2010年09月04日

生きることにも心せき 元国連事務次長明石康さんの回想記

生きることにも心せき―国際社会に生きてきたひとりの軌跡生きることにも心せき―国際社会に生きてきたひとりの軌跡
著者:明石 康
販売元:中央公論新社
発売日:2001-06
おすすめ度:4.0
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カンボジアとボスニアの国連事務総長特別代表として紛争解決のため国連PKOを指揮した明石康さんの自伝。

明石さんの対談「独裁者との交渉術」を読んだので、もっと明石さんのことを知るために読んでみた。


明石さんの経歴

明石さんは比内地鶏で有名な秋田県比内町に1931年に生まれた。渋谷の忠犬ハチ公は、明石さんのお母さんの実家の生まれだという。

東京大学教養学部アメリカ分科卒業後、1955年にフルブライト留学生としてバージニア大学大学院で学ぶ。東大の卒業論文のテーマだったジェファーソンが設計した大学だという。1年で修士号を取得した後、ボストンのタフツ大学の国際関係専門のフレッチャー大学院で学ぶ。学生数は60名だったという。

ちょうど1956年に日本の国連加盟が実現し、国連見学の時に重光葵外相の加盟演説を聴き、国連政務部長よりリクルートされ、フレッチャー大学院からコロンビア大学に移って博士研究を続ける条件で国連事務局に採用される。


明石さんの国連での仕事

ハンガリー動乱の事務総長報告書作成が最初の大きな仕事だったという。

明石さんの仕えた最初の国連事務総長は、アフリカの飛行機事故で亡くなったハマーショルドだった。次のビルマ出身のウ・タントの下で、明石さんは国連大学設立にあたった。

筆者も国連大学について理解していなかったが、学部レベルの国際教育を行うのではなく、国際的に緊急かつ重大な問題に関して各国の研究者や研究期間が協力するためのネットワークだという。

今は「国連大学」という名称は間違いだったと反省していると。


途中で外務省職員になる

明石さんは途中で、1974年に外務省に中途入省し、国連日本政府代表部に配属され5年間働き、また国連に戻った。当時は外務省の同期に比べて待遇は遜色があったという。当時の大河原官房長は人事院のせいと、すまながったという。

明石さんは1969年からニューヨーク郊外のスカースデールの一軒家に住んでいたという。


国連に復帰

ウ・タントの次がワルトハイム事務局長で、明石さんはワルトハイム事務局長の下で、1979年に広報担当の事務次長となる。それから18年間事務次長として、いろいろなポジションを経験してきた明石さんは、事務次長としてパキスタン出身の一人を除いて最高記録だという。

この頃からアメリカは国連総会に見切りをつけるようになり、決議を無視するようになったという。国連総会の2/3の多数といっても、世界の人口の10%で、国連拠出金の5%だけだったからだ。


国連カンボジア暫定統治機構のトップに就任

1991年にブトロス・ガリ事務総長の就任とともに、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)の事務総長に任命される。就任直後、日本の宮沢総理、渡辺美智雄外相、小和田外務次官などにも会い、日本政府からも支援を得た。

明石さんは在任中シアヌーク殿下、フン・セン首相、硬直的なポルポト派などと交渉し、紛争3派の武装解除を実施した。

国連PKOはショーウィンドーのようなものだと明石さんは語る。軽武装だから、簡単に武力では圧倒されるが、その際大きな音がするので、周りの人が集まってくるので、PKOに対して大それた事を試みる者が出てこないのだという。


カンボジアPKOでの邦人犠牲者

それでも命をなくす人は出てくる。カンボジアでは1993年に入り、選挙を予定通り実施すると発表してから、国連ボランティアやPKOが襲われる事件が続出した。選挙を妨害する目的である。

4月に国連ボランティアの中田厚仁さんが殺害され、5月にはコンボイが襲われ、高田晴行警部補が殉職し、4名の日本人文民警察官と5人のオランダ人兵士が負傷した。

これに対し宮沢首相は、旺盛な知識欲と分析能力を元に情勢分析をして、日本政府は自衛隊や警察官の撤退は考えていないと発表した。宮沢首相のからは会うたびに克明な説明を求められたという。

明石さんは中田さんの父親中田武仁さんの悲嘆にくれる姿を想像していたら、息子を誇りに思うと語り、その後勤務先の日商岩井を辞め、NGOとして働くことを決心した。親子が一つの理念に殉じるという戦後日本では稀有な出来事だったと明石さんは語る。

明石さんは中田さんの態度に芥川龍之介の小品、「手巾(ハンケチ)」を思い出したという。

大導寺信輔の半生・手巾・湖南の扇 他十二篇 (岩波文庫)
著者:芥川 龍之介
販売元:岩波書店
発売日:1990-10
おすすめ度:5.0
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明石さんにも暗殺予告は届いていたが、1993年5月23日予定通りカンボジアの総選挙は実施された。明石さんは生涯で最良の日だったと語る。投票率は89%を超えたという。

総選挙の結果、シアヌーク殿下は、シアヌーク国王の王政を復活し、ラナリット、フン・セン両首相の内閣を構成することを発表し、暫定国民政府が樹立された。シアヌーク国王は国連のUNTACをインポッシブル・ミッションと讃える演説を行ったという。

その後はカンボジアの憲法を制定するプロセスが続いた。明石さんは「マッカーサー」にはなりたくなかったので、カンボジア人に憲法制定を任せ、1993年9月、560日のカンボジア勤務を終えた。

明石さんは帰途バンコクで日本公使にフランス料理店でシャトー・マルゴーをごちそうになり、肩の荷がおりたことを実感したという。

シャトー・マルゴー[2001](赤ワイン)
シャトー・マルゴー[2001](赤ワイン)


後でも述べるが、いまどき在外外交官からシャトー・マルゴーで接待を受けたなどと告白したら、それこそ公費のムダ使いと糾弾されるだろう。明石さんにズレを感じる点の一つだ。


ボスニアPKO

この本の後半部分は1994年から1995年11月までのボスニアPKOの話だが、前回紹介した「戦争と平和の谷間で」とかぶるので、詳しくは紹介しない。

カンボジアの経験と、カンボジアPKOにあたった職員を「カンボジアマフィア」として連れて行き、奮闘したが、結局内戦収集にはいたらず、1995年11月に国連事務総長特別代表を辞任した。

その後人道問題担当事務次長に就任した後、1997年末で国連を退職し、日本に戻る。1999年には都知事候に立候補するが、石原慎太郎に敗北する。


明石さんの本に足りないもの

このブログは書評ブログではないので、本の内容について論評を加えることはしないのが基本方針だ。

それでも明石さんの本については、あえて書き加えたほうが良いと思うので、以下筆者の感想を述べる。

明石さんの対談の「独裁者との交渉術」と著書「戦争と平和の谷間で」と今回の「生きることにも心せき」の3冊を紹介したが、明石さんの本を読んだ後、今度紹介する「オシムの言葉」を読んで、何が明石さんの本に足りないかがわかった。

オシムの言葉 フィールドの向こうに人生が見える (集英社文庫)オシムの言葉 フィールドの向こうに人生が見える (集英社文庫)
著者:木村 元彦
販売元:集英社
発売日:2008-05-20
おすすめ度:4.5
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明石さんの本では、指導者や政治家、将軍は出てくるが、一切「民衆」が登場しないのだ。

「オシムの言葉」では1992年3月末から1、395日にも及んだサラエボ包囲戦で、ユーゴスラビアが崩壊し、オシムの奥さんと娘がサラエボに閉じ込められ、オシム自身はギリシャのパラシナイコスの監督としてチームを率いる傍ら、アマチュア無線で奥さんと不定期に交信する姿が描かれている。

サラエボは260台の戦車、120門の迫撃砲、無数の狙撃兵に囲まれ、多くの住民が亡くなり、サラエボ冬季オリンピックのスタジアムは墓地になっていた。

オシムの奥さんは、特別に国連ヘリで脱出できるという誘いを断り、毎日8名だけという順番を守って、やっと2年半後にオシムが監督をやっていたオーストリアのウィーンでオシムと再会する。

オシムの奥さんは、2年半で体重は10キロ減ったという。

もちろんカンボジアでも多くの民衆が内戦の犠牲になっている。

明石さんが意図して民衆や紛争当事国の生活のことを書いていないとは思えないので、きれいさっぱり民衆のことを忘れているということは、明石さんはやはり国家間の交渉を仲介する国連職員であって、民衆のことを考える政治家ではないということを物語っていると思う。

ボスニア紛争のことをよく知らなかったが、この機会に明石さんの本、オシムの本、それから今後紹介する「戦争広告代理店」という様々な角度からボスニア紛争について学べて良かったと思う。

ドキュメント 戦争広告代理店 (講談社文庫)ドキュメント 戦争広告代理店 (講談社文庫)
著者:高木 徹
販売元:講談社
発売日:2005-06-15
おすすめ度:4.5
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自伝の情報のみでは判断してはいけないという教訓を与えてくれた明石さんの自伝だった。


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Posted by yaori at 00:31│Comments(0)TrackBack(0) 自叙伝・人物伝 | 政治・外交

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