
著者:ドン クラドストラップ
販売元:飛鳥新社
発売日:2003-10
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ドイツ占領時代の1941年6月から1945年までのフランスの主要ワイン産地での生活をまとめたノンフィクション。
著者のドン&ペティ・クラドストラップ夫妻は、フランスに住むアメリカ人ジャーナリストで、3年間かけて各地のワイン生産者に取材してこの本を書いたという。
「ヒトラーからワインを守った人々」というサブタイトルがつけられているが、まずは次の質問に答えて欲しい。
これは以前紹介した「世界は感情で動く」の中の質問だ。
(選挙の候補者について)3人の候補者の誰に投票しますか。
A.一番目の候補者は腐敗した政治団体との一件に巻き込まれたことがある。星占いに凝っている。愛人が2人。ヘビースモーカーで日に6箱から10箱開ける。
B.二番目の候補者は、二度役職を罷免されたことがある。抑うつ傾向(鬱病傾向)があり、お昼まで寝ている。毎日ウィスキーを一瓶空け、仕事中に居眠りする。
C.三番目の候補者は、愛国者で軍部から勲章を与えられた。菜食主義者で、タバコを嫌い、たまにビールを一本飲み、性生活はきわめて慎ましい。
答えは次の通りだ:
A.フランクリン・ルーズベルト
B.ウィンストン・チャーチル
C.アドルフ・ヒトラー

著者:マッテオ・モッテルリーニ
販売元:紀伊國屋書店
発売日:2009-01-21
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ヒトラー自身はワインは飲まなかったが、ヒトラーの仲間のゲーリング国家元帥はボルドーワイン、ゲッペルス宣伝相はブルゴーニュワイン、ワイン商の経歴もあるリッベントロップ外相はシャンパーニュ愛好家として有名で、ナチスドイツがフランスのワインに目をつけたのも当然の成り行きといえる。
この本では、フランスワインの主な産地、ボルドー、ブルゴーニュ、ロワール、アルザスそしてシャンパーニュの各地方でワインの生産者がドイツ占領時代をどう乗り切ったかが取り上げられている。
ちなみに1935年にフランスでAOC法(原産地統制呼称法)が制定された。それまでは輸入ワインを混ぜてもフランスワインとしてまかり通っていたのだ。
1939年9月1日のドイツによるポーランド電撃占領で幕を開けた第2次世界大戦は、その後"twilight war"と呼ばれるにらみ合いの時期を経て、1940年5月10日のドイツ軍のベルギー・オランダ・フランス侵攻で一機に動く。
フランスは第1次世界大戦の時の経験から、ドイツ国境にマジノ線という要塞を築いていて難攻不落を誇っていたが、戦車が通れないと見られ要塞がなかったベルギー国境のアルデンヌの森を踏み台にしたナチスドイツの攻撃で、ドイツよりも多くの戦車を持っていたにもかかわらずフランスは6週間で降伏した。
飛行機と機甲部隊を使った電撃戦という戦略は、もともと1930年代にドゴール将軍が2冊の著書で主張していたもので、フランスでは無視されたままだったが、皮肉にもドイツはドゴールの戦略を忠実に実行して、フランスを占領したのだった。
1940年6月21日第1次世界大戦の英雄で84歳のペタン将軍を元首とするヴィシー政権が成立し、ドイツの傀儡政権となる。
1940年当時のヨーロッパ情勢 フランスは占領地区と自治地区に分かれている

出典: Wikipedia
さすが世界第1位、第2位のワイン生産国だけに、フランス兵にもドイツ兵にもワインは必需品で、さらにホットワインは医療効果もあるとされていた。
ドイツが調達したシャンパーニュをどこに出荷するかで、ドイツ軍が次どこを攻めるのか予想できた。ドイツが侵攻する前にワインをルーマニアに送る算段をしていたという。
ナチスドイツは、もはやドイツに売るしか売り先のなくなったフランスワインを安く調達するために、通貨フレンチ・フランの価値を1/3に切り下げ、ドイツ経由で第三国に売って戦費を稼ぐために、ボルドー、ブルゴーニュ、シャンパーニュの主要ワイン産地にフランス語で「ワイン総統」と呼ばれるワイン調達責任者を置いた。
ボルドーにはドイツ最大のワイン商社長のハインツ・ベーマース、ブルゴーニュには1859年創業のワイン商を経営し、ロマネ・コンティ社の代理店社長でもあるアドルフ・セグニッツ、シャンパーニュにはリッベントロップ外相の義弟で、やはりワイン商のオットー・クレービッシュが「ワイン総統」として就任した。
ボルドーのベーマースは、長年ドイツでフランスワインを扱い、第1次世界大戦まではボルドーでシャトー・スミス・オー・ラフィットを持っていた一族の出身だった。

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ベーマースは、「いつか ー 5週間後か5年後かはともかく ー この戦争は終わるだろうし、フランスは相変わらずドイツの隣にあるだろう。私たちは依然として一緒に生きていかなければならないだろう」と言っていたという。現にベーマースは戦後シャトー・デュ・グラン・ムエスのオーナーとなった。

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ベーマースはヒトラーの取り巻き、特にゲーリングを嫌っていた。
ゲーリングはとりわけシャトー・ムートン・ロートシルトを好んでいたが、ある時ゲーリングからムートンを数ケース送れというオーダーが来たときに、ベーマースは普通のワインにムートンのラベルを貼らせてゲーリングに送った。
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シャトー・ムートン・ロートシルト[2003](赤ワイン)
ゲーリングからは何の質問もなかったという。しかしこれ以外の場合には、ボルドーの取引業者にはきちんとした品質のワインを送らせるようにきびしく言っていた。
こんな具合にベーマースは、「ワイン総統」、つまりワイン調達係という仕事をきちんとこなし、ボルドーのワイン生産者からは、一部で起こっていたドイツ兵によるワインの略奪を止めさせ、きちんと代金を払うようにしてくれたと評価されている。
ブルゴーニュのアドルフ・セグニッツはシャトー・シャス・スプリーンとシャトー・マレスコ・サン・テグジュペリを保有し、完璧なフランス語を話し、ベーマースと同様にナチスを嫌っていた。
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セグニッツはワイン生産者の友人として、ドイツ人で唯一戦時中の1943年の”オスピス・ド・ボーヌ”の500年祭に招かれたという。
ブルゴーニュのワイン商(ネゴシアン)大手のルイ・ラトゥールは「彼は話の通じる唯一のドイツ人でした。というのも、彼はわたしたちと同じ世界の出身だったからです」と語っている。

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シャンパーニュのオットー・クレービッシュもドイツでシャンパーニュの輸入商をやっていたが、彼は他の「ワイン総統」と異なり、軍服を着て、城を接収してそこに住んでいた。
シャンパーニュ地方ではドイツ兵のワイン略奪がひどかったが、「ワイン総統」に着任すると略奪を止めさせ、シャンパーニュのワイン生産者を安堵させた。しかし悪い品質のシャンパーニュを送ろうとしていた業者を摘発すると、容赦なく投獄し、いわば支配者として振る舞っていた。
「よくもわれわれにこんな泡立つ下水のようなものを送りつけられたものだな!」
ほとんどすべての業者が罰金を払わさせられ、モエ&シャンドン社は経営陣トップのほぼ全員が強制収容所か刑務所送りになってしまった。
モエ&シャンドン社のド・ヴォギュエ社長は強制収容所に入れられるが、やせ細りながらもなんとか帰還した。
クレービッシュは義兄のリッベントロップ外相の引きで「ワイン総統」に就任したので、リッベントロップがヒトラーの信認を失うと、ロシア戦線に送られるのではないかと心配していたという。
ヴィシー政権はナチス以上にワイン業界の敵だった
フランスの第2次世界大戦中のワイン生産高が載っている。
年 生産量 ヘクタール当たり収穫高
1939年 6,901千リットル 4.62
1940年 4,943千リットル 3.36
1941年 4,759千リットル 3.27
1942年 3,502千リットル 2.44
天候不順に加えて労働力不足、ガソリンなどの燃料不足、農薬などの不足で生産量と単位当たりの収穫量は戦前に比べてほぼ半減していることがわかる。
ヴィシー政権はドイツから課せられている占領経費をまかなうために、20%のワイン税を課し、ワイン検査官を各地に派遣した。
ドイツは深刻な燃料不足に対処するために、ワインの生産量の半分を工業用アルコールとして蒸留することを求めていたため、ヴィシー政権の検査官達は検査を終えると、ワインを飲めないようにするためワイン樽にグラス一杯ずつの灯油を流し込んだ。
樽は何十年も使い込んで初めて、価値がでてくるのに、一旦灯油のにおいが付くとワイン樽は二度と使えなくなる。各地のワイン生産者は心底憤り、これがワイン生産者たちのレジスタンス支援の意欲を盛り上がらせる要因の一つになったという。
ワイン産地を避けてドイツ軍追撃
連合軍がノルマンディー上陸に続いて地中海側のコート・ダジュールから上陸し、ドイツ軍をフランスから追い出す作戦では、フランスのワイン生産地帯のローヌ渓谷やブルゴーニュを通った。
シャンパーニュ作戦と称せられるこの作戦は、1870年の普仏戦争でロマネ・コンティやラ・ターシュ、リシュブールなどの世界一のブドウ畑がドイツ軍に蹂躙されたことをふまえ、そんなことがあってはならないと用意周到に準備された。
ローヌ川西側の最上級のブドウ畑がある地区はフランス軍、東側はアメリカ軍が担当した。ブルゴーニュで最も重要なコート・ドールではドイツ軍の陣地はすべて質の劣る東側のブドウ畑側に置かれていたので、フランス軍は最上級のブドウ畑を無傷のまま解放した。
フランス軍はアメリカ軍に感謝のしるしに最高級のブルゴーニュワインジープ一台分送り、常温で飲むのだと教えた。アメリカ軍は軍医がワインの取扱いを知っているから問題ないと答えた。
フランス軍とアメリカ軍の祝勝会で、アメリカ側はそのワインを提供したが、それは医療用アルコールで暖めたホットワインだったという。
フランス軍の将軍はそのままホットワインで乾杯すると、ひそかに「解放よ。汝の名の下にどんな犯罪が行われてきたことか!」とつぶやいたという。
アルザスの特異性
アルザス地方はフランス領になったり、ドイツ領になったりを繰り返した。アルザスで300年以上もワインをつくっているリクヴィールのユーゲル家の家長は4回も国籍が変わったという。
生まれた時はフランス人だったが、1871年の普仏戦争後はドイツ人、第1次世界大戦が終わるとフランス人、1940年にアルザスがドイツに併合されてドイツ人になり、第2次世界大戦後はフランス人に戻った。
フランスの他の地区では徴兵されることはなかったが、アルザス地方ではドイツ人として徴兵され、ユーゲル家の息子達はドイツ兵としてロシア戦線やイタリア戦線に送られた。
アルザス地方ではアメリカ軍とドイツ軍の戦闘も行われ、ワイン畑も爆撃や砲撃で打撃を受けた。
ヒトラーの山荘ベルヒテスガーデン
戦争の最終局面の1945年4月にはベルリン一番乗りを目指すレースと、バイエルン地方のヒトラーの山荘ベルヒテスガーデンを目指すレースが連合軍間で争われていた。
ベルヒテスガーデンにはヒトラーの山荘ベルクホーフと鷲の巣と呼ばれるゲストハウスがあった。
ここには各国から集められた財宝や美術品、そしてフランスから持ち出されたボルドー、ブルゴーニュなどの50万本以上のワインやシャンパン、コニャックなどが貯蔵されていた。
フランス軍が一番乗りしたが、山頂に行くエレベーターが破壊されていたので、担架にワインを載せて下ろした。
フランス軍戦車隊の一員にシャンパーニュのワイン生産者ノナンクールが居て、一家の所蔵していた1928年物のシャンパーニュを見つけた。戦争がはじまってゲーリングの部下が運び出したものだったという。
兵士達の中には水筒にラフィット・ロートシルトなどのシャトーワインを詰めるものもいたという。
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シャトー・ラフィット・ロートシルト[2002](赤ワイン)
対独協力者の処罰
戦後すぐに戦争中の対独協力者の裁判が行われ、ボルドーでワイン総統のベーマースに協力していたボルドー最大のワイン商ルイ・エシェナウワーが裁判にかけられた。
全フランスで対独協力者が告発され、ドイツ人とつきあった女は”44年スタイル”と呼ばれる丸刈りにされた。
16万人を超える人々が裁判にかけられて有罪となり、7千人以上が死刑を宣告されたが、実際に処刑されたのは800人ほどで、3万8千人に懲役刑が宣告された。
ルイ・エシェナウワーも不当利得の罪で有罪となり、禁固2年と6200万フランの罰金が課せられた。財産を没収され、ボルドーで商売をすることを禁止され、市民権も剥奪された。
あまりにも多くの人が有罪とされたので、ドゴール大統領は1951年に恩赦法を成立させ、エシェナウワーも1952年に恩赦を受けた。
ボルドーのワイナリー
ボルドーでシャトー・シラン、シャトー・パルメール、シャトー・ピション・ロングヴィル・コンテス・ド・ラランド、シャトー・デュクリュ・ボーカイユ、シャトー・クーフランを持つミエール家では、不作とウドンコ病対策の硫酸銅不足で、戦時中は16歳の息子ジャンに学校を中退させベルギーからの密輸の銅で硫酸銅をつくって自給自足したという。
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[2005]シャトー・ピション・ロングヴィル・コンテス・ド・ラランドCH.PICHONLONGUEVILLECOMTESSE DE LALANDE
![【パーカー97!スペクテイター95!】[2005] シャトー・デュクリュ・ボーカイユ / サン・ジュリアン フランス ボルドー / 750ml / 赤](http://thumbnail.image.rakuten.co.jp/@0_gold/enoteca/shohin_images/0100303913A3.jpg?_ex=128x128)
【パーカー97!スペクテイター95!】[2005] シャトー・デュクリュ・ボーカイユ / サン・ジュリアン フランス ボルドー / 750ml / 赤
この2つのワインは筆者も飲んだことがあるが、いずれも1855年の2級格付けでボルドーを代表する世界でも最高級のシャトーワインだ。
シャトー・ムートン・ロートシルトもドイツ軍に占領されたが、ラフィット・ロートシルト同様にヴィシー政権が差し押さえたため、ドイツはユダヤ人資産として没収できなかった。
フィリップ・ド・ロートシルト男爵は1942年にフランスを脱出してドゴールの自由フランス軍に参加していた。妻はユダヤ人ではなかったので、戦争中の大半は無事に乗り切ったが、パリ解放の直前に娘フィリピーナの目の前でゲシュタポに連れ去られ強制収容所のガス室で殺された。
シャトーはドイツ軍が通信指令センターとして使っていたので、内部は荒らされていたが、戦争が終わって、ドイツ軍の捕虜を使って現状回復させたという。
戦後のフランスワイン
欧州統合の父ジャン・モネがシャンパーニュのコニャック生産者出身ということもあり、ブドウの木を植え替える資金をフランス政府が提供することになった。これを歓迎したのは、アルザスのワイン生産者だ。
アルザスがドイツ領になっていた時代にヒトラーユーゲントの若者が乗り込んで交配品種を排除していたので、アルザス本来の品種の植え替えができる環境がそろっていたのだ。
この本の最後は1963年にドイツのアデナウアー首相がパリを訪問してドゴール大統領と握手を交わす場面で終わっている。
出典: Wikipedia
知られざる占領下のフランスでの生活がどうだったのか、そしてフランス解放の時も、ワイナリーにダメージを与えないために連合軍がいかに注意を払ったかがわかって面白い。
ちなみに戦争の終わった1945年は、20世紀のフランスワインの最高の当たり年の一つと言われており、60年以上経った今でもこの年のワインは売られている。

1945 (750ml)シャトー・ラフィット・ロートシルト 1945 (750ml)
1945年のムートン・ロートシルトは戦勝記念のラベルだ。
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シャトー・ムートン・ロートシルト[1945](赤ワイン)
ワイン通であってもなくても楽しく読める。もっと写真が載っていたらさらに良かったと思う。2003年出版の本だが、書店や図書館で探して一度手にとって欲しい本である。
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