2009年9月21日追記:
いよいよ
NHKのテレビドラマ「白洲次郎」が完結する。今日夜10時から3夜連続で、第一話から第三話まで連続して放映される。
吉田茂役の原田芳雄の病気で、当初から今年2月末の第一、二話から半年遅れて第三話が8月に放映されることになっていた。これが衆議院選挙の関係でさらに一ヶ月遅れて完結することになったものだ。
家族で韓国に旅行するがHDビデオで予約し、戻ったら見るつもりだ。
ドラマの完結を祝して原作の北康利さんの「白洲次郎 占領を背負った男」のあらすじを再掲する。
著者の北康利さんからもコメントを戴いている。ドラマを見る際の参考にして欲しい。
2009年2月28日追記:
今日(2月28日)夜9時から
NHK総合でドラマ「白洲次郎」が放送された。
見ていてストーリーが北さんの本と違うなと思っていたら、最後に「実話に基づくフィクション」という字幕が表示されて納得した。
冒頭に白洲次郎が自宅で、戦後の極秘文書を焼却する場面がある。白洲正子は中谷美紀だが、70歳台の白洲次郎は本人にそっくりの老俳優が演じていたのでびっくりした。
なかなかおもしろく、次回におおいに期待を持たせる内容だった。次の放送は3月7日、そして最後の3回目は8月に予定されている。
次回が楽しみだ。
2009年2月27日追記:
いよいよ明日(2月28日夜9時から
NHK総合でドラマ「白洲次郎」が放送される。NHKも相当力が入っているようで、放送は全3回。2月28日、3月7日、そして最後の3回目は8月に予定されている。
大変期待しているドラマなので、テレビ放映にあわせて原作の北康利さんの「白洲次郎 占領を背負った男」のあらすじを再掲する。
2008年12月13日追記:
このブログで紹介して著者の北康利さんからもメッセージを頂いた「白洲次郎 占領を背負った男」が文庫になって講談社文庫から上下2巻で発売された。
白洲次郎 占領を背負った男 上 (講談社文庫)著者:北 康利
販売元:講談社
発売日:2008-12-12
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白洲次郎 占領を背負った男 下 (講談社文庫)著者:北 康利
販売元:講談社
発売日:2008-12-13
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文庫本になって買い求めやすくなったので是非一度は手にとってみて欲しい。
年間250冊読む筆者の今年一番のおすすめのノンフィクションである。
2008年5月20日追記:
筆者は読んでから本を買う主義だ。世の中には本当に手元に置いておきたい本は少ない。筆者の場合、読んでから買う本は年間5−10冊程度だ。
その筆者がこの本をアマゾンで注文して購入した。
買ってみて驚いたが、なんと筆者が買った版は第25刷だった。1刷何万部かわからないが、仮に1万部とすると既に25万部が売れている計算になる。
推薦文も図書館で借りて読んだ本は城山三郎氏の推薦文のみだったのが、第25刷では、城山三郎氏の他に、渡部昇一、朝日新聞、山崎洋子、福田和也、佐高信、舛添洋一、甘糟りり子、河内厚郎、読者2人の推薦文が本の帯に載せられている。
また北康利氏は、
NHKの「その時歴史が動いた」の2006年4月の白洲次郎特集にも出演している。
大変よく売れている本で、いまだにベストセラーでもある。これは買っても良い本だと思う。
2008年5月17日追記:
本日あらすじをアップしたら思いがけず著者の北康利さんからコメントを戴いた。
いろいろなブログで取り上げていただきましたが、こんな気合の入ったものは初めてです。感激しました。Posted by 北康利 at 2008年05月17日 11:41
元気の出るコメントで、こちらこそ感激です。
+++今回のあらすじはすごく長いです+++
白洲次郎 占領を背負った男著者:北 康利
販売元:講談社
発売日:2005-07-22
おすすめ度:
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吉田茂の腹心の部下として、戦争直後の対GHQ対策を担当し、日本国憲法が生まれる現場に立ち会った異色の実業家
白洲次郎の伝記。
筆者は東京の
町田市に住んでおり、小田急線の
鶴川駅が最寄り駅だ。その鶴川駅から歩いて5分程度の場所に白洲次郎・正子夫妻の
武相荘(ぶあいそう)があって、現在は記念館になっている。
一般的には白洲正子がエッセイストとして有名だが、白洲次郎もここ数年で数冊の本が出て、一躍有名になった。この本も2005年の発行だ。
白洲次郎は「日本で初めてジーンズをはいた人物」と呼ばれているが、次の本の表紙写真にあるようにジーンズ・Tシャツ姿も決まっている。
風の男 白洲次郎 (新潮文庫)著者:青柳 恵介
販売元:新潮社
発売日:2000-07
おすすめ度:
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鶴川の書店では
白洲正子コーナーがある。その一部に白洲次郎に関する本も少しだけ置いてあったが、最近では白洲次郎の本もかなりの数になっている。
この本の表紙の写真は白洲次郎が一目惚れした樺山正子、後の白洲正子に送った若き日のポートレートだ。ハンサムガイである。
白洲次郎は身長180センチを超え、当時の日本人としては非常に背が高く、外人の中に入っても見劣りしない体格と、ケンブリッジ大学出身の英語力で、戦後直後のGHQと渡り合い「マッカーサーをしかりとばした日本人」と言われている。
この本の著者の
北康利氏は、東大法学部出身で銀行系の証券会社に勤務する傍ら、
兵庫県三田市の郷土史研究家として
九鬼隆一、
川本幸民など三田市出身の名士の伝記を出版している。
また近々紹介する「国を支えて国を頼らず」も、九鬼隆一と浅からぬ縁がある福沢諭吉の伝記だ。
福沢諭吉 国を支えて国を頼らず著者:北 康利
販売元:講談社
発売日:2007-03-30
おすすめ度:
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白洲次郎の祖先も三田出身だ。それにしても現役のビジネスマンながら、綿密な資料調査に基づき内容に全く手抜きのない400ページもの力作を何冊も出版している北さんのエネルギーには敬服する。
筆者も見習いたいものだ。
城山三郎氏の推薦文
あらすじが長くなってしまったので、この本の帯に載せられている城山三郎氏の推薦文を紹介しておく。この本の内容を簡潔に言い表している。
ある超名門ゴルフ・クラブのテラス。その大長老ともいえる人物に声をかけられ、私はその隣の椅子に。著名な政治家や財界人などが会釈するのに対して、その人物は軽くうなずくだけ。それに見合う不思議な存在感の持ち主。それが、白洲次郎氏であった。
この人の出自も結婚も、華やかそのもの。平然と官界、政界、財界、それに軍とも闘う。よく見て、監督し続ける。トヨタのトップには、「かけがえのない車を目指せ」とアドバイスし、政府に対しては、「何で勝手に勲何等とか決めることができるのか」と。
その人物がどんな風に育ち、人格を形成していったのかを、話題豊かに展開していく快著である
白洲次郎という人の経歴を一口で言うと、次のようになる。
白洲次郎は、神戸の豪商の家に生まれ、ケンブリッジ大学を卒業し、作家の白洲正子と結婚、戦前は吉田茂の「ヨハンセングループ」に協力し、戦時中は東京都下の鶴川村に隠棲、戦後は吉田茂の側近としてマッカーサーのGHQと日本国憲法制定交渉にあたる。数々の民間企業の経営に携わった他、初代貿易庁長官、通商産業省設立、東北電力会長就任、軽井沢ゴルフ倶楽部理事長就任という華やかな経歴を持った日本の戦後を創った功労者の一人である。
1985年に白洲次郎氏が亡くなったときは、総理大臣の中曽根康弘氏が弔問に駆けつけたという。
北さんが「占領を背負った男」と表したのも、実に的確と思う。
この本の最後に北さんは次のように記している。
白洲次郎の痛快なエピソードに触れると誰しも、高倉健主演の仁侠映画を見たあとの観客が、肩で風切りながら映画館をでてくるのにも似た精神の高揚感に包まれるはずである。しかしその一時的な興奮の後に、信念を持つ人間のみが身にまとえる真の意味での「格好良さ」に思いを致していただけるならば、作者冥利に尽きるというものである。
たしかに良い映画を見終わって映画館から出てくるような読後感のさわやかな作品である。この本に触発されて、筆者も白洲次郎に関する本を何冊か買ったので、いずれあらすじを紹介していく。
北さんは「司亮一」というペンネームで、兵庫県三田市出身の官僚九鬼隆一、蘭学者川本幸民の伝記を書いているが、ペンネームからも司馬遼太郎を意識していることがうかがえる。
この本も司馬遼太郎の作風を思わせる様に、あたかも見てきたように著述している。
筆者の住む町の有名人で、同じ
旧大洋ホエールズファン、ストーリー性が高い人生を送った白洲次郎氏の伝記と言うこともあり、400ページ弱の大作だが、つい引き込まれてしまい、あらすじが大変長くなってしまい
続きを読むにまでかかってしまった。
白洲次郎は強烈な人柄の人物なので、敵も味方も多く居たと思うが、この本ではもっぱら良い面だけが書かれている。その意味ではやや片手落ちの感もあるが、一度読んだら白洲次郎のファンになること請け合いだ。
このあらすじを読んだら、ほとんどこの本を読んだような気になるかもしれないが、是非手にとって読んで欲しい本だ。
それでは、この本の目次に従ってあらすじを紹介する。筆者は良い本は目次を見れば分かると思っているが、その典型の様な良くできた目次だ。日本国憲法制定以降は
続きを読むに記した。
稀代の目利き
これは
白洲正子、つまり白洲次郎の妻のことだ。昭和を代表する目利き
青山二郎や昭和を代表する評論家
小林秀雄、
河上徹太郎などと親しくつきあい、著述家、目利きとして白洲正子は成長していく。
白洲正子は、プリンシプルを重んじる白洲次郎のことを「直情一徹の士(さむらい)」と表している。
エピソードには事欠かない。
白洲次郎はマッカーサーをしかりつけた日本人として有名だ。「戦争に負けたけれども奴隷になったわけではない」が次郎の口癖だったという。日本人離れした体躯と英国風のエレガンス・英語力を身につけていた次郎はGHQ高官とも堂々とわたりあった。
次郎は、うるさ方として音に聞こえた存在で、まず相手を威嚇して、その度量を図るという悪い癖があった。初対面の相手はそれだけで震え上がったという。青山二郎からは「メトロのライオン」(MGM映画の冒頭の吼えるライオンのこと)というあだ名を付けられたほどだ。
育ちのいい生粋の野蛮人
白洲次郎は1902年生まれ。兵庫県三田藩で代々儒官をつとめた白洲家で生まれ、祖父白洲退蔵は家老職を勤めた。白洲次郎は母よしこ似だったという。
父の白洲文平(ふみひら)にはなじめなかったが、芦屋の北の4万坪の屋敷に住み、何不自由ない少年時代を過ごした。家には美術館があり、雪舟や狩野派、土佐派の日本画、コロー、モネ、マティスといった洋画のコレクションがあったという。
神戸一中時代には親から米国車を買って貰って、自動車運転を始めている。同級生の作家今日出海は、「育ちのいい生粋の野蛮人」と呼んでいる。
ケンブリッジ大学クレア・カレッジ
旧制高校に行くだけの学力がなかった次郎を、父文平は「それならいっそのこと留学せえ」と、ケンブリッジ大学クレア・カレッジに送る。
次郎は生涯を通じ「プリンシプルが大事だ」と口にしたが、これはケンブリッジの"Be gentleman"(紳士たれ)という教育が元になっている。ケンブリッジ時代に生涯の友、後のストラッフォード伯爵、通称ロビンと出会う。
次郎への仕送りは1回で現在の金で3,000万円ほどという高額で、留学時代はベントレーの3リッターとブガッティタイプ35という超高級車2台を持っていたという信じられない生活をしている。
ケンブリッジの仲間からは、「オイリーボーイズ」と呼ばれ、サーキットに入り浸ったり、大陸へのグランドツアー(卒業旅行)をロビンと二人で2週間行っている。
孫の著述家白洲信哉氏の「白洲次郎の青春」は、このグランドツアーの旅程を現代のベントレーで巡った旅行記で、こちらも読み物として面白い。
白洲次郎の青春著者:白洲 信哉
販売元:幻冬舎
発売日:2007-08
おすすめ度:
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そんな次郎の元に昭和の金融恐慌で白洲商店が倒産したという知らせが届き、次郎は8年間の留学生活にピリオドを打ち帰国する。帰国してからは「ジャパン・アドバタイザー」という英字新聞で働いた。米国の女学校への留学帰りの樺山伯爵家の娘正子と出会い、一目惚れして結婚する。樺山家には
黒田清輝の「湖畔」と「読書」が客間と食堂を飾っていたという。
次郎はセール・フレーザー商会を経て、35歳で日本水産の取締役に就任する。
近衛文麿と吉田茂
次郎はカンパクと呼ぶ
近衛文麿と親しくなり、近衛に頼まれて
長男近衛文隆の面倒を見た。
近衛文隆はソ連軍にシベリアに抑留され、とうとう1956年にシベリアで亡くなる。次郎は「ソ連の野郎、絶対にゆるさねえ!」と叫んだという。
正子の父樺山愛輔は、吉田茂の義理の父の明治の元老
牧野伸顕と同じ薩摩出身で親しかったことから、次郎も吉田と知遇を得る。
昭和10年当時、樺山愛輔、牧野伸顕、吉田茂は「ヨハンセングループ」(吉田反戦グループ)と呼ばれ、軍部から目を付けられていた。
次郎は吉田や吉田の妻雪子にも可愛がられ、吉田の三女、和子の
麻生太賀吉への縁組みをまとめ上げる。政治家麻生太郎氏の両親だ。
吉田は戦争回避に尽力するが、流れは食い止められず日本は戦争に突入する。次郎は日本の敗戦を予測し、間違いなく食糧不足になるとの見込みのもとに、東京都鶴川村で5,000坪の農家を買って移り住み農業を始める。これが鶴川にある武相荘だ。
牛場友彦、
細川護貞などがこのころの次郎の友達だ。
吉田は近衛の依頼を受け、天皇に終戦の上申書を提出しようとしていたことから、軍部に逮捕され、昭和20年4月に収監されるが、
阿南惟幾陸軍大臣(あなみこれちか)の口添えで不起訴となり釈放される。
終戦連絡事務局
1945年(昭和20年)、次郎が43歳の時に日本はポツダム宣言を受諾した。
マッカーサーが進駐してきて、
GHQを設立する。GHQは第一生命本社ビルを接収して事務所として使った。
当時65歳だったマッカーサーの様々なエピソードが紹介されていて、面白い。マッカーサーは演出効果、アナウンスメント効果を常に考えて行動する名優だったという。天皇との写真の演出などはその最たる物だ。
正装の天皇と略服のマッカーサー。日本国民はこの写真を見て衝撃を受けたという。
出典:Wikipedia
次郎は近衛に対して吉田を外相として起用するよう進言する。吉田は外務省の部長以上を辞めさせ、次郎をGHQとの折衝を担当する終戦連絡事務局参与として抜擢する。
GHQの窓口は民政局(Government Section)であり、局長はホイットニー准将、局次長はユダヤ人でハンサムガイの
ケーディス中佐だった。
北さんは宮澤喜一元首相にも取材しているが、「白洲さんはとにかくよく進駐軍に楯ついていましたよ」と語っていたという。
英語の喧嘩はお手のもので、ホイットニーが「貴方は英語がお上手ですな」とお世辞を言ったら、「閣下の英語も、もっと練習したら上達しますよ」と切り返した話は有名だ。次郎のあだ名は"Mr. Why"とも"Sneaking eel"(岩の間に入り込むうなぎ)とも言われた。次郎の行動をよく示しているあだ名である。
憤死
マッカーサーは近衛と会い、「近衛公は世界を知り、コスモポリタンで、年齢も若いのだから、自由主義者を集めて帝国憲法を改正するべきでしょう」と促す。近衛はこれに基づき、京大時代の恩師の佐々木惣一をヘッドとする憲法調査会を内大臣府に編成した。しかし戦犯容疑のある近衛を重用するマッカーサーへの批判がアメリカ国内で強まると、マッカーサーは近衛を切り捨てる。
GHQは日本側案を一顧だにせず黙殺、ついには近衛を戦犯指名する。近衛は逮捕前日に親しい友人を夕食に招待したが、勘の鋭い次郎は招待を断る。予想通り近衛は青酸カリ服毒自殺を遂げる。
その直後、次郎が天皇のクリスマスプレゼントをマッカーサーの部屋に届ける時に、マッカーサーが「その辺にでも置いておいてくれ」というと、次郎は「いやしくもかつて日本の統治者であった人からの贈り物を、その辺に置けとは何事ですかっ!」と叱りとばし、マッカーサーはあわてて謝り、新たにテーブルを用意させたという事件が起こる。
次郎がマッカーサーをしかりつけた唯一の日本人と云われるゆえんだ。
「見ていてくれましたか?カンパク、あの野郎に一矢報いてやりましたよ」、近衛を憤死させた義憤があったからこそ、絶対権力者に対して大胆にも声を荒げて怒ったのだ。
"真珠の首飾り"ー憲法改正極秘プロジェクト
マッカーサーは絶対権力者として、欲しいままに日本を荒療治する。自分をフィリピンで破った
本間雅晴中将に対しては43の罪で戦犯として銃殺刑を科した。
本間は、刑の執行の前に「私はバターンにおける一連の責任を取って殺される。私が知りたいのは、広島や長崎の無辜の市民の死はいったい誰の責任なのか、という事だ。それはマッカーサーなのか、トルーマンなのか」と語ったが、その声は無視される。
GHQの民政局を実質支配していたケーディスは昭和21年1月に公職追放を発表し、1年半ほどの間に20万人の有力者が追放され、指導者を失った現場は大混乱した。
近衛死後日本側で新憲法案を検討していたのは、国務大臣で法学者の
松本烝治ただひとりだったが、昭和21年2月に憲法問題調査委員会試案が毎日新聞記者の西山柳造によりすっぱ抜かれ、毎日新聞の1面にスクープされたのだ。
ちなみに西山記者が情報入手ソースを明かさなかったため、この世紀のスクープの真相は50年近く不明だったが、死の直前の
1997年に西山氏は真相をあかしている。
日本側案は明治憲法を微調整したものだったので、毎日新聞スクープの2日後にマッカーサーはホイットニーに象徴天皇、戦争放棄、封建制廃止の3つの原則を柱とする憲法改正草案の作成を命じる。これがコードネーム"真珠の首飾り"の新憲法案作成プロジェクトだ。
GHQが憲法を制定することは、そもそも国際法に違反する行為だった。国際法の基本であるハーグ条約には次のような規定がある。
「国の権力が事実上占領者の手に移りたる上は、占領者は、絶対的の支障なき限り、占領地の現行法律を尊重して、なるべく公共の秩序及び生活を回復確保する為施し得べき一切の手段を尽くすべし」(ハーグ条約付属書規則第43条)
しかしソ連が日本の占領がアメリカ軍だけで行われていることに不審を抱き、GHQを監視する極東委員会が設置されることが決まったことが、マッカーサーに憲法改正案をつくらせる引き金となった。ソ連が口出しする前に先手必勝というわけだ。
ホイットニーは
ケーディスにリンカーンの誕生日(2月12日)までに憲法改正案を創るように指示する。ケーディスは民政局から25名のメンバーを選び、いわゆるマッカーサー草案を期限前の2月10日に完成させる。
25人のメンバーの構成は、陸軍将校11名、海軍士官4名、軍属4名、秘書を含む女性6名だった。弁護士資格を持つものこそ3名いたが、憲法の専門家はゼロだった。
マッカーサー草案は予定通り2月13日に吉田外相、松本烝治国務大臣、次郎、外務省嘱託長谷川元吉にホイットニー、ケーディスらから伝えられた。天皇象徴制、一院制が骨子だ。当時GHQ民政局には共産主義者が多かったといわれているが、それを反映した土地国有化条項も織り込まれていた。
日本側がマッカーサー草案を見ている間、ホイットニーらは席を外す。戻ってきた時に次郎に言った言葉が"We have been enjoying your atomic sunshine"だった。次郎は憤慨し、それを聞いた吉田が、GHQなんて"Go Home Quickly"だと怒る。
ジープウェイ・レター
次郎は、マッカーサー案は日本の固有の事情を顧みない"Airway letter"(空路)であり、日本側の案は曲がりくねった山道を行く"Jeepway letter"で、日本の伝統と国情に即したものだと反論したが、全く功を奏さなかった。
次郎がホイットニーと交渉するが、48時間以内に回答しないとGHQ側でマッカーサー案を発表し総選挙の争点にするとおどされる。
幣原首相がマッカーサーと会談し、天皇に関する規定や戦力不保持といった基本原則以外は修正を加えても良いとの一応の言質を取り付け、回答期限の2月22日に天皇に上奏し了承を得た。
2月26日の閣議にマッカーサー案の外務省訳が閣僚に配布され、3月4日を期限としてマッカーサー案を土台にして日本案を作る作業にかかることが決定される。
ソ連が動き、極東委員会が活動を開始したので、マッカーサーは早急に憲法改正案をつくる必要が出てくる。
「今に見ていろ」ト云フ気持抑ヘ切レス
3月4日に法制局の佐藤達夫部長、松本烝治、次郎と外務省の担当者他でGHQのホイットニー以下と30時間におよぶマラソン翻訳会議を開始する。
ベアテ・シロタというロシア系ユダヤ人で日本に10年間滞在して日本語が堪能なメンバーが通訳として加わる。
彼女が加わったことで、女性の権利を保障する日本国憲法第24条などが織り込まれた。
ベースとなるのは3月2日案と呼ばれる松本案だった。マッカーサー案から大幅に修正されていることがわかり、ケーディスと松本の激論が始まったが松本は途中で官邸に戻るとして退席し、次郎と佐藤、外務省スタッフだけが残って交渉を続ける。
結局修正が認められたのは一院政と土地所有くらいで、松本修正案はほとんど徒労に終わった。
ソ連の呼びかけで極東委員会が3月7日にワシントンで開催されることが決まったので、ケーディスは3月5日までにファイナルドラフトをつくると宣言する。次郎は松本を呼ぶが、松本は病気を口実に拒否し、次郎と佐藤がケーディス、シロタ他と徹夜で外務省訳をもとに3月5日朝までにドラフトを作成する。
次郎はそれまで何度も官邸に途中報告し、できあがった英文の「憲法改正草稿要項」を官邸に持ち込み、3月5日午後4時半からの閣議にかける。松本は引き延ばしを主張するが、幣原首相は涙ぐみ「もう一日でも延びたら大変なことになる」として受諾を決意する。
その後皇居に幣原と松本が参内、「敗北しました」と天皇に閣議決定を報告する。天皇は皇室典範の天皇の留保権と、
堂上華族を残せないかと2点につき要望を述べられるが、そのままになった。
翌3月6日に「日本政府による憲法改正案」として世間に公表される。完全な「出来レース」だ。極東委員会はこれが日本人によるものでないことを見抜いたが、マッカーサーは押し切る。
大日本国憲法の改正だったので、枢密院可決を経て、帝国議会で承認、貴族院でも可決され、昭和21年11月3日日本国憲法は公布され、翌22年5月3日に施行された。
GHQは憲法案成立直後に松本烝治を公職追放した。次郎は「監禁して強姦されたらアイノコが生まれたイ!」と言っていたそうだ。
次郎が汚れ役になってGHQの矢面に立ったおかげで、吉田茂は憲法案成立の数ヶ月後に首相になれたと指摘する歴史家もいる。
屈辱を堪え忍んだ次郎だが、近々紹介する自著の「プリンシプルのない日本」の中で「戦争放棄の条項などプリンシプルは実に立派なので、押しつけられようが、そうでなかろうが、いいものはいいと率直に受け入れるべきではないだろうか」と冷静な意見を言っているのは注目に値すると北さんは指摘する。
プリンシプルのない日本 (新潮文庫)著者:白洲 次郎
販売元:新潮社
発売日:2006-05
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海賊と儒学者と実業家のDNA
白洲家のルーツは清和源氏の流れをくむ武士で、山梨県北杜市白州町白須が父祖の土地とされているそうだ。江戸時代中期に白洲文蔵が、九鬼水軍の末裔三田藩九鬼家に儒学者として雇われる。九鬼家と縁組みを重ねるうちに白洲家にも海賊のDNAが受け継がれる。
この本では次郎に影響を与えた人物として祖父の白洲退蔵と父の白洲文平のことを紹介している。白洲退蔵は兵庫県三田藩の家老職となり、明治維新直前に三田藩主九鬼隆義を佐幕派から倒幕派に大きく舵を切らせ、あやうく賊軍のそしりを免れる。
維新後は福沢諭吉らと横浜正金銀行の経営に携わり、頭取になった後、岐阜県官吏となる。神戸女学院の設立を支援した。明治24年にインフルエンザのため主君九鬼隆義の後を追うようにして亡くなる。
次郎の父文平は明治2年生まれ。明治学院の前身に入学、野球にハマって初代の野球部主将となる。その後ハーバード大学とボン大学に留学、留学生仲間に
近衛篤麿(近衛文麿の父)、
新渡戸稲造、樺山愛輔(白洲正子の父)、
池田成彬(後に三井合名常務理事、日銀総裁、大蔵大臣)がいる。
父退蔵病気の報に接し、急遽帰国、死を看取ってからは、三井銀行、大阪紡績(現東洋紡)を経て、綿花貿易商社の白洲商店を設立、綿花相場で大きく儲け、あり余る金で美術品を次々に購入、25歳の時にボストン美術館で日本画と彫金の白州コレクション展を開いたほどだ。
日本画57点、彫金280点に及び、
雪舟の屏風絵、
狩野永徳の達磨図などが含まれていたという。
純和風の家を建てるのが趣味で、大工を自宅に住まわせていた。傍若無人の性格で、和風の家ながら、自分は靴をはいたまま畳に上がっていたという。
飛ぶ鳥を落とす勢いだったが、昭和3年の金融恐慌で白洲商店が破産する。その後は引退して大分に家を建て、隠棲し、昭和10年に亡くなる。まさに波瀾万丈の生涯だ。
巻き返し
吉田は昭和21年に終戦連絡事務局の総裁を兼務すると同時に、次郎を終連専任次長に命じた。次郎はかねてからの作戦通りGHQ民政局と対立していた
ウィロビー少将が率いる参謀第二部に接近し、吉田をウィロビー少将に紹介する。
吉田とウィロビー少将は意気投合し、民政局に対する戦いがやりやすくなる。また次郎は新聞社を経営していた米国通の
松本重治を吉田のブレーンとして巻き込み、大政治家吉田茂の基盤を着々とつくる。
昭和21年4月の最初の総選挙で
鳩山一郎を党首とする自由党が勝利するが、鳩山はすぐに公職追放の憂き目を見る。
昭和21年5月吉田が総理大臣となり組閣する。次郎と吉田はウィロビーとのパイプを通して、マッカーサーに共産主義者の民政局員を帰国させ、民政局の影響力も低下していく。
昭和21年12月に次郎は経済安定本部(後の経済企画庁)次長を兼務する。吉田は
大内兵衛、
有沢広巳、
東畑精一などの東大の教授連を政府のブレーンとして起用すべく次郎を使って交渉する。
大内と有沢は有名なマルクス経済学者だ。マルクス経済学という学問は今あるのだろうか?よくわからない。
有沢の傾斜生産論に従って、石炭と鉄鋼の増産が国策として採用され、経済復興の起爆剤となる。
吉田内閣は、吉田の「組合=不逞の輩」発言のため議会を解散するが、選挙で敗れクリスチャンの
片山哲内閣が成立する。
しかし吉田、次郎に近い平野農相をケーディスが公職追放で追い出すと、片山内閣は総辞職に追い込まれる。次の首班指名選挙では吉田の自由党が第一党にもかかわらず、ケーディスの介入で民主党の芦田均が首相に座る。
GHQの民政局次長がここまで権力を握っていたとはにわかには信じがたい話だ。
ケーディスは妻を米国に残していながら、鳥尾子爵夫人の鶴代を「ツーちゃん」と呼ぶ愛人関係となる。やりたい放題だ。
ケーディスとの最終決着
昭電疑獄事件が起こり、福田赳夫、大野伴睦ら大物が逮捕され、芦田内閣は総辞職する。
そのころ民主党の一部と自由党は合併して吉田を党首とする民主自由党を結成していたので、吉田が国民の期待を得て首相に返り咲く。ケーディスは吉田の首相就任を阻止しようとするが、不発に終わる。
吉田は
極東軍事裁判で親友の
広田弘毅をなんとか救おうと努力し、GHQの民政局のホイットニーのところへも恥を忍んで会いに行くが、首相にあるまじき軽挙だと一蹴され、昭和23年11月に広田は絞首刑と決定する。
ケーディスは吉田をなんとか政権から追い落とそうと画策し、内閣不信任案を可決させるが、国民の人気は高く、翌24年の総選挙では吉田の民自党の圧勝に終わり、ケーディスの思惑ははずれる。
このとき吉田は自分が目を付けた官僚を多く当選させて「吉田学校」をつくる。
池田勇人、
佐藤栄作、
橋本龍伍、
岡崎勝男などだ。吉田は次郎の勧めもあり池田勇人を大蔵大臣に抜擢し、池田は期待に答えて日本の経済回復を実現する。
ケーディスは巻き返しをねらって一時帰国してワシントンで、国務省の
ジョージ・ケナンに会い支持を訴える。しかしケーディスは日本を赤化しようとしていたという評価がGHQのウィロビーからワシントンに流されており、自らの限界を感じ、ケーディスはGHQを辞職し、日本には戻らなかった。
マッカーサーはケーディスの帰国直後、昭和24年の正月に「今や日本復興計画の重点は政治から経済に移行した」と、民主化の終了を宣言した。
ケーディスには「空虚な理想主義者はおごりと腐敗におぼれて自滅する」という評価が、第2次世界大戦の英雄アイケルバーガー中将より下されている。
ケーディスは1996年、90歳まで長生きし、今はアーリントン墓地に眠っている。
次郎は週刊誌のインタビューで「占領中の日本でGHQに抵抗らしい抵抗をした日本人がいたとすれば、ただ二人、一人は吉田茂であり、もう一人はこの僕だ」と語っている。
「吉田さんは、そのことが国民の人気を得るところとなりずっと表街道を歩いたが、もう一人の僕は別に国民から認められることもなく、こうして安穏な生活を送っている。けれども一人くらいはこういう人間がいてもいいと思い、別にそのことで不平不満を感じたこともないし、いまさら感じる年でもないと思っている」と語っている。(週刊新潮 「『占領秘話』を知りすぎた男の回想」
通商産業省創設
通産省は戦前の商工省の後身というのは誤解で、実は白洲次郎が作り上げた日本復興の切り札が通産省だった。
次郎は第2次吉田内閣で商工省の外局である貿易庁長官に抜擢される。貿易庁は輸出許可権を握っていたので、以前から贈収賄の巣窟と見なされていた。
その貿易庁を、貿易立国を推進する官庁として生まれ変わらせるという次郎の熱意に動かされ、商工省の課長だった
永山時雄らが次郎の懐刀として事務手続きを仕切り、昭和24年2月に通商産業省としてスタートした。
永山には「猛獣使い」というあだ名が付けられたという。
そして通商局の課長以上を外務省からの出向ポストとし、商工省の中心部局だった電力や資源関係の行政を一括して資源庁に集約し、通産省の外局にするという荒療治を行った。
永山を引き抜いてから3ヶ月の新省庁設立により次郎の豪腕は世に知れ渡り、「吉田側近政治」や「白洲天皇」、「ラスプーチン」呼ばわりされた。
次郎は結局大臣にはならなかった。吉田は松本重治に次郎の大臣就任を相談したところ、「白洲は舌足らずなところがあるから国会の答弁はちょっと無理じゃないですか。やめたほうがいいですよ」と答えたという。
駐米大使になる話もあったが、これは駐日米国大使の反対でついえたという。大臣や大使にはならなくとも、吉田の片腕として次郎は手腕を発揮し、飛ぶ鳥を落とす勢いの池田勇人にも一目置かれる存在だった。
只見川電源開発
次郎は通産省新設後、日本の電力業界の九分割を手がけた。戦前東邦電力を創立して既に引退していた74歳の松永安左衛門を、吉田が電力事業編成審議会の委員として招聘する。
次郎が松永をコントロールしようとすると、松永は逆に吉田の懐刀の次郎と麻生太賀吉を東北電力と九州電力の会長に据えるという奇策をとって、吉田の信任を得る一方、九電力を松永派が支配することとなった。恐るべき策士であると。
昭和26年5月に9つの電力会社が誕生し、次郎は東北電力の会長に就任し、「日本の再建は東北から。東北の再建は電力から」のソローガンのもと、次郎の政治力を遺憾なく発揮して、当時日本最大の電源として期待されていた只見川水系の開発権を取る。
東北に於ける開発可能な水力発電は200万KWだったが、そのうち3/4が只見水系だった。
東京電力と東北電力の話し合いはつかず、東電は東北電力を訴えるしまつだった。次郎は所管官庁の建設省の説得にあたり、旧知の建設大臣の野田卯一氏(野田聖子代議士の祖父)の支援を得て只見川の水利権を東北電力に切り替えさせるという超法規的措置を得た。
吉田首相の後押しもあって、昭和27年に東北電力に対する工事許可が下りた。さらに自分の息の掛かった人物を電源開発社総裁にして支援を約束させた。
「白洲300人力」(次郎一人で代議士300人に匹敵)と言われる次郎の政治力をまざまざと見せた出来事だ。
単に政治力だけでなく、九電力分割の時に旧日本発送電株式会社(日発)で只見川電源開発計画に携わった技術者と図面をごっそり東北電力で引き取っておくなど、戦術的にもよく考えられた只見川電源開発引き取りだった。
東北電力の会長職は昭和34年に退任するが、株主総会で役員席をひな壇から株主と同じ高さにするとか、雪が降っても遠くからよく見えるようにと作業員のつなぎは赤にするとか、女子社員にお茶を入れさせることを禁止し、自分で入れさせるとか会長命令をだした。
東北電力社内では「白洲さんにはじめてデモクラシーというものを教えてもらった」という声も上がったという。
講和と独立
吉田や次郎の努力の甲斐があって、日本の生産力は戦前の水準を回復してきた。占領状態から脱する講和が次の課題だった。吉田は反共主義者で、ソ連との友好などハナから考えておらず、単独講和を主張した。これに対し鳩山一郎などはソ連も入れた全面講和説を唱えた。
外務省も分かれていたので、吉田は腹心の池田勇人と次郎を特使として昭和25年4月に米国に派遣する。このときに池田の秘書官として同行したのが
宮澤喜一だった。
次郎は宮澤喜一を気に入り、晩年まで親しくつきあっていた。
当時外貨の持ち出しも制限されており、ワシントンの日本大使館は閉鎖されたままで、朝日新聞とNHKラジオの特派員のみが居るという時代だった。
池田と宮澤は財務省の向かいのホテルワシントンのツインベッドルームに相部屋で泊まった。一泊1日7ドルだったという。次郎は英国時代の友人の屋敷を泊まり歩き、池田・宮澤とは別行動だった。
次郎が吉田の懐刀と知っている米国国務省は次郎にコンタクトして、国務次官補の自宅で次郎を招いて秘密会談をしていた。
米国は講和条約を結んだ後でも、米軍基地の継続を望んでいたので、それが可能なのか次郎を通して日本側の感触を知りたかったのだ。
昭和25年6月にはダレス国務省顧問が来日し、吉田首相との会談で、日本の再軍備を要望する。吉田・ダレス会談の直後に朝鮮戦争が勃発し、世界情勢は大きく変化し、マッカーサーは書簡を送り、7万5千人から成る警察予備隊が昭和25年8月に創設された。
次郎は再度米国を訪問し、ダレスと会談する。それを受けてダレスは昭和26年2月に再来日し、吉田・ダレス会談で講和条約・日米安全保障条約・行政協定の締結が約束された。
次郎は沖縄も小笠原も含めた一括返還を求めたが、沖縄の戦略的重要性に目を付けたマッカーサーは沖縄を米軍基地として占有するつもりだった。
朝鮮戦争でマッカーサーは国連軍総司令官として、
仁川上陸作戦を実行し、南に攻め込んでいた共産軍を一挙に撃退し、北に攻め上がる。共産側は中国が2百万人の義勇軍を送って参戦し、戦線は硬直化してきたので、マッカーサーは原爆使用も含めた全面戦争を主張する。
マッカーサーのスタンドプレイが目立ち、トルーマン大統領との齟齬が生じ、昭和26年4月トルーマンはマッカーサーを解任する。
マッカーサーと吉田茂
マッカーサーが東京在任中に会った日本人は100人程度で、2回以上会った日本人は15名ほどだという。そうした中で吉田とは75回面談し、130通もの書簡を往復させ、信頼関係はゆるぎないものがあった。
マッカーサーはソ連に対する楯でもあった。天皇の証人喚問を求めるソ連に対してマッカーサーは言下に拒否し、ソ連が北海道に占領軍を送ろうとした時に、ソ連代表部を全員逮捕すると警告した。
吉田はマッカーサーを「日本の恩人」と呼んでおり、昭和39年のマッカーサーの葬儀には85歳という高齢の吉田みずからが参列した。
旧友を訪ねる吉田茂
出典:Wikipedia
次郎のマッカーサーに対する思いは吉田とは違った。近衛の一件もあり、次郎は終生皇居前を通るときは第一生命ビルを見ないように横を向いていたという。
帰国後もマッカーサーは米国の英雄で、ニューヨークの歓迎パレードでは500万人が集まったという。昭和26年4月の米国議会での演説の"Old soldiers never die, they just fade away"という名文句は有名だ。
昭和26年9月日本はとうとうサンフランシスコ講和条約を締結する。吉田を団長とする日本代表団には次郎も講和会議主席全権顧問として参加した。麻生太賀吉、和子、松本重治といった腹心も参加していた。
サンフランシスコ講和条約の調印風景
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講和受諾演説では一波乱あった。講和交渉は、吉田や次郎たち側近が直接米国政府と話をすすめ、外務省はつんぼさじきに置かれていたので、せめて受諾演説は外務省で用意したいと英文の受諾演説を用意し、GHQやダレスにも事前チェックを得ていたのだ。
次郎は「戦勝国と同等の立場になれる晴れの舞台に、相手方と相談した上に、相手国の言葉で書くバカがどこの世界にいるんだ!」と一喝し、日本語の挨拶に代えさせる。GHQを恐れる外務省がなんとか思いとどまらせようとしたが、次郎は懸案となった奄美大島、琉球諸島、小笠原諸島の返還についても演説に織り込んだ。
吉田の20分の演説は半紙に墨書して30メートルにもなり、各国のマスコミは吉田のトイレットペーパーと呼んだという。
サンフランシスコでの吉田演説 後方に白洲次郎が座っている。
出典:Wikipedia
講和条約締結直後、サンフランシスコ郊外の米軍プレシディオ基地で日米安保条約も署名される。ソ連・中国などを刺激しないために秘密裏に事が進められたのだ。吉田は安保条約は不人気なので、将来ある政治家が署名するのはためにならないとして、池田他には署名させず自分一人で署名した。
そして日の丸は再び揚がった
サンフランシスコ講和条約は昭和27年4月28日に発効した。その日第一生命ビルには7年ぶりに日章旗がひるがえった。
次郎は再び独立国家に復帰した意義を日本国民はもっと認識すべきだと考えていた。そのために、2つの筋を通すべきだと考えていた。その一つは天皇の退位であり、もう一つは吉田の引退だった。
いかにもプリンシパルを重んじる硬骨漢の次郎らしい。
次郎は戦争は東条など軍部のせいだという吉田に対し、「朕戦いを宣す」と言ったことに責任を持って一定の区切りをつけなくてはならないと主張した。しかし署名にも「臣 茂」と書いて問題となった吉田のこと、天皇の退位など聞く耳持たなかった。
吉田の引退についても、帰国後吉田学校の面々より続投の声があがり、吉田は引退せず続投した。次郎は孤立し、吉田の前に顔を見せなくなった。次郎の友人の今日出海は、こんな次郎を「芸術家的孤独」と呼んだ。
次郎が再び吉田の元を訪問するきっかけは、息子の春正の結婚相手の親、
財界四天王と呼ばれた水野成夫(元国策パルプ、産経新聞社長)の計らいだった。「親ともいえる吉田さんのところに足を向けないような男の息子に大事な娘はやれない」と言われ、次郎は久しぶりに大磯に顔を見せた。
吉田ははじめ何のために来たのかわからなかったが、事情を聞いて「次郎もあれで人の親なんだなあ」と呵々大笑して仲直りとなったという。
次郎は講和後も吉田の意を受けてしばしば外国に出かけた。しかし口は固く、秘密は絶対に明かさなかった。次郎の死の数年前に何日かにわたって次郎は自宅で書類を焼いていたという。「こういうものは、墓場に持って行くものなのさ」と言っていたという。
7世ストラッフォード伯爵となったロビンとの交友も復活し、第一線から退いても荒川水力発電会長、東亜セメント社長、日本テレビ、大洋漁業の社外重役や大沢商会の役員なども歴任した。
昭和26年に創設された日本開発銀行の初代総裁にはまだ無名だった財界四天王の一人
小林中を推薦し、その後小林は財界の大立て者となっていく。
日本経済の復興には外資が欠かせなかったが、外資側でも有望な日本市場への参入のチャンスをねらっていた。次郎はモルガンやロックフェラー財閥などともつながりを持っていたので、外資の窓口としては格好の存在だった。
SGウォーバーグの創立者サー・シグモンド・ウォーバーグが次郎に会いたいと言ってきて、二人は意気投合、次郎の口利きでウォーバーグは野村證券と提携し、日本市場での基盤を築くことができた。
サー・シグモンド・ウォーバーグは昭和53年に日本経済への貢献をたたえられ勲一等瑞宝章を送られる。
次郎の死後、ウォーバーグはケンブリッジ大学に日本を中心としたアジア関係図書を「白洲ライブラリー」として寄贈して、次郎への感謝の気持ちを表した。
うまくいったことばかりではない。次郎は鉄鋼に外資を導入しようとして、分割の決まっていた日本製鉄広畑製鉄所のジャーディン・マチソンとの合弁案を吉田に進言した。広畑製鉄所は当時日本最大かつ最新鋭の製鉄所で、奇跡的に戦禍を免れていた。
収まらないのは分割して富士製鉄の社長になる予定の
永野重雄で、「広畑を取られたらわしは腹を切る」と言って激怒し、柔道仲間の
桜田武日清紡社長を通じ、吉田のパトロンの一人の宮島日清紡会長に吉田を説得して貰い、白洲案を食い止めることに成功した。
永野の政治力も見事だった。収まらないのは次郎で、たまたま二人は銀座のクラブで顔を合わせ、次郎が「何もわかってないくせに横車を押しやがって、お前みたいな阿呆がいるから日本は良くならねえんだ!」と一喝すると、永野は「そっちこそ国を売るようなまねしやがって、英国かぶれの売国奴め!」と応じたものだから、次郎は永野に殴りかかり、柔道の猛者の永野が応戦し、社会的地位もある二人が取っ組み合いの喧嘩となった。麻生太賀吉が間に入って、なんとかその場は治めたという。
このこともあってか次郎は
川崎製鉄を応援した。昭和25年川崎重工から独立したばかりの川崎製鉄の西山弥太郎は八幡、富士製鉄への挑戦を宣言、資本金5億円であったにもかかわらず、総工費163億円の千葉製鉄所建設計画を発表した。
法王と呼ばれていた当時の
一万田日銀総裁に「建設を強行するなら、千葉にペンペン草を生やしてやる」とまで言われていたのを、次郎は鉄鋼業界に自由競争の原理が働くことを歓迎し、通産省から設立認可を出させ、日本開発銀行の小林中総裁もあうんの呼吸で融資を約束し、川崎製鉄の千葉製鉄所建設が決まった。
四日市旧海軍燃料廠の払い下げ問題では、ロイヤルダッチシェルのラウドン会長と親しい次郎が口利きをして三菱石油が落札し、跡地に石油コンビナートを建設した。
フィクサーとしての次郎の名刺は1枚5万円という噂が流れたほどだったが、次郎は意に介せず、「俺にもその名刺を5,6枚まわしてくれと」言って笑っていたという。
次郎は「人間は地位が上がれば上がるほど、役得を捨て、役損を考えろ」と言っていたので、次郎と親しい宮澤喜一は「白洲さんが外資からコミッションをとるなんていうことは絶対にありえませんね」と語っている。
ちなみに北さんはこの本のために宮澤氏に直接取材に行っているので、所々に出てくる宮澤氏の発言はこの本の資料の正確さを裏付けている。
次郎は「自分よりも目下と思われる人間には親切にしろよ」とも言っており、英国流の「
ノーブレス・オブリージュ」につながる考え方だ。
運転手でもキャディでも必ず「ありがとう」と言っていたという。また車に乗るときは、好んで運転席の横に座ったという。「後ろでふんぞり返っているやつはみんなバカだ!」と。
昭和38年吉田が政界を引退し、昭和42年に89歳で亡くなる。評論家の
大宅壮一は「吉田が富士山なら白洲は
宝永山」と表現し、次郎は吉田にとって唯一の腹心だったと述べている。
宝永山は富士山の右手前の山。
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次郎は形見として吉田の愛用していたソファーを譲り受け、武相荘に置いた。
素顔の白洲次郎
台風の中での次郎の母の四十九日の法要でわかる次郎の母への思い、長男、次男、長女をニヤマ、ペピィ、トゥーラとそれぞれ愛称をつけた子どもへの愛、娘への溺愛が語られている。
白洲次郎は白洲正子の夫として紹介されることが多くなったことを大変に喜んでいたという。しかし白洲正子の作品をほとんど読んでいない。「西行」を読みかけたときも「わからん!」といって投げ出しているという。
西行 (新潮文庫)
親しかった小林秀雄の作品も一冊も読んでいないという。
外ではあれほど怒鳴っていた次郎が家では怒鳴ったことが一度もなかったという。一度次郎が手ひどい敗戦を喫したことが原因ではないかというのである。
新婚時代に次郎がついうっかり、「薩長のやつらは東京で散々乱暴を働いた。お前さんのお祖父さんだって同じだろう」と口を滑らすと、正子は口より手が早く、次郎の横っ面をひっぱたいたというのだ。
これにはさすがの次郎も鳩が豆鉄砲をくらった様な顔をしたまま固まってしまったという。それ以来、彼は内弁慶ならぬ、外弁慶になったというのである。
正子は「お金もあったし、ハンサムで紳士なんだから、もてないはずはなかったんだけど、浮気は一度もありませんでしたね」と語っている。
白洲次郎 著者 白洲正子他(コロナ・ブックス)
日本一格好いい男
おしゃれだと言われることを極端に嫌った次郎だが、そのこと自体がすでに格好よかった。今日次郎は「日本一格好いい男」ともてはやされている。
白洲次郎―日本で一番カッコイイ男 (KAWADE夢ムック)
次郎によると「イギリスではロールス・ロイスに乗っていいやつと、ジャガーまでしか乗ってはいけないやつがいるんだ」というのが持論で、ごく自然に名品を集めた。
背広はすべて英国の老舗
ヘンリー・プール。岩倉具視が欧州視察の折、セビルローにあるこの店でスーツをあつらえたことが「背広」の語源になったといわれる老舗中の老舗である。
旅行鞄はルイ・ヴィトンを愛用した。「いいものを使えば、ホテルでの扱いも違うよ」と娘にも持たせていたという。
おいしいものにも目がなかった。銀座の寿司屋「
きよ田」の主人は「じいさんは3歳とか4歳の子どもが騒いでも絶対におこりませんでした。でも、大人が飲んで酔っぱらっているとね、知らない人でも平気で後ろから襟首つかんで「おい、出てけ」って引っ張り出すんです」と語っていたという。
次郎は関西で言うところの「
いらち」で気が短い。
ウィスキーは「
マッカラン」とロビンが自邸で熟成保存している特別のスコッチを飲んでいた。
野球は大洋ホエールズ、ラグビー観戦、ゴルフ、スキーと趣味が広かった。
昭和57年に80歳で軽井沢ゴルフ倶楽部の常務理事(理事長)となり、運営の合理化に着手した。軽井沢ゴルフ倶楽部を英国風のゴルフクラブにしようと芝の手入れ、従業員教育、会員のマナーに厳しく、"Play Fast"と書いたTシャツをつくり、スムーズなゲーム進行に自ら範を示した。食事も旧知の犬丸一郎に頼んで帝国ホテルで修行したコックをスカウトした。
ゴルフは最高ハンディ2までいったが、60歳を超えハンディが10を超えるとピタッとゴルフを辞めた。彼の美意識がそうさせたのだろう。
中曽根首相が新聞記者やSPを伴って来たときも、SPらにコースに出ることを許さず、双眼鏡で首相の姿を負うSPたちを「バードウォッチングか?」と言ってからかった。中曽根首相が風見鶏と言われていたことを皮肉ったものだ。
生涯で乗った車は50台を下らないだろうと思われ、晩年には1968年製の
ポルシェ911Sに乗っていた。ロビンから贈られた赤いドライビンググラブをはめてハンドルを握るのが最高の喜びだったという。
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助手席に乗せるとやたら口やかましく、「遠くを見ろ」が口癖だったという。
80歳になると家族のすすめもありハンドルを握るのはやめたが、車に対する情熱は冷めず、トヨタの豊田章一郎社長から
ソアラの新型を開発しているという話を聞き、現行のソアラを買って、気の付いた技術的な問題を書いて送った。
豊田社長はソアラの開発責任者の岡田に白洲次郎担当を命じて、次郎はしばしば岡田を飲みに誘ってはいろいろ助言を与えた。
ポルシェを目指せということで岡田を激励し、愛用の911Sをぽんと提供した。しかし次郎がニューソアラに乗ることはなかった。
葬式無用、戒名不用
次郎は晩年もものをあけすけなく言って居る。
「今の政治家は交通巡査だ。目の前にきた車をさばいているだけだ。それだけで警視総監にはなりたがる。政治家も財界のお偉方も志がない。立場で手に入れただけの権力を自分の能力だと勘違いしている奴が多い」
「自分で考えるということを教えない。日本ぐらい自分でものを考える奴が少ない国はありませんよ」
辻井喬は次郎とは縁続きになっていたが、彼が次のように語っている。「昔も今も白洲次郎のような人に会ったことがない。それは、自分の感じたこと思ったことを修辞を施さずに口にして憎まれない人という意味である」
昭和55年ころから河上徹太郎、小林秀雄、今日出海、ロビンなど親しい友人が鬼籍に入り、次郎は寂しい思いをしていた。
昭和60年急に思いたって軽井沢に行き、帰ってからすぐに京都に行った。
京都の嵐山の「吉兆」で食事をしていて、昔可愛がってもらった「中現長」の女将の話をしたところ、その人が「吉兆」の主人
湯木貞一氏のお母さんだとわかり懐かしむ。
京都から戻ってきて体調を崩し、入院して2日後に帰らぬ人となる。60代から不整脈に悩まされ、胃潰瘍に、心臓肥大、腎臓疾患等他の臓器もボロボロになっていたのだ。
幼なじみの人とかに久しぶりに会うと、その時は元気なのだが、その後数日でエネルギーが切れた様に急になくなってしまうことはよくある。筆者の父親もそうだった。
看護婦が注射しようと「右利きですか左利きですか?」と聞くと、「右利きです。でも夜は左(
左利きは酒飲みの意味)」とジョークを飛ばし、これが最後のジョークとなった。
なんら苦しむことなく家族全員に看取られながら安らかに息を引き取った。享年83歳。
「プリンシプルを持って生きれば、人生に迷うことはない。プリンシプルに沿って突き進んでいけばいいからだ。そこには後悔もないだろう」という言葉通りに生きた。人生最後の瞬間まで格好良かった。
次郎の「葬式無用。戒名不用」とのわずか2行の遺言通り葬式はなかった。中曽根首相が弔問に訪れ、葬式代わりに次郎の部屋で知人や遺族が集まって酒盛りをして送った。
次郎は「何で国が勝手に勲何等とか決めることができるのか?」と言って、勲章を貰うのを固辞した。
一周忌のこと、三田にある次郎の墓前にトヨタの
豊田章一郎社長、長男の豊田章男、開発責任者の岡田がニューソアラで訪れた。「葬式もしない白洲さんのわがままに対応するにはこれしかなかった」と豊田章一郎社長は語っている。
次郎のアドバイスを入れて改良した2代目ソアラ
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次郎はかけがいのない車"No substitute"を目指せと言っていたという。「白洲さんからいろいろアドバイスいただいたソアラの改造が、こうしてほぼ理想通りにできました。ありがとうございました」と岡田は墓前で報告した。
次郎の死後、武相荘に一羽のクジャクが舞い降りたという。しばらく住みついて、ほどなくいなくなってしまったという。「きっとこれは次郎さんに違いない。ダンディな彼だからこそ、幽霊になるなんて無粋なことはせず、七色に輝く鮮やかなクジャクになって、残した妻の前に現れてくれたのだろう」と白洲正子は記している。
白洲正子は平成10年88歳で亡くなった。正子は生前死んだら西行に会いたいと言っていたという。
冒頭で記した通り、最後に北さんは次のように記している。
白洲次郎の痛快なエピソードに触れると誰しも、高倉健主演の仁侠映画を見たあとの観客が、肩で風切りながら映画館をでてくるのにも似た精神の高揚感に包まれるはずである。しかしその一時的な興奮の後に、信念を持つ人間のみが身にまとえる真の意味での「格好良さ」に思いを致していただけるならば、作者冥利に尽きるというものである。
大変な人物が日本の戦後にいたものである。たぶん白洲次郎を直接知っている人は、次郎が好きか嫌いかはっきりしていたと思う。魅力ある日本人であることは間違いない。
是非手に取ってみて頂きたい本である。
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