2012年11月12日

山中伸弥先生に、人生とiPS細胞について聞いてみた ノーベル賞受賞直後の自伝

山中伸弥先生に、人生とiPS細胞について聞いてみた山中伸弥先生に、人生とiPS細胞について聞いてみた
著者:山中 伸弥
講談社(2012-10-11)
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山中教授のノーベル賞受賞決定直後に出版された本。本の帯には「唯一の自伝」となっている。出版社は実にタイミングの良い出版を考えるものだ。この本は現在売り上げランキングの50位前後にある。

出版とほぼ同じタイミングで図書館で予約して、さっそく読んでみた。

このブログでは、山中教授とノーベル物理学賞受賞者の益川教授の対談の「大発見の思考法」のあらすじを紹介している。「大発見の思考法」は、あらすじのタイトルに記したように”ノーベル賞受賞者の知性のジャムセッション”そのもので、大変面白かったが、この本も自伝ならではの発見がある。

「大発見の思考法」のあらすじでは、他に2冊の本も読んで、iPS細胞がどういうものなのかもふくめて詳しくあらすじを紹介しているので、参照して欲しい。

「大発見」の思考法 (文春新書)「大発見」の思考法 (文春新書)
著者:山中 伸弥
文藝春秋(2011-01-19)
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この本は「大発見の思考法」では触れていないiPS細胞研究上の様々な試み、決して順調ではなかった山中教授のいままでの研究生活、それと山中教授と一緒に研究してきた仲間などについて山中教授自身が書いている。

たぶん山中教授の話をライターがまとめたのだと思うが、英語の会話すら、こんな感じで大阪弁訳になっている。

「シンヤ、シンヤ」

「どないしたん?」

「あんたのマウスがいっぱい妊娠してんねん」

「そりゃ、妊娠くらいするやろ」

「いや、妊娠してんのはオスのマウスやねん」

これはマウスにコレステロールを下げる遺伝子の働きを強める操作をしたところ、その遺伝子ががん遺伝子で、マウスが肝臓がんになって肝臓が膨れ上がってしまったのだ。

第2部はフリーライターとのインタビューで、第1部が140ページ、第2部が50ページという構成だ。

いくつか印象に残った話を紹介しておく。

山中教授の生い立ちや、「人生塞翁が馬」というモットーを持つに至った、決して順調でない研究生活については「大発見の思考法」のあらすじを参照してほしい。


ノックアウトマウスに魅了(ノックアウト)される

山中さんはのノックアウトマウスの精度の高さに魅了されたという。

ノックアウトマウスは、25億の塩基対(2本のDNA結合)のうち、わずか1個の遺伝子だけつぶす技術だ。

文字数にたとえると、この本の1ページ当たりの文字数が600個なので、25億個だと416万ページ、つまり200ページの本が2万冊以上となる。それだけの本の中から、たった一か所を探し出して黒く塗りつぶしたのがノックアウトマウスなのだ。

iPS細胞発見も、ノックアウトマウスをつくった技術員の一阪さんと、後述の徳澤さんの貢献が大きい。


VWとプレゼン力

山中教授がしばしば口にするVWとは、フォルクス・ワーゲンではなく、山中教授の恩師のUCSFグラッドストーン研究所のロバート・メーリー所長の言葉だ。Vision & Work Hardだという。メーリー所長は「VWさえ実行すれば、君たちは必ず成功する。」と言っていたという。

VWと並んで、山中教授が強調するのは、プレゼン技術だ。アメリカ留学で身に着けたプレゼン力が、その後何度も山中教授を救った。

奈良先端大学で、上に教授のいない研究室主宰者としてはじめて独立したラボを持てることになったときも、VWにならって、ES細胞ができれば、どれだけ素晴らしいことができるかというビジョンをプレゼンに織り込んで、3人の大学院生を獲得したという。

それが現在も山中教授のもとで働く高橋和利講師、4つの遺伝子のうち一つのKlf4を見つけた徳澤佳美さんら3人だった。

高橋さんは、24個にまで絞った遺伝子から初期化に必要な遺伝子4個を特定するのに、大変功績があった。山中さんは、高橋さんのとりあえず24個いっぺんに入れて、一つ一つ減らしていくという発想に、「ほんまはこいつ賢いんちゃうか?」と思ったという。高橋さんはこの考え方をもとに、1年かけてきちんと実験し、4個の遺伝子を見つけた。


京都の作り方

この本ではiPS細胞の働きを説明するのに、「京都の作り方」という本があったと仮定して説明している。作業員に指示するときに、「京都の作り方」の一部だけコピーして渡すのか、全部コピーして、必要な場所にしおりを入れて渡すのかという問題だ。

どちらが正しいか論争があったが、山中教授が生まれた1962年にイギリスのジョン・ガードン教授がカエルの腸の細胞から、オタマジャクシを作ることに成功して、論争に決着をつけた。成体のカエルまでは成長できなかったが、ちゃんとオタマジャクシは作ることができたのだ。

これが山中教授が、「ガードン教授の研究がなければ、iPS細胞研究はなかった。ガードン教授と一緒にノーベル賞を受賞できることがなによりもうれしい」と語っている理由だ。


山中教授がPADを克服するのに役立った本

山中教授が、アメリカ留学から帰って来て、あまりの研究環境の違いに、うつのようになり、ベッドから起き上がれなくなったという話は、「大発見の発想法」で説明していたが、その状態を山中教授はPAD(Post America Depression)と呼んでいる。

そのPADを克服するのに役立った本として次の本を紹介している。

仕事は楽しいかね?仕事は楽しいかね?
著者:デイル ドーテン
きこ書房(2001-12)
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今度読んでみる。


CiRA(京都大学iPS細胞研究所)はオープンラボ

山中教授が所長を務めるCiRA(サイラ:京都大学iPS細胞研究所)は米国グラッドストーン研究所をモデルとして、オープンラボ形式になっている。

実験スペースは共用で、研究室に仕切りはなく、教授室もラボとは別に横に並んでいる。高性能の装置をみんなで使うという考え方だ。


最後にiPS細胞の一日も早い医療応用のための、iPS細胞研究基金への支援を呼びかけて、この本は終わっている。山中教授自身も大阪や京都のマラソン大会に出場し、基金への支援を呼びかけているという。

ノーベル賞受賞後の記者会見の「私は無名の研究者だった。国に支えていただかなければ、受賞はできなかった。日本という国が受賞した。」という発言にも感心した。「大発見の思考法」のあらすじでも書いたように、山中教授の謙虚さには敬服する。



この本でも一緒に研究にあたった高橋講師や徳澤さん、ノックアウトマウスをつくった技術員の一阪さんなどの同僚の名前と具体的な貢献を紹介して感謝しており、ノーベル賞を共同受賞したガードン博士はじめ先達や、競争相手のウィスコンシン大学チームなどの業績も紹介している。

なんて気配りができる研究者なんだ!

200ページ余りの本で、簡単に読める。「大発見の思考法」と一緒に読むことをおすすめする。


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2012年10月01日

人生の途上にて 孤高のメスやどくとるマンボウをインスパイアした本

人生の途上にて
著者:A.J.クローニン
三笠書房(1983-01)
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このブログで紹介した「孤高のメス」で、主人公の当麻鉄彦が高校時代に読んで、医者を目指す動機となったとされている本。

孤高のメス―外科医当麻鉄彦〈第1巻〉 (幻冬舎文庫)孤高のメス―外科医当麻鉄彦〈第1巻〉 (幻冬舎文庫)
著者:大鐘 稔彦
幻冬舎(2007-02)
販売元:Amazon.co.jp
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クローニンはスコットランド出身で、もともとグラスゴー大学を主席で卒業した医者だ。スコットランドの僻地の代診としてスタートして、船医や炭鉱の勤務医を経て、英国医学会の会員となる。ロンドンで開業して、医者として成功した忙しい毎日を過ごしていた。

ところが、子供の時からの夢を実現させるために30代半ばで医者を辞め、家族とともにスコットランドの田舎に引き移って、半年かけて処女作の長編小説、「帽子屋の城」を書き上げる。

クローニン全集〈第2〉帽子屋の城 (1965年)
三笠書房(1965)
販売元:Amazon.co.jp
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タイプアップされた原稿を見て失望し、一度は暖炉の灰に投げ込んだクローニンだったが、思い直して原稿を拾い集め、さらに数か月かけて完成し、出版社に郵便で投稿する。

その処女作が奇跡的に出版社の社長の目に留まり、出版されることになった。そして出版されると世界21か国語に翻訳され、全部で3百万部を超える大ヒットとなり、クローニンは医者から正式に足を洗い、小説家として成功する。「帽子屋の城」は映画化もされている。

クローニンの代表作の「城塞」、英文名"The Citadel"も1938年に映画化され、アカデミー賞にもノミネートされている。



この本は、クローニンの貧乏学生時代からの自伝的小説で、船医になったり、僻地で数々の患者を治した経験や、ロンドンでの成功、医者をやめて小説書きに専念した生活、思いがけない処女作の成功、第二次世界大戦後のヨーロッパへの旅などを描いている。

英語の原文は"Adventures in two worlds"という名前で、医者と作家という二つの世界の経験を書いている。

Adventures in Two WorldsAdventures in Two Worlds
著者:A. J. Cronin
Kessinger Publishing(2010-09-10)
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この本は「孤高のメス」の当麻鉄彦(ということは著者の大鐘稔彦さん)をインスパイアしたとともに、クローニンが船医として過ごした経験などは、たぶん北杜夫さんの「どくとるマンボウ航海記」などのシリーズもインスパイアしているのではないかと思う。

どくとるマンボウ航海記 (新潮文庫)どくとるマンボウ航海記 (新潮文庫)
著者:北 杜夫
新潮社(1965-02)
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翻訳は「風と共に去りぬ」などを手掛けた翻訳家で、三笠書房創立者の竹内道之助さんで、翻訳の出来も非常に良い。竹内道之助さんはクローニンにほれ込み、「クローン全集」を三笠書房で出版しているほどだ。

風と共に去りぬ (1) (新潮文庫)風と共に去りぬ (1) (新潮文庫)
著者:マーガレット・ミッチェル
新潮社(1977-06)
販売元:Amazon.co.jp
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当麻鉄彦ならずとも、引き込まれてしまうこと請け合いだ。

「どくとるマンボウ」シリーズのように楽しめるノンフィクション小説である。


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2012年07月04日

刑務所なう。 ホリエモンの獄中記半年分

刑務所なう。刑務所なう。
著者:堀江 貴文
文藝春秋(2012-03-15)
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ホリエモンの獄中日記。

このブログの初期ではホリエモンの本を何冊か紹介したが、その後ライブドア事件と有罪判決が起こり、ホリエモンは忘れ去られつつあった。このブログでもホリエモンカテゴリーは整理しようかと思っていたところだ。

2011年4月にホリエモンの実刑(懲役2年6ヶ月)が最高裁で確定し、2011年6月20日に東京拘置所に収監され、6月27日に長野刑務所(A級犯:初犯から懲役8年までの囚人)に移送された。

この本では6月20日から12月31日までの毎日3食の食事献立と、毎日の生活、新聞、ラジオ、映画、本などの感想を書いている。

ホリエモンは、獄中からもブログ(六本木で働いていた元社長のブログ)やツイッターメルマガを書いており、この本はそれらの投稿や獄中記を集めたものだ。

同じ東京拘置所経験者の佐藤優さんは「週刊東洋経済」の「知の技法・出世の作法」という連載で、ホリエモンのことを”自らの未来の夢を描き、それを実現するために実力をつけて、努力によって夢を実現するタイプの人=「工作人」の典型”と呼んでいるが、その意味ではこの獄中からの情報発信もユニークだ。

ホリエモンの住んでいる部屋の様子は、この本の表紙の反対側に載っている。

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出典:本書表表紙見返し

上の絵にはテレビがあるが、実際には長野刑務所に移ってから、しばらくしてテレビが入ったのだという。東京拘置所の畳はプラスティックの人造畳だが、長野刑務所の畳は天然畳で、気分が全然違うという。

普通は雑居房より、独居房の方が良いのではないかと思うが、ホリエモンは最初のうちは早く他人と話せる雑居房に移りたいと、一時はうつ状態のようになったという。

しかしこの本の最後の12月末になったら、最初に言われた「共同室より単独室の方が良いですよ。いずれ慣れますから。」という意味がわかってきたという。

佐藤優さんの「国家の罠」には、独居房にいてうつ状態になったという話はなかった。

国家の罠―外務省のラスプーチンと呼ばれて (新潮文庫)国家の罠―外務省のラスプーチンと呼ばれて (新潮文庫)
著者:佐藤 優
新潮社(2007-10)
販売元:Amazon.co.jp
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ホリエモンの精神状態がよくわからないところだ。

この本のところどころにホリエモンの刑務所生活を示すこんなマンガが載っている。

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出典:本書222〜223ページ

長野刑務所は全国でもトップ3に入るメシのうまい刑務所だそうだ。ただ独居房には暖房がないので、住環境としては北海道の刑務所の方が、冬は暖房があるので、快適だろうということだ。

毎日400円程度で、よくこれだけ工夫して献立を作っていると思わせる苦心の献立が毎日並び、元日などは記念食のようなものもでる。

このあたりは東京拘置所での食生活をレポートしていた佐藤優さんの本に通じるところがある。

結局ほぼ半年で体重は95.7KGから72.4KGに23キロも減り、だいぶスマートになったはずだ。

シャバでは、贅沢な暮らしをしてたぶん毎日飲み歩いていたホリエモンなので、禁酒と、いわばプロテインダイエット(おかずは食べるが麦飯の量は減らす)、適度な運動を続けると、これだけ体重が落ちるという実験レポートのようだ。

食べたいと思っていた念願のカップ麺(カップそば)が12月31日に年越しそばとして出てきて、これを食べたら胃が小さくなっていて全部食べられなかった話がでてくる。麦飯の量を減らして胃を小さくしたのが、ダイエット成功の最大の要因だと思う。

全部で500ページほどある本の中身については、詳しく紹介しない。

ところどころ出てくる、AKBのプロデューサーの秋元康さんが大王製紙の井川会長と同じくらいカジノにハマっているとか、鈴木亜美がフライデーされた相手も知っているとか、ネタバラシのたぐいの話や、宇宙開発が半分くらいの「時事ネタ評論」を除いては、あまり印象に残る話はない。

さすがに刑務所に収監されていれば、当然のことながら情報量は激減する。やむを得ないところだろう。

本屋でパラパラ立ち読みするか、図書館で借りて読むことをおすすめする。


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2012年05月16日

政治家の殺し方 前横浜市長・中田宏さんの暴露本 ノンフィクション小説のようだ

政治家の殺し方政治家の殺し方
著者:中田 宏
幻冬舎(2011-10-26)
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前横浜市長・中田宏さんの暴露本。この本を読むと横浜市に巣くっている様々な闇・おもて勢力の実態がわかる。

このブログを書き始める前なので、ブログにあらすじは紹介していないが、中田さんの本は何冊か読んだことがある。特に「偏差値38からの挑戦」というサブタイトルがついている「なせば成る」は面白かった。

なせば成る (講談社プラスアルファ文庫)なせば成る (講談社プラスアルファ文庫)
著者:中田 宏
講談社(2005-11-25)
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突然の市長辞任の理由

中田さんが横浜市長選挙に出馬しないと表明したので、このブログでも著書を何冊か紹介している元ダイエー会長の林文子さんを民主党がかついで、林さんが横浜市長になったのは、ちょうど前回の衆議院選挙が行われた2009年夏だった。

筆者は中田さんが衆議院選に出馬するので、市長を辞めたものとばかり思っていたが、実は市議会の有力者達とつながる闇勢力から「ハレンチ市長」として、ありもしないでっちあげスキャンダルで攻撃されていたという。

そして自民・公明・民主がオール与党として談合している市議会勢力に、次の市長選挙を牛耳られないように、衆議院総選挙と横浜市長選挙を同一日にするためにあのタイミングで市長を辞めたのだという。


中田市長追い落とし作戦

2007年11月から7週間にわたって「週刊現代」の見出しに「私の中に指入れ合コン」とか、「口封じ恫喝肉声テープ」、「公金横領疑惑」などと事実無根の記事を書かれ、挙句の果てには「中田の愛人」と称する女性までテレビに登場するというスキャンダルを起こされていたという。

中田さんが市長をやめて後、週刊現代を発行する講談社を名誉棄損で訴え、2010年10月には全面勝訴を勝ち取っている。また”フィアンセ”と称する女性から慰謝料を求められた裁判でも、付き合った事実すらないとして全面勝訴した。

スキャンダルの疑いは晴れたが、政治には闇の世界があることを知ってほしいためにこの本を書いたのだという。


ノンフィクション小説のように面白い

中田さんは横浜市出身で、神奈川県立霧が丘高等学校を卒業し、2浪して青山学院大学に入り、松下政経塾を経て28歳で衆議院議員となり、2002年に37歳で横浜市長に当選する。当時は史上最年少の政令指定都市の市長だった。

筆者は神奈川県藤沢市出身だ。しかし友人から横浜スタジアムをめぐる利権について聞いたことはあったが、同じ県にある横浜市の政界がこれだけ腐敗しており、公務員も既得権を守るのに汲々としているとはこの本を読むまで全く知らなかった。

この本は中田さんの横浜市の闇勢力との抗争ドキュメンタリーで、ノンフィクション小説のように面白い。あまり詳しく紹介すると、読んだときに興ざめなので、簡単に紹介しておく。

★中田さん追い落としのねつ造スキャンダルは2007年11月の「週刊現代」から始まった。根も葉もない上記のような内容だ。

★2008年12月には中田の愛人と名乗る元ホステスの女性が全国ニュースに登場、3000万円の慰謝料を請求して裁判を起こした。しかし、幸いなことに、家族のきずなは保てたという。この女性は裁判には一度も出廷しなかった。金をもらって訴えたに過ぎないのだ。

★中田さんを恨んでいたのは、まずは指名競争入札で仲間同士で仕事を融通しあっていた建設業界だ。一般競争入札にしたので、競争がきびしくなったからだ。

★公務員組合も恨んでいた。公務員の定数を1000人当たり8人から5人まで減らし、各種手当も減らした。退職時昇給という最後の一日だけ昇給して、それが退職金のベースを高くするというお手盛りも辞めさせた。

★暴力団もからむ風俗業界も恨んでいた。京浜急行の日ノ出町駅から黄金町駅の間に違法売春風俗店が250店もあったのを、県知事、神奈川県警本部長、警察庁長官の協力を得て撲滅した。

★さらにAという市会議員が中田さんの政敵だったという。横浜市に住んでいる人は、Aというのが誰なのかわかるのだと思う。

★選挙の開票を翌日開票とすると1億3千万円もコストが下がるので、それを実施したら、朝刊しかない地元新聞は大反対したという。地元新聞も自社の利益優先で、県のコスト削減など二の次だったのだ。

★横浜市の公務員の待遇うは信じられないほど優遇されている。
希望しなければ10年間異動なしで、しかも毎年昇給するという「渡り」を辞めさせ、3年で強制配転としたので、公務員組合から敵視された。そのほかにも一律だった管理職のボーナスを上下100万円の差をつけたとか、鎌倉市などの隣の市に行くだけでもらえる出張手当も辞めさせた。

★おどろくことに、市職員からは実名で「おまえはバカだ」、「死ね」メールまで部署名・氏名入りで送られてきたという。公務員であれば、たとえ態度が悪くても懲戒免職などされないことを知っているからだ。

昔の長野県の田中康夫知事名刺折り曲げ事件を思い出させる公務員の暴挙である。

★定期を1か月定期から半年定期にしたら職員から規則違反と言われた。いままで差額をネコババしていたので、既得権と思っている職員がいたのだ。なんのことはない、ほかの自治体も同じで、横浜市が先陣を切って半年定期化したのだと。


こんな具合に、信じられない地方政治の実態が語られている。簡単に読める面白い読み物である。


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2012年05月14日

グローバル資本主義を卒業した僕の選択と結論 元外資系トレーダーがお受験産業に転身

グローバル資本主義を卒業した僕の選択と結論グローバル資本主義を卒業した僕の選択と結論
著者:石井至
日経BP社(2012-02-23)
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東大医学部(理掘砲鯊感函0綣圓砲覆蕕困法外資系トレーダーの道を歩み、バンカーズトラスト、USBを経てインド・スエズ銀行東京支店でマージング・ディレクターとなった後、32歳で退職して金融コンサルタントの石井兄弟社を設立。現在は慶應幼稚舎などのお受験指導のアンテナ・プリスクールを経営している石井至さんの本。会社の読書家の友人から紹介されて読んでみた。

石井さんは幼稚舎について何冊も本を書いている。

慶應幼稚舎 (幻冬舎新書)慶應幼稚舎 (幻冬舎新書)
著者:石井 至
幻冬舎(2010-05-27)
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慶應幼稚舎入試解剖学(改訂版)慶應幼稚舎入試解剖学(改訂版)
著者:石井至
石井兄弟社(2012-03-30)
販売元:Amazon.co.jp
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32歳で一生分稼ぐ

本の帯に「32歳で一生分稼いだ頭脳サバイバル仕事術」という宣伝文句が書いてある。石井さんは医者になるのをやめて最初に就職したバンカーズ・トラストで、初任給が650万円だった。それが2年目には5,000万円を超えていたという。

その後もたぶん年収1億円から数億円稼いでいたのだと思う。だから32歳で一生分稼いだという本の帯になるのだ。

石井さんは医学部出身なので、経済や金融のことはまったく知識がなかったが、いわば逆療法で、予備校の経済学の講師になり、人に教えて自分でも覚えるというやり方で経済学を学んだという。


こいつはバカではない

バンカーズ・トラストに入社したら、入社面接の時に会った人は日本人も外人も別の会社からグループで引き抜かれて、そっくりそのまま消えていたという。英語もあまりできず、採用した人もいなくなったので、ほとんど無視されていたところ、英人トレーダーが偏微分方程式に困っているのを助けたら、こいつはバカではないということで、いちやく頼りにされるようになった。

それからはどんどん仕事が来るようになり、3年目には東京のデリバティブ市場を牛耳っていたという。


お受験産業に参入

それから外資系を2社渡り歩き、32歳で石井兄弟社をつくって金融コンサルタントとして独立した。そして長男の「お受験」をきっかけに、小学校受験のアンテナ・プリスクールを設立した。

筆者は「お受験」には全く興味がないが、もし興味あるなら、上記の「慶応幼稚舎」が参考になるかもしれない。

この本では石井さんが雑談風に自分の高校受験、大学受験、外資での仕事、そして「お受験」業界の後進性などについて書いている。

いくつか参考になった点を紹介しておく。

★アメリカの私立大学では究極の裏口入学のようなものがあり、アジアのエリートファミリーの子女を最低100万ドルの寄付金を条件にハーバード大学に入学させている。多額の寄付をもらえるし、アジアの有力一族がハーバードの卒業生となるのだから一石二鳥だという。

★(ハーバードの理事の話)ハーバードには頭が良くて人柄もよい学生を育てるノウハウはない。全米の優秀な高校から成績優秀でリーダーシップのある子どもばかりを集めているから、そういう学生がいるのだ。そんな優秀な高校とはフィリップス・アカデミーとかセント・ポールとかの、ボーディングスクールだという。

ウィキペディアでも紹介されている通り、同志社の創立者新島襄はフィリップス・アカデミーの卒業生だ。1864年に函館から密航してアメリカにわたり、その船のオーナーだったハーディー氏の援助でフィリップス・アカデミーに入学したという。

今度紹介する海老原嗣生さんの「就職に強い大学・学部」にも採用側の評価ポイントが書いてある。このハーバードの理事が語っているところは、まさに採用にも言えることだ。つまりリーダーシップは育てるものではなく、「持っている」人を採用するものなのだ。

偏差値・知名度ではわからない 就職に強い大学・学部 (朝日新書)偏差値・知名度ではわからない 就職に強い大学・学部 (朝日新書)
著者:海老原 嗣生
朝日新聞出版(2012-03-13)
販売元:Amazon.co.jp
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★ヒースロー方式
ロンドンのヒースロー空港には「暴力はもちろん、係員に暴言をはくと逮捕します」という表示がいたるところに貼ってあるという。

石井さんは、これを「ヒースロー方式」として仕事に取り入れ、アンテナ・プレスクールでモンスター・ペアレントを防止するため、「スタッフがミスをしても、やさしく接することを約束してもらう」ことにしたという。

★新聞の本の広告の最大手は電通でも博報堂でもなく、「とうこう・あい」という会社だという。

石井さんが「出羽桜」で日本酒に目覚めたという話は以前紹介した通りだ。それまでワインかシャンパンしか飲まなかったのが、「出羽桜」で日本酒に目覚めたという。

山形県の出羽桜酒造の日本酒純米酒 一耕 1800ml【楽ギフ_包装】【楽ギフ_のし宛書】
山形県の出羽桜酒造の日本酒純米酒 一耕 1800ml【楽ギフ_包装】【楽ギフ_のし宛書】


ワイン党から日本酒に目覚めたという意味で、筆者も全く同じ体験をした。東日本大震災以来日本酒を飲んでいるので、いわゆるカラーバス効果で、日本酒のことが書いてあると、気になる。


話題が豊富で、簡単に読めて楽しい本である。


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2012年04月18日

次回を目指せ リック! (共和党大統領候補者リック・サントラム)

2012年4月18日再掲:

リック・サントラムが大統領候補戦から撤退した。これで米国共和党の大統領候補はロムニー前マサチューセッツ州知事に一本化される見込みだ。

リックは旗色がわるかったことと、先天的に染色体異常を持つ3歳の娘が入院したことから、24日の出身地のペンシルベニア州の予備選挙の前に撤退宣言をしたようだ。

ちょっと残念だが、熱心なカトリックのリックは妊娠中絶に反対している点などから、今回の候補者選びで米国の多くの選挙民の支持を得ることは難しかったかもしれない。

リックはまだ53歳だし、また次の機会もあるだろう。引き続き頑張れ、リック!



2012年3月29日初掲:

今年は米国の大統領選挙の年だ。筆者は米国に合計9年間駐在していたので、いまだに大統領選挙の興奮を覚えている。

特に印象深かったのは、2000年のアル・ゴア対ジョージ・W.ブッシュのフロリダ州での再集計のゴタゴタだ。

いったんはアル・ゴアは敗北宣言をしてジョージ・W.ブッシュに祝福の電話を入れたが、フロリダ州の結果があまりにも僅差だったので、再集計を申し入れ、結局3−4週間かかって、無効票も入れて再集計し、ブッシュの勝利が確定したのだ。

なにか気が抜けた3週間だったことを思い出す。

ところで2012年の共和党の大統領選挙は、前マサチューセッツ州知事のロムニー候補とペンシルベニア州選出の前上院議員のリック・サントラム、長年共和党の顔だった前上院院内総務ニュート・ギングリッジ他で争われている。

当初はロムニー候補が優勢だったが、リック・サントラム候補が盛り返している。

RickSantorum





筆者はリック・サントラム候補と知人のパーティで一緒になったことがある。筆者の知人・ソニーのフレッド・石井さんが、自宅でリック・サントラムを招いたパーティを開き、それに当時ピッツバーグ日本語補習授業校の運営委員長だった筆者も招待されたのだ。

ちなみにフレッド・石井さんは、当時で在米約20年。サンディエゴのソニーのテレビ工場に勤めたあと、ピッツバーグのテレビ工場のトップとして勤務されており、ピッツバーグ日本語補習授業校の運営では大変お世話になった。

これがその時のリックと、ソニーのテレビ工場ナンバー2との3ショットの写真だ。

RickSantrum






2000年ころの写真だ。筆者も若いが、リックも若い。

たとえ共和党の候補者となっても、現職のオバマと戦って勝てるかどうかわからないが、パーティで会ったこともあり、心情的にはリック・サントラムを大統領候補として応援したい。

このブログでも紹介した通り、オバマは名家の出身でなく、社会派弁護士としてシカゴ郊外で活動を始め、民主党の党大会で注目されて、のし上がってきた。

マイ・ドリーム―バラク・オバマ自伝マイ・ドリーム―バラク・オバマ自伝
著者:バラク・オバマ
ダイヤモンド社(2007-12-14)
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リック・サントラムも同じく名家の出身でなく、ピッツバーグ地区の大学を卒業し、弁護士となり、ピッツバーグ出身のハインツ上院議員(ケチャップのハインツ家出身)のサポーターとなり、共和党のヒエラルキーで出世した。

同じ弁護士出身だが、考え方はかなり異なる。オバマはリベラルなのに対して、リック・サントラムは保守そして、宗教心が厚い。

オバマ対サントラムなら、面白い選挙となると思う。

リックがんばれ!



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2012年03月26日

皇軍兵士とインドネシア独立戦争 残留日本人の生涯

皇軍兵士とインドネシア独立戦争: ある残留日本人の生涯皇軍兵士とインドネシア独立戦争: ある残留日本人の生涯
著者:林 英一
吉川弘文館(2011-12-15)
販売元:Amazon.co.jp
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図書館の新刊書コーナーに置いてあったので読んでみた。

以前このブログでも紹介した通り、筆者の亡父は昭和18年に徴兵され、当時としては珍しく運転免許を持っていたので、輸送部隊のトラック兵としてインドネシアに赴任し終戦を迎えた。

「ビルマ地獄、ジャワ天国」という言葉があるそうだが、亡父はほとんど戦闘を経験しなかったと言っていた。たしかオーストラリア軍?の戦闘機と日本軍の戦闘機の空中戦を目撃し、飛行機が河に落ちるのを見たと言っていた。

当時インドネシアはオランダの植民地だったが、オランダ本国はドイツに占領され、オランダ王室と政府はイギリスに逃れていた。

そんな状況なので、インドネシアにおけるオランダ軍も弱体化しており、太平洋戦争緒戦の落下傘部隊によるパレンバン占領以外は、日本軍とほとんど戦闘はしていない。



当時のオランダ軍と、イギリス、アメリカ、オーストラリアの援軍は現地人兵士も入れて10万人の兵力で、インドネシアに侵攻した今村均中将の第16軍の5万5千人に比べて、数的優位にはあったが、航空兵力に勝る日本軍がわずか10日間でジャワ島を占領した。

連合軍がインドネシアを戦略目標としなかった結果、インドネシアの日本軍は、日本からの輸送船がことごとく沈められて、増援物資は得られなかったものの、戦闘がなかったおかげで兵力を保ったまま終戦を迎えた。

亡父は戦争が終わってからも武装解除せず、むしろインドネシア人を怖がっているオランダ軍の警備をしていたと言っていた。

この本で取り上げられた残留日本兵の藤山秀雄さんも同じように戦争が終わって、オランダ軍の補助憲兵として1945年9月19日のジャカルタのムルデカ広場で行われたスカルノ大統領の独立集会を警備していたという。

藤山さんはYouTubeで公開されているニュース特集で登場するので、それをまずは紹介しておく。



この独立集会で、スカルノの独立宣言をインドネシアの民衆が熱狂的に支持し、独立を武力弾圧しようとするオランダとの間で4年間にわたって独立戦争が繰り広げられ、藤山さん他の約800名(数千人という説もある)の元日本兵が独立戦争に加わり、その半数が戦死したという。

藤山さんの場合は、インドネシアに来る前にビルマで英軍と戦ったことから、戦犯として訴追されるのではないかという危惧があった。日本は全滅したという流言から、日本に帰ってもしょうがないという気にもなり、部隊にあったチェコ製の軽機関銃と弾薬を持って、もう一人の同僚と脱走を決意した。

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出典:以下、別記ない限りWikipedia

「日本兵は強い。日本兵がいれば戦闘に勝てる」という神話があったので、脱走日本兵は歓迎されたが、インドネシア独立軍はろくな武器もないので、アメリカ軍のシャーマン戦車などの兵器の補給を受けているオランダ軍とはまともな戦いにならなかった。

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藤山さんと一緒にインドネシア軍に参加した14名の元日本兵のうち、12名が戦死した。弾薬がないので、オランダ兵から盗んで戦う毎日だったという。藤山さんはビルマ戦線で負傷して、もともと足が不自由だったが、インドネシア独立戦争でも負傷し、びっこをひいて歩くようになった。

この本ではインドネシア独立戦争でのオランダ軍との戦闘の様子が藤山さんの回顧談として紹介されている。

4年間の独立戦争の後は、インドネシア人と結婚し、爆薬を使っての漁や、解体船事業など、様々な職業や事業を生きるために経験し、日本商社の現地雇員として働いたこともあった。

晩年はジャカルタの北のタンジュン・プリオクで自動車修理工場を経営し、孫に囲まれ、元日本兵の実業家として日本でも紹介されるようになった。

藤山さんたち元日本兵の多くは独立戦争の英雄として、亡くなった後はカリバタ英雄墓地に埋葬されている。

インドネシアを訪れた日本の首相は、2002年の小泉純一郎首相以来カリバタ英雄墓地に参拝し、日本とインドネシア友好の礎となった残留元日本兵の功績をたたえている。

藤山さんは残留日本兵としてインドネシア軍に参加して、何度も死にそうな思いをし、また独立戦争が終わっても、特に特技や技量がないので、奥さんと一緒に食うや食わずの生活を強いられていた時期もあったことが紹介されている。

前述のように残留日本兵の半分以上は戦死している。

亡父と藤山さんは、年は2歳しか違わない。

亡父がインドネシアに残るという決断をしていたら、どうなったのだろうと、ふと思う(もちろんそうなると筆者は生まれていないわけだが)。

YouTubeに短編映画のような元日本兵のインドネシア独立戦争への貢献を描いた作品が載っているので、最後にこれを紹介しておく。



この短編映画はいわば表の部分しか紹介していない。独立戦争後、いわば無国籍人としてその日を生きるのも大変だった元日本兵の裏の生活を、藤山さんという一人の残留日本兵を通して描いたのが、この本である。

興味深い本である。


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2011年12月31日

ザ・ラストバンカー 西川善文回顧録 「前のめり」で戦う銀行トップ

+++今回のあらすじは長いです+++

ザ・ラストバンカー 西川善文回顧録ザ・ラストバンカー 西川善文回顧録
著者:西川 善文
講談社(2011-10-14)
販売元:Amazon.co.jp
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住友銀行(現三井住友銀行)のトップとして君臨し、小泉元首相に推されて2006年に民営化された日本郵政の社長となった西川善文さんの回顧録。

西川さんは悪役とされることが多かった。だから筆者自身も、この本はあまり読む気がしなかったが、会社の知人から面白かったという話を聞いたので読んでみた。たしかに大変面白い、「経団連は無用の長物」などという発言もある。

西川さんも最後に書いているが、この本では大規模プロジェクトへの融資による日本産業への貢献とか、組織の飛躍的拡大をもたらした経営策の実践とか、大手銀行の頭取を務めた人なら必ずあるだろう華やいだ話題が少ない。そういうことがなかったのではなく、それを懐かしむほどのんびりした時代ではなかったのだと西川さんは語る。

アメリカでは政府の要職や有名企業トップを務めた人が、退任後すぐに回顧録を出す例は多い。たとえばGEのジャック・ウェルチの本などは、会社の上司や部下を実名で批判し、自分の功績を際立たせるような書きっぷりだ。

ジャック・ウェルチ わが経営(上) (日経ビジネス人文庫)ジャック・ウェルチ わが経営(上) (日経ビジネス人文庫)
著者:ジャック・ウェルチ
日本経済新聞社(2005-04-29)
販売元:Amazon.co.jp
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一方、西川さんがこの本で批判している上司・仲間は、一時「住友銀行の天皇」と呼ばれた磯田一郎さんだけで、会社再生や郵政合理化の実情を淡々と語っている。


「前のめり」の経営

西川さんは銀行役員時代から、記者会見などでスタッフの用意したメモに沿わないで発言したり、経営に関してトップダウンで決断したという。それを「西川の独断」などと批判する人もいるが、リーダーシップとは「直面する難題から逃げないこと」だと語る。遅滞なくスピード感を持って決断する。トップが逃げないから部下も逃げない。「前のめりで戦う」のだと。

坂本竜馬が死ぬ時も前のめりに死んだ?という話はあるが、「前のめり」という言葉をビジネスで使っている本は記憶にない。一般的にはコンサーバティブな金融機関のトップが「前のめり」で経営していたと語るのは、20社ほどあった都市銀行が3大グループに集約されるという激動の金融再編の時代に経営を任されたからだろう。

思えば、筆者が大学を卒業した1976年には、都市銀行は第一勧業銀行、三菱銀行、富士銀行、住友銀行、三井銀行、協和銀行、東京銀行、太陽神戸銀行、大和銀行、あさひ銀行、埼玉銀行、東海銀行、北海道拓殖銀行などがあり、長期信用銀行としては日本興業銀行、日本長期信用銀行(長銀)、日本不動産銀行などがあった。

これらがすべて消滅するか、現在の3大金融グループに再編された。筆者の友人には銀行に就職した人もいるが、コンタクトもなく、今どうしているのかわからない友人が多い。


西川さんの経歴

西川さんは1938年・奈良県生まれ。戦時中は米軍戦闘機の機銃掃射も経験したという。親類に東大を出て毎日新聞の記者となった人がいて、西川さんも新聞記者になることを夢見て東大受験を目指したが、受験直前に体調を崩し、結局大阪大学法学部に入学した。

新聞記者を目指していたが、友達のさそいで住友銀行の面接を受け、Tシャツ姿で行くと、「新聞記者などやめておきなさい」と言われ、人事部長だった磯田一郎さんの面接を受けた。京大ラグビー部出身の磯田さんは体もがっしりして迫力があり、大学時代はラグビーに明け暮れ、勉強などほとんどしていなかったという。その日のうちに人事担当専務と会い、内定をもらったという。

1961年(昭和36年)に住友銀行に入社し、支店勤務から調査部で粉飾決算などを見抜く経験を積み、後に頭取となる巽さんに引っ張られて審査部に異動した。

当時の日本ではM&Aをビジネスとしていた会社はほとんどなかったが、西川さんはいずれM&Aの時代が来るだろうと予想して、審査部時代にM&Aを研究したという。そして西川さんの最初の功績が安宅産業の破たん処理だ。


安宅産業破たん処理

安宅産業は1904年創業の総合商社で、1975年当時は業界9位だった。新日鐵の5大指定商社の一社で、金属や機械部門は強かったが、エネルギー部門が弱かった。

上位商社に追いつくためにカナダのニューファウンドランド・リファイナリー(NRC)に突っ込み、巨額の融資をしたところで、オイルショックが襲い、中東原油の精製をやっていたNRCは巨額の損失を出し始め、不動産投資失敗も加わって安宅産業の息の根を止めた。

負債総額1兆円の安宅が破たんすると日本企業の国際信用が失わわれ、「日本経済は焦土と化してしまうかもしれない」との懸念から、メインバンクの住友銀行と協和銀行が中心となって、伊藤忠商事が安宅の優良部門を吸収合併し、銀行は債権放棄して破たん処理を実現した。

安宅の合併相手を探す段階では、住友商事にも2度、話を持って行った。しかし、住友商事はつねに慎重でリスクを取ることが少ない企業体質で、すでに住友金属の鉄鋼商権を持っていたこともあり、安宅産業との合併はには引き気味だった。また、当時の住銀の樋口廣太郎常務(元アサヒビール社長)と住友商事の財務担当の屋代副社長が不仲だったという。

それでも伊藤忠と安宅の合併が決まった後、住友商事は誰も引き取らなかった資産を引き取ってくれたという。それが米国ニューヨーク州北部にある鉄鋼メーカーのオーバーン・スチールだ。オーバーンには筆者も行ったことがある。ニューヨーク州の北部の風光明媚なフィンガー・レイク地帯にあり、世界最初の電気イスでの死刑執行で有名?な町だ。


安宅コレクション

この本では、伊藤忠側の交渉責任者だった不毛地帯のモデル・瀬島龍三さんのシンプルでストレートな交渉ぶりや、当時「社賓(しゃひん)」という肩書だった創業者の息子の安宅英一氏が集めた安宅コレクションについても触れている。

不毛地帯 (1) (新潮文庫)不毛地帯 (1) (新潮文庫)
著者:山崎 豊子
新潮社(1983-11)
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帳簿には70億円と記載があったが、売れば500億円以上にもなるという大変なコレクションで、近代日本画家・速水御舟(はやみぎょしゅう)の作品106点と朝鮮(高麗・李朝)と中国(後漢から明朝)の陶磁器850点だった。

コレクションの散逸を防ぐために御舟の作品はすべて山種美術館に買ってもらい、古陶磁器は安宅の破たん処理が終了した段階で、大阪市に寄付して1982年に開館した大阪市立東洋陶磁器美術館を建設して所蔵した。

安宅コレクションについては「美の猟犬」という本が詳しいので、いずれあらすじを紹介する。

美の猟犬―安宅コレクション余聞美の猟犬―安宅コレクション余聞
著者:伊藤 郁太郎
日本経済新聞出版社(2007-10)
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磯田一郎の時代

磯田一郎さんといえば「向こう傷を恐れるな」という言葉が有名だ。1977年に安宅産業の破たん処理が決着がついたタイミングで頭取に昇格、以後15年間、住銀の頭取・会長としてトップに君臨し、「住友銀行の天皇」と呼ばれた。

この本では「磯田一郎の時代」ということで、関東の支店数を一気に伸ばすために店舗数だけは多いが、ボロ店舗ばかりの平和相互銀行の合併や、バブル期に闇勢力と組んで不動産と(磯田さんの長女がからむ)美術品投資にのめりこんだイトマンへの肩入れなどを具体名を挙げて説明している。

日本経済の構造変化で、株式や社債なその直接金融が増え、銀行融資などの間接金融が細るなかで、「磯田一郎の時代」は終わった。磯田一郎さんにとどめを刺したのは西川さんだと自ら語る。

安宅産業、平和相互銀行、イトマンと問題案件を企画部長として処理したので、西川さんには、問題処理に強く、厄介事は西川さんに任せておけという評価が定着したという。


「不良債権と寝た男」

西川さんは、ある新聞に「不良債権と寝た男」と書かれたという。

日本経済は1986年からバブル経済期に入り、不動産価格が1986年は前年比75%、1987年は37%と上昇し続け、株価も1989年12月に日経平均株価が38,915円という史上最高値をつけた。

その後不動産価格も株価もピークを打って下がり始め、株価は1992年8月にはピークの半値以下の15,024円にまで下落した。

バブル崩壊によって日本経済はガタガタになり、1992年秋に大蔵省は大手21行の不良債権額は12兆3千億円あるという試算を発表した。筆者も覚えているが、当時は到底12兆円などという額ではない、50兆円、あるいは100兆円あるのではないかと言っていたものだ。

西川さんは、当時の住友銀行頭取の小松さんから、1992年夏に当時の宮澤総理から軽井沢の別荘に大手行の頭取が全員呼ばれて公的資金投入を打診されたという話を、後日明かされたという。頭取はみんな反対したが、今思うと、あの時に決めておけば、こんな大騒ぎにならなかっただろうと小松さんは言っていたという。

銀行の赤字決算は終戦直後も含めて、それまで例がなかったので、不良債権処理に保有株式を売って黒字決算を続けていた。しかし、西川さんは当時の巽会長と森川頭取に進言し、1995年に8,000億円の不良債権処理を行い、3,300億円の赤字決算とした。そうすると株価は逆に上昇した。

日本の不良債権処理が進んだのは1997年に大蔵省が不良債権償却証明制度を廃止し、銀行の自己査定による債権処理が可能になったことと、1998年の公的資金注入制度の効果だと西川さんは語る。


日本版金融ビッグバン

不良債権処理を進める一方、故・橋本竜太郎首相は1996年に日本版金融ビッグバンを提唱し、銀行、証券会社、保険会社の垣根が一部取り払われ、金融ホールディングカンパニーも認められた。

西川さんはチャンスだと考え、積極的に個人向け投資信託販売を拡大し、外部人材を起用するほか、山一證券から150名の窓口販売要員を採用して、リテール部門を拡大した。

ネット証券業にも進出したが、設立したDLJディレクトSFG証券は楽天に売却した。その関係で、楽天・三木谷浩史社長と知り合い、その斬新で革命的な考え方に共感することが多かったので、西川さんは頭取退任後、楽天の顧問に就任した。


頭取就任は「男子の本懐」

1997年6月に西川さんは住友銀行の頭取に就任した。58歳での就任で、50歳台の頭取就任は「住銀の法王」と呼ばれた堀田庄三さん以来だという。

就任記者会見では西川さんは「男子の本懐です」と語ったという。当時、銀行は企業の不良債権処理を手伝って、企業が再生できるようにする「野戦病院」のような役目だった。日本経済再生に貢献する重大な責任を任されたという意味で、「男子の本懐」という言葉になったのだという。

男子の本懐 (新潮文庫)男子の本懐 (新潮文庫)
著者:城山 三郎
新潮社(1983-11)
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西川さんが頭取に就任してからは、住銀の長年の重要取引先だった大和証券と法人部門の合弁会社(大和証券SBCM、ただし2009年に合弁解消)設立、さくら銀行との合併で2001年4月の三井住友銀行の誕生、ゴールドマン・サックスとの資本提携強化、GS幹事の海外マーケットでの資金調達などダイナミックなM&Aを行った。

2兆円にものぼる資本準備金を不良債権処理にあてる為の、さくら銀行子会社のわかしお銀行との逆さ合併(存続会社はわかしお銀行で、三井住友銀行は消滅)には驚かされたものだ。

UFJ信託銀行と住友信託銀行との合併が決まっていたのにキャンセルされて「売られたケンカ」だとして、UFJ銀行をめぐって東京三菱との買収合戦に乗り出した話を紹介している。

同じ関西系の長年のライバル同士のUFJ(旧三和銀行)と住友銀行では、合併は難しいと筆者は思っていたが、この本では当時のUFJ銀行のトップや関係者は、住友銀行との合併を望んでいた様にも思えたことを紹介している。


日本郵政会社の社長に就任

2005年、西川さんは三井住友銀行の頭取を退任し、特別顧問となった。退任直後に大腸ガンが見つかり手術を待っているときに、ウシオ電機の牛尾会長から「小泉総理や竹中大臣が郵政民営化のリーダーを西川さんにお願いしたいと言っている」との話があった。

西川さんは一旦は断ったが、手術後竹中大臣から「小泉総理はもう決めています。」という話があり、奥さんの反対にもかかわらず引き受けることになった。小泉総理からは一言、「ご苦労だけど、西川さん、頼むよ」と言われたという。

この本では郵政民営化準備会社の社長となった2006年1月から民主党が政権を取り、亀井郵政・金融担当大臣より自分で進退を判断しろと通告されて社長を辞任する2009年10月までの出来事を、80ページほどにわたり解説している。

恥ずかしながら筆者自身も郵政民営化の目的がいま一つクリアーに理解できていないが、西川さんは郵政民営化の目的は、大きくは次の2点であると最初に整理している。

1.資金の流れを官から民に変えることで、国民の資金を成長分野に集め、結果として日本経済の活性化や効率化を図る。

2.少子高齢化社会の到来によって先細りが懸念される郵政事業を、民営化で新規事業にも参入できるようにし、国民の利便性を高めると同時に収益性を向上させる。

西川さんはこの民営化の目的を理解してもらわないと、西川さんが全精力を注ぎこんだ意味が分かってもらえないと語る。

この本で知名度があがり、一番得したのはたぶんコンサル会社のA.T.カーニーだろう。コスト削減に強いコンサルタントとして住友銀行時代と日本郵政時代に登場している。

筆者は2000年ごろA.T.カーニーと、以前紹介した逆オークションなどの電子調達関係プロジェクトで一緒に仕事をしたことがある。

総理、増税よりも競り下げを!総理、増税よりも競り下げを!
著者:村井宗明
ダイヤモンド社(2011-08-26)
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A.T.カーニーの子会社が持っていた逆オークションのソフトウェアを使って日本でも逆オークションのトライアルを実施し、A.T.カーニー・ジャパンの人たちと一緒にJ/Vをやれないか検討したのだ。当時のメンバー2人がプリンシパルになっている。

調達関係のコンサルでは2000年の段階でA.T.カーニーがベストだった。住友銀行のコスト削減でも実績を出して、日本郵政にも採用されたようだ。さすがA.T.カーニーである。

日本郵政社長時代のエピソードだけでも十分一冊の本が書けるほど、いろいろなことが起こっているが、詳しく紹介するとあらすじが長くなりすぎるので、箇条書きで紹介する。

★2004年には郵貯と簡保は合計で350兆円の規模となり、国民の金融資産1,400兆円の1/4を占めていた。

★運用は2000年までは全額大蔵省の資金運用部に預託する義務があり、10年物国債の利回り+0.2%の金利を保証されていた。

★郵貯の「ヒト・モノ・カネ」のネットワークは想像以上に緻密で底力があり、これこそが郵便局の最大の経営資源だ。

★郵政民営化によりいままで免除されていた法人税、事業税、預金保険料などを支払うようになり国や地方の税収が増えた。

★全銀システムとは店番号と口座番号が違うので、銀行から郵貯には送金できなかったが、民営化後にやっと全銀システムと接続した。

★西川さんが社長に就任してすぐに取り組んだのが次の3つのプロジェクトだ。

1.調達コストの削減と調達戦略の一元化
2.コールセンターの一元化
3.「郵政福祉」、「郵貯振興会」などのファミリー企業との取引関係の見直し

★ゆうパックの欠点だった冷蔵・冷凍輸送ができないことを、日通のペリカン便と合併することにより解消し、シェアアップを狙ったが、なかなか国会の承認が得られなかった。

★麻生内閣の鳩山邦夫総務大臣が政治問題化した「かんぽの宿」一括売却問題と東京中央郵便局再開発問題について、西川さんは鳩山大臣の論点を詳細に逐一反論している。よほど悔しかったのだろう。


総じて淡々とした書きっぷりに好感が持てる。

筆者が知っている案件もあり、その記述から判断すると、この本に書かれているのは表向きの説明といえる。それでも一面の真実をとらえていると思う。

一読する価値のある同時代史だと思う。先入観だけで判断せず、まずは手に取ってパラパラめくって欲しい。


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2011年11月21日

命の限り蝉しぐれ 中曽根康弘元総理と竹村健一氏の対談

命の限り蝉しぐれ―日本政治に戦略的展開を命の限り蝉しぐれ―日本政治に戦略的展開を
著者:中曽根 康弘
徳間書店(2003-12)
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小泉総理(当時)に衆議院議員出馬を止められて政界現役を引退した中曽根康弘元総理と評論家竹村健一氏との対談。2003年12月の出版で、この年の10月に中曽根さんは自民党北関東比例代表区の公認候補を外された。


小泉元首相の「政治的テロ」

小泉首相からの中曽根さんと宮沢喜一さんに対する議員退職の通告に対し、宮沢さんも中曽根さんも反発し、中曽根さんはいたずらに時間を引き延ばされ、結局"NO”と一方的に通告してきたのは「政治的テロ」だと言って強く非難したことは記憶している。

もともと自民党北関東比例代表区の終身1位となるかわりに、小選挙区からは出馬をしないという約束が橋本首相の時代にあり、党の記録にも残っているという。宮沢さんも同様の約束があった。

しかし小泉首相は中曽根さんの抗弁には黙りこくり、中曽根さんの「断じて承服できない」という言葉には無言で帰り、後から安倍晋三幹事長を使いとして決定方針だけ伝えてきたという。

いかにも小泉首相のひ弱さがわかるストーリーだ。

中曽根さんは小泉首相や管直人さんなどのいまのリーダーはタレント的政治家だと断じる。国会全体がクラゲのような「背骨のない軟体動物」のようになっており、国家観がないという。

「私から見ると、今の若い政治家たちは”銀のスプーンをくわえて生まれ育ってきた”から苦難を知らない。従って、非常時という概念もない。われわれは昭和の時代から何回も非常時を経験して、非常時にはふだんやらないことをやらなければ障害を突破できないということを心得ている」

と中曽根さんは語っている。



「体の中に国家を持っている」

竹村さんによると、石原慎太郎都知事は「中曽根さんが素晴らしいのは、体の中に国家を持っていることだ」と言っていたという。戦争の修羅場を潜り抜けた人だけが持つ言葉の重みを感じさせる最後の政治家だろう。

中曽根さんは総理大臣になる前は、その時の政界の主流派と行動を共にするために主張を変え変節することがあり、そのことをマスコミは「風見鶏」とレッテルを貼って非難していた。

しかし、民主党が政権を取って、見かけ上の2大政党制が成立した今、本当の連立政権には「政策の融合」が不可欠ではないかと思える。このことは、大前研一さんも「『リーダーの条件』が変わった」で次のように書いている。

「イギリスも連立だが、日本の連立は足し算した連立であって、一つの見解でまとまった政権ではない。だから吹けば飛ぶような社民党や国民新党の意見に左右される民主党政府は何の改革もできないし、国民からそっぽを向かれる。」


2大政党制

中曽根さんは日本に2大政党制時代は到来するかと聞かれ、イギリスやアメリカの2大政党制は社会的基盤があるが、日本にはない。だから本当の自民党支持者、民主党支持者はあまりおらず、無党派層を中心に揺れ動いているのが現状だと分析する。

日本は「フランス型」の社会基盤であり、フランスのように情勢変化に応じて各党の勢力図が変わったり、新たに政党ができたりするのだという。その意味で第3党の可能性もあると語る。

「みんなの党」が力をもちつつある現状を2003年に言い当てている。なんという先見性なのだろう。

今度紹介する中曽根さんの「わたしがリーダーシップについて語るなら」で、中曽根さんはリーダーの資質として「目測力」、「説得力」、「結合力」、「国際性」、「人間的魅力」を挙げている。

「目測力」とは面白い表現だが、中曽根さんならではの先見性のある意見が参考になる。


憲法改正と教育基本法改正

中曽根さんは政治家になった時からの目標である憲法改正と、教育基本法の改正をやり遂げられなかったことに挙げている。しかし、中曽根さんは議員はやめるけれども、政界は引退しない。自由な立場から言論、執筆活動を続ける。生涯現役で、政治家として現役で死んでいくのだと。


いくつか参考になった点を紹介しておく。

★中曽根外交はコミュニケーション外交。
中曽根さんは当時のレーガン大統領との「ロン・ヤス」関係をはじめ、相手の首脳と一所懸命になってコミュニケーションしようとした。

中曽根さんは自称「心臓英語」に「心臓フランス語」でレーガン大統領のみならず、サッチャー首相、ミッテラン大統領とも直接話し合った。

首相としてはじめて訪れた韓国では、全体の1/3は韓国語でスピーチし、迎賓館の歓迎二次会では「黄色いシャツ」という韓国語の歌を歌った。



そのお返しに当時の全斗煥大統領が日本語で「知床旅情」を歌った。こんな付き合いを各国の首脳とできるリーダーが今の日本にいるだろうか?

★間接税(=消費税)の導入
国家ビジョンを持って、中曽根さんは政治を行っている。たとえば売上税にしても、中曽根さんが提唱し、在任中は実現できなかったが、中曽根さんの路線を継いだ竹下内閣で実現した。

内閣法制局はマッカーサーの肝いりで作られた部署(?)
内閣法制局は内閣の姿勢が憲法から逸脱していないかを目を光らせる部署だ。日本は自国を守る権利はあるが、集団的自衛権はないという解釈を一介の役人の内閣法制局が打ち出して、それを総理大臣が唯々諾々としているのは情けないと。

★中曽根さんの憲法改正の主要論点
・前文は全面改定。まず日本語になっていないし、日本の歴史とか国家・伝統に触れていない。
・第一章の天皇の項は煩瑣過ぎ。天皇の国事行為を列挙しているが、これは抽象的な表現でよい。
・第9条は第1項は残すとして、国の交戦権を認めない第2項は現状に改め、第3項として集団的自衛権を入れる。
・第4章の国会は参議院の機能を独自のものに改める。
・第5章の内閣は、中曽根さんの議員になった時からの主張である首相公選制を討議する。
・第8章の地方自治は道州制を取り入れ、地方分権を推進する。
・第9章の改正は改正案が国会の過半数で通過したときは、国民投票。2/3なら国民投票不要というふうにより改正しやすくする。

★教育基本法は「蒸留水」
中曽根さんが教育基本法を問題視するのは、本来憲法と教育法は対の関係であるべきだからだ。明治憲法には教育勅語があった。現在の教育基本法は日本の伝統や文化・歴史が全く考慮されておらず、権利や個性とか人格とかは書いてあるが義務や責任は一切書かれていない。その意味で教育基本法は「蒸留水」であり、日本の水の味がせず、どの国にいっても適用できるという。

★FTAの大潮流に乗り遅れるな
中曽根さんは「FTAの大潮流に乗り遅れるな」と檄を飛ばす。農業問題は政治家の決断次第でどうにでもなると語る。

田中角栄さんが通商産業大臣だったときに、それ以前の宮沢さん・大平さんが行き詰まっていた日米繊維交渉を、日本の繊維工場に近代化資金と補償金を与えて簡単にまとめてしまった例を挙げている

★無利子国債で機動的な財政運営
中曽根さんは、無利子国債を10兆円でも出して、そのかわりその分は相続財産から除外できるという扱いをすることを提案している。そのお金を機動的に使って、仕事を作ればよいという。巨人軍の内紛で話題になっているナベツネなどと年中話していることだという。


日本全体のリーダーシップが欠如している現状では、中曽根さんのような先見性のある政治家が本当に必要である。

もともとは子供向けに書いた「わたしがリーダーシップについて語るなら」のあらすじは次に紹介する。是非読んでほしい本の一つである。


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2011年10月27日

民主の敵 野田佳彦総理の本 

民主の敵―政権交代に大義あり (新潮新書)民主の敵―政権交代に大義あり (新潮新書)
著者:野田 佳彦
新潮社(2009-07)
販売元:Amazon.co.jp
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平成23年9月に総理大臣に就任した野田佳彦首相の本。平成21年7月、つまり政権交代が起こった第45回衆議院選挙の直前に発行されたものだ。野田総理が誕生して、最近また本屋に平積みにされている。

このブログで紹介した政治家の本の中では、韓国の李明博大統領の本と台湾の李登輝元総統の本が良かった。日本の政治家では中曽根康弘さんの本もよかったが、これは総理大臣を引退してだいぶ経った後の本なので、比較にはならない。

これから総理大臣をめざそうという人の本としては、古くは田中角栄の「日本列島改造論」そして田中角栄の直系の小沢一郎の「日本列造計画」がある。

日本列島改造論 (1972年)
著者:田中 角栄
日刊工業新聞社(1972)
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日本改造計画日本改造計画
著者:小沢 一郎
講談社(1993-05-21)
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野田首相の本は、野党だった民主党が政権交代を実現するという目的のもとに書かれた本なので、「政権交代に大義あり」という副題がついている。

まだ読んでいない人も多いと思うので、あまり詳しくは述べない。昔の小渕恵三総理が、アメリカのメディアに「冷めたピザ」と呼ばれたことがあった。しかし、野田さんを「冷めたピザ」と呼ばずして、誰を呼ぶのかという気にさせる本だ。

全くビジョンがない。アマゾンのカスタマーレビューでもメタメタだ。当たり前だろう。

この人には喫緊の問題の1,000兆円に到達する日本の国債と公的債務をどうするのか、現在の財政赤字をどう解消するのかというビジョンがない。よしんんば増税するにせよ、それをどうやって国民の納得を得るのかという日本の政治家として最も重要な問題への解決策がない。

当時の自民党政権への攻撃と、政権交代の必要性を訴えるだけで、この人に任せたら日本は良い方向に進むだろうという確信が全く持てない。

いったん政権交代したら、数年交代でまた自民党政権に戻ってもよいという弱気な態度にも鼻白む思いだ。

船橋駅で熱心に街頭演説を長年やってきたそうだが、ほとんど誰も聞いていないところで一方的に話してもなんの自慢にもならない。

野田首相になったら、なにが変わるのか?菅前首相夫人の菅伸子さんのように、聞いてみたいところである。

あなたが総理になって、いったい日本の何が変わるの (幻冬舎新書)あなたが総理になって、いったい日本の何が変わるの (幻冬舎新書)
著者:菅 伸子
幻冬舎(2010-07-21)
販売元:Amazon.co.jp
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ともあれ、印象に残った点を紹介しておく。

★2008年1月の当時の大田弘子内閣府特命担当大臣の「日本経済はもはや一流ではない」というセリフに食いついている。大田さんは長年、経済財政諮問会議の委員で、大臣にまでなった人なので、日本の方向性を決めてきたメンバーの一人である。あなたにだけは言われたくない、と思い出すたびに怒りが込み上げてくるという。

筆者には、経済財政諮問会議が日本の国の方向性をきめて来たとは思えない。ましてや大田弘子さんが政策を決める力があったとは思えない。たしかに傍観者的な発言に怒るという気持ちはわからないでもないが、「そんな大した人か?」という感じだ。

★小沢一郎の自由党と管直人の民主党が合併した時に、「モーニング娘。に天童よしみが加入」という感じだったと語る。

なにが天童よしみなのかよくわからないが、信念を持った政治家であれば、ベテランでも若手でも変わりはないはずである。中曽根さんは28歳で衆議院議員に当選し、早くから首相公選を訴えていた。国民に選ばれた政治家の間でモーニング娘。と天童よしみに比べるほどの差はないのではないか?

★野田さんは田中角栄さん以来、記憶にある範囲で「宰相」という重みを感じる人は中曽根康弘元総理だけだと語る。これには筆者も賛成だ。中曽根さんはビジョンがあったと思う。それにブレーンをうまく使った。そんな偉大な政治家を、年齢だけを理由に国会議員を辞めさせたのは小泉純一郎元総理だ。

★政権交代の醍醐味は、お金の使い方を変えることで、役人に緊張感を持たせることだ。しかしいずれは緊張感がなくなり、自民党と同じ過ちを犯す可能性はあるので、5年から8年で政権は交代していくべきだろう。政党には、頭を冷やして勉強しなおす時期があってしかるべきだと。

★衆議院は300人で十分だという。その通り実現して欲しいものだ。世襲はやめるべきで、同一選挙区から連続してその国会議員の配偶者や3親等内の親族が立候補できないという内規を民主党はつくったという。

塩川正十郎(塩ジイ)が「母屋ではおかゆをすすりながら、離れではすき焼きを食っている」という有名な言葉を残している特別会計については、2005年に民主党が特別会計改革・野田プランを発表している。

いったんすべてをゼロベースで見直し、31特別会計、60勘定のうち、24特別会計を廃止する方針だという。特別会計のことを「誰一人金の流れを把握できていない異常」と呼んでいる。是非実現して欲しいものだが、民主党政権下の現状はどうなのだろうか?

★政と官の癒着がつくりあげた関係が天下りと「渡り」だと。働きアリの国民が納めた血税と子供たちのポケットに手を突っ込んで得たお金で、シロアリのような天下り団体を温存させようとしている。

民主党が調べた結果では、2万6千人の国家公務員OBが4,700の法人に天下っており、それらの天下り法人に12兆6千億円もの血税が流れていると語る。天下り撲滅だと言う。

こういうおおざっぱな議論には、ケチをつけたくなる。ファンクションがあって、能力があれば元官僚でも全く問題ない。大体、12兆6千億円はどこから出てきた金額なのかわからない。

★国連至上主義を排し、集団的自衛権を認める時期で、「自衛官の倅(せがれ)」の外交・安全保障論だと。この辺は国連至上主義に近い小沢一郎と一線を画すところだ。さらに田母神さんを英雄視してはいけない。航空自衛隊の制服組のトップの戦略眼を疑うという。


★松下幸之助の200年かけて日本の海を埋め立てて国土を広げていくという「新国土創成論」に対してバージョンアップした「新日本創成論」をやりたいという。

新国土創成論―日本をひらく (1976年)
著者:松下 幸之助
PHP研究所(1976)
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日本は宇宙先進国であり、これからは宇宙と海とハブ化で立体的に発展を目指すという。ちなみに超党派で宇宙基本法を2008年に制定したことを紹介している。宇宙や海に行く前に日本の現在の公的債務問題をどうするのか?どこから宇宙や海を開発する予算を出すのか?

★憲法は「日本」がテーマの企画書。野田さんは新憲法制定論者だという。世界の憲法のなかで15番目に古い憲法なのだと。

憲法は「古い」と「悪い」のか?時代に合わない点を改憲する事でも良いのではないか?なぜすべて新憲法にする必要があるのか?


筆者は本にはケチはつけない主義だ。酷評するくらいならあらすじを載せない。あらすじを載せる価値もないということで無視するわけだ。

しかしこの本は、現職の総理大臣が書いた本なので、無視する訳にはいかない。だからツッコミ付きで、あらすじを掲載する。

筆者の見立てが間違っている可能性もあるので、興味があれば図書館でリクエストして読むことをおすすめする。


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2011年10月11日

日本男児 インテル長友の本 「長友革命や!」

日本男児日本男児
著者:長友佑都
ポプラ社(2011-05-25)
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イタリアのインテル・ミランでサイドバックとしてプレイする長友佑都選手の自伝。

長友はインテルにとっても、日本代表にとっても、サイドバックとして必要不可欠のプレーヤーになっている。次が長友のインテルでの最初のゴールシーンを収録したYouTubeの映像だ。



長友は1986年愛媛県の西条市生まれ。長友が小学校3年生の時に両親が離婚して以来、母親の手で姉と弟と一緒に育てられた。長友の母方の家系には競輪選手が何人もいて、母親はアスリート一家に育ったという。

母親が結婚式場の司会者として働いて、長友のサッカー人生を支援してくれたおかげで私立のサッカー有名校・東福岡、明治大学と順調にサッカー人生を歩み、ついにはFC東京、U−23代表、日本代表、イタリア・セリアAのチェゼーナ、そして世界最高のクラブの一つのインテルのレギュラーとなった。

長友はチームの中では一番長距離走が早い選手として目立つようになるまで走力を徹底的に鍛え、フィジカルを強くするために、体幹の筋肉を徹底的に鍛えた。長友の今日の成功は、努力のたまものであることがよく分かる。




”努力する才能”

小学校からサッカーを始め、フォワードで得点王だったが、弟の方がうまいとして評判が高かった。中学に入って長距離走の重要性に気づき、徹底的に走りこんで走力とスタミナがつけた。

松井秀喜の「不動心」のあらすじで「努力できることが才能である」という言葉を紹介したが、長友も「”努力する才能”がないと、成長できない」と全く同じ事を語る。

不動心 (新潮新書)不動心 (新潮新書)
著者:松井 秀喜
新潮社(2007-02-16)
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どんなにサッカーがうまくても努力をしないと上には行けない。現在の自分に満足せず、なにが足りないかを知り、それを補うトレーニングを行う。”努力する才能”とは、努力することをためらわない勇気でもある。

努力して全校トップになった中学校時代の駅伝は、長友に努力の成功体験を与えてくれたという。


「長友革命や!」

長友は福岡の東福岡高校に入学が決まり、愛媛県の西条北中学を卒業する時に、みんながくれた写真と寄せ書きを破り捨てて、「俺はビッグになってやる!」、「長友革命や!」と叫んだという。

感傷を捨て去り、「活躍するまで、ここへは戻れない」と覚悟したのだ。

東福岡高校での初練習の時、ランニングでいきなりトップを独走した。監督の目に留まるためだ。「このチャンス、ものにしてやる!」。高校の寮の部屋には、「努力に勝る天才なし」、「意志あるところに道あり」という校訓を貼りつけていたという。

長友は体が小さいので、高校の時からウェイトトレーニングをやっていた。朝5時に起床、朝食前にランニングなどの自主トレ。8時半には教室に行き、放課後は全体練習。その後は夜間の筋トレ。毎日睡眠不足の戦いだったが、授業中には寝なかった。お母さんが必死で働いて授業料を支払ってくれると思うと、寝ることなんてできなかったという。

高校から明治大学に入学してサッカー部に無事入部出来た後は、朝5時起床、6時から朝練習、学校に出て授業、授業が終わると練習という生活だった。しかし大学に入学して、すぐに椎間板ヘルニアによる腰痛が出て、数カ月リハビリを続けた。

歩くことも苦痛だったという。

腰痛の克服のために「一生もんの体幹をつくる」と決心して慎重にトレーニングを行い、食材、食べるタイミングから、眠り方、入浴方法、入浴後のストレッチまで気を使った。

筆者も椎間板ヘルニアの持病があるので、筋力を維持するために毎週ウェイトトレーニングと1キロの水泳は欠かさない。長友には同病の親しみを感じてしまう。

余談だが、長友はウェイトトレーニングの際に腰をガードするベルトを使わなかったために、高校生の時に腰を痛めたのではないかという気がする。

Schiek シーク 4インチパワーレザーリフティングベルト モデル2004L M ウェイトトレーニングベルト
Schiek シーク 4インチパワーレザーリフティングベルト モデル2004L M ウェイトトレーニングベルト


重い重量を持つ時は、ウェイトトレーニングベルトは欠かせない。腹圧で背骨の椎間板を保護するのだ。もちろんベルトをやっていても、腰を痛めることはあるが、ベルトなしだと間違いなく腰を痛める。

高校生で自主トレで筋トレしていたとなると、たぶんトレーナーなどもいなかったのだと思う。

ベルトをして正しい姿勢で筋トレすれば、歩けなくなるほど腰を痛めるということはまずないと思う。

閑話休題。

体幹を鍛えることで、なんとか腰痛を克服し、明治大学のレギュラーとなった。FC東京に見出され、大学とプロに掛け持ちを経て、正式にFC東京の選手となる。U−23の反町監督に見出され、キリンカップでU−23代表デビューを果たした。

本代表でも召集され、2008年Jリーグシーズンでは、優秀選手賞と優秀新人賞を受賞した。「もっと、もっと」と自分を鍛えた成果だったという。

優れたサッカーの才能を持っているわけではない。自分から努力を取ったらなにも残らないと語る。努力は裏切らないし、努力をすれば成長出来る。そして成長に限界はない。


岡田監督の信頼を受ける

2010年の南アフリカワールドカップでは、岡田監督のもとで活躍した。「カメルーン戦は、お前にエトーを見てもらいたい」。

ワールドカップ前に敗戦続きで、非難されていても岡田監督はブレることはなかったという。逆に悪いときこそ、成長できるチャンスなんだと、ずっと選手に言い続けていたという。


「心を磨く」ということ

インテルに来て、「心を磨く」、「心に余裕を持つ」ということを覚えたという。心を磨く」ことの重要性を知った長友は、どんなプレッシャーも力に変えることができるようになったという。プレッシャーを楽しみながらプレー出来ているという。


すべてが「努力」で統一されている。体が小さいというハンディがあるなかで、世界トップのクラブでプレーを続けている長友らしい本である。

長谷部の「心を整える。」とはまた違った意味で、参考になり、かつ役に立つ本だと思う。


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Posted by yaori at 23:29Comments(0)

2011年09月17日

大気を変える錬金術 空気からパンと爆薬を作った男の物語

+++今回のあらすじは長いです+++

大気を変える錬金術――ハーバー、ボッシュと化学の世紀大気を変える錬金術――ハーバー、ボッシュと化学の世紀
著者:トーマス・ヘイガー
みすず書房(2010-05-21)
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図書館の新着コーナーで何気なく手に取った本だが、最近では最高傑作の一つといえる本だった。これだから図書館通いはやめられない!

以前紹介した読書家の友人の書評に続き、あらすじを紹介する。

「これは空気をパンに変える方法を発明した二人の男の物語である。彼らは小都市と並ぶ規模の工場を建て、巨額の財を成し、何百万人もの人の死に手を貸し、何十億もの人間の命を救った。

彼らの功績は歴史上もっとも重要な発見だと私は信じている。(中略)簡単に言ってしまうと、今の世界の人口の半分は、彼らの開発したもののおかげで生きていられるのだ。

ほとんどの人は、その二人の名前もその功績も知らない。しかし私たちは食物を口にいれるたび、彼らに感謝するべきなのだ。(中略)彼らが発明した機械すべてが停止したら、20億人以上が飢えて死ぬだろう。」


これがこの本の冒頭文だ。全部で7頁の「はじめに」だが、全文を引用したいくらいよくできている。また、この本の解説は、なんとノーベル化学賞受賞者の白川英樹筑波大学名誉教授だ。まずは本屋でこの本を立ち読みして、「はじめに」と白川教授の解説を読んで欲しい。大体の内容が分かると思う。

この本はアマゾンの「なか見!検索」に対応していないので、「なんちゃってなか見!検索」で目次を紹介しておく。


はじめに 空気の産物

第I部 地球の終演
1.危機の予測
2.硝石の価値
3.グアノの島
4.硝石戦争
5.チリ硝石の時代

第II部 賢者の石
6.ユダヤ人、フリッツ・ハーバー
7.BASFの賭け
8.ターニングポイント
9.促進剤(プロモーター)
10.ボッシュの解決法
11.アンモニアの奔流
12.戦争のための固定窒素

第III部 SYN
13.ハーバーの毒ガス戦
14.敗戦の屈辱
15.新たな錬金術を求めて
16.不確実性の門
17.合成ガソリン
18.ファルベンとロイナ工場の夢
19.大恐慌のなかで
20.ハーバー、ボッシュとヒトラー
21.悪魔との契約
22.窒素サイクルの改変

エピローグ



窒素の役割

大気の8割は窒素でできており、人間の体の構成元素の4番目(約3%)が窒素だ。窒素は人間の体を構成するタンパク質をつくる不可欠の元素だが、動物が大気中の窒素を取り入れることはできない。大気中の窒素ガスは不活性ガスだからだ。大気中の窒素を固定できるのは、植物の根に棲むバクテリアと稲妻だけだ。

窒素が植物の生長に役立つことは昔から知られており、動物の糞や堆肥が肥料として使われてきた。しかし、これらの自然肥料の供給は限りがあり、爆発的な人口増加に対応する食料増産は自然肥料では到底困難だった。

そこで注目されたのが硝石だった。

火薬は中国の唐時代に発明された。火薬の3/4を占める原料が硝石だが、肥料としても役立つことがわかり、火薬需要とともに肥料需要が爆発的に増加していた。

旧大陸に大きな硝石の鉱山はないので、人や動物の尿を灰に掛けて何層も敷き詰め、熟成して硝石を作るという人造硝石プラントまで出来たほどだった。

新大陸のペルーのグアノと呼ばれる鳥の糞が輸入され、チンチャ列島はグアノの輸出で大変な盛況を収めた。何千万年にもわたって厚さ数十メートルにも堆積したグアノだったが、もはや19世紀前半には枯渇した。

グーグルアースでチンチャ列島の写真も見られるので、是非見て欲しい。さびれた鉱石船積み設備が島に残されていることがわかる。

Chincha islands







出典:Google Earth

代わってアタカマ砂漠で採れるチリ硝石がヨーロッパに大量に輸出されることになり、チリ硝石を巡ってチリとペルーの間で戦争が起こるほどだった。

1900年には世界の硝石取引の2/3はチリ硝石で、ドイツとイギリスが最大のバイヤーだった。1907年にはチリには200を超える精錬所があったという。

一時はチリの輸出の半分以上を稼ぎ、世界の肥料原料供給をほぼ一手に引き受けていたチリ硝石ビジネスに壊滅的打撃を与えたのは、原料の枯渇ではなく、ドイツで発明された空気からのアンモニア生産だった。


フリッツ・ハーバー

空気からパンをつくる方法を発明した科学者フリッツ・ハーバーは1868年に現在はポーランド領ブロツワフの裕福なユダヤ人ビジネスマンの家庭に生まれた。

ハーバーについては、「毒ガス開発の父 ハーバー」という本も出ており、ドイツ人になりきろうとした改宗ユダヤ人のハーバーの努力が描かれている。

ハーバーの叔父がドイツ外交官として日本駐在中に函館で暴漢に殺された話とか、親友アインシュタインの離婚交渉の仲介をしたこと、星製薬社長・星一との交友で日本を訪問したことなどが紹介されており大変参考になる。いずれあらすじを紹介する。

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毒ガス開発の父ハーバー 愛国心を裏切られた科学者 (朝日選書 834)毒ガス開発の父ハーバー 愛国心を裏切られた科学者 (朝日選書 834)
著者:宮田 親平
朝日新聞社(2007-11-09)
販売元:Amazon.co.jp
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この本の表紙には自分でデザインした軍服を着てご満悦のハーバーの写真が載っている。

空気から固定窒素をつくる方法を発明したのはハーバーが最初ではなかった。1902年にノルウェーで空中電弧法(アーク)法が工業化されていた。稲妻が空気中の窒素を固定することに目をつけた発明だった。

これを手がけていたのがノルウェーの国営会社ノースク・ヒドロだ。ドイツ最大の化学会社BASFもノースク・ヒドロに出資していた。しかしこの方法は大量の電気を消費し、チリ硝石よりコストが高かった。

1860年代に設立され、19世紀末に合成インディゴで大成功していたBASFは空気中の窒素固定法の開発に全力をそそいだ。

最初はハーバーのライバルのヴィルヘルム・オストワルトが特許をとった方法を試したが、その方法はみじめに失敗した。オストワルトの機械をテストしたのがBASF入社1年目のボッシュだった。

オストワルトは窒素固定法を求める科学者の探求を「賢者の石」を求める勇者の旅にたとえたという。ハリー・ポッターシリーズでも登場したが、「賢者の石」とは鉛を金に変えるという伝説上の物質だ。

1908年にハーバーはBASFに自らが開発した空気中の窒素からアンモニアをつくる特許を売り込んで採用され、1909年にオスニウムを触媒として使った実験機で小さじ一杯のアンモニアを生成する。

その後触媒は稀少金属のオスニウムからスウェーデン産の磁鉄鉱に変わったが、実験機は100気圧という超高圧を必要としたので、いかにリアクション・チャンバーをスケールアップするかが鍵だった。超強力なコンプレッサーも必要だったし、圧力チャンバーの素材も問題だった。

ハーバー自身は1911年ベルリンのカイザー・ヴィルヘルミ研究所の役員として高給で引き抜かれ、その後のアンモニア生産法の工業化はボッシュの功績だ。


ボッシュの改良

最初のチャンバーは厚さ1インチの鉄でできた高さ8フィートの円筒形をしたドイツ最大の大砲メーカークルップ社製のもので、コンクリート製のケースに入れられた。これは3日後に爆発した。次にクロム・モリブデンなどを加えた合金鋼を使ってみたが結果は同じだった。水素が鋼鉄をもろくしていたのだ。

そこでボッシュは天才的な発想の転換をする。チャンバーの内側の壁に保護材を入れ二重にして、水素が漏れる穴も開けた。パッキンやバルブなどすべての部品が研究され、次第にアンモニア生産量は増加していった。

そして1913年9月にオッパウ(Oppau)にBASFの巨大なアンモニア工場が完成する。


空気から火薬をつくる

オッパウ工場が完成し、生産量を拡大している時に第1次世界大戦が勃発した。当初戦闘はすぐに終了するとみられていたが、予想外に長期化した。ドイツは弾薬用の硝石の確保に窮し、占領したベルギーの倉庫に貯蔵されていたチリ硝石を没収したりしていた。

改宗ユダヤ人だが、熱烈な愛国者のハーバーはみずから志願して政府の科学顧問に就任し、BASFに手紙を書き、アンモニアから火薬原料の硝酸を作れないか聞いた。

アンモニアから直接硝酸はできないが、このときボッシュはまたも天才的なひらめきで、アンモニアからチリ硝石(硝酸ナトリウム)を製造することを考えつく。

ドイツ海軍はシュペー提督のもと、緒戦ではイギリス海軍を撃破し、南米からのチリ硝石輸送も問題がなかった。しかし英国海軍がフォークランド島の石炭貯蔵庫へのドイツ海軍の攻撃を待ち伏せして撃退し、シュペー提督が死亡してからは、チリ硝石の貿易は連合国が抑えた。

ドイツへのチリ硝石の供給は絶たれた。火薬と肥料用のチリ硝石を自国で生産せざるをえなくなったので、ボッシュは政府の費用で高さ12メートルの巨大アンモニア生産チャンバーを完成させ、月間5千トンのチリ硝石を政府に供給し始めた。

1915年5月にはフランスの戦闘機がオッパウに来襲し、空から小さな爆弾を落としはじめた。すぐにマシンガンと高射砲、サーチライトが据え付けられたが、すべての機器が集中しているオッパウ工場を防御するのは難しかった。

そこでBASFは政府の資金を得てフランス軍の戦闘機の航続距離外のライプチヒ近くのロイナに巨大なアンモニア・チリ硝石工場をつくった。ロイナ工場は1917年4月からアンモニアの生産を開始し、1918年に全工場が完成した。

ロイナ工場の完成により、ドイツ軍の火薬生産能力は補強された。これにより第一次世界大戦の終戦は1−2年遅れたと言われているほどだ、


ハーバーは「毒ガスの父」に

第1次世界大戦中、塹壕戦で戦線が膠着すると、プロシア陸軍科学部門長に就任していたハーバーは塩素系の毒ガスを開発した。空気より比重が重く、塹壕にひそむ敵兵を攻撃する目的だ。

すぐに英仏が毒ガス兵器で応戦し、これが英仏独の毒ガス戦争にエスカレートし多くの犠牲者を出した。ヒトラーも第一次世界大戦に伍長として従軍し、毒ガスでやられて入院している。

第1次世界大戦後、ハーバーの妻は毒ガス開発への抗議のために自殺し、ハーバーは戦犯容疑がかけられた。

ハーバーの開発した殺虫剤技術は、その後強制収容所のガス室で使われたチクロンBとなって、第2次世界大戦中に数百万人のユダヤ人同胞の命を奪うこととなる。


ボッシュは巨大企業IGファルベンの社長に

第一次世界大戦後、BASFのアンモニア生産技術を盗み出そうとする占領軍の動きがあったので、ボッシュはフランス化学業界の大物と話をつけ、フランス国営企業へ技術供与する契約を締結した。

日産100トンのアンモニア工場を建設するのを支援する代わりに、ドイツ国内の工場の操業を認めさせたのだ。

ボッシュはフランス政府との交渉をまとめたことでBASFの社長に昇格する。しかし1921年9月にオッパウ工場で大爆発が起こった。561人が死亡し、1700人が負傷、7,000人が家を失うという大事故だった。これが次の写真だ。

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出典:本書201ページ

その後ボッシュは1923年にアメリカを訪問し、石炭液化という新しいプロジェクトに取りかかる。当時は大規模油田が発見されていなかったので、1930年代には石油は枯渇すると予測されていたのだ。

石炭液化を実現するためには多額の資金が必要で、ドイツの化学会社が力をあわせ、世界の有名企業とも提携する必要がある。そのためにボッシュはドイツの3大化学会社のヘキストとバイエルに呼びかけ、全部で8社のドイツ化学会社をまとめて1925年にIG(イーゲー)ファルベンを設立し、初代社長に就任した。USスチール、ゼネラルモーターズに続く世界第3位の企業の誕生だ。

ファルベンはスタンダードオイルやフォードと提携し、合成ガソリン生産を1927年から開始するが、当初技術的問題から工場の本格稼働は遅れに遅れる。そのうち1920年代末にはオクラホマで大規模油田が見つかり、ガソリン価格は1/10に下落して、合成ガソリンの採算性は失われた。

そして大恐慌がファルベンを襲う。製品の販売価格は下落し、ロイナベンジン(合成ガソリン)の生産は計画の10万トンを達成したが、コストはガソリンの2倍で、工場の稼働率は20%に低迷した。

ボッシュにとって嬉しい驚きは、1931年にノーベル化学賞を受賞したことだ(石炭液化技術のベルギウスも同時受賞した)。

1931年1月にはヒトラーがドイツ首相に就任した。ナチスは合成ガソリン生産に全面支援を約束し、1933年には全量をコスト+利益で買い上げる契約を締結した。いずれ戦争が起こったら、戦車や飛行機の燃料を合成ガソリンでまかなうためだ。

ボッシュはナチスに生産量を1935年までに3倍にして、一日1000トンに引き上げることを約束した。


ハーバーとボッシュの末路

1933年1月のヒトラー首相就任から4週間後にドイツの国会議事堂が不審火で破壊され、閉鎖された。矢継ぎ早にユダヤ人公職追放令、ユダヤ人のビジネスのボイコットが発表された。

ハーバーは1933年4月に永年勤めたカイザー・ヴィルヘルミ研究所長を辞任させられた。

ボッシュはハーバーが辞任させられた1933年5月にヒトラーと面会した。このときにボッシュはユダヤ人科学者に寛大な措置を取らないと、ドイツの化学と物理学研究は大きな損失を被ると意見したときにヒトラーは烈火の如く怒ったという。

「これから100年間、物理学と化学なしにやっていけばいい!」ボッシュは面会場所から追い出された。

ハーバーは1933年10月にイギリスのケンブリッジに移った。その後パレスチナ移住を決めたが、度重なる心臓発作に悩まされていたハーバーは、旅の途中のスイスで1934年1月に心臓発作で亡くなった。

ハーバーの息子のヘルマンはハーバーの遺灰をスイスに埋葬し、隣の墓に自殺した母クララの遺灰を埋葬した。ちなみにハーバーの息子のヘルマンは第2次世界大戦後自殺している。

ボッシュは1935年にファルベンの管理取締役のトップという名誉職に押し込まれた。ボッシュはその前後から酒浸りになっていた。合成ガソリンに加えて、合成ゴムもナチスに売ろうというファルベンの方針から反ナチスのボッシュが邪魔になったからだ。

その後ファルベンは全階級で非アーリア人従業員を解雇することを決定した。

ボッシュは1939年にドイツ博物館でのスピーチを依頼されるが、酒に酔ってあらわれ、自由と科学を政府の干渉から守ることが必要だと反ナチス発言を繰り返し、ナチス党員が退席する結果となった。

1939年9月にドイツはポーランドに侵攻した。それ以来ボッシュは屋敷に閉じこもり、翌1940年4月にボッシュは亡くなる。

「ヒトラーはロシアに攻め込むという大失敗をするはずだ、そしてドイツじゅうの都市、工場そしてファルベンは空を埋めつくす戦闘機に破壊される」というのが最期の言葉だったという。


ロイナ工場の防御

ロイナではレーダー制御された32門の対空砲が同時に動くように設計され、空中で砲火領域をつくって、その領域に突っ込んだ爆撃機をすべて撃墜するようになっていた。

連合軍のパイロットたちはロイナ上空を飛ぶのを怖がった。ある日は119機の爆撃機が不明になったこともある。まさに「メンフィス・ベル」の世界だ。



1939年ドイツは2/3の燃料を輸入していたが、ロイナが拡張されたおかげで、戦争中は供給されるガソリンの3/4はロイナで生産されていて、1944年初頭のドイツの燃料貯蔵量は1940年と同じレベルになっていた。

1944年5月から連合軍は大規模空襲を繰り返したが、爆撃を受けても数日で修理してロイナは生産を続けた。1944年末には防空能力は弱まったが、ドイツは戦闘機を温存し、ロケット戦闘機を投入して一挙に反撃に出た。

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出典:Wikipedia

1944年11月1日の連合軍の空襲では700機の爆撃機のうち、基地に戻れたのは400機以下だったという。

しかしロケット戦闘機は8分間しか飛べず、燃料が不足してきた。

連合軍はロイナに22回の大規模爆撃を行い、6000機を超える爆撃機が18,000トンのも爆弾を落とした。これは広島に落とされた原子爆弾に匹敵する量だったが、それでも終戦時にはロイナ工場は15%のガソリン生産を続けていた。

「第三帝国の神殿にて」を書いたナチスの軍需相シュペーアは、連合軍がロイナをはじめとする合成燃料工場を破壊することだけに専念し、昼夜問わず爆撃していたら、戦争は8週間で終わっただろうと語っている。

第三帝国の神殿にて〈上〉ナチス軍需相の証言 (中公文庫―BIBLIO20世紀)第三帝国の神殿にて〈上〉ナチス軍需相の証言 (中公文庫―BIBLIO20世紀)
著者:アルベルト シュペーア
中央公論新社(2001-07)
販売元:Amazon.co.jp
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逸話が多岐にわたり、ストーリー構成が秀逸だ。翻訳も自然でよい。ノーベル化学賞受賞者の白川英樹教授の解説も素晴らしい。最近読んだ中でも一番といえる出来の本である。


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2011年08月20日

ホームレス中学生 笑えて泣ける家庭の「解散」劇

2011年8月20日追記:

最近このブログを訪問される人が増えている。通常、訪問者数は500人/日程度なのだが、先週は800人/日を超えた。

8月中旬からの特徴は、「読書感想文」と「ホームレス中学生」で検索して、このブログを訪問する人がそれぞれ100名/日おられることだ。

どうやら夏休みの読書感想文に「ホームレス中学生」を選んで、作文を書く際にインターネットで検索したら、このブログを見つけたという人が多いようだ。

あるいはこのブログで紹介した田村君のお兄さんの「ホームレス大学生」の読書感想文を書く人もいるのかもしれない。

以下の追記の通り、ちょうど3年前の2008年8月にも同じ現象が起きている。その時は気が付かなかったが、読書感想文ということでピンときた。

読書感想文に役立つかどうかわからないが、リクエスト?に応えて「ホームレス中学生」のあらすじを再掲する。


2008年8月18日追記:

「ホームレス中学生 あらすじ」で検索して、当ブログを訪問する方が急に増え、大体1日150人前後おられる。現在の検索ワードNo. 1だ。

本は200万部を超え、7月にフジテレビでホームレス中学生がドラマとなったことや、10月には小池徹平主演で映画にもなることから、人気が再燃している様なので、あらすじを再掲する。

しかしフジテレビのドラマで田村君役をやった13歳の黒木辰哉君。こうしてみると信じられないほど田村君に似ている。

ホームレス中学生TV





映画は小池徹平主演なので、田村君とは似ていないが、前評判は上々の様だ。

ホームレス中学生映画






テレビドラマも面白かったが、映画も楽しみである。


2008年4月22日初掲

ホームレス中学生ホームレス中学生
著者:麒麟・田村裕
販売元:ワニブックス
発売日:2007-08-31
おすすめ度:4.0
クチコミを見る


漫才コンビ麒麟の田村君の、中学生の時に公園に一ヶ月ほど住んでいたというホームレス生活を中心とした自伝。

衆議院議員の麻生太郎氏も推薦している。

「突然の「解散」が家庭にもあったとは…。お笑いタレントが書いた本に、これほど泣かされるとは…。ここには、日本人として忘れてはならない何かがあります」

アンパンマンのやなせたかしさんも推薦文を載せている。

「人々にパンを与えたアンパンマン、ハトからパンを奪った田村くん。どちらの話も、みんなに勇気を与えてくれる」

本の表紙は段ボールを似せてつくっており、帯には段ボールをかじり、雑草を手にする田村君の写真が載っている。

大阪の吹田市のマンションに一家四人(既にお母さんは直腸ガンのため田村君が小学五年生の時に亡くなっており、お父さんと、お兄さん、お姉さん、田村君の三人兄弟)で住んでいた田村君一家は、田村君が中学二年の一学期の終業式の日に、自宅マンションから追い出される。

お父さんの収入が激減し、ローンが払えないため差し押さえになったのだ。

お父さんは以前は大手製薬会社に勤めていたが、お母さんを看病しているときに、やはりガンとなり、仕事をクビになったのだ。

お父さんは「ご覧の通り、まことに残念ではございますが、家のほうには入れなくなりました。厳しいとは思いますが、これからは各々頑張って生きて下さい。………解散!」と言い残してどこかに行ってしまう。

コンビニでバイトしていた京都教育大学生のお兄さんと、受験生のお姉さんは吹田市のいざなぎ神社の公園、田村君は「友達の家に泊めて貰う」と強がりを言って、実は通称「まきふん公園」のカタツムリ型滑り台の中で生活を始めた。

数日で生活費がなくなり、まずは雑草、次に段ボールを水に濡らして食べてみるが、到底食べられるものではなかった。自動販売機の取り忘れ釣り銭や、ハトのえさのパンの耳を貰ったりして生活していると、子供達が田村くんに気が付き、石を投げて攻撃してくる。

一ヶ月弱公園生活をしていると、道でクラスメートの川井君に会い、お母さんの好意で、川井君の家に住まわせて貰うことになる。お姉さんも親類の家に引き取られ、お兄さんだけは学校の校舎などで生活を続けた。

川井君のお母さんなどが費用を出してくれて、兄弟一緒にアパートを借りて住むことになる。生活保護を受けて田村君は普通の中学生活に戻り、バスケ部も続け、お兄さんの薦めもあり吹田高校に進学してからもバスケを続ける。

そのうち、みんなの前ではおどけてみんなを楽しませていたが、一人になると生きていてもしょうがないという気持ちがもたげてきた。そんなときに田村君を救ったのは、教師として悩んでいた担任の工藤先生の手紙だった。

田村君は生きる望みを取り戻し、みんなにほめられるような立派な人間となりたいと決意する。

一時は一日2,000円貰っていた生活費は、300円となり一日一膳だけご飯を家で食べて良いという条件に変わった。

このときに田村君が「味の向こう側」と呼ぶ、ご飯を一口10分以上噛んでいると味わえる最後の瞬間の味と出会う。兄弟はごはん一膳で二時間以上噛んでいたという。

田村君が回転寿司屋で皿洗いのバイトを始めて300円生活は半年ほどで一日1,000円に改訂されたが、300円生活は本当に苦しかったという。

高校ではバスケの顧問の先生に見込まれて生徒会長になった。田村君がしゃべるとみんなが聞いてくれると先生は言ったそうだ。

田村君の人を惹きつける人なつっこさ、カリスマは高校時代からも傑出していたのだろう。

その後吉本のNSC(吉本総合芸能学院)に入学し、現在の相方川島君と出会い、麒麟を結成する。

実はお兄さんも一時NSCに在籍していたが、兄弟二人も生活の安定しない芸人を目指すのは支援してくれた人たちに申し訳ないということで、お兄さんは自分から辞めたのだと田村君は言う。

いろいろな人の支援、そして天国のお母さんの導きがあって今の芸人生活に入れたので、お母さんへのメッセージでこの本を締めくくっている。


若いとはいえ人生の荒波をくぐってきた人の言葉は重みがある。コミカルに書いてはいるが、ウルウルしてしまうところも多い。

ベストセラーになるべくしてなった感動の自伝だ。

簡単に読めるし、どこの本屋でも置いているはずなので、是非手にとってめくって欲しい本である。


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2011年08月16日

頑張れ! 武田ランダムハウスジャパン 第2弾 最後の授業

このブログでも書いた「アインシュタイン その生涯と宇宙」の翻訳不備が、新聞やテレビでも取り上げられて一騒動起こった。出版社の武田ランダムハウスジャパンの損害は数千万円になると思うが、是非再発防止策を出版業界全体で考えて欲しいものだ。

武田ランダムハウスジャパンは良い本を多く出している。前回はアカデミー賞受賞の「スラムドッグ$ミリオネア」の原作の「ぼくと1ルピーの神様」を紹介したが、同じく武田ランダムハウスジャパンのホームページで気が付いて読んだ本をもう一冊紹介する。

それは膵臓ガンに冒され、余命数ヶ月となった2007年9月にカーネギー・メロン大学で最後の講義を行ったバーチャル・リアリティの権威ランディ・パウシュ教授の「最後の授業」だ。

最後の授業 ぼくの命があるうちに DVD付き版最後の授業 ぼくの命があるうちに DVD付き版
著者:ランディ パウシュ
武田ランダムハウスジャパン(2008-06-19)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る


この本の紹介ビデオはYouTubeにも載っている。



全部で1時間強の「最後の講義」は9部に分けてYouTubeに載っている。ここでは最初の第1部と最後の第9部を紹介しておく。





講義は1時間だけだが、本ではランディが自分の生い立ちや学生生活を振り返り、自分の夢を実現するには何を心掛ければ良いのかを語る。

ランディはブラウン大学を卒業した後、ピッツバーグのカーネギー・メロン大学の大学院の博士課程に進む。

筆者はピッツバーグに合計9年間駐在していたので、カーネギー・メロン大学はこのブログで紹介したロボテックスの金出先生はじめ、親しみがある大学だ。特にカーネギー・メロン大学のAIやロボットの研究は世界トップクラスで、日本からも多くの留学生が学んでいる。

カーネギー・メロン大学は日本ではあまり知名度が高くないかもしれないが、世界の大学ランキング2010の20位にランクインしている。日本では東大の26位が最高位だ。

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出典:「米国の一流大学は本当にすごいのか?」14ページ

ランディの大学院進学の際は、一旦はカーネギー・メロン大学から不合格通知を受けたが、ブラウン大学の恩師アンディ・ファン・ダムとカーネギー・メロン大学の学部長がオランダ人同士で親しかったこともあり、無理矢理頼んで入学した。

この本の中でもしばしば出てくる「レンガの壁」を乗り越えるには、決して諦めてはいけない、助けてくれる人があれば力を借りればよい。そして壁を乗り越えた後は、他の人のために自分の経験を話すのだと。

この本の前半は自分の生い立ちや経験についてで、後半の第4章からが夢を叶えるための講義だ。

この本は「なか見!検索」に対応していないし、本の目次には章題しか示していないので、「なんちゃってなか見!検索」で第4章、第5章の節題まで含めた目次を紹介しておく。この本の伝えたいメッセージがわかると思う。

第4章 夢をかなえようとしているきみたちへ
・時間を管理する
・仲間の意見に耳を傾ける
・幸運は、準備と機会がめぐりあったときに起こる
・きみはもっとできる
・人の夢をかなえるプロジェクト

第5章 人生をどう生きるか
・自分に夢を見る自由を与える
・格好よくあるよりまじめであれ
・ときには降参する
・不満を口にしない
・他人の考えを気にしすぎない
・チームワークの大切さを知る
・人のいちばんいいところを見つける
・何を言ったのでなく、何をやったかに注目する
・決まり文句に学ぶ
・「最初のペンギン」になる
・相手の視点に立って発想する
・「ありがとう」を伝える
・忠誠心は双方向
・ひたむきに取り組む
・人にしてもらったことを人にしてあげる
・お願いごとにはひと工夫
・準備を怠らない
・謝るときは心から
・誠実であれ
・子供のころの夢を想い出す
・思いやりを示す
・自分に値しない仕事はない
・自分の常識にとらわれない
・決してあきらめない
・責任を引き受ける
・とにかく頼んでみる
・すべての瞬間を楽しむ
・楽観的になる
・たくさんのインプット(講義を見た人からのメッセージ)

ランディはカーネギーの本についてはふれていていないが、「相手の視点に立って発想する」などは、まさにカーネギーの教え通りで、この本を読んでいてカーネギーとの共通点が多いと感じた。

ランディの8歳の時の夢は次の通りだという。

RandyPauschDream














出典:本書38ページ

この本の前半ではこの夢をかなえるためにランディがしてきたことを語っている。「NFLでプレーする」は最後の授業の後、ピッツバーグスティーラーズの練習に参加することで、かなえられたという。

また「カーク船長になる」とは、スター・トレックのカーク船長のことだが、カーク船長役のウィリアム・シャトナーはカーネギー・メロン大学のバーチャル・リアリティ研究室を訪ねてきたことがあるという。

ランディが末期ガンになったと聞き、カーク船長は写真にメッセージを書いて送ってきた。それは有名な"I don't believe in No-Win Scenario"、つまり「勝つシナリオが必ずある」(これは筆者の意訳。元々は「勝ち目のないシナリオなんかない」となっていた)という言葉だ。

Star Trek












出典:本書65ページ

ランディはバーチャル・リアリティクラスをたちあげ、演劇学教授のドン・マリネリと共同でエンターテインメント・テクノロジー・センター(ETC)を創設した。

ETCはオーストラリアと日本の大阪に研究拠点を持ち、韓国とシンガポールにも拠点があるという。

カーネギー・メロン大学の開発した簡単にアニメーションをつくれるアリスというソフトウェアが紹介されている。今度一度試してみる。

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ちなみにカーネギー・メロン大学は神戸市に日本校があり、大学の研究機関CyLabの教育部門である情報ネットワーキング研究所(INI)の過程を通してアメリカの修士号を取得できるという。

いくつか印象に残った部分を紹介しておく。

★「自分に言い寄ってくる男性がいたら、気をつけることは簡単。彼の言うことはすべて無視して、彼のすることだけに注意すればいいの」
この本はランディの3人の子供(一番上が5歳)にも向けられた内容なので、一番下の娘のクロエ(1歳半)には、ランディの女性同僚から聞いた言葉を贈っている。
なるほど。

★「最初のペンギン」になる
これは最初に海に飛び込んだペンギンは勇気があるということから、ランディのバーチャル・リアリティのクラスでは、リスクを冒して新しい技術に取り組んだが、目標を達成できなかったグループに「最初のペンギン」賞を与えているという。

経験とは、求めていたものを手に入れられなかったときに(つまり失敗した時に)、手に入るものだと。

★相手の視点に立って発想する
ランディは、バージニア大学でユーザー・インターフェイスの授業を教えていた時に、ビデオカセットデッキを教室に持って行って、ハンマーで壊したという。

昔の日米貿易摩擦の時に、アメリカの国会議員がトヨタの車をハンマーで壊したり、東芝のカセットデッキをハンマーで壊したことを想い出させる逸話だ。

「使いにくいものをつくれば、人は怒る。あまりに頭に来て、それを壊したくなる。人々が壊したくなるものをつくりたくはないでしょう」

いらいらした大衆が簡潔さを切望していることを忘れずにいてほしいと。

★「ありがとう」を伝える
これは手書きの礼状のすすめだ。カーネギー・メロン大学のETCの志望者を不合格にしようと思ったが、彼女が書いた手書きの礼状(事務受付係宛で合否判定とは関係ない係)を見て、採用を決めたという。

今はディズニーのイマジニア(ディズニーランドのクリエイター集団ウォルト・ディズニー・イマジニアリング社社員)になっているという。

手書きの手紙は魔法を起こすという。

夢を形にする発想術夢を形にする発想術
著者:イマジニア
ディスカヴァー・トゥエンティワン(2007-02-05)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る


★自分に値しない仕事はない
ランディは就職前の学生にこう助言するという。

「郵便を仕分ける仕事に決まっても、心から喜ぶべきだ。仕分け室に行ったら、やるべきことはひとつ。郵便の仕分けの達人になることだ」

同趣旨のことを楽天の三木谷さんも言っている。

三木谷さんが日本興業銀行に入行して、ルーティン業務の外国為替部門に配属されたときも、めげずに外為処理の生産性を上げる努力をした。それが認められてハーバードビジネススクール留学が決まったという。

「一生懸命」は元々は「一所懸命」で、持ち場で努力するということだ。


ランディは2007年9月18日の「最後の授業」の後、1年近く生きて2008年7月25日に亡くなっている。

墓碑に何と書いて欲しいかと聞かれ、「末期ガンの宣告を受けても30年間生き続けた男」と書いて欲しいと言ったという。30年ではないが、たぶん「末期ガンの宣告を受けて3年間生き続けた男」にはなると思う。3年でも驚くべき長さである。

YouTubeのビデオでもわかるが、「最後の授業」の時のランディは、軽々と腕立て伏せをしたり、腕立て伏せをしながら拍手をしたり、とてもガンに冒されている人とは見えない。1年も経たずに亡くなったことが信じられない。

実は筆者の友人の奥さんが今年初めに膵臓ガンで亡くなった。膵臓ガンは進行が早く、直すことが難しいので致死率も高い。昨年の夏の段階で友人からは奥さんが膵臓ガンになったことを聞いていた。彼女の場合たぶん発見から1年あまりの余命だったのだろう。

時価総額が世界最大となったアップルのスティーブ・ジョッブスも膵臓ガンの宣告を受けたが、手術のできる珍しいタイプだったので、いままで生きながらえていることを、2005年スタンフォード卒業式の伝説のスピーチで語っている。


本も良いが、YouTubeのビデオも日本語字幕付きなので、是非見て欲しい。必ずや何か感じ取るものがあるはずだ。


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2011年08月04日

アインシュタイン その生涯と宇宙 翻訳不備 続報

2011年8月4・5日追記

いよいよ大新聞が取り上げ始めた。ヨミウリオンラインに記事が出ている。なんと初版本はコレクターアイテムとなり、2万円で売りに出されているという。

アインシュタイン校正不備5






日経新聞も8月5日付けの夕刊で取り上げている。

アインシュタイン校正不備





出版社をたたくのではなく、出版業界でぜひ再発防止策をきちんと打ち出してほしいものだ。


2011年8月3日追記

7月17日にブログで知らせた「アインシュタインその世界と宇宙」下巻の翻訳不備が、とうとうマスコミの知るところとなった。

アインシュタイン校正不備2






このニュースサイトのみならず、他のニュースサイトにも報道されている。

ネットで検索すると、プロの翻訳者向けのサイトというBuckeye the Translator でも報告されているのを発見。Buckeyeということなので、オハイオ州にいたことのある人のサイトと思う。

アインシュタイン校正不備3






さらにこのサイトでは一番ひどい誤訳の部分の原文を入手して、いろいろな機械翻訳に掛けた結果、Exite翻訳エンジンだと同様の結果が出ることをつきとめた人がいると報じている。アインシュタイン校正不備4






問題の「旗の包茎」の原文は"flag-draped car"だったことがわかった。"drape"という言葉は、カーテンなどを指すときに"drapery"という言葉がよく用いられる。

元タイム誌の編集長が書いた本なので、英語も格調高いのではないかと見込んでいたが、さすがに難しい英語の言い回しをしている。

"Flag-draped"とは「旗を横断幕あるいは垂れ幕にした」という意味だと思う。つまりアインシュタインを歓迎して、200台もの横断幕を飾った車に乗った興奮した民衆が熱烈に歓迎したというような意味だろう。

アマゾンによると下巻の発売日が8月24日に決まったようだ。たぶん日本の出版史でも最悪で前代未聞の翻訳不備・校正不備の不祥事だと思う。その意味ではこの事件を出版界の戒めとして風化させないという意味で、あえてリコールには応ぜずそのままキープしようかと思い始めている。

ちなみにアマゾンで一番に書いていたウィットに富んだカスタマーレビューは、削除されたようだが、翻訳者のコメントや他のコメントが寄せられていて、翻訳者と編集者の力関係とか考えさせられる指摘があるので、参照して欲しい。


2011年7月17日初掲:

アインシュタイン その生涯と宇宙 下アインシュタイン その生涯と宇宙 下
著者:ウォルター アイザックソン
武田ランダムハウスジャパン(2011-06-23)
販売元:Amazon.co.jp
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現在「アインシュタイン その生涯と宇宙」上下 約800ページの大作を読んでいる。

元タイムの編集長で、アスペン研究所とCNNのCEOを勤めるWalter Isaacsonさんの作品だ。

Einstein: His Life and UniverseEinstein: His Life and Universe
著者:Walter Isaacson
Simon & Schuster(2008-05-13)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る

知識のない物理や数学の話題も出てくるので、先週から必死に読んでいる。読み終えたらいずれあらすじを紹介するが、読んでいるうちに驚くべき事態を発見したので、このブログの読者だけに紹介しておく。

まずは、ここをクリックしてアマゾンの「カスタマーレビュー」を読んで欲しい。

いち早く読んだ読者の7月4日の「ボルンの妻のヘートヴィヒに最大限にしてください。」(!?), というウィットに富んだカスタマーレビューが秀逸である。

そして7月15日に今度は訳者の一人の松田卓也神戸大学名誉教授が弁明と実情報告をカスタマーレビューに載せている。

小泉元首相の言葉ではないが、最初のカスタマーレビューで引用されている「笑っちゃう」本書の第13章、60−61ページは次の通りだ。

アインシュタイン校正不備2






出典:本書60−61ページ

第13章「さまよえるシオニスト」はアインシュタインが1921年に米国を初めて訪問する旅と、1922年にノーベル賞授賞式を欠席して日本を訪問した時のことを取り上げている章で、日本人であれば最も読みたい章なのだ。

実は上記の60−61ページは、あまりにひどい翻訳で頭に来たので、筆者が出版社に送ろうとスキャンしたものだ。

出版社の連絡先を調べてみると、出版社の武田ランダムハウスジャパンのホームページ、「お詫びとお知らせ」というのが出ていることを発見した。

もしやと思って、クリックしてみると案の定、下巻だけ回収するという。

アインシュタイン校正不備





アマゾンのカスタマーレビューでも極めつけとして紹介されているのはこの部分だ。

「極めつけはp.61.。 

 「驚異的な場面だったが,それはクリーブランドで超えられていた。数数千が,訪問代表団と会合するためにユニオン列車車庫に群がった,そして,パレードは二〇〇台の酔っぱらっていて旗の包茎(ママ)の車を含んでいた。

なにか,ダリとかシュールレアリズムの絵画のような情景であるが・・・。 」


この部分を思い出すとつい「笑っちゃう」。

誤解のないように記しておくが、筆者はこの出版社、編集者、監訳者、訳者たちをつるし上げるつもりは全くない。

そのつもりならツイッターに書く。

本の愛好家として、今回のケースを同様の事故防止のため出版界として再発防止策を是非検討して欲しいのだ。

というのは今回の出版事故は根が深いと思うからだ。

訳者の松田さんは機械翻訳と説明しているが、上記で引用した61ページの該当部分は機械翻訳なのかよくわからない。

「包茎」に当たる英語の”phimosis”という単語は、米国駐在合計9年の筆者でも見たことも聞いたこともない単語だ。

原著にこの単語が使ってあれば、機械翻訳で「包茎」という言葉が出てくるのもわかるが、英語の原著にこのような単語があるとは到底思えない。


ちなみにあなたは"circumcision"という言葉をご存じだろうか?

この"circumcision"は、米国で息子が生まれたときは絶対に知っておかなければならない言葉だ。

意味は「割礼」だ。

米国の病院では男の子が生まれた時に、医者や看護婦が"circumcision"をするかと聞く。筆者の場合には2,3度聞かれた。

筆者の場合は初め何のことかわからなかったので、とっさに"No"と断った。

あまりしつこく聞くので、辞書で調べて、その意味を知って驚いた。

筆者をユダヤ人と間違えた訳ではないと思うので、たぶん米国の病院では男の子が生まれると医者が必ず聞くのだろう。

単語の意味を知らずに"Yes"とか答えていたら、ピッツバーグ生まれの長男はゴルゴ13のように割礼してしまうところだった。

閑話休題。


次に日本語の誤変換だが、「はたのほうけいのくるま」とひらがなで書いてみると、日本語のタイプミスに起因する誤変換とも思えない。

つまりこの「旗の包茎」という単語がなぜここに登場するのかさっぱり原因がわからないのだ。

さらに、本は通常次のチェック過程があるはずだ。

1.訳者が原稿をチェック。

2.監訳者が原稿をチェック。

3.編集者が原稿をチェック。

4.ゲラ刷りの「デザイン原稿」を訳者、監訳者、編集者がチェック。

5.最終原稿を訳者、監訳者、編集者、校正者がチェック。

6.印刷された本を訳者、監訳者、編集者、出版社の他の担当者が読む。

それでいて、なぜ今回のような致命的ミスが見過ごされたのか?その理由がわからない。


筆者は勝間和代さんのような「フォトリーディング」などはできない。

もっぱら通勤時間を利用して年間300冊くらい本を読むが、1ページ、1ページを丹念に読んでいるのだ。

この「アインシュタイン その生涯と世界」も、アインシュタインの伝記の決定版として非常に期待して読んでいる(現在下巻の250ページ)。

サッカー日本代表の長谷部誠選手が、推薦する本に「アインシュタインは語る」を挙げていたことは以前紹介した。

アインシュタインは語るアインシュタインは語る
大月書店(2006-08)
販売元:Amazon.co.jp
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アインシュタインの最新の伝記であるこの本に期待していた読者は、筆者だけではないと思う。

この本の上巻から変換ミスや誤植がやや目立つなと感じていたが、全体として翻訳のクオリティは悪くない。

翻訳本のなかには、原著で読んだ方がよっぽど理解しやすいものもあるが、この本は上巻までは原著で読む必要を感じていなかった。


トヨタは「なぜを5回繰り返せ」と現場に徹底しているという。

せっかくの貴重な文献を台無しにして、訳者・監訳者の信用を失墜させ、愛読者の期待を裏切り、しかも恥を日本全国の図書館や書店にさらす今回の事態を、是非「なぜなぜ5回」で根本原因を追及し、二度とこのような事態が発生しないように再発防止策を徹底して欲しいものだ。

頼むぜ 武田ランダムハウスジャパン!


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2011年07月22日

鍛える理由 スロトレの石井東大教授の自伝 筋肉は裏切らない

鍛える理由鍛える理由
著者:石井 直方
実業之日本社(2010-07-29)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る

スロトレで有名な石井直方東大教授の自伝。

このブログでも紹介している通り石井教授は筆者の一年後輩なので、昔のことを想い出して、この本も楽しく読めた。

もっとも筆者と石井教授が一緒にトレーニングしていたのは大学の3年間だけなので、この本では筆者の知らない石井教授のトレーニング経歴や研究面の成果の話もあって大変興味深かった。

1975年10月の関東学生パワーリフティング大会で石井教授と1・2フィニッシュ:

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石井教授がテレビに出たり、ベストセラーになった「スロトレ」など様々な本を出版するようになった経緯が紹介されていて、こちらも興味深い。

スロトレスロトレ
著者:石井 直方
高橋書店(2004-06)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る

石井教授は「筋肉は裏切らない」という言葉を書いている。

筆者もまさにこの言葉を実感している。

ここ5年ほど筆者は毎週クロールで泳いでおり、だんだん泳ぐ距離を延ばして昨年は1.5キロから2キロ泳ぐようにしていた。

水泳は全身運動で、なおかつ消費カロリーが他の運動に比べて格段に大きい。

しかしそれでも体重に変化はなかった。平日飲み会があるとだいたい1ー2キロくらい体重が増えて、それを減らすのに1週間は掛かるというパターンだった。

結局水泳は筋力を維持する効果はあったが、体重を減らす効果はなかった。

ところが、石井教授の「一生太らない体のつくりかた」を読んで、今年1月からウェイトトレーニング1.5時間+水泳1キロというコンビネーションに変えると、徐々に体重は減ってきた。

一生太らない体のつくり方一生太らない体のつくり方
著者:石井 直方
エクスナレッジ(2008-01-17)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る

今年のはじめに比べてだいたい4キロほど体重は減った。

この本で石井教授が説明しているとおり、ウェイトトレーニングでアドレナリンと成長ホルモンが大量に分泌されるタイミングで(20分くらい間をあけるのがベストだという)水泳などの有酸素運動をすると、脂肪の燃焼が促進されるためだと思う。

学生の頃、ボディビルの新人戦(この本に載っている通り、石井教授が大学1年生で優勝した大会)に出るために、88キロ前後だった体重を78キロくらいに落としたことがある。

その時は週3−4回、3時間くらいトレーニングした後、4キロランニングして、なおかつ最後の方は牛乳とか豆腐しか摂らないという無理な減量で、3ヶ月程度で10キロ減量した。

結局このときはボディビル大会が終わったあと、普通の食生活に戻したらすぐに元の体重に戻った。

しかし今回はトレーニング+水泳でゆっくりだが、リバウンドなく減量に成功している。

特に今回力を入れているのが脚の運動だ。加圧ベルトを巻いて、レッグプレス、レッグエクステンション、レッグカール、レッグスプレッド?(脚の内側と外側の筋肉を鍛える運動)を3セットみっちり行っている。

脚の筋肉は体全体の4割と言われている。疲労回復も早く、すぐに次のセットに移れるので、集中的に筋肉を増やすのには最適な部位なのだ。

上記の関東学生パワーリフティング大会で石井教授と1・2フィニッシュをした時は、スクワットで215キロを挙げていた。

このときの筆者のスクワットの第1回目の試技(重量は200キロ)の写真だ。バーベルがしなっていることがわかるだろう。

scanner091





普通の人の倍以上の脚力があったので、昔は脚が太すぎて既製服は着られなかった。オーダーで作ったスーツも、すぐに太ももがすれて脚の付け根に穴が開いてしまった。今は既製服のズボンが全く問題なく着られるということは、それだけ脚が細くなったということだ。たぶんラグビーやアメフットなどの他のスポーツでバリバリに活躍していた人は、同じ様な経験をしていると思う。

今は週1回のトレーニングなので、昔のように既製服が着られなくなるということはないが、昔取った杵柄で筋力はアップしており、それが基礎代謝増加=体重減につなっているのだと思う。

このブログでも「一生太らない体のつくりかた」のあらすじを紹介しているので、是非この「鍛える理由」か「一生太らない体のつくりかた」を読んで、筆者のように無理のない減量を成功させて欲しい。


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2011年06月12日

塩野七生 痛快!ローマ学 「ローマ人の物語」総集編

痛快!ローマ学 (痛快!シリーズ)痛快!ローマ学 (痛快!シリーズ)
著者:塩野 七生
集英社インターナショナル(2002-12-05)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る

ローマから日本が見える (集英社文庫)ローマから日本が見える (集英社文庫)
著者:塩野 七生
集英社(2008-09-19)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る

「ローマ人の物語」シリーズを書き続ける作家塩野七生さんの「ローマ人の物語」総集編。以前紹介した集英社インターナショナル社長の島地さんの「えこひいきされる技術」で紹介されていたので読んでみた。

えこひいきされる技術 (講談社プラスアルファ新書)えこひいきされる技術 (講談社プラスアルファ新書)
著者:島地 勝彦
講談社(2009-11-20)
販売元:Amazon.co.jp
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当初「痛快!ローマ学」がムック本で2002年に発売され、写真などの装丁を変えて「ローマから日本が見える」というタイトルで単行本と文庫本で出版されている。

違う本かと思って両方図書館で借りたが同じ本だった。図書館で借りたからよかったが、これがアマゾンで両方注文していたらガックリくるところだった。一つの原稿をタイトルを変えて、3回も出版するのは問題ではないかと思う。

実は筆者は塩野さんの作品はこのブログで紹介した「絵で見る十字軍物語」以外読んだことがない。あまりに大部すぎてどこから読んだらいいのかわからないので、手を付けていないというのが実情だ。

絵で見る十字軍物語絵で見る十字軍物語
著者:塩野 七生
新潮社(2010-07)
販売元:Amazon.co.jp
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その意味では食わず嫌いの人向けに最適な入門書・総集編だと思う。

この本に塩野さんの古代ギリシャ・ローマの指導者の通信簿が載っていて興味深い。

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出典:「痛快!ローマ学」201ページ

この通知簿の評価が高い人の「ローマ人の物語」を読めば良いと思う。

一番評価が高いのはカエサルと都市国家アテネの黄金時代を築いたギリシャのペリクレスだ。


ローマの強さ

ローマの強さは「敗者を同化する」点にあったと塩野さんは説く。ローマ帝国は次の5層構造でできており、これを歴史家アーノルド・トインビーは「政治建築の傑作」と呼んでいたという。

1.ローマ
2.ラテン同盟(ローマ市民権あり)
3.ムニチピア(地方自治体)ローマ市民権はない。しかし投票権、被選挙権を除けばローマ市民権と同等の権利あり。
4.ソーチと呼ばれる同盟国 ソーチの支配層にはローマ市民権取得を勧める
5.コローニア(植民地というよりは辺境の防御拠点)パリ、リヨン、ケルンなど

被征服国の国民をローマ人と同化することで、ローマ帝国は長く続いたのだ。

「すべての道はローマに通ず」ということで、帝国の道路を整備した。これは軍事的な理由もあった。戦争があれば、軍隊を迅速に移動するためだ。

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出典:「ローマから日本が見える」268−269ページ

この地図のローマ帝国の版図はカエサル時代に達成された。塩野さんはカエサルこそローマ帝国のグランド・デザインを書いた人物だと評価し、歴代の指導者の中でもベストに挙げている。「ローマ人の物語」でもカエサルのことを書くために2巻を費やしたという。

しかしカエサルはブルータス他の元老院の反対派に暗殺されてしまう。

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出典:Wikipedia

カエサルの遺言でその後を継いだのがオクタヴィアヌス、後のアウグストゥスだ。

アウグストゥスは自分から権力を望むというそぶりは一切見せず、元老院から権限を与えられて、最終的に様々な権限を自分に集中して皇帝の地位についた。塩野さんはアウグストゥスの皇帝の地位に就くまでの巧妙な深慮遠謀を説明していて面白い。

アウグストゥスはローマの税制をつくり、それが300年続いた。

次の表の通り、既に売上税や相続税が入っているとは驚きだ。

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出典:「痛快!ローマ学」157ページ

「奴隷解放税」は自由の身になった奴隷が自分の価値の5%を税金として収めるもので、無差別の奴隷解放で治安が悪化するのに歯止めを掛ける意図だったという。

塩野さんは日本人が「ローマ人の物語」を書く意義を、西洋のローマ史はキリスト教に影響されているからだと説く。日本人の方が宗教観なしに、欧米人よりずっと公平にローマ史を描けるのだと。

今後「ローマ人の物語」を読むに際して、基礎知識として役立つ本だった。


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2011年05月26日

日本一元気な30人の総合商社 商社の基本形がここにある

日本一元気な30人の総合商社日本一元気な30人の総合商社
著者:寺井 良治
小学館(2010-06-16)
販売元:Amazon.co.jp
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旧日商岩井で社内ベンチャーとして設立されたイービストレード社長の寺井良治さんの自社紹介。アマゾンでは本の帯の写真が写っていないが、本の帯を加えると次のような表紙になっている。

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イービストレードは神保町に本社があり、従業員は30名。2000年に誕生した旧日商岩井の社内ベンチャーが独立して、大手総合商社が取り上げないニッチ商品やニッチ市場に注力している総合商社だ。

イービストレードの業績は順調に拡大している。黒字転換したのは2004年3月期で、次の2004年度には1億円の利益が出ている。最近になって勢いが出てきた感じだ。
        
         売上高    経常利益
2006年度  16億円   マイナス3千万円
2008年度  84億円   プラス1億7千万円
2012年度  100億円  プラス4億円(目標)

寺井さんは旧日商岩井で入社以来化学品の営業をやっていた。2000年8月に全社横断組織としてEC事業室が設立された時に、化学品から移ってイービストレードの担当となり、2001年1月にイービストレード立て直しのために社長として送り込まれた。

旧日商岩井は、1998年にバブルの損失処理のために1,500億円の特別損失を出し、赤字に転落した。1998年がここ十年で最高のボーナスだったのに対して、翌1999年のボーナスは、スズメの涙ほどの金額になったという。

イービストレードが発足した当時のネットバブルの風潮から、マスコミには「ネット総合商社誕生」ともてはやされたという。

日商岩井の社内の雰囲気は沈滞していたので、若手がぶちあげた事業構想に経営陣も期待して、構想から2ヶ月後の2000年3月には会社が設立された。

しかし2000年3月のITバブルの崩壊とともに事業モデルそのものが崩れた。寺井さんが社長として送り込まれた時には、日商岩井の安武社長から「何をやってもいいので、イービスを残してくれ」と言われたという。

筆者はITバブルの時に米国に駐在していたので、有望なインターネット企業を見つけて関係強化のために投資事業部に依頼し、1999年12月に一株47ドルでIPO株を取得した。その直後その株がすぐに300ドルを超えた。IPO株で譲渡制限がなかったので、取得後三ヶ月で平均200ドル強で半分売った。

その半年後には買値を下回り、2000年末には10ドル台まで下がった。

半分売って元手の倍以上回収していたので、残り半分が買値を割ってもトータルでは利益が出たが、そのまま全部持っていたらドツボにはまるところだった。

ITバブルとはそういう時代だった。


社内の雰囲気は前日の深夜残業を理由に11時過ぎに出社する人もいるほど、たるんでおり、なにができるんだと聞くと「財務のプロ」、「人事のプロ」、「情報通信のプロ」などと答えたという。寺井さんは「たかが28−29歳で何がプロだ!プロとはどういう意味なんだ」と一喝したという。

イービストレードはeビジネス、いいビジネス、大阪の商売の神様の戎(えびす)様を掛け合わせた名前だという。

旧日商岩井は2004年4月に旧ニチメンと合併して双日となっている。


大手総合商社との差は管理費

イービストレードと大手総合商社との差は、間接費も入れたコスト競争力だ。大手総合商社は営業マン一人で、本社部門の割りかけ経費も入れたコストは年間7千万円以上と言われているという。それに対してイービストレードは、管理部門が小さいので営業マン一人当たり2−3千万円ですむ。イービストレードの給料は大手商社並みの水準なので、この差は管理部門の差だという。

大手総合商社が手がけないようなニッチビジネスを取り上げて、それで十分利益を上げるのがイービストレードのビジネスモデルだ。寺井さんは「めざせ鈴木商店」と語っている。

この本ではイービストレードの次のビジネスラインの商売ができた背景やビジネスの現状をそれぞれの担当責任者が書いていて面白い。


★長崎県のマリン技研の湖沼などの水浄化設備ジェット・ストリーマー

長崎県の漁師出身の社長が起こしたベンチャーの水浄化機ビジネス。攪拌を起こして水の自浄効果を誘発する技術を日本や世界に総代理店として販売している。世界25カ国で特許が成立し、長崎県の大村湾や三重県の長良川河口堰、ダム、平等院鳳凰堂の池などで導入され、アメリカ、メキシコ、韓国にも広まっているという。

東京都が「東京水」というコマーシャルを打って、水道水のきれいさをPRし始めたのも、この設備を導入したことがきっかけという。「未来創造堂」というテレビ番組でも取り上げられたという。


★日本のガス会社が開発した液体物検査装置とイタリアCEIA製金属探知器

日本のガス会社が開発した液体物検査装置はスポーツ会場に持ち込まれる飲料などの検査に世界的に使われている。北京オリンピックを契機に中国向けに数百台売れたという。

イタリアCEIA製金属探知器は世界の空港で使われており、日本ではパチンコ屋向け金属探知器用途に売り込んでいるという。不正の玉の持ち込みを防止するのだ。


★シベリアとのビジネス

ロシアでも大手商社と競合するモスクワは捨て、シベリアに特化したビジネス開拓をやっている。ドラッグストアのセイジョーと組んでシベリア展開を模索したり、日本製中古車を輸出しているという。


★ガソリンスタンド向けの情報サービスの「満タンねっと」やおまけDVD、CDのビジネス

ガソリンスタンド向けのネット販売サイトの「満タンねっと」を運営したり、雑誌などのおまけのDVD、CDのビジネス。

年間1億枚といわれている付録CD,DVD市場のほぼ半分を握っているという。台湾・中国などで製造し、品質と納期をきちんと守って納入する。


会社と社員が元気になるための「処方箋」

最後に寺井さんは会社と社員が元気になるための「処方箋」として、8つの法則を紹介している。それぞれ参考になるが、「社長の仕事は、会社を潰さないこと」という法則3がなるほどと思う。

法則1 経験の浅い人間ほど外に出たがる(辞めたがる)

現在はイービストレードは情報機器専門商社ミツイワが筆頭株主となり支援を受けている。創業者の岩崎宏達会長と会った時に「鈴木商店の復活とかいっているバカはお前たちか?いま時、そんなことをいっているやつが居るとは思わなかった。オレはそんなバカが好きだ」と言われたという。

法則2 身の丈を知ってビジネスを展開する

法則3 社長の仕事は、会社を潰さないこと

筆者はネット企業の副社長経験者だが、「会社を潰さないこと」という使命感、意気込みには欠けていたと反省している。よく「何をやらないかを決めるのも重要だ」といわれるが、まさに会社を潰すリスクを極力排除するのが、経営者の仕事であり、その意味で「社長の仕事は、会社を潰さないこと」という発想は大事だと思う。

法則4 まずは「問題児」を探す

対象を「スター」、「キャッシュカウ」、「問題児」、「負け犬」の4象限に分類した後、「問題児」を探すのだと。大リストラ時代のビジネスマンの処世術だという。

法則5 とにかく他人の仕草や顔色を見る

法則6 人脈は一度会えば十分

法則7 「路地裏」に新規事業は潜んでいる

法則8 迷ったときこそ「美点凝視」

いい点のみに注目し、欠点には目をつぶる。良い点を伸ばすことに注力すべきだと寺井さんは語る。


この本を商社業界に携わらない一般の人が読んだら、新規事業に取り組んでいて元気のある会社だと思うだろう。しかし総合商社に勤めている筆者は、事情がわかっているだけに悲哀を感じてしまう。

先日講演を聞いた三菱商事の小島会長の話だと、三菱商事はトレード収益は全体の3割で、残りの7割は資源開発やその他の事業収益だ。現在の総合商社は総合事業会社であり、個々の取引で収益を上げることも大事ではあるが、収益を生み出す「しくみ」を作り出すことが何より重要なのだ。

寺井さんが書いている通り、イービストレードが手掛けているビジネスを大手総合商社が取り上げることはないだろう。その意味ではニッチビジネスを追いかけるイービストレードの活躍の場はまだあると思う。

筆者は元々鉄鋼原料のトレーダーなので、米国では日本製品のみならず、中国、ノルウェー、ブラジル、南アフリカ、インドなどの原料を米国鉄鋼業界向けに販売していた。しかし利益率は低かったので、今はこんなビジネスは到底認められないだろう。

寺井さんの気持ちもよくわかる。読んでみて複雑な気持ちになる本だった。


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2011年05月14日

こころを動かすマーケティング 日本コカコーラ会長の魚谷さんの本

こころを動かすマーケティング―コカ・コーラのブランド価値はこうしてつくられるこころを動かすマーケティング―コカ・コーラのブランド価値はこうしてつくられる
著者:魚谷 雅彦
ダイヤモンド社(2009-08-07)
販売元:Amazon.co.jp
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日本コカコーラ会長の魚谷さんのコカコーラのマーケティング解説。


魚谷さんの経歴

魚谷さんは留学制度がある会社ということでライオンに入社し、コロンビア大学でマーケティングを学び、MBAを取得。

ニューヨークでコミュニケーションとプレゼンテーションの能力を磨くためにデール・カーネギー・スクールで毎週2回、夜7時から10時まで学んだという。ここにもカーネギーに学んだ人がいた。

帰国後30歳でライオン最年少のプロダクトマネージャーとなる。プロダクトマネージャーの仕事は、机に向かってするものだけではなく、朝から晩まですべての時間が仕事の時間だとライオンの先輩にたたき込まれた。

常に問題意識を持つ、何故だろうと考え、電車に乗る人を観察、テレビコマーシャルを見て、世の中の変化を敏感に感じ取るのだと。最初に入社したライオンには今でも感謝していると。

その後シティ・バンク、欧州食品メーカーからフィリップモリスグループのクラフト・ジャパンの代表取締役副社長、そして1994年に39歳で日本コカコーラにマーケティング担当のシニア・ヴァイスプレジデントとして入社する。

以下に述べるようにマーケティングで鮮烈にデビューし、一度営業を担当した後、マーケティングに戻り、2001年に日本人としては26年ぶりに社長に就任する。

2006年に社長を退き、会長となり、自分の会社のブランドヴィジョンを設立し、現在はNTTドコモの特別顧問も兼務している。


コカコーラのマーケティング

最初に「よく驚かれる事実」として、コカコーラは日本で毎日5,000万人に製品を売っていることを紹介している。

自動販売機で2,000万人(全国で250万台ある自動販売機のうち100万台がコカコーラの自動販売機)。スーパーやコンビニで1,600万人。マクドナルドなどのファーストフードやレストランで900万人。これで合計5,000万人となる。

コカコーラは1886年アトランタの薬局で薬剤師をしていたジョン・ペンバートン博士が発明し、シロップを水に混ぜて「コカ・コーラ」というブランドで売り出した。ある時、間違えて炭酸水を混ぜたら、よりおいしいということで現在のコカ・コーラが誕生した。

120年前から同じ物が、世界200国以上で売られ、世界ナンバーワンのブランド価値を誇っている。

ブランドをintrisic value(基本的な価値)とextrinsic value(付帯的な価値)に分けると、味やボトルなど基本的な価値は100年以上変わっていないが、付帯的情緒的な価値は時代に合わせて大きく変化したという。

現在のコカコーラの企業ビジョンは"Live positively"だ。

コカコーラは世界各地で「ボトラー」と呼ぶディストリビューター/ボトル詰め会社ネットワークを持っており、日本にも有力企業との合弁会社を中心に最大18社のボトラーネットワークを持っていた。

コカコーラ全体では全世界で90万人が働いており、日本でも2万3千人が働いているが、日本コカコーラはマーケティング(広告宣伝)専門の会社なので、社員は550人しかいない。

この本では魚谷さんが担当したコカコーラの様々な製品の広告宣伝が紹介されていて興味深い。


まずはジョージアの立て直し

魚谷さんが入社した当日から課題として出されたのは、コーヒーのジョージアだ。1975年に発売されたジョージアは味の良さに強力な流通網が加わり、一時は40%を超えるトップシェアを持っていたが、次第にシェアを失いつつあった。

認知度調査をしてみると、シェアが10%のサントリーのBOSSが一番で、トップシェアのジョージアは2位という結果が出た。

入社して1週間で(社長のOKを取り付けて)、既に大手広告代理店に決まっていた巨額の撮影費用が掛るアメリカの飛行場でのCM撮影をキャンセル。バックに「ジョージア・オン・マイ・マインド」が流れるマンネリのブルーカラーをターゲットとした広告案だったという。広告代理店社内で、とんでもないヤツがきたと、大変な騒ぎになった。

急遽CMを作り直すことになり、広告代理店をすっとばしてJRエクスプレスのCMを作っていた製作会社TYOの早川和良さんに直接1週間で考えて欲しいと依頼に行く。前職での広告の評判が良く、尾崎豊の"I love you"を使った早川さんのCM作品が心に残っていたからだという。



タレントのダンカンがサラリーマンに扮したCMは好評だった。次にたけし軍団を使ったCMを企画するが、たけしのバイクの交通事故でCMはキャンセル。そこで思い立ったのが、飯島直子を使ったサラリーマンをターゲットとする「男のやすらぎキャンペーン」だった。



ブルゾンをプレゼントするキャンペーンには4,400万通の応募があり、ジョージアのシェアは一挙に53%にアップした。成功できたのは、徹底的にターゲットとなる生活者をイメージしたからだと魚谷さんは語る。


お茶飲料

次にお茶を立て直す。魚谷さんの入社した当時はコカコーラはウーロン茶で「茶流彩彩」というブランドを持っていたが、トップのサントリーに全く勝負にならなかった。

「何をやらないかを決めるのも戦略である」とビジネススクールで教わったことを思い出して、ウーロン茶でなく、健康イメージのある「爽健美茶」で勝負した。市場調査は福岡の3日間だけだったという。2人の若いマーケターが確信を持って進めたマーケティングが成功したのだ。

アカペラのコマーシャルはモデル選びが難航したが、最後の体育大生が全員のイメージと一致したという。



次は紅茶だ。マーケティングで「平均点のマーケティングは失敗する」と学んだので、女性をターゲットにリッチなミルクティーというコンセプトで「紅茶花伝」をつくりだした。

生の牛乳を使うことは技術的に難しかったが、これを克服して、一回り小さい缶にして本格派のミルクティーを売り出した。

ほとんどプロモーションをしなかったにもかかわらず一位となり、紅茶飲料のトップブランドだった「午後の紅茶」がミルクティーを売り出してきても一位は全く揺るがなかったという。

この成功でマーケティングに於ける細分化とセグメンテーションの重要性、そして一旦一位になると簡単には変わらない「一番手の法則」を学んだという。

アメリカの広告代理店の経営者が書いた「ポジショニング戦略」という本が参考になったという。

ポジショニング戦略[新版]ポジショニング戦略[新版]
著者:アル・ライズ
海と月社(2008-04-14)
販売元:Amazon.co.jp
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この本のなかで、「大西洋を2番目に単独飛行した人は誰でしょう?」という質問がある。誰もが一番めのリンドバーグは知っているが、2番目のバート・ヒンクラーの名前は誰も知らない。

どこか一点訴求できる独自の価値を見つけ、自ら新しいカテゴリーを作って差別化できるポジショニングを作り出す。これがマーケターの腕の見せ所だと。


営業起点のマーケティング

魚谷さんはマーケティングの専門家だが、一時社長の指示でコカコーラの営業を担当した。「リレーションベースの営業」と呼ばれていた営業を、「戦略的な営業」に変えるためだ。

社長には「リレーションベースの営業」と呼ばれて居るぞと営業マンに檄を飛ばし、ドラッカーの「マネジメント」の教えに従い、ビジネスプロセスの起点を「お客様」として、当時17社あったボトラー社と営業が「協働マーケティング」に乗り出し、「お客様は誰か」ということからスタートした。17社全部からそれぞれの地域のマーケティングプランを出し、1週間掛けて日本コカコーラへのプレゼンテーションを行ったという。

その結果、圧倒的なシェアを誇る九州地区でジュースが弱いことがわかり、「お客様」である子どもが楽しく飲めるように、キャラクターをつくり、上手い物を飲んだときに出る「クーッ」という声をブランド名にした「QOO」をつくった。



QOOはあっという間に全国に広まり、今やアジアでも販売されている。

かつて日本コカコーラの社長を務めたことのあるオーストラリア人が2000年にCEOに就任すると、一時は日本のCMでさえアトランタの本社のOKを取る必要があるくらい中央集権的だったコカコーラが日本に学べということで、世界各国のトップが日本を訪問してくることになる。

日本法人の社長もオーストラリアのトップを務めていたアメリカ人女性に代わり、魚谷さんは社長と二人三脚で日本コカコーラの経営を担う。


広告メディアバイイングと広告クリエイティブの分離

魚谷さんが入社してすぐにジョージアを担当した時に、メディア購入とクリエイティブを別々に切り離し、仕事の質・量に応じてフィーを払うというやり方に変えた。日本の広告業界に激震をもたらしたという。

それまではメディア購入のつけたしのような広告クリエイティブの存在を広告クリエイティブとして正当に評価することにしたのだ。

一つ一つの広告をしっかり評価してベンチマーキングする。年に一度代理店やクリエイターとレビューを行い、それぞれの担当者にも評価させる、という透明性を高めたシステムとした。

日本コカコーラでは広告を費用とは考えず、投資と考えているから、投資リターンを正確に把握する必要があるのだ。

このようなメディア購入とクリエイティブ分離、評価システム導入の結果、大幅に取引が減る広告代理店があった。魚谷さんが出向いて先方の社長に伝えた。社長のショックを受けた顔を今でも忘れられないという。

最後に新たにメディ購入を一手に引き受けて貰う広告代理店を訪問した。この代理店がジョージアの「明日があるさキャンペーン」を提案した会社だった。


ジョージアの再・立て直し



実はジョージアのコンペでは、当初この代理店は入っていなかったという。無理矢理追加して入れても、第一回目のコンペでは最低評価だった。魚谷さんが断りを入れると、先方の営業次長は「1週間待ってくれ、プレゼンの時間は他社の半分でいい」ということで食い下がる。「営業は断られたときから始まる」だ。

期待しないでプレゼンを受けてみると、前回とは全く違ったものだった。「明日があるさ」キャンペーンの原形で、出演は吉本興業のオールキャスト、CMに近いビデオ映像まで作ってきたという。

魚谷さんはこのとき人の心は動かせるのだと思ったという。あの代理店の次長は、最初の第1回目の審査で負けて、社内にあきらめムードが出たところを、1週間という短い時間で立て直した。

社内の人の心を変えたからこそ、クライアントの心も変えることができた。これこそマーケティングだと思ったという。

このCMは日本コカコーラの歴史でも初めてACC賞グランプリを獲得し、CMからドラマや映画が生まれ、CD発売、吉本興業のオールキャストがNHKの紅白歌合戦に出場するという企業広告を遙かに超えた幅広い展開ができたという。

缶コーヒーのCMがみんなに元気を与えたと評価されたのだ。


最後はコカコーラ

魚谷さんのマーケター最後の仕事はコカコーラのマーケティングだ。それまでの「スカッとさわやか」から「No Reason」というサザンを使ったコマーシャルを導入した。



"No Reason"という標語はアトランタ本社からクレイムがついたが、女性社長が本社に説明してくれてキャンペーンはスタートした。

担当した広告代理店では社内でもコンペを行い、トップクリエイター達が考えたのもサザンだったという。コカコーラはそれまでサザンを起用したことはなかったが、桑田さんの書き下ろしの曲「波乗りジョニー」も、桑田さん自身のCM出演も大変な盛り上がりとなった。

多くの人、関係者を巻き込んだマーケティングの成功例だ。


日本コカコーラの社長に就任

2001年に"No Reason"キャンペーンが成功すると、10月に魚谷さんは47歳で社長に就任した。同じ外資系の日本IBM会長の椎名武雄さんに乾杯の音頭をお願いしたという。椎名さんの"Sell IBM in Japan. Sell Japan in IBM"という標語は、魚谷さんもまさに同感だからという。

社員には本人の名前入りメッセージ集の「こころざし読本」を配布し、共通の価値観である"Fun & Excitement"を共有した。

新商品の提案はA4の紙一枚。説明は3分を流儀にしたという。

日本全国で250万台ある自動販売機のうち100万台がコカコーラの自動販売機で、ジョージアの販売のために世界に先駆けてホット・コールド切り替え自動販売機を導入した。元々自動販売機網を拡大したのは、1980年代に社長だったオーストラリア人のトップが、ボトラーの意見を聞いて決断したという。

自動販売機をおサイフケータイ対応として会員登録とあわせてマーケティングデータを取得できるようになった。

日本コカコーラの会長となり、ドコモの顧問に就任してからは、One docomoという各組織を代表する300名ほどのブランド推進リーダー組織をつくった。日産のクロスファンクショナルチームと同様の考えだ。

日本企業はもっとマーケティング経営力を高めていくべきだと魚谷さんは語る。最後にマーケティングに絶対の原理はなく、先回りして新しいニーズをつくることも重要だと語っている。

このブログのように実際の広告を振り返りながら読むと大変楽しめる本である。


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2011年04月22日

趙紫陽極秘回想録 天安門事件で失脚した趙紫陽主席の肉声

趙紫陽 極秘回想録   天安門事件「大弾圧」の舞台裏!趙紫陽 極秘回想録 天安門事件「大弾圧」の舞台裏!
著者:趙紫陽
光文社(2010-01-19)
販売元:Amazon.co.jp
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1989年の天安門事件で武力鎮圧に反対して失脚した趙紫陽(ちょうしよう)中国共産党総書記の回想録。2010年1月発刊だ。

アメリカで発売された"Prisoner of the State"という本が原本で、中国では発禁処分になっているという。

Prisoner of the State: The Secret Journal of Premier Zhao ZiyangPrisoner of the State: The Secret Journal of Premier Zhao Ziyang
著者:Zhao Ziyang
Simon & Schuster(2010-05-18)
販売元:Amazon.co.jp
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1989年6月4日(中国では6.4事件と呼ぶ)天安門事件の武力鎮圧後、趙紫陽は当時の最高権力者・小平の怒りを買って失脚し、事件の2ヵ月後から自宅に幽閉された。

幽閉生活は16年にも及び、最初は外出も禁止されていたので、好きなゴルフもできず、自宅で孫と遊んだり、ネットに向かってゴルフ練習をする毎日だったという。

この回想録は趙紫陽が監視の目を逃れて、60分テープに約30本録音したものを時系列的に整理したもので、翻訳で420ページものボリュームがある。


前任の胡耀邦も失脚

趙紫陽の前の総書記の胡耀邦(こようほう)も1987年1月に開明的すぎるとして小平の怒りを買い、辞任に追い込まれている。

胡耀邦の場合には、日本を訪問した時に、日本の若者3,000人を中国に招くと約束したり、中曽根首相と個人的にも親しくなって手紙のやりとりや、自宅に招いて宴会を開いた。それで「中国は個人外交をしてはならない。中曽根にきちんと対応できないものもいるようだ」として小平の批判を受けた。

加えて、香港のジャーナリストに小平の引退を望むような発言をしたことが、小平の怒りを買ったのだ。


趙紫陽の履歴

趙紫陽は河南省生まれ。13歳で中国共産主義青年団に入団した後に、1938年に共産党に入党、毛沢東周恩来と一緒に抗日戦争を戦った。

戦後は主に広東省で行政官としてキャリアを積み、特に農業生産拡大に成果を上げ、1965年に46歳という若さで広東省の党委員会第一書記に就任した。ところが、1966年からの文化大革命で失脚し、湖南省の機械工場で組立工として働かされた。一家4人で小さなアパートに住み、スーツケースを食卓代わりにしていたという。

1971年に毛沢東の指示で北京に呼び出され、内モンゴル自治区の党書記として復活し、広東省、四川省と党第一書記を務めた。

当時の中国は農業はソ連のコルホーズ(集団農場)にならって、人民公社が農業生産に当たっていた。いくらまじめに働いても個人の所得が増えないシステムなので、中国の農業生産は人口の伸びに見あっては増えず、凶作があった年は数千万人?の餓死者が出たといわれている。

この悪平等の人民公社システムを、一生懸命働いて生産量が増えれば、それだけ収入が増える戸別請負制に変え、あわせて国家の取り分も抑えて農民の生産意欲を格段に向上させた。

この農業改革が功を奏す一方、一人っ子政策で人口の伸びが頭打ちになったこともあり、中国の農業生産は人口を十分賄えるほどに拡大した。

このようにして趙紫陽は四川省などの勤務地で農業改革に成果を挙げ、それが中央の権力者の目にとまって、1979年には中央政治局委員、1980年には政治局常務委員会委員、国務院総理とトントン拍子で出世し、1987年に胡耀邦の失脚により党総書記に就任した。


1989年の天安門事件

ところが1989年4月15日に胡耀邦が亡くなると、自由化・民主化を求める学生や市民が天安門に集まり、デモを繰り返し、軍隊も出動して天安門事件が起きる。

ちょうどこのタイミングで北朝鮮を訪問することになっていた趙紫陽は、流血の事態を避けることを提案し常務委員会の全会一致で承認を得てから北朝鮮を訪問した。

一旦は収まった学生達の抗議行動が、再度燃え上がるのは4月26日の人民日報に、デモを非難する小平の厳しい言葉が掲載されてからだ。

小平は自分の言葉が公表されたことにショックを受けるが、最高指導者の言葉を撤回するわけにもいかず、デモ隊との衝突は避けられなくなる。

趙紫陽は2つのミスを犯したといわれている。

一つはアジア開発銀行の総会で「民主主義と法の原則に基づいた冷静かつ合理的かつ節度ある秩序正しい方法で問題の解決を図る必要がある」と演説し、学生デモは収まると発言したこと。

そして天安門事件のさなかに、ソ連共産党書記長のゴルバチョフと中ソ首脳会談をしたときに、小平が中国の最高指導者であるとゴルバチョフに語ったことだ。

小平は党中央軍事委員会主席ではあったが、国家主席でも党総書記でもなく、外から見れば国家主席の趙紫陽の方が権力者に見える。しかし、実は小平との会談が今回のゴルバチョフ訪中のクライマックスであると述べたという。

この2つのミスが、小平と長老達を激怒させ、趙紫陽と対立する李鵬首相を勢いづかせ、趙紫陽失脚に繋がった。


武力弾圧前の最後の学生達説得の試み

趙紫陽は5月19日に学生たちに広場から退去するよう天安門に直接出向いて演説したが、学生たちは聞き入れなかった。そして6月4日に軍隊により武力弾圧され、数千人の犠牲者が出たといわれる。

趙紫陽はすぐに党の全職務を解任され、それから16年間自宅に幽閉される。

その後1997年に小平が死去し、趙紫陽は2005年に死去している。

この本に1989年に天安門に出かけていって学生達にメガホンで呼びかける趙紫陽の写真が掲載されている。そしてその後ろには見たことのある顔がある。

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出典:本書5ページ

そう、恩家宝首相だ。当時はメガネをかけていないが、党中央弁公庁主任、中国共産党のいわば秘書長官のような立場だった。

恩家宝は胡耀邦、趙紫陽、江沢民の3人の総書記に仕え、出世して現在は首相の地位にある。天安門事件で趙紫陽は失脚したが、恩家宝はしぶとく生き残ったのだ。


いわば同年代史

筆者が中国との貿易に最初に携わったのは1976年で、1983年以来何度も中国を訪問している。

四人組が文化大革命で、政権を掌握して中国社会がめちゃくちゃになり、餓死者が数百万人出たと言われたのが1970年代初めだ。筆者が中国との貿易にかかわった1970年代後半は、毛沢東が死んで四人組が裁判にかけられ、小平が実権を握った時期だった。

中国とビジネスをやっていて困ったのは、1980年代初めに中央統制貿易から地方に貿易権を移譲する決定が出て、それまで交渉していた北京の冶金総公司から、契約窓口は地方の冶金分公司になるということで、急に窓口を移管されたことだ。

契約交渉には北京の冶金総公司の担当者も参加して、うまく契約できたから良かったが、中国政府の政策がガラリとかわったことには驚かされたものだ。

当時フィリピンの原料を中国浙江省に持って行って、委託加工して製品を日本に持ち帰るという取引をやっていた。

今は中国に原料を持ち込んで委託加工して製品を日本に持ち帰るという取引は普通に行われていると思うが、当時は画期的な取引だった。

この本を読むと1980年代は外資を活用して中国の経済を拡大する「合作」を奨励していたことがわかり、あの委託加工取引は中国の政策転換にぴったりタイミングがあっていたのだと思う。

筆者が1983年に委託加工工場の浙江省の横山鋼鉄廠を訪問した時には、夏にもかかわらずすっぽんを捕まえておいて、宴会をやって歓迎してくれた。たぶん浙江省の冶金分公司も中国中央政府の政策に沿って、外国との「合作」を実現したとして、評価されていたのだと思う。


中国の権力構造

1980年代は中国で誰が実権を持っていたのかわからなかったが、この本を読むと、中国共産党総書記は必ずしも実権を掌握しているわけではなく、四人組を追放した後は、小平が実権を持っていたことがわかる。

毛沢東の後継の総書記の華国鋒は1976年に党主席に就任して四人組を抑え込んだが、1978年に小平が最高権力者となると、権力闘争に敗れ、1981年に党主席を退いた。

華国鋒の後の総書記は小平によって推挙された胡耀邦で、1981年から1987年に失脚するまで党総書記を務めた。そのあとがやはり小平より推挙された趙紫陽で、1987年から1989年のわずか2年間だけの総書記だった。

趙紫陽の後を継ぐのが江沢民で、江沢民も中国のトップになったのが、主席就任後3年の1992年からだった。

小平は1978年から1992年まで一貫して党中央軍事委員会主席の座に座り続け、外国からはわかりにくい形で、中国のトップとして君臨した。

胡耀邦、趙紫陽、江沢民が総書記でありながら、中国の最高権力者ではなかったというのは、今回初めて知った。

中国の対外政策に関する権限がバラバラ(fractured)だと指摘するストックホルム国際平和研究所(SIPRI)の「中国の新しい対外政策」という本を紹介したばかりだったので、趙紫陽の回想録はまさに当事者の発言で大変興味深かった。

中国の新しい対外政策――誰がどのように決定しているのか (岩波現代文庫)中国の新しい対外政策――誰がどのように決定しているのか (岩波現代文庫)
著者:リンダ・ヤーコブソン
岩波書店(2011-03-17)
販売元:Amazon.co.jp
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小平は1997年に亡くなっており、現在の中国には小平のような絶対権力者はいないと思うが、趙紫陽そしてその前任の胡耀邦と華国鋒の3人の国家主席が相次いで権力闘争に破れ失脚したことは、現在の胡錦涛、恩家宝らの首脳陣にもトラウマのようになっていると思う。

つまり外国に対してあまり友好的な態度を示すと、中央政府ではやっていけないということだ。


その他参考になった点

その他参考になった点を箇条書きで紹介しておく。

★中国政府は巨大なデベロッパーとして、中国経済の急成長を推進している。土地の賃借権を売って、開発を進めるという考えは、1985年に趙紫陽が香港の実業家ヘンリー・フォック(霍英東)に会ったときに、市街地の開発資金がないと言うと、「土地があるのに、どうして資金がないのですか」と言われて気が付いたものだという。

★1980年代前半には「三来一補」=来料加工(委託加工)、来様加工(サンプル委託加工)、来件装配(部品組み立て)と補償貿易(技術や機械の提供を受け、製品で支払う貿易)を進めたという。上記で紹介した通り、まさに筆者が中国で委託加工貿易を進めたタイミングと一致している。

★胡耀邦が北朝鮮に甘すぎたことも小平の怒りを買った理由の一つ。北朝鮮を訪問したときに、金日成から中国のジェット機を供給して、北朝鮮のパイロットを中国でトレーニングして欲しいとの要請を胡耀邦が受け入れたが、帰国後小平に潰された。

★趙紫陽自身はまだ読んでいないが、ゴルバチョフの回想記には、1989年に中国を訪問したときに趙紫陽から複数政党制と議会制への移行を示唆されたと書いてあるという。趙紫陽の考えは、共産党独裁という統治の方法は変えなければならないことと、「人治」から「法治」にすべきだという2点だという。


なにせ中国の元主席が書いた本なので、中国を動かすいわゆるFAW(Forces at Work=そこに働く力)の実態がよくわかる。

同時代史としても価値があり、大変参考になる本である。


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2011年04月18日

日銀エリートの「挫折と転落」 木村剛「天、我に味方せず」

日銀エリートの「挫折と転落」−−木村剛「天、我に味方せず」日銀エリートの「挫折と転落」−−木村剛「天、我に味方せず」
著者:有森 隆
講談社(2010-11-30)
販売元:Amazon.co.jp
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竹中平蔵慶応大学教授の右腕といわれた元日銀マンの木村剛(たけし)さんが創設の旗振りとなった日本振興銀行の破たんを中心に一連の不祥事を描いた本。

著者の有森隆さんは、インターネットバブルで一躍注目されたベンチャー企業創業者についての本や、オリックスの宮内さんの「政商」ぶりを書いた作品をいくつも出している。

強欲起業家 (静山社文庫)強欲起業家 (静山社文庫)
著者:有森 隆
静山社(2010-09-07)
販売元:Amazon.co.jp
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「規制改革」を利権にした男 宮内義彦-「かんぽの宿」で露見した「政商の手口」 (講談社プラスアルファ文庫)「規制改革」を利権にした男 宮内義彦-「かんぽの宿」で露見した「政商の手口」 (講談社プラスアルファ文庫)
著者:有森 隆
講談社(2009-04-20)
販売元:Amazon.co.jp
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この本では木村剛さんが中小企業への無担保融資を拡大するという高い理想を持って創設した日本振興銀行が、結局は違法高金利ローンのロンダリング銀行となり、銀行法・出資法違法行為を繰り返して破たんし、日本初のペイオフが実施された顛末を描いている。

木村さんは小泉元首相の参謀役として小泉改革を先頭になって推し進めた竹中平蔵慶応大学教授の右腕と言われた存在だった。

この本は木村さんの最大の支援者だった竹中平蔵さんについても、真偽のほどが不明な情報をいくつも載せている。


竹中平蔵批判オンパレード

★政界を引退した竹中さんが立ち上げたのが経済政策専門家集団「チーム・ポリシーウォッチ」で、木村さんも主力メンバーンの一人だった。しかし木村さんが逮捕されるとすぐに木村さんの名前を削除したという。

竹中さんは「木村容疑者と個人的なつきあいはない」とコメントしたと新聞で報道されている。すぐに木村さんと距離を置いたのだ。木村さんの雑誌「フィナンシャル ジャパン」にも登場し、木村さんを子分同様に支援してきた竹中さんなので、手のひらを返したような変わり身には驚かされる。

★竹中さんは小泉内閣の大臣職を歴任したが、民間出身の大臣は国民の信任を得ていないとして政治家に軽く見られたことに反発して、2004年に参議院議員に当選している。

しかし小泉首相が退任したら、竹中さんも任期を4年残してさっさと参議院議員を辞任して、ほどなく慶應大学教授に復帰した。

★竹中さんに目の敵にされたのがUFJグループだ。金融庁の特別検査チームがUFJに乗り込み、不良債権比率の高いことが明るみにでて、東京三菱銀行に吸収合併され、三菱UFJ銀行となった。

★竹中さんが「大銀行でも破たんはありうる」と言っていながら、りそなを逆転救済したので、外資系ファンドは莫大な利益を上げたという説がネット上で流布している。

「竹中金融相ら政策決定者が機密情報を流した」と指摘した植草一秀さんは、痴漢容疑で逮捕され、「ミラーマン」と揶揄され、事実上社会から葬られた。ちなみに植草さんは、「日本の独立」という「米・官・業・政・電」利権複合体の陰謀説についての本を昨年出版している。大体内容が推測できるが、今度読んでみる。

日本の独立日本の独立
著者:植草一秀
飛鳥新社(2010-11-20)
販売元:Amazon.co.jp
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★竹中さんは、ゴールドマン・サックスが三井住友銀行の5,000億円の増資に応じる前に、来日したゴールドマンの会長で、後のブッシュJR政権財務長官のヘンリー・ポールソンと会談している。

竹中さんがゴールドマンに三井住友銀行は国有化しないと明言したことから、三井住友銀行の西川頭取を救い、それから西川さんと竹中さんの仲が急速に緊密化したのではないかと有森さんは、推測している。

これはまさに植草一秀さんが「植草一秀の『知られざる真実』」というブログに「日本振興銀行をめぐる黒い霧」というタイトルで書いている通りだ。

竹中平蔵さんが「外資の走狗」という非難を浴びるのは、小泉内閣の閣僚でありながら、メガバンクの外資への売却を吹聴してまわったことから来ていると有森さんは語る。

先日読んだ「エコノミストを格付けする」という本でも、竹中さんは「これほどあけすけに、アメリカの金融界との間に立つ「フィクサー」として振る舞っていながら、多くの読者の支持を得ていることが不思議で仕方がない」として、2009年版では25名の著名エコノミストランキングの最下位グループ(格付け”B3”=投資不適格)と酷評されている。

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出典:「エコノミストを格付けする」213ページ

このブログでも「竹中式マトリクス勉強法」「経済古典は役に立つ」などの竹中さんの本を紹介している。書いていることはまともだと思うが、「外資に日本を売り渡した」という評価をしている人が多いようだ。


日本振興銀行の設立

日本振興銀行は、木村剛さんがアイデアを出して、消費者金融に資金を提供していたノンバンク「オレガ」の創業者の落合伸治さんが、2003年4月にJC(青年会議所)メンバー他から20億円の出資を確保して銀行免許を申請し、わずか4ヶ月で金融庁に銀行設立予備免許を取得した。

木村剛ー竹中平蔵ー伊藤達也(竹中平蔵の後の金融相)ー五味廣文金融庁長官という人脈の効果だという。

日本振興銀行の「担保に貸すな!人物に貸せ!」というのは、安田銀行創設者安田善次郎の「一にも人物、二にも人物、その首脳となる人物如何」という言葉を借りたものだという。

安田財閥の始祖、安田善次郎については、北康利さんが「陰徳を積む」という本を書いているので、今度あらすじを紹介する。安田銀行の直系の銀行である富士銀行出身の北康利さんが書いているので、富士銀行内でのエピソードも紹介しており、大変参考になる本である。

陰徳を積む―銀行王・安田善次郎伝陰徳を積む―銀行王・安田善次郎伝
著者:北 康利
新潮社(2010-07)
販売元:Amazon.co.jp
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閑話休題。

しかし創業社長の落合伸治さんは、とかく悪い噂のある人なので、結局日本振興銀行が正式に事業を開始してから、すぐに木村さんは落合さんを追い出す。

木村さんが第三者割り当てを次々と引き受けて持ち株比率をアップして、経営権をにぎったのだが、それができたのは日本振興銀行から木村さんのファミリー企業に迂回融資させた金を使っているのではないかという噂が流れたという。

木村さんは落合さんとの権力闘争に勝ったら、資金を回収するためにファミリー企業の持つ株を売ると思われたが、どこにも売れず、やむなく自ら社長として乗り込むこととなった。


日本振興銀行の乱脈経営

★元々中小企業に無担保融資をするために設立された日本振興銀行だが、中小企業向けのファイナンス取引が伸びないので、途中で高利で貸し付けている町金、ノンバンクの債権の買い取りを主なビジネスとした。

★関西のホリエモンといわれたBBネット社長の田中英司さんがつくったBBネットファイナンスという金融子会社との提携を強化し、木村さんは「新規の融資は全件BBネットを通しなさい」と行内で指示していたという。しかしBBネットファイナンスは銀行代理業務免許を受けておらず、銀行法違反の疑いがあった。

2007年夏に「コンプライアンス経営」を掲げて、執行役七人がクーデターを起こしたが、木村さんの巻き返しにあって腰砕けにおわった。

★日本振興銀行の経営が火を噴いたのは、商工ローン大手SFCGが2009年に民事再生法の適用を申請してからだ。SFCGはローン債権を二重譲渡して日本振興銀行は600億円だまし取られたという。

SFCGは高利で不当に得た過払い利息が2100億円に上る見込みだったので、グレーゾン金利撤廃で、過払い利息を払い戻すくらいなら、会社を潰した方がよいと思ったのではないか?潰す前にカネになるものは、何でも売れということで日本振興銀行にローン債権を二重売りしたのだ。

SFCGの社長大島健伸さんは「ナニワ金融道」を地でいく強欲金貸しだったという。

ナニワ金融道(1) (講談社漫画文庫)ナニワ金融道(1) (講談社漫画文庫)
著者:青木 雄二
講談社(1999-03-12)
販売元:Amazon.co.jp
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他の役員報酬は30万円/月にしていたにもかかわらず、SFCG破綻前に自分の報酬を月額1億円に上げたという。これが本当だとしたら、まさに会社を私物化する行為であり、モラルもなんにもない人物だったということがわかる。

大島さんは1998年のフォーブス長者番付で174位の総額2520億円とランキングされたこともあ、渡部昇一さんとの共著で「億万長者の教科書」という本も出している。

異端の成功者が伝える億万長者(ビリオネア)の教科書異端の成功者が伝える億万長者(ビリオネア)の教科書
著者:渡部 昇一
ビジネス社(2004-11)
販売元:Amazon.co.jp
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金融のエリートといわれてきた木村剛さんが、海千山千の大島健伸さんにババを掴まされたのだが、その木村さんもSFCGの足元を見透かして年率40%の金利を取っていたという。

★日本振興銀行グループは、「中小企業○○機構」という、いかにも政府系金融機関のように見える名前をグループ企業につけている。

中小企業振興ネットワークの直系企業は次の5社だ。これらグループ企業間で、迂回融資、見せかけ融資、飛ばしが行われていたという。このうちNISグループはグレーゾーン金利の消費者金融から撤退し、自ら日本振興銀行グループ入りした。


・中小企業管理機構
・中小企業信用機構
・中小企業保証機構
・中小企業投資機構
・NISグループ

木村さん逮捕と日本振興銀行の実態は、NHKのニュースでも詳しく説明している。



結局日本振興銀行の預金は、2010年9月10日、日本初のペイオフが実施された。5,820億円の預金のうち、1,000万円を超えてペイオフの対象とならないのは1.9%の110億円だったという。

日本振興銀行は定期預金しか扱っておらず、ペイオフになれば約定の年1.9%という高金利が保証される。しかし途中解約してしまうと、利息は大幅に減る。ペイオフで元利は保証されているので、預金者も満期まで預けたままの方がメリットがあるので、預金の払い戻しの混乱も起きなかった。



日本初のペイオフに金融界からは驚きの声が上がったが、日本振興銀行は特殊ケースでもあり、普通の銀行が破綻すれば、金融庁は今まで通り、ペイオフを実施しないケースもありうると有森さんは語る。

最後に有森さんは、小泉純一郎元首相には構造改革という「時代精神」が宿っていたが、構造改革の切り込み隊長の竹中平蔵さんも小隊長の木村剛さんも「壊し屋」で終わり、「あだ花」だったと結論づけている。

結局木村さんは政策立案のプランナーであって、自分を過信して「けもの道」に入ったのがそもそもの間違いで、日本振興銀行の経営者としてやってきたことは、モラルなきルール違反の連続だったという。

この本で有森さんが書いていることが正しいのかどうか、いずれ木村さんの裁判の判決が出るので、その時に明らかにされると思うが、それにしてもいいかげんな銀行があったものである。

石原さんが4期目の都知事になったので、新銀行東京はまだ長らえ、そのうちどこかの銀行が吸収合併というようなことになるのではないかと、筆者は予想している。

石原慎太郎都知事は日本振興銀行破綻直後に、木村剛さんの中小企業支援の理念は評価しているとのコメントを発表している。



新銀行東京でも、中小企業向けローンを獲得するために、日本振興銀行と同じような乱脈経営になっていないことを願う。


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2011年04月08日

明治の外交力 陸奥宗光の「蹇蹇録」に学ぶ

明治の外交力―陸奥宗光の『蹇蹇録』に学ぶ明治の外交力―陸奥宗光の『蹇蹇録』に学ぶ
著者:岡崎 久彦
海竜社(2011-02)
販売元:Amazon.co.jp
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外交関係を中心に多くの著作を発表している元外交官・岡崎久彦さんの最新作。

岡崎さんは、お父さんの岡崎勝男さんも元外交官で吉田内閣の外務大臣という外務省のサラブレッドのような人で、陸奥宗光の親戚ということで系図も紹介されている。

この本では近代日本外交の創始者ともいえる陸奥宗光の回想記・「蹇蹇録」(けんけんろく)の原文と口語訳を対比し、岡崎さんの解説を加えていて、大変わかりやすい。

陸奥宗光











出典:近代日本人の肖像(国立国会図書館)

上の写真の出典で紹介した国立国会図書館の「近代日本人の肖像」という肖像写真コレクションは、坂本竜馬とか見慣れた肖像画が収録されていて参考になるので、チェックすることをおすすめする。

外務省の建物の前には陸奥宗光の銅像が建っており、外務大臣の謁見室にも陸奥宗光の銅像があるという。

陸奥宗光は1840年生まれ、紀州藩の藩士の家に生まれ、父の友人だった坂本龍馬に見込まれて、勝海舟の海軍操練所に入り、その後海援隊に参加する。明治維新後は政府の役人となるが、藩閥人事に反発し、政府を倒すべく画策したとして5年間東北の監獄に投獄される。

その後ワシントン、シカゴ、イギリス、ウィーンで政治学を学び、ウィーン大学教授ローレンツ・フォン・シュタインに師事する。帰国後、親友の伊藤博文に重用され、明治政府の外務大臣として活躍する。

この「蹇蹇録」は陸奥宗光の日清戦争についての回想録である。

そもそも「蹇蹇録」(けんけんろく)というネーミング自体がただ者ではない。漢学は四書五経を原典として学ぶが、五経のなかの最後の易経に「蹇」という言葉がある。「蹇」は足が萎えて進めない状態で、「蹇蹇」とは力の限り尽くして、結果の善し悪しは問うべきでないという意味だ。

この「蹇蹇録」を記した当時の陸奥宗光は結核に冒され、高熱を出し、血痰を吐き、命を削りながら難局に当たった。日清戦争には勝利したが、三国干渉で遼東半島をあきらめざるを得ないという結果となった。どうやっても同じ結果になっただろうという意味も含めて、「蹇蹇録」とネーミングしたものだ。


帝国主義は「過去」のものではない

先日の尖閣列島の中国漁船拿捕事件後、中国のデモのスローガンには「沖縄奪回」もあったという。日米安保条約があるので、米国が尖閣列島付近の軍事行動は日米安保が発動されると警告したことが、中国の抑えになった。

岡崎さんは「帝国主義は『過去』ではない」と語り、軍備増強を続ける中国を「力の強い方が傍若無人にふるまうのが帝国主義時代だ」として警戒を呼びかけている。

昔の中国である清と直接戦争した当時の外務大臣だった陸奥宗光の「蹇蹇録」は現代の日本人への教訓に満ちていると紹介している。

以前紹介した中国の現役大佐による「中国最大の敵・日本を攻撃せよ」などという本が中国で30万部のベストセラーになっているということを聞くにつけ、岡崎さんの「帝国主義は過去ではない」という主張もうなずけるところである。

中国最大の敵・日本を攻撃せよ中国最大の敵・日本を攻撃せよ
著者:戴旭
徳間書店(2010-12-17)
販売元:Amazon.co.jp
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「蹇蹇録」を読むための基礎知識

「蹇蹇録」を読む際の基礎知識として次の3点を指摘している。

1.欧米列強が激しく競い合っていた帝国主義時代のまっただ中だったこと。

2.日清戦争に至る経緯では、朝鮮半島の壬午事変甲申事変などの事件で清国は日本に煮え湯をのませてきたこと

3.当時の日本には明治維新で近代化を達成した誇りから、朝鮮半島から清国を排除して日本と同じような近代化をもたらせようという「義侠心」があったこと

最後の3.については、今では信じられないが、蹇蹇録には朝野を挙げて朝鮮を清の属国から近代化を遂げさせて救おうという義侠心があったことが記されている。

陸奥宗光自身は、「義侠を精神として十字軍を興すの必要を視(み)ざりし」と、冷静に考えていたが、この様な日本全国の強い世論をバックとして、清との軍事的解決という非常手段に臨めたと陸奥は記している。


陸奥宗光の功績

外務大臣としての陸奥宗光の功績は、条約改正と日清戦争を日本の勝利に終わらせ、清の巨額の賠償金を使って、南下するロシアに対抗する日露戦争の備えができたことと言われている。

日本が関税自主権を回復するのは、明治44年、小村寿太郎外務大臣の時であり、条約改正は実に明治の45年間を通じてやっと完了した。

条約改正の最初は英国との日英通商航海条約締結であり、1894年(明治27年)のことだった。陸奥は条約改定のことを感慨深げに蹇蹇録に「条約改正の大業は維新以来国家の宿望に係り、これを完成せざる間は維新の鴻業(こうぎょう=偉大な功績)もなお一半を余すに均し」と書いている。


日清戦争

そして日英条約締結の8日後に、豊島沖海戦があり、日清戦争がはじまる。

日清戦争の10年前の甲申事変では、清が日本に圧勝している。しかし日清戦争では日本軍の連戦連勝で、清は兵力は日本とほぼ互角だったにもかかわらず、重なる敗戦に怖じ気づいて敗走を重ねる。

最初の陸戦の成歓の戦いで、戦闘開始前日に豊島沖海戦で、清国兵千人と武器弾薬を満載した英国戦績の輸送船「高陞号(こうしょうごう)」を日本軍が撃沈していたことが伝えられ、清側に心理的ショックを与えていたという。

日本は清の外交暗号をすべて解読していて、清の増援艦隊の動静を把握して連合艦隊が撃破した。「高陞号」も東郷平八郎が指揮する「浪速」が見つけて、警告ー英人艦長以下退艦ー攻撃という手順を踏んだ上で撃沈したのだ。

岡崎さんも書いているが、敵の戦艦は逃しても輸送船団は逃さないという作戦を東郷平八郎は取った。その戦略的発想が当の日本海軍でなく、アメリカ海軍に引き継がれたことは歴史の皮肉というより、日本軍人のおごりに他ならない。

日清戦争の経過図は次の通りだ。

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出典:本文 141ページ

アメリカの調停で、清の李鴻章が来日し、下関で講和条約交渉がはじまるが、来日した李鴻章を自由党員にピストルで狙撃され、重傷を負うという事件が起こる。

講和条約交渉当初は、日本は休戦を認めていなかったが、李鴻章が狙撃されたので、日本としても誠意を示す必要があったので、休戦に応じた経緯が蹇蹇録に記されている。

《条》~1



出典: Wikipedia


三国干渉と日露戦争への道

下関条約で日本は巨額の賠償金を勝ち取り、遼東半島台湾澎湖諸島などの領土を獲得するが、条約締結直後のドイツ・フランス・ロシアの三国干渉で、遼東半島を手放すことになる。

日本では英米の力を借りて、はねつけようとするが、英米が静観する態度を取ったので、やむなく受諾して清に遼東半島を還付する代わりに追加の賠償金を得る。

日本の世論はこの屈辱にいきり立ったが、政府は臥薪嘗胆をスローガンに軍備を拡充し、次の日露戦争への備えを進めることになる。

ロシアは李鴻章にワイロを払って、1896年に李鴻章ーロバノフ秘密協定を結び、三国干渉で日本に諦めさせた遼東半島の旅順・大連の租借権を手に入れる。ロシアの旧満州での権益拡大が、1902年の日英同盟、1904年の日露戦争に繋がった。

蹇蹇録は三国干渉後で終わっており、陸奥宗光は持病の結核が悪化し、下関講和条約後の1897年に亡くなる。

「余は当時何人を以てこの局に当たらしむるもまた決して他策なかりしを信ぜんと欲す」が終わりの言葉だ。まさに蹇蹇録というネーミングの通りの他に策はなかったという回顧の言葉である。

300ページ余りの本だが、字も大きく読みやすい。

日露戦争は「坂の上の雲」でも取り上げられているので、ある程度親しみがあるが、日清戦争についてはほどんど覚えていなかった。陸奥宗光という偉大な明治の政治家と、日清戦争前後の時代背景がわかり、興味深い本である。


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2011年03月30日

ブッダをめぐる人々 里中満智子さんの古典シリーズ

2011年3月30日追記:

手塚治虫の「ブッダ」が初めて映画になるという宣伝を近くのお寺で見た。ネットで検索してみたら、2011年5月28日公開だ。

ブッダ映画






YouTubeでも映画の予告編が公開されている。



予告編だけだと、全12巻の手塚作品のブッダの生涯の一部の青年時代(ブッダは29歳で出家して修行の旅に出た)しか紹介していないようにも思える。

この機会に手塚作品の方も読んでみようと思う。


2011年3月29日初掲:

ブッダをめぐる人びとブッダをめぐる人びと
著者:里中 満智子
佼成出版社(2006-10)
販売元:Amazon.co.jp
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図書館でたまたま借りた里中満智子さんの歴史マンガ。

いままで知らなかったが、里中さんはいくつも歴史マンガを書かれている。

マンガギリシア神話 (4) 悲劇の王オイディプス (中公文庫)マンガギリシア神話 (4) 悲劇の王オイディプス (中公文庫)
著者:里中 満智子
中央公論新社(2004-02)
販売元:Amazon.co.jp
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マンガ ギリシア神話〈7〉トロイの木馬マンガ ギリシア神話〈7〉トロイの木馬
著者:里中 満智子
中央公論新社(2000-11)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る

里中さんは2010年11月の園遊会に天皇陛下から直接声を掛けて頂ける6名に選ばれて、天皇陛下や皇后陛下からお言葉を掛けられたことをご自身のブログで紹介している。

その部分を引用すると:

お声がけ頂けるメンバーとして所定の位置で陛下のお出ましを待っていました。

宇宙飛行士の山崎直子さん、野口聡一さんとパラリンピック金メダリスト新田佳浩さん、いよいよ私の番で、かなりあがってしまって

天皇陛下から色々お言葉を頂き、…驚いたのは(事前レクチャーを受けてらしたとしても)私の作品についてもきちんと把握して下さっている事でした。
「〜持統天皇や孝謙天皇について描くのに、日本書紀とか続日本書紀をかなり勉強したのでしょう」と聞いて下さいました。
その他色々お言葉を頂きながら、あがってしまって……

皇后様は「高校生の時から描いているのね」とお声をかけて下さって……色々お話させて頂いたのですが、とにかく皇后様は日本の美徳の象徴だと改めて感動しました。

両陛下はじめ皇太子殿下、秋篠宮御夫妻、常陸宮御夫妻、三笠宮彬子様とお話させて頂いた内容について嬉しそうに全部話しまくる(?)のは下品ですし…失礼になるのでこの辺で留めておきますが…。

彬子様から天上の虹を読んで頂いているという事と「次巻を楽しみにしてます」という事をうかがい、早く続きを仕上げなくてはと焦ってしまった事を記します。

天上の虹―持統天皇物語(第一期) 全6巻セット  講談社漫画文庫天上の虹―持統天皇物語(第一期) 全6巻セット 講談社漫画文庫
著者:里中 満智子
講談社(2002-02-08)
販売元:Amazon.co.jp
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いままで知らなかったが、三笠宮彬子様からお話のあった「天上の虹ー持統天皇物語」は最新刊が第21巻という超大作だ。

天上の虹(21) (講談社コミックスキス)天上の虹(21) (講談社コミックスキス)
著者:里中 満智子
講談社(2009-12-11)
販売元:Amazon.co.jp
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ブッダについてのマンガは手塚治虫のマンガが有名だ。

ブッダ全12巻漫画文庫ブッダ全12巻漫画文庫
著者:手塚 治虫
潮出版社(2002-11)
販売元:Amazon.co.jp
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こちらも全12巻という大作だ。

描かれているブッダの姿が手塚治虫作品では、仏像のような姿なのに対して、里中さんの作品では次のように描かれている。違いがわかると思う。

ブッダ 11 新装版ブッダ 11 新装版
著者:手塚 治虫
潮出版社(2011-02-19)
販売元:Amazon.co.jp
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出展:本書 表紙

横山光輝さんも中国ものを中心に多数の歴史マンガを書かれている。

水滸伝6巻セット 漫画文庫水滸伝6巻セット 漫画文庫
著者:横山 光輝
潮出版社(2005-04)
販売元:Amazon.co.jp
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三国志 (1) (潮漫画文庫)三国志 (1) (潮漫画文庫)
著者:横山 光輝
潮出版社(1997-11)
販売元:Amazon.co.jp
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マンガはわかりやすいのでビジュアルコミュニケーションとして優れた情報伝達力がある。

このブログでは小林よしのり、ダーリンシリーズ、ドラゴン桜などを紹介しているが、今後は里中さん、手塚さん、あるいは横山光輝さんの作品も読んでみようと思う。

そんな気づきを与えてくれた作品だ。


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2011年03月26日

自ら育つ力 祝箱根駅伝総合優勝!早大 渡辺康幸駅伝監督の本

自ら育つ力 早稲田駅伝チーム復活への道自ら育つ力 早稲田駅伝チーム復活への道
著者:渡辺 康幸
日本能率協会マネジメントセンター(2008-11-28)
販売元:Amazon.co.jp
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2011年の箱根駅伝で総合優勝した早稲田大学駅伝監督の渡辺康幸さんの本。2008年12月の出版だ。



先日会社で渡辺さんの講演を聞く機会があったので、この本を読んでみた。


脱炭水化物ダイエットで10キロ超減量

この本の写真もそうだが、テレビでも結構ふっくらしている様に見えたが、講演に現れた渡辺さんはいかにも元マラソンランナーらしくスマートな体型だった。

テレビはそうとう太って見えるものだと思いこんでいたら、脱炭水化物ダイエットで最大15キロ減量したのだと。

渡辺さんは1973年生まれ。監督になって7年になるが、まだ38歳だ。


市立船橋の超ハードトレーニングでメキメキ上達

渡辺さんは千葉県生まれ。中学時代は格別目立った選手ではなかったが、高橋尚子を育てた小出義雄監督が監督をしたことがある市立船橋高校の誘いを受けて一般受験して入学。

渡辺さんが市立船橋高校の選手だったころは、授業前の朝練で、船橋市内を流れる海老川沿いの一周2キロのジョッギングロードを4周。3周め,4周めは全力疾走だったという。

午後練は5キロほど離れた夏見総合運動公園までジョッギングし、ここで一周5キロのアップダウンのきついジョッギングコースを4周。

時々は東大検見川総合運動場に行き、クロスカントリーコースを20キロ以上走って、最後は1,000メートルの全力走だったという。日曜日だけが休みだ。

たまにはサボりたくなるようなハードな練習だったという。渡辺さんはハードトレーニングでメキメキ力を付け、千葉県の中学チャンピオンだった選手をすぐに追い抜き、高校2年で世界ジュニア選手権にも出場し、高校の長距離記録を次々塗り替えた。

余談になるが、筆者は実は新婚の頃は船橋に住んでいて、夏見総合運動場の近くの社宅に住んでいた。きれいな運動場だった。

大学の時には検見川で時々合宿していたので、渡辺さんの本を読んで懐かしく感じた。

今回の東北関東大震災で船橋の夏見地区は断水になっていたようだ。市立船橋の生徒にはあまり影響が出ていなければ良いのだが。


学生長距離界のスーパースター

早稲田大学でも1年生から箱根駅伝を走り、10,000メートルで1992年世界ジュニア3位、1993年ユニバーシアード2位、1995年ユニバーシアード優勝、1995年の世界選手権では当時の学生記録を樹立した。

箱根駅伝では、2年先輩に早稲田の三羽烏と呼ばれた逸材を擁し、1年生の時に総合優勝、2年生から4年生まで連続総合2位という成績だった。

学生長距離界のスーパースターとして君臨し、1996年に早稲田の先輩・瀬古さんがいるS&B食品に入社した。


社会人になってからは故障続き

社会人になってからは、アキレス腱の故障に悩まされ、アトランタオリンピックの10,000メートルの代表に選ばれたが、レースには出場できなかった。

銀メダルの谷亮子さんと一緒の飛行機で帰国し、谷さんの出迎えに多くのマスコミが集まっている横を、下を向いてすり抜けたのだと。

結局29歳で競技から引退を余儀なくされるという寂しい現役生活の終わりだった。


2004年に早稲田駅伝監督に就任

渡辺さんが卒業してからの早稲田の長距離チームは箱根駅伝で順位がだんだん落ち、2004年にはワーストタイの16位にまで落ちた。

最悪の状態だったので、あと2−3年待った方が良いというアドバイスもあったが、部員達の「見捨てないでくれ」という強い希望を受け入れ、ワーストタイになった2004年に渡辺さんは駅伝監督に就任した。

初めは自分の考えを押しつけ、「自分ができたんだから」という考えからの「他人の理想」の厳しい練習は、4年生くらいしかついてこれる部員がなく、チームは壊滅状態になった。

これではいけないと思い直して、おんぼろの合宿所で選手と寝泊まりしはじめ、スキンシップを大切にして指導を始めた。

2005年の箱根駅伝はあと一歩のところでシード権を逃す11位。アンカーの高岡選手が区間二位の激走だったにもかかわらず、大手町で両手をあわせてゴメンとゴールインしたシーンは筆者も覚えている。

2006年の箱根は13位と成績は低下し、風当たりも強くなってきたときに励ましてくれたのは今回都知事選挙に立候補した東国原さんだった。

当時の東国原さんは毎月400キロ走り、40歳を過ぎても年々記録が向上するランナーだったという。

人生で大切なことはすべてマラソンで学んだ!人生で大切なことはすべてマラソンで学んだ!
著者:東国原 英夫
晋遊舎(2010-02-20)
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「自ら育つ力」をつけさせる指導

渡辺さんは野村克也監督、ラグビーの平尾誠二さんなどのスポーツリーダーシップに関する本を読みまくり、当時の早稲田のラグビー部清宮監督や他大学の監督にも話を聞いた。

野村ノート野村ノート
著者:野村 克也
小学館(2005-09)
販売元:Amazon.co.jp
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勝者のシステム―勝ち負けの前に何をなすべきか (講談社プラスアルファ文庫)勝者のシステム―勝ち負けの前に何をなすべきか (講談社プラスアルファ文庫)
著者:平尾 誠二
講談社(1998-11)
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結論として「自分にえらそうな管理はできない」という考えに至り、選手自身に「自ら育つ力」をつけさせるという指導法に変えた。

このブログでも紹介した松井秀喜の「不動心」に載っていた「努力できることが才能だ」という言葉を思いおこさせる。

不動心 (新潮新書)不動心 (新潮新書)
著者:松井 秀喜
新潮社(2007-02-16)
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渡辺さん自身、天才ランナーと言われて、結局最後まで自分を客観的に見るという「自己管理」ができていなかった。だから選手には自分の成長には自分で責任を持つものなのだということを教えたかったのだと。

監督になった時の目標である「4年で総合優勝」にはならなかったが、2008年には往路優勝、総合2位にまで盛り返した。そして2011年には念願の総合優勝を果たした。


「自ら育つ力」をつける渡辺さんの指導法

渡辺さんの講演では、11+5=合計16のポイントを挙げて箱根駅伝で勝つための指導法を説明していた。次は筆者なりに講演内容もふまえて整理した渡辺さんの強いチームの作り方だ。


1.渡辺さんの強いチーム作り

(1)リクルーティング強化
渡辺さんはリクルーティングが駅伝の成功の8割だと語っていた。

早稲田は幸いにして大学のネーム・バリューがあるが、箱根駅伝で実績を残せない間は、高校にリクルーティングに行っても、その高校のナンバーワンの選手を獲得できなかったという。

例えば後に大学陸上競技界のエースとして活躍し、オリンピックにも出場した竹澤も高校時代はナンバーワンではなかった。竹澤から早稲田に来たいという逆指名があって獲得したという。

高校の長距離界では、長野の佐久長聖高校が有名だが、佐久長聖の監督が東海大学出身だったこともあり、なかなか有力選手を獲得できなかった。

ようやく最近は佐久長聖高校からもナンバーワンを取れるようになり、2010年は大迫というトップ選手を獲得できた。その大迫が2011年箱根駅伝の1区トップで早稲田の総合優勝の出だしを飾った。

スカウティングに加えて、早稲田実業などの附属高校も強化、一般受験でも選手を集めて、選手層を厚くした。

これはオフレコの話なのかもしれないが、大学生の就職が厳しくなってくると山梨学院大学、神奈川大学などは良い選手獲得が難しくなることが予想され、これからはネームバリューのある青山学院大学、明治大学などが強くなってくると渡辺さんは予想していた。


(2)達成可能な目標管理 夢と目標とは違う
チーム作りの基本は5,000メートルで13分台、10,000メートルで28分台で走る選手を育成する。区間賞を取る選手をそろえるのではなく、区間2−3位の選手を10人揃えるのだ。

弱いチームは過信して甘い目標を立てがちだ。

選手には毎年合宿所の壁に今年の目標を貼り出させ、「有言実行」を実践させた。達成可能な小さい目標を積み重ね、自己成長サイクルに乗せた。

この話は筆者も全く同感である。筆者は大学4年間パワーリフティングをやっていた。パワーリフティングも長距離走同様に、小さな目標達成の積み重ねだ。

筆者も最初はベンチプレス60Kg,スクワット140Kgくらいだったのが、卒業時にはベンチ140Kg,スクワット220Kgまで伸びた。

一ヶ月で2.5−5Kgくらい伸ばすことを目標にしていたので、四年間続けたら、記録が倍増した。渡辺さんが語っているのと同じ、小さい目標を積み重ねた結果だ。


(3)自己管理
選手には自己管理を徹底させ、身体のケアをさせた。合宿所も改修して、プロの栄養士、トレーナー、睡眠指導を導入した。

選手は試合前のカゼなどを隠す傾向があるので、これを見抜くのも強いチームを作るための監督の力量だ。

(4)モデル・ライバル・手本をつくる
上級生などでモデルとする選手をみつけ、ライバルをつくり、陽のオーラを出す人を見つける。これで成長を加速させるのだ。

さらにAチームとBチームをわけて、メンバーの入れ替えも頻繁に行った。

2011年のチームは竹澤が卒業し、エース不在のチームだったが、ハングリー精神のある選手がいたので、一区の大迫を覗き、区間賞なしで総合優勝した。

チームのまとまりを生む4年生、そしてハングリーな選手が箱根に強いのだ。「エースと新人には頼らない」というのが渡辺さんの基本的なチーム作りの考え方だ。

ちなみに渡辺さんのライバルは山梨学院大学のスタファン・マヤカ(現創造学園大学コーチ)だったという。

陽のオーラを発する人は毎月400キロは走るという東国原前知事、小出マジックで有名な小出監督が良い例だ。「すっごい足しているね」、「君は絶対に速くなるよ」、「絶対に君は大物になるから」というぐあいだ。


2.勝つための環境整備

渡辺さんは監督に就任して、早稲田のラグビー部の清宮監督に話を聞きにいったところ、まずはまわりを整備しろとアドバイス受けたという。これに従って、次のように環境を整備した。

(1)グラウンドと合宿所を7億円かけて改修
グラウンドは2億円、合宿所を5億円かけて改修した。そのうち1億円はOBの寄付でまかない、残りは大学に出して貰った。ちなみにラグビー部は施設の改修等に70億円掛けたという。

(2)大学のバックアップ
「スポーツの弱い早稲田は早稲田ではない」という奥島前総長の言葉を受けて、早稲田のスポーツ推薦枠は85人しかなかったのを拡大してもらった。

選手強化費も1,200万円だったのを1億5千万円にして貰い、専属のトレーナー、栄養士をやとった。

「光る奴には旅をさせよ」ということで、有望なランナーには海外遠征を経験させた。

例えば学生長距離界のチャンピオン竹澤謙介にはヨーロッパ遠征や世界選手権に出場させ、北京オリンピック出場も果たした。

ちなみに東洋大学は10億円、明治大学は7億円の年間強化費予算を持っているという。

(3)フロント整備
早稲田大学の陸上部のOB会は元日本陸連会長の92歳の青木半次さんや、衆議院議長宇の河野洋平さんなどの大物がいて、小回りがきかなかった。

そこで渡辺さんは70歳定年制を提案して導入し、若返りをはかり、口は出さずに金を出すというOB会に変えたという。


3.箱根駅伝にあわせたチーム作り
 
(1)コーチに山上りのスペシャリストを起用
箱根の山を制するものは、箱根駅伝を制する。渡辺さん自身は山上りの経験はなかったので、山上りのスペシャリストで早稲田の後輩の相楽豊さんをコーチとして上武大学からひっぱった。

(2)担当別に練習内容を変える
相楽さんの意見を入れて、山上り、山下り、平地区間等の担当別に練習スケジュールを変えた。

相楽さんは「相楽ノート」という選手の状態を克明に記録するノートを付けており、渡辺さんが「ガーッと行け」とか感覚的に言うと、「何分何秒で行け」という風に具体的に言い直してくれるという。

渡辺さんに欠けている点を相楽さんは持っているのだと。

ちなみに渡辺さんが雑談で語っていたが、東洋大学の柏原竜二選手はストライド走法で山上りができる100年に一度の選手だと。30〜40秒の差があっても、あっという間に抜かれるという。



しかし柏原選手も万能ではなく、箱根駅伝の山上りでは圧倒的な強さを示すが、山下りと接戦に弱いという弱点があり、最近は自分の記録を上回ることができないでいる。

渡辺さんは柏原君が最終学年の4年になる来年の箱根駅伝には、ひとあわふかせる作戦を考えているという。


渡辺さんのチーム作りの注意点
次は渡辺さんが講演で語っていたチーム作りで気を付けた点だ。

1.成功者の話を聞くこと
なかばジョークで、「監督になったら酒、女、金には気を付けろ」と言われたと渡辺さんは言っていた。そういえば監督の辞める原因は、たしかにこの3つだと。

2.危機感を持ち続ける
チームが上向きの時があぶないという。選手は故障を隠そうとするので、選手に密着して状態を常に把握しておくことが大事だ。

過去の箱根駅伝で何度も「涙の途中リタイア」という劇があったが、これがまさに選手の故障を監督が見抜けなかった例だ。

3.名選手名監督ならず
名選手はどうしても、「なんでできないの?」という態度になる。「俺ができた」のにはダメだという。

練習量も腹八分目の指導、60〜70点を目指し、アベレージ的に良い状態にもっていくのだ、

4.古い伝統の廃止
早稲田では後輩が給水したり、風呂掃除というノルマがあった。「礼に始まり礼に終わる」というOB会の反対もあったが、押し切った。

5.実力にあわせたチーム編成
A,B,C,Dチームをつくり、Dは故障者、1,2,3軍の入れ替えを頻繁に行い、チーム内でも競争させた。

6.適性の見極め
山上り、山下りのエクスパートを養成するため、高校時代から大学1年まで適性を見極め、山上り・下りのエクスパートを育てた。
  
7.補欠のケア
補欠には理由を告げ、納得させる。たとえチームでトップクラスの実力を持っていても、勝手な行動をする選手は補欠にした。

8.就職先のケア
OB会、陸上のネットワークなどで就職のケアをきっちり行うことで、高校生を早稲田に進学したいという気持ちにさせることができる。

9.マスコミ活用
渡辺さんは一切取材拒否はしないので、箱根駅伝の直前の12月20日あたりになると、取材陣が100人を超える。敵をつくらないのがポリシーだという。


最近の若い選手の扱い方

ビジネスマン向けの講演だったので、最近の若い選手の扱い方について渡辺さんがコメントしていた。筆者のメモからポイントを紹介しておく。

1.2/6/2の法則で監督自らが歩み寄って育てる
選手育成は子育てと同じだという。渡辺さんは女子アナと結婚しており、共稼ぎで、2歳の息子がいる。講演で「ワーク・ライフ・バランス」についての質問が出たときに、子育ては人間を強くすると語っていた。
  
高校ナンバーワンの大迫も天才肌で練習嫌いだが、監督から歩み寄って育てるのだと。

2.納得すると力を出す
接触する時間をふやして、わかりやすく説明すると納得すれば力を出す。

3.ミーティングを短くする
一回5〜10分として、毎日やっている。

4.昔の話、苦労話をしない 
信頼関係ができると聞きたがるが、それまでは自分からは苦労話はしない。

選手とコミュニケーションを取るために、渡辺さんは一時間ほど選手と一緒にジョッギングするという。

5.マザコンが多い 好き嫌いが多い
週一回の休みには家に帰る選手が多い。牛乳が飲めない奴もいる。


以上講演の内容も加えて、渡辺さんの指導法を整理して紹介した。

上記でも紹介した東洋大学の柏原君の対策を必死になって渡辺さんは考えているようだ。下り坂、平地に的を絞ったものだと思うが、2012年の箱根駅伝では柏原対策の秘策を見たいものである。来年の箱根駅伝が楽しみだ。


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2011年03月03日

田宮模型の仕事 プラモデルを作っていた頃のことを思い出す

田宮模型の仕事 (文春文庫)田宮模型の仕事 (文春文庫)
著者:田宮 俊作
文藝春秋(2000-05)
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図書館でたまたま目に付いたので借りてみた。同じ田宮俊作さん(田宮模型前社長、現会長)が書いた本で、「田宮模型をつくった人々」という本もある。

伝説のプラモ屋―田宮模型をつくった人々 (文春文庫)伝説のプラモ屋―田宮模型をつくった人々 (文春文庫)
著者:田宮 俊作
文藝春秋(2007-05)
販売元:Amazon.co.jp
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子供の頃プラモデルを作っていたので楽しく読めた。

どちらかというと「田宮模型をつくった人々」の方が、タミヤ関係者、モデラー、戦争経験者、海外の戦車博物館、小松崎茂さんなどの箱絵作者などの話を紹介していて興味深い。

今はプラモデルはおもちゃや売り場の隅に追いやられているが、筆者の子供の頃はプラモデル作りは人気があった。


スロットカーブーム

最近は町のおもちゃ屋自体が無くなっているが、筆者が子供の頃過ごした小田急線の鵠沼海岸駅の近くにおもちゃ屋があり、小中学生の頃は学校帰りなどによく寄った。

小学生の頃のスロットカーブームの時は(1960年代)、おもちゃ屋が店の一部を改造してスロットカーレーシングトラックを設置していたので、そこで自分なりに改造したスロットカーを走らせた。

スロットカーといっても、多くの人はわからないと思うが、1/24くらいのスケールのF-1レーサーを中心としたプラモデルにマブチの小型高速回転モーターを取り付けて走らせる。

スロットカーのブログがあるので、こちらをクリックしてスロットカーがどういうものか見てほしい。

筆者の住んでいる町田市にもスロットカーレース場があるとは知らなかった。



最近のミニ四駆との違いは、スロットカーにはモーターと駆動ギアしかなく、電池はない。

電力はレーストラックの溝の両側にむき出しの通電板が貼ってあり、車の下部にとりつけたブラシから電力を取り入れる構造となっている。

手元のコントローラーでそのトラックの電流を制御できるようになっており、スピードの調節が可能なので、カーブの直前まで加速してカーブでは減速し、コーナリングをきかせてカーブの終わりにはまた加速するというドライビングテクニックが見せられる。

加山雄三ファミリーが持っていた茅ヶ崎のパシフィックホテルには巨大なスロットカーレーシングトラックがあり、父親に頼んで1−2度連れて行ってもらったことがある。

スロットカーはスピードを競うので、マブチモーターの高速回転用モーターを買ってきて、中のコイルの電線を巻きなおしたり、車軸にはボールベアリングやオイルシールを取り付けて改造しレースに臨んだ。

その意味ではおもちゃとはいえ、モーターを自分で改造し、配線、足回り等も工夫するので理科の勉強になったと思う。


ミリタリーシリーズ

田宮の模型はミリタリーシリーズを中心にたくさん作った。ドイツのパンサー戦車やタイガー戦車などアメリカ、ソ連、フランスなどの戦車をいくつも持っていた。

1/35 MM タイガーI 初期型 352161/35 MM タイガーI 初期型 35216
タミヤ(1997-06-26)
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当時のプラモデルはモーターでの可動式が多く、自分でモーターやギアなどの部品を取り付けて動くように組み上げるのだ。自分で色を塗り、ハンダゴテなどで銃弾が当たったようなキズをつけて、本物のように見せかけるのだ。

実家においてあったパンサー戦車のプラモデルを持ってきて、電池を入れて動かし、当時小学生くらいだった子ども達に見せたことがある。初めは子どもも喜んでいたが、そのうちあまり興味を示さなくなった。

最近は戦車や戦闘機などで遊ぶということも、なくなっているからだと思う。

その意味では筆者の子ども時代はまだ戦争が終わって20年程度しか経っていなかったことも影響しているのか、男の子にはミリタリーモデルは人気があった。

この本ではアメリカメリーランド州のアバディーン戦車博物館や、英国のボービントン戦車博物館、フランスの博物館などが紹介されていて面白い。

米国のアバディーン戦車博物館

APG-OM-Nov-2006-118




出典:Wikipedia


ミニ四駆ブーム

ミリタリーモデルが人気を失ったので、タミヤはミニ四駆に事業転換し、これが大ヒットした。全部で2億台くらいタミヤはミニ四駆を売ったそうだ。

ミニ四駆は、モータライズで電池も入っているので、スロットカーのようにサーキットに行かないと動かないという欠点がなく、どこでも動かせ、家庭用のレーストラックを買うと自宅でも楽しめる。

またプラモデルのように接着剤でくっつける必要がないはめ込み式というのも、子どもに受けた理由だと思う。

タミヤのプラモデルは大変精巧なので、世界中にファンが多い。モデラーと呼ばれる模型マニアの人も多く、編集者でモデラーの人がつくった本が「田宮模型全仕事ビジュアル版」という3巻の写真集だ。

ミリタリーモデルズ アーミー (田宮模型全仕事ビジュアル版)ミリタリーモデルズ アーミー (田宮模型全仕事ビジュアル版)
文春ネスコ(2000-05)
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タミヤでは9万円もするラジコンの1/16の完成品のパンサー戦車を発売している。砲塔が動き、大砲も上下し、実際に実車に取材したエンジン音、大砲の発射音なども出る非常に精巧なモデルとのことだ。

1/16RC ドイツ パンサーG型 フルオペレーションセット (ITEM 56021) 【タミヤ/TAMIYA/ラジコン】
1/16RC ドイツ パンサーG型 フルオペレーションセット (ITEM 56021) 【タミヤ/TAMIYA/ラジコン】

自分ではいまさらこの9万円のラジコン戦車を買う気にはならないが、いかにも「大人買い」を狙った商品だ。昔のマニアなら買う人もいるだろう。

プラモデルをつくっていた昔のことを思い出した。楽しめる本だった。


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2011年02月19日

ザイニチ魂! ドイツで活躍する鄭大世(チョン・テセ)の本

ザイニチ魂!―三つのルーツを感じて生きる (NHK出版新書 337)ザイニチ魂!―三つのルーツを感じて生きる (NHK出版新書 337)
著者:鄭 大世
NHK出版(2011-01-06)
販売元:Amazon.co.jp
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4年間在籍した川崎フロンターレから、昨年ドイツ2部リーグのボーフム(Bochum)に移籍したザイニチ3世・鄭 大世(チョン・テセ)の本。

チョン・テセオフィシャル・ブログも持っており、ドイツでの生活やボーフムでの試合結果などが載っている。

チョン・テセブログ





書店で目立つところにあったので買ってみた。

この本を読んだ後で、「壁を壊す!」というブックレットが岩波書店より出ているので、こちらも参考までに読んでみた。「壁を壊す!」は「ザイニチ魂!」の内容と基本的に一緒で、2010年7月に早稲田大学のアジア太平洋研究センターで行われたチョン・テセの講演をまとめたものである。

壁を壊す!! サッカー・ワールドカップ北朝鮮代表として (岩波ブックレット)壁を壊す!! サッカー・ワールドカップ北朝鮮代表として (岩波ブックレット)
著者:鄭 大世
岩波書店(2010-12-09)
販売元:Amazon.co.jp
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チョン・テセの所属するボーフムはかつて小野伸二も在籍したことのあるクラブで、現在はブンデスリーガの2部の首位にいる。

筆者はボーフムに行ったことがある。といってもサッカーを見に行ったのではなく、ボーフムにある取引先のオフィスに行ったのだ。

ボーフムにはドイツの重工コングロマリット・クルップの特殊鋼部門の本社があり(現在は同じ重工コングロマリットのティッセンと合併して、ティッセンクルップという会社になっている)、昔担当していた鉄鋼原料の関係で訪問したのだ。

ボーフムはデュッセルドルフの郊外にあり、ライン工業地帯の中心地の一つだ。

Ruhr_area-administration




出典:Wikipedia

ボーフムの隣には香川真司が所属するドルトムントや、内田篤人が所属するシャルケ(ゲルゼン・キルヘン)もあり、チョン・テセは香川とよく食事するという。

チョン・テセは読売新聞で「一騎当千」というコーナーを半年ほど書いたり、サッカー雑誌にコラムを書いている。スポーツ選手が書いた本にしては読みやすく、文才があると思う。

この本ではチョン・テセの生い立ちから、幼稚園(河合塾ドルトンスクール名古屋校)、愛知朝鮮第二初級学校、東春朝鮮中級学校、愛知朝鮮高級学校、東京都小平市にある朝鮮大学校での生活、プロとして4年間在籍した川崎フロンターレの生活、そして北朝鮮代表として2008年の東アジア選手権、ワールドカップ予選、2010年のワールドカップ南アフリカ大会のことを書いている。

チョン・テセは身長181センチ、体重81キロというサッカー選手にしては、がっちりした体格をしている。サッカーもさることながら、ヒップホップをやりたいがために筋肉をつけたウェイトトレーニングの賜だとという。

フィジカル面が強いので、日本では「人間ブルドーザー」、韓国では「人民ルーニー」と呼ばれていた。

チョン・テセの憧れはコートジボアール代表のドログバだったが、実際にワールドカップで直接対決して、「レベルが違う、これが世界一か、人間技ではない、人間のがたいではない」という驚きばかりだったという。



ドログバは噂通りの怪物で、当たりの激しいイングランド・プレミアリーグのフィジカルサッカーで勝ち抜くためには、こうならなければならないのかと、ため息が出る思いだったという。

それで目標をドログバからルーニーに変えたのだ。



チョン・テセの目標は次の4つだ。

1.ボーフムをブンデスリーガの1部に昇格させること
2.2−3年後にはイングランドのプレミアリーグに進出すること
3.UEFAチャンピオンズリーグで優勝すること
4.2014年ブラジルワールドカップに出場して1勝以上すること

チョン・テセは現在26歳。ボーフムでは先発のポジションを確保しているが、それでも90分間フル出場は少ない。

チョン・テセのお父さんは在日2世で、国籍は韓国、お母さんも在日2世で国籍は北朝鮮。

もともとチョン・テセの国籍は父系主義で韓国だったが、学校も朝鮮系だし、修学旅行も北朝鮮に行っており、サッカーの代表も北朝鮮代表になるのが当然と思っていたという。

朝鮮大学2年生の時に代表召集の話が来たが、国籍が韓国だったので、参加できずショックを受けた。チョン・テセのお母さんは、韓国籍のお父さんと結婚したことすら悔やんでいたという。

当時から日本代表や韓国代表を目ざすという選択肢はなかった。

朝鮮大学から2006年にJ1の川崎フロンターレに在日として初めて入団。お母さんは泣いて喜び、お父さんも応援してくれたという。

フロンターレでは関塚監督に育てられた。

フロンターレではレギュラーの境目をウロウロしていた2007年6月にチョン・テセは北朝鮮代表になった。

チョン・テセの支援者がFIFAに「在日」の歴史的背景と具体例を示し、照会したところ、北朝鮮のパスポートを持っていれば良いということになった。北朝鮮当局や韓国大使館にねばり強く働きかけて、北朝鮮のパスポートが発給され、晴れて北朝鮮代表になったという。

北朝鮮代表として東アジア選手権予選で、1試合4得点など、3試合で8点を決め、大会の得点王になった。

帰国してからも北朝鮮代表としてなめられてはいけないという思いが強く、練習にも試合にも気を抜くことがなくなり、フロンターレでもレギュラーとなった。

2008年2月に中国・重慶で開催された東アジア選手権本番では、優勝した日本とも対戦し、チョン・テセのゴールで1:1で引き分けている。チョン・テセは韓国戦でゴールを決め、北朝鮮は1:1で引き分けたが、中国戦で1:3で負け、結局優勝を逃している。



チョン・テセは2008年から始まったワールドカップ予選で、チームから浮いてしまい、他の選手からチョン・テセは要らないと監督に進言されてしまったという。

チョン・テセはふてくされていたが、高校の恩師から「自分のルーツを思い出せ」とアドバイスされ、気持ちを入れ替えて代表の試合に臨んだ。北朝鮮は死のグループという韓国、サウジ、イラン、北朝鮮のグループBを韓国と共に勝ち抜いてワールドカップ本戦に出場する。

ワールドカップ本戦ではブラジル、ポルトガル、コートジボアールと同じ組になり、北朝鮮は結局全敗で予選で姿を消す。チョン・テセもブラジル戦での1アシストのみで、得点はゼロだった。ブラジルとは1:2で善戦したが、ポルトガル選では0:7,コートジボアール戦では0:3で負けた。

ワールドカップではカカ、ロビーニョ、クリスティアーノ・ロナウド、ゾコラのユニフォームを手に入れたという。

今後は前記の4つの目標達成のため活躍し、「世界のチョン・テセ」、「世界のザイニチ」として認知されるように貢献したいと結んでいる。


一番知りたい北朝鮮のことは余り書いてない

この本で一番知りたかったのは、チョン・テセがなぜ北朝鮮代表を選んだのか、北朝鮮代表の生活、北朝鮮の民衆の生活はどうなのかという点だが、残念ながらこの本ではあまり詳しく書いていない。

北朝鮮代表を選んだ理由も、日本代表や韓国代表は元々考慮に入れていなかったということであまりはっきりしない。

北朝鮮国籍のお母さんの影響で朝鮮系の学校に行って、教育も朝鮮系の教育を受けてきたので、正式な国籍は韓国でも祖国は北朝鮮と思っていたのだろうと思う。

北朝鮮代表の生活については、ごく断片的な情報しか載っていない。たとえばユニフォームは自分で洗濯しなければならないとか、ユニフォームの質が悪く番号がすぐ取れる、試合用のユニフォームを着て練習するとかだ。

プロがないので、選手達は1年中一緒に生活し、いわゆるステートアマだ。練習は同じパターンの繰り返しで単調だという。

戦い方は超守備的サッカーで、チョン・テセが下がったら10バックになってしまうほどの守備体系だったという。

北朝鮮の選手たちは、純粋で、多くの情報を知らないために、好奇心が旺盛だという。派閥意識もなく、人間的に素晴らしいと。ロシアリーグで活躍するホン・ヨンジョを中心にまとまっているという。

しかしチョン・テセは他の北朝鮮選手とはあまりつきあいがなく、合宿では一人でいることが多いという。やはりザイニチとしては、中に入って行きにくいのだろう。


「壁を壊す!」も含めて北朝鮮のことが余り書いていないのが残念だが、読み物としては面白い。チョン・テセは文才もある。楽しく読めた本だった。


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2011年01月16日

虜人日記 フィリピン戦線で生き残った技術者軍属の貴重な日記と敗因考察

虜人日記 (ちくま学芸文庫)虜人日記 (ちくま学芸文庫)
著者:小松 真一
筑摩書房(2004-11-11)
販売元:Amazon.co.jp
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太平洋戦争中フィリピンのブタノール工場建設のために徴用されたアルコール製造技術者軍属の日記。

今度紹介する山本七平の「日本はなぜ敗れるのか―敗因21ヵ条」に詳しく引用されていたので読んでみた。

日本はなぜ敗れるのか―敗因21ヵ条 (角川oneテーマ21)日本はなぜ敗れるのか―敗因21ヵ条 (角川oneテーマ21)
著者:山本 七平
角川グループパブリッシング(2004-03-10)
販売元:Amazon.co.jp
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ブタノールはガソリンの代わりの燃料として航空機や自動車に使えるので、日本軍はフィリピンの酒精(エチルアルコール)工場を改造して、ブタノールを生産することを計画していた。

次がフィリピンの地図だ。

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出典:Wikipedia

台東製糖酒精工場長だった小松真一さんは、フィリピンで砂糖からブタノール生産のために軍属として派遣され、終戦後はネグロス島で捕虜になった。

虜人日記2




















出典:本書 表紙裏

この日記は、フィリピンの捕虜収容所に収容されていたときに、戦時中のこととや捕虜生活のことを手作りのノートに挿絵入りで記録し、骨壺に入れて内地に持ち帰ったものだ。

紙は米軍のタイプ用紙を、収容所のベッドのカンバスをほぐした糸で綴じている。絵は鉛筆のスケッチに、マーキュロやアデブリンなどの医薬品をマッチの軸木に脱脂綿をまいた筆で彩色しているという。大変貴重な記録だ。

全部で9冊のノートと挿絵が写真入りで紹介されている。

虜人日記1











出典:本書表紙裏

巻末に文を寄せている未亡人と息子さんによると、この日記は戦後ずっと銀行の金庫に眠ったままだったが、小松さんが亡くなられた後、遺族が知人に配るために私家版として出版したものだという。

それを月刊「現代」の編集長が読んで、これは同じフィリピン戦線で戦い、戦後捕虜となった山本七平氏に強いインパクトを与えるに違いないとひらめき、山本氏に見せたという。

山本氏は「虜人日記」を題材に雑誌「野生時代」に「虜人日記との対話」というシリーズで連載し、それが山本氏の死後13年経って、上記の「日本はなぜ敗れるのか―敗因21ヵ条」として出版されたのだ。

「戦争と軍隊に密接してその渦中にありながら、冷静な批判的な目で、しかも少しもジャーナリスティックにならず、すべてを淡々と簡潔、的確に記している。これが、本書のもつ最高の価値であり、おそらく唯一無二の記録であると思われる所以(ゆえん)である。」と山本氏は評している。


「バアーシー海峡」問題は現在でも最大の問題

「捕虜人日記」を詳しく解説した山本七平の「日本はなぜ敗れるのか―敗因21ヵ条」のあらすじもいずれ紹介するので、「敗因21カ条」については詳しくは紹介しないが、上記の山本七平の紹介文にあるように、非常に冷静に、客観的に書いてることは、さすが科学者と思わせるものがある。

特に中国の台頭で、現在でも安全保障上の大きなリスクとなってきているシー・レーンの確保を日本ができなかったことを、最大の敗因として挙げている。

その部分は「15.バアーシー海峡の損害と、戦意喪失」という言葉で表されている。バシー海峡とは台湾とフィリピンの間の海峡のことだ。そして山本七平氏も、「私も日本の敗滅をバシー海峡におく」と賛同している。

もちろん21項目挙げられている敗因の一つ一つが合わさって日本の敗戦となったわけだが、旧日本軍の致命傷は海上輸送の安全が確保できなかったことだと思う。

インドネシアで終戦を迎えた筆者の亡くなった父は、昭和18年に召集されたが、台湾沖で、同僚の輸送船が撃沈され、多くの兵隊が亡くなったと言っていた。駆潜艇がじゃんじゃか爆雷を落としたが、結局敵潜水艦は逃げてしまったと。

インドネシアに着いても、その後の新兵を乗せた輸送船がことごとく撃沈され、終戦まで初年兵のままだったと語っていた。

運が悪ければ、父も海の藻屑になり、筆者も生まれていなかったわけだ。だから小松さんの書いていることは、筆者には他人事とは思えない切迫感がある。

敗戦直前には日本国内の海運も投下機雷で壊滅状態になるのだが、海上輸送の安全確保ができなかったことは、米潜水艦対策の不徹底によるものだ。

それの反省なのか、自衛隊は対潜水艦戦闘能力が飛び抜けて高い。

しかし、日本が誇る100機ほどの対潜哨戒機P3Cも、定価3万8千ドル(300万円)といわれるスティンガーミサイルと同等品を大量に配備して、漁船を改造した工作船やジャンクボートなどから発射すれば、ほとんど撃ち落とされてしまうだろう。

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出典: 以下別注ないかぎりWikipedia

P3Cは軍艦相手なら対艦ミサイルがあるが、漁船のような工作船では防ぎようがないだろう。

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そんな事態になったら、太平洋戦争の時とおなじ「バアーシー海峡の損害と、戦意喪失」が起こることは目に見えている。

「米軍基地のない沖縄(日本)」、「新しい世界観」や「米国離れ」を説く評論家は多い。しかし、この先人の遺言たる「バアーシー海峡」問題を、日本の軍事力でどう解決しようとするのだろう?

あきらかに東シナ海の覇権を狙う中国は、今や大気圏外から急降下して米軍空母を直撃する新型ミサイルを開発し、これに対する防御策はないという。

それはそうだろう。弾道ミサイルなら弾道を計算して、同じ弾道で逆からミサイルを打てば迎撃できる。しかし上から超高速で落ちてくるミサイルは弾道という考え方は当てはまらない。弾道に合わせるということをしないと、線でなく点で迎撃することになり、これは事実上超高速落下物体では不可能となる。

この本は決して太平洋戦争の時のフィリピン戦線での体験記だけではない。この本が指摘する「敗因21カ条」のうち、いくつかはそのまま現在の日本に当てはまる警鐘である。

閑話休題。小松さんの日記に戻る。

小松さんは、フィリピンに昭和19年2月に飛行機で着任、早速各地の酒精工場を精力的に視察する。

マニラはジャズが流れ、夜はネオンサインが明るく、男女ともにケバケバした服装で、当時は「ビルマ地獄、ジャワ極楽、マニラ享楽」と言われていたという。

砂糖からブタノールを製造するには、莫大な石炭と副原料としてのタンパク質が必要だ。タンパク源としてはコプラが利用できるが、フィリピンには石炭がなく、資材難の中をようやく完成させた工場も、石炭がないので運転の見通しが立たないという状況だった。

結局昭和19年7月にフィリピンのブタノール生産計画は中止となり、小松さんは、やることがなくなったが、民間から採用した人は最低1年間は南方にいなければならないとして、軍に足止めを食う。

仕方がないので、小松さんはフィリピンの酒精工場の生産アップに尽力することとなり、レイテ島やセブ島各地の酒精工場を訪問し、戦火のなかにもかかわらず生産量をアップさせた。

最後にネグロス島の酒精工場の増産任務を受け、ネグロス島に赴任する。

この日記には内地からネグロス島に届いたばかりの最新鋭の四式戦闘機が、米軍の空襲で地上で焼かれた挿絵が載せられている。

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小松さんが「コンソリ」と呼ぶB-24爆撃機が大編隊で毎日のようにネグロス島を爆撃しており、工場の生産を上げるのもままならない状態だったが、生産をなんとか拡大し、一部ではウィスキーをつくって、部隊の兵士に喜ばれる。

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そのうち米軍がミンドロ島、ルソン島に上陸し、昭和20年3月にネグロス島にも上陸したので、せっかく生産している酒精工場に爆薬をしかけて爆破し、軍隊と一緒に山に待避する。それから半年ネグロス島の山での待避行が続く。

米軍は事前に砲撃して戦車で攻め込むという戦法で、いくつかの陣地がすぐに陥落した。戦車用の地雷も地雷探知機で掘り出してしまうから効果なかったという。

ネグロスの日本軍2万4千のうち、戦闘部隊は2千人のみで、他は輸送や飛行場設営などの非戦闘部隊ばかりだったという。しかし戦闘部隊がどんどん戦死するので、非戦闘部隊からも補充されていった。

武器は貧弱で高射砲が3門あるだけで、あとは重・軽機関銃と迫撃砲、飛行機からはずした機関砲などで、2,000人につき旧式の三八歩兵銃が70丁という情けないものだったという。

一発撃てば、五〇発のお返しがあり、とても手が出せない状態だったという。

小松さんは食用野草の調査を始め、部隊に食用野草の講習会を開催して喜ばれ、後には現地物資利用講習としてカエル、トカゲ、バッタ、燕、ヤマイモ、バナナの芯などの食用にできるものの講義をおこなう。

自活のために芋の栽培も行ったので、そこを希望盆地と名付けた。米軍は日本軍に追われた時に、さらに奥地に自活体制を整え、様々な農産物の畑とりっぱな無線通信設備が残されていたという。

そのうち日本軍の部隊同志で追いはぎ行為が発生し、日本軍同士も警戒しなければならなくなった。ミンダナオ島、ルソン島では人肉食も起こったという。

日本軍兵士は、空襲や砲撃、そして餓死でどんどん倒れていき、死体があちこちに放置され、使える物は何でも取られ、裸に近い死体ばかりだったと。ネグロス島ではマラリア感染は少なかったのが幸いだったが、アメーバー赤痢で衰弱して死ぬ者も多かったという。

8月18日に兵団から「終戦になったらしい」という事が正式に伝えられたが、皆おどろかなかったという。米軍に軍使を送って交渉し、山を下りて9月1日に捕虜収容所に収容された。2万4千人のうち、八千人が戦死、八千人が餓えと病気で死亡し、八千人が生き残った。

米軍の軍用携帯食料Kレイションを食べ、久々に文化の味をあじわったという。米軍がみやげにするといって刀や拳銃をほしがるので、くれてやったと。

捕虜収容所では当初カリフォルニア米とコンビーフの缶詰を配給されたが、人員が増えるので、量が減らされ、栄養失調で死者もでた。持ち物を住民の食料と交換したりして生き延びたという。

収容所長が交代し、日本人を憎んでいた軍人が収容所長になったことも影響していたという。

そのうちネグロスからレイテ島の収容所に移送され、食事や居住待遇も良くなり、長らくつきまとわれたシラミも駆除できた。

11月からは兵隊達が帰国しはじめたが、将校の順番は不明だった。捕虜は米軍の兵舎掃除や建築作業をやらされたが、食事は良かった。

黒人は親切だったという。また米軍は将校と兵隊の区別はなく、将校でも自分の荷物は自分で持っていくが、日本の将校は当番兵に担がせる。

朝鮮人、台湾人は早く帰国したが、彼らの不満は彼らに対する差別待遇であり、感謝されたことは、日本の教育者だったという。

盗みは日本人の間では不道徳だが、米軍から盗んでくるのは美徳とされたという。米軍も捕虜は盗みをするものと寛大に見ていたという。小松さんには方々から酒の密造の相談が寄せられたという。

そのうち演芸会や講演会が開かれ、新聞も10日に一回の割合で出されたという。弾やケースを使って飛行機などの工芸品を作る人もいた。小松さんは掲示板で、何でも相談室のようなことを担当していた。

暴力団がのさばりだして手が付けられなかったが、そのうち全員集合させられ別の場所に送られた。

次に小松さんたちはルソン島の収容所に送られる。カランバン収容所で、ここで山下大将は戦犯として処刑された。最後の言葉は「自分は神に対し、恥ずるところなし」というものだったという。ちなみに収容所はキャンプではなく、ストッケードと呼んでいる。営巣(違反を犯した兵隊を閉じこめておくための場所)のことだ。

本間中将は最後まで米軍を呪って、「今にお前達もこういう目に会う」といい残して銃殺されたという。

小松さんは昭和21年12月に日本に帰国した。帰国が決まってから、もう明治精糖の社員ではないので、事業を始めるアイデアをこの日記に書いている。

なかなか面白いアイデアで、今日でも、これらが実現できたら大変な事業になると思う。

1.家畜飼料製造会社 空中窒素を硫安として固定し、これを酵母に消化させ、タンパク質(人造肉)として飼料化する。

2.海に無尽蔵といわれるプランクトンを集めて家畜の飼料とする。プランクトン採集法は現在研究中だと。

3.マングローブの研究。マングローブは海水から真水を吸収して生きている。この組織の研究をしたら、海水から燃料なしで真水が取れる。

4.シロアリの研究。シロアリの体内のバクテリアは木材繊維を分解して糖化している。工業でやると高圧と酸が必要だが、バクテリアはどちらも不要である。


この日記の中では師団長などの高級軍人では良く書かれている人は稀だが、ネグロス警備隊長の山口大佐は兵をかわいがり、フィリピン人のゲリラも捕まえて東洋人の生きる道を説き、どんな大物でも逃がしてやったという。

バカな「閣下」の命令には決して服さず、敬礼もしなかったと。戦犯取り調べでも自分自身が責任を負い、他に迷惑がかからないようにと言うので、裁判官も検事も人格に打たれ、何とか罪にならないように努力しているという話を紹介している。

小松さんは、国家主義を脱却して、国際主義的高度な文化・道徳を持った人間になっていかねばならない。これが大東亜戦争によって得た唯一の収穫だと思っていると記している。

最後に山本七兵の「『虜人日記』の持つ意味とは」という文が載っている。

小塩節教授のエッセー「ミュンヘンの裏町で」を読むと、ダッハウ収容所では囚人一人につき掛かる費用と、囚人から没収して国庫収益となる資産、金歯及び強制労働による生産、死体から取れる脂代と肥料代まで計算してあって、国にとってプラス(黒字)は2,000マルクと計算した書類があるという。

ドイツは正確に記録を残した。一方日本は記録をすべて棄却した。そんな中で、この「虜人日記」は、「現場にいた人間の現場で書いた記録」という意味で重要であり、他にない資料であると山本氏は評している。

戦争中、戦後の捕虜収容所での生活が挿絵入りで描かれていて、興味深い。

収容所の話というと、歴史家会田雄次さんの「アーロン収容所」が有名だが、「アーロン収容所」とはかなり異なる。やはり豊かな戦勝国米国の捕虜の取り扱いの方が、戦争で疲弊した英国の捕虜の取り扱いより、よほどましだったようだ。

ジャワから帰還した筆者の父は、戦後もオランダ軍の要請で武装解除せず、オランダ人を憎むインドネシア人からオランダ人を守ってやっていたのだと言っていた。

捕虜生活まで「ビルマ地獄、ジャワ極楽、マニラ享楽?」だったようだ。

重い作品だが、読み出すと一気に読める。表現が不謹慎かもしれないが、「面白い」作品だ。そして日本の安全保障についても考えさせられる先人の忠言である。


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2010年11月08日

オシムの言葉 川渕Jリーグ元チェアマンが感動した本

オシムの言葉 フィールドの向こうに人生が見えるオシムの言葉 フィールドの向こうに人生が見える
著者:木村 元彦
販売元:集英社インターナショナル
発売日:2005-12-05
おすすめ度:4.5
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元日本代表監督、イビツァ・オシムのボスニア内戦を中心とした伝記。以前紹介した明石さんの本や、「戦争広告代理店」と一緒にボスニア紛争を知るために読んでみた。

ドキュメント 戦争広告代理店 (講談社文庫)ドキュメント 戦争広告代理店 (講談社文庫)
著者:高木 徹
講談社(2005-06-15)
販売元:Amazon.co.jp
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元Jリーグチェアマンの川渕三郎さんがこの本を読んでオシムに惚れ込み、オシムを日本代表監督に推薦したことが思い出される。

この本は旧ユーゴに関する本を何冊も書いているジャーナリスト木村元彦さんによるもの。

終わらぬ「民族浄化」 セルビア・モンテネグロ (集英社新書)終わらぬ「民族浄化」 セルビア・モンテネグロ (集英社新書)
著者:木村 元彦
集英社(2005-06-17)
販売元:Amazon.co.jp
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オシム自身が書いたものではない。オシム自身の本は、「恐れるな」、とか「考えよ」とかがある。

恐れるな!  なぜ日本はベスト16で終わったのか? (角川oneテーマ21 A 126)恐れるな! なぜ日本はベスト16で終わったのか? (角川oneテーマ21 A 126)
著者:イビチャ・オシム
販売元:角川書店(角川グループパブリッシング)
発売日:2010-10-09
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最初に現名古屋グランパス監督">ドラガン・ストイコビッチの推薦文が載せられている。「イビツァ・オシムは、私のキャリアの中でも最高の指導者のひとりだった」。

オシムは南アフリカワールドカップに向けた日本代表監督在任中に脳梗塞で倒れ、生死の境をさまよい、それがため日本代表監督には復帰できず、岡田武史監督に代わった。先日のザッケローニ監督の初戦でアルゼンチンに勝利したこともあり、もはやオシムは過去の人という感じもあるが、新聞のコラムなどに書いている日本代表の試合についてのコメントは、するどいものがある。


オシムのエピソード

この本ではオシムの性格がわかるエピソードを多く紹介している。

★ジェフ市原の監督に就任したときに、クラブハウスを最初に訪れたときに就任スピーチなどはいらないと拒否して、選手一人一人のテーブルをコツコツと2回叩いて回った。なぜこれをしたのかは後述する。

★いきなり練習量を増やし、午前と午後2時間ずつの練習。休日は事前には知らされず、前日になって知らされる。フルコートで3対3のミニゲーム、しかもワンタッチでボールを出さないとオシムは激怒した。

★オシムがまっさきにキャプテンに指名したのは、21歳の阿部勇樹だった。


オシムの生い立ち

オシムは1941年サラエボ生まれ。サラエボはセルビア人、クロアチア人、ムスリムの3民族の融和する町だった。13歳でプロチームのジェレズニチャルに参加する。

チームから奨学金を貰ってサラエボ大学では数学を学び、大学から教職員として大学院進学を勧められるが、経済的な理由で断る。

オシムの現役時代は長身(191センチ)のフォワードだった。ドリブルをさせると、ボールを持ちすぎる傾向があったという。


日本との出会い

1964年の東京オリンピックの時に来日し、日本との試合で2ゴールを決めている。このときにカラーテレビを見て驚き、外国人をもてなしてくれるホスピタリティに感動し、日本びいきになったという。

オシムは1970年にフランスのストラスブールに移籍し、8年間フランスリーグのいくつかのチームでプレーして、最後はストラスブールで1978年に引退し、ユーゴに帰国する。


監督としてのキャリア

古巣のジェレズニチャルの監督になり、ユーゴ代表のコーチにも招かれる。1984年のロスアンジェルスオリンピックでは3位になり銅メダルを獲得する。

その時に見いだしたのが">ドラガン・ストイコビッチだ。選手に対する心理的マネージメントと相手チームの分析能力はチームの大きな武器になったという。

1986年にはユーゴ代表監督に就任する。その後ユーゴは分割されるので、最後のユーゴ代表監督となった。この時代のユーゴには世界的なタレントが揃っていた。

多民族国家なので、各民族から一定数を代表に入れ、開催地出身の選手中心にセレクションを行うという不文律があったのを、オシムは無視する。1990年のイタリアワールドカップに向けてオシムは急ピッチで世代交代を図っていた。

チームはスコットランド、フランス、ノルウェー、キプロスという強豪揃いの組のワールドカップ予選を無敗で突破する。

1990年のワールドカップ本戦は、初戦でドイツに1:4で負ける。誰を使えという外圧にその通りやるとどうなるかを見せるためにわざと負けた感がある負け方だ。

その後コロンビア、UAEに勝ち、決勝トーナメント進出。緒戦のスペイン戦では、ストイコビッチの活躍で勝ち、マラドーナ率いるアルゼンチンと対戦して引き分け、PK戦で敗退する。ストイコビッチが外し、マラドーナが止められた歴史に残るPK戦はオシムは見ていないという。監督としての仕事は終わったとして、ロッカールームに引き上げていたからだ。

ワールドカップ後、パルチザン・ベオグラードの監督に就任する。ユーゴ代表監督も兼任するが、このときユーゴ連邦が崩壊し、世界最強チームが戦う前にバラバラになるという経験をする。1990年から1991年の間に国際試合はほとんど勝つが、国はどんどん崩壊していった。


サラエボ包囲戦勃発

1992年3月のオランダ代表との0:2で負けた試合がオシム最後の試合となった。直後にボスニアで内戦が始まったからだ。

1992年4月にサラエボの自宅からオシムと次男がベオグラードに行った直後に、サラエボはセルビア人勢力に包囲され、爆撃が始まった。セルビア軍の戦車260両、迫撃砲120門が町を取り囲んでいた。

これが1395日にわたって続けられるサラエボ包囲戦の始まりだった。

オシムはユーゴ代表のユーロ参加には同行せず、ギリシャのパナシナイコスの監督に就任した。ちなみにユーゴ代表はスウェーデンから強制帰国させられ、ユーロ1992には参加できなかった。

サラエボに残る妻のアンナとはアマチュア無線の交信で連絡を取り合う日々が続き、パラシナイコスのオーナーがギリシャ軍のヘリコプターでアンナを脱出させることを提案するが、アンナは自分だけが特別待遇を受けるわけにはいかないと拒否する。

オシムは一年でパナシナイコスをギリシャカップで優勝させた。翌年はオーストリアのシュトルム・グラーツの監督に就任する。

旧ユーゴ、サラエボと連絡が取りやすいからというのがグラーツを選んだ理由だ。ちなみにグラーツはアーノルド・シュワルツネッガーの出身地でもあり、スタジアムは彼の名前が冠してあるという。

レアルバイエルンなどのビッグクラブからのオファーもあったが、オシム自身ビッグクラブ向けの人間ではないとして断る。ビッグクラブは人気のある選手を外すと、監督のクビが飛ぶ。監督としての仕事ができないからだと。

だからレアルはスペインでもヨーロッパでもチャンピオンになれないだろうとオシムは言う。それは当たっているが、監督も選手以上に人気がある今年のモウリーニョ監督の場合はどうなるのか見ものだ。

オシムは弱小クラブのグラーツを3年でオーストリアリーグ優勝にまで持って行く。
後にグランパスに入団するイビツァ・ヴァスティッチがオシムを慕ってグラーツに入団する。

やがて毎日8人ずつ脱出できるリストにアンナが載り、包囲から2年半後にオシムと再会する。


ジェフ千葉監督就任

オシムはオーストリアで8年間監督した後、イタリアワールドカップで顔見知りになった祖母井(うばがい)GMの、代理人を通さない直接の交渉で心を動かされ、ジェフの監督就任を承諾する。

祖母井さんが訪ねた時、すでにジェフの全選手の名前と顔はインプットされていたという。「余計な挨拶はいらない。選手にはケガをしないよう、祖国に伝わる厄よけのノックをしてやろう」ということで、冒頭の場面となる。

この本の著者の木村さんは内戦の終わったサラエボを訪問して、依然として残る民族間の反感や、サラエボオリンピックの時のスタジアムが今や墓地となっている場所の写真を載せている。

オシム






出典:本書133ページ


オシムがジェフの監督になって、2004年にリアルとの親善試合が組まれた。リアルは銀河系軍団のオッファーを袖にした監督が作り上げたチームを見たいという理由でマッチメイクされたものだ。

この本では現役生活を海外で過ごしたサッカー選手だったオシムのセルボ・クロアチア語の通訳の話や、オシムが監督となって躍進したジェフの戦歴が紹介されている。

もちろん日本代表監督就任前だから、日本代表の話はない。2005年ナビスコカップでのジェフの優勝で終わっている。


ボスニア紛争関係の本として読んだが、オシムの人柄がわかり面白い本だった。川渕元Jリーグチェアマンが読んで、オシムに惚れ込み、日本代表監督に推薦したという理由が理解できる。

オシム自身の本も上記の「恐れるな」とか、「考えよ」とかがあるので、今後読んでみる。

考えよ! ――なぜ日本人はリスクを冒さないのか? (角川oneテーマ21 A 114)考えよ! ――なぜ日本人はリスクを冒さないのか? (角川oneテーマ21 A 114)
著者:イビチャ・オシム
販売元:角川書店(角川グループパブリッシング)
発売日:2010-04-10
おすすめ度:4.0
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2010年10月07日

リクルート事件・江副浩正の真実 黙って死ぬわけにはいかない

リクルート事件・江副浩正の真実 (中公新書ラクレ)
リクルート事件・江副浩正の真実 (中公新書ラクレ)
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昭和63年に起きたリクルート事件を起こしたリクルート創業者江副浩正さんが、事件の捜査と検察の取り調べや裁判でのやりとりを、勾留中の房内ノートや公判記録などをもとに書いたリクルート事件と捜査の総括。読書家の上司のすすめで読んでみた。

この本のタイトルに「江副浩正の真実」とあるのは、「検察の真実」もあるだろうとして、江副さん側からのまとめだということを示している。

この本の原稿は20年ほど前に書いていたが、周りから止められていたので、いままで公開していなかった。しかし「黙って死ぬわけにはいかない」ということで、今回公開に踏み切ったものだ。

ちょうど厚生労働省の身障者優遇郵便不正事件で、村木元局長の取り調べをした大阪地検特捜部の前田検事が、フロッピーディスクの日付データを検察側に有利なように書き換え、それを上司の副部長や特捜部長が知っていたことが、大問題に発展しているときだけに、リクルート事件での特捜部の取り調べをありのまま書いているこの本は興味深く読めた。


リクルート事件とは

リクルート事件といってもピンとこない人が多いかもしれないが、リクルート事件は昭和63年(1988年)、ちょうどバブルのまっただ中で明るみに出たリクルート創業者江副さんが、上場直前の不動産子会社リクルートコスモスの未上場株を政界、官界、経済界の多くのキーパーソンに、数千万円単位の融資まで付けて安値で買わせ、「濡れ手に粟」の利益を上げさせた贈収賄事件だ。

秘書がリクルート株を買った当時の竹下首相までリクルート事件の責任を取って辞任したほどで、この事件のために、ポストを辞任したり、裁判で有罪になった人は次の通りだ。まさに戦後最大規模の贈賄事件である。(役職は在職当時)

政界
中曽根前首相 自民党を離党
竹下登首相  辞任 リクルート株を受け取った青木伊平元秘書は自殺
藤波孝生官房長官 一審で無罪となったが、二審で逆転有罪(懲役三年 執行猶予四年)。最高裁で棄却され有罪が確定
宮沢喜一蔵相  辞任
池田克也 公明党代議士 有罪(懲役三年 執行猶予四年)

その他、秘書、家族なども含め、リクルートから株を受け取った政治家は、渡辺美智雄(現在の渡辺喜美みんなの党党首のお父さん)、加藤六月、加藤紘一、塚本三郎(民社党)、安倍晋太郎、森喜朗他だ。当時の大物政治家ばかりである。

NTTルート
真藤恒NTT会長 有罪(懲役二年 執行猶予五年)
長谷川NTT取締役 有罪(懲役二年 執行猶予三年)
式場NTT取締役 有罪(懲役一年六ヶ月 執行猶予三年)

官界ルート
鹿野茂労働省職業安定局業務指導課長 有罪(懲役一年 執行猶予三年)
加藤孝労働事務次官 有罪(懲役二年 執行猶予三年)
高石邦男文部事務次官 有罪(懲役二年六ヶ月 執行猶予四年)
小松秀煕川崎市助役 解任(リクルート事件が明るみに出る発端となった人物)
原田憲経済企画庁長官

経済界他
森田康日本経済新聞社社長 辞任
公文俊平東大教授 辞任
牛尾治朗経済同友会副代表幹事 辞任
諸井虔経済同友会副代表幹事 辞任

リクルート関係者
江副浩正 有罪(懲役三年 執行猶予五年)
辰巳雅朗リクルート社長室長 一審で無罪となったが、二審で逆転有罪(懲役一年 執行猶予三年)、最高裁で棄却され有罪が確定
小林宏ファーストファイナンス社長 有罪(懲役一年 執行猶予二年)
小野敏廣リクルート社長室長 有罪(懲役二年 執行猶予三年)
松原弘リクルートコスモス社長室長 有罪(懲役一年六ヶ月 執行猶予四年)


朝日新聞横浜支局の大スクープ

事件が明るみに出たのは川崎市の小松助役へのリクルートコスモス株譲渡を朝日新聞の横浜支局が報道した昭和63年6月だ。朝日新聞横浜支局はその後「追跡リクルート疑惑」という本も出しており、米国調査報道記者・編集者協会賞を日本ではじめて受賞している。

追跡 リクルート疑惑―スクープ取材に燃えた121日
著者:朝日新聞横浜支局
販売元:朝日新聞社
発売日:1988-10
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文才のある江副さんだけに、460ページもの厚い新書だが、飽きさせないで読める。


世界最長(?)の裁判

江副さんの裁判は第一審の判決を江副さんも検察も受け入れた一発決着だったが、それでも13年3ヶ月かかり、開廷数は322回、分離して行われた裁判を入れると450回以上、江副さんの証言数も128回で、日本の刑事裁判史上最多、世界でも例のない開廷数だったという。


日本の政治混乱を招いたリクルート事件

江副さんが書いているので、なるほどと思ったが、リクルート事件で竹下首相が退陣した後の参議院選挙で自民党は惨敗し、それ以来、野党が参議院の過半数を占める現在と同じ「ねじれ国会」が生じた。

その後海部俊樹、宮沢喜一、細川護煕、羽田孜、村山富市、橋本龍太郎、小渕恵三、森喜朗と平均在任期間一年程度で内閣が替わり、平成13年の小泉純一郎内閣で自民党が衆参両院で過半数を占めるまで12年間政治は安定しなかった。

江副さんは「政権が安定していないと経済は発展しないとの思いから政治献金をしたが、逆の結果になった。私は大罪を犯してしまった。悔やんでも悔やみきれない思いだった」と書いている。

リクルート事件が、自民党政権の基盤を危うくし、政治の混迷を招いた結果となったことは間違いないと思う。

いろいろ参考になったが、筆者なりに整理すると、次の通りだ。


江副さんは寂しがりや?

★江副さんがリクルートコスモス株をいろいろな人にばらまいたのは、親しい人に未上場株を渡すという当時の慣行によるところもある。しかしあきらかにやりすぎで、特に政治家や高級官僚にも送ったことが世間の非難を浴びた。

★検察官に語った「50歳にもなれば、仕事の関係と友人とを区別するのは難しくなります。経営者の集まりで知り合って、友人関係になることもあります」という江副さんの発言は、たぶん本音なのだろうが、それにしても未上場株をばらまいたことは、あまりにも軽率と言わざるをえない。

江副さんの親しい友人は「江副さんは寂しがりやだからだ」と言っているという。経営者が孤独ということはわかるし、頼れる友人が欲しいという心境もわかるが、そんなことが理由になるのか?江副さんのセンスを疑う個所である。


不動産バブルで国民の怒り爆発

★当時はバブルのまっただ中で不動産価格が急騰し、一般民衆は通勤圏に持ち家を持つことが難しくなって不満が高まっていた。そんな中でバブルで最も儲けた不動産業のリクルートコスモスの株を政治家や高級官僚に贈り、「濡れ手に粟」で儲けさせるという事件だったので、国民の怒りが爆発した。

★そのため国民の怒りを代弁して朝日新聞始めマスコミが徹底的にリクルートを叩いた。朝日新聞では、社員は株取引は禁止されていたという。だから「濡れ手に粟」は記者の怒りにも火を付けたことは間違いない。


最大のポイントはワイロ性の認識

★贈収賄罪の最大のポイントは、本人にワイロ性の認識があるかどうかで、検察官は有罪にするために本人のワイロ性を認める自白調書が絶対必要だった。だから検察は江副さんなどの被疑者を精神的に追い込む一方、保釈と執行猶予をちらつかせ、アメとムチで、検察が作った調書に署名させて自白証拠を作った。

★江副さんは、全くワイロ性の意識はなかったので、当初は黙秘を続け、徹底的に否定するつもりだったが、精神的に追いつめられたことと、リクルート大阪の顧問弁護士から頑張っても結果は同じなので、検察官がつくる調書にサインして早く保釈を得た方が良いというアドバイスがあって検察官調書がデタラメでもサインすることにした。

★しかし虚偽の調書にサインしたことでNTT会長真藤さんはじめ、多くの人に迷惑を掛ける結果になったという。


検察官調書を重視する裁判所

★最高検察庁が取り調べをすべて管理しており、一旦サインした検察官調書も、「”ヘッドクオーター”から不十分としかられた」という理由で、どんどん検察に有利な調書に書き換えられ、そのたび毎に署名を強いられた。

★検察官のやりかたは、本書でも「現代の拷問」と紹介されている通り、被疑者を何時間も壁の直前に立たせ、目をつぶると大声でどなったり、座っているイスを蹴り飛ばしたり、毎日長時間尋問したりして精神的に追いつめるというやり方だ。しかし裁判では、検察官はそのような不当な圧迫尋問をしたことはないとウソをつく。

★江副さんは日本では起訴されると有罪率が99.8%と高い理由は、たとえむりやりサインさせられた検察官調書でも日本の裁判所は検察官調書で判決を決めるからだと感じたと語っている。「検事によって罪はつくられる」。所詮裁判所も国家権力なのだ。


国民意識を反映した判決では?

★江副さんはこう語るが、もともと株を贈ってもリクルートが得たメリットはほとんどないので、ワイロ性も薄かった。ところがマスコミ報道により国民の怒りがリクルート事件の当事者に向けられていたので、裁判所としても無罪と認定することは難しかったのではないか。

★だから江副さんの主張する無理矢理作られた虚偽の検察官調書が裁判所の判断に繋がったというよりは、むしろ裁判所は国民感情に配慮した点が大きいのではないかと筆者は考えている。

その意味では、この事件も佐藤優さんが「国家の罠」で書いている「国策捜査」と言えるかもしれない。


株売却益で追徴課税26億円!

★江副さんはリクルート事件で株取得を斡旋しただけなのに、国税庁からは江副さん自身の株取引として認定され、株の売却所得の申告漏れで巨額の追徴金を徴収された。最高裁まで争ったが、結局敗訴し、なんと合計26億円の国税・地方税を納付した。リクルート株をダイエーの中西さんに売っていなければ、この判決で破産しただろうと。


検察は政治家をターゲット

★江副さんはリクルート事件前から様々な政治家を囲む会に参加したり、「21世紀の総理候補」と言われていた藤波孝生代議士などには、毎年1,000万円の政治献金をしていた。政治家に経済的支援をすることで、少しでも国政を良くする上で役立っていると思っていた。しかし国民の常識は「見返りを期待しない政治献金はない」というものだったことは、事件後に分かったと江副さんは語る。

★江副さんは中曽根元総理と総理公邸で昼食を一緒にしたことがあるという。このとき出されたのはレトルトカレーで、総理公邸にはシェフも執事もいないことに驚いたという。リクルート事件では検察は中曽根元総理まで逮捕すべく視野に入れていたが、果たせなかった。江副さんは2008年に森ビルが建てた上海のSWFCビルの完工式で、中曽根さんに再会し、迷惑を掛けたことをわびたという。

話はそれるが、これが筆者の会社のオフィスも入っている上海のSWFC(Shanghai World Financial Center)ビルだ。(写真の後ろ側のビル)これらは9月に上海に出張したときに撮った写真だ。

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横から見ると栓抜きのような格好だが、下から見ると尖塔のように空に向かってとがっている様に見える独特のデザインだ。

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上海の浦東地区にはこんな感じでビルが林立している。写真の真ん中のビルも、やはり森ビルが10年以上前に建てたもので、以前は上海で一番高いビルだった。筆者の会社の前の上海オフィスはこのビルにあった。

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上海の浦東地区はちょうど日本の幕張を大規模にしたような人工の町で、その規模の大きさには驚かされた。

閑話休題。


★取調中、竹下内閣が退陣し、次期内閣の閣僚名簿の様なリストを、江副さんは検察から見せられた。検察と自民党が水面下で繋がっていることを知った出来事だったと。

江副さんが参考になったと言っている本は。「刑事裁判の光と陰」という本で、芸大バイオリン事件で有罪になった世界的バイオリニスト海野義雄氏が、検察官から江副さんと同じような圧迫取り調べにあったことなどを書いている。

刑事裁判の光と陰―有罪率99%の意味するもの (有斐閣人権ライブラリイ)
販売元:有斐閣
発売日:1989-01
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リクルート事件後の日本の政治の混迷を見ると、リクルート事件のインパクトは本当に大きい。ちょうど郵便不正事件で検察の不正行為が明るみに出ているので、この本で明かされている検察の”現代の拷問”の部分は興味深く読めた。

映画「それでもボクはやっていない」でもあったように、今や痴漢の冤罪で捕まらないとも限らないリスクがある時代だ。

まずはこの本で紹介されている「刑事裁判の光と陰」を読んで、いずれあらすじを紹介する。


参考になれば投票ボタンをクリックして頂きたい。



  
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2010年09月24日

指導者の器 山下泰裕さんの柔道指導論

指導者の器 自分を育てる、人を育てる指導者の器 自分を育てる、人を育てる
著者:山下 泰裕
販売元:日経BP社
発売日:2009-11-30
おすすめ度:5.0
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1984年ロスオリンピック柔道金メダリスト山下泰裕(やすひろ)さんの近著。

山下さんはある時、インタビューアーから「どうして、あなたはこんなに恵まれた人生を歩めたと思いますか?」と聞かれたという。

この質問を受けて、2−3分の間考えていて、自分自身が恵まれた人生を送れるのは、「ありがたい」という感謝の気持ちを忘れなかったからではないかと思った。

順風の時は、周りが協力してくれたのに、感謝の気持ちがなかなか出てこない。「おれにはすごい力がある」、「協力してくれるのは当然」という傲慢な気持ちになってしまうこともある。

上手くいっている時に、支えてくれた人に対して「ありがたい」という気持ちを持てるかどうか、それができる人にはもっともっと支援が集まってくるのだと。

この事を気づかせてくれたインタビューアーには感謝しているという。

たしかに山下さんは恵まれている。東海大学2年の20歳の時、1977年の日本選手権で優勝。それから引退する1985年まで203連勝(引き分け7回)で、公式戦では一度も負けずに引退した。こんな戦績の選手は他にはいないだろう。1984年ロスオリンピックで、足に大ケガをしたにもかかわらず、金メダルを取った後、1984年に国民栄誉賞を受賞している。


現役引退後本を読み始める

山下さんは現役の時はほとんど本を読まなかったが、東海大学監督となって松下幸之助稲盛和夫、などの本を読み出したという。稲盛さんとは個人的にも親しく、稲盛さんの盛和塾にもメンバーとして参加させて貰っているという。

松下幸之助にも影響を受けた。松下幸之助は「自分は小学校しか行っていなくてよかった」と常に言っていたという。自分と異なる意見の人がいれば、まず「なぜ、この人はこう考えるのか」に興味を持つという。その背後には「自分の考えは絶対ではない。相手の考え方に学ぶべきところがあるはずだ」という信念があるからだ。

山下さんは伝記が好きだという。特に西郷隆盛が一番好きで、マザー・テレサの生き方にも大変感銘を受けたという。

選手時代は強くはなったが、人間としてはさほど成長していなかったと山下さんは語る。指導者として選手や学生と向き合うことで、初めて「人間・山下泰裕」が成長しはじめたという。

山下さんは学生にハッパをかけるときは、「おれの得意技は何か、知っているか?」と聞くという。

学生が「大外…、内股…、絞め技…」と答えると、どれも違うという。そしておもむろに、「自分の得意技は開き直りだ。勝負において、開き直ったときぐらい強くなれることはないのだ」と言うという。

山下さんはロスオリンピックの決勝戦は覚えていないという。開き直って無の心境だったのだ。


毛沢東も柔道の原理を応用

山下さんが中曽根元首相と会食した時に、中曽根さんが「毛沢東は、人民解放軍の戦術に柔道の原理を応用していたらしいよ」と言った。山下さんは、「引かば、押せ。押さば、引け」ではないかとその場では言ったという。

後で調べてみて、嘉納治五郎は中国からの留学生を私費で支援しており、その中に毛沢東の義父もいて、毛沢東自身も論文で嘉納治五郎の功績に言及していることがわかった。


全日本柔道の指導者に

全日本柔道男子は1988年ソウルオリンピックで惨敗した。オリンピック後、山下さんが強化コーチに就任して、まずやったことは他の分野の成功者に学んだことだ。

何かに成功したければ、既に成功している人から学ぶことだ。営業成績で一位になりたければ、トップセールスマンの下で働かせて貰うことが一番の早道だというのと同じだ。

オリンピックで好成績を収めていた水泳やスピードスケート、スキージャンプを研究して分かったことは、1.積極的に海外に出ていたことと、2.スポーツ医学を重視していたことの2点だ。

ちょうどJOC主催のコーチ向けセミナーで松平康隆さんが、開口一番「自分の力の限界を知れ!」と呼びかけたことに影響を受けたという。バレーボールの日本男子がミュンヘンで金メダルを取れたのは、自分の限界を知り、多くの専門スタッフの英知を結集したからだ。

柔道界では、サポートスタッフも柔道出身者のみだった。松平さんの講演に影響を受けて山下さんも明治製菓の栄養アドバイザーを採用した。栄養アドバイザーのおかげでバルセロナオリンピックの時に吉田秀彦古賀稔彦(としひこ)両選手は筋力を落とさずに減量でき、金メダルを取れた。

それまで柔道の合宿では相撲部屋の様な一日2回のドカ食いが習慣だったが、これを一日3回の食事に直した。

また1992年にヘッドコーチに就任してからは、筋力トレーニング、メンタルトレーニング、戦略分析の専門家をスタッフに加え、本格的なスポーツ医科学を導入した。

トヨタのように常にカイゼンを心がけたのだと。


日本食禁止令

ヘッドコーチとして最初に打ち出したのが、オリンピックと世界選手権を除いて、海外遠征時の「日本食禁止令」だった。自分の荷物で持って行く分にはかまわないが、チームとしては日本食は外食も含めて禁止した。

代表選考の基準も海外の戦績を最重要視した。それまで4月に行われていた講道館杯を11月に、5−6月に行われていた全日本体重別選手権を4月に変え、2−3月に海外で行われる国際試合の結果を最重要視した。

全日本柔道の基本方針は、「日本で一番強い選手」でなく、「世界で勝てる可能性の一番高い選手」となった。

人の意識を抜本的に変えるためには、人を評価する枠組みにメスを入れることだと山下さんは語る。

柔道界が主要大会のスケジュールや評価基準を変えたとは知らなかったが、やはり実力者の山下さんが改革に取り組めば、成果は上がるものだと感心する。


後継者選び

アトランタオリンピックでは日本柔道男子は、金2、銀2と健闘した。次男に自閉症の傾向があり奥さんも疲れていたので、山下さんは辞任を考えたが、後継者が育っていなかったため、奥さんの協力も得て、山下さんは東海大学の監督を辞め、全日本の監督を続けた。

後継者を育てる意味もあり、階級ごとにコーチを置いて、基本的にコーチに任せる体制にした。


シドニーオリンピック柔道代表

シドニーオリンピックでのメダリスト、81キロ級の瀧本誠、100キロ級の井上康生、60キロ級の野村忠宏、そして100キロ超級の篠原信一については、それぞれの知られざる内面の強さを書いている。

井上康生は色紙にいつも「初心」と書くのだという。井上選手の地震被災者やパラリンピック選手など、弱者への思いやりが紹介されている。大胸筋断裂という大けがに見舞われ、アテネでは惨敗したが、北京オリンピックの代表選考にも最後まで残った。

現日本男子柔道代表監督の篠原信一選手は、シドニーでは、内また透かしを決めて、一本勝ちしたと思ってガッツポーズを見せたとき、審判は逆に相手のドゥイエ選手に有効を宣言した。この疑惑の判定で銀メダルに終わったが、篠原選手は「自分が弱かったから負けた」と一切審判に対する批判を口にしなかった。

相手の「有効」になったときに、試合時間は3分半残っていた。「本当の実力があれば、逆転できたはずだ。」そう篠原選手は考えたに違いないだろうと。

山下さんも「試合の最中でもかまわず、すぐに抗議していれば、何かが違ったのではないか」と悩んでいたが、篠原選手の潔い態度に触れ、いつしか「篠原のメダルは銀じゃない。プラチナなんだ。だからもう、悩むのはよそう」考えるようになったという。


北京オリンピック

北京オリンピックでは強化委員長として臨んだが、結果はメダル2個の惨敗。しかも7階級中4階級が1回戦敗退。ベテランが多かったこともあり、選手の自主性に任せたことが失敗だった。

その中でも100キロ超級で金メダルを取った石井慧(さとし)選手は、「相手に実力を出させない」という戦い方で、21歳の若者とは思えない老かいな戦い方だった。石井は練習の虫と言われているが、単に練習量だけではなく、ビデオでの研究、頭脳を駆使した創意工夫でも優れている。

この本ではプーチン首相との交流も紹介されているが、これは次に紹介するプーチン前大統領(現首相)が書いた「プーチンと柔道の心」でまとめて紹介する。

プーチンと柔道の心プーチンと柔道の心
著者:V・プーチン
販売元:朝日新聞出版
発売日:2009-05-07
おすすめ度:4.0
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柔道ルネッサンス

柔道ルネッサンス」という活動があるが、そのきっかけになったのは、柔道関係者のマナーの悪さだったという。

大会で負けると、ふてくされて帰ってしまう。会場もゴミだらけのまま帰ってしまう。警察からも柔道の試合は振る舞いもだらしなく、ヤジが多いので、「もう柔道はやめて剣道だけにしてもいいのではないか」という意見が上層部で出されているという。

そんなことがきっかけとなり、山下さんは全日本柔道男子のコーチと男女選手だけで試合後の会場のゴミ拾いを始め、他の役員たちも続いた。

2001年には講道館長の嘉納行光さんが、「21世紀に向けて柔道が目ざすべきものは、やはり柔道を通した人づくりである」というメッセージを繰り返し発信され、その後講道館と全日本柔道連盟合同の「柔道ルネッサンス」運動が始まった。


国際柔道連盟(IJF)理事

最後に2007年まで務めた国際柔道連盟(IJF)の教育コーチング理事のことを書いている。

試合中でも審判に文句を付けるコーチ、試合に勝って大げさに喜び、柔道着を脱いでしまった選手、女子選手を殴ったコーチ、イスラエル選手との試合を体重オーバーで失格したイラン選手などの話が紹介されている。

2007年のIJFの理事選挙で、会長派の山下さんは、反会長派の多数派工作に敗れた。理事選挙後に、勝ったアルジェリア人候補に歩み寄り、祝福したという。アルジェリア人候補も一緒によく食事をした仲間だという。

海外の仲間との絆は山下さんの貴重な残産だということで締めくくっている。

IJF理事時代は海外の理解者を一人でも多くつくるために、「海外では日本人と食事しない」と決めていたという。山下さんらしいエピソードだ。

以前紹介したトヨタの奥田相談役との共著の「武士道とともに生きる」も面白かったが、この本も山下さんの人柄がよくわかる。

武士道とともに生きる武士道とともに生きる
著者:奥田 碩
販売元:角川書店
発売日:2005-04-25
おすすめ度:3.0
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他の本でも紹介されている東海大学時代の問題児の教え子の話や、プーチン大統領の話も紹介されている。山下さんの本で、これ一冊ということだと、筆者はこの本を選ぶ。

是非一読をおすすめする。


参考になれば投票ボタンをクリックして頂きたい。


  
Posted by yaori at 17:00Comments(0)TrackBack(0)