2010年08月30日

戦争と平和の谷間で 明石康さんのボスニア内戦秘話

戦争と平和の谷間で―国境を超えた群像 (双書 時代のカルテ)戦争と平和の谷間で―国境を超えた群像 (双書 時代のカルテ)
著者:明石 康
販売元:岩波書店
発売日:2007-11
おすすめ度:5.0
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日本人初めての国連職員となり、事務次長、カンボジア、ボスニアの国連PKOを指揮した明石康さんの本。

明石さんの対談「『独裁者』との交渉術」を読んで、明石さんのことをもっと知るため読んで見た。次に紹介する「生きることにも心(こころ)せき」は、明石さんの自伝で、この「戦争と平和の谷間で」がボスニアPKOに限定した秘話だ。

生きることにも心せき―国際社会に生きてきたひとりの軌跡生きることにも心せき―国際社会に生きてきたひとりの軌跡
著者:明石 康
販売元:中央公論新社
発売日:2001-06
おすすめ度:4.0
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この本では国連事務総長特別代表としてボスニア紛争解決に努力した明石さんが、つきあった軍人や旧ユーゴスラビアの指導者、国連PKOとNATOとのつきあい方などについて書いている。

100ページあまりの簡単に読める本だ。

いくつか印象に残った点を紹介しておく。

1994年2月にボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボの青空市場に1発の迫撃砲弾が撃ち込まれ、死者68人、負傷者約200人という惨事が起こる。

エジプト出身のブトロス・ガリ国連事務総長の特別代理として、セルビア人、クロアチア人、ムスリムの3派の対立で起きた紛争を解決すべく、4万人強という前代未聞の国連PKO軍とNATOの協力を得て交渉にあたる。


NATO軍と国連PKOの関係

NATO南部方面軍総司令官のボーダ提督は、一介の水兵から提督にまで昇進した唯一の人で、身長164センチ、体重60キロくらいと小柄で敏捷そのものの人だったという。彼は帰任後1996年にワシントンの宿舎でピストル自殺を遂げた。

クリントン大統領他は弔辞で、勇ましい軍人としてボーダを描いたが、ボーダ提督は、恵まれない環境に育ち、水兵から出世したが、ベトナム戦争での戦闘経歴疑惑や、海軍予算の大幅カットに悩んでいたという。

海軍の規模は定員59万人から41万人へと削減させられたという。

国連保護軍のフランス人、イギリス人将軍たちのキャラクターや明石さんを忌避したベルギー人将軍との対立などが語られている。

明石さんはNATOによる空爆を要請する権限を持っていたが、空爆は本格空爆と、国連軍を攻撃している特定兵器に対する近接航空支援の2種類あり、本格空爆にはきわめて慎重で、在任中2回だけだったが、近接空爆は20回弱許可したという。

この国連とNATOとのジョイントオペレーションは、デュアルキー(2重のキー)として明石さんは表現している。ザグレブの明石さんの部屋には、2重のキーをもじったDuel Keyという木彫りの板を飾っていたという。


ボスニア紛争当事者の群像

ボスニアにいるセルビア人勢力の代表のカラジッチ「大統領」やムラディチ将軍は情緒的民族主義者だったと明石さんは評している。

カラジッチには、次のような外交官のジョークを言った。

「Ladyが「多分ね」と言うなら、それは「イエス」を意味し、Ladyが簡単に「イエス」というようなら、Ladyとは言えない。

外交官は逆で、「多分」と言うなら、それは「ノー」を意味し、外交官が簡単に「ノー」というようなら、外交官とはいえない。」

カラジッチはカラカラと笑って、ミスター明石は自分に「ノー」という機会を与えなかったと言った。カラジッチは事実を平気で歪めることがあったという。

ムラジッチはまさに情緒的民族主義者でNATOの空爆を徹底的に恐れ、嫌っていた。

ムラジッチは、国連保護軍に属するデンマーク軍が最新式のレオパルド戦車を持ち込で、セルビア人勢力に被害が出たときに怒りを爆発させた。

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出典:Wikipedia

明石さんは、ジュネーブでの停戦交渉の時に、カラジッチやムラディッチなどのセルビア人勢力、ムスリム勢力、クロアチア人勢力を別々に日本料理屋に招待して喜ばれたと外交の裏側を語っている。

ボスニア内戦後逮捕され、獄中でなくなったミロシェヴィッチ大統領は、機会主義的民族主義者だったと評している。ミロシェヴィッチ大統領は熾烈な権力闘争を勝ち抜いた独裁的政治家で、一人だけで重大な決断をしていたという。

明石さんが1997年末に退職し、日本に帰ったあと1999年5月にコソボ危機の最中に小渕首相の要請を受けてミロシェヴィッチと再会したが、NATOによる長期の激しい空爆にもかかわらず、強気の姿勢を崩さなかったという。

クロアチア初代大統領のトゥジマンとボスニア大統領イゼトベゴヴィッチは、政治的民族主義者と評している。

クロアチアはカナダやオーストラリアで成功した海外在住のクロアチア移民から潤沢な財政援助を受けていた。トゥジマン大統領は明石さんの前でも「あのムスリムたち」と呼んで軽蔑していたという。

ボスニア大統領イゼトベゴヴィッチは、MIT出身のガーニッチ副大統領と、ハンサムガイシライジッチ首相の二人を対立させ、うまく使い分けて、自分の目的を達成していたという。

二人は欧米のメディアをうまくアピールして、外交を補った。この話は「戦争広告代理店」で紹介されている。

ドキュメント 戦争広告代理店 (講談社文庫)ドキュメント 戦争広告代理店 (講談社文庫)
著者:高木 徹
販売元:講談社
発売日:2005-06-15
おすすめ度:4.5
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最後にアメリカとの対立も紹介している。アメリカはアメリカ空軍によるNATO空爆には参加したが、地上軍の派遣は拒否した。

ブラックホーク・ダウン スペシャル・エクステンデッド・カット(完全版) [DVD]ブラックホーク・ダウン スペシャル・エクステンデッド・カット(完全版) [DVD]
出演:ジョッシュ・ハートネット
販売元:ポニーキャニオン
発売日:2006-12-22
おすすめ度:4.0
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ソマリアのブラックホークダウンで知られる、PKOアメリカ兵虐殺事件の後遺症で、PKOにアメリカ軍地上戦力を派遣することには慎重になっており、いわば手の汚れない空軍による空爆を常に主張していたという。


ボスニア内戦当時の当事者の群像が明石さんの冷静な視点から描かれている。

日本からはボスニアというと遠い場所と存在だが、ヨーロッパの民族・宗教紛争がここに集約されているといってもよい事件だ。

元々は1389年のセルビア王国とオスマン帝国のコソボの戦いに端を発しているというのも、なかなか理解しがたい話だ。

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出典:Wikipedia


明石さんの業績を知る上で参考になる本である。


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Posted by yaori at 12:45│Comments(0)TrackBack(0) 自叙伝・人物伝 | 歴史

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