2007年07月29日

奪還第二章 曽我ひとみさんの家族帰日以来何も進展がない 中山恭子議員に期待大だ

奪還 第二章
奪還 第二章


以前紹介した「奪還」に次ぐ、拉致被害者家族連絡会副代表の蓮池透さんの手記。

最初の「奪還」は拉致被害者5人が帰国した翌年の2003年3月の出版、「奪還 第二章」は2005年2月の出版だ。この本以来、蓮池透さんは新しい本を出していない。

2004年夏以降拉致問題にはなんの進展もないので、家族会の内部で拉致被害者と子供が無事帰国した家族と、拉致被害者が北朝鮮により確たる証拠もなしに死亡と発表されたままの家族との間の断層が生じているというマスコミ報道がある。

3年も進展がないので家族会の苦悩が深まっていることと思う。

家族会を支援してきた中山恭子首相補佐官が今回の参議院選挙で当選した。

是非膠着している拉致問題解決のために、力を発揮して貰いたいものだ。


待たれる蓮池薫さんの手記

蓮池透さんもこの本の最後に書いているが、時期が来れば是非拉致被害者本人の蓮池薫さんに語って貰いたいものだ。

蓮池薫さんは、持っていた情報はすべて横田さんご夫妻や支援室に伝えてあるが、他の拉致被害者の情報は限られたものしか持っていない。聞かれても情報を持っていないので悩んでおられたそうだ。

また「蓮池薫さんは横田めぐみさんを1994年まで平壌で見ていた」という家族会限り、関係者限りとしている情報が朝日新聞に2004年8月にスクープされる事件があった。

こちら側がどれだけの情報を持っているかを北朝鮮が知ってしまうと、北朝鮮が安心してウソの上塗りに走り、北朝鮮を利するおそれがある。だから、すべての情報は公表できないという事情もある。

残念ではあるが、まだ多くの拉致被害者が未帰還なので、蓮池さん自身がジェンキンスさんの様に手記を出すということはできないという事情がある様だ。

ちなみに蓮池薫さんは翻訳本を何冊も出している。現在蓮池薫さんの訳本を数冊読んでいるので、近々あらすじをご紹介する。


2002年10月以降のできごと

「奪還」では、拉致発生から2002年10月の蓮池さん夫妻、地村さん夫妻、曽我ひとみさんの五人の拉致被害者の帰国、そして五人が日本で子供達の帰日を心待ちにしているところまでの手記だった。

この「奪還 第二章」では、2004年5月の小泉第二回訪朝で、蓮池さん、地村さん夫妻の子供が一緒に帰日したこと、そして2004年夏のジェンキンスさんと曽我さん夫妻の子供の帰日までが取り上げられている。

あのジャカルタ空港での曽我ひとみさんとジェンキンスさんの熱烈なキスが思い出されるが、あれから拉致問題については全くなんの進展もない。

六ヶ国協議でも毎回議題に乗るが、北朝鮮は解決済みという姿勢を崩さず、家族会の戦いもいつ終わるともしれない状態だ。


子供帰日までの蓮池薫さんの苦悩

蓮池薫さんのこんな本音を蓮池透さんは書いている:

「記者の前で”子供を返してください”などと訴えたら、北朝鮮から”こいつらは精神的に限界にきている。ちょっと揺さぶれば思い通りになる”と思われる。

だから、祐木子にも絶対に弱みは見せるなと言っているんだ」

蓮池薫さんの苦悩がわかる発言だ。


北朝鮮におけるプラス思考

蓮池薫さんは蓮池透さんに、こう語ったと。

「北朝鮮で生きるためのプラス思考というのは、日本へ帰りたいという気持ちを忘れることだったんだよ」

「えっ、それはマイナス思考だろう。いつかは日本に帰れると思うことがプラス思考なんじゃないか」

「違うんだよ。向こうで一生懸命生きていこうと思ったら、日本への望郷の念を捨て去ることが必要で、それこそがプラス思考になるんだ」

蓮池透さんはショックで胸がふさがる思いがしたと語る。

アウシュビッツを生き延びたヴィクトール・フランクルの「夜と霧」には「収容所の1日は1週間よりも長い」という言葉がある。

極限状態で生き延びるには精神力/気力が生き延びる必要条件だ。

この「プラス思考」が蓮池薫さんが北朝鮮で24年間生き延びられた最大の理由だろう。頭が下がる思いだ。


誰も知らないミスターX

この本の中で蓮池透さんは、拉致問題の解決を長引かせたのは日本側の体制の脆弱さにあったことは間違いないと強く非難している。

当時の北朝鮮との交渉窓口の田中均元外務審議官の相手には、ミスターXと呼ばれるフィクサーが居たと言われているが、そんなミスターXなど外務大臣含め誰も知らないのだと。

蓮池さんは、当時の交渉担当者にとっては日朝国交正常化の方が拉致問題解決よりも遙かに重要な問題で、拉致問題はその障害であるとさえ考えていたのではないかとまで言っている。

政府や政治家に対する家族会の不信感は強い。

ただその中でも安倍晋三ー中山恭子ラインへの信頼は厚かったが、内閣官房参与中山さんが2004年9月に辞任したことで失望したと蓮池さんは語っている。

その後安倍首相となって、中山さんは2006年9月に拉致問題担当の首相補佐官として復帰し、今回の選挙で参議議員に当選した。是非拉致問題解決に引き続き当たって貰いたいものだ。


経済制裁の有効性

蓮池薫さんは、次のように冷静に語っている:

「経済制裁を加えることにより、北朝鮮を崩壊に追い込み拉致被害者を救出するという声があるが、そのシナリオは絶対に成立しない。

北朝鮮はそう簡単に崩壊する国ではない。

周辺の中国、ロシア、韓国とも協力して完全に『経済封鎖』するならば、話は別だが、それは容易なことではない。

仮に崩壊するとするならば、金正日政権は真っ先に自分たちにとって不利となることを消そうとするだろう。すなわち『証拠隠滅』で、救出などやりようがなくなるだろう。

経済制裁=体制崩壊=救出というのは、あまりに短絡的な思考である。」

説得力のある意見である。


残念ながら蓮池薫さんの言う通りの展開となっており、経済制裁も機能せず、拉致問題は進展がない。国民の注目度も低下してしまうという事態になりつつある様な気がする。
「奪還」のあらすじでも書いたが、もし米国民が拉致されていたら、米軍が出動して救出にあたっていただろう。自国の国民が生命の危機にさらされたら、国を挙げて救出する。

そんな当たり前のことができる日本政府にするために、我々一人一人が拉致問題を重大事件ととらえ、決して風化させてはならないと改めて感じた。


第一作と同様、読みやすく心に訴えるおすすめの本である。


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2007年07月22日

ウルトラ・ダラー 元NHKワシントン総局長手嶋龍一さんの小説

ウルトラ・ダラー (新潮文庫 て 1-5)


「インテリジェンス」で佐藤優氏と対談していた元NHKワシントン総局長手嶋龍一さんのサスペンス小説。

手嶋さんは9.11事件の時のNHKワシントン総局長だ。歌舞伎役者の様なハンサムフェイスを覚えている人も多いことだろう。

手嶋さんはこの小説の前にも、NHK在任中に、いくつか小説を書いている。

たとえば湾岸戦争の時に日本が金を130億ドルも出したのに、クウェート政府には公式に感謝されなかった「外交敗戦」や。

(筆者は当時米国に駐在していたのだが、ウォールストリートジャーナルの全面感謝広告で多くの国の名前が列挙されていたのに、日本の名前がなかったことを覚えている)

外交敗戦―130億ドルは砂に消えた (新潮文庫)


結局はアメリカのF-16をベースに改良することになったFSX(現F-2支援戦闘機)の小説、「ニッポンFSXを撃て」などだ。

たそがれゆく日米同盟―ニッポンFSXを撃て (新潮文庫)


これらの小説が認められ、ハーバード大学国際問題研究所にシニア・フェローとして招聘された経歴を持つ外交の専門家だ。

現在はNHKを退職して、外交ジャーナリスト、作家として活躍している。手嶋さん自身のオフィシャルサイトもあり、またウィキペディアでも紹介されているので、参照して欲しい。

小説のあらすじは細かく書かないのが筆者のポリシーなので、詳しくは本を手にとって見て頂きたいが、読んでいて手嶋さんの多方面にわたる知識の深さがよくわかり、またストーリーも面白い。

小説には初めから結末の構想が決まっていて書くものと、雑誌などの連載小説に多い、書き進めながら、なりゆきで結末を考えるものと2種類ある。

ウルトラ・ダラーは後者なのだと思う。

ストーリーは、北朝鮮関係のインテリジェンスがメインテーマで、日本人拉致問題、日本人印刷工拉致、偽ドル印刷、ドル紙幣へのRFID無線タグ埋め込み、核兵器開発、巡航ミサイル密輸、北朝鮮との交渉窓口ミスターXと外務省某局長の間柄など、息をもつかせない展開だ。

登場人物の設定も凝っている。

BBCの日本駐在員がイギリスインテリジェンス要員で、スーパーエージェントという設定だ。しかも自宅にL96A1狙撃銃まで隠し持っている。

細部の描写も手嶋さんの趣味の広さがよくわかる感心する描写だ。手嶋さんは「いいとこのボンボン」なのではないかと思わせる。

例えば、着物の話では:

「越後上布は手づみの上質な麻だけで織り上げますので、それはそれは贅沢な織物です。…北国の粉雪を思わせる白地に、青海波の絵絣(かすり)が織り出されている」

「琉球藍で染め上げた宮古上布はいかがでしょう。…おおぶりの葉が大胆にちりばめられた絣(かすり)もようだ」

という様な描写だ。

この他にも浮世絵、和楽、ファッション、レストラン、食事、食器、ギャンブル、競馬など、細部にこだわりの描写が続く。

もちろん内外政府のインテリジェンス組織、軍事知識は完璧だ。

ロマンスもサスペンスもある。若干終わり方が尻切れトンボ感があるが、こんな終わり方も「粋」なのかもしれない。

着想も面白く、手嶋さんの多趣味と博識にも驚かされる一冊である。


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2007年07月19日

ノモンハンの夏 スターリンの術中にはまった日本

ノモンハンの夏
ノモンハンの夏


第2次世界大戦直前の日本について、「日本軍のインテリジェンス」や、関榮次さんの「Mrs. Ferguson's Tea-Set」で紹介されていたので、当時の重大事件であるノモンハン事件について書いた定番とも言える1冊を読んでみた。

日本陸軍のインテリジェンス(情報活動)は、巨額の予算を使って優秀な人員も集め、IBM製の統計機も持っていた。その仮想敵国は米英でなく、ソ連だった。

ソ連の脅威は陸軍首脳を常に悩ませた。

その理由の一つが、ノモンハンでの関東軍のソ連軍に対する壊滅的な負け戦だ。

1939年5月(第一次)と7ー8月(第二次)ノモンハンでの負け戦の原因としてよく挙げられるのは次の点だ:

1.日露戦争時の戦術から進歩していない精神論中心の日本陸軍と、世界でトップクラスの戦車を持ち、戦術も20世紀型に進歩させているソ連軍の差 例えば第一次事件ではソ連戦車は火炎瓶攻撃に弱かったが、第二次では弱点をすぐに修正した

2.師団数で関東軍の11師団に対し、ソ連軍は30師団、戦車も200両に対し2,200両、航空機560機に対し2,500機という圧倒的な物量の差(実際に動員された戦車、航空機はそれぞれ500−600という説もある)

3.兵站の差。最寄り駅から750キロ離れているソ連軍に対し、日本軍は200キロだったが、ソ連には豊富な輸送力があり、距離の差は意味をなさなかった。むしろ日本軍には輸送手段のトラックが不足しており、歩兵は歩いて戦場までたどり着く始末で、武器・弾薬・食料・飲料が決定的に不足していた。

4.数だけでない兵器の質の差。たとえばソ連軍の短機関銃に対し、日本の三八式歩兵銃が中心兵器だった。日本の戦車は対戦車戦用の武器を持っていなかった等。

5.辻政信らの関東軍参謀が、東京の陸軍参謀本部の「侵されても侵さない。紛争には不拡大を堅守せよ」という不拡大方針を無視して、戦いを進めたこと


1939年は世界の運命の分かれ道

この本を読むと、よく挙げられる上記の点の他に、1939年当時の国際関係を反映し、スターリンがドイツと日本の両面作戦を避ける為に、一度日本を全力で叩いておく目的でノモンハン事件に臨んだことがよくわかる。

1939年当時の日本は、陸軍は同じ仮想敵国ソ連を持つドイツ(+イタリア)との軍事同盟を主張していたが、海軍は参戦義務のある軍事同盟を(ほとんど海軍力のない)ドイツと結ぶことは、全く勝算のない米英戦に巻き込まれるとして反対していた。

煮え切らない日本をなんとか引き込もうとして、ドイツのヒトラーはソ連と手を結ぶことを考える。

一方ソ連のスターリンは英仏と三国安全保障会議を申し出、ドイツと両天秤に掛ける。

そんな中で5月に関東軍とソ連・蒙古連合軍との間で、戦闘が勃発する。ソ連外相モロトフは、駐ソ大使東郷茂徳を呼び、これ以上の侵略行為は許さないと警告する。

同じく5月にドイツとイタリアは軍事同盟を結ぶ。スターリンは独伊の接近と、関東軍の好戦的活動に危機感を抱き、関東軍を完膚無きまでに叩いておくことを決意する。これがノモンハン事件の背景だ。


ソ連の術中にはまった関東軍

6月にスターリンは、腹心の部下ジューコフを満州国境に派遣し、戦車、飛行機を中心に大兵力増強を行い、着々と準備を整える。

日本にいるソ連のスパイゾルゲを使って、日本は対ソ連と本格戦争をする準備をしていないことがわかったことも、関東軍を痛撃する決意を固めた要因だ。

そんなこととはつゆ知らず、関東軍の辻と服部参謀は、ソ連軍を先制攻撃する「牛刀作戦」を計画、東京の参謀本部も不拡大方針を出していながら、一個師団程度であればと黙認してしまう。

まずは6月末に日本軍による空襲が行われた。

天皇はこの空襲を統帥権違反ととらえ、今後このようなことが再び起こらないようにと、厳重注意したが、陸軍はなにか隠しているのではないかと感じていた。

天皇の不安は的中し、7月1日から関東軍はソ連軍への攻撃を開始する。第2次ノモンハン事件の2ヶ月にわたる戦闘が開始された。

関東軍の主力戦車は八九式中戦車で、短砲身戦車砲はBT戦車を中心とするソ連の戦車には全く役に立たない。元々戦車対戦車の戦いは日本軍は想定していないのだ。


欧州の新情勢と時を同じくしたソ連軍の総攻撃

ノモンハンで戦闘が続いている間に、欧州では大きな動きがあった。

8月に入ってヒトラーはスターリンに不可侵条約を結ぶ用意があると伝え、8月23日に独ソ不可侵条約が締結される。

大島駐独大使に対して8月21日深夜に独ソ不可侵条約締結が伝えられ、日本にも伝達される。平沼内閣は、「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じましたので」という名文句で辞職する。

欧州の政治情勢が急展開する一方、ソ連軍は8月20日から総攻撃を開始する。

圧倒的に優勢なソ連軍により関東軍は壊滅的打撃を受け、8月29日には現地で撤退命令が出され、翌8月30日には戦闘終結の天皇命令が出される。

一方ソ連と結んだヒトラーは9月1日に電撃作戦でポーランドを占領すると、ソ連と一緒にポーランドを分割した。第2次世界大戦のはじまりだ。


第二十三師団の損耗率は実に76%

日本軍の損失は第六軍出動人員約59千人に対して、戦死・戦傷・戦病・行方不明合計約20千人。

第二十三師団については損耗率は76%だった。ガダルカナルでも損耗率は34%なので、日本軍の歴史の中で最悪の結果となっている。

ソ連蒙古軍も損耗は24千人。圧倒的な戦力を持ちながらソ連軍もこれだけの犠牲を出さなければならなかった。

司令官のジューコフはスターリンに報告する。

「日本軍の下士官兵は頑強で勇敢であり、青年将校は狂信的な頑強さで戦うが、高級将校は無能である」

現地で指揮した部隊長などは、自らの意思であるいは強要されて自決した人が多かったが、辻、服部のコンビはいったんは左遷されるものの、すぐに参謀本部作戦課に復帰する。

過去から学ばない人物の典型が日本を米英との戦争に追いやり、そして戦後も長らえ、辻にいたっては国会議員にまでなった。

半藤さんは戦後国会議員になった辻政信に会ったことがあるという。

「絶対悪」が支配した事実を書き残しておかねばならないという考え、この本を書いたと半藤さんは語る。「人はなにも過去から学ばない」と。


米英と組むという選択

1939年には日本には米英と組む選択肢もあった。天皇もそれを望んでいた。実際米英と組むか、独伊と組むかを政府、陸海軍で議論していた。

それが日独伊三国同盟に向かうのは、関榮次さんがMrs. Ferguson's Tea-Setで紹介したドイツによる日本への英軍秘密情報の提供も一つの要因だろう。

また独ソ不可侵条約ができれば、日独伊ソ四国同盟ができるかもしれないという希望的観測もあった。

ドイツのポーランドに続くフランス占領、ソ連侵攻など、第二次世界大戦初戦での勝利の勢いも要因の一つだろう。

他にも要因はあるが、それにしても1939−1940年の日本の日独伊三国同盟・そして開戦に至る政策決定は、あり得ない選択である。

これからもこの時期の日本を取り上げる作家は出てくると思う。後世の人間にはいくら調べても理解ができない話題ではある。


ノモンハン事件を詳しく知らなかった筆者には、この本を読んで新しい発見がいくつもあった。

「入学試験に出ない」という理由で、昭和以降の現代日本史を高校であまり教わっていない筆者の年代前後の人に、特におすすめの一冊である。


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2007年07月16日

奪還 拉致被害者家族連絡会副代表 蓮池透さんの手記

奪還―引き裂かれた二十四年 (新潮文庫)
奪還―引き裂かれた二十四年 (新潮文庫)


北朝鮮拉致被害者の蓮池薫さんの兄、蓮池透さんの手記。

蓮池透さんは北朝鮮による拉致被害者家族連絡会の副代表だ。感情を込めながらも、読みやすい手記になっている。

冒頭の2002年の拉致被害者帰国の際の羽田空港でのシーンが印象的だ。

「薫。よく帰ってきたな。お帰り」

「おう、兄貴。帰ってきたよ」

「元気だったか」

「兄貴も元気だったか」

なにげない挨拶を交わしながら、蓮池透さんは5人が洗脳されているかもしれないので、冷静に観察しなければならないと感じた。

拉致被害者5人は全員金日成バッチを付け、「俺たちは祖国統一のため、朝鮮公民として尽くす」と言っていた。

「薫は朝鮮人そのものになっているのかな。これは大変だ」。

5人は帰国した時からいつ帰るかを話していた。そして他の拉致被害者のことは語りたくないが、横田さん夫妻には会いたいと言っていたと。

それが変わったのは薫さんの親友の丸田さんの必死の説得によるものだった。

「俺、腹を決めたよ。もう戻らないから。俺らは日本で子供の帰りを待つから。」

帰国して10日めのことだった。


薫さんと祐木子さんの拉致

薫さんと祐木子さんは1978年中大生だった薫さんの帰省中に、新潟県柏崎の海岸で忽然と失踪する。駆け落ちではないかと言われ、警察はまともに取り合ってくれないので、両親は自分達で捜索を始めるが何の証拠も得られなかった。

1980年にはサンケイ新聞が「アベック3組ナゾの蒸発」というタイトルで報道し、外国情報機関が関与?とまで書いているが、あだ花の観測記事だった。

それから何年も何の進展もなく、家族の間にも徒労感が芽生え、薫さんの持ち物は見るたびにつらくなるので、処分した。

横田めぐみさんのご両親は、年に一度警察が公開する身元不明死体の写真を見に行った。お母さんはもう死体の顔は見たくないと言っておられたそうだ。

家族が行方不明になり、生きてるのか死んでいるのかわからない状態ほど苦しいものはないと。


北朝鮮による拉致と判明

そして10年が過ぎ、1987年にビルマで大韓航空機爆破事件が起きた。犯人の金賢姫は、自分の教育係は日本人の李恩恵という日本人だったと語ったのだ。

大韓航空機爆破事件の4ヶ月後の1988年には、国会で梶山静六国家公安委員長(当時)が「昭和53年以来の一連のアベック行方不明事件は、おそらくは北朝鮮による拉致の疑いが十分濃厚である」と発言している。

しかしこの発言はマスコミではほとんど報道されなかった。わずかに日経の夕刊にベタ記事として載った他は、朝日、読売、毎日の3大紙は一行も掲載されなかった。

また政府からも警察からも一切家族には情報提供はなかった。

蓮池透さんは、日本のマスコミや警察や政府は、被害者家族の心情を考えたりすることはないのではないかと語る。

その後の北朝鮮との弱腰の政府間交渉が事実を物語っている。

日朝国交正常化交渉は1991年に始まるが、日本が李恩恵の消息について調査して欲しいと言うと、北朝鮮は「会議の秩序を乱す破壊行為だ、撤回を求める」と言いだし、交渉の議題からはずしてしまう。結局日朝交渉は1992年に決裂した。

弱腰外交の筆頭、1995年の村山首相の時は、米50万トンの支援も行いながら、拉致被害者の救済は何の進展もない。

事態が大きく動き始めたのは元北朝鮮工作員のもたらした情報で、横田めぐみさんと思われる13歳の少女が北朝鮮に拉致され、帰国が適わず精神に異常を来してしまうという話だ。

これを1997年1月サンケイ新聞とアエラが実名で報道する。

そして元工作員安明進が、横田めぐみさん以外にも拉致されてきた日本人を何人も見たと語る。


口ばかりの議員達、動かない政府、警察

全国の拉致被害者の家族は1997年3月に集まり、「北朝鮮による拉致被害者家族連絡会」を結成して一緒に行動を始める。蓮池さん、有本さん、市川秀一さん、地村さん、浜本さん、増元さん、横田さん、原さんの8家族だ。

代表は横田滋さん、事務局は蓮池透さんと増元照明さんが引き受け、結成翌日に外務省や警察庁に家族会として申し入れを行った。

家族会結成後、様々な支援組織もできあがり、100万人を超える署名も集まる。小渕外相と2度面会するが、「頑張る」というだけで何の進展もない。

超党派の拉致議連も結成され、中山正暉(まさあき)議員を会長とする衆議院78名、参議院45名の大所帯となったが、「頑張る」というだけで具体的な進展はない。

先日弁護士法違反で有罪となった元民主党の西村真悟議員、自民党の平沢勝栄議員は熱心に動いてくれたが、他は名ばかりだったと。特に当初の会長の中山正暉議員はむしろ障害であったと。

1999年原さん拉致の実行犯辛光沫(シンガンス)という工作員が韓国の刑務所から釈放されたが、警察も外務省も動かない。

蓮池さんは怒りを込めて「無法国家と無能国家」と呼んで、2つの国と戦わなければならなかったと語る。


無法国家と無能国家

家族会は2000年に外務省の前や自民党本部前で座り込みを実施。河野外務大臣は「お年寄りが多いのだから、無謀なことはお止めなさい」とノー天気に他人事の様にいうので、家族会は激怒する。

自民党前では、拉致議連の代議士すら顔を出さなかった。

なにより傑作だったのは、田中眞紀子が来て、「コメ十万トンなんか出しちゃだめよ」と言う。蓮池さん達が「そうだ、そうだ」と意気込むと、「百万トンださなきゃ」と。

これには唖然としたと。家族会がもっと出せと抗議しているとでも思ったのではないかと、蓮池さんは語る。

家族会ではアメリカを訪問して、ライス大統領補佐官に資料を渡したりして協力を依頼するなど積極的に活動する。1998年にはニューヨークタイムズに、横田めぐみさんの写真を載せた全面意見広告を載せた。

ブッシュ大統領が北朝鮮を悪の枢軸国の一員と呼んだこともあり、アメリカから北朝鮮へのプレッシャーは強くなる。

アメリカの助力がないかぎり、拉致問題の全面的な解決はないと蓮池さんは語る。


朝日新聞の障害

1999年8月の朝日新聞の社説では、「テポドン1年の教訓」と題し、次のように書いた。

「日朝の国交正常化交渉には、日本人拉致疑惑をはじめ、障害がいくつもある」

「日本側も北朝鮮の姿勢の変化を的確にとらえ、人道的な食傷支援の再開など、機敏で大胆な決断をためらうべきでない」

「植民地支配の清算をすませる意味でも、朝鮮半島の平和が日本の利益に直結するという意味でも、正常化交渉を急ぎ、緊張緩和に寄与することは、日本の国際的な責務といってもいい」

拉致を「疑惑」と呼び、「障害」と呼ぶことに、家族会は怒り、朝日新聞に説明を求めるが、その後も朝日新聞は国交正常化至上主義の様な論調を繰り返す。

当時の安倍晋三官房副長官が、「朝日新聞の論調が拉致問題をめぐる交渉の妨げとなっている」と語ったほどだ。


2002年9月17日の小泉訪朝

2002年になってから、安倍晋三氏を中心とした拉致問題プロジェクトチームが発足、小泉首相が家族会と面談し、「拉致問題の解決なくして、日朝の国交正常化なし」と明言する。

8月30日に、9月17日の首相訪朝が発表されたが、家族会には一切連絡なしだった。

9月17日の当日午後は家族会は外務省の飯倉公館に呼ばれるが、そこではNHKのニュースを見せられただけだった。そして1家族ごとに別室に呼ばれた。

別室では福田官房長官と植竹外務副大臣が、被害者の生死の宣告を行い、最初に呼ばれた横田滋さんは、戻ってきて泣き崩れて声も掛けられない様な状態だった。

そのうち生存者4人、死亡8人と伝えられ、生存者の家族は最後に呼ばれる。

福田長官は生死を断定的に告げるが、日本政府では全くウラを取るなど確認をしておらず、北朝鮮の情報をそのまま伝えていただけだった。

翌日、平壌で生存者と面会した梅本公使と面談するが、横田さんには、めぐみさん死亡の証拠として、ラケットと写真が示されただけで、死亡の原因もわからないと告げられ、横田滋さんは激怒する。

小泉首相は9月27日に家族会は面談するが、その席で小泉首相は「死亡情報は先方の発表だけで、確認はできていない」ことを明らかにする。

小泉訪朝は、外務省への不信感をより強めることになった。

日朝平壌宣言でも拉致という言葉は一言も使っていない。ただ「日本国民の生命と安全にかかわる懸案問題」という曖昧表現のみで、北朝鮮はもちろん謝罪もしていない。

金正日の「特殊機関の一部が盲動主義、英雄主義に走って、…。この場で遺憾なことだったとお詫びしたい」という言葉だけで、なんの正式書類も残っていない。

そんな日朝平壌宣言は小泉首相はサインすべきでなかったと蓮池さんは語る。


5人帰国は「瓢箪から駒」

蓮池薫さん達は確かに帰ってきたが、それは日本政府の力によるものでも、外務省の交渉の成果でもないと。

田中局長を中心とする外務官僚たちの国交正常化への思惑と、北朝鮮側が手持ちのカードを一枚切るタイミングが、たまたま合致した。

それが正しい評価だと思うと蓮池さんは語る。

「瓢箪から駒」。あえて表現するとしたら、その言葉がぴったりだろうと。

政府と外務省は拉致問題を解決しようとしているのではなく、5人生還で終結させようとしている。それが率直な感想だと。

たしかに5人帰還後、全くなんの進展も、新しい情報もない現状では、そんな感じがする。


全編を通して、政府・外務省への深い不信感があふれ、日本政府の国民の生命・安全に対する保護の弱さが痛感される。北朝鮮がもし米国民を拉致していたら、こんなことでは済まされず、たぶん軍が救出に向かっていただろう。

30年近く肉親を救う地道な活動を続けてきた家族会の率直な思いがわかる、おすすめの一冊である。


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2007年07月10日

鈍感力 2007年上期のベストセラーエッセー

鈍感力
鈍感力


月刊プレイボーイに連載された渡辺淳一氏のエッセー集。今年上半期のベストセラー第1位となっている。

渡辺淳一氏といえば、日本経済新聞の連載小説「化身」や「愛の流刑地」で有名な人気作家であると同時に、医師でもある。

「化身」は大人の恋愛を描いた小説で、日本経済新聞に連載されていた当時(15年ほど前?)は、日経を最後のページから読む人が多かった。

当時電車の中で日経を読んでいると、ちょっと気恥ずかしく感じたものだ。


化身〈上〉 (講談社文庫)
化身〈上〉 (講談社文庫)

最後にボルドーの5大シャトーの一つ、シャトーマルゴーを二人で飲む場面が思い出される。

大人の恋愛を描いた「マディソン郡の橋」がベストセラーとなったのも、同じ時期ではないかと思う。

マディソン郡の橋 (文春文庫)
マディソン郡の橋 (文春文庫)


同じ日経の連載小説で、今年映画化された「愛の流刑地」(愛ルケ)も「化身」の現代版の様なストーリーで、大人の恋愛小説だ。

そんな大人の恋愛小説家の渡辺淳一と、この本を書いた医師渡辺淳一とは同じ人とは思えない様な気がするが、紛れもなく同一人物である。

医師としての医学的根拠もあるので、男と女(母)との関係などに展開する論理が、ロマンがあって、なおかつなるほどと説得力がある。

渡辺氏は、健康であるために最も大切なことは、いつも全身の血がさらさらと流れる事だという。

鈍感に生きることで、長生きで満足できる人生が過ごせるのだと説く。

小さな事にくよくよ悩まず、叱られても受け流し、緊張せずリラックスして、五感はアバウトに、いつもすっきり眠れて、ノリが良く、おだてられたら、すぐその気になる。

そんな環境適応力が鈍感力だ。

これが長生きする秘訣だと言う。

俗に「結婚したら片目をつぶれ」と言われる結婚は言うに及ばず、恋愛でも鈍感力が成功の秘訣だ。ある程度相手を許して、鈍くなる鈍感力が恋愛を長続きさせる恋愛力なのだと。

ガンの原因も自律神経説が最近有力だ。

自律神経が順調に動き、体も心も安定している人ほどガンにかかりにくいし、ガンになっても、治りやすい。すべては気の持ちようだ。

女性の強さも鈍感力だ。

人は1/3の血液を失うと死ぬといわれているが、それは男性の場合で、女性は出血には強いと産婦人科医から言われた経験を語る。

女性は出血に強く、痛みに強い。だから出産という大事を生き延びられるのだ。

医師が語っていても、今ひとつ鋭い説得力があるわけではないが、なぜか納得できる。そんなアバウトなところがベストセラーとなっている理由だろう。

簡単に読めるので、書店で一度は手にとってみることをおすすめする。


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2007年07月05日

歌姫あるいは闘士ジョセフィン・ベイカー アフリカン・アメリカン研究の荒教授の力作

歌姫あるいは闘士 ジョセフィン・ベイカー
歌姫あるいは闘士 ジョセフィン・ベイカー


アフリカン・アメリカン研究が専門の荒このみ東京外国語大学教授の近著。主にフランスで活躍した米国出身のアフリカン・アメリカンのエンターテイナー、そして反人種差別の闘士ジョセフィン・ベイカーの伝記。

実は先日外国記者クラブで行われた関榮次さんのbook reviewの際に荒教授とご一緒した。

本書は荒教授の日頃の研究活動に加え、日本学術振興会からの2年連続の研究補助金と、フルブライト研究員として5ヶ月間ハーバード大学デュボイス研究所で研究した成果である。

デュボイス研究所にはアフリカン・アメリカン研究の第一人者ヘンリー・ルイス・ゲイツ・ジュニア教授がいる。

ジョセフィン・ベイカーの生い立ちからパリでの公演生活、世界各国での公演、そして日本のエリザベス・サンダース・ホームから孤児2人を養子として引き取ったことなど数々のストーリーが紹介されている。

この本を読んでみて、豊富な資料をもとに数々のショートストーリーを組み合わせ、バックボーンのしっかりした伝記として構成された作品であることがよくわかる。

興味深い写真も多く、文章も読みやすい。まさに「頭にスッと入る」伝記である。

実は筆者は、ジョセフィン・ベイカーの名前を知らなかったが、この本を読んで、マーチン・ルーサー・キング牧師らの公民権運動のずっと前に、米国の人種差別と戦った有名人がいることを、はじめて知った。


ジョセフィン・ベイカーの生い立ち

ジョセフィン・ベイカーは1906年、米国ミズーリ州セントルイス生まれ。幼い頃から人種差別を経験しており、ミッシッシピ川を挟んで対岸のイリノイ州イーストセントルイスでは1917年に黒人暴動・虐殺事件が起こっている。

筆者は米国駐在中にしばしばセントルイスに出張したことがあり、イーストセントルイスの近くのグラナイトシティも製鉄所があったので、訪問したことがある。

グラナイトシティは白人人口が95%なのに対し、イーストセントルイスは黒人が人口の97%を占め、全米でも最も犯罪率が高い町の一つとなっている。

ジョセフィン・ベイカーが生まれたミズーリー州などの南部の英語は特徴があり、筆者も当初理解するのに手こずった思い出がある。ミズーリはどう聞いてもミゾーラとしか聞こえなかったものだ。


パリでの成功

ジョセフィン・ベイカーは1925年にパリに渡り、1937年にフランス人と結婚してフランス国籍を取得している。フランスで世界的なエンターテーナー、歌って踊れる歌手として一躍有名になった。

半裸体でおどるダンスは人種偏見のブラック・エクゾティシズムを逆手に取り、野性味にあふれ、衝撃的で、パリの観衆を魅了した。初期の代表作は男女で踊るダンス・ソバージュ(野生のダンス)とバナナの腰飾りの踊りだ。

エリザベス・サンダース・ホームの澤田美喜さんとのつきあいは、1932年に澤田さんの夫の外交官の澤田廉三氏がパリの日本大使館参事官として赴任してからだ。

1935年に米国に凱旋帰国するが、ニューヨークのホテルで差別を受け、憤る。このときフランスから米国に移っていた澤田さんは、アトリエとして使用していたアパートをジョセフィンに貸して助けた。

ジョセフィン・ベイカーは生涯四度の結婚をするが、恩人であるマネージャーのペピート・ダルベルティーニとは結婚を発表したものの、米国滞在中にケンカ別れをして、ペピートはパリに戻り、その後病死してしまったので、結局結婚はしなかった。

ペピートはフランス語、声楽、バレエ、ダンスなどの家庭教師をつけジョセフィンを教育する。この教育がジョセフィンのキャリアーアップに大いに役立った。


レジスタンスへの協力から反人種差別へ

第2次世界大戦中はフランスのレジスタンスに協力し、後に1961年にフランス最高の名誉であるレジオン・ドヌール勲章を受ける。

1940年代初めには北アフリカで暮らし、レジスタンスに協力するかたわら、連合軍のアメリカ兵を慰問している。このころは病気で入退院を繰り返していた。

戦後1947年にアメリカ公演を行うが、そのときも差別に会っている。

4度目の結婚相手である白人バンドリーダーのジョー・ブイヨンと一緒に訪米しているが、ニューヨークでは36軒のホテルに宿泊を断られているのだ。

フランスに帰国後、1951年にはLICRA(反ユダヤ差別・反人種差別組織)のメンバーとなった。

1950年代のアメリカでは、人種差別にもとづく黒人虐待、黒人殺害事件が起こっており、しかも裁判で黒人を殺した白人が無罪となったり、白人から暴行で訴えられた黒人が、無実の罪にもかかわらず処刑されるという様な事件が多発していた。

ジョセフィン・ベイカーはこのようなアメリカの人種差別事件に抗議して、パリで人種差別反対運動を起こしている。


アメリカ再訪で反人種差別運動を尖鋭化

1951年には再度アメリカを訪問し、各地で公演して成功を収めているが、この年の終わりにニューヨークのプライベートクラブのストーク・クラブで事件が起こっている。

白人専用のナイトクラブ、ストーク・クラブに友人に招かれて訪問したジョセフィン・ベイカーは、黒人とわかると給仕拒否にあい、他の人には食事は提供されたにもかかわらず、一切飲食物は提供されなかった。

ジョセフィン・ベイカーは怒り、ニューヨーク市警察の黒人トップに訴えるとともに、たまたまクラブにいた演劇評論家でコラムニストのウォルター・ウィンチェルにも矛先を向けた。

それまで評論では黒人の味方であることを公言していながら、ストーク・クラブでは見て見ぬふりをして本性を明らかにしたからだ。

この事件は大波乱を呼び、法廷闘争にも発展した。反人種差別団体はストーク・クラブでピケを張り、マスコミもこぞって取り上げた。ジョセフィン・ベイカーはニューヨーク市長との面会を求めたが、実現しなかった。

ローザ・パークスがアラバマ州モンゴメリーで黒人差別のバスに乗車して、公民権運動のきっかけとなるのは1955年であり、それに先立つこと4年のニューヨークの事件だった。


アルゼンチンでの舌禍事件

ストーク・クラブ事件の翌年、ジョセフィン・ベイカーはエビータをなくしたばかりのペロン大統領のアルゼンチンを公演のため訪れ、次のようなアメリカ批判発言をして舌禍事件を起こしてしまう。

アメリカを「ナチの様な欺瞞の民主主義による野蛮な国」と呼び、「ヤンキーデモクラシーの元ではニグロには何の権利もないのです。これまで何度も個人的にリンチや、獣のように黒人が殺されるのを私は見てきました。」

さらに「アイゼンハワー政権では黒人はこれまで以上にひどく苦しむことになるでしょう」とまで言ってしまった。

筆者は1978年から1980年までアルゼンチンに駐在していたが、アルゼンチンは2度の世界大戦で富を築き、今世紀の初頭は世界の先進国の一員だった。

例えばブエノスアイレスの地下鉄はロンドン、パリに続き世界で3番目に建設されたものだ。

筆者の間借りしていたアパートのオーナーは、50年間同じ電話番号を持っていると言っていたが、逆に言うと50年間ほとんど電話システムが進歩していなかったのだ。

当時のアルゼンチンは米国への対抗意識が強く、第2次世界大戦直後に大統領となったペロン大統領の政治宣伝に、ジョセフィン・ベイカーは使われてしまったのだ。

このアルゼンチン舌禍事件のあと、ジョセフィン・ベイカーはカストロ政権となる直前のキューバを訪問し、テレビ局から入館を断られるという事件を起こしている。


反体制主義者としてFBIから目をつけられる

ストーク・クラブ事件のあと、FBIからジョセフィンは共産主義者ではないかと目をつけられ、キューバでも常に行動は監視され、アメリカの入国阻止の動きはさらに厳しくなった。

FBIはジョセフィン・ベイカーの各国での行動を監視しており、結果的にジョセフィン・ベイカーの行動を知る良い資料がFBIに残されている。

荒教授は当時のFBIファイルを丹念にあたって、この本でジョセフィン・ベイカーの生涯を語る貴重な資料として紹介している。


虹の部族とレ・ミランド城

ジョセフィン・ベイカーはフランス南西部のドルドーニュ地方にある15世紀末につくられたレ・ミランド城を4番目の夫のジョー・ブイヨンと購入し、1968年まで所有している。

この近辺にはスペインのアルタミラ洞窟のように、先史時代の壁画が残っているラスコー洞窟などもある。

このレ・ミランド城はジョセフィン・ベイカーが虹の部族と呼ばれる12人の様々な人種の養子達と一緒に住んだ家である。

ジョセフィンはレ・ミランド城を「世界のキャピタル」として観光用に開発する計画を持っていた。

この12人の養子のことを絵本にした「虹の部族」という絵本もある。

荒教授は数年掛けてヨーロッパからアメリカまで探し、シカゴのノースウェスタン大学の図書館で実物を見つけ、この本でも写真入りで紹介している。


金銭感覚ゼロで破産宣告

ジョセフィン・ベイカーには金銭感覚がなく管理能力がなかった。契約を守ると言う点でもいいかげんなところがあった。

人気が落ちてきている上に、高い公演料がとれる米国での入国ビザが制限されていたので、公演での収入も往事の様なものではなかった。

それでもジョセフィン・ベイカーはレ・ミランド城からテレビに出演し、フランスの有名俳優ジャン・ポール・ベルモンドやブリジッド・バルドーらの寄付も得て、なんとかレ・ミランド城を維持しようとするが、結局資金が集まらず城は1969年に競売に掛けられてしまう。

ちなみにレ・ミランド城はその後数人の持ち主を経て、現在はジョセフィン・ベイカー博物館として公開されている。

その後モナコのグレース王妃が虹の部族12人を引き取り、一家はモナコで暮らす様になる。


最後のパリ公演

ジョセフィン・ベイカーはモナコの赤十字のための公演を行った後、自信を取り戻し、1975年にパリのボビーノ・シアターで公演を行った。

初日にはグレース王妃はじめ、アラン・ドロン、ミック・ジャガー、ミレーユ・ダルク、ソフィア・ローレンなど著名人・俳優が集まった。

初日から拍手喝采のカムバック公演だったが、ジョセフィンは3日めに脳梗塞を起こし、病院に運ばれるがそのまま息を引き取った。69歳の生涯だった。

ジョセフィンの葬式はマドレーヌ寺院で行われ、2万人が最後の別れを告げたのである。



丹念な資料調査にもとづいたジョセフィン・ベイカー伝である。

今であればノーベル平和賞の対象にも挙げられたであろう平和主義者、博愛主義者の波瀾万丈の生涯を読みやすくまとめた、おすすめの一冊だ。


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