浪さんの働きぶり

この本の最後で、部下を徹底的に鍛える新浪さんの三菱商事時代の働きぶりが紹介されている。また、オーナーではない若手経営者仲間として、スクウェア・エニックス社長の和田洋一さん(野村証券出身)が、新浪さんのことを評している。

新浪さんは、「信じる」ことで物事を動かしていくタイプの経営者なのだと。

新浪さんは、落下傘でローソンに下りたち、最初はアセットの「本質」が何かということをじっくり見極めて、戦略をつくった。

社内をじっと見て「こいつらの価値って何だろうか」ということから戦略が成り立っている。それが新浪さんの経営の神髄だと、和田洋一さんは評している。


いままで知らなかった、セブンとは違うローソンの経営戦略がわかる。参考になる本である。


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2013年01月14日

グル― 真の日本の友 大戦直前の駐日米国大使ジョセフ・グル―の伝記

+++今回のあらすじは長いです+++

グルー―真の日本の友 (ミネルヴァ日本評伝選)グルー―真の日本の友 (ミネルヴァ日本評伝選)
著者:廣部 泉
ミネルヴァ書房(2011-05-06)
販売元:Amazon.co.jp

太平洋戦争勃発前の1932年から10年間駐日米国大使として戦争回避に尽力し、戦争が始まった後は、帰国して20年ぶりに国務次官に復帰し、戦争末期には日本の天皇制維持のために尽力した米国外交官・ジョセフ・グルーの伝記。


グルータワー

東京赤坂の米国大使館員宿舎には3つの建物がある。一つはペリータワー、2つめはハリスタワー、そして3つめがグルータワーだ。米国では高く評価されているグル―が日本ではあまり知られていない。

吉田茂はグルーを「真の日本の友」と呼んだ。その言葉が真実であることがわかるグル―の伝記である。


ボストンの名家生まれ

グル―(Grew)は1880年にボストンに生まれた。グル―家はベンジャミン・フランクリンマシュー・ペリー(ペリー提督)ともつながりのある名家で、J.P.モルガンとも親類だった。

グル―は創立8年の名門校グロトン校に入学し、当然のようにハーバード大学に進学する。グロトン→ハーバードの2年下にはフランクリン・ルーズベルトがいた。フランクリン・ルーズベルトとは、学内誌「クリムゾン」の編集仲間だった。後に駐日米国大使として大統領に出した手紙には、”Dear Frank”の出だしで始めるものが多くみられる。

ルーズベルトも、大観衆の前で「ハロー、ジョー」と呼びかけて、グル―が赤面したこともあるという仲だった。


外交官を志す

当時の上流階級の習慣で、グル―は大学卒業後、見識と高めるための「グランド・ツアー」に旅立ち、ヨーロッパから中近東と渡り、マレーシアで虎狩をし、マラリアにかかってインドとニュージーランドで療養した。合計18ヵ月かけ、最後は日本経由で米国に帰国した。

その間、インドでのマラリア闘病中に米国総領事館に世話になったのため、実業界に入らせたいという父親の意向に逆らって、外交官の仕事を志すようになった。

グル―は帰国してすぐにダンスパーティで知り合ったアリス・ペリーと結婚する。

アリス・ペリーはペリー提督の兄のオリバー・ペリーのひ孫で、父のトマス・サージャント・ペリーが慶応大学の英文学教授として日本に滞在していたので、日本語がペラペラだった。

グル―は7歳のときに罹ったしょう紅熱のために難聴となってヒアリングに障害を抱えていたので、最初の韓国総領事秘書となるチャンスは実現しなかったが、カイロ総領事代理として外交官としてのスタートを切った。

当時の米国の外交官は、政治任官と、コネ任官で占められていた。その後試験制度が導入され、グル―は無試験で外交官になった最後のクラスだった。

無給のカイロ総領事代理のあと、グルーのマレー虎退治武勇伝を気に入ったセオドア・ルーズベルトの推薦でメキシコ大使館付3等書記官となり、はじめて有給の外交官となった。


外交官として出世

グル―はサンクト・ペテルブルク、ベルリン、ウィーン、2度目のベルリンに駐在し、2度目のベルリンで第1次世界大戦を体験した。米国参戦とともに米国に帰任し、終戦後パリ講和条約会議に参加する。

デンマーク公使、スイス公使、ローザンヌ条約(近代トルコの領土が確定した西欧諸国との条約)交渉米国代表を経て、1924年にクーリッジ政権の国務次官に就任する。

クーリッジの2期目ではケロッグ国務長官が腹心のオールズを国務次官補を重用したので、1927年にトルコ大使として転身した。

トルコはグルーがローザンヌ会議で一緒に交渉したイノニュが、ケマル・アタチュルク大統領の相棒として首相だったので、すぐに打ち解けた。米土通商航海条約締結や、娘がボスポラス海峡を泳いで渡るなどのイベントもあった。


駐日米国大使に就任

グル―は1932年に駐日大使となる。1942年に捕虜交換船でアフリカのロレンソ・マルケス港経由帰国するまで10年間その職にとどまり、日本と米国の戦争を回避するために尽力した。

本国の国務省では1928年にスタンレー・ホーンベックが極東部長に就任した。ホーンベックは、その後15年間にわたって米国の対日政策を牛耳った。1929年には元フィリピン総督のスティムソンが国務長官に就任している。

グル―が駐日米国大使として日本に着任してからは、日本語の話せるアリス夫人の思いやりのある数々の行動が日本人の心を打った。

たとえば誤って高価な壺を割った執事に対して、「あれは気に入らない壺だったので、処分に困っていた」と思いやったことを、歴代の駐日米国大使に仕えた日本人執事船山貞吉が紹介している。

白頭鷲と桜の木―日本を愛したジョセフ・グルー大使
著者:船山 喜久弥
亜紀書房(1996-02)
販売元:Amazon.co.jp

グル―は樺山愛輔牧野伸顕、牧野の娘婿の吉田茂幣原喜重郎などの穏健派と家族ぐるみで親交があった。

軍関係者では海軍関係者はゴルフなどに参加したが、陸軍関係者は荒木貞夫大将を除いては没交渉だった。

1932年の大統領選挙では、高校・大学の後輩のフランクリン・ルーズベルトが大統領に当選した。

それまでの共和党政権から民主党政権に交代するので、通常は主要外交官ポストは総替えとなる。このためグル―は、"Dear Frank"で始めるレターを出して、年金資格が得られる1934年までは一級ポストに留まれるように頼んでいる。ルーズベルトはこの手紙を受けて、ハル新国務長官にグル―留任の指示を出した。


戦争に向かう軍国主義日本

このころの日本は1931年に満州事変、1932年に国際連盟脱退というように、軍国主義に向かっていた。

フランクリン・ルーズベルト政権の国務長官に就任したのは、たたきあげの民主党員コーデル・ハルだった。それまでスティムソン長官のエスタブリッシュメント出身者優遇の人事に反感を持っていたホーンベックは、ハル新長官に近づき、信頼を得るようになった。その後の極東政策のキーマンとしての地位を確立した。

グル―が大使の頃、ベーブ・ルースヘレン・ケラーが来日している。

1936年の二.二六事件の前の晩はグル―が斉藤実内大臣夫妻と鈴木貫太郎侍従長夫妻を招いて、トーキーを上演した。その翌日斉藤内大臣が暗殺され、鈴木貫太郎が重傷を負い、牧野伸顕が九死に一生を得たことはグレーにとって大ショックだった。

二.二六事件後、広田弘毅内閣が成立する。広田は当初外務省同期の吉田茂を外相に入れたい考えだったが、自由主義者の吉田就任に対して陸軍から横やりが入り、やむなく広田首相兼務の後、有田八郎が外相に就任した。

広田弘毅の秘書官だった岸信介は、首相官邸でグル―に岡田首相の身代わりに秘書官の松尾伝蔵が射殺された現場を見せたという。広田弘毅は通訳も入れず、日米親善が政策の土台であることをグルーに強調した。

1年弱の広田内閣の後は、4か月の林銑十郎内閣の後、1937年6月に第一次近衛内閣が成立する。


日中戦争に拡大

1932年7月7日に盧溝橋事件が起こり、日中戦争の泥沼が始まる。

グル―は共産主義こそ危険な敵であり、日米はパートナーとなれるという自説を説いていた。しかし、日本軍が中国各地に進撃を進めたので、グル―の米国における発言権は低下していた。

グル―の発言が、日本政府そして日本国民の反省を呼び起こしたのは、第二次上海事変の後、日本軍機が米国パネー号を誤爆したパネー号事件の時だった。日本政府は陳謝し、日本国民からの詫び状が米国大使館に寄せられたという。

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出典:本書111ページ

日米関係を少しでも改善させるために、グル―は米国で客死した斉藤大使の遺体の移送にあたり、ルーズベルト大統領にかけあって、米海軍の巡洋艦を手配した。

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本書:120ページ

1939年には一時帰国して、ルーズベルト大統領と2回面談した。国務省幹部とも面談し、対日強硬策は日本の軍部を追い詰め、戦争に走らせる結果となることを訴えた。


第二次世界大戦勃発

1939年9月には、ドイツ軍がポーランドに電撃侵略し、第2次世界大戦がはじまった。

ホーンベックが取り仕切る米国の対日強硬政策は変わらなかった。もはや日本の穏健派は力を失ったとみて、日米通商航海条約の破棄や、航空燃料や鉄くずなどの対日禁輸法案が続々打ち出された。

1940年7月には第2次近衛内閣が成立し、松岡外相、東条陸相が入閣し、日米関係は一層悪化していく。グル―はドイツの勝利が日本人に大きな影響を与えつつあることを感じている。

1940年9月には日独伊三国同盟が成立し、その直後の1940年10月に、グル―は日本の中国進出をいさめる演説を日米協会で行っている。

1941年1月には日本が真珠湾攻撃を考えているという噂が、ペルー公使からアメリカ大使館に伝えられた。グル―はハル長官あてに電報で知らせている。

しかし、はるかに国力が勝るアメリカ相手に日本が戦争など起こすことはないという過信があり、アメリカは本気にしなかった。


日米交渉による戦争回避努力

1941年2月から野村吉三郎元外相が駐米大使となって、その後50回弱開かれる日米交渉がスタートした。

日本の外交暗号はすでにアメリカに解読されており、アメリカは日本の手の内を知って交渉を続けていた。解読結果は”マジック”と呼ばれ、ルーズベルトが”マジック”を待ち望んでいたことはよく知られている通りだ。

このあたりの事情は、このブログで紹介した日米露の3国の資料を分析した「暗闘」のあらすじを参照してほしい。

暗闘(上) - スターリン、トルーマンと日本降伏 (中公文庫)暗闘(上) - スターリン、トルーマンと日本降伏 (中公文庫)
著者:長谷川 毅
中央公論新社(2011-07-23)
販売元:Amazon.co.jp

日本は1941年6月に南部仏印進駐を決定した。このことが、日米関係を決定的に悪化させた。7月には在米日本資産の凍結(これにより日本は貿易取引でドル決済ができなくなった)、8月には綿と食料を除く対日禁輸が成立し、石油輸出がストップした。


事態打開の頂上会議案も不発

強硬策を主張する松岡外相を辞めさせるために、1941年7月に第2次近衛内閣は辞職した。2日後、第3次近衛内閣が成立した。近衛はルーズベルトとの頂上会議を提案する。

グル―はこの頂上会議提案を積極的に評価した。いままで日本の首相が外国を訪問するという前例はなかった。それにもかかわらず、日本が提案してきたことは太平洋の平和は維持されなければならないという強い決意の表れに他ならないと力説した。

ルーズベルトも野村大使を呼んで、「非常に立派」と評価し、「近衛公とは3日間くらいの会談を希望する」と乗り気だった。それを押しとどめたのが国務省の政策を牛耳っていたホーンベックだった。

日本の国内問題が解決されない限り、首脳会談によって問題は解決されないとの立場を繰り返したのだ。ホーンベックの意見を容れたハル国務長官の進言により、ルーズベルトは頂上会談をあきらめた。

石油備蓄を日に日に消費していく日本は、このままでは開戦に追い込まれることをグル―は力説した。しかし、日本が戦争に踏み切ることはありえないとするホーンベックにより牛耳られた米国国務省は動かなかった。


御前会議で戦争準備決定

1941年9月6日の御前会議で、10月末までに外交交渉がまとまらなければ、戦争準備をすることが決定された。

この時の天皇の言葉が、明治天皇の御製「よもの海 みなはらからと 思う世に など波風の たちさわぐらむ」を引用し、平和愛好の立場を強調したものだった。

9月6日の夜、近衛首相はグル―を秘密裏に呼び出し、ハル長官の4原則に全面的に同意すると表明し、「日米関係が現在のような悲しむべき情勢に陥ったのは自分の責任だ。関係を修復できるのも自分だけだということもわかっている。反対する勢力にもかかわらず、自分は全力を尽くす決心を決めた。」と語り、首脳会談実現への協力を依頼した。

グル―はこれを受け、大統領あてにメッセージを送った。同時に、ハル長官とウェルズ次官あての長文の電報で、日本の変化を伝え、ルーズベルト・近衛予備会談で戦争を回避すべきと訴えた。

しかし、この電報はハルからホーンベックに回され、ホーンベックが会談を否定する回答案を作成し、それがハルから野村大使に伝えられた。


東条内閣成立

近衛内閣は10月4日に総辞職し、東条英機内閣が成立する。11月にグル―は日本が「国家的ハラキリ」の挙に出る危険性を強調し、戦争の危険が高まっていると警告した。

東条内閣は11月5日の御前会議で、譲歩案として甲案、乙案を用意する。暗号解読で内容を知っていた米国は、11月26日に日本が受けられるはずのないハルノートを提示する。


日米開戦へ

日本がハルノートを最後通牒と受け止めていることに驚いたグル―は、吉田茂を通じて東郷外相に会うべく申し入れる。しかし、既に開戦決定が出されていたので、東郷外相はグル―に会おうとしなかった。

米国国務省を牛耳るホーンベックはこの期に及んでも戦争はありえないという立場だった。一時帰国した駐日大使館員が、「このままでは日本が自暴自棄で戦争に追い込まれる」と話すと、「歴史上、自暴自棄で戦争を始めた国があるなら、いってみたまえ。」という有名な返事をして、相手にしなかった。

ホーンベックは11月27日付けで、「極東関係問題ー情勢評価とある可能性」という覚書を書いている。この情勢判断の甘さが、終生彼を悩ますこととなった。

「もし賭けをするなら、本官は米日が12月15日以前に『戦争』にならない方に5:1で賭ける。…1月15日以前なら3:1、3月1日以前なら現金を賭ける。」

ルーズベルトは12月7日に天皇に宛てて戦争回避のための電報を打つが、グル―が東郷外相に届けて、天皇への謁見を依頼したのは日本時間12月8日の午前零時となっていた。もはや真珠湾攻撃は止めようがなかった。


捕虜交換船で帰国し、再び国務省へ

日米開戦後、米国大使館員は大使館に抑留された。1942年6月の捕虜交換船で、アフリカのロレンソ・マルケス港経由帰国する。帰国してから、グルーは日本軍は手ごわいことを全米で講演してまわった。

日本の外交暗号が解読されており、米国は日本の出方が手に取るようにわかっていたので、駐日大使館からの進言は重きを置かれていなかったことをグルーは帰国して知ったという。

1944年1月には宿敵ホーンベックが失脚し、グル―は5月1日付けで極東局長として国務省に返り咲いた。そして5月15日にはベストセラーとなった「滞日十年」を出版した。

滞日十年 上 (ちくま学芸文庫)滞日十年 上 (ちくま学芸文庫)
著者:ジョセフ・C. グルー
筑摩書房(2011-09-07)
販売元:Amazon.co.jp


天皇制維持に尽力

当時米国では日本占領後の政策を検討しており、グル―は天皇制を存続させて、天皇を占領政策で利用すべきだとの天皇制擁護論を展開する。

ルーズベルトは1944年11月に4選され、老齢のハルに代わって、まだ40代のステティニアスが国務長官となった。ステティニアスは経験豊富なグル―を国務次官に起用した。

1944年末には国務省、陸軍省、海軍省の3者で、戦後処理についての3人委員会が設立され、スティムソン陸軍長官、フォレスタル海軍長官と、ステティニアス国務長官の代理としてグル―が第2回目から参加した。

1945年2月からのヤルタ会議では、ルーズベルトが個人外交として国務省を通さず、ソ連の対日参戦の見返りとして、樺太南部と千島列島の返還を約束していた。このことはルーズベルトが急死した1945年4月に、後継大統領のトルーマンに知らされた。

ルーズベルトの死をヒトラーは狂喜し、日本の鈴木貫太郎首相は哀悼の意を表するという正反対の対応をしている。


原子爆弾完成

このころ原子爆弾が完成間近なことが"new weapons"という表現で三人委員会で報告されている。詳細の記録は残されていない。

1945年5月7日にドイツが降伏すると、翌8日にトルーマン大統領は対日降伏勧告宣言を出している。グル―はトルーマンの演説に天皇制存続の対日メッセージを織り込むべく、天皇制存続がいかに戦争を早く終わらせ、ソ連の勢力拡大を防ぐのに重要かをトルーマンに力説した。

トルーマンは天皇制存続を国務省、陸軍省、海軍省で討議するように指示し、3者会議が開催される。しかし、「ある軍事上の理由」により日本に天皇制存続を呼びかける大統領声明は延期される。原爆が実用化されていたのだ。


原爆投下とソ連参戦回避に努力

グル―はこれにもめげず、今度は元大統領フーバーからトルーマンへの対日問題についてのアドバイスを出させる。

ソ連の勢力拡大は米国にとって不利であること、日本の鈴木貫太郎首相は穏健なので天皇制廃止はないことを明確にすれば、日本は降伏するだろうと提言している。

1945年6月中旬にグル―はトルーマンと再度掛け合い、天皇制存続を認めた無条件降伏案の説得を試みる。トルーマンはそれをポツダムでの3巨頭会議に議題に入れるように指示し。グル―はやむなくそれに従う。

トルーマン説得に失敗した後も、グル―は陸軍長官と海軍長官の説得を続けたが、7月初めにステティニアス国務長官が辞任し、後任は外交にはバーンズが任命され、グル―が国務長官代理として陸軍や海軍と交渉を続けることはできなくなった。

当時のアメリカの世論は、天皇を処刑すべきが33%、天皇を裁判にかけて終身禁固あるいは流罪が36%、何もしないが7%というものだった。天皇制存続にはアメリカの世論は反対だった。

新国務長官のバーンズは、マンハッタン計画を推進してきた人物だった。原子爆弾の威力を試すために原爆投下に積極的であり、それまでに戦争を終わらせる提案には否定的だった。


天皇制存続による早期終戦工作

早期終戦は米兵の戦死者を減らせると主張するスティムソン協調して、グル―は天皇制存続を保証する文言をポツダム宣言に織り込むべく努力する。

そして、統合参謀本部案として「日本国民は天皇を立憲君主として存続させるか否かを決定する自由を持っている」という一文を追加する案を提出した。

しかし、バーンズから意見を求められたハルの助言や、ソ連に対して日本が講和に向けて仲介を依頼してきたことをスターリンが自慢げに話したことから、日本に弱腰とみられないようにとのバーンズの意見が通って、日本へのメッセージはポツダム宣言から削除された。

7月16日に原爆実験成功の知らせがポツダムに届き、7月18日に日本への原爆投下が決定された。その際にスティムソンは、京都を原爆の目標から外すことと、天皇制について配慮すると日本に伝えることをトルーマンに要請した。


原爆投下とソ連参戦

ポツダム宣言を鈴木貫太郎首相は「黙殺」と表明したので、8月6日に広島に、8月9日に長崎に原爆が投下された。8月8日にはソ連が参戦した。

東京では最高戦争指導者会議が開催され、8月10日深夜、天皇の聖断を仰ぎ、ポツダム宣言を「天皇の国家統治の体制を変更するの要求を包含しておらざることの了解のもとに」受諾し、それがスイス政府経由アメリカ政府に伝えられた。

アメリカの返答は、「天皇と日本政府の統治権は連合国最高司令官に"subject to"である、日本政府の最終的な形は日本国民の自由な意思の表明によって確立されねばならない」という穏当なものだった。8月13日、14日の最高戦争指導者会議を経て、8月14日午後11時ポツダム宣言受諾の電報がスイスに向けて打電された。


8月15日に国務次官を辞任

日本が無条件降伏した8月15日に、グル―は自分の仕事は終わったとして辞表を提出して国務次官を退任している。

戦後、グルーは「滞日十年」の印税を国際基督教大学設立、エリザベス・サンダース・ホーム支援、バンクロフト奨学金設立に寄付した。

日本側の逆提案でグル―基金が設立され、日本側からも印税の十倍もの寄付金が集まって、1953年にはグルー奨学金一期生4人がアメリカに留学した。

グレーは1952年に回顧録を出版した。

もし米国政府が駐日大使館からのグル―の意見に従っていたなら、日米戦争は避けられた。開戦後も、自分が言うように日本に対して天皇制存続の確約を与えていれば、早期の戦争終結が可能となり、米兵の損害はより少ないものとなった。それにより原爆投下は避けられ、ソ連参戦も阻止でき、共産主義の拡大を事前に食い止めることができたであろうという主張を繰り返した。

「外交によって戦争を食い止めた外交官という歴史的役割をワシントンによって奪われた」とグル―は終生考えていたという。


日本ではあまり知られていないグルーの日本への好意と戦争回避努力がよくわかる。大変参考になる本である。


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2012年11月30日

国会議員の仕事 自民党・民主党の若手ホープの政治家のつくりかた

国会議員の仕事―職業としての政治 (中公新書)国会議員の仕事―職業としての政治 (中公新書)
著者:林 芳正
中央公論新社(2011-03)
販売元:Amazon.co.jp

国会議員の仕事を、自民党の世襲政治家で参議院議員の林芳正さんと、民主党でサラリーマン家庭に育った元日銀マンの津村啓介さんが、それぞれの履歴や政治活動について語っている。

この本を読んだ後、衆議院選挙が2012年12月16日投票と決まった。林さんは参議院議員なので、選挙には臨まないが、津村さんの民主党には逆風が吹いているので、厳しい選挙になると思う。是非切り抜けて4期目当選と果たしてほしいものだ。

「職業としての政治」というタイトルでは、もちろん筆者も学生時代に読んだマックス・ウェーバーの著書が有名だ。

職業としての政治 (岩波文庫)職業としての政治 (岩波文庫)
著者:マックス ヴェーバー
岩波書店(1980-03-17)
販売元:Amazon.co.jp

この本では、ウェーバーのようなアカデミックな立場でなく、政治家として活動しているお二人の実際の行動が具体例として紹介されていて興味深い。

この本では林さんと津村さんが、機ス餡餤聴になるまで、供ス餡餤聴の仕事と生活、掘ゾ泉政権から政権交代へ、検ダ権交代後の1年について、それぞれが書き、最後の后ァ嵜Χ箸箸靴討寮治」を語ろうで、林さん、津村さんが対談するという構成になっている。

親類に政治家がいる人は林さんのパターン(林さんはちなみに4代目)。まったく徒手空拳の人は、津村さんパターンが参考になると思う。

次に目次とキーワードを箇条書きで紹介しておく。大体の内容がわかると思う。

林芳正:

機ス餡餤聴になるまで
1.「政治家の家系」ではあるけれど
  政治には「無意識」だった 
  父親の「注文」(文兇任覆文気法
  商社マンになる 世界を見たことが転機に

2.決意と戸惑い
  「どうするか考えなさい」(三井物産を退社して父親のカバン持ちに)
  (ハーバード大学ケネディスクール卒業) 
  大蔵大臣政務秘書官 
  「チャンスをもらえる人間はそうはいない」(1995年の参議院選挙で初当選) 

供ス餡餤聴の仕事と生活
1.行政の仕組みを知る
  橋本対小泉
  (父と仲人の宮澤喜一さんが属する宏池会に入る)
  規制緩和で役所と対峙(「ここで先生とお話ししても、何も決まりませんから」と労働省の役人に言われる)
  財政金融委員会

2.大蔵政務次官・参議院副幹事長
  「ゼロ金利」をめぐる攻防(デフレの始まり) 
  宮沢喜一流の指導(次官を鍛える) 
  参議院の独自性を高める

3.小泉政権
  「加藤の乱」の現場 突如変わった「風」
  (小泉内閣支持率80%に急上昇) 
  外交防衛委員会委員長(FTA推進) 
  郵政解散 小泉政治の功罪
  (罪の方が大きい。)
  (『政策がわかっている人』ではない。消費税・集団的自衛権を先送りし、郵政民営化を優先した。)
  靖国参拝で中国・韓国との関係悪化)

掘ゾ泉政権から政権交代へ
1.安倍内閣
  「強力政権」のツケ 
  三期目の選挙

2.防衛大臣(2008年8月改造福田内閣)
  予算委員会の仕事 
  初入閣でまずやったこと(所管事項のレクを受ける)
  ”チーム”の大事さ(自衛官を入れて26万人の大所帯)
 「防衛大綱」見直しに着手(大臣の承認を得ない『専決』の見直し。普天間決着を逃す)

3.2度目の入閣と自民党の下野
  唐突な「大連立」だったが 
  首相の条件(角栄の原則:内政と外交の重要閣僚、党三役の少なくとも2つを経験した人間でなければ、総理の資格はない) 
  勝負の時を誤った(麻生内閣の1年弱) 
  経済財政政策特命大臣(2009年7月から1か月)

そして2009年8月に政権交代が起こる。次は過去の衆参両院の政党別人数の推移だ。

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出典:本書265ページ


検ダ権交代後の1年
1.政権交代は必然だった
  自民党下野の根本原因
  (「旧態依然」の自民党に国民が”NO”。 小選挙区制は日本になじまない

2.民主党政権の諸問題
  マニフェストはなぜ「破綻」したか
  (間違いだらけで、作り方がいい加減。パブリックコメントも経ていない) 
  乗数効果問答(「乗数効果」を知らない菅財務大臣)
  「政治主導」の弊害 軸なき民主党外交が残したもの(普天間迷走)
  「政策不況」はいつまで続く?
  (日米FTAを無視してなぜTPPか?)
  ”青い鳥”は果たしているか?

3.自民党は何をなすべきか
  野党になってできたこと 
  今の私の目標(2010年1月に自民党の綱領を作り直し)


津村啓介

機ス餡餤聴になるまで
1.サラリーマン家庭
  われら団塊ジュニア世代(出身は岡山県津山市)
  (麻布から東大法学部) 
  日本銀行(1994年ー2002年) 
  (日銀で直属上司の証券課長が『ノーパンしゃぶしゃ事件』で逮捕される)

2.政治家をめざす
  オックスフォード大学MBA留学で保守党クラブに入る 
  江田五月さんとの出会い 
  民主党の候補者公募制度(イギリスの制度をモデルに) 
  親の反対
  (お兄ちゃんの人生なんだから、お兄ちゃんの好きなようにさせてあげなさいよ)

3.若い力を国会へ
  「落下傘候補」 
  初めての街頭演説(1に毎日、2に堂々、3に短いフレーズ)
  党からのサポート 
  ポスター貼りのこだわり(馬淵澄夫議員に指導を受ける) 
  労働組合とのつきあい 
  (2003年選挙で小選挙区落選、比例区で当選)
 
供ス餡餤聴の仕事と生活
1.国会という場
  新人議員の失望
  (質問者も大臣も原稿棒読み 本会議は単なるセレモニー。法律は官僚によって作られ、国会の審理はアリバイつくり) 
  一期生の仕事は「次の選挙に勝つこと」
  (一気に9人の秘書を雇い、130万円/月の歳費はすべて人件費に充て、ボーナス550万円を生活費に。週に岡山・東京を2往復 小さな祭りや神事を優先してイベントにすべて顔を出す) 
  戦後初の「戒告」処分

次が津村さんの平均的な岡山での日程だという。たしかにいろいろなイベントに顔をだしまくっている。

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出典:本書124ページ

2.国会質問
  国会質問の作り方(福井日銀総裁に質問)
  国益とは何かー外務、安全保障委員会 
  超党派の課題ー天皇制の危機

3.政治とカネ
  国会議員個人の収支(歳費+文書通信交通滞在費 100万円/月) 
  政治資金ー収入(政党交付金 1,000万円/年、パーティ代+寄付) 
  政治資金―支出(公設秘書3人は国が負担、ほかに6名を私設秘書として雇う。事務所を4ヶ所 250万円/月) 
  議員宿舎(赤坂の3LDK 家賃10万円/月)と議員パス

4.東京と地元
  「金帰火来」 
  個人事業主としての側面(優秀な秘書に支えられている)
  民主党岡山県連代表としての運営(候補者選びの人事権を握る)

掘ゾ泉政権から政権交代へ
1.民主党の試練
  初の本格代表選挙から年金未納まで 
  岡田代表の挫折 「郵政選挙」の大敗北 
  若き前原代表の登場と挑戦 ニセメール事件の意味するもの

2.小沢代表のリーダーシップ
  小沢代表と大連立構想 
  衆参ねじれ国会 
  日銀総裁空席問題

3.政権交代ー2009年8月30日
  解散先送りと底をつく資金 
  小沢代表の辞任ー西松事件 
  全国初の「予備選挙」 
  臓器移植法をめぐるドラマ 
  熱気あふれる衆議院本会議場

検ダ権交代後の一年
1.政治主導の最前線
  最初の罠(任命直後から政治家をコントロールしようとする)
  秘書官人事がターニングポイント(日銀と内閣府から1名ずつ指名)
  官僚の記者会見を禁止 
  政務三役(大臣、副大臣、政務官)会議「準備会合」が主戦場
  (官僚との良い関係作り)

2.国家戦略室の理想と現実
  政治主導のシンボル 
  菅大臣の顔が見えない 
  突然の大臣交代 
  機能変更 
  政府・与党の一元化をめぐって

3.民主党の経済財政戦記
  史上最悪の失業率とデフレ宣言
  GDP統計の整備 
  景気「踊り場」論争の内側
  「日本銀行の独立性」を高めるために

4.科学・技術政策と日本の未来
  事業仕分けの衝撃 
  科学・技術の可能性 
  国会議員の仕事ー官僚との役割分担

后ァ嵜Χ箸箸靴討寮治」を語ろう
  本物の「政治主導」とは何か 
  日本は選挙が多すぎる 
  民主党は路線を明確化できるか 
  これからの日本経済をどうする 
  政治家の資質とは 
  総理大臣をめざす(林さんは3年後に総理をめざす。津村さんは17年後に総理をめざす)

そのほかに2点ほど参考になったポイントを紹介しておく。


小選挙区制と政党交付金制度が公募政治家を生んだ

津村さんは1994年の政治改革がなかったら政治家にはなれなかっただろうと語る。小選挙区制度と政党交付金制度が、公募世代の政治家を生んだのだ。

8年目で日銀を辞めたときの1,000万円が軍資金だった。民主党の公認候補への活動費が最初は50万円、そのあと100万円になり、そのうち30万円は個人の生活費として使えた。最終的に初めての選挙が終わった段階では、700万円貯金は残っていたという。自己資金300万円しか使わなかった計算になる。

選挙本番では1,500万円の公認料が支給された。これも政党交付金制度のおかげである。さらに民主党公認となれば、お金のかからない選挙ノウハウを熟知している労働組合が支援してくれ、党幹部の有名政治家が応援に来てくれる。


官僚との戦い

林さんは一年生議員の時に、派遣法の説明にきた労働省の役人に、「どうしてこんな規制をするのだ」と聞いたところ、役人は答える代りに、「ここで先生とお話ししても、何も決まりませんから」と言い放ったという。

猛勉強して商工委員会で追及したそうだが、規制緩和に関しては、役所と正面から向き合うので、役所が何をやっているのか熟知しないといけないという。

特に注意すべきなのは「…等」」という言葉だ。「…等」とあったら、必ず「この『等』は具体的には何?」と聞かなければならない。往々にして羅列されている事柄の何倍ものものが、「等」に隠されているのだと。

管直人元総理の「大臣」という本には、そのような「罠」がいくつも紹介されているという。

大臣 増補版 (岩波新書)大臣 増補版 (岩波新書)
著者:菅 直人
岩波書店(2009-12-18)
販売元:Amazon.co.jp


政治家の自伝はいくつか読んだが、これほど率直に自らの国会議員としての生活を描いた本は少ないと思う。所属政党は違うが、官僚統治と闘っていることでは同じ経験をしている。

副題の「職業としての政治」というタイトルは、この本の内容を正確にあらわしている。政治家に興味がある人には参考になると思う。彼ら二人を応援したくなる本である。


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2012年11月26日

私の紅衛兵時代 中国の映画監督陳凱歌氏の紅衛兵時代

私の紅衛兵時代-ある映画監督の青春 (講談社現代新書)私の紅衛兵時代-ある映画監督の青春 (講談社現代新書)
著者:陳 凱歌
講談社(1990-06-12)
販売元:Amazon.co.jp

前回紹介した「北京バイオリン」や2011年12月に公開された「運命の子」などの優れた映画を監督している陳凱歌(チェン・カイコー)監督の紅衛兵時代のことを書いた手記。会社の読書家の友人から紹介されて読んでみた。

北京ヴァイオリン 特別プレミアム版 [DVD]北京ヴァイオリン 特別プレミアム版 [DVD]
出演:タン・ユン
ジェネオン エンタテインメント(2004-04-02)
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山崎豊子さんの「大地の子」でも、主人公の陸一心が、中国の文化大革命時代に日本人の子供ということで、スパイ容疑をかけられ、内モンゴル自治区の労働改造所に送られる場面があった。

大地の子 1 父二人 [DVD]大地の子 1 父二人 [DVD]
出演:仲代達矢
NHKエンタープライズ(2002-09-06)
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今回中国共産党中央委員会総書記に就任した習近平氏も、父の習仲勲国務院副総理が文化大革命中に反動勢力として吊るし上げられたことから、1969年から7年間陝西省に下放され、洞窟で暮らしていたことが報じらている。



陳凱歌さんは1952年生まれ。映画監督の父とシナリオライターの母との間に生まれた。陳さんの母は裕福な家庭の出身で、アメリカ系のミッションスクールを出たが、日本軍が攻めてきたときに破産してしまったという。その後陳さんの母の両親と兄弟は台湾に移り、陳さんの母のみが大陸に残され、2度と両親に会うことはなかった。


陳さんの育った時代

1958年からの大躍進時代に続く1960年から62年にかけての大飢饉で、中国では2−3千万人、つまりオーストラリアの人口の2千万人以上が餓死した。1959年にはソ連と断交し、1962年にはインドとの国境紛争が起こり、1964年にフルシチョフ書記長が失脚した年に中国は核実験を成功させた。陳さんが育った時代は、このように中国が自主独立路線を歩み始めた時代だ。


文化大革命の始まり

陳さんは、1965年9月に北京の四中に入学した。大学進学率90%を誇る有名校で、党の高級幹部の子弟が多く含まれていたという。

1966年5月7日に毛沢東は、後に「5.7指示」と呼ばれる文化大革命の指示を出す。これに呼応して大学生、中学生が紅衛兵となって、「反動主義者」を吊るし上げ、集団リンチを加えた。共産主義では本来許されない個人崇拝が広まり、学生たちは「毛主席の良い子供になる」ことを目指した。

1966年7月29日、小平、周恩来、劉少奇の党首脳は、数十万人の大学生、中学生を前に演説を始め、最後に毛沢東が登場し、集会はクライマックスを迎え、それから町に軍服を着た中学生・大学生の紅衛兵があふれた。

北京四中の教師は頭を半分剃られ、メガネを割られ、首から下げた看板に書いた名前は×印で消されていたという。


破壊の限りを尽くす

「天地をひっくり返し、嵐のような波風を巻き起こして、大いにひっかきまわせ。そうやって、ブルジョア階級を眠れないようにし、プロレタリア階級も眠れないようにするのだ」というのが毛沢東の指令を受けた林彪の指示だったという。

寺院、孔子廟、キリスト教会を破壊し、北京には一切宗教的な建物はなくなった。北京市は築800年の城壁に囲まれていたが、城壁は紅衛兵たちに完全に破壊され何も残らなかった。

筆者の好きな北京ダックの名店「全聚徳」は、看板を壊され、「人民メニュー」を作らせられた。

髪が長すぎるとみられた男女はハサミで髪を切られた。細すぎるスラックスは切り裂かれ、ハイヒールのかかとは折られた。


陳さんは父親を攻撃

陳さんの父親は、若いころ国民党員だったことがあり、この過去が陳さんにも影響を与えてきた。陳さんは父親を憎むようになった。陳さんのお父さんは、「国民党分子、歴史的反革命、網に漏れた右派」として罵倒され、陳さん自身もお父さんを突き飛ばした。陳さんは14歳だった。翌日陳さんのお父さんは連行されていった。

数年後陳さんが下放された雲南省から帰省した時に、ボロをまとい、歯の抜け落ちた老人が学校の便所掃除をしていた。それが50歳になった陳さんのお父さんだったという。


陳さんの自宅も略奪される

陳さんの家は級友による家宅捜索を受け、衣装タンスは壊され、服は引き裂かれ、本は毛沢東のものなど一部を除き、すべて燃やされた。目覚まし時計やカメラなど金目のものは持ち去られ、頭痛薬まで見逃さなかった。

級友たちは破壊し尽くした後、陳さんと握手して立ち去ったという。数百万の家がおなじように略奪を受けた。紅衛兵自身の家もすべて略奪をうけた。共産党幹部、劉少奇や彭徳懐元帥も例外ではなかった。殴り倒され、ケガをさせられた。


文革の犠牲者は多い

「地主」や「資本家」とみなされたものは、もっと悲惨だった。ガラスの破片の上に座らされ、ちょっとでも動くと殴る蹴るの暴行を受け、殴り殺されたものもいた。陳さんも紅衛兵の軍服を着て、赤い腕章をつけて北京市内を自転車でまわった。人を殴ったこともある。

陳さんの友人の父親の元・石炭工業相は、頭を丸刈りにされ、全身に傷を負い、死ぬ直前に息子に会って、「お前は長男だ。しっかりしろ」と言って、数日後に亡くなった。毛沢東と周恩来に手紙を書いて無実を訴え、生涯信じた仕事に悔いはないという遺書が残っていたという。

今も共産党の考えで法律は変更されるので同じ傾向があるが、文革中には法律は存在しなかった。拷問を受け無理やり自供させられ、私設法廷で裁かれて処刑されていった。高いビルから落として、自殺とみせかけて犯行をごまかすといったことが平気に行われていた。

「人民芸術家」とされていた文豪の老舎は、京劇の衣装を焼かれ、重傷を負わされ、みずから北京の太平湖公園で湖に身を投げた。陳さんは死の直前老舎と出会ったという。

文豪老舎の生涯―義和団運動に生まれ、文革に死す (中公新書)文豪老舎の生涯―義和団運動に生まれ、文革に死す (中公新書)
著者:舒 乙
中央公論社(1995-01)
販売元:Amazon.co.jp

駱駝祥子―らくだのシアンツ (岩波文庫)駱駝祥子―らくだのシアンツ (岩波文庫)
著者:老 舎
岩波書店(1980-12-16)
販売元:Amazon.co.jp


雲南省シーサンパンナに下放

1969年の春、陳さんは雲南省の山奥の山林に下放された。17歳だった。労働改造中の父親はホームまで見送りに来て、陳さんは父親の涙を初めて見たという。

雲南のシーサンパンナのタイ族の村で、森林開発に従事した。野焼きして原生林を焼き払い、戦略物資のゴムの栽培をしていたが、結局うまくいかなかったという。

下放された女学生が発狂し、掘立小屋で乞食のように住んでいた話や、上海から来た16歳の知識青年が木の下敷きになって死亡した話が語られている。

陳さんはバスケットボールがうまかったので、1971年に軍のバスケットボールチームにリクルートされ、部隊はラオスに移動する。公然の秘密だったが、ベトナム戦争に中国軍が参加していたのだ。ラオスで爆撃跡の復旧作業を担当し、1975年除隊して北京に復員する。


北京で出発点に戻る

北京映画現像所で空調を取り扱う労働者となり、毛沢東が亡くなると、北京映画学院の監督科に入学する。1975年ー78年の入学者には、その後の中国のあらゆる部門の逸材を輩出しているという。習近平も1975年に精華大学に入学している。下放された1,000万人を超える知識青年たちが、都会に戻ってきて、出発点に戻ったのだ。

陳さんは、北京映画学院を卒業後、広西省と陝西省西安の映画撮影所で数本の映画を制作し、その後1987年に1年間映画の講義をするために米国に行き、そのままニューヨークに滞在して映画制作に取り組んでいる。

この本もニューヨークで日本での出版用に書き下ろしたものだ。

この本を読んでいて、中国は昔から変わらないとつくづく思う。

同じことのぶり返しで、最近の共産党幹部の汚職や日系企業・日本車をターゲットにした攻撃を見ていると、「アラブの春」のように、民衆の怒りが共産党に向かう日も近いのではないかという気がする。

文化大革命は毛沢東が指導した権力闘争だった。反日デモには毛沢東の肖像画を掲げる民衆の姿が放映されていた。このままいくと毛沢東崇拝が復活し、違う形での文化大革命の再来となるかもしれない。

最近では「中国は崩壊する」や、「中国大分裂」などセンセーショナルなタイトルの本が日本で多く出版されている。

2014年、中国は崩壊する (扶桑社新書)2014年、中国は崩壊する (扶桑社新書)
著者:宇田川 敬介
扶桑社(2012-06-01)
販売元:Amazon.co.jp

中国大分裂 改革開放路線の終焉と反動中国大分裂 改革開放路線の終焉と反動
著者:長谷川 慶太郎
実業之日本社(2012-07-12)
販売元:Amazon.co.jp

中国が崩壊した場合、日本も無傷ではないだろうが、共産党の一党独裁が永遠に続くこともありえないだろう。

文革時代を描いてはいるが、同じことがまた起こりそうな懸念を抱かせる本である。


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2012年11月18日

Steve Jobs Special スティーブ・ジョブスと11人の証言

Steve Jobs Special ジョブズと11人の証言Steve Jobs Special ジョブズと11人の証言
著者:NHKスペシャル取材班
講談社(2012-09-27)
販売元:Amazon.co.jp
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ステーィブ・ジョブスを特集した「NHKスペシャル」の取材班が、スティーブ・ジョブスを取り巻く11人の知人にインタビューした内容を公開した本。テレビ番組だと時間の都合でカットせざるを得なかった部分を公開している。

最初に国谷キャスターのスティーブ・ジョブスへのインタビューが掲載されており、そのあとに次の11人のインタビュー内容が紹介されている。

1.スティーブ・ウォズニアック(アップルの共同創業者)

2.ダニエル・コトケ(リード・カレッジの同級生でアップル創成期の社員。スティーブとインドを4か月間一緒に旅行)

3.ビル・フェルナンデス(アップル創成期のエンジニア。ユーザーインターフェースアーキテクト。ウォズとスティーブを引き合わせる)

4.ラリー・テスラー(元ゼロックスパロアルト研究所所員でスティーブにGUIを見せる。アップルに転職)

5.リッチ・ペイジ(初期のアップル・フェローの一人。モトローラのマイクロプロセッサーを搭載した開発にかかわり、スティーブと一緒にNeXTへ転職)

6.ジョン・スカリー(スティーブを追い出した元アップルCEO。ペプシコCEOの時に、スティーブから「一生砂糖水を売り続けたいのか?それとも、私と一緒に来て世界を変えたくはないか?」と口説かれた)

7.福田尚久(アップル日本と本社に勤務した)
8・前刀禎明(さきとうよしあき)ライブドア創業者。元アップルジャパン社長

9.ダグ・キットラウス(アップルに買収された音声認識ソフトのSiri共同創設者)

10.ウォルター・アイザックソン(「Steve Jobs」伝記作家)

11.孫正義


現実歪曲フィールド

ウォズニアックは、「現実歪曲フィールド」とは、「どんな無理なことでも、現実を曲げてでも実現させてしまう」というスティーブの性格を表したもので、スティーブが言いだすと、全く現実的でない彼の意見に賛同してしまったり、実際に彼の言った通りになってしまうことだという。

スティーブがビジョンを説得力を持ってプレゼンすると、不思議に実現できそうに思えてくる。これが「現実歪曲フィールド」の力だ。

実際に、起動システムの担当者に「10秒早めてほしい」と伝え、担当者が無理だと言い張ると、「もし君の努力で、人の命が救えるとしたらどうだい?」(数百万人が10秒ずつ短縮できれば、一生分以上の時間が短縮できる)と呼びかけ、わずか数週間で20秒短縮できたという。


スティーブの尊敬していた人

スティーブの尊敬していた人は、ボブ・ディランガンジーアインシュタインエジソンだった。それゆえ、IBM PCに対抗するアップルのThink Different」の広告ができたのだ。



ゼロックスの種をアップルが木に変えた

ゼロックスのパロアルト研究所がGUIやマウスを開発し、それを見たスティーブが衝撃を受けて、アップルが製品として開発した。

アップルはゼロックスのアイデアの「種」を様々な機能を加えることで使いやすくして、「木」に変えたのだと。


戻ってきたスティーブは優秀な経営者に成長

スティーブはいったん、アップルから追い出されるが、アップルがNeXTを買収したので、アップルに戻ってきた。

アップルに戻ったスティーブは、去った時とは全く違う優秀な経営者になっていたという。


今回インタビューにも登場するウォルター・アイザックソンが書いたスティーブの公式伝記はだいぶ前に読んだが、まだあらすじをアップしていない。

スティーブ・ジョブズ Iスティーブ・ジョブズ I
著者:ウォルター・アイザックソン
講談社(2011-10-25)
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スティーブ・ジョブズ IIスティーブ・ジョブズ II
著者:ウォルター・アイザックソン
講談社(2011-11-02)
販売元:Amazon.co.jp
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大変興味深い本だった。時間を見つけて、こちらのあらすじもいずれアップする。


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2012年11月12日

山中伸弥先生に、人生とiPS細胞について聞いてみた ノーベル賞受賞直後の自伝

山中伸弥先生に、人生とiPS細胞について聞いてみた山中伸弥先生に、人生とiPS細胞について聞いてみた
著者:山中 伸弥
講談社(2012-10-11)
販売元:Amazon.co.jp
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山中教授のノーベル賞受賞決定直後に出版された本。本の帯には「唯一の自伝」となっている。出版社は実にタイミングの良い出版を考えるものだ。この本は現在売り上げランキングの50位前後にある。

出版とほぼ同じタイミングで図書館で予約して、さっそく読んでみた。

このブログでは、山中教授とノーベル物理学賞受賞者の益川教授の対談の「大発見の思考法」のあらすじを紹介している。「大発見の思考法」は、あらすじのタイトルに記したように”ノーベル賞受賞者の知性のジャムセッション”そのもので、大変面白かったが、この本も自伝ならではの発見がある。

「大発見の思考法」のあらすじでは、他に2冊の本も読んで、iPS細胞がどういうものなのかもふくめて詳しくあらすじを紹介しているので、参照して欲しい。

「大発見」の思考法 (文春新書)「大発見」の思考法 (文春新書)
著者:山中 伸弥
文藝春秋(2011-01-19)
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この本は「大発見の思考法」では触れていないiPS細胞研究上の様々な試み、決して順調ではなかった山中教授のいままでの研究生活、それと山中教授と一緒に研究してきた仲間などについて山中教授自身が書いている。

たぶん山中教授の話をライターがまとめたのだと思うが、英語の会話すら、こんな感じで大阪弁訳になっている。

「シンヤ、シンヤ」

「どないしたん?」

「あんたのマウスがいっぱい妊娠してんねん」

「そりゃ、妊娠くらいするやろ」

「いや、妊娠してんのはオスのマウスやねん」

これはマウスにコレステロールを下げる遺伝子の働きを強める操作をしたところ、その遺伝子ががん遺伝子で、マウスが肝臓がんになって肝臓が膨れ上がってしまったのだ。

第2部はフリーライターとのインタビューで、第1部が140ページ、第2部が50ページという構成だ。

いくつか印象に残った話を紹介しておく。

山中教授の生い立ちや、「人生塞翁が馬」というモットーを持つに至った、決して順調でない研究生活については「大発見の思考法」のあらすじを参照してほしい。


ノックアウトマウスに魅了(ノックアウト)される

山中さんはのノックアウトマウスの精度の高さに魅了されたという。

ノックアウトマウスは、25億の塩基対(2本のDNA結合)のうち、わずか1個の遺伝子だけつぶす技術だ。

文字数にたとえると、この本の1ページ当たりの文字数が600個なので、25億個だと416万ページ、つまり200ページの本が2万冊以上となる。それだけの本の中から、たった一か所を探し出して黒く塗りつぶしたのがノックアウトマウスなのだ。

iPS細胞発見も、ノックアウトマウスをつくった技術員の一阪さんと、後述の徳澤さんの貢献が大きい。


VWとプレゼン力

山中教授がしばしば口にするVWとは、フォルクス・ワーゲンではなく、山中教授の恩師のUCSFグラッドストーン研究所のロバート・メーリー所長の言葉だ。Vision & Work Hardだという。メーリー所長は「VWさえ実行すれば、君たちは必ず成功する。」と言っていたという。

VWと並んで、山中教授が強調するのは、プレゼン技術だ。アメリカ留学で身に着けたプレゼン力が、その後何度も山中教授を救った。

奈良先端大学で、上に教授のいない研究室主宰者としてはじめて独立したラボを持てることになったときも、VWにならって、ES細胞ができれば、どれだけ素晴らしいことができるかというビジョンをプレゼンに織り込んで、3人の大学院生を獲得したという。

それが現在も山中教授のもとで働く高橋和利講師、4つの遺伝子のうち一つのKlf4を見つけた徳澤佳美さんら3人だった。

高橋さんは、24個にまで絞った遺伝子から初期化に必要な遺伝子4個を特定するのに、大変功績があった。山中さんは、高橋さんのとりあえず24個いっぺんに入れて、一つ一つ減らしていくという発想に、「ほんまはこいつ賢いんちゃうか?」と思ったという。高橋さんはこの考え方をもとに、1年かけてきちんと実験し、4個の遺伝子を見つけた。


京都の作り方

この本ではiPS細胞の働きを説明するのに、「京都の作り方」という本があったと仮定して説明している。作業員に指示するときに、「京都の作り方」の一部だけコピーして渡すのか、全部コピーして、必要な場所にしおりを入れて渡すのかという問題だ。

どちらが正しいか論争があったが、山中教授が生まれた1962年にイギリスのジョン・ガードン教授がカエルの腸の細胞から、オタマジャクシを作ることに成功して、論争に決着をつけた。成体のカエルまでは成長できなかったが、ちゃんとオタマジャクシは作ることができたのだ。

これが山中教授が、「ガードン教授の研究がなければ、iPS細胞研究はなかった。ガードン教授と一緒にノーベル賞を受賞できることがなによりもうれしい」と語っている理由だ。


山中教授がPADを克服するのに役立った本

山中教授が、アメリカ留学から帰って来て、あまりの研究環境の違いに、うつのようになり、ベッドから起き上がれなくなったという話は、「大発見の発想法」で説明していたが、その状態を山中教授はPAD(Post America Depression)と呼んでいる。

そのPADを克服するのに役立った本として次の本を紹介している。

仕事は楽しいかね?仕事は楽しいかね?
著者:デイル ドーテン
きこ書房(2001-12)
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今度読んでみる。


CiRA(京都大学iPS細胞研究所)はオープンラボ

山中教授が所長を務めるCiRA(サイラ:京都大学iPS細胞研究所)は米国グラッドストーン研究所をモデルとして、オープンラボ形式になっている。

実験スペースは共用で、研究室に仕切りはなく、教授室もラボとは別に横に並んでいる。高性能の装置をみんなで使うという考え方だ。


最後にiPS細胞の一日も早い医療応用のための、iPS細胞研究基金への支援を呼びかけて、この本は終わっている。山中教授自身も大阪や京都のマラソン大会に出場し、基金への支援を呼びかけているという。

ノーベル賞受賞後の記者会見の「私は無名の研究者だった。国に支えていただかなければ、受賞はできなかった。日本という国が受賞した。」という発言にも感心した。「大発見の思考法」のあらすじでも書いたように、山中教授の謙虚さには敬服する。



この本でも一緒に研究にあたった高橋講師や徳澤さん、ノックアウトマウスをつくった技術員の一阪さんなどの同僚の名前と具体的な貢献を紹介して感謝しており、ノーベル賞を共同受賞したガードン博士はじめ先達や、競争相手のウィスコンシン大学チームなどの業績も紹介している。

なんて気配りができる研究者なんだ!

200ページ余りの本で、簡単に読める。「大発見の思考法」と一緒に読むことをおすすめする。


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2012年10月01日

人生の途上にて 孤高のメスやどくとるマンボウをインスパイアした本

人生の途上にて
著者:A.J.クローニン
三笠書房(1983-01)
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このブログで紹介した「孤高のメス」で、主人公の当麻鉄彦が高校時代に読んで、医者を目指す動機となったとされている本。

孤高のメス―外科医当麻鉄彦〈第1巻〉 (幻冬舎文庫)孤高のメス―外科医当麻鉄彦〈第1巻〉 (幻冬舎文庫)
著者:大鐘 稔彦
幻冬舎(2007-02)
販売元:Amazon.co.jp
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クローニンはスコットランド出身で、もともとグラスゴー大学を主席で卒業した医者だ。スコットランドの僻地の代診としてスタートして、船医や炭鉱の勤務医を経て、英国医学会の会員となる。ロンドンで開業して、医者として成功した忙しい毎日を過ごしていた。

ところが、子供の時からの夢を実現させるために30代半ばで医者を辞め、家族とともにスコットランドの田舎に引き移って、半年かけて処女作の長編小説、「帽子屋の城」を書き上げる。

クローニン全集〈第2〉帽子屋の城 (1965年)
三笠書房(1965)
販売元:Amazon.co.jp
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タイプアップされた原稿を見て失望し、一度は暖炉の灰に投げ込んだクローニンだったが、思い直して原稿を拾い集め、さらに数か月かけて完成し、出版社に郵便で投稿する。

その処女作が奇跡的に出版社の社長の目に留まり、出版されることになった。そして出版されると世界21か国語に翻訳され、全部で3百万部を超える大ヒットとなり、クローニンは医者から正式に足を洗い、小説家として成功する。「帽子屋の城」は映画化もされている。

クローニンの代表作の「城塞」、英文名"The Citadel"も1938年に映画化され、アカデミー賞にもノミネートされている。



この本は、クローニンの貧乏学生時代からの自伝的小説で、船医になったり、僻地で数々の患者を治した経験や、ロンドンでの成功、医者をやめて小説書きに専念した生活、思いがけない処女作の成功、第二次世界大戦後のヨーロッパへの旅などを描いている。

英語の原文は"Adventures in two worlds"という名前で、医者と作家という二つの世界の経験を書いている。

Adventures in Two WorldsAdventures in Two Worlds
著者:A. J. Cronin
Kessinger Publishing(2010-09-10)
販売元:Amazon.co.jp
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この本は「孤高のメス」の当麻鉄彦(ということは著者の大鐘稔彦さん)をインスパイアしたとともに、クローニンが船医として過ごした経験などは、たぶん北杜夫さんの「どくとるマンボウ航海記」などのシリーズもインスパイアしているのではないかと思う。

どくとるマンボウ航海記 (新潮文庫)どくとるマンボウ航海記 (新潮文庫)
著者:北 杜夫
新潮社(1965-02)
販売元:Amazon.co.jp
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翻訳は「風と共に去りぬ」などを手掛けた翻訳家で、三笠書房創立者の竹内道之助さんで、翻訳の出来も非常に良い。竹内道之助さんはクローニンにほれ込み、「クローン全集」を三笠書房で出版しているほどだ。

風と共に去りぬ (1) (新潮文庫)風と共に去りぬ (1) (新潮文庫)
著者:マーガレット・ミッチェル
新潮社(1977-06)
販売元:Amazon.co.jp
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当麻鉄彦ならずとも、引き込まれてしまうこと請け合いだ。

「どくとるマンボウ」シリーズのように楽しめるノンフィクション小説である。


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2012年07月04日

刑務所なう。 ホリエモンの獄中記半年分

刑務所なう。刑務所なう。
著者:堀江 貴文
文藝春秋(2012-03-15)
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ホリエモンの獄中日記。

このブログの初期ではホリエモンの本を何冊か紹介したが、その後ライブドア事件と有罪判決が起こり、ホリエモンは忘れ去られつつあった。このブログでもホリエモンカテゴリーは整理しようかと思っていたところだ。

2011年4月にホリエモンの実刑(懲役2年6ヶ月)が最高裁で確定し、2011年6月20日に東京拘置所に収監され、6月27日に長野刑務所(A級犯:初犯から懲役8年までの囚人)に移送された。

この本では6月20日から12月31日までの毎日3食の食事献立と、毎日の生活、新聞、ラジオ、映画、本などの感想を書いている。

ホリエモンは、獄中からもブログ(六本木で働いていた元社長のブログ)やツイッターメルマガを書いており、この本はそれらの投稿や獄中記を集めたものだ。

同じ東京拘置所経験者の佐藤優さんは「週刊東洋経済」の「知の技法・出世の作法」という連載で、ホリエモンのことを”自らの未来の夢を描き、それを実現するために実力をつけて、努力によって夢を実現するタイプの人=「工作人」の典型”と呼んでいるが、その意味ではこの獄中からの情報発信もユニークだ。

ホリエモンの住んでいる部屋の様子は、この本の表紙の反対側に載っている。

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出典:本書表表紙見返し

上の絵にはテレビがあるが、実際には長野刑務所に移ってから、しばらくしてテレビが入ったのだという。東京拘置所の畳はプラスティックの人造畳だが、長野刑務所の畳は天然畳で、気分が全然違うという。

普通は雑居房より、独居房の方が良いのではないかと思うが、ホリエモンは最初のうちは早く他人と話せる雑居房に移りたいと、一時はうつ状態のようになったという。

しかしこの本の最後の12月末になったら、最初に言われた「共同室より単独室の方が良いですよ。いずれ慣れますから。」という意味がわかってきたという。

佐藤優さんの「国家の罠」には、独居房にいてうつ状態になったという話はなかった。

国家の罠―外務省のラスプーチンと呼ばれて (新潮文庫)国家の罠―外務省のラスプーチンと呼ばれて (新潮文庫)
著者:佐藤 優
新潮社(2007-10)
販売元:Amazon.co.jp
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ホリエモンの精神状態がよくわからないところだ。

この本のところどころにホリエモンの刑務所生活を示すこんなマンガが載っている。

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出典:本書222〜223ページ

長野刑務所は全国でもトップ3に入るメシのうまい刑務所だそうだ。ただ独居房には暖房がないので、住環境としては北海道の刑務所の方が、冬は暖房があるので、快適だろうということだ。

毎日400円程度で、よくこれだけ工夫して献立を作っていると思わせる苦心の献立が毎日並び、元日などは記念食のようなものもでる。

このあたりは東京拘置所での食生活をレポートしていた佐藤優さんの本に通じるところがある。

結局ほぼ半年で体重は95.7KGから72.4KGに23キロも減り、だいぶスマートになったはずだ。

シャバでは、贅沢な暮らしをしてたぶん毎日飲み歩いていたホリエモンなので、禁酒と、いわばプロテインダイエット(おかずは食べるが麦飯の量は減らす)、適度な運動を続けると、これだけ体重が落ちるという実験レポートのようだ。

食べたいと思っていた念願のカップ麺(カップそば)が12月31日に年越しそばとして出てきて、これを食べたら胃が小さくなっていて全部食べられなかった話がでてくる。麦飯の量を減らして胃を小さくしたのが、ダイエット成功の最大の要因だと思う。

全部で500ページほどある本の中身については、詳しく紹介しない。

ところどころ出てくる、AKBのプロデューサーの秋元康さんが大王製紙の井川会長と同じくらいカジノにハマっているとか、鈴木亜美がフライデーされた相手も知っているとか、ネタバラシのたぐいの話や、宇宙開発が半分くらいの「時事ネタ評論」を除いては、あまり印象に残る話はない。

さすがに刑務所に収監されていれば、当然のことながら情報量は激減する。やむを得ないところだろう。

本屋でパラパラ立ち読みするか、図書館で借りて読むことをおすすめする。


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2012年05月16日

政治家の殺し方 前横浜市長・中田宏さんの暴露本 ノンフィクション小説のようだ

政治家の殺し方政治家の殺し方
著者:中田 宏
幻冬舎(2011-10-26)
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前横浜市長・中田宏さんの暴露本。この本を読むと横浜市に巣くっている様々な闇・おもて勢力の実態がわかる。

このブログを書き始める前なので、ブログにあらすじは紹介していないが、中田さんの本は何冊か読んだことがある。特に「偏差値38からの挑戦」というサブタイトルがついている「なせば成る」は面白かった。

なせば成る (講談社プラスアルファ文庫)なせば成る (講談社プラスアルファ文庫)
著者:中田 宏
講談社(2005-11-25)
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突然の市長辞任の理由

中田さんが横浜市長選挙に出馬しないと表明したので、このブログでも著書を何冊か紹介している元ダイエー会長の林文子さんを民主党がかついで、林さんが横浜市長になったのは、ちょうど前回の衆議院選挙が行われた2009年夏だった。

筆者は中田さんが衆議院選に出馬するので、市長を辞めたものとばかり思っていたが、実は市議会の有力者達とつながる闇勢力から「ハレンチ市長」として、ありもしないでっちあげスキャンダルで攻撃されていたという。

そして自民・公明・民主がオール与党として談合している市議会勢力に、次の市長選挙を牛耳られないように、衆議院総選挙と横浜市長選挙を同一日にするためにあのタイミングで市長を辞めたのだという。


中田市長追い落とし作戦

2007年11月から7週間にわたって「週刊現代」の見出しに「私の中に指入れ合コン」とか、「口封じ恫喝肉声テープ」、「公金横領疑惑」などと事実無根の記事を書かれ、挙句の果てには「中田の愛人」と称する女性までテレビに登場するというスキャンダルを起こされていたという。

中田さんが市長をやめて後、週刊現代を発行する講談社を名誉棄損で訴え、2010年10月には全面勝訴を勝ち取っている。また”フィアンセ”と称する女性から慰謝料を求められた裁判でも、付き合った事実すらないとして全面勝訴した。

スキャンダルの疑いは晴れたが、政治には闇の世界があることを知ってほしいためにこの本を書いたのだという。


ノンフィクション小説のように面白い

中田さんは横浜市出身で、神奈川県立霧が丘高等学校を卒業し、2浪して青山学院大学に入り、松下政経塾を経て28歳で衆議院議員となり、2002年に37歳で横浜市長に当選する。当時は史上最年少の政令指定都市の市長だった。

筆者は神奈川県藤沢市出身だ。しかし友人から横浜スタジアムをめぐる利権について聞いたことはあったが、同じ県にある横浜市の政界がこれだけ腐敗しており、公務員も既得権を守るのに汲々としているとはこの本を読むまで全く知らなかった。

この本は中田さんの横浜市の闇勢力との抗争ドキュメンタリーで、ノンフィクション小説のように面白い。あまり詳しく紹介すると、読んだときに興ざめなので、簡単に紹介しておく。

★中田さん追い落としのねつ造スキャンダルは2007年11月の「週刊現代」から始まった。根も葉もない上記のような内容だ。

★2008年12月には中田の愛人と名乗る元ホステスの女性が全国ニュースに登場、3000万円の慰謝料を請求して裁判を起こした。しかし、幸いなことに、家族のきずなは保てたという。この女性は裁判には一度も出廷しなかった。金をもらって訴えたに過ぎないのだ。

★中田さんを恨んでいたのは、まずは指名競争入札で仲間同士で仕事を融通しあっていた建設業界だ。一般競争入札にしたので、競争がきびしくなったからだ。

★公務員組合も恨んでいた。公務員の定数を1000人当たり8人から5人まで減らし、各種手当も減らした。退職時昇給という最後の一日だけ昇給して、それが退職金のベースを高くするというお手盛りも辞めさせた。

★暴力団もからむ風俗業界も恨んでいた。京浜急行の日ノ出町駅から黄金町駅の間に違法売春風俗店が250店もあったのを、県知事、神奈川県警本部長、警察庁長官の協力を得て撲滅した。

★さらにAという市会議員が中田さんの政敵だったという。横浜市に住んでいる人は、Aというのが誰なのかわかるのだと思う。

★選挙の開票を翌日開票とすると1億3千万円もコストが下がるので、それを実施したら、朝刊しかない地元新聞は大反対したという。地元新聞も自社の利益優先で、県のコスト削減など二の次だったのだ。

★横浜市の公務員の待遇うは信じられないほど優遇されている。
希望しなければ10年間異動なしで、しかも毎年昇給するという「渡り」を辞めさせ、3年で強制配転としたので、公務員組合から敵視された。そのほかにも一律だった管理職のボーナスを上下100万円の差をつけたとか、鎌倉市などの隣の市に行くだけでもらえる出張手当も辞めさせた。

★おどろくことに、市職員からは実名で「おまえはバカだ」、「死ね」メールまで部署名・氏名入りで送られてきたという。公務員であれば、たとえ態度が悪くても懲戒免職などされないことを知っているからだ。

昔の長野県の田中康夫知事名刺折り曲げ事件を思い出させる公務員の暴挙である。

★定期を1か月定期から半年定期にしたら職員から規則違反と言われた。いままで差額をネコババしていたので、既得権と思っている職員がいたのだ。なんのことはない、ほかの自治体も同じで、横浜市が先陣を切って半年定期化したのだと。


こんな具合に、信じられない地方政治の実態が語られている。簡単に読める面白い読み物である。


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2012年05月14日

グローバル資本主義を卒業した僕の選択と結論 元外資系トレーダーがお受験産業に転身

グローバル資本主義を卒業した僕の選択と結論グローバル資本主義を卒業した僕の選択と結論
著者:石井至
日経BP社(2012-02-23)
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東大医学部(理掘砲鯊感函0綣圓砲覆蕕困法外資系トレーダーの道を歩み、バンカーズトラスト、USBを経てインド・スエズ銀行東京支店でマージング・ディレクターとなった後、32歳で退職して金融コンサルタントの石井兄弟社を設立。現在は慶應幼稚舎などのお受験指導のアンテナ・プリスクールを経営している石井至さんの本。会社の読書家の友人から紹介されて読んでみた。

石井さんは幼稚舎について何冊も本を書いている。

慶應幼稚舎 (幻冬舎新書)慶應幼稚舎 (幻冬舎新書)
著者:石井 至
幻冬舎(2010-05-27)
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慶應幼稚舎入試解剖学(改訂版)慶應幼稚舎入試解剖学(改訂版)
著者:石井至
石井兄弟社(2012-03-30)
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32歳で一生分稼ぐ

本の帯に「32歳で一生分稼いだ頭脳サバイバル仕事術」という宣伝文句が書いてある。石井さんは医者になるのをやめて最初に就職したバンカーズ・トラストで、初任給が650万円だった。それが2年目には5,000万円を超えていたという。

その後もたぶん年収1億円から数億円稼いでいたのだと思う。だから32歳で一生分稼いだという本の帯になるのだ。

石井さんは医学部出身なので、経済や金融のことはまったく知識がなかったが、いわば逆療法で、予備校の経済学の講師になり、人に教えて自分でも覚えるというやり方で経済学を学んだという。


こいつはバカではない

バンカーズ・トラストに入社したら、入社面接の時に会った人は日本人も外人も別の会社からグループで引き抜かれて、そっくりそのまま消えていたという。英語もあまりできず、採用した人もいなくなったので、ほとんど無視されていたところ、英人トレーダーが偏微分方程式に困っているのを助けたら、こいつはバカではないということで、いちやく頼りにされるようになった。

それからはどんどん仕事が来るようになり、3年目には東京のデリバティブ市場を牛耳っていたという。


お受験産業に参入

それから外資系を2社渡り歩き、32歳で石井兄弟社をつくって金融コンサルタントとして独立した。そして長男の「お受験」をきっかけに、小学校受験のアンテナ・プリスクールを設立した。

筆者は「お受験」には全く興味がないが、もし興味あるなら、上記の「慶応幼稚舎」が参考になるかもしれない。

この本では石井さんが雑談風に自分の高校受験、大学受験、外資での仕事、そして「お受験」業界の後進性などについて書いている。

いくつか参考になった点を紹介しておく。

★アメリカの私立大学では究極の裏口入学のようなものがあり、アジアのエリートファミリーの子女を最低100万ドルの寄付金を条件にハーバード大学に入学させている。多額の寄付をもらえるし、アジアの有力一族がハーバードの卒業生となるのだから一石二鳥だという。

★(ハーバードの理事の話)ハーバードには頭が良くて人柄もよい学生を育てるノウハウはない。全米の優秀な高校から成績優秀でリーダーシップのある子どもばかりを集めているから、そういう学生がいるのだ。そんな優秀な高校とはフィリップス・アカデミーとかセント・ポールとかの、ボーディングスクールだという。

ウィキペディアでも紹介されている通り、同志社の創立者新島襄はフィリップス・アカデミーの卒業生だ。1864年に函館から密航してアメリカにわたり、その船のオーナーだったハーディー氏の援助でフィリップス・アカデミーに入学したという。

今度紹介する海老原嗣生さんの「就職に強い大学・学部」にも採用側の評価ポイントが書いてある。このハーバードの理事が語っているところは、まさに採用にも言えることだ。つまりリーダーシップは育てるものではなく、「持っている」人を採用するものなのだ。

偏差値・知名度ではわからない 就職に強い大学・学部 (朝日新書)偏差値・知名度ではわからない 就職に強い大学・学部 (朝日新書)
著者:海老原 嗣生
朝日新聞出版(2012-03-13)
販売元:Amazon.co.jp
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★ヒースロー方式
ロンドンのヒースロー空港には「暴力はもちろん、係員に暴言をはくと逮捕します」という表示がいたるところに貼ってあるという。

石井さんは、これを「ヒースロー方式」として仕事に取り入れ、アンテナ・プレスクールでモンスター・ペアレントを防止するため、「スタッフがミスをしても、やさしく接することを約束してもらう」ことにしたという。

★新聞の本の広告の最大手は電通でも博報堂でもなく、「とうこう・あい」という会社だという。

石井さんが「出羽桜」で日本酒に目覚めたという話は以前紹介した通りだ。それまでワインかシャンパンしか飲まなかったのが、「出羽桜」で日本酒に目覚めたという。

山形県の出羽桜酒造の日本酒純米酒 一耕 1800ml【楽ギフ_包装】【楽ギフ_のし宛書】
山形県の出羽桜酒造の日本酒純米酒 一耕 1800ml【楽ギフ_包装】【楽ギフ_のし宛書】


ワイン党から日本酒に目覚めたという意味で、筆者も全く同じ体験をした。東日本大震災以来日本酒を飲んでいるので、いわゆるカラーバス効果で、日本酒のことが書いてあると、気になる。


話題が豊富で、簡単に読めて楽しい本である。


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